「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 224
千の想い 132 ぴかろん
僕は、昨日から考えていた事を口にした
「…な…にを…。なんで…そんな事…お前に…」
「イナといると辛くて苦しいんだろ?」
「な…なに…」
「そんなお前を見て、イナも苦しんでる。可哀想だ」
「何をお前」
「イナから何度も別れを切り出したのに、お前はいつも跳ね除けてたらしいな」
「…」
「もう楽にしてやれよ。お前も楽になればいい」
「貴様っ!」
テーブル越しに僕の襟を掴んだテジュンは怒りで真っ赤になっていた
「その想いがさ…」
「貴様っ!なんでっ」
「イナへの想いが暑苦しいんだよ!」
「なにっ」
「暑苦しくて『執着心』ドロドロだ!」
「ヨンナムッ」
テジュンの手が僕の咽元を締め上げる
苦しくて咳込んだ
「お前に何がわかるっ!僕の心の何がっ!」
「はな…せ…」
しっかりとテジュンの目を見つめ、僕の首を締め上げる腕を掴んだ
「離れたくない…ずっと…一緒にいたい…居たいんだ!イナとっ!邪魔するなっ!邪魔するな!」
「僕だってイナと一緒に居たい!」
「!」
「離せよ…手…」
こいつは自分が涙を流していると気付いているのだろうか…
テジュンはブルブルと身を震わせながら僕から手を離した
「…ヨンナム…なんで僕等を掻き乱す…なんでお前はいつも僕の好きな人を好きになるんだっ!いつも…いつもいつもいつもっ!」
「…はあ…」
「そうだろ?!なんでだよ!言えよ!」
「僕が好きになった子とお前がいつの間にか付き合ってたってこともある」
「そんなの」
「過去はどうでもいい」
「今だってそうだ!なんでイナにちょっかい出す!少しだけイナを貸してくれとか言ってたくせに、なんだって?『別れろ』だと?!なんでお前がそんな事を!」
「『別れろ』とは言ってない…お願いしてるだけだよテジュン」
「…つまり…あれか?…お前…そんなに…イ…イナが好きになったって言うのか?」
「…」
イナが『そんなに』好きなのか?
僕は僕自身に問い質した
「そう思い込んでるだけだろう?僕への対抗心で!違うかヨンナム!」
「…そうかもしれない…」
「いつもそうだった…いつも…いつもいつもお前に邪魔されて僕の恋は」
「仕方ないだろ、好きになっちまったんだから…。僕にだってどうしようもなかった事だ」
「イナもか!イナも欲しくなったのか!今までは遠慮してできなかったけど今度はちゃんと奪い取るって気か?!僕が…僕のことが気に入らないから…」
「…そんなんじゃないよ、テジュンただ…」
「ただ何だ!」
「…チャンスが欲しいだけだ…」
「チャンス?!」
「…僕は本当に…イナを好きなんだろうか…。ずっと一緒に居たいんだろうか…。それともお前の言うように、お前が憎らしくてイナを奪い取りたいだけなんだろうか…。確かめるチャンスが欲しいんだ…」
「…」
「それに…お前だって…」
「…。ぼく?」
あちこちにふわふわと目線を飛ばしながらテジュンが答えた
「ぼくが…なんだって?」
「お前だって…本当にイナが好きなのかどうか…一度離れてみたほうがよく解るんじゃないのか?」
「貴様…」
「イナだってそうだ」
「…」
「イナだって…お前とずっと一緒に生きていけるかどうか、確かめてもいいはずだ。こんなドロドロのお前と一生共にするなんて可哀想すぎる」
「…こんな…僕を…立て直したくて必死なんじゃないかっ」
「だから立て直すために…だよ…。そのために一度別れたらどうだって言ってるんだ…」
「…リセットしろって事か?」
「…ああ…」
「ふ…ふはは…ははは」
「テジュン?」
「それで?僕がイナから離れた途端、お前がイナの恋人になるってわけ?ん?彼女の時も、その前も、その前もその前もずっと、そうしたかったんだろ?ヨンナム!」
「…」
「そうなんだろ?」
「そうだよ」
「…」
「お前ときっぱり別れさせて付き合いたかったよ、好きになった人みぃんな…。出来なかったけど…。みんな僕達の間で戸惑ってたから…」
「…」
「イナは…お前に対する気持ちと僕に対する気持ちは違うって言ってた。でもほんとかな?お前と離れてみればきっと…イナ自身の本当の気持ちも、見えてくるんじゃないかな…。僕達のそれぞれの気持ちも…きっとはっきりする」
「イナが僕と『別れたい』と思うなら、あいつがそう言えばいいんだ!あいつは昨日言わなかった!」
「そうだね」
「僕は別れない!絶対あいつから離れない!」
「テジュン、お前はイナが何度別れを切り出しても跳ね除けたんだ。だから今度はお前から言ってやってくれないか」
「い…いやだ…」
「僕は今のお前がイナを大切にしているとは思えない!お前がほんとにイナを好きだなんて思えない!僕に対抗してイナに執着してるだけだ!」
「…執…着…」
「そう…。自由にしていいと言いながら、羽ばたこうとするイナの羽根を一本ずつ抜いてる。包み込んでやるなんて甘い言葉で安心させて、次の瞬間には突き落とす」
「…自由に…してやりたいんだ…包み込んでやりたいんだっほんとうにっ」
「でも出来てない。執着してるからだ。イナは自分のものだって想いが強すぎる」
「…」
「…言いたいことはそれだけだ。後はお前に委ねる」
「…」
「お前はいつだって前を向く奴だ。どんなに傷ついても必ず立ち上がる奴だ。だから信じてる。イナのためを考えてやってくれ」
テジュンは虚ろな瞳で僕を見て言った
「…お前…イナが好きか?」
「…好きだ…」
「…好きだと思い込んでるだけだろう?お前の心を解きほぐしてくれたから…お前を甘えさせてくれるから…お前を慕ってくれるから…だろう?」
「そう…だと思ってた…でもそれだけじゃないかもしれない…」
「なに…」
それは僕の本心だったのかな?
