「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 268
ブラックアウト 4 ぴかろん
**
『俺も…テスとチョンエみたいにお互いを思いやり、心から幸せを願いあう仲になりたいな…ヨンナムさんと』
今なら言葉を連ねることができる
昨日の昼間はできなかった
朝の光景が甦りそうで
甦ってきたら浸ってしまうから…
もう…ヨンナムさんと一緒に眠ることはないし…あんな風に朝を迎えることもない
それを知っているのは俺だけで、それが寂しいと思うのも俺だけなんだ
たとえ知ったところでヨンナムさんにとっては取るに足らないことなんだ
**
昼飯に行きたくなかった
ヨンナムさんが来る前に逃げ出そうと思っていた
早めにcasaから出たのに、ヨンナムさんは俺の真正面からやってきた
にっこり微笑んで、さあ昼飯食いに行こうと俺の腕を掴んだ
**
昼飯を終えた後、やっと理由をつけてヨンナムさんから離れた
傍にいたくなかった
きっと泣いてしまう
そしたらまたあの人を煩わせてしまうもの
土産物の包装作業は気を紛らわせるのに丁度いい
ウシクとイヌ先生のやりとりにも助けられた
あっと言う間に時間が過ぎ、開店間際になった
携帯のメールに、テジュンが最終便で帰ると言う報せが入っていた
『店にお迎え、行けそうにもないから、ヨンナムんちで待っててね』
ヨンナムさんちで?
心の中で、暴れだす『箱の中身』を押さえつけていると、ヨンナムさんから電話があった
『テジュン最終便だって連絡が来たろ?迎えに行くから、夜、うちにおいでよね』
『箱の中身』がじたばたして、蓋が飛んでしまいそうになる
うん、と返事をした後、俺はヨンナムさんから聞いた言葉も『箱の中』にしまいこんで逃げ出さないように重石をかけた
**
営業開始寸前に、ミンチョルとスヒョンを見た
スヒョンは穏やかな顔つきに見えたけれど、ミンチョルの瞳には薄いガラスが嵌められている
ドンジュンは吹っ切ったように明るく、ギョンビンは緊張感を漂わせている
何かあったのか…喧嘩だろうか…
ミンチョルに近づこうとした
ほんの一瞬、ミンチョルの瞳からガラスが外れた
視線の先にはスヒョンの背中があった
誰かに話しかけられ、ミンチョルの瞳にはまた薄いガラスが嵌められた
ジンとヒョンジュは、二度と会えないんだ…
唐突に映画の台本を思い出し、涙が込み上げそうになった
俺はその想いを『箱』に放り込んでやった
**
ヨンナムさんに迎えられヨンナムさんちの居間に行き、いつものように宴会をする
テジュンが最終便でこっちに帰って来ることを、俺は知っているのに忘れている
こんな大事なことを忘れるなんて
自分に腹を立てた後、心の中でカタカタ動いている『箱』に気づく
そうだった…あれもこれも箱に入れたんだった…
カタカタカタ
動く箱を見て見ぬふりをする…
気づいたことも葬ろうとする…
**
テジュンの部屋に入り、キャビネットの上の写真を手に取る
ラブ、ギョンジン、テジュンと俺の…
この時も迷いから抜け出したんだっけ?
懐かしい遊園地での写真
フォトスタンドのガラスの上から、微笑んでいるテジュンの顔を撫でる
写真の中の自分を見て驚く
こんなに穏やかな顔をしているなんて…
テジュンの布団を借りて寝る
枕元にさっきの写真を置く
天井のモビール、返してもらわなきゃ…
あの時も迷いから抜け出したんだっけ…
今度も抜け出せる?
ゆらりゆらりと空中を泳ぐモビールを眺めた
瞼が重くなり、俺は眠った
**
何時間かは眠ったと思う
目を開けた瞬間の暗闇を恐ろしいと思った
いつの間にか『箱』の蓋が開いていて、俺の周りを『抑えつけていた中身』が取り囲んでいる
電話を取りテジュンをコールすると、俺に襲い掛かろうとしていた『中身』は静かになった
電話を終えた後も、『中身』は俺の周りに居続けた
お守りのように電話を握り締め、俺は目を閉じた
夢なのか現なのかわからない空間に、俺は居た
**
人の気配を、身動きできない背中で感じた
背後から回された腕に目が開かれ
その先についた長い指を見据えた
持ち主は誰なのか
ひょっとして俺は夢の中にいたのか
この指の持ち主は、『雌と番いたい』と言った人かもしれない
すると俺はあの…
俺だけが切り裂かれるような想いをするあの…
切なくて哀しくてどうしようもないあの朝を
今から味わわなければならないのだろうか…
頭をもたげてゆっくり振り向く
自分に起こる寂しくて哀しい出来事を予測しながら
俺を見つめていたのは
温かい眼差しだった
記憶の中にある『太陽のようなドンジュンの笑顔』と似ている
強張っていた体も心も、全てが緩んで
俺はその胸に顔を埋めた
ああ…
テジュンの香りだ…
そう思った瞬間、俺の意識は遠のいた
*****
しゃくり上げたり鼻を啜ったりしながら、腕の中のイナはくぐもった声で心のままに話をした
僕はその一つ一つを聞いていた
話し終えたイナは、大きな溜息をついて、僕の胸に額を押し付けた
彼の頭を撫でながら、僕が経てきた感情を繰る
『確実だから…貴方と迎えるこんな朝が最後だってことが…』
確かあったはずだ
よく似た想いをした
なぜイナがそんな想いに至ったのか、僕は想像していた
それを察したのか彼は呟くように話を続けた
ヨンナムさんは『女性』でないとダメなんだ
…
あの野郎…
「ふ…ん…。お前ほどの珠をそんな理由で放り出すとはな…」
「…大事な事だよ…」
「…ま、僕にとっては有難いことだけどさ…」
イナが女だったらだと?
