「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 239
静寂の罪 足バンさん
初日の撮影は予定より早めに終了した
スタジオはスタッフの喧噪と慌ただしい空気に支配され
そこに夕暮れのマスカーニの面影はない
しかし僕の身体と頭はまだジンの心情で脈を打っていた
シン監督に、次の日の撮りに変更が出るので少し打合せをしたいと声をかけられ
ミンチョルやジホ君と一緒に帰らずに済むことにほっとする
誘われる風にゆるりとまばたきをするあの目について
マスカーニに色づいたあの眼差しについて
もし客観的な話題になっても
いつもの僕として参加できるような気がしなかった
少なくても”ミンチョルに返ったヒョンジュ”を前にしては
「スヒョン?」
「ジホ君と先に店に行ってて、まだ間に合うだろう?」
「ああ」
「僕は監督と少し話があるから、じゃ店で」
ほとんどミンチョルの顔を見ずに最小限の会話を終わらせようとして
「ヒョンジュは君にかかっている」という監督の言葉を思い出し
小さく息を吐きもう一度振り向いてみる
まだそこにポツンと立っているあいつは子供のような顔でこちらを見ていた
「ミンチョル…」
「ん?」
「今日は…とてもよかったと思うよ」
「ああ」
「それじゃ後で」
いつもの僕の「笑顔」に見えるだろうか
僕は今日…
うまくおまえを導けただろうか
控え室に戻り椅子に腰掛けると身体が重いような気がして
それなりに疲れていたのだと気付いた
白いトレーの中の銀の鎖を指でいじりながら目を閉じる
これが…どれくらい続くんだったかな
思っていたより難しい日々になりそうで
形にさえならないさざ波のような不安に憂鬱になりかける
「お疲れさまぁ~もうめちゃくちゃよかったわよぉ~」
全てが終わりスタジオを出る時に声をかけてくれたのはユン女史だった
撮影時はほとんど声を発しない彼女が
休憩の度にそれとなく気を遣ってくれていたのを知っている
「いいジンになりそうよ、楽しみだわ」
「僕も初めてあなたのコワ~い顔を拝見しました」
「そうなのぉ~カメラの後に回ると顔変わるって言われるのよぉ」
「あいつは…ミンチョルはいかがでした?」
「正直言ってあそこまでいけるとは思わなかったわね」
「そうですか…ほっとした」
「うん…降り始めの雨ってとこかな」
「雨?」
「あなたが柔らかい土で、あの人が雨ね、すっと沁みてく感じ、お互いを変えながらね」
「ああ…」
「でも撮影終了ですっと元に戻ったから驚いた」
「あいつは自覚せずにわかってるんですよ、役に入るってこと」
「ふぅん、不思議な人」
「お帰りですか?」
「まさかぁ~これから夜景の撮影!タヌキは人使い荒いのよ!じゃまた明日ね!」
慌ただしく走り去りながら「明日はもっとロマンティックよぉ」と叫ぶユン女史に苦笑しつつ
スタッフの丁寧な見送りを受け車に乗った
店に着いたのはほとんど閉店間際だった
無理に顔を出すことはないとイヌ先生に言われているけれど
できればほんの僅かでもみんなの顔は見ておきたい
ここのところずっとすれ違いになっていたイナのこと
少し不安定だったラブのこと
昨日から突然の休みをとっているスハ
僕の視線を避けるテジン
入って間もないジュノ
まだ仕事に慣れていない新人たちや…
もっと気にしなければいけないのに
今の僕は情けないくらい自分のことで手一杯だ
事務所側の通路から店内を覗けば、いつものように賑やかな声が響き
こうして店の空気を吸うとようやく落ち着いていく
しかし…BHCのこの場所にいるのに
感覚はまだ戻らない
ヒョンジュと過ごしたあのカウンセリングルームの空間が
僕を柔かく取り巻いたまま
ここにこうしている自分の方が作り物のような気さえする
ぼんやりしている僕の視界のいちばん遠くに
カウンターの椅子からするりと下りるお客様の姿が入った
うちには比較的珍しい若い男性
側にはミンチョルとギョンビンがいる
ふとその見慣れぬ横顔がこちらに視線を流した
さして明るくはない店内でもはっきりとわかる美しい顔立ち
どこか人を切るような眼差しが
一瞬僕を値踏みをするようになめて通り過ぎ
その際立ってしなやかな印象の青年は出口に向かった
「ギョンビンのお客様みたいですよ」
厨房から顔を出したテソンの柔らかい声がかかる
「お友達かな」
「でもないみたい…ここにミン・ギョンビンって人いるでしょ?て言ってらしたから」
「そう」
「チーフ、撮影初日お疲れさま…珈琲などいかがです?」
「うん…あ、いや、久しぶりに梅茶もらおうかな」
「了解」
事務室のソファにどさりと腰を下ろし
しばらく遥か遠くに響くような店内の物音を聞いていた
何だかすっごく目立つやつが
ギョンビンを指名してカウンターで飲んでた
状況はさっぱりだけどギョンビンの目が吊り上がったような気がして
ちっとツツキに行こうかと思ったんだけど
ウシクさんに「ドンジュン、余計なことしないの」って言われて渋々やめた
そうこうしてるうちにミンチョルさんが帰ってきて
僕はたちまち「違うこと」で頭ん中が一杯になっちって…
テーブルの上の食い物を詰め込んで(意図せず)お客様にウケまくってたら
いつの間にかその真っ黒クロスケな野郎は帰ってったらしい
「うう…テソンさぁん…胃薬ない~?」
「食べ過ぎだ」
「やっぱテプンさんみたくいかないわ」
「ドンジュン…チーフさっき戻ったよ」
「え…あ…そ」
「事務室」
「どんな顔してた?」
「自分で確認していらっしゃい」
「ぶーぶー」
「ほれ、お茶持って行って」
「ちぇ」
うう…テンション上げないとだめかもなぁ
そのままお盆持ってズラかろうかと思ったけどテソンさんがこっちを睨んでる
事務所を控え目にノックしたけど返事がなくて
返事がないもん!入れないもん!って目でテソンさんを見たけど効果なし
仕方なくそっとドアを開けた
スヒョンはソファの背に身体を預けて目を閉じてる
何だか疲れてるみたいで…
やっぱ出ていこうかと思いながらその横顔の線を見つめてたら
じわりと胸に重みを感じて動けなかった
スヒョンがそのままの姿勢で目を開きこちらを見るまで
