ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 229

千の想い 152   ぴかろん

テジュンの会社は多分この辺り…
ミンチョルさんの昔の会社のビル近くだと聞いていた
その、目立つビルの手前で俺はタクシーを降りた

新村…
さてと…目指すビルがどこにあるのか皆目わからない
大体この辺りなんて俺のテリトリーじゃねぇもんな…
でもまぁいいや…
テジュンに会えなかったとしても…いいや…
ちょっと面白そうな店なんか見つけてフラフラしよう
そうだ。テジュンがもう少し元気になった時のこと考えて素敵な店を見つけておこう
そこでこっそり会って、ご飯なんか食ったりして…

いいよね…

イナさんと別れたんだもん
あのバカはギョンビンで頭がいっぱいだもん…

いいよね…

俺はその街をふらついた
面白そうな店に片っ端から首を突っ込んだ
オシャレな洋服なんか見つけちゃって、つい買っちゃった

テジュンに似合いそうな、白地にパステルカラーの太目の縞のシャツと…あのバカが選びそうもないショッキングピンクのシャツ…

紙袋に目をやって、あのバカがけひーんこんなのいやーん…なんていう姿を想像する

「くひひっ」

…意外と似合うんだ…あのバカ…

「かっこいいからな…ふ…」

当初の目的を忘れて、俺はショッピングを楽しんでる
たまには一人ってのもいいな
うっとおしいバカがくっついてると、行動範囲が限られるし♪
鼻歌を歌いながらウィンドウを覗きこむ
なんの変哲もないシャツに気を惹かれる

シンプルな黒いシャツ…
イナさんに似合いそう…

ウィンドウに貼り付き、サングラスをずらしてそのシャツを見た

イナさんに…
って…俺が買ってやる必要なんかないよな!

シャツから視線を外した
ウィンドウに何かが写っていた

…貴方に関しては…俺も鋭いのかもしれない

振り向いて、道を挟んだ向こう側の路地に佇んでいるテジュンを確かめた

…会えるなんて…
…やっぱり俺、貴方を…

タバコを咥えてライターをカチリカチリと弄くっているテジュンを
俺は見失わないように
そして車に撥ねられないように気をつけながら
道路を渡った

「…テジュン…」

はっとして顔を上げたテジュンは、俺を見て驚いていた


イナと同じ顔が…いや…ラブが目の前にいた
サングラスを額に上げて、可愛い顔で微笑んでいる
なんで…ここに…同じ顔がいる…
咥えていたタバコを外して、僕はぼんやりとラブを見つめた

「テジュン、会社は?まだ?どこのホテルに泊まるの?うちから通えばいいのに。あっそうだ、これ、テジュンに似合うかなとおもっ…」

つらつらとよく動く唇。タバコを挟んだ手でメッシュの頭を引き寄せ、その唇を塞いだ
…イナとヨンナムのキス…
頭に浮んでいたのはその絵だった


テジュンにいきなりキスされた
無精髭が痛い
何が見えてるの?この…哀しい色の瞳に…


何をやってるんだ僕は…
気付いて唇を離す
タバコを咥えなおしてライターを擦る

「テジュン…どうしたの?なんでこんなとこで突っ立ってるのさ…。ご飯食べた?顔色よくないよ」

…うるさい…
喋るな!
カチ…カチ…カチ…
火が点かない!

「ね…ね…どっかでご飯いっしょに食べよう」

カチ…カチ…
火が点かない

「…テジュン…」

うるさいっ!


テジュンは咥えていたタバコをイライラと道に投げ捨て、俺の腕を乱暴に掴んで歩き出した

「テジュン!テジュンってば!待ってよテジュン!どこへ行くんだよ!」

その路地沿いの安宿に、俺は引きずり込まれる
テジュンは一言も喋らない

「テジュン…テジュンってば…」
「ご休憩ですか?」

フロントにいる男がテジュンに尋ねる
めんどくさそうに頷いて、テジュンはポケットからくしゃくしゃの紙幣を出す

「…テジュン?」

鍵を貰い、また俺をぐいぐいと引っ張って行く

「待ってよテジュン、俺、俺こんな…テジュン待ってよ!」
「うるさい!」
「…」

大きな声ではなかった
でも俺は竦んだ
睨まれて怒鳴られた
その瞳が俺を通り越していた…
テジュン…貴方…

引っ張られるまま俺はテジュンの後ろを着いて行った
部屋に入るとすぐにまたキスされた
イヤじゃなかった…ううん…こうしたかった…
俺は手に持っていた紙袋をバサバサと床に落として、テジュンの首に腕を巻きつけた


千の想い 153   ぴかろん



何を…僕は…こんな…

部屋に入ってラブを壁に押し付けキスをした
ラブの手が僕の髪を優しく撫でている
こんな僕を…

唇を離してすまないと謝った
部屋の中に入り、安っぽいベッドの淵に腰掛ける
ラブは戸口に落とした紙袋を拾って僕の前に跪いた

「何しに来た…」
「…テジュンが気になって…」
「メモなんか残さなきゃよかったかな…」
「…」
「何で僕が気になるの?大丈夫だよ。明日からちゃんと仕事に行く…先輩に挨拶もしてきた」
「…ほんと?」
「…ああ」
「ウチから通えばいいのに…」
「…これ以上居られない…」
「そんなの構わないのに」
「迷惑かけるとかそんなんじゃない」
「…え?」
「そのツラ見るのがイヤなんだ」
「…え…」

酷い言い方だ
人を傷つけて楽しいのか?