なんて無神経な男なんだ、アイツは…
「お前、そんな奴を好きだったなんて…。いくら同じ顔だからってそう易々と惚れるもんじゃない、って教訓だぞ」
「…易々と惚れたんじゃない…」
解ってるよ
解ってるさ
イナが呟いたように、『全ての一瞬は二度と戻ってこない』のだ
『同じような瞬間を迎え続ける』ことはできるけれど、それだって何時『失われる』かは解らない
でも『突如その時を奪われる』のと『覚悟してその時を迎える』のとは違う
どちらも、計ってみれば同じだけの辛さだろう
ああそうだ、あの時だ…
ラブと2人で海の底から上がってきた時…
それぞれの恋人のもとへ帰るために、僕達は『終わらせた』のだ
あの時の感情とよく似ているかもしれない…
好きなのに終わりにしなきゃならない
僕達は『愛し合えた』から『それなりに納得』できた
けどイナは…
「俺に…言いたいこと…ないの?」
「ん?…そうだな…。哀しかったな…」
「…それだけ?」
「うん」
「『僕がいるだろ』とか『浮気者』とか言わないの?」
「ん?『浮気者』だと思ってないもん」
「…」
「んなこと言ったら僕の立つ瀬がないだろう?」
「…」
「気持ち、落ち着いたか?」
「…ん…」
「あ!こんな時に『…ん…』か?!たまんねぇな、ふふふ」
嫉妬が湧かないのはアイツがイナを奪わないと解ってたからか?
僕以外の人間への想いを奏でる唇を
僕はただ可愛いと感じている
情熱が無くなったのか?確実にジジイだな…
「なんか…無理してた…俺…」
イナの体が柔らかくなっている
「お前の顔見たらぐぁぁっと来て…」
「うん」
「テジュン…」
「お?」
「ありがと…」
「ん」
傍から見れば異次元の会話だろう
僕達はくっついたままモビールを見つめた
「テジュン…ギョンジンみたいだ」
「うん。僕もそう思う…。あれほど大きくないけどね、心も○○も」
本心半分冗談半分でイナを笑わせようとした
イナは真面目な顔で僕を見つめている
もうっ!
「笑えよ!恥ずかしくなるだろう!」
「…テジュン…」
「なんだよ!」
「心以外は十分あるよ」
「は?」
「大きさ…」
僕の、色々な『パーツ』が頭の中を飛び交う
自分が仕掛けた冗談にとっ捕まってどぎまぎする
「自覚があるのか…」
呟いたイナと目が合い、お互いに吹き出した
ギョンジンがどんな風にラブを大切に思っているのか、ほんの少し解った気がした
7時過ぎまでうだうだして起き上がる
布団を片付けて窓を開ける
それからイナの両肩を掴んで瞳を覗き込む
「大丈夫か?」
「…うん…」
「頑張れるか?」
「大丈夫だよ」
「僕には何でもぶつけていいぞ」
「…」
「信用しろよ!悟りの境地に至ったんだからさ」
「悟りの境地って、ずっといられるわけじゃないだろ?」
「…まあな。全ては一瞬のできごとだもん」
「…一瞬のできごと…か…」
「だから、そこに囚われないように、流れていかなきゃいけないんだよ、人って」
「…うん…」
「僕がいるから」
「うん」
微笑んだイナは、朝ご飯食べに行こうと可愛らしく言い、部屋のドアを開けようとした
そうはいくか!