えらく時間が経ったような気がしたけれど
たぶんほんの数秒のことだったんだと思う
「お疲れ…これ…お茶」
「ああ…ありがと」
「あ…あのね、今度仕事でラブ君の叔父さんに会うかもしれないんだ」
「ん…?」
我ながら…その無茶苦茶な唐突さに呆れる
「んと…今日…うまくいった?」
「ん…たぶん」
「そか…明日は屋外だっけ?公園のシーンだっけ?天気よさそうだよ」
「ん…」
「それと明日はウィーバーの雑誌広告が出る日じゃない?」
「そうだったかな」
突っ込みすぎるのもよくないんじゃないか
「さっきさ、ギョンビンにモデルみたいでちっとヤ~な感じのお客がきてたよ」
「ん…」
「えと…スハ先生今日もお休みでテジンさん元気ないし」
「ん…」
「んと…そうだチョンマンが現場見に行くって張り切ってた」
「ん」
「あの、それから、そう、ハリョンが遂に結婚すんだって」
「そう」
「式に出てくれって言うんだけどさ、いいのかなぁ~元カレよ僕、自称だけど」
「ふふ」
「そんで」
「ドンジュン」
「はい…」
背もたれに預けたままの頭は動かず
頼りなげな視線だけをこちらに向けるスヒョン
僕はその口から次に出てくる言葉にほんのちょっと身構えた
「キスして」
「へ…?」
「キス」
「ばっ、ばーか!いきなり何言ってんのさ」
「ここに来て、キスして」
「やだ」
「ドンジュン」
でも…いつものコマシな空気もなくて
力なく右手を上げてこちらに差し出すもんだから
あまりおちゃらける気も起こらない
お茶をわざとのろのろとテーブルに置いて横に座ると
スヒョンはようやく頭を起こして
僕の頬を支えキスをしてきた
でも柔らかく触れたその唇は直ぐに外された
目を閉じて下を向くスヒョン
心臓を小さな邪気のない手で掴まれるような痛みを感じながら
その寂しげな心の真っ正面に立ってみる
「戻ん…ないの?」
「…」
「なかなかスヒョンに戻れないの?」
「ん…」
「…」
「…」
「すごじゃない…俳優さんの鑑じゃない」
「…」
「今日…ミンチョルさんもちゃんとできた?」
「ん…」
「そか…よかったじゃない」
「ん」
「始めたんだから…もう始まったんだから…ね」
「そうだね」
スヒョンは目を閉じたまま僕の肩に寄りかかり
静かに呼吸をしてる
いつだったかこんなことがあったのを憶えてる
祭の真っ暗な会場で…めちゃくちゃに疲れてこうして僕にもたれてた
舞台では何をやってた時だろうか
目の中に流れる色の光の印象だけが今も残ってる
「大丈夫だって、大丈夫」
「ん…」
「ほら、いいこいいこしてあげるから」
「ふふ」
「くんくんって言ってみ」
「ばか」
「いいから言ってみなってぇ」
「…」
「ね…」
「…くん…」
「…」
「…」
「きゃはははっかーわーいー」
「ふふ…ドンジュン」
「くひひ」
「ドンジュン…」
ん?
頑張るからね…
ん…
ドンジュン…
ん?
…
スヒョンの肩を包みながら
ぎりぎりのところで僕は凪いでいられる
せめてこんなことだけだから
今の僕にできることは
店のざわめきが暖かく響いてる
千の想い 188 ぴかろん
*****
僕がこんな風にするとイナは戸惑う
それは僕の中にテジュンを見ているからだ
僕と交わろうとしたイナが躊躇ったのは
僕の中にテジュンを見つけたからだ
そして僕がイナに入れなかったのも
イナがテジュンを見つめているとわかったからだ
僕には見えていたのに
イナも見ているはずなのに
僕達は『テジュン』を見なかったことにして
僕達を始めようとしていたんだ
僕はイナが好き
イナも僕が好き
でもその『好き』は、『恋人』の『好き』ではない
イナといると楽しい
イナといると温かい気持ちになる
心地よくて楽しくていつまでもこの時が続けばいいと願う
それはイナと繋がろうが繋がるまいが関係なく持てる気持ちで
多分キスなんかしなくてもそんな風に思えるはずで…
僕達はお互いに余計な飾りつけをしてしまって、ほんとの形が見えずにいたんだ
言葉の力を借りて、それをほんものらしくしようとして
歪んだまま、間違ったまま、突き進もうとしていた
イナ、お前が好きだよ
ずうっと一緒に居て欲しい
お前になら何でも話せそうなんだ
お前になら拗ねたり甘えたり、思いっきり自分をぶつけられるんだ…
お前にもそうしてほしい
僕に甘えたり拗ねたりしてほしい
そうなりたい
僕はイナの柔らかい髪を顎で撫でながら、こんな風に抱きしめて眠れるのは今夜が最後かもしれないと感じていた
*****
朝になって目覚めると、ヨンナムさんは寝床にはいなかった
朝飯の用意を手伝おうかと思い台所に行くと、ヨンナムさんはニコリと笑って言った
「お前、今日はパン、作りに行くんだろ?」
「あ…うん…」
「頼みがあるんだけど」
「え…なに?」
「…僕のためにパンを作ってくれない?」
「え?」
「僕だけのために…僕だけの事を考えて…一つでいいからさ…ダメ?」
「…ヨンナムさんのためのパン?」
「うん。いつものパンでいいからさ、作ってる間、僕だけの事を考えて作るの」
「…うん…いいよ…」
「やった。じゃ、お昼に迎えに行くからさ、楽しみだな♪」
嬉しそうな笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった
俺の作ったパンを、こんな風に色々な人に笑顔で食べてもらいたいな…
素直にそう思えた
*****
「ヨンナムさんちょっと」
イナを送りついでに朝の配達に出かけようとした時、ソクさんに呼び止められた
「俺が代わりに配達してきまぁす♪」
スヒョク君が僕の横を通り過ぎながら歌うように言った
「え…でも僕、昼にイナを迎えに…」
「わかってまぁす♪昼までに配達済ませてトラック持ってきまぁす♪イナさん、行こっ♪」
スヒョク君はまん丸目のイナの腕をグイっと引っ張って外に連れて行った
「ソクさん…」
「なんで呼ばれたか、解ってるね?ヨンナム君」
ソクさんは、学校の先生のような口調でそう言った
「なんでって…」
「…可愛い子ちゃんたちはもう出発したかな?」
「…」
「ん。スヒョクは素早い!ナイススヒョク。略するとナイスヒョク…」