「どういう…俺が…嫌いってこと?」
「お前がじゃない。その『面』がイヤなだけ」
「…」
「お前んちにいたら、お前とギョンジンと…同じ顔見てなきゃなんない。堪らない…。…同じ顔に挟まれて眠るなんて、もう耐えられない…だから出てきたんだ」
「…同じ顔…イナさんとって意味?」
「…」

そう…
イナと同じ顔なんて…見たくない…見たくもない…ああ…


「昨日までは大丈夫だったのに?」
「…うるさい…」
「昨日まではちゃんと違う顔に見えたんだろ?何かあった?車取りに行った時、casaの辺りでイナさんに会った?」
「うるさい」
「…元に…戻りたいんじゃないの?だったら言えばいいじゃない。やり直そうって」
「うるさい!」


煽ってる
俺はテジュンを怒らせようとしてる
それでテジュンが俺を襲うんじゃないかと期待してるんだ…
そんな事までしてテジュンが欲しい?
そうじゃない…テジュンに立ち直ってほしいんだ
俺はテジュンの横に座り、テジュンの顔を覗き込みながら言った

「ねぇ…せっかく会えたんだからさ、遊びに行こうよ。ね?イナさんに執着しないで…ね?」
「…遊ぶ?」
「仕事は明日からでしょ?だから今日はどっかに遊びに…あ…」


うるさい男をベッドに押し倒す
腕を押さえつけて見下ろしてやる

「遊ぶ?こういう遊び?」
「…」
「イヤか?」
「…べつに…」

僕はもう一度ラブの唇を奪う
苦い…
イナ…

*****

パンを捏ね終え、発酵を待つ間、チェミさんと話をした

「爽顔さんは遠慮したか?」
「だっから…チェミさんの迫力にタジタジだっつの」
「そんな怖い顔はしておらん」
「笑ってないと怖いから」
「むぅ」
「むぅってすると余計怖いから」
「…」
「ごめんね…心配かけて…」
「いや…まぁ…な…うん…」
「…」
「あれだ」
「ん?」
「パンの焼き上がりをだな」
「うん」
「見に来んのか?あの人は」
「は?」
「その…爽顔さんは見に来んのかなと…」

照れ笑いしながらチェミさんが言った

「昨日あーんな風に追い返したのによく言うよ」
「…お…俺は別に…爽顔さんを追い返したわけではない」
「俺を非情にも追い返したじゃん」
「謝っただろうがっ」
「…昨日…」
「ん」
「あんな事言ったくせに…」
「…」
「そんな事よく言うよ…」

『忘れられんのだ…』
テジュンの…優しい顔…
俺達三人の…思い出…

「けほ…。前向きに考えたと言っただろう」
「…」
「なんだ!師匠に文句あるのか!」
「…見たいんだろ…ヨンナムさんがどんな反応するか…」
「…。まぁ…」
「比べないでよね…テジュンと…」
「…おお…」
「同じ顔だけど全然違う人なんだから」
「…おお…」

発酵が終わって成型をして、焼きに入る前にヨンナムさんに電話をした
俺も心の中で、ヨンナムさんの反応を見たいと思っていた…

「30分以内にここに着くといいことがある」
『…今からご新規さんの店にセッティングと説明なんだよ』
「え?ゴシンキ?」
『新しい取引先。しかもここからそこまで15分はかかると思う…僕、安全運転だから…。30分以内は無理だよ…ごめん…』
「ふん!」
『ごめんって。なるべく早く行くから』
「…ふふ…。いいよ。わかった。今日でなくても構わないから。気をつけて来てね」
『うん。なるべく早く行くよ』
「うん」

電話を切ってチェミさんに「だって」と言うと「なにが!」と凄まれた

「『だって』だけで解るか!ばかもの!」
「盗聴してんじゃねぇのぉ?」
「ぶぁっかこの…お前の電話なんぞ盗聴するかっ!」
「え?興味なぁい?」
「ないわっ!」
「きひひ…。とにかく、仕事中でちっと離れたとこにいるから、焼き上がりには無理みたい。でもなるべく早く来るってさ」
「はじめっからそう言え!」

チェミさんのグーを頭に貰った

*****

ご新規さんにミネラル・ウォーターの装置のセットをしようとしていた
イナからの電話
なんだろう、いい事って…
飛んで行きたいけど無理だしなぁ…仕方ない
表通りにトラックを停め、装置やらなにやらを裏口から運び込む
あとは水のボトルを…
トラックの荷台に上ってボトルを下ろしかけたとき、キンッと針が刺すような妙な感覚を覚えた
その店の裏手の方から大きな声がした

「…!…!…ュンまっ…」

テジュン?

空耳かと思いながら、気になって覗いてみた
テジュン…
ラブ…くん…

路地沿いの宿に…テジュンとラブ君が…

二人の姿がそこに消えた
頭の中が真っ白になった
僕は我に返り、そこに走る
テジュンが…ラブ君の腕を引っ張り奥へ進んで行く
声を出すこともできず、戸惑いながらトラックに戻った

「お兄さん、ほっぽらかしかね」
「あ…す…すみません…今…」

ご新規さんが僕を睨む
慌てて店に入り、仕事をした
説明しながらも今の光景が気になって仕方なかった
…なんで…こんなとこに…
宿…ラブ君と?…会社は?…どうして…

時々ぼんやりとする僕を、ご新規さんは訝しげに見つめている

「あ…ああ…すみません…」
「アンタ信用して大丈夫なのかねぇ…ぼーっとしてぇ」
「は…さっきちょっと知り合いを見たような気がして」
「知り合い?」
「…人違いだと思います…」
「はぁん、裏のラブ○に入ってった?」
「…は…」
「穴場っちゃ穴場よ、こんな街中の路地裏だからなぁ。不倫かぁ?」
「…は…はぁ…いや…。多分人違いです…」

しどろもどろになりながら、後の説明を終え、そこを出た
もう一度二人が消えた宿の入り口まで行ってみた
何を…する…つもりで…

考えて急に顔がほてった
急いでトラックに戻り、casaを目指した
イナの電話から1時間は経っていた

*****

キスしながら泣いている…テジュンの心が…
これ以上の事はできないだろう…
俺はテジュンの背中を撫でた
テジュンは唇を外して肩を震わせていた
落ち着くまで抱きしめていた

幾分穏やかになったテジュンに買ったシャツをあててみた

「やっぱ似合うよテジュン」
「…派手…」
「明るい色着てたら気持ちも明るくなるよ…ね?」
「…ごめん…」
「なにが」
「ごめん…こんなこと…またお前に…」
「テジュン。俺はなんとも思ってない。俺に当り散らしてくれて嬉しいくらいだよ」
「…ラブ…」
「ふ…テジュンはすっぐにこーゆー風に発散しようとするからなぁ」
「…」
「俺じゃなきゃ訴えられてるよ」
「…ごめん…」
「いいの!謝らないで!…俺、貴方のために何かしたいから」
「…こんなの…」
「こんなでもどんなでも…貴方が元気になれる手伝いしたいの!ね?」
「ラブ…」
「えへへ。惚れた?」
「…。前から惚れてるよ…」
「ぅふ」
「…あの時から僕…お前が好きだよ…ずっと…」
「…俺…も…」