それともこいつへの対抗心だったのかな…
「昨日夕方…イナをBHCに送った」
「聞いたよ。偶然会って『運命の糸』がどうのこうのほざいたらしいな…」
「偶然じゃない」
「…え…」
「偶然じゃない。待ってたんだ、イナが出てくるのを…」
「…」
「会いたかった。お前の事を想って寂しそうにしてたイナの顔が頭から離れなかった。僕に出来ることをしたかった。それだけじゃなく、イナと一緒に居たかった…だから…RRHにイナを送った後、配達に行ってそれから…マンションの周りを何度も回った…」
「…」
「回ってる間に出て行ったかな…なんて思いながら…ドキドキした…楽しかった…。何周かした後、マンションの手前に車を停めて、あと10分して出てこなかったら諦めようって…待ってた…。そしたらイナが出てきた…嬉しかった…『運命』って言葉が閃いた…」
「…そんなの運命じゃない!…お前…イナを騙したんだな…」
「騙してないよ」
「待ってたんじゃないか!さも偶然会ったみたいに言って!何が運命だ!」
「でも『運命は切り拓くもの』って言うだろ?」
「…」
「そんな事しようと思ったのは初めてだった…『運命』って言えないか?」
「…し…らない…」
「イナに…会いたかったんだ…会いたかったんだ…イナに…」
「…やめてくれ…もう…もういい…」
テジュンは虚ろなままフラフラと居間を出て、二階に上がって行った
イナ
僕はやっぱり嘘つきだよね…
お前の後姿があんまり寂しそうだったから
僕はお前をほっとけなかった
笑顔になってほしかった
それが僕の正直な気持ちだったんだ…
眠れなかった
ヨンナムの言葉がリフレインする
別れてくンない?
会いたかったんだ…
運命って言えないか?
ヨンナムはイナに近づいている
イナの中に入り込もうとしている
僕とイナを離れさせて
イナを掴まえようとしている
一度離れてみたらよく解るんじゃないか?
お前の気持ちも、イナの気持ちも、僕の気持ちも…
僕にチャンスをくれないか?
執着…
そう…執着している…
僕の本当の気持ちがよく見えない
解っている
離れたらそれが見えるようになる?
そうかもしれない
でも
その隙に、イナの心にお前が入り込んで
僕がどんなにもがいても求めても
イナは振り向いてくれなくなるんじゃないだろうか…
いや…いや…
もし僕が『別れ』を切り出したとしても
きっとイナは…僕がしたように…僕の申し出を跳ね除ける…
そうだよ
あの祭りの時
僕があいつに『別れよう』って言った時、あいつはおかしくなったんだ
訳がわからなくなるぐらい僕に夢中だったんだ…
ああ…
大丈夫
大丈夫だよ…
もし『別れよう』って言ってもイナは僕に縋りつく
きっと…きっと…
朝まで同じ事を繰り返し考えていた
ヨンナムの言葉が僕の不安を煽った
『イナに…会いたかったんだ…会いたかったんだ…イナに…』
それを振り切ろうと、僕はまた自分に言い聞かせた
大丈夫、大丈夫だと…
千の想い 133 ぴかろん
階下でガタゴトと物音がしたので、僕は起きて下に行った
「…ああ…おはようテジュン…」
僕はいつものように朝の挨拶をする『普通の』ヨンナムの肩を掴み言った
「今日の昼、イナと会いたい」
「…」
ヨンナムは子供のような顔で僕を見た
むかつく
僕はその顔を睨み付けた
「いいよ。お前の申し出、呑み込む」
「…え…」
「イナに…言う…」
「テジュン?…」
そう
僕からイナに『別れ』を告げてやる!
「でも…イナが頷くとは思えない」
「…頷く?」
「僕がアイツに『別れよう』って言ったら『はいそうですかさようなら』って僕の目の前からいなくなるなんて考えられないってことだ!」
イライラして怒鳴った
ヨンナムは僕をじっと見つめてふぅっと息を吐いた
「…自信満々ってわけか…」
「…さぁな…」
「それともやけっぱち?」
「…一か八かって気分だ…」
「…」
ふ…
どっちかっていうと『万が一』って気分だよ、ヨンナム
お前にイナは渡さない
イナは僕に縋りつく
きっと縋りつく…
「朝飯、食うか?」
ヨンナムは平然としている
「…外で食う」
お前の顔なんか見て居たくない
「そ…」
「昼、イナと会うからな…邪魔するな…」
「どこで?」
「どこでもいいだろう!」
怒鳴り散らして背を向け、着の身着のままで早朝の街に出た
気持ちが滾りすぎていて、空腹さえ感じない
イナのマンションまで歩いた
ヨンナムがしたようにマンションの近くでイナが出てくるのを待った
待っている間に先輩に電話した
仕事人間…
こんな時にもちゃんと連絡はするんだ、僕…
もう一日休ませてください
一日で足りるのか?いいぞぉ今暇だからぁなんちゃって
いつもの調子の先輩がありがたい
長い時間待ち続けて漸くイナの姿を確認した
今からcasaに行くのだろう
僕はイナから随分距離を取って、イナの後をつけた
casaに入ったイナを確認し、僕は近くの喫茶店に入った
まるでストーカーだ…
確かに
ヨンナムの言うように
僕はイナに執着している