僕はイナをぐいっと引っ張り、抱き寄せて耳に唇を近づけた
「あんだよっ!」
「何日してない?」
思いっきり色っぽく囁く
「朝っぱらから変なこと言うな!」
「ずーっとしてないだろ?…しよう…」
「ぶぁかっ!隣の部屋にソクとスヒョクがいるし、下にヨンナムさんがいるしっ」
「それにジャンス先輩もいる」
「え?!」
「だから…しよう」
「ぶぁかっ!TPOを考えろ!」
「我慢できないもん…ずーっと我慢してたんだもん…イナ…」
「やめっ!いやだっ!あっ…ん…」
久しぶりにイナとキスをした
済州島に行く前は会社に篭り、済州島でははぐらかされ続け、キスさえもしていなかった
その先に進みたくなるのを我慢して唇を離す
「さ、飯、食おっか…」
「…キスのことだったのか?」
「朝っぱらからフルコースは無理だよ、ここじゃ。確実に床が抜けるな、僕の実力だと」
「…」
「お?キスだけじゃ不満か?」
「違うよバカ!ホッとしただけだ」
「んふ。よく考えてみたら済州島ではキスすらしてないんだ。だから、すっごくしたかったの、キス」
「…ん…」
ひひひん。可愛いなぁこの『…ん…』
顔がにやつくのを感じながら僕は言った
「今日は昼飯も僕と食うんだぞ」
「…ん…」
「その後は『健全なデート』をして、お前の仕事が終わってからは『あーるしていコース』でとっぷりと…。…ふ。…ふふふふっ♪」
「…」
からかうだけのつもりが、本音も出たようだ
イナは俯いてしまった
機嫌を損ねただろうか…
少し心配になって様子を窺っていると、半分だけ頭をあげ、僕を上目で睨む
尖らせた唇と怒ったような甘えたような瞳に僕の’uncle heart’は撃ち抜かれる
イナが可愛い
どんなイナも可愛い
「きいっ!このジジイゴロシめっ!」
イナの首っ玉を捕まえて脳天にキスをする
それから僕達はヨンナムの作った飯を食うために、2人で階下へ降りて行った
Distance 8 灼熱 1 オリーさん
肩先に冷たい唇の感触を感じて
体の芯が震えた
唇はゆっくりと僕の肩をなぞり
徐々に温かさを増していく
肩先から首にかけて
その唇が静かに動くにつれ
震えていた体の芯にほのかな火が灯った
唇が首の根元にたどりつき
さらに耳の後ろにまで昇りつめた時
僕はかすかに声をあげ
その感触に酔いしれた
耳たぶを軽く噛んだ後
その唇は僕の顎の線に沿って動く
自分の胸の鼓動が耳元まで響いた
ひんやりとした手が僕の頬を支え
僕の顔を振りむかせ
熱い唇が僕の唇の片側を捉えた
喘ぎ声が塞がれていない側の唇からこぼれ
その自分の声で僕はますます高みに昇った
唇同士が互いに熱を帯び
その感触に僕の全身は火照ってゆく
やがて静かに押し入ってきた舌は
僕の舌を丁寧に愛撫し
僕もそれに応えようと懸命になる
どれほど続いたのかわからないほどの
長い口づけに僕は我を忘れて
その舌を求めた
それから
不自由な体勢を反転させようと
体の下にある肘に力を入れた
とたんにその唇は離れ
喉元をすべり落ちた
僕の肘は虚しく崩れ落ち
かわりに口元から喘ぎ声を漏らす
その声を吸い込むように
唇は僕の喉仏を優しく包む
僕はただその唇に翻弄され
体中で無上の悦びを感じていた
唇は彼そのものなのだから
彼の腕が肩先から首にからみつき
唇が襟足をなぞり始めた時には
僕はただ
ため息と喘ぎ声を絶え間なく漏らしていた
次の瞬間
体の芯が燃えるような感覚におそわれ
僕は彼を迎え入れたことを知った
彼はゆっくりと大胆に
僕の中に満ちていった
襟足の彼の唇からもわずかな息が漏れ
僕の喘ぎ声ともつれ合い
部屋の空間に響いては
吸い込まれていった
巻きついた彼の腕に力がこめられ
僕を背中から引き寄せ
完全には重ならない唇同士が
不器用に再び重ねられた時
僕と彼はひとつになった
訪れた静寂に漂いながら
僕は
すべてが満たされたことを感じていた
彼の唇は
また静かに僕の肩先をなぞり
僕は目を閉じて
その感触を味わっていた
とてもよかった…
その声に僕はふと目を開ける
今、何て?
