パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

詩編133編



【はじめに】 今日は宇都宮上町教会の特別伝道礼拝の時をもちました。主にある交わりを頂いて天国の雛形のようでした。

【テキストの解説】 詩編133編は、詩篇の「都もうでの歌」といわれる15の詩編のうち、後から2番目のものです。いわば「人生巡礼のピーク」とでもいうべき、「兄弟愛の祝福と永遠の命」を美しく歌っている詩です。

【メッセージのポイント】
1) 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。⇒兄弟愛は「最善」!               (1節)
 「見よ 何という善 なんという楽しさ 
兄弟たちが座っている 一緒に」(直訳)
 この詩の中心主題は兄弟愛が「最善」ということです。「見よ、何という最善なることよ!」とこの詩人は歌っています。ユダヤではこの詩は多くの人に愛され、「ヒネー・マー・トーブ」という名で呼ばれ、ダンスのできるメロディで歌われています。この「トーブ」という言葉は「善」という意味です。新共同訳では「なんという恵み」と訳されています。また同じ語が「善なる(最良なる)」油という意味で2節に使用されています。現行の訳では「かぐわしい油」と訳されています。「兄弟愛こそ、人生の最善!」という感嘆の声なのです。ユダヤのお祭りで各地からいろんな兄弟姉妹が巡礼のたびを続けてやってきた。祭りの最後の盛り上がりの夜に、この詩人は、皆が一堂に会している姿に感動して、感嘆の声を上げているのです。「ご覧なさい!なんいうすばらしいことでしょう!兄弟たちが、笑顔で一緒に座っていますよ!」
主にある兄弟愛は、人生の最善なのです。しゅもの招きを受けて、共に座り、歌い、祈りあっている姿に、同じ思いを持ちました。
しかし、もう一度、聖書をひもどきますと、イスラエルの歴史も人間の歴史も兄弟愛が、とても難しいことを語っています。旧約聖書の最初の兄弟アベルとカインは兄弟殺しをしてしまいます。双子のエサウとヤコブは祝福をめぐって争います。ヨセフと兄弟たちも恐ろしい人間の妬みや憎しみを描きながら、この「神の最善」が消えていることを指摘しています。
2) 2 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3 ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。  (2節、3A節)
⇒ 愛は神から滴り落ちる!
 しかも、この詩篇ではふたつの比喩で、神様の祝福が歌われます。一つは祭司アロンの頭に注がれた恵みの油が、髭に流れ、衣の衿にまで流れる様子に歌われ、また二つ目には高いヘルモン山の露が、それよりも少し低いシオンの山に流れ下る時のようだと歌われます。「滴り落ちる(ヤラド)」という語が3回繰り返され印象的です。これは神様の豊かな祝福の流れが、神のみもと、恵みのみ座から流れ出て、わたしどもの世界にまで豊かに注がれる様を言い表わしていると理解することができます。
真の兄弟愛は人間の業ではありません。それは神に、源を持たねばなりません。主イエスはその源となられました。十字架の愛が、主イエスご自身がこの世界に来られたと言うそのことが、愛に生きる祝福の生涯の基礎なのである。

3)シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。(3節c)
⇒ 主にある兄弟愛こそ、祝福と永遠の命!             さて、この詩人は最後に、主が愛し合う神の民に、豊かな祝福を命じられ、永遠の命を与えられたと言っています。愛し合うことは命に生きることなのです。使徒ヨハネはその手紙のなかで繰り返し「神は愛である」と語ります。そしてこの愛のあるところには命がある、神の愛は神の永遠の命へとつながっていると強調しています。また、愛さないものは死のうちに留まっているのであり、兄弟を憎むものは人殺しなのだとまで言います。

【結 論】 主にある共同体、愛し合う臨在の交わりは本来、人間の持つ最大の喜び、「最善」なのです。でも天地創造のはじめから、人間の交わりは破れているのです。天から、それは深く導かれねばなりません。真の愛は天からの下るものなのです。それは主の十字架の許しと愛によるのです。そして、その「兄弟愛」に生きることは、真の祝福と永遠の命なのです。主において共に座り、主にある恵みの中を歩みましょう。  ハレルヤ!

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