僕でさえ持て余すやっかいなこの気持ちに
イナはさぞかし閉口しているのだろう…
こんな事をしていると解ったら…
はなれていく
拳で額をトントンと叩いていたら店員が注文を取りに来た
ぼさっとした僕の姿に、店員は少し驚いたようだが、ちゃんとコーヒーを持ってきてくれた
どう切り出そう
なんと言おう
別れたくなんかないのに別れを切り出すなんて
馬鹿馬鹿しい
僕達二人は離れたくなくて苦しさや辛さを乗越えようとしてきたんじゃないか…
なのになんで…
『離れてみればよく解る』
イナが受け入れるはずはない
でももし受け入れたら…
ううん…ううん…まさか…
不安が僕を覆いつくし、居ても立ってもいられなくなった
僕はその店を飛び出しcasaに行った
工房の扉を開け、パンを捏ねているイナの名を呼んだ
テジュンが突然工房に入ってきた
チェミさんも俺も驚いて手を止めた
ぼろぼろのテジュンが俺の腕を掴んで、話がある、話があると繰り返した
尋常でない様子にチェミさんが、今日はいいから行って来いと俺を押し出してくれた
大きな瞳がクルクルと色を変えている
不安定だ…
俺は黙ってテジュンの後ろをついて行った
漢江の川岸に着いた
あの公園に行きたかったけど、早く決着をつけたくてここを選んだ
僕の、嫌な部分が、まだ残っているこの場所を…
焦っていた
うまくやらなければ…
嫌な部分をここで削ぎ落としてしまいたい…
後ろを振り向くとイナの姿が目に飛び込んできた
少し俯いて僕を見ている
「僕が…」
口を開いたのに後の言葉が続かない…
何をどう、伝えるというのだ僕は…
躊躇いながら言葉を探した
「…もう…答え出してるってお前は言った…」
「…うん…」
「これがその答えだと思えない…」
何を言ってるんだ、支離滅裂だ…
「だから…お前は…自分の思う通りに」
そうだ…そうだ…これは僕の考えじゃない
ただヨンナムの言葉に乗ってやっただけなんだ…
この状況をぶち壊すために…
「思う通りにしてくれればいい…」
「…」
「僕と…」
別れてくれ…別れよう…別れてくれないか?
本心じゃないのにどうしてこんな事を言わなきゃいけないんだ!
僕はなんでヨンナムの話に乗ったんだ?!
言わずにおけばまた元通りだ…
僕とやり直そう…僕はもっともっといい人間になる、お前を縛り付けたりしない、必ずお前を優しく包み込む
何をしてもいい、誰を好きになっても構わない、ただ僕の傍に居てくれさえしたら僕は…
そんな事
今まで何度も言った事だ…
『立て直すために…そのために一度別れたらどうだ?…』
この状況をぶち壊すために…
「僕と…イナ…」
「…うん…なに?」
『僕と』じゃない、そうじゃない
「…僕達…」
そう…『僕達』だ…
僕は決意して目を閉じた
「うん…」
「…僕達…」
「なに?」
「別れて…みようか…」
「…」
曖昧な言葉
それでも『別れ』を口にした
きっとイナはショックを受けて泣いている…
泣き顔で僕を見つめて呆然と突っ立っている…
そうだよな?そうだよな?!
そして僕に取り縋ってイヤだと泣き叫ぶんだ
だってイナには僕が…僕が必要なはずだから
「…うん…」
俺はテジュンの言葉に頷いた
そう言われる予感はあった
「…今まで…ありがと…」
こみ上げてくる様々な想いを押さえ、俺は礼を言った
テジュンは閉じていた目を見開いた
また
自分の言葉に
傷ついている…
薄く開いた唇から
小さな声が漏れた
「…なんで…」
「え…」
「なんでっ!なんでだよっ!なんですんなり受け入れるんだよお前!…お前僕が邪魔だったのか?!僕がうっとおしかったのか?!まさかヨンナムと示し合わせて僕にこう言わせたのか?!」
「…テジュン…何言ってるの?…ヨンナムさんが何言ったの?」
頷いたイナに僕は逆上した
ヨンナムに騙されたと、ヨンナムとイナに一杯食わされたと思った
それ程までにこの二人は結びついていたのかと勝手な想像が駆け巡る
嫉妬する僕はマグマのように燃えながらイナを襲う
でもイナはきょとんとした顔で僕を見つめていた
僕は呼吸を整えてイナに聞いた
声が震えたに違いない
「…僕…別れようって言ったんだよ…解ってる?」
「…うん…」
「…」
イナは落ち着いた声で返事をした
ふいに周りが見えなくなった
誰かに足を強く引かれ、僕は透明な器に沈められる
ゆっくりとずぶずぶと
その中に身を沈めていく
器には液体でもなく固体でもない透明なゲルがとろとろと溜まっている
その中程に僕の足や腰や胸が寝かされ、抵抗もできずに頭まで浸る
僕は標本のようにゲルの中を漂う物体になる
ぼやけた視界の先にイナの顔が見える
あどけない顔で不思議そうに僕を見つめている
僕の足を引っ張っていた男が、ゲルの中からするりと抜け出し
子供のようなイナを抱きしめている
あれは僕じゃないか…
いや、あれはヨンナムだ…
これはヨンナムの罠
これはヨンナムの罠
かかってはいけない
イナ…その男に騙されてはいけない
声を出そうとしても出せない
どうして頷く?どうして受け入れる?