とてもよかった…と言ったんだが
体中の血管が浮き立ち
流れる血液がすべて逆流したような気がした
あわてて振りあおいだ僕の目の前に
彼とは別の顔があった
先生…
先生が唇だけで微笑んだ時
目が覚めた
いつもの部屋にいつもの寝室
振り返ると
隣にいたはずの彼の姿はなかった
わずかに開いている扉の向こうで
シャワーを使っている気配がした
何て夢だ…
最悪だ…
昨夜の出来事が瞬く間に甦り
僕はベッドの上で膝を抱えた
わかっていたのに…
応援するって
支えるって約束したのに…
湧き上がった嫉妬を
抑えることができなかった
そして
先生の好意を
あんな風に使ってしまった
最低だ…
僕は最低で卑怯だ…
部屋にいるのがいたたまれなくなって
朝の街に出た
街は変わらずいつもの朝を迎えていた
車であちこちうろついた挙句に
人気のない公園を見つけ
片隅のベンチに座り込んだ
朝陽がこんなに眩しいのはなぜだろう
まるで体の中まで貫かれるようだ
さんざん朝陽の洗礼を受けた後
僕は先輩を訪ねた
頼まれていた仕事を渡し
かわりに頼んでおいた資料をもらった
ただその時の僕は
その資料に目を通す勇気が出なかった
その資料はダッシュボードの中に放りこまれ
しばらくそのままになってしまった
そして僕は彼と口をきかなくなった
店に出ても
家に戻っても
必要以外は…
後悔が
波のように押し寄せてくるのに
それなのに
僕は一歩も進むことができずにいた
僕の瞳には霞がかかり
彼は薄いベールで身の回りを囲った
僕はそのベールの中に踏み込めないまま
自分を責めることだけで
時間だけが過ぎていった
僕は最低だ…
最低の卑怯者だ…
ジェット・ラグ ぴかろん
あいつが帰ってきた
とてもとても嬉しくて俺はすぐにあいつに纏わりついた
あいつも嬉しそうな顔をして、俺の体を優しく支えた
あいつが傍にいると
とてもとても安らぐんだ
優しい瞳が俺を包んでくれる
幸せを感じる
なのに
あいつの心を一杯にできない
それが悔しくて俺はだだを捏ねる
いつもなら全部俺にくれるのに
今日は違う…
心の半分、ううん、もっと…誰かさんに向いている
「ぴーちゃん、今日もウチ来るだろ?」
「い?」
「いこっ。帰ろっ」
俺は傍に居たピーちゃんをウチに誘う
あいつの背中がピクリと動く
それだけで満足する
でも意地悪は止めない
「ちょ…ラブちゃん。ミン・ギョンジンはどうするのよ?」
「知らない。マンションに帰るんじゃないの?」
「…。ミン・ギョンジン。お前、今夜はラブちゃんとあははは~んするんだろ?」
「あ?…おん…」
あいつはオズオズと俺に近寄る
「ラブ…。その…。RRHに…来ない?」
「ピーちゃんがいるから俺のマンションに帰る」
「…あ…じゃ…その…。僕も…その…お前んちに」
「あんた疲れてるんでしょ?RRHに帰れば?!」
「…。いや…あの…ラブ…。僕、お前と一緒にいたいし…」
ようやく引き出した言葉にホッとする俺
「それとボストンの報告も必要だし。な?ミン・ギョンジンよ」
ピーちゃんがあいつにウィンクを送り俺達に気を遣っている
「ね?ラブちゃん。ミン・ギョンジンも一緒に…ね?」
「ラブ、僕、行ってもいい?」
「…。べっつに…。来たけりゃ来れば…」
口が勝手に心と裏腹な言葉を放つ
「♪じゃ、弟にそう言ってくる。待っててね」
『大事な弟』に行き先を告げに、『おにいちゃん』は控え室に走って行った
*****
「ギョンビン、おにいちゃんラブんちへ…」
控え室に一人、頑なな背中がぽつんとあった
ミン・ギョンビンという、僕の可愛い弟の髄を、背中の盾が死守している
MFAで見た教授の背中を思い出す
ぽっかり空いた双子のタワーの跡地
ニュースで見たCGのような現実の映像
爆発
炎
…僕の…愛した人…
二度と会えない妻、父、母…
様々な場面が重なりあって甦る
堅く目を閉じてそれらを振り払う
アナスターシャ…
チフン…
今、どこかで生きている人達…
「ラブ君ちに決まったの?」
振り返りながら答える弟を見た
いつもと変わらない微笑みを浮かべ、教授からの贈り物を掌で包んでいる
そこに縋るのか?僕ではなくて…
脳裡を過ぎった言葉にハッとする
ここにいるのはいつものギョンビンで、ギョンビンが縋るのはミンチョルさんで…
…今日はいない
…映画の撮影…
「どうしたの?兄さん」
「…あ…」
「大丈夫?疲れてる?そんなんでラブ君の相手、できるの?フフ」
瞳の端が泣きたそうに光ってる
「お前こそ大丈夫か?」
「え?何が?」
「…今、泣いてたの?」
それとも泣きたいの?
「何言ってるの?何で僕が泣くのさ。変な兄さん」
僕は弟に近づき、抱きしめた
「な!兄さん、ほんとに変だよ。気持ち悪いよ」
「ありがとうギョンビン」
僕は確かに変だ
「…なにが?」
「生きててくれて…」
「…」
「ここに…いてくれて…」
「…。マンハッタンの影響?」
「…」
「思い出したの?義姉さんの事…」
お前だって…お前だって婚約者を…
抱きしめる腕に力を入れた
「ハグする人が違うでしょ?ほら、行きなよ。ポールさんに彼を盗まれるぞ」
瞳が優しいのは辛さを堪えているからなのか?
