家具インテリア販売の店長日記

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柳宗理


1915(大正4年)6月29日、柳宗理は柳宗悦、兼子夫妻の間に、三人兄弟の長男として生まれました。柳宗悦は白樺派の同人で、のちに民藝運動の指導者となった人で、母兼子は当時の日本を代表するアルト歌手でした。

 宗理は原宿(宗悦の実家)で生まれ、千葉県我孫子の手賀沼のほとりで育ちます。そのすぐそばに同じ白樺派の志賀直哉や武者小路実篤が住み、イギリス人の陶芸家バーナード・リーチの窯があり、リーチは週の半分を柳家で過ごしていました。その頃の柳家は、白樺派が集めたロダンの彫刻やセザンヌの絵が置かれ、さまざまな文人、芸術家が出入りし、日本のどこよりも早く西洋美術や日本の文学に触れることのできたところでした。

 自然豊富な我孫子で、宗理は小学校に上がるまでを過ごし、その後、赤坂区高樹町に転居、青山南小学校へ入学。しかし大正2年の関東大震災で、なかなか落ちつかない東京から、一家は京都に移り住みます。はじめは言葉も通じなかった京都の暮らしにとまどいながらも、いつしか宗理少年も京都弁も話すようになり、中学卒業までを過ごすことになります。

 その頃父宗悦は、庶民が作り庶民が使う「民衆的工藝品」に開眼し、大正末年に「民衆的工藝」つづめて「民藝」という言葉を作りだします。雑誌『工藝』を発刊し、京都の市や、全国各地に陶芸家の浜田庄司や河井寛次郎らと出かけては江戸時代の着物や焼き物を買いあつめ、それは後に宗悦が開いた「日本民藝館」の収蔵品となりました。京都の市には宗理も度々連れていかれたようです。

 宗理中学卒業の頃、一家は再び活動を東京に移し小石川、そして目黒区の駒場へ(現在・日本民藝館西館)この頃ドイツ人の建築家ブルーノ・タウトが家に訪れたことは、宗理の記憶にもはっきり残っているようです。
柳宗理 コレクション


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