僕は器の外の二人に猛烈な怒りを感じた
『…僕を…捨てる?…こんな風に?…』
怖ろしい声が僕の体の中で響き渡る
睨み付けている僕に、イナは一歩近づいて言った
「…お前…苦しそうだもん…俺なんかといるとダメになっちゃうよ…。前から解ってたことなんだ…ごめんね、俺がもっと早くに消えていればよかった…」
いやだ…
何言ってるんだ
「今までありがとう…これでお前…楽になれる…俺の事なんか気にせずに好きなことやれる…だろ?」
いやだ…
イナ…
お前の目に涙が溢れてる
お前だってイヤなんだろ?僕と別れたくなんかないんだろ?イナ…
シミュレーター それから れいんさん
誰もいない閉店後の店内
つい先ほどまでの喧騒は虚構の世界だったのかと思うほど
薄明かりのフロアはひっそりと静まり返り
もしかすると闇の中に、獲物を狙う何者かが息を殺して潜んでいるのではないかとさえ
有り得ないはずの不安に襲われそうになる
遣り残した事があるからと、店の鍵を預かり
四方に散らばり帰還して行く男達の後姿を、ドアにもたれて見送ったのはほんの少し前
僕はすっと呼吸を整え黒い革の手袋をはめた
手の甲に吸い付く革の感触がひんやりと心地良く
心なしか緊張が高まる
・・と
出だしはこんなもんで
ハードボイルド小説みたくキマッタかな・・
そのままハードボイルドを続けてるのもしんどいからここらでブレイク
今、僕が何をしようとしているのか
そう、ハードボイルドにする必要は何もない
皆が帰った後、企画書をこっそり探す
ただそれだけの事だ
ホンピョの奴は、働きすぎて腹が減ったから何か食って帰ると
ジュンホさんと連れ立って帰っていった
パッピンスは時期的にないかもしれないから諦めろと言ったのに
どうしても食いたい
夏の思い出に食いたい
食いたいったら食いたい
と駄々を捏ねてきかなかった
腹を壊しても知らないからな
看病なんてゴメンだぞ
気を取り直し、フロアを抜け通路のフットライトを頼りに事務所までそろそろと進む
電気を点ければ済む事なのに
ムード作りの為と電気代の節約の為に、敢えてそうした
僕は形から入るのが好きだ
事務所の扉手前の壁にぴたりと張り付き、目を凝らし耳をそば立てる
頭の中ではスパイ映画のあの曲がぐるぐるとリピートし続け
誰もいないのをいい事に、気分だけは思う存分盛り上がった
扉の取っ手に手をかけた
ガチャリ・・
事務所の扉は開いてた
店の鍵をかけてしまえば、事務所にまで鍵をかける必要はないのだし
当然といえば当然だけど
簡単すぎてちょっと拍子抜け
ハナから無理な話だけど
できる事なら黒づくめの衣装でツツツと天井から華麗に侵入し
鮮やかな手口で任務完了したかった
実をいうと僕は、一度でいいからスパイの経験をしてみたいと密かに思っていたわけで
サイレンサー付き銃だとか、ペン型小型爆弾とか
そんなスパイグッズにも興味津々だったのだ
ギョンビンさんやギョンジンさんは諜報部員の経歴があるらしい
華麗なスパイ活動も過去には経験済みなのだろうな
ああ、羨ますぃ・・
そんな事をボヤいたところでアレなので
僕は扉の隙間から素早く体を滑り込ませた
あの企画書、いくら探しても僕の部屋にはなかったから、多分事務所にあると思う
チーフのデスク周辺が一番怪すぃ・・いや、怪しい
デスク後方の書棚をざっと見渡してみた
売上表、顧客名簿、注文表、原価計算表、メンバー身上調査表・・
そう記された背表紙のファイルがきちんと並んでいる
鍵付きのガラス戸の中に保管されているから手に取る事はできないし、手に取る必要もない
僕が探しているのは企画書なのだから
あ・・もしかしたら
あの時、ちゃんとした企画書として提出していなかったから
ただの原案という事でデスクの引き出しの中に紛れ込んでいるのではないだろうか
僕はチーフのデスクをじっとと見つめた
おそるおそる引き出しに手をかけた
・・ダメだ!
勝手に引き出しを開けるなんて・・
でも・・もしかしたら・・この中にあるかもしれない
ターゲットは企画書のみ・・
ただそれを見つけるだけの事なんだから・・
酷く悪い事をしてる様で(実際そうだが)プルプルと手が震えた
こんな事なら最初から「企画書はどこにありますか」と聞けばよかった
皆に気づかれる前に仕上げてしまおう、だなんて姑息な考えを持った事・・
今更ながら後悔した
しかしもうここまできたのだから、何としても今日中にアレを見つけて完成させなくては
そう言い聞かせ、ちょっと気弱になった自分を奮い立たせた
「失礼いたします。少しだけ拝見させて頂きます」
気休めに誰にともなくそう呟き、遠慮がちに引き出しを引いた
あ・・!
開かない・・
鍵が・・鍵がかかってる・・
そうか・・そうだよな・・
大事な物が入ってるんだ
鍵かけるのは当然だ
僕は何て間抜けなんだ
どうしてそこまで考えなかった・・
急に力が抜けてきてそのままがっくりとうな垂れたその時
「・・よぉ」
「ひっ!」
部屋に響いたその声に、口から心臓が飛び出すかってくらい驚いた
「何してんだ。情けない面して」
「ホ、ホンピョ!」
得意の睨み目線上目遣いでホンピョが扉に凭れ掛かってた
なぜここに?
いつからいたんだ?
「ドンヒ、おまえ・・ホ○トに行き詰まってとうとう泥棒に転職かよ」
「何を言う!人聞きの悪い!おまえ帰ったんじゃなかったのか?」
「んあ?帰ったけど戻って来た」
「なんで!パッピンスはどうした!」
「あーーやっぱなかった」
だから言っただろーが!
夏は終わったって!
「他に食べる物なかったのか?腹減ってたんだろ?」
「あん?財布をな、忘れたっつーか、財布の中身を忘れたっつーか」
「なんだそれは!」
「よーするに、俺の懐はびゅうびゅう秋風吹いてたからよ、おまえの懐具合はどーかなってな」
「・・ジュンホさんは?」
「あーー奥さんに電話入れたら叱られたとかって」
「どうして?」
「寄り道しないで真っ直ぐ帰れだとさ」
「・・あ、そう・・」
ったく!子供かよ!ジュンホさん!