「あの…」
「スヒョクは可愛くてねぇ…くふんけひん…」
「ソクさん?」
「本題に入ろう」
「はい…」
「その前にスヒョクが素早く淹れてくれたコーヒーでもどうです?」
「は?」
はぐらかされっぱなしの僕は、ソクさんが持ってきたスヒョク君のコーヒーを啜った
「うまいですね、香りがいい」
「でしょでしょ?うふん…スヒョクは可愛いし気が利くし色っぽいしくふん…」
「…」
「はぁぁ…やっぱり『箱』から出して磨かなきゃダメかなぁ…。壊れないかなぁ…」
「あの…何の話ですか?」
「何のって…僕の大切な宝物の話ですよくふん」
デレデレとスヒョク君の自慢話(?)をするソクさんは、以前見たテジュンのデレデレ顔と同じだった
僕は…イナの話をする時…こんな顔にならないだろう、きっと…
ゴクリともう一口コーヒーを飲んだ
苦味を強く感じた
「で、なんで呼ばれたか解ってるよね?」
「ぶ…は?…。はぁ…」
多分、夕べ僕達が僕の部屋でしてた事を、この地獄耳さんは知っているんだろうな…
だからか…ダメ出しかな…
「言いたい事、聞きたい事、あれば聞きます」
「あの…。あれでよかったのかなって…」
「あれとは?」
「その…。慰めても…よかったのかなと思って」
「慰める?具体的にどういう事?」
知ってるくせに…
「…抱きしめて…キスしました…」
「はぁ…」
「いけなかったでしょうか…やっぱり…」
「…いたしかたないですなぁ…」
「…」
「解るよ、イナが涙目攻撃仕掛けてきたらきゅううんはぁぁんではぐっはむっだよなぁふぅ…」
「…あ…の…」
「そのキスはどういうキス?」
「どういうって…普通に…いや、ちょっと…いや、普通から段々濃くなってその…かなり…濃厚に」
「チ・ガァウヨゥ、ソォンナコトキーテナァイヨォゥ」
「…は?…」
ふ…ざけてる?急に西洋人口調?
「んだから、どういう意味があるキス?」
「意味…」
…気持ち…って事かな?
千の想い 189 ぴかろん
「未練?」
「未練…ああ…あります…」
「それから?」
「同情…」
「それから?」
「…欲…望…かな…」
「ほかには?」
「憐憫とか慰めとか…そういう…。マズかったかな…。イナにまた誤解させてしまったかもしれない」
「うーん…ま、いいんじゃないかな」
「いい…でしょうか…」
「貴方の気持ちがしっかりしてるならね」
「…。キスしながら、戸惑ってるイナを見てました。僕とテジュンとを交互に思い浮かべているような気がしました」
「あー。わかるなぁそれ」
「は?わかる?」
「僕も経験あるから、そういうイナの危うい涙目攻撃」
「…」
「テジュンが好きなくせに、こっちにも気持ちが残ってて、そいでガッとキスしてくるんだよな、アイツ」
「あの…」
「わかるわぁ…」
「僕からガッといっちゃったんですけど…」
「…」
「たまんなくなって」
「…。わかるわ…それも…。『欲望』を抑えきれなくなるのよね」
「…あの…ソクさん…おネエ言葉が…」
「そうなんだよな。あいつのあの縋るような眼差しはさぁ、スヒョクとまた違う魅力があってさぁ…危険なんだよアイツ。解ってるのかなぁ自分で。物凄い危険なんだって事さぁ、ねぇヨンナムさん!」
「は…はぁ…」
「わかるよ、フラフラっといっちゃうの…」
「…」
ソクさんもそういう経験が…ね…
ちょっと悔しい気もするな…
「で?貴方自身の気持ちは揺れてない?」
「だからキスしちゃったって言ってるじゃないすか!」
「それは『欲望』。そうじゃなくて、イナに対する気持ちだよ」
「…は…はい。それは…はい。可愛くてたまらないけど…一緒にいたいけど…わかってます、どういう風に可愛くて、どういう風に一緒にいたいのか…」
「それならいい」
「いいですか?」
「うん」
「でね…伝えようと思うんです…」
「うん?」
「今日、昼、会った時に…僕が気づいた僕の気持を…」
「うん」
「いいでしょうか…」
「そうだね。ちゃんと説明してあげてね、貴方の気持ちを」
「…はい…。けどちょっと自信なくて…」
「なにが?」
「…泣かれたら…またキスしちゃいそうで…」
「ああ。それはいいよ」
「いいんですか?!」
「僕だって目の前でアイツにグシグシ泣かれたら『します』から」
「す…するんですか?!」
「あ、この事はスヒョクには内緒にしてください」
「…」
「します」
「…」
「でもアイツは僕とのキスの意味、解ってますから」
「…」
「貴方とのキスの意味も、近いうちに解ると思います」
「…はあ…」
「ちなみに、僕とアイツとのキスは、アイツとギョンジンとのキス、アイツとスヒョンさんとのキス、アイツとラブ君のキスなどと同等です」
「…」
…。イナ…。そんなにたくさんの人と…キスを…
僕は違う意味で小さなショックを受けた
「その中に貴方とのキスも入るはずです。今んところ、アイツとテジュンとのキスと僕達とアイツのキスとの間に貴方とアイツのキスが位置してます」
「…はあ…。つまり、友達以上恋人未満という…」
「そーそー。それを経て僕やギョンジンは素敵な恋人と巡り会えたんですぅ♪」
「ラブ君も友達以上恋人未満?」
「ラブ君はね」
「はい」
「スケベ体質だから」
「は?」
「イナのキス体質とこう…なんといいますか…自然に引き合ってキスしてる…。けど位置づけとしては『友達あるいは仲間との』キスですね、僕の研究によりますと。あ、ちなみにスヒョンさんも『上品なスケベ体質』なのでね、天使だし…だからま、同じ位置づけですね」
「…」
「ん?何か質問ありますか?」
「…。じゃ、キスしてもいい?」
「するつもりですか?」
「…いや…」
「惑わせないようにね」
「…はい…それは心得てます」
「できるかなぁそんな高度なことが貴方にぃ」
「…」
「あ。怒った」
「…頑張りますよ…僕はイナに幸せになってほしいし…。ついでにいうとテジュンにもね…」
「…テジュンとも話しなさいよね?」
「…ええ…、イナがアイツのところに戻ったらね…」
「そしたらさ」
「はい」
「僕達でイナを囲んで記念撮影しましょうよ♪」
「はぁ?」
「是非残しましょう、イナを愛した同じ顔ォズ」
「…」
…やっぱり…ふざけてる?
