「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 194
エセ天使の密かな楽しみ 足バンさん
朝、僕がシャワーを浴びて出てくると
ドンジュンがソファテーブルの上のノートパソコンを開けたところだった
あいつは毎日起き抜けにネットを使う
業界の株価や海外の情報をチェックするためだ
今日もベティちゃんのパジャマで目をこすりながらおはよっと言い
いつものようにパソコンを開いたのだろうけれど
そこには僕がブックマークしておいた2、3の記事のタイトルが出ているはず
クリックさえすれば直ぐにアップされる
僕は知らんぷりしてシャツをはおり
あのフェラーリ・ディーノみたいだというポットで紅茶のためのお湯を沸かす
スクランブルエッグでいい?と聞くと
うん何でもいいや、などと気のない返事をしているが
その声はいつもよりちょっと緊張している
ドンジュンはこちらをちらっと見て
ちっちゃく咳払いなんかをしてパソコンを操作する
たまごを割りながら様子を見ていると
やつはいきなり画面を睨んでむっとした
きっとあれだろう
ウナさんの記事で「最後の作品決定」という見出しのやつだ
ー彼女の最後の作品はシン・ジソク監督の5年ぶりの作品に決まった
脚本も監督のオリジナル
物語は心に深い傷を持つ女性の愛と再生の物語
主人公はスヒョンだろが…わかってねぇな、と小さな声がする
そのまま読み進むともう1回むっとする…かな?
ー驚くのは正式発表はまだだが共演者が全くの演技未経験者らしいということ
いつも新しい挑戦を続けてきたシン監督だが
この思い切った選択が吉と出るか凶と出るか
彼女の記念の作品に共演者がどこまで貢献できるか興味深い
あ…やっぱりふくれた…
何なのさこの書き方っ失敬なやつ…と呟いている
「どうしたの?株価に異変?」
「へっ?」
「カ・ブ・カ」
「えっ?あ?ああ…うん…まぁ大丈夫…ケホっ」
ふふ…素直に気にしてくれていいんだけどなぁ
次の記事はどうかな?
ー彼女の最後の作品はラブストーリィに決定した
シン・ジソク監督の作品は小粒だが人を惹き付ける珠玉作が多い
今回のウナさんの相手役は無名の新人だということだが
今までのシン監督の目に止まった役者たちに失望したことはない
今回抜擢の新人も新鮮な驚きをもたらしてくれることだろう
あ、ちょっと顔がほころんだ…
何だ嬉しそうじゃない…ふふ
でも”ウナっちのことばっかじゃん”とか言ってる(いつの間にウナっち呼ばわり?)
仕方ないんだな向こうはスターなんだから
監督からも発表前にいろいろ書かれると思うけど気にしないでと言われている
さて最後が微妙な記事かな
ー彼女の最後の作品はシン・ジソク監督のオリジナル作品に決定した
実に5年ぶりにメガホンをとる監督をベテランスタッフが支える
まだ正式発表はないが「切ないラブストーリィ」だということだ
ー監督の「抱擁の庭」のような官能的な愛の世界が再び蘇るのだろうか
お…やっぱり微妙に変な表情でふくれた…
そして…いきなり…検索している模様
あいつが観たって言ってた作品の中にはなかったな「抱擁の庭」
1998年の…その…かなり大人向けという感じの作品
…
ちょっと赤い顔してるけど…いったい何を見つけたんだろう…くふっ
記事の最後でやっぱりもう1回ふくれるだろうな
ー相手役は無名の新人で、彼女の恋敵も新人だという話だ
何とも思い切った抜擢だがその新人たちとの絡みも楽しみだ
果たして彼女をリードできるような未知の素材がいるのだろうか
監督の勘と腕が鈍っていないことを期待しよう
う…すごい…倍にふくれて目がマジになって立ち上がった
「どうしたの?」
「何でもないっっ」
と言ったかと思うとずんずんと洗面所に入って行ってしまった
刺激が過ぎたかな?
ちょっと反応を見たかっただけなんだけど
気になって覗きに行こうと思った瞬間やつはドアを開けてふくれたまま出てきた
そして真っ直ぐ僕のところに歩いてくるといきなり僕の胸ぐらを掴んだ
「スヒョン!もうっっ!絶対頑張ってよ!いいね!」
「何を?」
「ああもうバカ!映画に決まってんじゃん!勝手なこと言うやつらなんてキャインと言わせてやって!
ああもうっ悔しいっ!悔しいぃぃぃ!」ダンダンダンッ
「何が悔しいの?」
「だから超無責任な記事と!こうやって応援しちゃう自分の両方がだよ!もおぉぉぉ!」
「わ、わかったよ…頑張るから」
「頑張ってほしいけどあんまり頑張んなくていいんだからねっ」
「どっちなの」
「だって…あああ~もぉもぉもぉ!」ダンダンッ
僕は地団駄踏んでガウガウ騒いでるドンジュンを抱きしめた
「大丈夫だよ…監督にもウナさんにも恥をかかせるようなことはしない」
「もうっ…ぐしっ…」
そのまま僕のペースに持っていけるはずだったんだけど
わずかに読み違えた
負けず嫌いに火が付いたドンジュンはそれ以来何かとうるさい
何気ないしぐさから
キスひとつするのにもチェックが入るようになってしまった
ベッドの中に至っては数々の名車の例を挙げて
いちいち”美しいフォルム”の指導が入る
下手に「自信あるから大丈夫」なんて言おうものならまた逆襲に遭うから
僕はおとなしく指導されつつ過ごしている
でもたまに「やっぱこんなシーン頑張んなくていぃ…」と
ポロリとホンネの悩めるフグを抱きしめてやるのが
ちょっとね…
かえって僕の癒しだったりもするんだけど
千の想い 35 ぴかろん
先輩の住むというマンションの駐車場に車を止め、テジュンさんは外に出てきた
憑き物が落ちたような顔をしている
僕達も車から降りてテジュンさんの傍に行った
「今日のこと…誰にも言わないでくれないか。勿論イナにも…」
「でも…」
「僕から言う…折を見て…」
「…解ったよ…。俺達にできる事があったら何でも言って。大した力にはなんないかもしれないけど、テジュンとイナさんのためなら俺達何でもするから」
「僕はイナのためだけにしか動かないぞ!」
「ギョンジン!」
「…ありがとう…」
テジュンさんは微笑んで僕にそっと手を差し出した
まだ許せない気持ちもあったのだが、イナのためにも、もっと堂々としてほしい…難しい事かもしれないけど…
そんな想いをこめて僕は彼の手を強く握った
「とにかく…イナに連絡してやって…。あいつきっと待ってるから…」
「ああ…ああそうだった…」
その後ラブの方を向いて、テジュンさんはラブを抱きしめた
「ラブ…ごめんね…。怖い思いをさせてしまった…本当にごめん…」
「いいよ…いいんだ…。俺だって貴方に沢山迷惑かけてるんだからさ…」
「ごめん…」
「…いいってば…」
二人の抱擁に割って入って僕は告げた
「もういいだろ?!ラブ、そろそろ店に行かないと」
「…うん…じゃ…テジュン…」
「ありがとうラブ、ギョンジン…」
僕達はテジュンさんに見送られてその場所を後にした
テジュンさんは電話を取り出しながら自分の車に乗り込んだ
イナに…なんと言っているのだろう…
あの人もまた、自分の想いを隠そうとしているのだろうか
そんな気がして堪らない
いいのかよ…そんなんでいいのかよ!