「でさ、だからさ、おまえ何やってたんだよ」
泥棒などと誤解されては(誤解されても仕方ないが)甚だ心外だ
本当はこいつにも内緒にしておきたかったのだけど
背に腹は変えられない
なので僕はかくかくしかじかとホンピョに訳を話した
「あーーそうーゆーこと。ふぅん。んなの、もっと早くにこの俺に相談すればいいのによ」
おまえには最後まで相談したくなかったんだよ!
と心の中で叫んだが口には出さなかった
と、ホンピョはジーンズのポケットから何やらゴソゴソと
先っぽが怪し気な角度に曲がっている細い金属みたいなものを取り出し
チーフのデスクの鍵穴に差し込みちょいちょいと弄くった
クチャクチャガムを噛みながら片手でちょいちょい、だ
引き出しだってこんなふざけた態度の奴には開けられたくないだろう
と、思ったのも束の間
カチャ・・
「ほらよ」
目にも留まらぬ速さだった
こいつ!今、何をどうやったんだ!
なんでそう手際がいいんだ!
でもって何でピッキングの道具なんて所持している!
「ホンピョ!おまえっ!普段からそういう事やってんのかっ」
「あんだよ。馬鹿言うな。やろうと思えばやれるけどな、俺はもう綺麗さっぱり足洗ったんだ」
「本当だろうな!」
「何怒ってんだ。だいたいおまえ怒れる立場かよ」
確かに、仰る通り、明らかに僕は怒れる立場ではなく
今回ばかりは、ホンピョに借りができたワケで
それもかなり形勢不利な模様で
口惜しいが何も反論できない
なので、今は取り急ぎ引き出しの中を見る事にした
「さすがチーフだな。ばっちり整理整頓」
「そりゃおまえとは違うだろうさ」
「お?この綺麗な宝石箱みたいなのは何だ?」
「ば、馬鹿!よせ!開けるなよ・・あっ」
「なんだ?この鍵の束は・・いったいどこの鍵だ?」
「あ・・金庫の鍵とか書棚の鍵とか・・チーフともなれば、あるだろ色々」
「そっかぁ?過去の女達に次々に部屋の合鍵渡されたとかじゃねえのか?」
「やめろよもう。ほら、この引き出しにはアレはなさそうだから次の引き出しを」
「へぇへぇ。次の引き出しね、っと・・おぉ?写真?」
「こら!勝手にゴソゴソ触るなよっ」
「なーんだ。メンバー全員の記念写真じゃねえか。」
「あ・・ホントだ。これいつ撮った写真だろうな」
「なんかさ・・この写真、やけに元チーフにピントが合ってないか?」
「気のせいだろ?さっ、ここにもなさそうだ。次、次」
「あっ!メンバー全員の評価表と給料明細・・」
「あ・・」
「・・なぁ、これ・・チラっとだけ見たくねえか?」
「うぅ・・やめとこう。落ち込むだけだ。僕は企画書が見つかればいいんだから」
「ふぅん。気の小せぇ奴。そんなんじゃ立派な泥棒になれねえぞ」
「そんなものなりたくもない」
「あ・・これ何だ?什器備品資料・・」
「あっ・・貸してみろ」
「・・それか?」
「あったあった。これだこれ。こんなところにあったのかぁ。いやぁ探したぞ!企画書君!」
「ふぅん・・。良かったじゃねえか。見つかって」
「さぁ、これさえ見つかればもういい。帰るか、ホンピョ」
「あんだよ。まさか真っ直ぐ家に帰るつもりじゃねえだろーな」
「真っ直ぐ帰るに決まってるだろ。早く企画書完成させなきゃ」
「いちいち面白みのない男だな。俺はおまえに協力してあんな重労働してやったってのによ。」
「どこが重労働だよ。ちょいちょいと指先動かしただけだろうが」
「俺はおまえのせいで犯罪に手を染めてしまった」
「そんな大げさな。だいいちおまえは既に前科持ちだろうが」
「ちっ。まったく人の道ってもんを知らねえ奴だな」
だから、おまえに人の道云々言われたくないっての!
「あーあ、腹減ったなーー」
恩着せがましい上に厚かましい奴・・
「あーあ。良心が痛むから、明日チーフにバラしちゃおっかなーー」
今度は僕を脅すのかっ
実行犯はおまえだろうがっ
しかも僕は一言もおまえに頼んでなんかいないのに
はっ!あぅぅっ!
またそんな目で僕を見る・・
その目に弱いって知っててわざとやってるんだな?
「くっそぉ・・わかったよ!食べて帰るよ!それでいいんだろ?それで!」
「へへっ。ドンヒの奢りなっ。」
痛い代償を払う元となった因縁の企画書を
僕は大事にバックに仕舞い込み
家に帰って早く仕事を片付けたいにも拘らず
実行犯であるはずのホンピョになぜか飯を奢る羽目になり(しかもあいつは遠慮なく注文しまくる!)
結果、僕の懐にもびゅうびゅうと容赦なく秋風が吹いたのであった
千の想い 134 ぴかろん
動けない
声が出ない
何もできない
視界はぼやけたまんまだ
違う
僕の本心じゃない
これは
これはヨンナムが…
ヨンナムのせいで
『また人のせいにする』
『だってさぁ!ヨンナムの野郎が…』
『そのヨンナムを呼んだの、貴方でしょ?んもう、私は二人っきりでって言ったのに!』
『だぁって…なんかほっとけなくて…』
『人のせいにしないで。自分で決めたことでしょ?』
…
ここはあの公園じゃないのに…
なぜ君が出てくるの?
ヨンナムを悪く言ったから?
君はいつもヨンナムを庇ったよね
うん
解ってた…
君がヨンナムに会いたいと思ってる気持ち
僕
感じてた
君が気づいてなくても…
でも
でもさ
これって…
これって僕のせいなの?!