僕は愛する弟の頬に掌を当てた
軽く目を閉じて、ほんの数秒間、弟は僕の掌に甘えた
幼い頃のように…
「お前、車?」
「歩いてきた」
「送ろうか?」
「兄さん、空港から直接ここに来たんだろ? 歩いて送ってくれるの?車じゃないでしょうが」
「あ…うん…。そうだった…」
「大丈夫?まだボケる歳じゃないよ」
「…ぉん…」
弟と2人で控え室から出た
出入口付近でダーリンがポールに吸い付いていた
「ほら見ろよ。僕にかまってる暇があったらラブ君見張ってなきゃ。兄さんの居ない間ずっとああだったんだから…。いいの?」
「…ん…。仕方ない…」
「何が仕方ないんだよ!兄さんの恋人だろ?ビシっとしろよ、甘やかしすぎだよ。取り返しのつかない事になったらどうすんのさ!」
ギョンビンは少しだけ目を吊り上げた
言葉を呑み込んで、ダーリンに近づいた
「ラブ、車?」
「んっ。…は?!」
「車で来た?」
ダーリンは僕に『どうしてポールとキスしていることを咎めないのか』と目で訴えた
「ね。車?」
「…ピーちゃんのレンタカーで来た…」
「帰りもそれで帰るの?」
「…。ピーちゃんお酒飲んじゃったから」
「じゃ、僕が運転する」
「…」
「ポール、キーちょうだい」
「お…おお…」
ポールのバカからキーを奪い、弟を振り返った
「ギョンビン、お兄ちゃんが送ってあげるよ。一緒に乗ってって」
「いいってば」
「遠慮するな。ついでだ」
「いいよ兄さん」
「だめっ!乗ってくの!ポール、ラブ、行こ」
顔も見ずに二人に声をかけ、僕は弟の手を引いて外に出た
一台だけ停まっている派手な色の『アクター』
…きっとダーリンがバカポールにこの車を薦めたんだ…クソジジイと同じ車だから…
「兄さん、僕の手じゃなくてラブ君の手、握ってあげなよ…」
「ん…あとでたっぷりいろいろ握る…」
「…。バカ」
喋らなきゃ天下一いい男なのに!とプリプリ怒る弟を助手席に放り込む
ダーリンとポールのために後部座席のドアを開ける
真一文字の口をしたダーリンが先に乗り込み、後に続くポールが僕にこっそり言った
「お前は大バカなのか?」
そうかもしれない
ラブを好きになればなるほど、僕の腕は開かれていく
「俺とキスしてたんだぞ?お前の目の前で。いいのかよ!」
「ラブがそうしたいんなら構わない」
「…。ほんとに愛してるのか?」
「愛してるよ、心から」
数秒僕を見つめたポールは、愛って解らない、と呟いて車に乗り込んだ
車を発進させ、RRHに向かう
弟は一言だけ、ラブ君、ごめんねと言い、押し黙った
ラブは聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか、ポールとこそこそじゃれあっていた
マンションのエントランス付近に降り立ち、ありがとう兄さんと言って微笑み、歩き出した
ふと立ち止まり振り返って
「もっとも喋らなきゃ兄さんじゃないけどね」
と付け加える。乗り込むときに投げつけた僕への言葉の続きだと、随分後から気づいた
その時の僕は、彼の不安定さに揺れていたのかもしれない
RRHに吸い込まれていく弟の後姿を長いこと見送った
「ピーちゃん、キスしよ」
「…ラブちゃん…」
「しよっ!」
ラブのマンションへと向かう車の中で、ラブはまたポールにキスを求めた
いくらなんでもミン・ギョンジンの前でそれはまずいだろう?と言うポールに、後ろだから大丈夫と答え、ダーリンはポールに圧し掛かった
信号待ちの間、ルームミラーの中で縺れ合う二人を、ドライブイン・シアターで観る映画のように、僕は見つめていた
『La Japnaise』の絵
あでやかな日本の着物を羽織り金髪の鬘をつけたモネの妻カミーユ
あの時一瞬、ラブを見たような気がした
ぼんやりと、ルームミラーのスクリーンに映る二人のラブシーンを眺める
貸金庫室での教授の慟哭
『弟』を取り戻そうとしていた彼の『恋人』
あの手紙、指輪…いつその時が来てもいいようにと毎年準備されていたそれらの品…
教授によって『手紙の主』にもたらされた『最高に充たされたその瞬間』
そこにいた僕の愛しい弟
想像と現実とが入り混じり、僕は勝手に彼等の愛の物語を作り上げている