無性に腹が立った
唇を噛みしめていた僕の肩に、ラブの柔らかい髪が触れた
車の中でイナに電話をしながら、ギョンジンとラブの車を見送った
イナに何も言えなかった
ただ今日の約束を守れなかった事を謝り…
僕の脳裡にはあのイナの切ない顔が浮んでは消えていた
辛くなって電話を切った
治まっていた激しい想いがまた溢れ出してくる
どうして…
ああ僕のせいだ
どうしてイナ…
僕がこんな仕事を選んだから
いやだイナ…
僕がヨンナムとお前を会わせたから…
行かないで…
ヨンナムの友達でいてやってと…
あんな不安そうな顔をしていたのに僕は…
僕はイナを…まるで試すように押し出した…
きっと僕は解っていたのだ
ヨンナムにイナを紹介した時から
僕は解っていたのだ
また
ヨンナムのところへ行ってしまうと
ううん…
イナは違う…イナはそんなヤツじゃない…
第一ヨンナムが受け入れないさ
イナは『男』だもの
ヨンナムが『男』を受け入れられるわけがない
浮かんできたその言葉に僕は愕然とした
『不自然だと決めつけているのは誰ですか?そう思っている自分なんです
…自分の心に正直に生きていらっしゃるからだと…僕は思います…
…ただご自分のパートナーが好きなだけ、心から愛しているだけなんです』
あの研修のとき、僕は皆の前でそんな事を言った
『どうして僕を好きになったの?僕は男なのに…』
『…俺だってどうしてだかわかんない…好きになったのがたまたまてじゅで、てじゅはたまたま男だったってだけだ…』
『そうだね、僕だって…好きになったのがたまたまイナだったんだよな…』
僕はイナとそんな話をしていた
なのに…
僕が『男のイナ』を好きになっているのにどうして『ヨンナムには受け入れられない』と決め付ける?
『偽善者』
スヒョク君に祭の時、そう言われた
本当だ
僕は偽善者だ
立派な事を言って、全くその気になっていて
心の奥底にはこんな偏見が潜んでいる…
なんて情けない男なのだろう
イナ…いつも自分に嘘をつかないお前に、こんな嘘を演じさせているのは
「僕のせいだね…ごめん…ごめん…イナ…イナ…」
ハンドルに突っ伏して僕はまた泣いた
『おい、遠慮してるのか?車で寝てるのか?駐車場にいるなら上がって来い。そこで寝る気か?』
6時頃、先輩からの電話を受けた
「あ…すみません…転寝してました…」
嘘を重ねる僕
『デートはどうだった?ん?』
「…はぁ…」
『まぁいいや、ゆっくり聞くから。早く上がって来い。もうそろそろ夕飯だから』
「はい…ありがとうございます…」
嘘を纏った僕は、車から降りて先輩の部屋に向かった
先輩の家に入った途端、僕に仮面が降りてきた
僕は笑顔で奥さんと子供たちに挨拶をし、夕食をごちそうになり、そして子供たちの遊び相手になった
時折ふとイナの顔が過ぎる
じわりと涙が溢れそうになる
子供たちの笑い声でその場に引き戻され
僕は涙を流す事無く過ごせた
風呂にも子供たちと一緒に入った
一人になりたくなかった
僕の仮面は、夜、眠る時まで、僕の顔に貼りついていた
千の想い 36 ぴかろん
店へと向かう車の中で肩に触れるラブの髪にくちづけした
涙が溢れそうになった
「運転、気をつけてよ」
「うるさい…」
「…ふ…。うるさい?」
急ハンドルを切り、路肩に車を停めた
「…なに?」
驚いて僕を見たラブが、さらに驚いた顔になる
それから優しい瞳をして僕の頬に手をあて
流れている涙を拭ってくれた
「泣かないでよ…なんで泣いてるのさ」
「うるさい…」
「ギョンジン」
「…」
「ありがとう…助けてくれて」
「…ぅん…」
「ほんとに…びっくりした…俺パニくってたからさ…」
「…ぅん」
「テジュンの体が車から放り出された時、竜巻でも起こったのかって思っちゃった…」
「…ばか…」
「…。ありがと…」
「…かっこよかったか?」
「怖かったよ…あんた…」
「怖い?」
「怖ろしい顔してたもん…ふふ」
「…」
ちょっと笑った後、ラブは僕の唇に軽くキスをした
「…よかった…ほんとに…ラブ…」
「あれ?乗ってこないの?俺、珍しく誘ってるのに」
「…ラブ…」
様々な想いが入り乱れていて、僕はラブにキスする気持ちになれなかった
ただラブが笑ってここにいてくれることを神様に感謝したかった
スンスンと鼻をすすっていると、ラブが僕の首に腕を回して深く接吻をした
「…もう…あの人の車になんか乗らないで!」
僕は子供のようにだだを捏ねた
今日のテジュンさんが特別変だったっていうだけなのに
「大丈夫だよ。テジュンは本当は優しい人なんだから…」
「いやだ!今日はなんとか間に合ったけど…もし…もしももっと遠くにいたらお前は…今頃…」
「やだな。俺、自分の身ぐらい守れるよ。今日は油断してたから中々体が動かなかっただけでさ…
それに…それにもしも犯されそうになったら俺…舌噛んで死ぬから」