『売り言葉に買い言葉』だ、アイツがあんな事言うから僕…僕イナに…
取り返しのつかない言葉…
取り消せない…
そんなことない
今すぐウソだって言えば
冗談だよって笑えばイナは…
できない
言えない
笑えない
ヨンナムのせいじゃない
僕が決めたんだ
そう言おうと決めたんだ
なんで…
イナが涙を溜めた瞳で僕を見つめる
口元に優しい微笑みを湛えて
僕から去っていくの?
寂しそうな笑顔を残して…
行かないで!
彼女みたいなそんな顔して
僕の許を去らないで!
イナが僕に背を向けて
一歩ずつ遠ざかって行く
いやだ
いやだいやだ
いやだイナ!
どうして僕は動けないのだろう
イナ
イナ
イナ…
僕から数十歩離れたイナが立ち止まり僕を振り向く
ああ
よかった
僕の声
届いたんだ
僕の体はギシギシと動き、溢れ出した涙が表情を崩す
僕は両腕を必死で広げ、帰ってきたイナを抱きしめる準備をする
微笑みながら『嘘だよ』と言おう
もう絶対お前を離さない
絶対にお前を悲しませない
本心なんだ…
うまくできないだけなんだ…
傍にいて
いつかできるようになるから
お願いだ…そう言うんだ
ああ一歩ずつ
また僕のところに
イナが戻ってきてくれた…
怖かったよ…行ってしまうのかと思ってた…
「忘れてた」
イナは微笑んで僕の前で立ち止まった
立ち止まらなくていい!僕の胸に飛び込めばいい!
いつものように僕を好きだと言って…
傍にいてねって言って…
イナ…
「これ…返さなきゃな…」
イナは自分の胸に手を当てた
そして苦しそうな顔をして、涙を堪えながら、胸にある『何か』をもぎ取った
震える拳がそっと僕の胸に触れ指がゆっくりと開かれる
掌を僕の胸に押し当て、イナは辛そうな顔で目を閉じた
唾を飲み込み、祈るように俯いて
それから突然掌を外した
「俺の心にあった…お前の根っこ…返したから…これでお前…繋がったから…もう…大丈夫だから…」
泣くまいと声を震わせながら
イナが一言ずつ言った
そして
また
背を向けて
僕から
去って行った…
テジュンに『根っこ』、返したから
だから大丈夫だ
テジュンはもう大丈夫だ…
俺の中に根っこなんかあったから
テジュンは混乱して苦しんで辛そうだったんだ…
もう大丈夫だからテジュン
俺、もう…邪魔しないから…
好きだった
大好きだったんだテジュン
邪険にされても疎まれてもお前の傍に居たいと思ってた
でも
お前が苦しいなら
苦しくて堪らないなら
俺がうろちょろしてちゃいけないとも思ってた
祭の時からずっと感じてた
一緒にいてもいいのかって
やっぱり俺、幸せから逃げ出してしまう
だって…いくら俺が幸せでも…テジュンが幸せじゃなきゃ意味ないんだもん…
ごめんね
たくさん苦しめた
たくさん悩ませて仕事まで辞めさせた…
ごめんね…
ラブとのこと、いつまでも拘って些細なことで嫉妬して…
ごめんね…お前が一番嫌がってることして…
…ヨンナムさんを…好きになって…ごめんね…
別れを切り出される予感はあった
多分こんなにすんなり俺が受け入れるとは思ってなかったんだろう
でもテジュン…
もう苦しませたくない…
俺の事なんか考えなくていいから
楽になってね…
俺ももう…
お前を…
お前を好きでいなくてもいいんだ…
体の奥から痛みと切なさとが広がった
顔を覆って泣きながら歩いた
もう
お前を
好きでいなくても
いいんだ…
テジュンを追い続けた日々が俺の体を駆け抜けて行く
お前を想い続けなくていいんだ…
涙が
痛みが
切なさが
ふうっと体から抜けて行く
俺は
誰を好きになってもいいんだ…
ごくりと唾を飲み込み
そっと目を開ける
堤防の向こうの街並みと
青い空が見える
世界は変わらずにそこにある
テジュンはまだ俺の後ろにいる
振り返ればやり直せるんだろうか
また新たに出会えるんだろうか
もう一度唾を飲み込み前に歩き出す
振り返らずに進んで行く
俺はひとりぼっちだ…
追いかければ
縋りつけば
イナはまた僕の許へ戻ってくる
抱きしめて離さなければ
きっと僕と共に生きて行ってくれる
でも僕が切り出した
僕が『別れよう』と言った…
その言葉に縛られ、僕は動けずにいた
『間違えることだってあるわよ!そんなに怒らなくてもいいじゃない』
『じゃ、僕が間違えたときも寛大な心で接してくれる?』
『私はいつも寛大ですっ!』
『そぉかなぁ…』
『そうよ!』
『…そうだね…』
…そうよ…
間違えたんだ、僕
だから行かないで
重い体を引き摺って漸く一歩踏み出せた
イナに追いつきたい
イナに追いつかなくては
僕の体がイナへの想いで動き始めた
見失わないようにその背中を追い
そして見た
イナの行く先に
ヨンナムがいた
僕は再びゲルの中に沈み込む
もう遅い
僕達は
別れたのだ
早朝の配達の時、RRHの近くを通った
テジュンがぼんやりと突っ立っていた
イナを待っているのだろう…こんな朝早くから…
BHC近くの取引先に水を運んでいたら、テジュンがその店に入ってきた
次の配達場所に向かおうとトラックを動かした時、テジュンがcasaに飛び込んで行くのを見た
取り乱している
僕は永久に別れろと言ったわけではない…
アイツは…自分自身に囚われている…
そんなにイナが好きなのか…
好きすぎて抉れている…
人を好きになるとそんな風に狂ってしまうのか?テジュン…
その後すぐにイナとテジュンがcasaから出てきた
二人のまわりに黒い靄がかかっている
邪魔をしてはいけない
そう思いながらアイツの行きそうな場所を考えた
配達を終え、漢江沿いに車を走らせた
やはりここか…なんでワンパターンなんだよお前は…
傷つくとここ、楽しいとあそこってさ、なぁんか決まったトコに行きたくなるんだよな、それも一人で…
んでぇ、その想いを噛みしめてぇ、十分味わって自分のものにするの…
そうするとなんか一回り大きくなれるような気がしてさ…
そんなお前を掻き回すのはいつも僕…だったのかな…
今もそう…
僕は河川敷の二人を見ていた
こんがらがっている僕達を
なんとかして解きたい
僕の、お前の、イナの
真っ芯はなんだ?