シートの背もたれに軽い衝撃を受け、信号が青に変わったことを確認し、慌てて車を発進させる
酷いな、蹴っ飛ばすなんて…
僕のダーリンは、僕を煽るような息を漏らしながら派手な音とともにくちづけを繰り返すゴリラに絡み付いている
嫌だと思うのに生きてここにいる2人を愛おしむ気持ちのほうが強くて
それがどんなにダーリンを寂しくさせるか解っているのに
僕は微笑んでいるだけだった
夜の街並みの中を、道路の脇に居並ぶ照明灯の林を、僕達の車はすり抜けて行く
望もうが望むまいが『時』は過ぎ、生きている人達は皆、そうと気づかず前に進んでいる
立ち止まっても、振り返っても、『時』が僕達を前へと運んで行く
ギョンビン、辛い時はやがて去って行くから…
大丈夫だから…大丈夫だからね…
ダーリンのマンションの地階駐車場に、派手な色のアクターを停めた
痕 あしばんさん
何も考えずに夜の北西に車を走らせ
僕は、あの公園に向かった
ジンとヒョンジュの散歩のシーンに使われた公園
ドンジュンに言われるまでもなく、飲みに行く気にはなれなかった
しかし、自分の家に帰る気にもなれない
好きなリトグラフ、微かに残る珈琲の香り、見慣れた灯りの陰影
そして…あいつと数え切れぬ夜を過ごしたベッド
明日からの「ジンの心情」を作るにはあの部屋は…
あまりに穏やかで…思い出深く…残酷だ
夜の巨大な駐車場はがらんとしていて
どこに停めても誰の文句もないのはわかっているはずなのに
それでもど真ん中に停めないのは、どういったわけなのか
乾いた草を踏み、ひとり樹々を抜ければ微かな虫の声
そんな季節なんだろうかと耳を傾けると、途端に止まる
僕が諦めて歩き出さなければ、それはいつまで息を潜めるつもりだろうか
昼間とはまるで違う景色に、撮影した地点がどの辺りなのか見当がつかない
点在する外灯を頼りに進んで
適度なベンチに腰を下ろし、ひと息ついた
空を見上げてもただ黒いだけで、そこに空があるのかさえわからない
細い月は…見えない暗い雲の向こうだろう
明日の午後から、ヒョンジュを亡くした後のジンを演る
この気の重さは大いに役に立ちそうだけれど…
どす黒いタールのようなジン
あのヒョンジュを亡くしたジン
あの眼差しを…
「ああ…」
触れるんじゃなかった…
撮影所の控え室で、ミンチョルに触れるんじゃなかった
あんな明るい照明の中で、あの薄紅の痕など見るんじゃなかった
あれを付けたのは確かにこの唇なのに
それは現実にカウントされず、仕事という名に葬られる
僕は「ジン」なのだと思い知らされるだけだ
当然のことであるのに、胸が波立つ
ースヒョンを離れてヒョンジュを愛すから
そう言ったのは僕だ
ーおまえもただジンを愛してくれない?…できるかどうかなんて考えないで
そう言ったのも僕だというのに
黒い天井の見えない雲に隙間ができて、微かに月の輪郭を感じた時
僕は突然思い出した
今日、店で見たミンチョルの目を
ここ暫く影を潜めていたはずの、硝子のヴェールをかけた瞳を
僕と視線が合う度に伏せられた睫毛を
冷たいベンチに深く沈み思わずきつく目を閉じる
ギョンビン…ギョンビンだ
あの薄紅をギョンビンは目にしたはずだ、当然
そしてどうしたんだ?
なじられたか
いや、そんな男じゃない
目を逸らされたか
それとも…より濃く塗り替えられたか
は…
ばかなジン
僕なら、そんなものを残すなんていうヘマはしない
そう、ジンはばかなやつだ
あんなに大事なものを手放した
いや、手放したんじゃないと言うんだろう
手放すつもりなどなかった
ただヒョンジュも自分と同じだと…そう思ってしまっただけだ
自分が愛してやりさえすれば…それでいいのだと思っていたと
甘いんだおまえは
吐き出せない苦しさを、他の身体で紛らわせるやつだ
僕はおまえとは違う
おまえとは…
違うのか?…本当に…
ジンは…ソニと添いながら、何を想って生きていくのだろうか
彼女を心から愛しながら
今ある幸せをしっかりと自覚しながら
それでも時にあの瞳を思い出すのだろう
あの夢を思い出しもするのだろう
それでもソニは許してくれるのだろうか
それでも許してくれるのか?