俺はテジュンの唇に吸い寄せられる
優しくキスをする
軽く…軽く…そっと…

「…ギョンジンが怒る」
「泣くかな」
「コロされる…」
「大丈夫」
「…ラブ…。僕に構うな。お前を傷つけてしまう…」
「傷?」
「…イナが忘れられない…」
「…うん…」
「うんって」
「知ってる。解ってる」
「…」
「なんかあった?」

テジュンは俺から目を逸らし、躊躇っていた
唇を噛みしめた後、言った

「…イナとヨンナム…寝たと思う…」
「…。え…。まさか…」
「casaに送ってきてた、ヨンナム。…朝っぱらから…キスしてた…」
「…マンションに迎えに行って送ってきただけだろ?それに…イナさんとキスはセットになってるじゃんさ」

わざと明るく言ってみた。けど…
テジュンは首を横に振る

「ヨンナムんちに荷物取りに行った時…見た…イナが泊まった形跡があった…」
「…テジュンの…部屋に?」
「…違う…居間…」
「…。と…まった…だけだろ?」

はぁっとため息をついてテジュンは項垂れた

「…イナはヨンナムが好きなんだぜ…」
「だって!だってヨンナムさんちにはテジュンが帰って来るかもしれないってのに?寝るわけないよ!」

大体、なんでイナさん、こんな時にヨンナムさんちに泊まったりするのさ!ひどい!

「ヨンナムは僕の行動パターン、よく知ってるから…帰らないって解ってたと思う…」
「…。そ…んな…こと…ないよ…何もしてないよ…」
「…」
「…だから?だからテジュンも、ちょうどいい具合にやって来た俺と寝ちゃおうって思った?」
「…酷いよな…ごめん…」
「…。酷いのはイナさんだ…」
「…」

テジュンは固く目を瞑った
俺は唇を噛みしめた
酷いよ…テジュンが可哀想…

「もうよそうよ…ね、ほら…これ…着てみなよ」
「…ラブ…」
「そんで髪の毛切りにいかなきゃ、ね?」

気分を変えてあげたい…
貴方のためなら俺…なんだって…

「…僕を…慰めてくれる?」
「…え…」
「…抱きしめてくれる?それだけでいい…」
「…うん…」

俺はテジュンをそっと抱きしめた
テジュンは俺の胸に凭れて泣き出した

「我慢しなくていいよ。いっぱい泣いていいよテジュン」

もっと…何かしてあげたい…
抑えていた涙が溢れ出し、テジュンは嗚咽を漏らしている

「もっと泣いていいよテジュン。安心して泣いていいよ」
「…う…うあぁぁ…」

テジュンは俺の胸で思いっきり泣いた
長い間泣いて、疲れて眠ってしまった
子供みたい
俺のピンクのシャツにも気付かない…
そんなに心がイナさんでいっぱい?

あいつの心はギョンビンでいっぱい…
テジュンの心はイナさんでいっぱい…
俺は?
俺の心は?


訪問者5   オリーさん

ミンチョルは・・・今日は遅刻じゃなくて・・・休みなんだね・・・

柔らかい声が何度も何度も頭の中で繰り返し聞こえる
その度、その声に反応した君が短い瞬きをする・
ほんの一瞬の短い瞬き・・
真直ぐ強い視線を持つ君がほんの一瞬目を閉じる

リワインド・ストップ・プレイ・リワインド・・・
お気に入りの映画の、その中でも一番好きなシーン
それを何度も何度も戻して見るように
私の中でその映像は繰り返し流れる
ゆっくりとした速度で

あのチーフのなめらかに動く唇
それに呼応して閉じられる君の瞼
再び開く君の瞼
瞳には複雑な色が浮かんでいる
ほんのわずかな恐れの色
ほんのわずかな反発の色

その声の主に
その声で
その名前を呼んでほしくない

ミンチョルは・・・ミンチョルは・・・ミンチョルは・・・

君のささやかな拒絶の証
私しか気づいていないであろう君のそのしぐさ
もしかしたら君自身も気づいていないかもしれない
目の前でグラスを両手に包み込んで微笑んでいる君を見ながら
私はそんなことを考えていた

滞在しているホテルのバーの片隅
窓際のボックス席に私達は向き合って座っている
窓の外はモウソウルの美しい夜景
時折その夜景に視線を送る君の横顔は
さらに美しい

スコッチを一口づつ丁寧に飲みながら
君はいつもより饒舌になっている
お兄さんのこと、韓国の習慣、店の仲間たち、
色々な話をしてくれる
私は笑いながらそれを聞き、君の話に相槌を打つ
頭の中であの場面をリフレインさせながら

ミンチョルは・・・ミンチョルは・・・

君が突然目を伏せて、そして揺れる視線を投げかける
そんな幻影が目の前の君とだぶりそうになって
思わずスコッチを喉に流し込んだ

あのチーフと話したとき、映画の筋を訪ねたとき、
君はわずかではあるが普段の君と違う姿を見せた
その姿を私のレーダーはキャッチしてしまった
心の分析を生業としてきた職業病とでも言えるだろうか
相手が君だったからだろうか
どちらとも言える

チーフとあの人とはどういう関係?
そんな陳腐な質問をしてはいけない
私がそのことに気づいたことを
知らせてはいけない
知られてもいけない

「スヒョンさんといったかな、あの彼が映画に出るきっかけな何だったのかな」
かわりに私はありふれた質問をする
「以前、ホストクラブが集まって大掛かりなイベントをやったんです。
監督がその時のビデオをどこかで見て抜擢したと聞いています」
そつのない君の答
「なるほど。確かに彼は独特の雰囲気がある。とても魅力的だ」
ちょっと意地悪に振ってみる
「そう思いますか?」
正直な君の瞳にまた不安の影がまたひとつ落ちた

「そうですね、確かにスヒョンさんは魅力的です」
君は窓の外の夜景に視線を飛ばす
「あの人はとても魅力があって、包容力があって、何でも包み込める・・」
何でも・・
誰でも・・
あの彼さえも・・
君はそれを恐れている