棘や蔓や葉っぱや花や
そんなものを取り除いた本当の気持ちはなんだ?
僕はそれが知りたい
テジュン
イナを間に置くのはイヤだ
どちらとも対等でいたいんだ
トラックに凭れて突っ立っていると
イナが一人で歩いてきた
俯いて泣いている
テジュンは茫然としている
二人は…別れたのだ…
イナに本当の事を言わなければ…
テジュンが別れを切り出したのは
僕がそうしてくれと頼んだからだと…
そしてもう一つ…正直に言いたい事がある…
すぐ傍までイナがやって来た
強張った涙顔
僕は助手席のドアを開けた
どうして?
なんでこんな時に貴方はそこにいるの?
堤防沿いにトラックを停めてヨンナムさんが俺を見ている
俺は吸い寄せられるようにそこまで歩いていく
彼は黙って助手席のドアを開けた
俺はドアを見つめてそこで立ち止まった
ヨンナムさんは小首を傾げて俺を見た
俺は彼を見ずに聞いた
「なんで居るの?」
「…」
「また『偶然』?」
ヨンナムさんは俺に近づき、俺を車に押し込んだ
ここに乗り込んでいいのかどうか解らなかった
テジュンが悲しむ
いや…
もういいんだ…
瞬時に掻き消される想い
ヨンナムさんが乗り込み、エンジンをかけた
「…どこへ…」行くの?と聞こうとした
「シートベルト」
「…」
動かずにいるとヨンナムさんが俺に覆いかぶさるようにしてシートベルトを引っ張り出した
ヨンナムさんの顔が目の前にあった
同じ顔…違う人…この人を好きになっても…いいんだ…もう…
ベルトを締めてやりながら、窓の外のテジュンを見た
僕があんなに『枯れさせて』しまったのか?
逸らした視線の先にイナの顔があった
ほろりと頬を伝う涙を
僕は唇で掬いに行った
…は…
聞こえないほど小さな吐息
次々と滴り落ちる涙の元に
僕はそっと口づける
…は…
涙と一緒に頬を滑り降りて
僕の唇はその吐息の元に触れる
…は…ふ…
吐息が嗚咽に変わり
僕は震える唇を啄ばむ
テジュンを思いやることを忘れた
訪問者 オリーさん
目の前のテーブルに、ドーナッツが大盛りにされた皿が置かれた
テプンさんのためだ
「ジャム入りだろうな?」
「もちろん」
皿を持ってきたウシクさんが答えた
テプンさんは満足そうにニッと笑った
リクエストしたお客さんも満足気に微笑を浮かべた
僕は今テプンさんのヘルプに入っている
お客さんはテプンさんと軽い会話を楽しんだ後
ドーナッツ一口食いをリクエストした
「あなたもやってみせて」
お客の一人が僕を見つめた
お口のサイズはそんなに変わらないみたい、と
「奥行きが違いますけど・・」
「遠慮するな。お前も行け」
テプンさんが僕の首根っこを掴んだ
その時ウシクさんが戻ってきて、僕の耳元で囁いた
「ギョンビン、指名入ったよ」
「僕にですか?」
「そう」
「わかりました。テプンさん、指名入ったみたいなんで」
「よっし、じゃあこれをたいらげてからな」
テプンさんは僕の首根っこを押さえたまま、ドーナツを僕の口に押し込んだ
突然呼吸困難に陥った僕はしばらく口の中のドーナツと格闘した
「結構お前の口も奥行きあるじゃねえか」
むせている僕にテプンさんが言った
お客さんもほんとほんと、と言って手をたたいた
「ども・・」
僕は口のまわりの粉砂糖を紙ナプキンでぬぐって立ち上がった
「すみません、失礼します」
「おお」
テプンさんが軽く片手を上げた
「終わったらまた戻ってきてね」
お客の一人が僕に声をかけてくれた
僕は礼をして席を後にした
歩きだすとウシクさんが近寄ってきてまた囁いた
「バーにいる」
「あ、ども」
バーカウンターの方を見ると
スツールに腰掛けているスーツ姿の後姿が目に飛び込んできた
片足をスツールの足元に置き、もう片方の足を軽く床につけているその後姿は
どこから見てもさまになっている
カウンターバーの片隅に目立つ事なく沈むことなくさりげなく座れる人
らしいな、と僕は心の中でつぶやいた
「さっそく来てくれたんですか」
僕は言葉をかけ、その客の隣に座った
その人はゆっくりと僕を振り返った
「やあ・・」
「店に来てくれるとは思っていませんでした」
「もしかして男性はお断りなのかな?」
「それは大丈夫です。来てくれる人がお客様ですから」
「ならよかった。ではちょっと胸を張ろう」
「気にしないでください。大歓迎です」
「食事の約束はしたが、店に来てくれとは言われなかったのでちょっと心配だった」
「先生の方で店に来るのは気が進まないかと思って」
「そんなことはない。昨日君に会ったせいか、急に人恋しくなってね」
その人、ワインバーグ先生はそう言うとグラスを一気に空けた
「何を飲まれているんですか?」
「さあ、そちらにおススメを聞いたらこれを出してくれた」
先生はそう言ってカウンターの中のソクさんに目をやった
ソクさんが僕にウィンクした
そして気どった口調で言った
「焼酎のオンザロックにライムを絞りこんだソクスペシャルでございます。いかがです?」
「さっぱりしていて飲みやすい。おかわりを」
「じゃ、僕も同じのを」
「ラジャー!」
ソクさんが慣れた手つきでソクスペシャルを作り、僕らの前に置いた
「じゃあ改めて乾杯だ」