「…」
「だって不本意じゃん!無理矢理なんて…。死んだほうがマシ…」
「お願いだから!」
「ん?」
「死ぬなんて言わないで!」
「…」
「どんなに…どんなに傷つけられても…僕が…僕が必ずお前の傷を癒すから…だから…生きててお願いだから!」
「…ギョンジン…」
「生きていて…僕を好きでなくても構わないから…お願いだから生きていて…それだけでいいから!」
俺が何の気なしに言ったことに、ギョンジンはえらく反応した
顔をくしゃくしゃにして、涙の一杯溜まった目で俺に訴えたその言葉は
今まで受け取ったどの言葉より心に響いた
そうだよね…簡単に「死ぬ」なんて言っちゃいけないんだったよね…
アンタは愛する人の死を何度も見てきたんだ…
ああ…テジュンもそうだったね…
そして俺も…チュニャンを亡くしたんだった…
「ごめんギョンジン…」
「…ラブ…生きていてくれるだけでいい…」
「解った。どんな酷い目にあっても…俺、神様に許される限り、生きてるからさ。安心してよ、ね?」
「ラブ…」
俺達はお互いの体を強く抱き合った
この人に出会えて本当によかった
心が熱くなる
「ギョンジン」
「…ん?」
「俺、頑張って生きるから…アンタ…傍にいてね」
「…ラブ…」
「アンタも…生きていてね」
「ラブ…」
ポロポロ流れ落ちる涙を指で拭ってやった
それから頬を挟んで唇にキス
軽く何度もキスをした
最後に思いっきり愛情を込めたディープなキスをお見舞いし、続きはあとでと言ってやると
ギョンジンはようやくいつもの笑顔を見せてくれた
「くふ…ヤらしい顔だなぁ」
「…なんだよ…」
「その顔も…好きなんだよな、結構」
「…はふん…」
「さ、店に行こう」
「休もう!」
「は?!」
「こんな気持ちで接客なんかできない!今日は休もう!帰って愛を確めあお…」
ばごん☆
思い切り殴ってやった
ギョンジンはぐすんぐすんと言いながら車を動かした
俺は不機嫌なフリをしてずーっとヤツに文句を言い続けた
大好き…
文句言ってないと泣きそうになるんだもん…
大好き…
俺だってすぐに…そうしたいよ…
大好き…
アンタ、へんてこすぎる…
そんなとこが本当に…大好き…
それから僕達は店に出た
ラブがいつものようにそこにいる
でもその体には今日の傷痕が残っている
時々あの場面が思い出されて胸が痛んだ
客が途切れたとき、控え室に行った
ドアを開けると部屋の奥でイナが静かに泣いていた
イナは泣き笑いの顔で僕に今日の事を話した
「…テジュンに…会えなかったよ…。かわりにえへへ…ヨンナムさんと…長い事話した…えへ…何泣いてるんだろうな、俺」
話し出したイナの顔をじっと眺めていた
涙と酔いが混じって潤んだその瞳を見つめていた
ヨンナムさんと話せて嬉しかったか?
テジュンさんに会えなくて寂しかったか?
どうして会えなかったか…教えてやろうか
完璧に気持ちを隠すなんてお前には無理だと、もう一度教えてやろうか
川原に停められた車が
不自然に揺れていた
今日
テジュンさんが
何をしていたか…
センチな気持ちに浸っているお前に全て、教えてやろうか!
僕はイナの前に跪き、その無垢な瞳を覗き込む
僕を疑いもせず、微笑みを作るお前
なんの涙だ?
自分自身への憐れみか?
テジュンさんを傷つけぬように
ヨンナムさんに気付かれぬように
一生懸命自分の気持ちを隠している
自分自身が可哀想か?
拭いてあげるよ…
人の事ばかり考えているお前の
綺麗な涙を…
お前の事は好きだよ
大切な人だ
きっとラブも
今のお前のように
曇りのない瞳で
あの人を見たのだろう
僕の気持ちも知らないで
何があったかも知らないで
「…ギョンジン…俺…」
うるさい
聞きたくない
イナの唇に噛み付いてやった
お前が下手に隠すから…
そんな事するからラブが傷つけられたんだ!
隠すなんてできないくせに
もうバレてるんだよ!わかんないのか!
逃れようとするイナを強く押さえつけ、顎を掴んで無理矢理口の中に入ろうとした
テジュンさん
貴方と同じだ
こんな事をする僕は
…最低…
ふと唇を離した瞬間、イナは静かにやめてくれと呟いた
落ち着いた声だった
イナの額に僕の額をくっつける
ごめん…
お前、ずっと苦しんでるのに…ごめん…
少し尖らせたその唇にそっとキスをする
ごめん…
テジュンさんの気持ち…わかるよ…
最低だな、僕…
お前を傷つけてラブの仇でも討つつもりだったのか?
薄く目を開けたままキスを続けた
お前の事は…好きだよ
お前は…大好きだよ…
なのにどうしてお前を傷つけようとしたのだろう…
イナは誰とキスしているつもりなのだろう
テジュンさん?ヨンナムさん?それとも僕?
僕の舌に応えるイナの舌
僕が噛んだ場所を唇でそっとなぞる
お前の傷は
誰が癒すんだろう
唇を離して額同士をくっつける
いつまでこんな猿芝居を続けるつもり?