「どう?」
「…考えておきます…」
「じゃ、貴方の話は終わりですね?今度は僕の相談に乗ってください」
「は?」
「スヒョクをどうしたらいいかと思いまして…」
「は?」
「抱きしめたりキスしたりするだけでは物足りなくなっているのかなぁと思って…。でも僕が濃厚な行動に出たらスヒョクは壊れてしまわないかと心配でぇぇけひん」
「…」
それから僕は、ふざけているのか真剣なのかよくわからないソクさんの『相談という名のノロケ話』に延々付き合わされた
お昼近くになって、スヒョク君が帰ってきたところで漸くソクさんのノロケ話は終わった
手洗いうがい♪手洗いうがい♪と歌いながら洗面所へ行ったスヒョク君の後を追いかけようと立ち上がったソクさんは、くるりと振り向き、
『します』の事は内緒です!と言って、ああんスヒョクぅぅとしなを作りながら部屋から出て行った
「…イナを迎えに行きますか…ね?」
僕は僕にそう言って、少しだけきゅんと痛んだ胸を擦った
*****
工房に顔を出すとチェミさんがニヤリとして、やっと来たなナマケモノめと言いながらゲンコを頭に落とした
そのゲンコの中指の第二関節をぐりぐりと俺の脳天に押し付けて、きっひっひっひっと歯を斜めに見せながら笑い出した
上の歯のどこかに、プラチナのフチが嵌っているような気がした
後から確認したが、そんなものはどこにもなかった
俺が、ヨンナムさんのためのパンを作りたいと言うと、チェミさんは暫く俺を見つめた後、お前が作りたいと思ったのか?と聞いた
「ヨンナムさんにお願いされた」
「お願いされた?」
「『お願い』って…」
「ふむ。厚かましい野郎だな」
「…」
「まぁいい。作ってみろ」
「どうやって作ればいいんだろ」
「爽顔さんの爽やか笑顔なんかを思い浮かべながら粉をこねたらどうだ?」
「…ふぅん」
「笑顔、泣き顔、怒った顔、子供みたいな顔、頼りがいのある顔…」
「…うん…」
「でな」
「はい」
「思い浮かべた顔に対する感想は『一言』で終わらせろ」
「は?」
「例えばだなぁ…爽顔さんの笑顔を思い浮かべるだろ?」
「うん」
「『可愛い』と一言。次に泣き顔…『面白い』。次に怒った顔…『結構可愛い』。こんな感じ。でもってなるべくプラス思考の言葉を使うことだ」
「…はい…」
「そうすると、かなりいいデキになると思うぞ」
「…うん…わかった…」
「そうやって作るとな…」
「うん」
「…。ま、できてからのお楽しみだな…」
「…」
ほれ、始めてみろと言われて俺はチェミさんの言った方法で粉をこねた
一言で感想を終えて、次から次へとヨンナムさんの表情を思い出す
それは結構難しい事だった
「ねぇ…同じ顔思い出してもいい?」
「ああ。ただし『感想』を変えろ」
「変えろって…。最初に思ったこと、なんだったか忘れてるよ」
「…」
そんな風に粉をこねた
いい言葉だけを並べたてた
そうしていると、なんだか俺もいい気分になれた
発酵を待つ間、チェミさんは、もう一種類作れと粉をよこした
「もう一つ?」
「ヨンナムパンが5、6個できるだろ?昼飯には足らんな?そこでだ。お前自身のためのパンを作るといいんじゃないかと俺は思った」
「は?」
「イナパンだ」
「はぁ?」
「今度はな、お前の気持ちを全部ぶつけてみろ。気持ちを吐き出しながらパンをこねてみろ」
「…そ…んな…」
「ん?」
「そんなことしたら…食えないパンができる…」
「…。そぉぉぉんなに、マイナス思考か?お前の気持ちってのは」
「…なんか…めちゃくちゃヤな感じのパンになっちゃう…」
「お前が食うんだからいいさ」
「ええ?…」
「マイナス思考で粉をこねるとどんなパンになるか、実験だ。うん」
「…」
「だがイナよ、お前の気持ち、マイナスのものばかりではないだろう?」
「…そりゃ、ちっとは明るいものもあるけどさ…でも、気持ちを吐き出すとしたら、明るい言葉から段々暗い事連想しちゃいそうでさぁ…」
「いいじゃないか」
「…いいの?」
「お前が食うんだから」
「…ええ?…」
「ふははは。やってみろ」
「…」
「師匠の命令が聞けんのか?!」
「…あぃ、やりばす…」
そうして俺は、『俺のためのパン』を作った
千の想い 190 ぴかろん
*****
イナを迎えにcasaに行った
工房を覗くとチェミさんがニヤリと歯を見せ悪魔っぽい笑い方をした
前歯にプラチナの枠が嵌っているように思えた
よく見てみるとそんなものはどこにもなかった
外で待っているとイナがパタパタと走って来た
手に袋を二つ持っている
「わぉ♪それ、僕のパン?」
「…と…俺のぱん…」
「お前の?」
「ん…」
「ふぅん。じゃ、デートしようか」
「…うん…」
デート…最後かもしれないデート
ううん、最後じゃない…
『友達』としてならこれからもずっと僕はイナと…
イナを助手席に乗せてトラックを動かした
イナは俯いて静かに座っていた
