たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「三十三歳の新子さんへ」


「三十三歳の新子さんへ」



 作品は、半分を作者が作り、半分を受け手が作り、そして、ひとつの作品となる。千人入るホールで観劇すると、作り手の数と観客の数だけ作品が生まれる。
 時実新子全句集を読み、一体幾つの作品が、感動が、生まれた事だろう。受け手と放ち手の器のバランスが、ちょうど良くなったとき、作品はきれいな球体になる。受け取り側にまだその素養が無ければ、作品はまだ半球形のままで待っていてくれる。いびつでも、それぞれの彩なす球体になる、その時まで。
 時実新子を初めて知ったのは、「有夫恋」だった。川柳を始めたばかりの年、五年前の事だ。激しい人だと思った。恋の句ばかり私の目には止まった。その後数冊の新子著書と、展望、アサヒグラフ、そして、川柳大学と、新子作品を、読んで来た。
 今、付箋片手に、時実新子全句集を読むとき、三十三歳の新子さんの言霊に惹かれ、百以上もの作品に付箋がついた。
 実は、これを書くにあたって、読み込んでいく前から、文章の組み立てを考え、どう結論付けるかまで設計図を書いていた。浅はかだった。川柳、大きく言えば、芸術は、感動だ。心を揺さぶる。私は、今三十三歳。私の半球がここで震えてしまうのだ。以前に目にした句も、幾つもある。だが、私の側の半球が違って来ているのだ。恋多き激しき人というより、誠実に精一杯「生きて」いる人。そう思った。そこに惹かれた。
 殺人をしなくても、役者が殺人者を演じられるように、私が現在三十三歳であるからと言って、時実新子三十三歳の作品しか感動出来ないわけではない。そこに、想像力が活躍する。しかし、現にこの付箋の多さは何だ。私は、この文章の設計図を捨てた。徒手空拳、ただ、作品の半球となろうと思う。三十三歳の新子さんに心を寄せて。

平手打ち頬に鳴るとき物と化す

撲つ夫を呆けて見ては撲たれけり

たましいで哭くこの夫のある限り

奥歯噛む音があなたに聞こえますか

どうしても嫌い 死にたい どうしても

絶望の陽は傾くを忘れたり

絆断ちたし進水式の船の如く

眼の数に敗けまいとする一歩一歩

友を選る一指を屈しすぐ伸ばし

 三十三歳になる前の新子さんの叫び。心の中に、大きな大きな欠損がある。その欠けた部分は、嫌いな夫が有るということの理不尽さ。その穴を埋めようと、必死でもがく。その、魂のもがきを、以前に私は「恋多き人」としか捉えなかった。私の眼も、新子さんが、「敗けまいと」一歩一歩受け止めた、傷つける凶器の眼だった。友さえも、信じたく、でも信じられず、指を折っては伸ばす。ああ、切ない。そして、新子さんは、川柳を吐き続けた。
 新子さん三十三歳。今、悩みを抱えあがいている私と同じ歳。川柳を吐き続ける女が二人。

  女が女を見ていると淋しいね

 まず、先手を取られた。同情ではなくても、女が女を見ているときは、妬心か、侮蔑か、優越感か。さもなくば、自分を重ねるマネキンか。だが私は、共感と言う私の心を信じ、新子さんに会いに行く。

  ぽっかりとむなしき穴の大きさよ

  子の声のとどかぬ闇を身のうちに

 このブラックホールは、やはり埋めねばならぬ。埋めねば、生き続けられない。何をどう埋めようと願っているのか。

  あの世ではと今も思うている女

 「あの世では」「もう一度生まれたら」と、私はよく考える子供だった。でも、今の世で出来ない事は、やっぱり、あの世でも私には出来ない。私自身が、何も掴めていないから。でも、諦めるのは待って。自分に誠実に、あがき、もがき続けて、いつか、何かを掴めるかもしれない。三十三歳の新子さんは「あの世では」と思う人だったけれど、今七十歳の新子さんは、輝き、そして多分「あの世でも」と思う毎日を暮らしていらっしゃるように見える。