可哀想に…
可哀想に…
かける言葉を無理矢理探し出した
「…醒めたか?」
「あ…うん…」
ふ…
醒めない悪夢の中にいるくせに…
ああ…そうか…
二人とも傍に置きたいんだったよな…お前…
欲張りな男だったよな、お前は…
イナを蔑みそうになり、僕は立ち上がって部屋から出た
廊下の先にラブがいた
心配そうな顔をしていた
「…ギョンジン、イナさん、大丈夫?」
ラブを抱きしめた
胸が痛み、腹の奥から熱い塊が込み上げてきた
「どうしたの?ん?」
「…イナに…咬みついちゃった…」
「…なんで」
「憎ったらしくて…」
「…ギョンジン…」
「無邪気な顔して泣いてたからめちゃくちゃ傷つけたくなった…」
「…あんた…」
「テジュンさんの…気持ち…僕…あの人詰る資格なんかない…あの人と僕と…おんなじだ…ラブ…」
「…ギョンジン…」
ラブの腕が僕を包み
耳元に言葉を落とす
「よかった…そういう気持ち解ってくれる人で…」
「え?」
「よかった…」
「…ラブ?」
優しく微笑むラブに
僕は身を委ねた
ラブの微笑が僕の全てを包み込む
全部貴方なんだよと包み込む
それで僕は
今日感じた怒りも、憐れみも、蔑みも、哀しみも、そして喜びも
全て僕なのだと受け入れた
張り詰めていた心が急に緩んで
僕は泣きたくなった
ほんとうにちっぽけだね
なさけなくて、どうにもできなくて、もがいてばかりで
ぼくたちみんな、ほんとうにちっぽけだね
だからかな…
手を差し伸べ合うのは…
ラブ…僕にはお前が必要だ…
でもね
雁字搦めにはしたくない
ただ
幸せであってほしい…
「あ…」
「なぁに?」
「…はぁ…」
「なんだよ…」
突然、テジュンさんの出すであろう答えが解ってしまった
何をしでかすのかは解らないけれど
あの人も僕もただ
愛する人に幸せであってほしいと願っているのだ…
多分イナもラブも同じ気持ちのはずだ…
「なんだよ…どうしたのさ」
「…テジュンさんも、イナも…幸せになってほしい…」
「…ギョンジン…」
僕は初めてテジュンさんの事を思いやった
ラブはまた、僕を抱きしめてくれた
でびる オリーさん
おはようという声がすぐ近くで聞こえた
目を開けるとミンの顔があった
「もう時間か・・」
「そう、起きて」
枕元の時計はまだ6時だった
「まだ時間じゃない」
僕はブランケットを引きずり上げた
それをまた引きずり下げてミンが言った
「おはようだよ。起きて」
僕は不機嫌になった
「もうひと眠りだ」
「だめ。間に合わない」
「何が?」
「とにかく起きて」
「んー、うるさいっ!」
僕はまたブランケットを頭まで引きずり上げた
いきなりミンが僕の上に馬乗りになった
「いいから起きなさい。ヒョンジュ君」
「何だって?」
僕はブランケットを首まで下げた
「さあ、着替えだよ」
「どうして」
「いいから」
「だから何なんだ、ヒョンジュって」
「あの役、演るんでしょ。だったらまず体作りから始めないとね」
「体作り?」
「しぼらなきゃ、ボディを」
「え?」
強引なミンにスポーツウェアに着替えさせられてジムへ連れて行かれた
「運動するのか」
「ジムで酒盛りなんかするわけないでしょ」
「・・・」
「そこに座って」
「ここ?」
「そう。座ったら足を広げて」
「こう?」
「もっと広げて」
「広げてる」
「それで精一杯?」
「・・・」
「前屈してみて」
「こう?」
「違う!前屈だってば」
「してるだろっ!」
「それでかがんでるの・・」
「・・・」
「こりゃ重症だ」
ミンはそう言うと僕の前に座って同じように足を開き
僕の足首の内側に自分の踵を当てた
「あうっ!」
「どう?」
ミンは差し入れた足を使って僕の両足をミシミシと開いている
「い、痛いっ・・」
「我慢できる?」
「で、できる・・いや・・できな・・」
「じゃあこれくらいは?」
「く・・ぅ・・」
「我慢できる?」
「で、できない・・」
「してるじゃない」
「もう・・できない・・」
「じゃこの状態で前屈してみて」
「ふ・・不・・可能・・」
「両手を前に出して」
「両手?」
「そう、早くっ」
「くぅ・・股が裂ける・・」
「いいから僕の方へ両手を出してっ」
「こ、こう・・か・・」
「そう」
僕の両手を握ったミンはその手をゆっくりと引っ張った
「うわっ!やめろっ!!ダメっ!折れるっ!やめろっ!手を放せっ!」
「黙ってっ!息をゆっくりはいて」
「つぅ・・ダメ・・折れる・・」
「いいから息をはいて」
「・・・す・・はぁ・・は・・ぅ・・」
「足をちゃんと伸ばして。膝を上げない」
「む・・無理・・手を放・・せ・・」
「意識して筋を伸ばしてっ!」
「ぎゃ・・う・・」
「そしたらゆっくり10数えて」
「へ・・」
「ゆっくり10数えて」
「1、2、3・・」
「だめっ!早すぎる。もっとゆっくり!」
「4・・・5・・・6、7,8」
「ゆっくり!」
「7・・・8・・・9・・・10」
「オーケー」
ミンがそう言って手を放したとたん、僕は後ろ向きに倒れた
「死ぬぞ」
「これくらいで死なれちゃ困る」
「足がつった」
「いいから、起きて」
「へ・・」
「起きて」
ミンはそう言いながら僕の背後にきた
そして僕を起こすと背中に手を当てた
「いい?膝は真直ぐ伸ばしてつける。曲げちゃだめ。最初は右足の方へ曲げるよ」
「ひ・・」
「息をはいて」
「ふ・・」
「力抜いて」
「ぬ・・いて・・る・・」
「硬いなあ・・はい、次は左足の方。膝を上げちゃだめだってばっ!」
「ぐ・・う・・」
「リラックスして」
「む・・り・・だろ・・ぐっ・・」
「これだけ?もう曲がらないの?」
「は・・ふ・・ぅ・・」
「これはほんのウォーミングアップなんだからね」
「・・・」
「聞いてる?」
「ふ・・にぃ・・」
ウォーミングアップという名目の過激なストレッチが続き
僕の全身に激痛が走り、眩暈がしてきた
「こんなんで根を上げてたら、映画なんて撮れるわけないでしょ」
「・・・」
「ったく、口ばっかりなんだから」
「・・・」
「次っ、筋トレやるよっ!」
「・・・」
「返事は!」
「は・・い・・」
ミンはだんだんイラついてきている
口のきき方がぞんざいになっているのがその証拠だ
顔がきつくなり、体育会系のオーラが体中からめらめらと発散しだした
「ミン・・」
「何?」
「少し休もう」
「何言ってんのっ。始めたばっかでしょっ!」
「・・・」
「はい、そこのマットの上にあおむけに寝て」
「寝ていいの?」
「いいよ、寝て。早くっ!」
「は・・い・・」
マットまで這っていって寝そべった
ミンはすぐさま僕の足を押さえて言った
「はい、腹筋」
「ふ、腹筋?」
「いい、垂直まで体を起こしちゃだめだよ。負荷が軽くなっちゃうから。
その半分の角度でいいから。体を戻すときは・・違うっ!肩をマットにつけないっ!