「元気ないな」
「…ぅん…」
「どうしたの?」
「…ヨンナムさんのパンを作ってた時は楽しかったんらけど、俺のぱんは…なぁんか…」
「なんでお前のパンを作ったの?」
「師匠が作れって…」
「師匠ってチェミさん?」
「…ん…」
「チェミさんさぁ、前歯にプラチナの枠、嵌めてたっけ?」
「え?」
「嵌めてないよな?なんか一瞬枠が嵌ってるように見えてさ、めちゃくちゃアクマっぽく見えたんだ、ニィィって笑った時」
「お…俺も見えた!一瞬だけど!でも嵌ってないよ」
「そうか!お前も見えたのか!」
「うん…なんか…『極悪非道』ってカンジだった…」
「僕もそう思った!」
「「はは…ははははっきゃはははっ」」
僕達はチェミさんの『実は極悪非道人間説』をぶち上げながら公園に向かった
暖かな日なので、ベンチにすわってパンを食べることにした
僕は屋台で暖かいスープを、イナは暖かい飲み物を買ってきた
二人並んで座り、スープを啜り、パンの袋を開けた
「うわぁ…可愛いな…美味しそう。これ、僕のパン?」
「うん」
「いただきます」
一口食べた
甘くて柔らかくてとても美味しくて
僕はほんわかと幸せを感じた
「…おいしい…イナ…ありがと…」
イナに笑いかけると、心配そうな顔がふわっと綻んだ
「よかった。喜んでもらえて…」
「なんか幸せって感じるな」
「ほんと?…あのね…ヨンナムさんの顔を思い浮かべながら作ったんだ」
「…そう…」
「んでね、可愛いとか面白いとか優しいとかいうさ、気持ちがよくなる言葉をくっつけて作った」
イナの説明は幼稚っぽい
それがとても可愛いと思う
「にくったらしいとかムカつくとかは考えなかったの?」
「うん」
「そか…だからこんなに柔らかくて美味しいんだ…。ん?お前は食べないの?」
「ん…食べる…」
そう言ってイナはゴソゴソと自分のパンを取り出した
僕のパンとあまり形は変わらないのに、なんだか痛々しいパンに見えた
イナはゴクリと唾を呑み込み、自分のパンを齧ってモゴモゴと口を動かした
「…どう?」
「…。パサパサ。美味しくない…硬いし…」
「うそ。なんでさ」
「…」
「ちょっと一個とっかえっこして」
「やだ」
「かえっこしてよ!」
「やだ!あっ…」
イナが齧りかけていたパンをひったくって一口食べてみた
なるほど、モソモソした美味しくないパンだ…
「なに…こっち先に作ったの?」
「ううん…あと」
「…なんでこんなに違うの?」
「…」
「作り方を変えたの?」
「…気持ちを…」
「…気持ち?」
イナは溜息をついて俯いた
どうしたんだ?なんなんだ?言ってみろよとつついても、イナは黙りこくったまま顔を覆ってしまった
やがて震えだしたイナの背中を、僕はそっと擦ってやった
暫くしてから僕は声をかけた
「イナ…。言ってごらんよ、なんでも…。僕、聞いてあげる」
「…」
「聞かせてほしいんだ…イナ…お前の気持ち…お前の…ホントの気持ち」
「…」
「パンをこねながら何を思ったの?」
「…ヨンナムさんのパンを作る時はね…温かい気持ちで作れたんだ。でも、俺のパンを作る時は…俺の思いを全てぶつけてみろって…チェミさんにそう言われて俺…」
「…お前の…思いか…」
僕らはまた黙り込んだ
震えているイナの背中を擦り続けた
きっとイナは、自分のパンを、泣きながら作っていたんだろう…
消そうとしても消えないアイツへの思いを再確認したんだろう…
それを僕のために隠そうとしている…
ぐちゃぐちゃの気持ちがこのパンに込められている
「…イナ…」
「…」
「僕のパン、ありがとう。とても…とても幸せな気持ちになれた」
「…うん…」
「自分のパンを作る時にさ、イナ?何を思いながら作ったの?」
はっきりと言葉に出させてやりたかった
「…何って…べつに…」
「嘘はつかないで」
「嘘って…」
「…テジュンを…思ったろ?」
「…」
「ホントの事…言って」
「…。なんで…なんでそんなこと言うのさ!なんでテジュンの事…」
「思ってたんだろ?ずーっと…ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ」
「なんでっ!なんでっ!」
イナは顔を覆ったまま、泣き叫んだ
僕はイナの体を抱き寄せて撫でた
こんなにもテジュンを想っているくせに
僕のためにずっとお前…
ごめんね…ごめんねイナ…
*****
イナは本当の気持ちを口にしなかった
僕は僕の気持ちを言いそびれた
ソクさんに叱られるな…
夕方近くにようやく泣き止んだイナをBHCに送っていった
駐車場に着いたのにイナは車から降りようとしない
僕は助手席側に周り、ドアを開けてイナを軽く引っ張った
イナの、縋るような瞳が、僕に突き刺さった
僕は引き寄せられるようにイナにキスをした
こんなキスは…
これが最後だ…
『いたしかたないですな』
だろ?貴方でもするよな?