  この手離そうか夫が乗る梯子

  嫌い嫌い嫌い二の腕まで洗い

  どうしても嫌いです神への口ごたえ

  灯の下に闇に夫の手をおそれ

  私の中の夫が流れ去らぬ雨

 ブラックホールを覗くと、まずどうしても夫の存在が出てる。しかし、新子さんのブラックホールは、それだけで形成されてはいない。夫が外的に新子さんを苦しめているとしたら、この年、新子さんは、自分の、無力感、絶望感、選択肢の無さ、諦め、という自分の声、内的な声に苦しんでいる。新子さんを弱くさせるのは新子さん自身。

  魚は泣かずただに見開くまなこ二つ

  死んだ気になろう水呑む玩具のあひる

  よく笑う妻に戻って以来 冬

 子供への罪悪感も新子さんを追い詰めている。

  生んだのを子に詫び消えてしまいたし

  子と笑うこれも仮面でありましょう

  ゆえ知らず母の涙を見つつ育つや

  したたる親の愛をこの子も逃げたいか

  風船の指離そうか離そうか

 こんな思いの時ばかりではないだろう。

  一つだけ欲しい雲あり子を思う

けれど、「風船の指」を離そうかと何度も自分に問う。愛しくて、その愛しさでこの苦しい理不尽な現実に縛り付ける子供。今の時代も、このブラックホールに吸い込まれて身動きの取れない女たちが、どれほど多い事だろう。だが、私達は、その穴を埋めよう埋めようとして毎日を「生きる」。
 新子さんは、生き抜いた。どうやって?

  今をただ深き眠りに憧れる

  サビシイ苦しい逃げ出したいと書いて眠る

 眠ることは、一時の死だ。夢の中へさえも現実は侵入してくるけれど、力尽き果てているとき、ここより他に逃げ場所は無い。私もよく眠る。頑張って、頑張って、前を向いて、力尽きたとき、何もかも放棄して四日程は眠る。薬に頼ってさえも。新子さんには、それも許されなかっただろうこと、想像に難くない。朝には、妻として、母として、起きねばならず、たった数時間の「死」しか与えられなかっただろう。

  何を弾みに起き一日の序となすや

 でも、新子さんには言葉があった。言霊があった。「書いて眠」った時、言霊はきっと新子さんに優しかったに違いない。私は新子さんのことを言霊にも愛されたひとだと感じているから。

  爪染めてひと日を爪と暮らしけり

  たましいを撫でてやる日のうす曇り

 もう少し、心が追い詰められていないとき、新子さんは自分に優しくしてあげられる人だった。
 自分に優しく出来ない人は、本当には、人に優しくはなれない。みせかけの「良い人」は、実は憎しみに溢れている。犠牲者の顔をして相手を憎み、被害者の顔をして、自分までを騙して容赦なく爆発する。何人もの人を巻き込んで加害者になる。そして、自分が加害者である事さえ認めない。他人の喜と楽も妬ましく、そして、他人から妬みをかわない為にと、自分の喜と楽さえも、隠さねばならない。
 新子さんは、実に見事に心が健康だ。怒と哀がちゃんと感じられる。偽善者は、喜と楽しか感じてはいけないと矯められて生産され、仮面鬱症になる。私を含め、対人恐怖的な、人の目ばかり気にして、自分を生きられない人のなんと多い事か。

  視界ゼロ裏切り者のいる匂い

  この魚のように裂きたき女あり

  立ってみて坐ってみての妬心かな

 生きている限り、被害者でもあり、加害者でもある。自分の怒と哀を直視できる人は、自分の、そしてましてや他人の怒と哀にも優しい。もちろん、喜と楽にも。

  おまえはいい子あやまることはありません

  病む人へ許そうと思うあれもこれも

  夫もかなしく私もかなし 生きている

  まじまじとみつめてこの人も哀し

  そのひとが愛すばらの娘なら愛し

 新子さんの心は三十三歳以前にこんな句を湧き出だした。比べる事は意味が無い。でも、思わずにいられない。今の私にこの言葉が紡げるかと。
 そして、何よりもブラックホールを埋めたのが、恋だった。今でもよくおっしゃる。「恋をすることは大切よ」。
 異性を恋し、人に恋し、動物に恋し、物に恋する。恋することは、豊かに生きることと同義語だ。こんなにも、人の感情を嬉しくも悲しくも揺さぶり満たすものは無い。