小さく動いて、すばやくっ!早くっ!もっと!」
「・・・く・・ひぃ・・」
「なんて声出してるの」
「ぐ・・び・・」
「そう、そんな感じ。わかった?」
「ぐ・・ぅ・・」
「じゃ20回を1セットでそれを5セット、いくよっ!」
「100回もっ?」
「計算できるね。はい、余裕あり。スタートっ!」
「ぐ・・ひ・・」
「まだまだっ!あと2セット残ってるっ!」
「んにゅぅ・・」
「意味不明な言葉は吐かないっ!」
「・・ぐる・・じぃ・・」
「はい、あと1セットっ!」
「ぜ・・ろ・・い・・たぃ・・」
「あと5回!」
5セットやっと終えた
ストレッチと過度の腹筋で虐められた僕の体は、腹筋だけでなく全身が麻痺した
口もきけない
仕事に行けるだろうか・・
ミンが横たわっている僕を見下ろしながら言った
「今ので1クール終了。これを5クールね」
「げ・・限界だ・・」
「わかってないな。限界を超えてからが勝負なんだよ」
僕は目の前が暗くなった
「今日は初日だからおまけしてランニングはなしにしてやる」
3クールの腹筋が終わったところで僕は完璧に死んだ
そんな僕を見てミンがやっとあきらめた
「明日からは5クールでランニングも加えるからね」
岩窟王・・
誰かがミンの事をそう呼んでいたのを思い出し絶望的な気分になった
マットの上で痙攣している僕にミンは言った
「シャワー浴びて汗を流してきて。朝食作っておくから」
食事・・
体が少し反応した
そうだ、朝食だ
僕はよろめきながら立ち上がった
それを見てミンはにっこりと笑った
清々しい笑顔
なのに鬼に見える
シャワーを浴びるのにいつもの倍以上時間がかかった
体の節々がきしんだ音をたてている
壊れないだろうか・・
不安になって鏡を覗いた
手足はまだ体についている
よかった・・
きしむ体を引きずってダイニングに向かった
このマンションは広すぎる
なぜリビングがこんなに広い
つっきるのに時間がかかるじゃないか
途中で体がバラバラになったらどうするっ
悲しくもないのにカクカク歩きをしてしまう
やっとダイニングの椅子にたどり着いた
「さっぱりした?はい、ジュース」
待っていたミンがまたにこやかに微笑んでテーブルの上にグラスを置いた
「あ、ありがとう」
出されたオレンジジュースを一気に飲んだ
「げふっ・・な、何だ、これはっ!」
「人参ジュース。他にセロリなんかも入ってる」
「人参とセロリ?」
「バナナも入ってるよ」
「・・・」
「体にいいんだから。はい、ヨーグルト」
「ん・・」
「ジュース、ちゃんと全部飲んで」
「わかった。パンをくれ」
「パンはない」
「え?」
「朝はヨーグルトとジュース。後はこれね」
「何だ、これ」
「トコロテン」
「トコロテン?」
「そう。満腹感が得られる。寒天ダイエットだよ」
「・・・」
「今流行ってるんだ。すごく効くらしい」
「・・・」
グラスをふるふると握りしめ目の前のヨーグルトとトコロテンを見つめた
「このお茶にも粉末の寒天が入ってる。足りなかったら飲んで」
ミンがマグカップを差し出した
「これじゃあ・・昼までもたないだろ・・」
僕は呟いた
その次の瞬間だった
だんっ!!
いきなり大きな音がした
ミンがダイニングテーブルに手の平を叩きつけた音だった
「あのねっ!」
すでに悪魔と化したミンが僕を睨んだ
「わかってるの?何を引き受けたか!」
「それは・・」
「映画の準主役だよっ!」
「脇役その1・・くらい・・だと思うが」
「ネットの記事読んだの?シン監督が素人の新人ふたりを使って何撮るんだろう、
ウナさんの引退作品は大丈夫なんだろうかなんて騒がれてるんだよっ!」
「ああ・・それはまあ、事実だから仕方な・・・」
だんっ!!!
もう一度ミンがテーブルを叩いた
僕はわずかだがびくっと震えてしてしまった
プロフェッショナルな悪魔はそれを見逃さなかった
「ラブシーンがあるってどういうことかわかってるの?」
「悲恋の相手役がむっちりしてちゃ絵になんないでしょっ」
「あなたの体を大勢の人がでっかいスクリーンで見るんだよっ!」
「あのでかいスクリーンだよっ!」
「やるからには完璧にしてよね!100パーセント以上だよ!」
「僕は絶対に我慢できないからっ!」
「何がって、決まってるでしょ!」
「僕の相手がわき腹甘いなんて言われるのは・・」
「僕にとってすごい屈辱なんだ!」
「スヒョンさんとだってバランス取れないでしょっ!」
「わかってるのっ!!」
悪魔はそこまでたたみかけると、すうっと大きく息を吸い込んだ
一呼吸おいて僕をさらに睨みつけると静かに言った
「恥ずかしいマネはさせない。いいね?」
悪魔のあまりの迫力に、僕は思わず頷いていた
「前から気になってはいたんだ、その脇の甘さは」
「2、3キロ落としたって無駄だからね」
「5キロ落とせば顔がシャープになるよ」
「脇の甘さを締めるのはそこからだからね」
「これから2週間で5キロ落とす。わかった?」
「出先では極力低カロリーのものを食べること」
「脂っこいもの、炭水化物は控えること。いいね!」
「ただでトレーナーやってあげるんだからね」
「トレーナーには絶対服従、文句は言わない」
「僕の言うとおりにやれば落ちるから、いいねっ!」
「返事はっ!」
すべてを理解する前に、僕は何度も頷いてしまっていた
アウ・・チっ・・
(替え歌)きびしい悪魔 びょんきちさん
あの人は悪魔 体がカクカクだよ
厳格な悪魔
つり上がった目ん玉で 睨みつけられたら
僕の体は もう動けない
ふたりの影は やがてひとつの
地獄のストレッチ
AH!DEVIL MY SWEET
LITTLE DEVIL UH
きびしい悪魔
Yeah Yeah Good parlinng Doo doo
あの人は悪魔 お腹がペコペコだよ
厳格な悪魔
ニンジン セロリに 寒天ダイエット
おいしいパンは もう食べられない
ふるえる腹筋 100回が毎日
にっくき わき腹
AH!DEVIL MY SWEET
LITTLE DEVILUH
きびしい悪魔
AH!DEVIL MY SWEET
LITTLE DEVILUH
鬼だよ 悪魔
許して 悪魔
人非人 悪魔
チキショウ 悪魔
愛してる 悪魔
(やさしい悪魔/キャンディーズ)
千の想い 37 ぴかろん
眠るときはさすがに一人だ
僕は用意された寝床に入り目を閉じる
追いやっていた想いが一度にどっと流れ込む
喉が詰まり息が出来なくなる
目を閉じて眠ろうとした
閉じた瞼の淵から涙が流れ続けた
言葉にならない叫びが
胸の中であちこちを蹴散らす
そうだ
ずたずたに切り裂かれればいい
どうすればいいのかよく解らない
イナを抱きしめてどこへも行くなと言えばいいのだろうか
今更?
