おじん0523のヒロ散歩

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2019.10.05
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カテゴリ: 続 日本100名城
丸子宿の後、続日本百名城の諏訪原城跡へ向かう。
今年4月3日(水)に訪れていたがスタンプを捺印していないので再度訪問。

9/24(火) 12:10
諏訪原城のガイダンス施設へ到着。
開館時間:10:00 ~ 16:00   休館日:月曜日  入館料:無料
昨日が祝日で休館日。一瞬焦ったが、スタンプ帳に別の場所で終日利用可とある。
所在地:静岡県島田市菊川1174番地


ガイダンス施設の裏にある「第一駐車場パンフレット置き場」
前回ここでスタンプを捺印した。
金谷から菊川石畳 ​​』


続日本百名城 NO.146『諏訪原城』
武田氏が築いた遠江侵攻の拠点の城


国指定史跡 諏訪原城跡
天正元年(1573)、遠江侵攻を目論んだ武田勝頼が、東海道沿いのこの地に築城した
という。武田軍は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、反攻に転じた徳川家康に
より諏訪原城も落城。徳川氏はこの城を拠点に武田軍に対抗したが天正10年(1582)
に武田氏が滅亡すると存在意義も薄れ、天正18年(1590)に廃城となった


推定復元図
大井川を背にして本曲輪を置き、その前面を二つの曲輪が大きく取り巻く、後堅固の

現存)が虎口の前面を強固に守っていた


天気がよいと富士山が見えるのだが


旧東海道沿いに今年3月23日(土)にオープンしたばかりの施設


菊川石畳方向
施設の前に「諏訪原園茶舗」



諏訪原城跡から掛川市の続日本百名城の「高天神城」へ向かった。
掛川市南部エリアの目的地(ピンク色)
左から「横須賀城跡」中央上「高天神城跡」右下「潮騒橋」


前回もらっていたパンフレットの『掛川三城ものがたり』
戦国武将たちが、激しい攻防を繰り広げた歴史に名を残す城郭。
東海の名城『掛川城』:日本百名城
難攻不落の城『高天神城』:続日本百名城
玉石積みの石垣『横須賀城』


12:50
高天神城跡のスタンプがある「大東北公民館」
所在地:静岡県掛川市下土方267-1
今年の5月22日(木)に浜松への途中訪れたが、スタンプを捺印していなかったため
再度の訪問となった。その時のブログは『​ ​​JR六合駅から浜松 ​​』でアップ


公民館内のスタンプ置き場
いろんな観光パンフレットがあった


続日本百名城 NO.147『高天神城』
徳川・武田が奪い合った要衝の城である。
16世紀初めには今川氏の家臣福島氏が城主となったと伝わる。福島氏の没落後は小笠
原氏が城主となり、桶狭間の戦い後は徳川氏に臣従する。高天神城は武田信玄の攻撃
にも持ちこたえたが、後に子の勝頼が攻略。だが、徳川氏が5年かけて包囲し、天正9
年(1581)、城兵は全員討ち死にし、城は廃城となった


高天神城の城郭構造。
標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに生かした「難攻不落の名城」
尾根の鞍部(中くぼみの部分)の井戸曲輪を境に東峰と西峰に分かれ、一城別郭の構造
をもつ。断崖絶壁の地形を利用して、堀切や土塁などで防御を固めていた


高天神六砦
高天神城奪還のために家康が築いて6つの砦


13:00
スタンプを捺印してから当初予定していた「潮騒橋」へ向かうが、「横須賀城跡」の
標識がありハンドルを切る


13:04
横須賀城跡は続日本百名城ではないが、石垣が良い


13:17
横須賀城跡
所在地:静岡県掛川市西大渕4226


パンフレットより
大井川の自然石を積んだ「玉石積み」の城である


国史跡 横須賀城跡
かっては高天神城攻略の起点として築城され、その後280余年に渡り横須賀藩の中心
であった。横須賀城は、明治維新とともに廃城となり、残された城跡は現在国の指定
文化財として整備が進められている


国史跡 横須賀城跡
以前は南側はすぐ海であった


本丸、天守台


玉石積み石垣


本丸南下門跡推定地


本丸南下門跡推定地の遺構
この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当たり、自然の尾根や谷を
巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。一帯は平成3年度と
4年度に発掘調査が行なわれ、その成果と当時の絵図などの資料を基に、平成7年度か
ら平成8年度にかけて、復元整備工事が行われた


本丸南下区域の遺構
この区域は、天守台がある本丸の南側斜面と、その下段部分に当たる。
発掘調査され復元整備工事が行われた


西の丸跡から


天守台跡


本丸跡土杭群
この辺りは昭和63年度に発掘調査されている


土塁跡


天守台の遺構
横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されている。ここからは礎石と礎石
を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられ
ます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあり
ます。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁があり
ました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱
瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土しました


天守台の遺構


横須賀城のジオラマ


西の丸、本丸


横須賀湊と横須賀城
江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があ
って、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も
寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で
中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。
小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横
須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考え
られます


城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり
横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事
と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河
口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。

横須賀城の歴史
戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続
いていました。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。
天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点
として横須賀城を築かせた。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城となるま
で288年20代の城主を数えた


遠州横須賀城歴代城主


明治維新の廃城と国史跡指定
明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動の中、安房国花房(現千葉県鴨
川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達の領地となって静岡藩に含まれた。明治2年8
月には横須賀城も廃城となった。明治6年には城内の土地、建物、石垣、立木まで民
間に払い下げられて町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観
を失いました。そして昭和46年には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城
跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和55年5月8日付けで国史跡に指定
されました。以後、土地公有化と遺構復原整備が進められています


本丸跡から遠州灘を望む


本丸南斜面中段の遺構


天守台跡


北の丸跡ではゲートボール


天守台跡からの北西方面


三日月池北側中段
当時の絵図を見ると本丸東端部から、三日月池方面へ下るスロープ状部分と石垣が描
かれている。一帯は、平成5、7、8年度に発掘調査が行なわれ、その成果を基に平成
9年度に環境整備が行われた


三日月池北側中段の遺構
 玉砂利敷遺構
 石垣基礎石列


西の丸の高台


13:40
彼岸花がきれいに咲き


このあと、菊川の河口に架かる「潮騒橋」へ向かう。

                         東海道53次の豊橋へー続く





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最終更新日  2019.10.05 03:00:06
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