「君も魅力的だよ」
どさくさに紛れて本音を言っておこう
だが次の瞬間、私は君の率直な問いに苦笑することになる
「僕に魅力がありますか?」
そこが魅力だ
そう言いたいところをこらえて違う話をする
「あるよ、大ありだ。さっきからカウンターの女性が君ばかり見ている」
「え・・」。
君はふとカウンターに目をやる
ほら、右端のボディラインのくっきりとしたワインレッドのドレスを着ている女性」
ちょうど君を気にしていたその女性と目が合い、君はあわてて視線を戻す
「どうだい、君にぞっこんだ」

君は信じられないという顔をする
「あの女性は私達が入って来たときからずっと君を見ている」
「先生を見ているじゃないんですか?」
「最初はそう思ったんだがね、観察していたら残念なことに君の方だった」
「観察してたんですか?」
君は驚いたような呆れたような顔をする
「観察は得意だからね」
君は苦笑いをする

そう、私は観察は得意だ
だから・・わかってしまう・・
君の微妙な心の揺れが

君のまっすぐな姿勢が崩れそうになるとき
どうしようもない波の中に放り込まれたとき
踏みこたえようとする君と
飲み込まれそうになる君
狭間で揺れる君は、この上なく魅力的に輝く
私はおかしな人間なのかもしれない

ストーンヘンジでの初めてのくちづけを思い出した

抗おうとする君の体と応えようとする君の思考
ためらっている君の唇をゆっくりとふさぎ
怯えている舌を時間をかけて愛撫した
君はくずおれてしまいそうな体を必死で支えていた
私の肩先を固く掴んで・・
震えている君の唇と肩先に残る君の指先の感触は・・・
今でも忘れられない
本当に君に堕ちたのはあの時なのかもしれない

「やっぱり先生じゃないですか?」
「え?」
君の声で我にかえった

「あの女性が見てるのは、先生ですよ」
「そうかな?」
「僕も観察しました。絶対先生ですよ」
「・・・」
「座席の関係で僕の方を先に見てしまうけど、その後先生の方を見てます」
「確かか?」
「僕も観察得意ですから」
「なるほど、じゃあ出るときには腕を組んで出よう」
「腕を組んで?」
「さりげなく断る一番の方法だ」
君はクスクス笑った
その笑顔も私は気に入っているんだよ

ふいに君の携帯が鳴る
またお兄さんだろうか

君は体を横にして携帯を握りしめる
「うん。どうしてるの?」
「仮眠は取れるの?ならいいけど」
「スヒョンさんには言っておいた」
「明日も? そんなに徹夜して大丈夫なの?」
「わかった、言っておく」
「え?僕?さあね、今デート中だから」
「ほんとだよ。相手は秘密・・」
君はおどけた声を出して初めて私を振り返った

君の瞳に光が灯っている
彼だね

「着替え届けようか?」
「あ、そう。じゃあ無理しないで、切るよ」
君はフリップを閉じながら軽いため息をつく

「仕事が好きみたいです」
「仕事好きな人間に悪い人はいない」
「でも無神経な人はいます」
「彼は無神経なの?」
「あ、鈍感かな」
「鈍感?」
「いえ、何でもないです」
君は心底楽しそうに笑う
君の笑顔はすべて一つのことに捧げられているのだと思い知る

カウンターの女性には二人で同時に会釈してからバーを出た
ロビーまで降り、タクシーに乗るという君と一緒にさらに正面玄関を出た

「遅くまでつきあってもらってありがとう」
「いえ、楽しかったです。また店にも来てください」
「お兄さんが心配するね」
「何回も来ていただければ慣れると思います」
「慣れる・・か」
「ちょっと変ですね・・すみません」
「いや、じゃあ慣れてもらおうか」
君はまた照れ笑いをした

最後に思い切って右手を出してみた
君はすかさずその手を握りしめた
「先生、今夜は本当にありがとうございました」
「それはこちらの台詞だ」
私も右手に力をこめた
君の手の暖かさが私の冷たい手に心地よく伝わってきた
その感触をずっと楽しんでいたい衝動を抑え、君を離した

タクシーに乗り込む前に君は手を上げて合図した
私は小さく頷いた

君を乗せたタクシーは見る間に夜の街角へ吸い込まれていった
とたんに体が冷気に包まれる
急いで回転ドアにすべりこみ部屋に戻った

部屋の窓からもう一度君が消えて行った道を見下ろす
その道はまっすぐに伸び、やがて都市の夜景つながる
それをじっと見つめていた君の横顔
君はなぜ今夜私を誘ったのかわかっているのだろうか

そこまで考えたとき、窓の向こうにまたあの場面が浮かび上がる

ミンチョルは・・休みなんだね・・

チーフの魅力的な唇
閉じられる君の瞼
そしてわずかに曇る君の瞳

突然あの時の君の彼の姿を思い出した

ひっそりと静まり返った夜の病院のロビー
鋭角的に響く靴音
私の挑発に立ち止まる彼
凛として振り返った姿
激情を抑えこもうと葛藤する美しい顔
そして冷たく鮮やかに切り返したあの一言

ミンはどんなに汚されても決して傷つかない
僕の大事な宝石ですから・・

私を圧倒したあの言葉

確かに、あなたの宝石は誰も傷つけることができない
でもたった一人だけ、それができる人がいる
そう世界にたった一人だけ・・・

それが誰だかわかっていますね
私は幻の彼に向かって聞いてみた
だが答を聞くことはできなかった

窓の外には、相変わらずきらびやかな夜景が広がっていた


千の想い 155 ぴかろん

*****

夕方、BHCにイナを送り届け、夜迎えにくるからと念を押し、家に帰った
洗濯物を取り込み、簡単な夕飯を作り、食べた
今日はイナはここには来ないから…布団を奥の部屋に仕舞おうと居間に行った
電話の傍を通ったとき、キンッと針が刺すような…昼間と同じ妙な感覚に襲われた
ふと目をやった棚の上のメモに…丸みを帯びた文字が書かれている