もう遅い…
僕がそう仕向けたくせにまた僕が引き戻すというのか
身勝手な話だ
ならば手放してヨンナムのもとへ行かせてやる?
ヨンナムが受け入れなければ…イナはどうなるんだ…
僕のところへ帰って来るのだろうか…手放した僕のところへ?
解らない
どうしたらいいんだろう…
イナを…自由にしてやれば…
いやだ…いやだいやだイナ…
僕はお前のためにここに来たのにイナ…
それなのにお前は僕を捨てていく?
違う…イナのせいじゃない…ギョンジンの言うとおり僕のせいなのに…
混乱する頭を止められず、僕は枕に突っ伏した
喉から嗚咽が漏れた
「どうした?眠れないのか?」
突然僕の寝ている部屋に入ってきた先輩の声に僕はびくついた
「寂しくて眠れないってかい?ん?」
「…」
「…お前…変だぞ…。ケンカしたのか?」
「…え…ええ…」
ひっくひっくとしゃくり上げながら僕は先輩を見ずに答えた
「ふー…ケンカするほど仲がいいって言うしな。ま、なんか土産でも買ってきてやればいいんじゃないか?」
「…はい…」
ケンカなんか…してないよ先輩
ケンカしてたのは…イナとヨンナムなんだよ先輩
「…違うようだな、テジュン」
「…」
「仕事、大丈夫か?」
「大丈夫です…仕事して忘れます」
イナの事を…忘れる?
「なんだかしらんが囚われるんじゃないぞ」
「…」
「離れて見てみればお前の今の状況がよく見えるってもんだ。いい機会じゃないのかな、済州島行きは…」
「…済州島…イナ…居たんです…昔…」
「…そうか…」
「研修するホテルのカジノに…居たんです…」
「…なんだ…なんで言わないんだよ。協力してもらえたかもしれないのに、お前…」
「…そう…ですね…」
「そういうところを遠慮しすぎるんだな、お前は」
「…遠慮…」
「恋人に対してな…ビジネスの話はしちゃいけないって思い込んでないか?」
「…」
「昔の彼女に対してもそうだった。だから水臭いって言われるんだよテジュン」
「…」
「ビジネスはビジネス、プライベートはプライベート。ちゃんと切り離して考えればいいんだ」
「…切り離して考えてるからあいつに聞くのは…」
「違うだろ。切り離してイナ君とビジネスの話をすればいいんだ」
「…あ…はい…」
「ま、今回の事は仕方ない。明日は打ち合わせとリハーサルだ。明日中に気持ちを立て直せ。出来るな」
「…はい…」
「じゃ…おやすみ」
「おやすみなさい…すみません…」
イナの事を…忘れて…仕事に打ち込まないと…みんなに迷惑をかけてしまう…
今日何度目かの大きなため息をついて、僕は目を瞑った
沸き起こる感情に逆らわず、心に放り出して眺めた
苦しくなったり哀しくなったりした
涙を流したり腹を立てたりした
自分を責め、自分を庇い、そして最後に
イナが好きだということだけを心に留めた
心の波が高すぎて疲れ果てた
僕はゆっくりと眠りに落ちた
翌日、朝早くに先輩の奥さんの運転する車で金浦空港から済州島に渡った
向かった先はイナの勤めていたチュンムンホテルだ
カジノのあるホテルでの接客サービスの研修を僕が企画した
そのテスト的な研修をここで行なう
エントランスを入り、ホールを少し行くとカジノの入り口が見えた
イナがかつて働いていた場所だ…
知らなければ僕は…今頃大はしゃぎでホテルの様子をイナに電話していただろう…
部屋に着いて荷物を仕舞い、イナに電話しようと思った
飛行機の中から雲海を眺めていた時
イナが僕等二人の事を考えて自分の気持ちを押さえていてくれたのだから
僕もそうやってみようかと考えていた
思えば僕は何一つイナのためになる事をしていない
イナの気持ちより自分の気持ちを優先させていた
思いやっているつもりでも、それは僕自身の考えで、イナの気持ちを聞いてした事ではない
今解っていることと言えば、イナが…ヨンナムを…好きだと言う事
そして…その想いを告げずにいると言う事
僕にもヨンナムにも言わずに、僕等二人の間で苦しんでいると言う事…
ヨンナムのところへ行けなんて言えるほど、僕は大人ではない
でも…それに似たような事ならできるかもしれない…
もしかしたらそのままイナとヨンナムがくっつく事だって有り得る
それでも僕には他の方法が思いつかなかった
だからイナに電話しようと…
しようとしてできなかった
普段の僕を装いながら言える内容ではない
冗談めかして言えば、イナも軽い気持ちでそうできるかもしれないけれど
僕にはそんな器用な真似はできない
きっと泣いてしまう
泣いてしまったらイナは僕の気持ちに気づく
メールを打とうと決めた
どんな風に打てばいいのかてんで解らなかった
今すぐ打たなくてもいい
仕事をして、そして考えよう
僕はフリップを閉じた
その時同室の先輩が入ってきた
「テジュン。打ち合わせに来てくれ」
「はい…。先輩、ここにいる間、僕電話にでません」
「は?」
「仕事に没頭したいのでバッテリー外してこの部屋に置いておきますから僕に電話しないでくださいよ」
「…ふ…」
「お願いします」
「わかったよ…さぁ仕事だぞ」
「はい」
携帯電話のバッテリーを外してカバンに仕舞いこんだ
僕は背筋を伸ばして打ち合わせ会場へと向かった
とりあえず、これを頑張ろうと、少し前向きな気持ちで僕は歩き始めた
それからの。 足バンさん
鷹は親鳥に引きずられて中庭に出た
「もうっいいかげんに離してよ!」
「だめだ」
「逃げないってば!腕がちぎれる!」
「騒ぐなよホテル中の客を起こすつもりか」
中ほどのテーブルと椅子が並んでいるところまで来るとようやく開放された
昼間は客が自由に使い雑然としていたアイアンの椅子らは
従業員の手によって整然と美しく並べられている
ドンジュンはその中のひとつを乱暴に引っ張り出してずるりと腰掛けた
スヒョンはいくつか離れた椅子に座り静かに足を組んだ
月の光に彼のジャケットが白く浮かび上がり
少し俯き加減の横顔はいつもと違うように見える
ドンジュンは上目づかいでぼんやりとそのシルエットに見とれていたが
打ち消すように大きなため息をついた
「あーあ…つまんなー」
「さっきあんなにベソかいてたやつが」
「ふん…誰かさんのせいで台無しだもん」
「僕のせいじゃないよ…おまえとっくにバレてたよ」
「うそっ」
「ミンチョルのやつすぐに戻ってきたろ」
「ふん…今さらどうでもいい…オニギツネめ」
「おまえ自覚ないの?酷いことして」
「あんな風になるって思ってなかったもん…ギョンビンのやつ抵抗するって思った」
「わかってないなぁ…人の心ってやつが」
「何よそれ」
「愛するものを待つ人間がどんなに無防備になるかだよ」
「同じ穴のスヒョンさんに言われたくない」
「ふふ…まあね」
「おまえ本気でミンチョルに抱かれるつもりだったの?」
「さぁね」
「あいつはおまえがどうのできる相手じゃないよ」
「ふんっやってみなきゃわからないでしょ」
「おまえって危なっかしいなぁ」
「ね…そんなこと言ってるけどさ…」
「何だよ」
「…ううん…何でもない」
スヒョンさんって案外ミンチョルさんが好きなんじゃないの?