…ドンジュン
自分とジンの想いが身体の中に充満して、息苦しささえ感じる
ヒョンジュを殺したジンと
今の僕のどこに違いがあるんだ
闇に酔ったような想いに、僕はどれほど気を取られていたのか
すべてが吸い込まれそうな静寂の世界であるにも拘らず
踏まれる草の音には、まるで気づかずにいた
「よぉ、こんなとこにお兄ちゃんがいらっしゃるぜ」
ベンチにうなだれたまま目だけを向けると
ガラの悪さを絵に描いたような風体ふたりが、僕の前に立ちはだかっている
大方、公園のカップルにたかる手合いだろう
「おお…こんな男前が、おひとりでどうなさったの?」
「もしや、たった今彼女にフラレちゃった?何か悪さでもしちゃったんじゃね?」
「だめよぉ~じっくり行かなきゃ~女の子はデリケートなのよぉ?」
下品な笑い声が、腹の底に響く
不快かと問われれば、一概にそうとも言えない
ただ、冷たく暗いとろりとした感触が臓腑を撫でただけだ
「んでもって落ち込んでるとこ悪いんだけど、お金持ってる?」
「ちょっとカンパしてくんないかなぁ…あるだけでいいから」
「ついでにその高そうな腕時計も置いて行ってちょうだい」
身体を起こして足を組み直し、真っ直ぐに相手を睨めば
ほんの微かにたじろぐのがわかった
後で考えれば、その暗闇の中、幽霊のような顔をしていたのかもしれない
勿論、その時の僕は他人と話す気分ではない
「聞こえなかった?お金出してくんない?」
「舐めたマネしないで下さいよぉ、お兄さん~」
肩を揺すって媚びた態度をとる男を見ながら
僕は、妙なおかしさに襲われた
ああ、この、見た目若い方の男…
目元が誰かに似ていると思えば、「抱擁」の院長だ
あの、ヒョンジュを貶(おとし)めた不しつけな目
「ナニだんまりカッコつけてやがんだよっっ!」
突如、その院長の目の男が乱暴に手を伸ばし
そして、僕のジャケットの胸ポケットから僅かに覗いていたのだろう
早業のように携帯を抜き取って地面に叩きつけ、踏みつけた
或いは、そんな程度なら多少の小銭をくれてやって追っ払ってもよかった
こういう手合いにいちいち付き合うほどお人好しでもない上に
まだ撮影序盤の身体を傷つけるわけにもいかない
しかし、叩き付けられた携帯が跳ねて開き
マチウケのドンジュンの顔が踏まれるのを見たのだ
ふくれて睨んでいるそれが半分男の靴の下になっている
やめろと言っている僕から逃げ回りながら
自分にレンズを向けているあいつの屈託ない笑顔を思い出し
僕の中は静かにキレた
携帯を踏んでいる側の足のすねに
座ったまま思いきり靴の踵で蹴りを入れたのは
ほんの瞬く間のできごとだったろう
院長似の男が、院長そっくりの濃い眉をしかめ悲鳴を上げてうずくまった
ずいぶんいい角度で決まったらしい
すかさず連れが僕に飛びつき、襟を掴んで立ち上がらせる
「この野郎っ!殺されてぇのかテメエ!」
「消えろ」
「なんだとぉっ!」
この男が刃物でも出したら、どうなっていたのかわからない
しかし、そんなことを考えるより先に
僕は、右手を上げて相手の耳上の髪の毛を力任せに掴んでいた
「何しやがる!」
「さぁ、何するかわからない」
「なっ…」
「邪魔な羽根は自分でもぎ取ったからな」
一瞬、男の顔が理解不能の色を帯びた
僕はといえば、もうその状況など考えてもいない
とぐろを巻いていたどろどろが出口を求めているのだけがわかる
ぞぞと湧き上がってくる冷めた怒りだけが僕を支配していた
「何だよ!その目はよっ!」
「人殺しの目だよ…見たことないのか?」
「な…何言ってんだこいつ」
髪を掴む力を緩めずに微笑んでやると
相手の目が屈辱と不安に取って変わったのがわかる
足を抱えた院長似が
うずくまったまま、そいつのジーンズの裾を引っ張ったのはその時だ
「おい、こいつちょっとヤバいって、やめとこう」
「でもっ」
「変だぜ、こいつ」
胸ぐらの力が少し弱くなった瞬間
僕は、わざとらしく手をぱぁに開いて髪の毛を解放した
目の前の男が乱暴に腕を離し
院長の目と共に、何やら汚い言葉を吐きながら離れていった時
僕はもうそのふたりを見てはいなかった
記憶に値しないほどのくだらない罵声も、瞬く間に森が消す
再びベンチにどさりと腰掛け
考えていたことといったら
少し腹が減っているのかもしれない…そんなことだったような気がする
そして、ヒョンジュを亡くした後
空腹を覚えたことに腹を立てたというジンの独白を思い出した
足元に落ちたままの携帯を拾い上げる
さほどの衝撃ではなかったのか、さしあたり壊れた様子はなかったが
ドンジュンのふくれツラは公園の泥にまみれていた
親指で拭ってやると、それは尚もふくれたまま僕を睨み
それでも口元が僅かに笑おうとしているのだと、その時気づいた
きっと…シャッターを押してから堪えられずに吹き出したのだろう
暫くすると消えてしまう照明を幾度も点けてみる