  新しき恋 白菜のみずみずし

  猫の鼻ももいろ恋は素晴らしや

  風呂に水張って女に野望あり

  頭からしびれる好きなひとの前

  ああこんなにも愛してたまんじゅしゃげ

  目もくらむ渇きに人が二人立ち

  あの人もこの人も一陣の風だった

  宝石を踏む 肩寄せて歩く道

  決して決してかなしい恋と思うまじ

  夫も子も着物もかなぐり捨てました

  満月の欠くをおそるる恋なるや

満月が欠けないことが有るのでしょうか、新子さん?今なら「満月は欠けないこともあるのよ」と言ってくださいますか?いいえ、今でもきっとおっしゃるでしょう。
「満月は欠けるのよ。だからまた、次の恋を見つけなさいな。」この繰り返しが生きているということ。仕事に恋しても良い。誰かに惚れても良い。美味しい料理を作る事に惚れても良い。そして、走り続ける。

  走れ新子一本の道ある限り

  馳け出した足の行方を誰も知らず

  炎天をうしろも向かぬ旅へ出る

 誰が責められるだろう、恋し続ける新子さんを。だが多くの人は責めた。それは、みんなで見ない事にしている嘘を、感じない振りをしている偽善を、真正面から声高く言い募った人への仕返し。でも、新子さんは、自分の眼を、自分を信じた。

  永遠の愛誓わせて何になる

  頼る人なくて鏡の目をみつめ

  診察台人を愛した女なり

  レジスタンス心は誰のものでもない

  帰るところ月と定めてから微笑

  私なりの愛に悔いなし母子草

  あたしの恋を蔑む涙なら 母よ

  誓いあうこの一瞬は疑わず

  もう誰が何と言おうと前を向き

  一本道私を信じねばならぬ

 責める人へ、責める自分へ、挑むような強気の句もある。

  犬とそしられ一椀の水を干す

  死んだって私はザンゲなどしない

  さらし首裏切り者は眼をひらく

 まるで、手負いの猪のように、逆に痛々しくさえ感じる。新子さんは確かに気が強い。だが、それは脆さと裏表。
 「信じた」と簡単に言うが、苦しみの末である事は言うまでも無い。後悔の句も数え切れないほどある。「悔いる。悔いない。」「悔いて、悔いることはないと思い返す。」その繰り返し。誠実に生きるとはどういうことか。自分をごまかしても、常識に遵うことか。愛なくて、自分を犠牲にして、本当に相手に誠実でいられるのか。

  良心は確とのたうつ愛の中

  握り合わせて十指の震え見せまじき

  とどまれば倒れる風を切ってゆく

  いつまでの生どこまでの迷いなる


 さて、ここで話を転じたい。誰もが抱え持つ心のブラックホール。その厳しいブラックホールを抱えて、新子さんはどう生きてきたか、から、新子さんの真実を見抜いてしまう眼について視点を移したい。これはどうしても特筆すべ
き事だから。慣習も、神仏も、自分自身さえも、詩人の目をして冷徹なほど客観視してしまう。見えてしまうのではない。自ら、考え抜いて悩み抜いて、見てしまう。苦しいだろうと思う。