そう言おうとして言葉を飲み込んだ
なぜだかわからないがあまり触れたくない気がした
ドンジュンは立ち上がりホテルと反対方向に歩き出す
「どこに行くんだ…もう部屋に帰りなさいよ」
「お先にどうぞ…どうせ帰ったって眠れやしない」
「そんな薄着じゃ風邪ひくぞ」
「放っておいて」
構わず外灯の下を歩いて行くドンジュンをスヒョンは仕方なく追いかけた
凍てつく静寂の中ふたつの影はつかず離れず歩く
まだ堅いつぼみをつけた樹々の間を縫って白い月が降る
「これ全部桜だ…すごいね…咲いたらみごとだろうな」
「僕の父の田舎もこんなだよ」
「お父さんは今ひとり?」
「うん…自由気ままにやってる」
「今の仕事もう許してくれた?」
「渋々ね」
「本当はまた車の仕事してほしいんでしょ?」
「うん…でも今は…うん…いい…それに…」
「息子は言い出したらきかない?」
「そっ」
「息子がこんなんじゃさぞ心配だろうなぁ」
「上司が不良だからしょうがないよね」
「おまえの恋人はきっと苦労するね」
「スヒョンさんに関係ないでしょ」
「でも不良上司としては監督責任があるし」
「余計なお世話です」
「こんなところまで続いてた桜のトンネル」
「ね…知ってる?桜の花びらが落ちてくる速度」
「ん?」
「秒速50センチ…ぼたん雪とほぼ同じ」
「へぇ」
「でね恋人たちが腕を組んで歩く速度もそんなものなんだってよ」
「…ふふっ…」
「何よ…何がおかしいのさ」
「いや…おまえってよくわかんないやつだと思って」
「失礼なっ」
スヒョンにすっと片腕を取られドンジュンは一瞬ぎょっとした
「こんな速度かな」
「へっ?」
「桜の速度」
「離してよ」
「いいじゃない…さっきあんな情熱的なキスした仲なんだから」
「勝手なこと言うな!ばか上司!」
「このくらい?」
「そんな遅くないよ!そんなんじゃ地面に着くまでに花びらが腐る」
「じゃこれくらい?」
「これくらいでしょ」
「早いよおまえ…それじゃバサバサ音がしそう」
「じゃこんくらいじゃない?」
「おまえさ…」
「何よ」
「恋人と腕組んでムード出して歩いたことないでしょ」
「ふんっやな感じ!」
「ふふ…いい?目を閉じてここが満開の桜の下だと想像してごらん」
「新手のコマシ?」
「いいから…雪のように花が降ってるでしょ?」
「ふん…」
「それを見上げながらゆっくり歩く…ゆっくり」
「…」
「ああ夢みたいな光景だね…なんて話しながらね」
「…」
「ね…こんな感じじゃない?」
「…」
「ん?どうした?」
「さっきは…」
「え?」
「さっきは…ありがと…」
「え?」
「ミンチョルさんのとこで…」
「…」
「いてくれて…よかった…」
「ばか…監督責任だよ」
「うん…」
「本当におまえの恋人は苦労しそう」
「そんなの…」
「”スヒョンさんには関係ないでしょ”?」
「…」
「帰ろう」
「ん…」
スヒョンは伏せたドンジュンの顔をちらりと覗いて肩を抱いた
ふたりは春の準備を急ぐ桜の道をゆっくりと歩く
その歩調が花びらの速度に近いかどうかは
ふたりにはわからなかった
つぎの年の同じ季節がめぐるまで
Sin and Sorrow 3 れいんさん
ミルクパンにたっぷりのミルクを注ぎ、チャイを作る
独特の甘い香りが辺りに漂う
湯気のたつマグカップを差し出すと、彼は両手で包み込み一口啜った
「うん、美味しい」
軽く頷いた後、彼はマグカップを持ったまま、キルトのかかったファブリックソファに腰を下ろした
「展示会、もうすぐですね」
「うん」
「家具デザイナーとして認められるまたとないチャンスです」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。どうせ見に来るのは社長の友人だとか、業界関係者ばかりさ」
「そんな…きっと成功します。テジンさんの才能はきっと認められます」
「あはは。僕の後援会会長はスハに決まりだな」
「ふふっ…あ、ところで…僕に何かお手伝いできる事はありませんか?」
「手伝う事なんて何もないよ。小さなホールでこじんまりやるだけだから」
「でも…」
「そういえば、展示会の受付嬢を手配したと社長が言っていたな。あの社長そういう事には手回しいいからなぁ」
「受付嬢…」
「…何?…妬ける?」
「む…そんなんじゃありません」
「心配なら、その三日間、ずっと僕の傍にいたら?」
「そんな事したら変に思われるでしょう?」
「僕の監視役って言えばいいさ」
「そんな…」
「じゃあ…その時はランチを一緒にどう?僕もスハの顔を見たら元気になれるし」
「わかりました。そうします。あ…テジンさん、もうそろそろ時間じゃないですか?」
その日彼は、展示会の打合せのため、出かける事になっていた
彼は時計をちらりと見た
「そうだね、もう行かなきゃ」
庭に出てガレージまで彼を見送る
「お昼には戻って来れそうにないから先に済ませてて」
「何か差し入れでも持って行きましょうか?」
「いいよ、スハだって忙しいのに」
「でも…」
「店には間に合うようにするよ」
「はい」
車のドアに伸ばしかけた手を下ろし、くるりと彼が向き直った
ふいに腕を取られたせいで、僕は少しよろけてしまった
「おいで…」
「あ…」