『します』
いいんだよな
『いいです』
ふ…ふふ…
「なにさ…キスしながら笑うなよ…」
「ごめんふふふ…」
「ヨンナムさん…」
「ん?」
「…ほんとの気持ち…話さなきゃダメなのか?」
「え?」
「でないと…俺達って…始められない?」
「…」
僕はイナを見つめた
潤んだ瞳の奥に、自分の気持ちを押し込めて
それをホントにしようともがいて苦しんで…
そうさせたのは僕だから
引っ張り出すのは僕にしかできない
「始められないなぁ」
「…」
「帰り、迎えに来る」
「…ぅん…」
「さ、仕事、頑張ってこい」
「うん…」
イナを助手席から降ろしてポンと肩を叩いてやった
イナはやっとにっこり笑い、BHCの裏口に行きかけた
「イナ!」
「ん?なに?」
「…もう…あんなパン、作らせない」
「え…」
「あんな、哀しいパンは、作らせないから」
「…」
暫く僕を見つめた後、イナは僕に微笑んだ
たまらなく寂しそうに見えた
手を振ってイナが戸口に消えて行くのを見送った
もう…そんな顔…させないから…イナ…
*****
イナが裏口から飛び込んできたと同時に、僕は外へ飛び出した
動こうとしているヨンナムさんのトラックの前に走り出た
「うわっ!危ない!轢いちゃうじゃないですかっ!」
「轢かれないから大丈夫」
「大丈夫じゃないですよっ!危ないなぁもう」
「ヨンナムさん」
「なんですか」
「どうして僕がここに来たか、解りますね?」
「…はい…」
「イナはなんであんな顔してるんです?」
「…」
「気持ち…貴方の気持ち…言えなかったんですか?」
「…言う…タイミング…逃しちゃって…」
「ふむ…。何かフォローすることはありますか?」
「…ソクさん…」
「ん?ない?」
「…キスしました…」
「…ぅむぅ…」
「貴方の声が聞こえました。『いたしかたないですな。します。いいです』って…」
「…」
「「…ふ…ふふふ…」」
「で?」
「僕の気持ち…はっきりしてきました」
「…そう…」
「夜、イナを迎えにきます」
「…ふぅん…」
「ソクさん」
「はい」
「いろいろ…ありがとう」
「…いや…」
「じゃ、行きます」
「あ…」
「はい?」
「…イナを…よろしくね」
「ええ。フォローお願いしますね」
「はい」
同じ顔の僕達はふっと微笑み合って別れた
夜、店が終わる頃、ヨンナムさんはイナを迎えに来たらしい
セピアの残像 6 れいんさん
夜更けに電話が鳴った
浅い眠りに沈んでいても、身体はすぐに反応した
「ヨボセヨ?」
「・・テジン?」
声の主はエジュ
「・・ああエジュ・・」
「何それ」
「・・え?」
「がっかりした声出しちゃって」
「あ・・ごめん」
「ごめんって謝られると余計気分悪いじゃない。本当にがっかりされてるみたいで。そういう時はきちんと否定してほしいんだけど」
「あ・・ごめ」
「もう・・相変わらずなんだから」
酒のせいだと思うけど、軽く頭痛がしてきた
エジュと話すのはコンディション万全の時が望ましいと僕は常々思っている
なぜなら、エジュはちょっとした声の変化も聞き逃さない、かなり鼻が利く女性で
上の空で返事をしたり、曖昧に言葉を濁したりすれば、鋭くそこを追及してくるからだ
それにエジュ特有の親近感を湾曲に表現する会話術も
それなりにスリリングで楽しいものではあるけれど、リアクションに困る時も少なからずある
正直、弱ってる時にはこれが結構キツかったりする
・・で、不幸な事に今の僕のコンディションは最悪だ
これはもう手短に済ませた方がいいと、僕の弱った本能は感じていた
とりあえず、エジュの近況などに軽く触れてから・・
「・・で、どうなの?そっちは」
「ええ、なんとか頑張ってるわ」
「長距離電話、大丈夫なのか?」
「そんなの全然大丈夫。・・ね、なんだか私、どこかの局の海外特派員みたいよね。いつもそっちの時間に合わせて電話して。
そこんとこ誰かさんのハートには全然響いてなさそうだけど」
「・・」
「何よ。テンション低いわね」
「あ・・そうかな」
「そうよ」
「・・で・・今日は何?」
「あら、もう本題?せっかちね。まあいいけど・・あのね、この前の個展の件だけど」
「うん」
「あれ・・どうだったの?評判良かった?・・今日はほら、珍しく暇を持て余してて・・コホン、だからその・・ちょっと気になって」
「ああ・・うん、まあ・・そこそこ」
「そう!よかったじゃない!」
「ん・・」
「いよいよアーティストテジン誕生ってわけね?」
「そんなんじゃないよ。ああそういえば・・花届いてたよ。ありがとう」
「そうそうあの花、細かく指示したのだけど、センス良くアレンジできてた?」
「うん」
「そ」
「・・」
「・・ねぇ」
「ん?」
「何か・・元気なくない?」
「え?」
「何かあった?」
「さっきまで・・うたた寝してたからかな」
そう言ってみたものの
千里眼のエジュは僕の変化を見逃すほど甘くはない
「もしかして・・お酒飲んでる?」
「いや・・」
「飲んでるでしょ?」
どうして分かるのか不思議だ
受話器越しに匂いでも伝わるのか
それともどこかで僕の行動を逐一観察しているのか
とにかくエジュに装備されているセンサーは高性能に違いない
「テジンの事なんて何でも分かるんだから」
一瞬、勝ち誇ったようにフフンと笑うエジュが見えた気がした
「・・ところでスハ君は?」
やっぱりな・・という感じで、エジュが一番痛いところを突いてきた
「スハ君に代わってよ。スハ君となら会話らしい会話ができそうだし」
どう切り抜けようかなんて悠長に考えてる時間もないが
事実を話すと余計ややこしくなりそうだから
動揺を気取られぬようなるべく手短に答える事にした
「・・スハは・・いない」
「いないって・・こんな時間にどこに?」」
「・・ちょっと・・遠くに」
「旅行にでも行ってるの?」
「まぁ、そんなとこ」
「ふぅん・・何だかすっきりしない言い方ね」
「・・」
「旅行って嘘でしょ?」
もう白旗を振って投降したい気分になってきた
「スハ君がテジンを置いて旅行?そんなのあり得ない。
スハ君は誰かさんと一緒にその辺散歩してる方が、一人で旅行なんかするよりもずっと楽しいって人だもの
喧嘩でもした?ちゃんと謝ったの?悪いのはどうせテジンでしょ?