そう言って先生はグラスのひとつを僕の目の前に滑らせ、
自分のグラスを持ち上げて微笑んだ
「どう?ソクスペシャルのお味は」
ソクさんが僕たちに聞いた
「うん、美味しいです。でもこれソクスペシャルって名前だとは知らなかったな」
「ふふん、僕が作れば、何でもソクスペシャルなのさ」
「え・・」
「さっきあっちのお客様に水割り出したんだけど、それもソクスペシャル」
「はい?」
その時、ソクさんの後ろからひょいとスヒョクさんが顔を出した
「ソクさん、またわけのわからないこと言ってません?」
「あれ?、スヒョク、どうしてここへ?」
「何でもスペシャルって言って出してるんじゃないかと思って偵察に来ました」
「そんなあ・・」
「水割りもカクテルもみいーーんなソクスペシャルじゃないですかっ」
「だってチュニルさんが特色を出せって・・」
「それはそういう意味じゃありませんよっ!」
「違うの?わ、わかった!んじゃあソヒョクスペシャルにしよう」
「ソヒョクスペシャル?」
「ソクとスヒョク、二人の愛の結晶っつうことで・・」
「ソクさんっ、営業なのに何ニヤけたこと言ってるんですかっ」
「あうん・・スヒョクお客様の前で叱らないで。でもいいネーミングだろ?」
「舌噛みそうです。でもチュニルさんが言ってるのはそういうことじゃないんですっ」
「だめ?」
「めっ!」
「あうっ、そんな目で睨まないでぇ・・」
「ギョンビン、ちょっと失礼。っとそれは単に焼酎のオンザロック、ライム入りだからね」
「あ、了解です」
「じゃあごゆっくり。ほらソクさん、ちょっとっ!」
「あう・・スヒョク、でも、もう一回めっ!ってしてみて・・」
「うりゃっ!」
二人の様子を見て僕と先生はくすくす笑った
「楽しいね」
「そうですね」
「いい店だ、雰囲気でわかる」
先生はそう言って、件のソクスペシャルを口に運んだ
「ところで、今日あの人は?」
「あの人・・」
「君の・・」
「ああ、彼は今日は休みです。ちょっと他の仕事があって」
「他の仕事?」
「CMに音楽つけてるんです。今日は徹夜になるとか」
「CM?」
「ええ」
僕はCMと映画のことを先生に話した
セーターのCMが映画とタイアップになってること、
その映画の主演がスヒョンさんで彼も出ることになってること、
そして・・・僕とドンジュンさんが歌を歌うことも少し・・
先生はゆったりと頬杖をついて僕の話を聞いていた
カウンターのほの暗い空間
ソグさんがこだわってアレンジした和紙の間接照明が
先生の片方の顔を柔らかく映し出している
その端正な顔立ちと穏やかな視線になぜか心が安らぎ
僕は思いのほか雄弁になっている自分に気づいた
そんな時、突然僕と先生の間にひとつの影が割って入り
聞き慣れた声が響いた
「先生、ひさしぶりぃ。僕のこと覚えてるぅ?」
言うが早いか、ラブ君が先生の首に巻きついていた
「確かラブ君・・だったね」
先生はラブ君に言った
「やったぁ、憶えていてくれたんだぁ。うれしっ!」
ラブ君は先生の頬にキスをした
ああ、兄さんが見ていなければいいけど、と思った瞬間
先生の向こう側に黒い影が立った
あちゃ・・
「けほんっ、。お久しぶりです。ギョンビンの兄のギョンジンですけほんっ」
「ああ、ミン君のお兄さん・・クリスマス以来ですね」
「何よぉ、もう来たの?」
「もうって・・来なければどうするつもりだったのさっ!ほっぺたちゅーなんか・・けほんっ」
「何したっていいだろ。ねぇ先生、僕ねさぁ、おじさまキラーって言われてるの。今度指名してね。ちゅっ!」
「ああっ!ラブ様っ・・もといラブ、お客さまに勝手にちゅうなんか連発して・・けふっ・・」
「先生みたいな渋い人ならいつでも大歓迎だから、ねっ!」
先生はラブ君と兄さんを交互に見つめ楽しそうに微笑んだ後
ラブ君に巻きつかれている腕を取り上げ
まっすぐラブ君をみつめるとその手の甲に唇を押し当てた
「次回はぜひつきあってもらおう。君となら僕も大歓迎だ」
兄さんがカチンと固まるのが見えた
「その時はギョンビン、ヘルプに入ってよねぇ」
ラブ君は僕に軽くウインクした
それから兄さんに向かって言った
「あんたもさっさとご挨拶すませたら?」
その時初めて僕は気づいた
ラブ君は兄さんをここへ呼び寄せるために来たのだと
ラブ君はひらりとその場を去り、兄さんだけが残された
兄さんは先生の隣に腰掛けた
「けほっ、失礼しました・・」
「いえ、相変わらず仲がいいですね」
「ぐふ・・じゃなくて、はい、おかげさまで」
「兄さん、少し落ち着いてよ」
「落ち着いてるよっ」
「そうは見えないっ」
「お前はうるさいっ」
「これは・・・・兄弟もまた仲がいい」
先生が笑い、僕は照れて下を向いた
けれど
次に口を開いた兄さんの言葉に僕は思わず顔を上げた
「仲がいいかどうかわかりませんが・・こいつはたった一人の僕の弟です」
兄さんが低いけれどよく通る声ではっきりと言った
僕の胸がどきんと音を立てた
先生が真顔で兄さんを振り返り、見つめ返した兄さんの目には強い光が灯っていた
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