テジュンの…字…
来た…
ここに…

やっぱり配達中に…

メモに目を通す僕
会社近くのホテル…
会社…新村…ご新規さんの店…
あれはテジュン
でもあれは…会社からは少し離れてるし…
違うよ…見間違いだよ…そうだよ…

キン…

ここに…入って…この布団を見た?
僕があいつを追い詰めたから?
布団を見て…
それで?
ラブ君と?
まさか…違うよ…

じゃああの感覚は何…
それが『テジュン』を感じ取る僕の…

違う違うと心で繰り返しながら、僕は布団に突っ伏し、イナの香りに包まれながら『あの二人』に蓋をした…

*****

ちょっと早めの出勤…
バカはRRHかな?何してるんだろう…ギョンビンに会えたのかなぁ…
店の舞台では、ウシクさんとイヌ先生のパフォーマンスの練習
いつもの光景
なんか言い争ってるなぁ
ウシクさんが舞台に四つんばいになって何事か吼えまくってる
イヌせんせいは物差をかざしながら静かに諭している
ウシクさんはがっくり項垂れ、ぐしんぐしん泣き出した
せんせいが一歩近づきウシクさんの顔を覗き込む
罠にかかったせんせいは、猛獣のウシクさんにがっつりと食べられている
…幸せそう…

テジュン…
俺、どうなってもよかったのにな…

はぁぁ…


その日の開店間際、店に来たイナさんを軽く睨んでやった
何か聞きたそうな顔をしているイナさんを無視して、俺はバカを探した
バカは…ずっとギョンビンの近くをうろついていた…

はぁ…
どうなっても…よかったのに…テジュン…

*****

店に入って行くと、ラブがいた
いつも傍にいるはずのギョンジンがいない
テジュンはラブの家に居るんだ…
元気になったかどうか聞きたかった
勇気を出してラブに一歩近づいた
振り返ったラブは、途端に眉根を寄せた
『きらい』
…嫌いだよな…俺のこと…
気持ちが萎んで、何も聞けなかった

*****

お店でやっとギョンビンに会えた
だれとどこでなにをしてどうなってかんそうをきかせてくださいっ(@_@;)と僕は口走った
自分でもとっ散らかっていると思った
ギョンビンは、昔僕が教えてあげた『蔑視』を上手に再現した

ぐさーん…(;_;)
無言よ、無言…酷いわっ(;_;)

おまえおにいちゃんはとってもしんぱいでしんぱいでしんぱいでっ
おまえあんなこざいくまでしちゃってひどいわっ

「…小細工?」

みそちょるちゃんとぱでぃちゃんが…あっ!しまったっ!(@_@;)

「ふぅん…僕達の寝室に入ったの?」

あ…う…だっておにいちゃんしんぱいでしんぱいでしんぱいでっあっギョンビン(@_@;)

つれないわ
つりめのおとうと
つらすぎる
むごんよむごん
むごいしうちよ

まあっ(@_@;)僕ってこんなときにもサリゲに才能あるんじゃないの?(@_@;)
僕の心は『プラスマイナス』を行き来するメトロノームのようにカックンカックン振れまくった

*****

夜の配達の時間になった
夕方閉じた蓋に、鍵をかけて出かけた
Casaと『オールイン』とBHC
順番どおり、水を届ける
チェミさんは、僕の顔を見た途端、相好を崩した

「んふふ…」
「…はい?」
「いや…んふふ」
「なんでしょうか…」
「いやいや」ペシン☆
「あいうっ!」

ニコニコ顔のチェミさん…初めて見た…が、水をセットしている僕のオシリを軽く叩いた

「な…なんなんでしょうかっ…」
「このケツが…なぁ…」
「…は…」
「いやぁくひひん」

ニコニコ顔からすけべー顔になり、当てていた掌でくるん◎と円を描く

「ひいいっ!」
「ふむ…感度良好…」
「ちぇみぃぃぃっ!(;_;)」
「う…」
「ててててすさんっ…」

どこから現れたのか、派手派手柄の有り得ないシャツを着たテスさんがチェミさんに取り付いた
いつもとなんか雰囲気違う…。派手派手シャツのせいか…

「チェミのぶぁがっ!(;_;)なんでヨンナムさんのオシリ撫でまわすんだよっ!きいい」

テスさんはチェミさんのほっぺたを両側にムニイイと広げた

「ひゅまんっちゅいっ」
「ついじゃないもんっきいいっ!」
「確認だ確認」
「なんのさっ!」
「そうですよ…なんの確認…」
「『未開発』かどうか…」
「「は?」」
「あ…げほっ…ぐほほ…」
「…あの…僕…失礼します…」
「あぉ…気にしないでくれたまえ。冗談だから」
「…は…い…」

ぎくしゃくしながらcasaを出た

「ちぇみ!『気にしないでくれたまえ』って何が『たまえ』なのさっ!何が未開発で何が確認なのさっ!ぶぅぅ」
「あのだな。イナが今日作ったパンの感触をだな…あいてててっ抓るな抓るなっ…だから…今日のイナのパンの感触と一緒かどうかあいてててっ」
「ンなの、チェミが知らなくてもいい事でしょーがっ!きいいっ」
「すまんっすまぁぁんっ」

外まで聞こえる痴話喧嘩…
『イナが今日作ったパン』の『感触と一緒』?
僕のケツが?(@_@;)

どういう意味だ…
イナにケツは触らせてないぞっ

…未開発…

…『触ってないから未開発』って、そういう意味か…な…?
ったく…あやかしいったらありゃしない…

Casaで和んだ後、『オールイン』にも水を届けた
チュニルさんがにこやかに迎えてくれた
久しぶりに美味しいお茶を頂いた
水が良いから香りも良いのですと嬉しい言葉を下さった
深々と礼をして、出口に向かった
遠くでスングクさんが微笑んでいた
かなり意味深な笑みに見える…

出口手前のスペースでトファンさんとマイケルさんが、ジャグリングの練習をしていた
さすがはエンターティナーだ
次々と投げ渡されるボトルのようなものに、徐々に加えられる二人の私物
赤いジャケット、不思議な形のシャツ、派手なネクタイ…
マイケルさんは『私服』を投げ入れる
トファンさんはライフル銃、花瓶、葉巻などの危険な物を混ぜ入れていた…
よくジャグリングできるなぁ…すごい…
お二人の横を通り、出口を開け、もう一度振り返って一礼をしようとした
お二人の投げるものの中に『ふさっ』としたものが見えた
そしてマイケルさんの相手は、誰か知らない禿頭のおじいさんに替わっていた
イリュージョンまでできるんだ!すごいや…
そう思って『オールイン』を後にした


千の想い 156  ぴかろん

それから…BHCに向かった
厨房でテソン君に挨拶する
テソン君は僕の顔を見ると、俯いてクッククック笑っている

「あの…なんなんですか?」
「いや…チェミが…」
「…」
「ヨンナムさんの事、可愛い可愛いってくっくっ…」
「!」

そ…それでケツを?!