  嘘がざくざくわが屍を切りひらく

  許せない自分の嘘に脈打つ日

  私から狐が落ちてみすぼらし

  一人になると紫のつばき吐く

  突っついているから傷が生き生きと

  確かめて得た絶望と向かい合う

  眼を四つ自画像に嵌め安堵する

  水替えても替えても花は枯れるもの

  ひとつひとつ崩れる夢の中に坐す

  月光へ泳がせた手に何もなし

  愛妻記神話のごとく読み終わり

  おそろしい世に在り一夫一婦たり

  みんなうそつき吊革がゆれている

  すべて嘘私の生きる限り嘘

  玩具より安いひよこが歩かされ

  たましいのかたちとわれてまるくかく

  糸トンボ音もなく死に事もなし

  生涯にひとつの没日たりと見し

  うつむいて歩くと神の毛脛見え

  釈迦如来無慈悲な微笑垂れ給う

  野の佛死をも生をも頷かれ

  一切が空しく雲を雲と見し

  しんじつをほろほろこぼしあるくなり

 時実新子は夢見る詩人ではない。真実を見据えて意欲する詩人だ。

  この苦悩脱けんと仰ぐ雲が切れ

  限りなき明日へ向くほかなき足で

  耐ゆる日の永遠よとは思わざり

  開く開く今背にひらくパラシュート

  叩かれた肩忽然と生へ向き

  求めることの懸命に段のぼりゆく

  雨の視野晴れたら浮かぶ島を待つ

 また、孤独を知り、孤独を味わい尽くし、それゆえに、自分と同じ孤独な生命を自分を愛するようにいとおしみ、人、動物、生命すべてに等しく優しい目を向ける。

  この淋しさわが手にわが身抱きしめて

  道を往く人はみな人さびしかり

  たましいの襞をみつめて一人居る

  怖いほど独りはさみし猫を呼ぶ

  灯ともして見る寝姿のみな淋し

  この草も私も生きているのです

  お喋りをちょっとやめてよ花が散る

  灯取り蛾の小さな命見て居たり

  泥の中ここにも生きるものが群れ

  これもお乳になる犬の椀充たしやり

  恋鹿の呆けあわれにまた見事

 自分だけが生きているのではない。人間だけが生きているのではない。自分も淋しい、みな淋しい。自分も懸命、みな懸命。自分もいとおしい、皆々、いとおしい。
 この想いにどこか通じるものがある、新子さんの自然体、素直さ。五年前の私が「恋多き人」と一言に括ったとすれば、今の私は、三十三歳の新子さんを「素直さが最大の魅力」と読んだ。今の私にこのような謙虚さがあるだろうか。「われが、我が」と自分を世界の中心のように生きてしまう私の傲慢さ。年齢の問題ではない。七十歳の新子さんは、ますます素直だ。

  箸重ねて洗う縁をふと思う

  熱の日を素直にまかせきる心

  眠られぬ心をいさぎよしとする

  方角オンチ廻れ右して悔いもせず

  花粉のように母となる身を逆らわず

  ややこしいから本能で片付ける

  苔の花こころに近い色で咲き

  夜の冷えに玉菜巻くよりほかはなき

  嵐近き風に心を任せおり

  狂犬の如く水呑む日がありぬ

 こういう「身の程を知ったニンゲン」は、人にも、自然にも、自分にも感謝を持てる。

  まごころを涙で読んでくれた人

  悲しみの極まれるむしろ歓楽

  なまごろしのわたくしが生きて万歳

  死んでゆく時バンザイと我を讃えん

 新子さん。私は今好きな言葉があります。ラインホールド・ニーバーという人が、投獄されていて記したそうです。

 「平安の祈り
  神様、私にお与え下さい。
   変えられないものを、受け入れるおちつきを
   変えられるものは、変えてゆく勇気を
  そして、その二つを見分ける賢さを 」

 新子さんは、この二つの選択を苦悩しながら、歓喜しながら、誠実に生きている。「平安」に生きる事の苦手な私の心強い先輩です。川柳という言葉を得、言霊に愛された新子さん。私は時々背伸びして、未来の私に会いに時実新子全句集を開くでしょう。まだ私は、新子さんの半球を受け止められない器です。優れた芸術は時を恐れない。待っていてください。新子さんの半球に私なりの半球を生んで、私の「時実新子」作品ができるまで。

  たしかに猫の泣くのを見たのです

 この句を読んで、私も泣きました。


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