サヨコの土壇場日記

流れのまま

流れのまま





 来訪のチャイムがなる。





 昨日、引越ししてきたばかりの部屋に誰が尋ねてきたのだろう?とりあえず、友人知人にはまだこの引越しをしらせてはいない。少なくとも一ヶ月前までは、私は幸福な人妻だった。このワンルームマンションに越したいきさつは、親にだって知らせられないでいる。

 またチャイム。

 新聞の拡張かなにかだろうな、と思いながらドアに付いている覗き穴から外をうかがう。

 若い女がそこにいた。

「隣の安田ですけど、いないのお?」

 あわてて、ドアをあける。ドアチェーンを外し忘れたために、少ししか開かないドアにいらだって彼女は、

「うそーっ!」

 と、怒りの声をあげた。

「あ、ごめんなさい。今、外します」

「………」

 二十代前半の小柄な女が、右隣の住人、安田絵美だった。夕べと今朝に二度、挨拶のタオルを持ってチャイムを押したが、応答がなかった。

「始めまして、ご挨拶に行ったんですが、お留守だったみたいで。昨日越してきました、村山澪です。よろしく……」

 話の終わりまでは聞かず、絵美は

「アイロン、持ってない?貸してほしいんだけど」という。

「あ、今片付けていたダンボールに入っているはずよ。ちょっと待って」

 話し方がぞんざいになったのは、絵美が年下の女と判断したからだ。素顔に眉がない、のっぺりとした少しはれぼったい顔。

「あのさあ、私、夜は仕事で、午前中は寝てっからチャイム鳴らさないで!」

 他人にモノを借りて、礼を言うでもなく、隣の部屋に消えた。



※※※



 肇と結婚して五年。子供が出来なかった。初めのうちは、まだ、恋人気分を引きずっていたから、そのうちに出来るときには出来るわという気分だった。バースコントロールはしたことがない。

「子供はまだ?」

 結婚して二年目あたりから、会う人ごとに聞かれるうっとうしい質問。四年経った頃に、姑の強い勧めに逆らえず、勤めも辞めて、不妊治療に通い始めた。卵管狭窄と診断を受けて、肉体的にも精神的にも苦しい治療が始まった。卵管を広げるための信じられない痛みと、屈辱的な姿勢を強いられる治療。肇との子供が欲しさに、ただただ耐えた。

「奥さんだけのせいばかりじゃないこともあるから、今度、旦那さんと一緒に来なさい」

 初老の婦人科の医者にそう言われた。そう言われた夜に、帰ってきた夫に昼の診察の件を告げると、夫は急に暗い険しい顔になった。それから話されたことは、恐い夢でも見たのだろうか、忘れてしまいたいという内容のものだった。

「俺のせいじゃないよ。子供は出来た。別れてくれないか」

一瞬、意味が解らずにぽかんとしていたら、

「子供が生まれる前に、入籍してやりたいんだ。頼む! 別れてくれ」

 ドラマのせりふでも言ってふざけているのだろうか? 五年を共に暮らした男のことがまだ理解できない。落ち着け、これは現実ではないわ。だって、私たちあんなに仲が良かったし、夫の、肇の口から私への『別れ』の言葉が出てくるなんて……

「ど、どういう意味?」

 今日の苦しい屈辱的な治療の後に、こんな現実が待っていようとは思いもしなかった。

 それに、肇のこんなに苦しい顔を見たのは初めてだった。

 そして、私たちは夜が明けて、空が白むまで話し合った。そうしてやっと解ったことは、夫が外に子供が出来て、それが今、妊娠六ヶ月であるということ。確かに、私たち夫婦の間に子が授からなかったのは、夫の肉体的欠陥のせいではない。その証拠だと突きつけられた現実は……私以外の女のお腹に夫の子供がいるということ。

「誰なの? 聞く権利あるわよね? 相手の女がどういう人で、いつからそうなったのかってこと!」

 知らないほうが良いと、夫は苦しい表情の中で言った。

 私は、手元にあった灰皿を彼に投げつけた。夫は右肩を押さえて顔をゆがめ、

「すまない」

 と謝るだけだった。



※※※



 泣くだけ泣いて、意地でも別れてやるものかと思った。産みたかったら産めば良い、籍を譲る気はない。肇への愛情は、ドロドロの憎悪に変わっていった。

 次に知った現実は、もっと恐ろしいものだった。肇の子供を宿して、幸せな母になろうとしている女が、杏子だったとは! 杏子、私の親友。いや、私が親友だったと思っていた人間。不妊治療に徹底してとりかかるために辞めた、それまで勤めていた職場の同僚。

 せめて、私の知らない女だったらば救われたのに。

 肇と杏子は、してはいけないことを『する』誘惑におぼれたのかも知れない。ダメですといわれることを、こっそりと『する』ときの蠱惑的な快感に。

 子供が出来ないのは、肇さん、あなたにも原因があるのかも、と言われた時にタガが外れたようにはじけ飛んだ罪悪感。俺のせいじゃない、その証拠に外には出来たって……

 私は、『子供』に執着しすぎたのだ。その挙句に、一番大事な肇を受け入れることを忘れていたようだった。もう今となっては、どうでも良いことだけど。せめて、相手の女が、私の知っている女、つまり杏子でさえなければもう少し救われた。救いのない思いに朽ち果てて抜け殻になり、雪交じりの雨が降る日にひとりでここに越して来た。

 朝が来て夜が来る。そしてまた朝が来る。味のしない食物をただ口に押し込むだけの怠惰な日々。繰り返してひと月が経ち、アイロンを隣に貸したままだったことをやっと思い出す。