いつ帰ってくるのよ。行き先の検討ついてるのなら早く迎えに行きなさいよ」
エジュは一息にそう言った
さすがにスハの事を熟知している
返す言葉もなく、ぎゅっと受話器を握りしめてる僕は
まるで証言台で項垂れている被告人みたいだった
それならエジュは凄腕の女性検事といったところか
実際、数年後にはそうなっているかもしれないけれど
「テジン・・?」
「ん・・ああ」
「いったいどうしたのよ」
「ごめん・・」
「ごめんって・・」
「今は・・話したくない・・」
「テジン・・」
「・・もう切るよ、ごめん」
「あっ・・」
僕は静かに電話を切り、そのままずるずるとその場に座り込んだ
会いたいのに会えない苛立ち
伝えたい言葉を伝えられないもどかしさ
この気持ちをどう消化したらいいのだろう
「愛してる」
「傍にいてほしい」
いくらそう叫んでも、大切なものは確実に僕から離れていこうとしている
エジュが思ってるような他愛もないケンカならどんなにいいだろう
でも今回はそれほど単純な事じゃない
行き先だって分かってる
迎えに行って済むのならとうに飛んでいってるさ
でもそこは僕が踏み込める場所ではない
スハが本当に僕との事をリセットするつもりでいるのなら
家族とやり直す決意でいるのなら
元の場所に戻ったスハを
僕が迎えに行ってもいいのだろうか
「迎えに来た」と連れ戻す事が
果たしていいのかどうか、僕には分からない
強引なやり方で僕の想いを遂げてしまったあの時と
同じ事はもう繰り返したくないから・・
僕は今、スハの為に何ができるのだろう
永遠に朝は来ないような気がしていても、必ず朝は来るらしい
玄関のベルの音で目が覚めた
何か悪い夢を見ていたようで、目覚めは最悪だった
おまけに頭がズキズキする
僕はおぼつかない足取りで玄関まで辿りついた
扉を開けると、そこにウンスが立っていた
・・なぜここにウンスがいるのか・・
今まで一度もここに来た事などなかったのに
一瞬これも夢の続きなのかと思った
ウンスの細い項が、陽射しを浴びて眩しい程白かった
ズキズキ痛む頭が、漸く機能し始めて
昨夜の電話とここにいるウンスが一本の線で繋がった
エジュの奴、昨夜あの後、早速ウンスに電話したんだな
彼女達の間でどんな申し送りがなされたのか、だいたい想像がついた
『捨てられたテジンが参って死にかけてる』
と言ってたエジュさんの話を、全て鵜呑みにしたわけではなかったけれど
それでも気になってここに来てみた
エジュさんが言ってた事、あながち嘘でもなかったみたい
あの人がドアを開けた瞬間そう思った
あの人のこんな姿見たことあったかしら・・
くしゃくしゃの髪をした子供みたいなあの人に、ほんの少し心が乱れた
「エジュから頼まれた?」
「ふふ・・まぁ近くに用事もあったし」
「・・」
「一人なの?」
「・・まあね」
「エジュさんが言った事本当だったのね」
「・・」
「あなた大丈夫なの?ちゃんと食べてる?」
「ああ、大丈夫」
あの人はそう言ったけれど
幾分こけた頬で虚ろな目をしたあの人を見ていると
「それじゃね」なんてそのまま帰れない気がした
本来ならあまりこういう事をするのは気が進まないのだけれど・・
「少しだけお邪魔させてちょうだいね」
思い切ってあの人の横をすり抜け部屋の中に入った
思った通り部屋の中は薄暗く換気も悪く、とても衛生的とは言えなかった
「あっ・・ウンス・・」
引きとめようとするあの人を横目に部屋の奥まで歩き進んだ
床に転がってたお酒の瓶を拾い上げ、カーテンを開け窓を開けた
部屋がぱっと明るくなり
すっと入ってきた風が淀んだ空気を逃がしてくれた
あの人は部屋の真ん中で途方に暮れたように突っ立っていた
キルトのかかったソファが目についたから、あの人をそこに腰掛けさせた
「ふふ・・これじゃどちらがお客様だかわからないわね」
ソファに座っているあの人の目を、床に膝をついて覗き込んでみた
明るいところで見ると瞼も少し窪んでいて
あの人の憔悴ぶりがはっきりと分かった
「いつから食べてないの?」
「・・覚えてない・・」
ぼんやり答えるあの人を見てるとふと昔を思い出した
事故から一年後、意識を回復した頃の
とても心細げで不安定で危うかったあの人を
胸の奥がきゅんとした
あなた、私の為にはもうこんな風にはなってはくれないのかしら
少し憎らしい気持ちになり
閉じ込めていたものがざわざわと音を立てはじめる
「スハさん・・いつ戻るの?」
「スハは・・戻ってこない」
肩を落とすあの人に手を伸ばし、抱きしめてしまいたい衝動に駆られる
肌蹴たシャツの隙間からすっと手を差しみ、あの人の肌に触れてもみたくなる
・・私たち、もう一度やり直せない?
もし私が今そう言ったら、あなた困ってしまうかしら
あなた私のところに戻ってきてくれるかしら
あの人を見つめながら
消えたと思っていた心の奥の炎がちらちらとゆらめくのを感じていた
千の想い 191 ぴかろん
*****
店で何をしたのか覚えていない
お客様の相手はちゃんとしていたらしい
無意識に動いていたみたいだ
俺の頭から、パンを捏ねていた時の気持ちが離れない
俺の想いを全部ぶつけて、ぶつけて捏ねたっていうのに…捏ねて焼いて形にしたっていうのに…
なんで…こんなにも…俺はいつまでも進むことができないのだろう…
ぼんやりしていると、誰かしら助けてくれた
その度に礼を言うのだが、誰に礼を言ったかも覚えていない
猛烈に頭が痛かった
お客様を見送ろうと立ち上がった時、酒も飲んでいないのに、なぜだかふらついて転んだ
また誰かしら寄ってたかって俺を起こしてくれた
みんな同じ顔だから区別がつかないよ
笑ってそう言ってみた
丸い瞳が一杯、こっちを見た
とりあえずありがと
そう言って一人で立とうとしたらまたふらついた
誰かが後ろから支えてくれて、俺を裏の廊下に連れて行ってくれた
こういう時に助けてくれるのは、ギョンジンかな…ソクかな…
廊下のベンチに座らされ、俺は助けてくれた奴の顔を見つめた
BHC顔だってのは解るけど、誰だかはっきりしない…
「キス…しても…いい?」
そんな事言うBHC顔は…やっぱりギョンジンだろうな…
「…ぁん…ぃぃょ」
ヘラヘラしながら俺は答えた
俺の唇に堅いキスが降って来た
誰?
「ちょっと休んでなよ」
お前は誰?