思わずオシリを押さえた

「テスがプリプリ怒っちゃって…」
「…なにがどう可愛いんです?!」
「あはは。イナシのパン、食べたでしょ?食べ方が可愛らしくてたまんなかったって、目尻こぉぉんなに下げちゃってくふふ」
「…」
「そういう事」
「…チェミさん、僕のこと、怒ってたんじゃないですか?」
「怒ってるっていうより、こういう展開になるとは思ってなかったみたいでさ…。受け入れるのに珍しく時間がかかったって」
「…時間が…かかった?」
「チェミはスーパーだからね。ほぼ何でも『ん』で受け入れてくれる…昨日はそれができてなくて僕もびっくりしたんですよ」
「…ふ…ぅん…」
「でももう大丈夫。ヨンナムさんの事、すっごく気に入ったみたい」

ケツのあたりがムズムズした

厨房の窓越しに店内が見えた
イナの向こうに…ラブ君の顔が見えた
テソンさんに会釈して厨房から廊下に出、ガラスの端に立ってラブ君を注視した…
昼間の場面が焼きついている…閉ざした蓋の鍵がカチャリと音を立てた

お客さんを送り出したあと、ラブ君が裏に向かってきた
僕に気付き、きつい目をする

「イナさん?」

…に会いに?ときつい目が言葉を補う

「…配達です」

溢れ出す画像を捕まえる

「客で来れば?堂々とイチャつけるよ」

捨てるような語尾にムッとした

「テジュンが…世話になったそうで…」
「別に…世話なんかしてない」
「そうですか?」
「…今夜から、会社の近くの」
「ホテル住まいするらしいですね」
「…」
「それで?そこまで行って『世話』するの?君は…」
「…なに…」
「どういう『世話』なの?テジュンをどうやって慰めるの?」
「な…。何言ってるのさ!」
「見たんだ」
「…」
「違うと言ってくれ」
「…なに…が…」
「新村の裏通りの安宿…何しにいったの?」
「…」
「人違い?」
「…」
「じゃないんだね…。どうして?!なんでイナとテジュンの間に入り込むのさ!」
「別れたんでしょ?ううん、貴方が別れさせたんでしょ?!」
「僕は二人に冷却期間を…」
「その間にイナさんを手なづけようって魂胆?!貴方がイナさんとテジュンの間にムリヤリ入り込んだんじゃないか!テジュンがどんなに傷ついたか解ってるの?! 」

「…。君に…そんな事言われるとは…心外だな。君がしでかした事でイナがどれほど傷ついたか解ってるのか!」
「…しでかしたって…」
「祭の後、なぜテジュンと寝たんだ!」
「…」
「それが事の発端じゃないのか!だからあの二人はぐちゃぐちゃに…」
「…そんなの…そんなの言い出したらキリがないぜ…。貴方はあの場にいなかった…。そこだけ切り取って俺が悪いって言うなんて…あんまりだ…」
「でもそうなんだろ?!君が原因で」

僕はずっと溜めていた事をラブ君に吐き出した
昼間の光景が…イナから聞いたテジュンとラブ君との逃避行の話と重なった
イナが可哀想でならなかった

「君の彼氏は?平気なのか?!君がテジュンにくっついて回っていても!」
「関係ない、貴方には…。それにテジュンだって…イナさんと別れたんだ…。イナさんは貴方と楽しんでるのに、テジュンだけが苦しみ続けるなんて可哀想だ!好きにしていいじゃない!貴方が文句いう筋合いなんかない!」
「僕は、テジュンにもイナにも自分のほんとうの気持ちを」
「寝たくせにっ!」
「…え…」
「イナさんと寝てるくせにっ!テジュンが帰って来るかもしれない場所で、イナさんとよろしくやってるくせに!」

「どうしたの?ラブ」

通路を覗いたのはギョンジン君だった
ラブ君は顔を歪めて控え室に飛び込んで行った
ギョンジン君が僕に近づいてきた

「ラブが何かしましたか?」
「…い…え…」
「顔色、よくない」
「…」
「…イナの事で貴方に何か…言った?」
「…」
「ラブはテジュンさんを大切に思ってます」
「…あ…なた…平気なんですか?彼がテジュンに纏わりついてても…」
「気が気じゃないです。でも、ラブにとって本当に大切な人ですから、理解してます。僕にも『大切な人』は何人かいますから」
「…恵まれてるな、彼は…」
「不用意に傷つけないでください」

口元は微笑んでいても、目が笑っていない…

「傷つけたら…許さない…」
「…ほんとに…恵まれてるね…」
「ええ」

控え室の扉を睨んで、僕は外に出た
トラックに凭れながら夜空を見た
嫌な気分だった…

*****

控え室に行くと、ラブが壁に頭をつけて泣いていた
僕は彼に近づいてこちらを向かせた

「いやだっ」
「ラブ…」
「いやっ…」

僕は、何も言わずにラブを抱きしめた
嫌がっていたラブが段々大人しくなる
爪を噛みながら泣いている
背中を擦りながら頬で髪を撫でた

「…なにも…きかないの?」

ひっくひっく言いながら、呟く
僕は彼を抱きしめたまま、くふっと笑う

「…なんで?興味ない?」
「…あるよ…」
「じゃ…聞けよ!」
「聞いても聞かなくても同じだから…」
「…俺に…興味ないんだ…」
「…ばか…」
「…優しくしないで…俺はアンタに何も返せない…」
「…いいの…お前がね、ここにいるから…。…それだけでいいの…」