彼はそのまま僕を引き寄せ、VOLVOの後部ドアにもたれかかった
「はぁ…行きたくないな」
僕の腰に手を回し、拗ねた様に口を尖らせる彼
「またすぐに会えるでしょ?」
たしなめる様に僕は言う
彼は二、三度頷いて、それからちらりと左右を見やり
少し照れ笑いを浮かべてそっと唇を寄せた
あ…こんなところ…誰かに見られたら…
しっ…いいからじっとして…
啄ばむような軽いキス
触れた唇はすぐに離れ、くすっと彼は笑う
そしてもう一度、さっきよりももっと深い口付け
僕の舌は完全に自由を奪われた
チリリリリ…ン
塀の外を自転車が走り抜けた
僕たちは弾かれた様に身体を離した
自転車の行く先を目で追い、それから顔を見合わせて吹き出した
「続きは後で…」
僕の頬を撫でた手をすっと下ろし、彼は車に乗り込んだ
二人でいる時はそんな風には思わないのに、しんと静まりかえったリビングはなんだか広く感じてしまう
静かな時間を過ごすのは嫌いではないけれど、唇に残る余韻が少しだけ僕を寂しくさせる
冷たい流水で顔を濡らし、鏡の中の僕を覗き込んだ
「何て顔してるんだ、スハ」
濡れた頬をパンと叩いて気を取り直した
そうだ、2階のクローゼット、少し整理しておこう
忙しくしていた方があっという間に時間が過ぎる
トントントンと階段を上り寝室のクローゼットを開けた
彼の春物の衣類を出してみた
見たことのない春色の服
僕がまだ知らない頃の彼
去年の今頃、彼とはこんな風にはなってなかった
厚手の物は手入れをして次の冬までしまっておこう
次の冬も僕は彼とここでこうしているだろうか…
膝に乗せた衣類を見ながらそんな想いが頭をよぎった
近頃こんな事ばかり考えている
どうしたんだ、スハ
これから過ごす冬はずっとずっと彼と一緒に決まっている
その時だった
僕の目はクローゼットの隅に置かれていた物に吸い寄せられた
カラフルな包装紙で包まれた大きな箱
それは大きなリボンで可愛らしく結んであった
誰の為の物なのか、一目でわかった
あの日の、あの時の、あの電話
彼の弾んだ声を思い出した
玩具で遊ぶ無邪気な姿を思い浮かべた
僕の胸は途端に騒ぎ始めた
どんな想いで…これを買ったの?
いつからここにあったの?
なぜこのままにしているの?
喜ぶ顔が見たくて準備したはずなのに…何を躊躇っているの?
あなたの想いも、こんな風にひっそりと心の奥にしまっているの?
僕のせいですね
僕があなたを迷わせている…
僕はそのままずるずるとその場に座り込んだ
見なければよかった…
僕の心がざわざわしている
泣きそうなのに涙も出ないで、ただ胸が痛むだけ
あの人がこれを渡す時、あの人は僕の知らない人になる
あの人がこれを葬ったなら、僕は僕を許せないだろう
愛を知った喜びと、愛を知った苦しみと
いっそ愛など知らない方が幸せだったのかもしれない
ぼんやりと宙を見つめていた僕は
鳴り続ける電話の音に、我に返った
「…はい」
「…スハ君?…わたし」
「あ…」
「わかる?」
「エジュさん」
「元気?」
「ええ、元気です。エジュさんは?」
「うん。元気」
「そちらの生活はどうですか?」
「なんとか楽しくやってるわ。学校と司法事務所のアルバイト…寂しいなんて思う暇もないくらい
その方が色んな事、早く忘れられるでしょ?…なんてね、うふふ」
「え…あ…」
「やだ、冗談よ。…ところでテジンは?」
「あ…今、出かけていて」
「そう」
「帰って来たら電話する様に伝えます」
「ううん、いいの。近いうちに展示会があるって聞いたものだから…
だからちょっと激励のメッセージでも、と思って。
よかったらスハ君から伝えておいて。頑張れって」
「はい…分かりました」
「それじゃ」
「あ、エジュさん」
「え?」
「あの…」
「何?」
「…」
「どうかしたの?スハ君」
「いえ…あの」
「…何かあったのね。話してみて」
「…」
「あいつには言えない事…私にも話せない?」
僕は弱い人間だから
一人で抱えるのが辛すぎて
誰かに話してしまいたかった、僕の心の内を
そして誰かに救ってほしかった
道を見失いそうになってる僕を
エジュさんは黙って話を聞いていた
電話口から小さな溜息が聞こえた
「ごめんなさい…こんな事話してしまって…」
「そんな事はいいの」
「ごめんなさい。忘れて下さい」
「スハ君、いい?余計な事考えちゃダメ。あなたは何も見なかった」
「エジュさん…」
「それを…渡すも渡さないも、それはあいつが決める事。あなたは知らん顔してればいい」
「…」
「もし…あいつがそれを渡さなかったからといって…自分を責めたりしちゃダメよ」
「でも…」
「あいつが…それを渡したとしても…その事で苦しまないで
スハ君の傍でしかあいつは呼吸もできないの。分かっているでしょう?」
「何かあったらいつでも電話して…」
エジュさんの電話口の最後の言葉をぼんやりと聞いていた
僕は曖昧に応えて電話を置いた
フラフラとベッドまで歩き腰かけた
クローゼットの扉は開いたままだ
しまいかけの衣類も無造作に置かれたまま
僕は長い事その箱を見つめていた
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