「…ぁぉん…」
誰だか解らないまま、俺は廊下のベンチに座って目を瞑った
誰だっていいや…なんだか知らないけどキスの練習したかったんだろうな…
頭の中でヨンナムさんの顔が回った
回って歪んでテジュンになる
『俺のパン』をこねてた時、どうしたって最後にはテジュンが浮んできた
テジュンはラブと寝たんだ
テジュンはラブとうまくやるんだ
だから俺もヨンナムさんとこれから…
…なんでラブと寝るんだよ…なんでだよ…
…ああ…いいじゃないか、そんな事…
ギョンジンの言うように取るに足らないことじゃないか
それはギョンジンにとってだろ?俺には違う、大事なことなんだ…テジュンは俺をよく知ってる。なのにラブとまた…。そんなの許せるか!
でも…別れたじゃない…もう、俺に、どうこう言う資格なんてないじゃない
ぐるぐる回るテジュンの顔
ぐちゃぐちゃの俺の気持ち
こんな事、言えない
ヨンナムさんには言えない…
「どうしたの?飲みすぎた?」
また誰かが来た
「そんなアルコール臭くないなぁ…。なんかあったの?」
これは…ドンジュンだろうか?
「気持ち悪くない?大丈夫?」
…ウシク?
「大丈夫だ…」
「水持ってこようか?」
「…ぅん…」
BHC顔が厨房へ行き、水を汲んできてくれた
俺はその水を飲み干し、そいつに礼を言った
「弱ってるイナさんって可愛いな…。キスしたくなっちゃう…」
誰?
「…したけりゃしろよ…」
「うわ…捨て鉢なセリフ…」
誰だよお前…。新人か?まさか…ね…
「…してみてもいい?」
「…どーぞ…」
吸い付く唇
さっきの奴より柔軟な唇
…どっかで仕掛けられたキスに似てる…
誰の…キスだっけ…
「何してるんだ!」
「あ…ヤバ…」
誰かの声がして離れて行った唇
「お前なにやってんの!」
また違う奴
「…誰?」
「僕がわかんないの?」
「…うん…」
「無防備すぎるよお前…」
「…うん…」
「…口、閉じろ!」
「え?」
「口!閉じろってば!」
「息できないじゃん…」
「そんな半開きの口してるからキスされるんだ!」
「…誰?」
「わかんないの?ほんとに」
「ぅん…」
そいつはいきなり俺にキスをした
これ…夢かな…
なんで次から次へと俺はキスしてるんだろう…
いや違う、キス『されて』るんだろう…
「俺、練習台?」
「そんな口してるからみんな吸い付くんだよ!」
「あんで…」
「その口見てると…あれだ…ちっと前にやった『人命救助訓練』思い出すんだよ、みんな」
「…ふ…ん…」
「しっかりしろ…」
「…ギョンジンか?」
「うん」
「もいっかい…」
「へ?」
「キス…」
「…」
『ギョンジン』らしい男がもう一度俺の唇に吸い付いた
キスしているうちに俺は意識を失った
目が覚めるとみんながロッカー室で着替えをしている最中だった
どうやらギョンジンが俺をロッカー室に運んでくれたらしい
ガンガンしていた頭は治まっていた
なんで俺は気を失ったんだろう…
「ご飯ちゃんと食べた?」
テソンが真剣な目で聞いてきた
「…えと…」
パンは一口齧ったけど…ちゃんと食ってないような気がする
「だめだよ、食は大事なんだから!」
「…ぁい…」
「お酒はほとんど入ってないようですけど、何かありましたか?」
「んぁ?誰だっけお前…」
「ビョンウです!」
「あ…ごめん…めがね外してるとわかんねぇ…」
ビョンウは後ろを振り向いて、だから早く返してくださいってばジョンドゥさん!と怒鳴り、ジョンドゥからメガネをもぎ取って顔に嵌めた
「あ、ビョンウだ…」
「一人で帰れますか?」
「…うん…迎えが来るし」
「大丈夫なの?食べてなくて倒れたって聞いたけど…これ食べる?」
「…ウシク…。なにこれ?」
「シュガーついてない分こっちのがマシかと思ってさ。へへ。バウムクーヘン…。あーん」
「…いいよ…いらない…」
「なんでっ!」
「なんでって…食べたくない…」
「…じゃポッケに入れとくから…」
「…い…いいよ!」
「いいから!口止め料」
「は?なんの?」
ウシクは顔を近づけて小さな声で言った
さっきの事、内緒ですから…
「さっきのって…」
「しぃぃぃっ!…ボクがキスした事!」
「え?お前だったの?」
「しぃぃぃっ!」
「…ふ…ふはは」
「なんですか!」
「仕込まれてンなぁ」
「え?!」
「上手じゃん、キス…」
「ええっ?!ほ…ほんと?」
「うん…イヌセンセのおかげだな?」
「何が僕のおかげなの?」
「べつにっ!センセは向こうに行ってて!…イナさん、とにかくボクとのキスは内緒にしておいてね」
「…ん…わかった」
ウシクはイヌ先生の後を追いかけて行った
へぇ~ウシクがあんな上手にキスするなんてねぇ…
俺は身を起こして立ち上がった
みんなが大丈夫かと声をかけてくれた
心配かけてごめんと謝り、明日は元気に出勤しますと言ってロッカールームから戸口に向かった
「イナさん、大丈夫なの?」
「ああスヒョク、大丈夫。ヨンナムさんが迎えにきてるから…」
「そ?気をつけてね」
「うん。サンキュ」
俺は…
ダメだな…
みんなに心配かけている…
「チェミさんのせいだぞ!『俺のパン』なんか作らなきゃよかった…」
明日casaに行ったら、一番にそれを言ってやる…
*****
イナがうつろな瞳で裏口から出てきた
駆け寄って腕を取り、助手席に座らせる
「どうしたの?」
「…ん…なんか知らないけどフラフラになってぶっ倒れた」
「大丈夫なのか?!」
「ん…食ってないからかも…。そう言えばなんとなく腹が減ってる…」
「は…。そか…。じゃ、なんか食いにいこう。胃に優しいもんがいい?…あったかいスープとかがいいかな…」
「胃は痛くないからなんでもいいよ」
「じゃどこが痛いの?」
「…えと…頭…。もう治ったけど…」
「ふぅん…」
僕はイナを乗せて裏道ばかりを走り抜けた
ソウル音痴のイナにはどこを走っているか解らないだろう
一人で飲みたい時やメシを食いたい時、よく行っていた場所がある
夜になると公園の一角に屋台が出る
まだあるかな…
あそこでないと意味がない…
目的の公園近くに車を停め、屋台を探した
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