 のっそりと腰を上げ、隣のチャイムを鳴らすと寝起きの絵美がドアを開けた。

「中に入って! 早く」

 アイロンを返してくれるだけで良いのに、絵美は中に入れと言う。

 寝乱れたベッドが部屋の中央にあり、春の光が散っている。そうだ、三月になったんだ。

 絵美は冷蔵庫を開けて、缶ビールを二つ持ってきた。プルトップを引いて私にひとつを差し出す。ふたりでベッドに腰掛けて、黙ってビールを飲んだ。

「あ、アイロン…返してもらおうと思って」

 絵美が黙ったままで顎をしゃくった方向、クロゼットの前にアイロンがあった。うっすらと埃をおびて。

「あんたさあ、働いてないの?いつだって部屋にいるみたいだし」

 絵美の質問にドギマギとして答える。

「え、ええ。仕事はこれからでも探すかなあって……」

「二ヶ月だけ働いてくんないかな。あたしが勤めてるとこで」

「えっ……」

「頼む、お願いだから二ヶ月だけバイトして」

 夜に仕事していると言っていたけど、私に出来るような仕事なのだろうか?

 絵美の話は唐突で、何で振り回されなくてはいけないのだろうと思いながらも、夕方に一緒に出かける約束をしてしまった。誰かにかまわれたかったのだろうか? 

 連れて行かれたところはキャバクラで『エム』という店だった。

 後で分かったことだが、働いてくれるキャバ嬢を紹介して、その娘が二ヶ月続いた時点で、紹介者に二万円が渡されるというシステムだ。絵美はマネージャーに私のことを勝手に二十六才だと言い、

「初めてのド素人だから、そこんとこよろしく」

 と言った。

「澪じゃあクライなあ、美緒にしよう」

 マネージャーに言われて、フロアに連れて行かれた。そこには二十人くらいの若い女たちがいて、美緒にも与えられたのと同じ制服(ピンクの丈が短いスリップドレス)を着ている。場違いを感じたが、二ヶ月だけ我慢しろと絵美が言う。その絵美はといえば、昼の顔からは想像の出来ない化粧をして、なまめかしかった。

 違う世界で生きる好奇心が頭をもたげ、どうせ私の人生は一回死んでいるんだからと、絵美に振り回されることに不快は感じなかった。二ヶ月だけ……



※※※



 二ヶ月のつもりが七ヶ月も続く。当然、『エム』のフロアでは浮いている存在であったが、絵美が妙に面倒をみる。行きも帰りも一緒で、お客さんと鮨屋に寄ることもあれば、絵美に男の人が迎えに来ることもあった。タクシーのときもあり、男の人の車のこともあったが、同じ人でないこともあった。とりあえず、マンションまで絵美と一緒に帰るから、その後のことを私は知らない。口を挟む気もない。絵美の人生なのだから。

「美緒さんて、投げやりなんだよね」

 と、自分のことを棚に上げて絵美が言う。

 必要以上に心に踏み込む人間とは付き合わないようにしていた。どうせまた裏切られる。だから、絵美にも関心を持たない。仕事は行って帰るだけ。店内では、黒服が言う通りに動く。たいていが絵美のヘルプの席だ。

「ドジッちゃった。ソープに行くしかない」

 ある日突然に、絵美が店を辞めると言う。

「好きでもない男に抱かれる抵抗はないの?」

「何、ネンネを言ってんだよ。バツイチのくせに」

 絵美が辞めた『エム』では、いっそうひとり浮いていた。キャバ嬢では、とうが立っている。もうじき三十一才だ。

「何を考えて生きている?」

 ヘルプでついた席で、笹岡という客に説教された。

「何も」

 本当に何も考えていない自分に驚く。

「この名刺を持って、この店に行きなさい。君にはこの『エム』は合わないよ」

 名刺の裏に『美月』という店の名前と電話番号を書き留めて、笹サンが寄こした。

「どういう店なんですか?」

「もう少し落ち着いた店だよ」

 絵美に相談してみようかなと思ったが、そういう気の弱さが杏子に裏切られる原因だったはずだと思い直して、『美月』のドアを押した。



※※※



「笹サンに紹介されなかったら、雇えなかったかも知れないわ」

 『美月』のママ、彩が笑う。もう、ピンクのスリップドレスを着なくても良い。なるだけ品の良いおしゃれをしてねとママが言う。カウンター兼厨房に一人、フロアに三人の従業員という小さなバー。笹サンは週一でやって来る。

「真面目な娘を紹介してもらって良かったわ。笹サンに感謝よねえ」

 と、あでやかに笑うママ。美緒の母親と同じ年齢だとは信じられない。

「真面目にやってるいのか? 何を考えているのか分からない娘だろ?」

「いいえ、気配りはあるし一所懸命だし、第一、遅刻と休みがない。こういう小さなお店はね、来たり来なかったりの気まま勤めをされるのが一番困るの」

「由紀のことを言っているのか?」

「由紀ちゃんは事情があって、特別に許しているのよ。でも事情は誰もが抱えて……あら、お客様にグチを言ってはいけないわ」

 笹サンは、ママとは長い付き合いのお客らしく、ママが珍しく打ち解けている。

「美緒は変わったなあ。ここに来てからは生きている。だが、いまいちというところで投げやりになるからなあ」

「あら、ずいぶんご執心だこと」

「いや、ホステスを良い女に育てるのも客の遊びなのさ」

「今日の美緒ちゃんの新調のドレス、明るくて良いわね」

 ママは、笹サンに買ってもらったことに気づいているのだろうか?

「今度また買いに行こうな」

 こっそりと笹サンが美緒に言う。しつこいなあと思いながら、美緒は、心がまた朽ち果てていく音を聞く。これから、私を待っている男なんて、もう日本のどこにも居はしない。それなら、どっぷりと水に浸かって生きてやると思う。




 やっと、離婚届に判が押せそうだ。










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