僕の胸に熱いものが込み上げてきて、涙が滲んだ…
何もしてやれないのは僕の方だ

暫くして落ち着いたラブは、無理にニコッと笑ってもう大丈夫と言った
僕達は店に戻った

営業が終わると、イナはすぐに外に飛び出して行った
ラブはその足元をぼんやりと見送った
後ろから抱きしめると僕を振り返ってそれから僕の肩に頭を乗せた

「僕、今夜はRRHに帰るけど、お前も一緒においでよ」
「…」
「ん?」
「…俺…」
「ん?」
「…ううん…なんでもない…」
「ちょっと待ってて。不良の弟も呼んで来るからさ」

ギョンビンを探して、今夜は真っ直ぐ帰るんだろうなと聞いた
弟は、顔を顰めて、ああ、それが?!と冷たく言い放った

「じゃ、僕の車に乗ってってね。くふん」
「…」

目がきつくなったけろ、ギョンビンは小さく頷いた


着替え  オリーさん

「元気そうだね」
「ん?」
「徹夜つづきだからヘロヘロかと思った」
「しんどいことはしんどいが、今回スタッフが精鋭ぞろいでね。
さすが一流の広告マン達だよ。いい刺激になる」
彼はそう言うと目の前のコーヒーカップに手を伸ばした。


そのビルのエレベーターホールはとてつもなく広い
何基ものエレベーターが横一列でずっと続いている

「朝は大変だそうだ」
「何で?」
「どのエレベーターが開くか見当がつかないので皆必死だそうだ」
「ああ、そうか。一番奥が開いたらそこまで走らなきゃならないんだ」
「そういうこと」
「50メートルは軽くあるよね」
「ああ、ここの社員は足が鍛えられてるそうだ」
「そんなに?」
「ビルに入ったら即走って、開いたエレベーターの前まで全力疾走するそうだ」
「ははっ、すごいね」
「確かに」

そのいくつもあるエレベーターのひとつから降りてきた彼は
まるでそこの社員のようだった
ワイシャツの袖を肘のところまでまくりあげ
首にはIDカードまでぶら下げている

「どうしたの、そのパス」
「フリーパスで出入りできるように臨時のカードをもらった」
「まるでここの社員みたいだね」
彼は小さく笑って、僕の肩に手をかけ
「行こうか」
と言って反対側にあるラウンジへと歩き出した
その途中でこの新しいビルのエレベーター受難の話をしてくれたのだった


朝、彼からの電話で目が覚めた
「僕だ、悪いが着替えを届けてほしい」
「ん・・着替え?昨日はいらないって・・」
「いるんだ」
「わかった」
「下着とシャツとネクタイを」
「いつどこに届ければいいの?」
「マッキャンが入っているビルを知ってるか?」
「ああ、去年できた大きなビルでしょ」
「そこに来て、着いたら連絡をくれ。昼前なら時間が取れそうだ」
「わかった。着いたら電話する」
「頼む」

昼前にはまだ時間があったので風呂に入ろうと思い立った
広い湯船に贅沢にお湯をはり、ゆっくりと体を温めた
たまには一人でこんなのもいいかも・・

風呂から上がってバスローブを引っかけ
髪を乾かして着替えを持ってバスルームを出た
広いフロアには人の気配がなかった
兄さんはラブ君のところだろう
イナさんはどうしたのだろう・・

イナが別れたそうだ

兄さんの言葉を思い起こした
本当に別れた?
いつも飄々としているイナさんが
あの人の前だと子供のように照れ笑いする
あの人の笑顔の前では、まるで子供のように・・

別れた・・

その言葉が頭の中でこだました
しんとしたフロアをあわてて突っ切って部屋に戻った

着替えをソファの上に置こうとして、それに気づいた
ミソチョルと多めのパディントン
「あれ?何で5匹もいる?」
思わず声を出した
誰か僕たちの部屋に入った?
でもイナさんも兄さんも一昨日からいないはず・・
でも兄さんは何するかわからないから(――#)

僕は5匹と1匹を抱き上げた
「お前たち、どこから集まってきたの、ん?」
「ミソチョル、この子たちはどうしてここにいるの、ん?」
答えるわけがない・・か

僕はそのままミソチョルとパディたちをベッドに運んだ
「どうせ今夜も僕一人だから、みんなここにいていいよ」
出かける前に、彼らにはブランケットをかけてあげた


「どうした?」
「え?」
「ぼんやりして」
「ああ、別に」
「みんなどうしてる?」
「変わりないよ」
「そうか。イナは帰ってくるか?」
「え・・」

「またテジュンさんとこへフラフラ出歩いたりしてるのか?」
「あ、ああ、そうかも・・そう言えば、マンションでは見かけないかな」
「まだパン作りに熱中してる?」
「ああ、そうかも」
「パン屋にでもなるつもりか・・」
「ん・・・そうかも・・」

「どうした?」
「え?」
「さっきから、そうかもばかりだ」
「ああ、そうか・・・も・・」
「まただ」
「・・・・」
「で・・誰と行ったの?」
「え?」
「昨日、デートだったんだろ」
彼はコーヒーのカップを掴んだまま、窓の外に顔を向けた

「気になるの?」
「別に」
「じゃあ教えない」
「どうせドンジュンあたりだろ」
「ドンジュンさんとデートするわけないじゃない」
横を向いていた彼が振り向いた

「じゃ誰だ?」
「誰だと思う?」
「別に・・誰でもいい」
「じゃそういうことで」
僕はコーヒーを一口飲んだ
彼もコーヒーを一口飲んだ

その次の瞬間、二人の声がだぶった
「誰だ・・」「先生だよ・・」

「先生?」
「ワインバーグ先生。昨日店に来てくれた」
「店に?」
「そのあとで、ハンアリに行った」
「ハンアリって、あのいつも行く?」
「うん、韓国料理あまり食べたことないって言うから」
「そう・・か」
「でその後、リッツのバーでちょっと飲んだ」
「リッツカールトン?」
「先生、そこのスイートが宿なんだ」
「豪勢だな」
「おじいさんが超金持ちみたい」
「なるほど」
彼は頷いてコーヒーをまた飲んだ

「気になった?」
「・・・」
「だんまりなんだから」
「・・・」
「何とか言ったら」
「ハンアリへは随分行ってない」
「そうだね、久しぶりだって言われたよ」
「トッポッキ食べたのか」
「食べた」
「他には?」
「チヂミと豆腐チゲと春雨の煮物、水キムチとビビン麺サービスしてもらった」
「・・・」
「あ、怒ってる?」
「別に」
「今度また行こうよ、ね?」
食べ物の恨みは恐ろしそうなので僕はフォローしておいた
彼はちょっとむっとした声でああ、と答えた