光っては…消える
暗闇の中で、そこだけが生きているかのように
僕は目を閉じ、そのままベンチに深く沈んだ
ひんやりとした空気が頬を撫で
無数に立っている黒い樹々たちが息を潜める
再びの静寂は
亀裂を塞ぎ月を隠した暗い空まで
続く
Enemy To whom it may concern(関係者各位) オリーさん
私は善意の使者である
私は内なる善意に突き動かされ、ここにある告発をする
貴校が今年度より迎え入れた英文学の教授について
真実の姿をお知らせしたく、筆を取った
その教授の名は、エリック・E・ワインバーグ教授。
文学部の教授である
彼は出身校から始まり、前任校にいたるまで
世界の名だたる名門校を渡り歩き、
その経歴には非の打ちどころがないのは事実であろう。
しかし、それは彼の人間としてのほんの一部分であって、
全人格を表すものではない。
彼がなぜ名門オックスフォード大学をやめてまで、
貴校へ就任したのか、本当の理由をご存知だろうか
彼は前任校を追放された身である
アラブの急進的テロ組織のリーダーと深いつながりがあり、
それが発覚したために大学から放り出されたのである
自由主義社会の教育者として、
テロ組織と関係があるというだけで十分追放に値するが、
加えて彼の私生活は目を覆うようなスキャンダラスな面がある
テロ組織を内偵していたわが国のエージェントと、あらぬ関係に陥り、
そのエージェントが帰国したのを追って、わが国へやってきた。
同封したのは、その証拠写真である。
わが国は、自由と博愛をモットーに教育を施す世界の先進国であり
儒教を重んじ礼節に生きる国家でもある
にもかかわらず、前述したような経歴の教授を採用したのは、
どのような経緯であろうか。
調査を十分に重ねたのであろうか
まさか、彼の履歴書に書かれた華麗な経歴のみを鵜呑みにして
採用したわけではないだろうが
前任校であるオックスフォード大学へ詳しい照会をしたのかどうか
採用した貴校の責任も甚だ重大である
このスキャンダルが公にされれば、貴校の輝かしい評判は地に堕ち
真面目に勉学に勤しむ学生達にもその災禍は及ぶであろう
だが貴校の状況も理解できる
誰もが、あのような経歴を持つ指導者を
迎え入れたいと思うのは当然であるからだ
軽率にも十分な事前調査なしに迎え入れたとしても
弁解の余地は残されている
よって、もし貴校がその非を認めワインバーグ教授を罷免するならば、
今回のことを公にするつもりはない
けれど、引き続きかの教授を雇用し続けるようであれば、
公共の利益を鑑み、貴校の失態を告発しなければならない
なぜなら、私は善意の代弁者であるのだから。
貴校に与えられた時間はそう長くはない
速やかに賢明な決断を下すことを期待する
善意の使者より
俺は何度もその告発文を読み返した
読むたびに自然と笑みがこぼれる
楽しくて仕方がない
これを読んだときの知りもしない学部長とやらの
あわてふためいた、まぬけ面が目に浮かぶ
どうせ薄汚れた豚のような奴に違いないが
「自由と博愛に満ちた教育者」である学部長は
すぐにでもあいつをクビにするに違いない
大学などそんな奴らのたまり場だ
偏見と差別主義が蔓延る欺瞞だらけの・・
肉親でさえ冷酷だ
俺の体に西洋人の血が半分流れているというだけで
両親に死なれた俺を引き取ることを拒んだ叔父夫婦
たった一人の甥っ子が
異国の地で路頭に迷うことなど歯牙にもかけない身勝手な奴ら
だが、おかげで俺は立派な孤児になった
街角に立って物を盗み、体を売り
たった一人で生きてきた
あの人に会うまで
そう
あの人に会うまでは・・
俺は残された使命を遂行するだけ
あの人の無念を晴らすだけ
あいつに抱えきれないほどの苦悩を与えてやる
資産家のあいつにとって
職を失うことは、さほど痛手ではないかもしれない
だが、小さなことも積もり積もれば
大きな山となる
とりあえず、これが最初だ
この間、あいつに開き直られた時には
思わず逆上してしまったが、
なに、些細な事だ
あいつがあんなすました顔をしていられるのも
今のうちだけ
これから起こるすべてが俺にとってはお楽しみ
ゆっくりと楽しもう
俺はその手紙を丁寧にたたんで封筒にしまうと
縁を舐めて封をした
切手を舌で湿らせて貼れば完了だ
ベッドの上のジャケットを掴んで街に出た
街角のポストにその手紙を放りこむ
コトンと音を立てて
手紙がポストに落ちたのを確かめる
上を見上げると
空が青く高く広がっている
いい天気だ
暖かい空気を胸一杯に取り込んでみる
世界中が俺の味方だ
すべてが俺を祝福してくれている
何だかとてもいい気分だ
なぜなら俺は善意の使者なのだから
俺は口笛を吹きながら
雑踏の中を歩き出した
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