たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「病院の窓からバスがよく見える」


「病院の窓からバスがよく見える」



 三十五歳の秋、五年ぶりに千葉大に入院した。十月の声を聞いてもまだまだ夏のような陽気だった。今回は一つ上の十一階の六人部屋だ。前回は全員第二内科の患者だったのだが、今回は神経内科の人と三人ずつの相部屋だった。
 傾向の違う患者さんと同室だと、共感より違い探しが多くなる。膠原病や糖尿病など、二週間から数ヶ月と長く病院で今後の治療方向を定める第二内科に対し、神経内科の入院は概して短い。まだまだ治療方法が定まってない場合があって、検査して病名を確定し難病指定の申請書類を整えることを大学病院での目的にしている場合が多いらしい。私の部屋の場合、大抵は一週間程度で退院していった。
 ようやく孫ができるくらいの年齢になって、突然歩きにくくなったり、喋りにくくなったりして入院し、「もう治らない、今後はどんどん衰えていく」と宣告される人が、神経内科の患者には多かった。心の準備が間に合わず、宣告された夜に涙していても、あっという間に退院していく。私が自分で毎日洗濯をしに行ったり、トイレへすたすたと歩いていくのを見て、必ずと言っていいほど全員「いいわねぇ。そんなに歩けて」と言うのだった。
 段々と寒くなり、外はコートが必要になり始めた十一月半ば、私と年齢の近そうな神経内科の女性が入院してきた。彼女の両親は六人部屋と知って、個室に入れたがっていたが、大学病院の個室は今にも死に直面したような人のために使われていて、無理だった。上品な洋服を病衣に着替えた後も、彼女の両親はベッドカーテンをずっと開けなかった。親が自分の娘を恥じているように私には見えて、カーテンを開けてあげないことに、いい気がしなかった。
 彼女は足が突っ張って上手く歩けず転んでしまう。はっきり発語ができず、文脈も通らない。聞いていることも理解できない。意識が混乱していて、毒が入っているから食べられないと、食事にも手を付けずにいた。
 彼女の病名はなかなか分からなかった。両親がいない中で、何をされているのか理解できずに検査を受けなければならない彼女は、とても不安らしく、帰りたいと泣いた。
 隣のベッドに居た私は、見ていられなくて、医師が取り敢えず喋っていった今日の検査予定などを、何とか彼女に伝えようとした。書いてみたり、身振り手振りだったり。きっと、彼女に内容は伝わらなかっただろうと思う。ただ、私が彼女に何とか伝えたいと思っていることが理解できたのだろう。彼女が私に好意的に話しかけようとしてくれることがあった。同室のおばさんたちは私を彼女の「おかあさん」と揶揄した。
 彼女のご両親は毎日毎日欠かさず見舞いに来た。来るとずっとカーテンを閉めたままだった。彼女の検査は当初の予定よりどんどんと長引いた。結局神経内科には珍しく半月くらい居ただろうか。脊椎や小脳が痩せていく病気だと判明して退院する日、彼女のご両親は私に「あなたはいいわね」と言った。
 同室に、もう一人同い年くらいの人が居た。彼女は十九歳で脳腫瘍を摘出して、必要なホルモンを全て薬で補わなければならなかった。カツラをつけて振り袖を着て写真を撮った成人式の日はふてくされて泣いたと話してくれた。その後、大学の看護科を出て大学病院に勤務していたが、承知のこととはいえ、薬の副作用が進み、手術をするために入院してきたそうだ。入院しているうちにどんどん悪化して、手術もできないままもう何ヶ月もたち、毎週何かしら医師が大慌てする異変が起きていた。毎日冗談ばかり言う彼女は、今ではほとんど起き上がれなかった。食事も受け付けない体で栄養剤の管を付けながら、調子のいいときを見計らって「自力で何とか歩いて入院してきたのに」と、わらって車椅子でトイレに行く。
「おばばさまたちは愚痴ばっかり言うのよ。あなたが歩いて部屋を出た後はね、あんなに歩けていいわねと、自分のことをさんざん嘆くの。聞かされてる私はどうしたらいいっていうのよ、ね。ゆっくりでも自分でトイレへ行けるのにね。私の今の夢は、車椅子トイレじゃなく、女子トイレに行きたいってことなの」。車椅子トイレは男女共用。かち合うことも多く、待ち時間も長かった。粗相をしたまま行ってしまうおじさんもいる。
「トイレは、まず拭き掃除から、なんだよねぇ」と、クリーナーの入ったトイレセットをマジックハンドで車椅子まで掴んで引き寄せながら、彼女はおどける。
 彼女のお母さんもやはり、彼女が検査で部屋へ帰ってくるのを待っているときなど、私に、「お幸せですね」と言うのだった。私が夫のセーターを編んでいたからだ。結婚もしている。退院も出来る。それを見ての「お幸せですね」だった。
 だが、一ヶ月経っても誰一人見舞客のない私を、二十四時間共に過ごしている彼女たちは知っていた。夫が無理をして一度週末に来てくれたことがある。それ以外、寒くなっても誰も何も持ってこない。売店でタオルを買って首に巻いている私を見ていた。
 小高いところに立つ病院の十一階の病室から見える夜景は、大層美しかった。昼間には病院前のバスロータリーが見える。バスから人がたくさん降りて、また乗って去っていった。
 四国に住む両親が仕事で東京に一週間滞在していた時期があった。もしかしたら、もしかしたら、少し時間を捻出して会いに来てくれるかもしれない。千葉と東京は、四国ほど遠くはないから。そう思うと、その一週間はどうしても窓の外が気になった。バスがロータリーに入ってくる音が十一階までよく聞こえた。
 結局両親は現れなかった。顔を見せて貰えない子供も辛いが、行ってやれない親はもっと辛いだろうと思う。そう分かっていても寂しかった。可能性がある一週間を息を詰めて送り、最後の日付が変わって、いよいよ私は、無口だった。
 両親が足繁く来てくれるふたりの彼女たちが、その意味では羨ましかった。だが、「いいわね」とも、「羨ましいわ」とも、私は決して言わなかった。一週間で入れ替わっていくおばさんたちは、誰も彼もが口にした言葉だったが、私達三人は、結局誰もこの二言を口にしなかった。彼女たちの親は言ったけど、彼女たち本人は、言わなかった。
 クリスマスを迎えようというころ、私は退院した。宅急便で荷物を送って、入院したときと同じように一人で帰った。当直の主治医と、「この夜景で年明けのコーヒーならぬ、青汁でも飲みますか」と、冗談を言っている彼女を残して。
 三人とも住所を知らせることもなく、名前も病名も控えなかった。でも、多分私は彼女たちのことをずっと長く忘れることはないだろうと予感する。あふれ出しそうな自分を口にすることなく、互いに優しい想いを向け合った空気を、きっと長く覚えているだろうと思うのだ。半年経った今、もしかしたら、彼女たちが既にこの世を去っていたとしても……。




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