「食事はどうしてるの?」
「たいていデリバリーですませてる」
「何か差し入れしに来ようか?」
「いや、あと少しだから」
「そう・・わかった。じゃあそろそろ行くね」
「ああ」

僕が立ち上がろうとした時、快活な声が上から聞こえた
「やあ、やっぱりここにいましたね」
いかにも業界という感じの人が僕らのテーブルの横に立っていた
彼は、CDのカンさんを紹介してくれた
「初めまして、ミン・ギョンビンです」
僕は立ち上がって自己紹介した
「カンです、よろしく。ふうん、なるほどねえ」
「カンさん、どうかした?」
「いや、いい男って集まるもんだねえ」

「何おかしな事言ってるんですか、それより、もう次行けるの?」
「いや、まだスタジオの準備できてないの。で今のうちに昼食べようと思って」
「そうですか」
「隣のビルに入ってる和食屋おさえたから行きましょ」
「和食屋?」
「よく接待に使うとこなんだけど、なかなか美味しいんですよ」
「そんなとこいいんですか?」
「だってデリバリー飽きちゃったんだもん。経費で落とすから心配ご無用」

「じゃあ、僕はこれで行くね。着替えはこれだから」
「ああ」
「ちょいまち、君も一緒に行こうよ」
「いいんですか、カンさん?」
「全然オッケー。他のスタッフも行くから大人数だし。いいでしょ?ギョンビン君」
「いいの・・かな」
彼は小首をかしげた
「まあ、いいんじゃないか」

「じゃあ決まり、さ、ギョンビン君行こうよ」
CD氏は僕の腕を取って、すたすた歩き出した
「それにしても、いやあ、いい感じだなあ」
「え?」
「スポーツは何かやってる?」
「別に」
「何でもできる?」
「人並みには」
「泳げる?」
「ええ」
「そっかあ」
「ちょっとカンさん、ミンがどうかしました?」
遅れてきた彼が追いついて聞いた

「この後、スポーツドリンクのCM入ってるんですよ。
イメージに合ったモデルがなかなかいなくてねえ」
「それが?」
「彼貸してくれない?」
「だめだよ、カンさん。ミンはCDデビューだから」
「いいいじゃない。相乗効果狙えるよ」
「だめ、素人だから」
「何言ってるの。素人なのにCDデビューさせるんでしょ」
「けほっ、とにかくダメ」
「厚かましいくせにケチなんだから。ねえ、ギョンビン君、どう?出ない?」
「え・・」
「ミン、この人は強引だから、だめだってはっきり言うんだ」
「は・・」
「どっちが強引よ。ね、ロケはオーストラリア、ゴールドコーストあたり」
「オーストラリアですか?」
「いいだろ。水上バイクかスキーでもいいなあ、
とにかくマリンスポーツやってるとこを、こう最初海のロングから入ってね、
ずーっと引いてきて・・最後はぱぁんて商品とモデルのアップ!みたいな・・」
カンディレクターは歩きながら身振り手振りで大げさに説明した
彼はノーと言い続け、カンさんはオーストラリアで誘惑し
僕は冗談だと思って笑いながら聞いていた

昼食には他のスタッフが3名ほど加わり、楽しい会食になった
「この業界ってさあ、昼と夜逆転になっちゃおうのよ」
「夜仕事終わってもストレスたまってるから一杯行こうかなんて」
「それでさ、一杯やってるうちに朝になっちゃってさあ」
「でもって始発で家に帰ってさあ、ちょっと寝てまた出社」
「また仕事終わると夜でさあ・・その繰り返しよ」
「そうやって豊かな才能が枯渇していくわけよ」
「ばか、枯れるほどないだろ」
「あ、ひどいっ、ディレクターってば・・」

彼は、時々その会話に入り、すっかりその仲間となじんでいる
いつもとは違う顔がそこにあった
とても生き生きしている
でも遠くに感じる・・

「で、ギョンビン君は何してたの?」
「え?」

「仕事だよ、仕事」
「ええっと・・」

「人に言えないヤバイこと?」
「ヤバクはないんですけど・・あの・・つまり・・外務省の某外郭団体のような・・」
「うひゃ、何だかかっこいいねえ。実はスパイだったりしてね」
「はは・・はは・・はあ・・あ」
「え?まさか・・」
「ねえマジ?マジ?」
その後、僕はあれやこれやの質問攻めに合い
あたりさわりのなさそうなことを選んで話しているうちに
空軍にいたこともつい口がすべって言ってしまい、冷や汗が出た

「へええ、スパイってさ、映画とかだとめっちゃ目立ちまくってるけど、
実際はすげー地味だって聞いたことあるんだけど・・」
「めっちゃ目立つよ、君!」
「そ、そうですか?」
「いや、こういうイケメンがスパイだなんて誰も思わないだろうよ」
「そういう手もあるよなあ」
「ギョンビン君ならスタントなしで使えるね」
「あっ、それいいっ!経費節減!」
「あの・・それはちょっと・・」
「ね、オーストラリア、どうよ?」
「どうよって言われても・・」
「だめですっ!ミンはCD出すんですから」
「はいはい、保護者がうるさい、うるさい」
「この保護者って独占欲強いでしょ?ね、どうなの?」
「けほっ・・」

とにかくその日の昼食に
僕はカツ丼というものを食べ、彼はウナ丼というものを食べた
とても美味しかった
ウナ丼はカロリーが高そうだったけど
徹夜続きだったので、許してあげた

食事が終わってから、彼たちと別れた
カンディレクターは最後までオーストラリアと叫んでいた
彼はそのたび隣で目を吊り上げていた

別れ際、彼が近づいてそっと僕に言った
着替え、ありがとう、と
僕はただ小さく頷いただけだった


その後、久しぶりに街をぶらつき、書店を覗いたりしてそのまま店に出た
兄さんが、ミソチョルとパディントンのことを口走った
やっぱり部屋に入ったんだね
油断も隙もあったもんじゃない
無言で睨み倒してやった







































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