ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 288

沸点1  Kidnapping オリーさん

グリルしたベーコンとチーズを入れたオムレツは、皿の上で冷え切っていた
それでも仕方ないと小さなため息をつく
彼と食事の時間をずらしたのは、自分なのだ
ライ麦パンを軽くトーストして皿にのせ、コーヒーを温め直し
それでいくらか食欲を駆り立てた

テーブルのすぐ横には、食べ終わった食器が置き去りになっている
また片づけてない
なぜ自分の使った食器を片づけられないのか
ダイニングテーブルからシンクまでの短い距離の移動ができないのか
心の中で舌打ちをした
が、すぐに頭を振った
それでいいのだ
彼が約束どおり食器を片づけたり洗ったりしたら
一気に落ち着かない気分になってしまうのだから…


強引にベーコンをパンにはさみ、コーヒーで流しこんでいった
オムレツはフォークで大雑把に切り、機械的に口に運んだ
ひとりきりのテーブルは広すぎるけれど
今はふたりでいるよりは気が楽なのだと自分を納得させた

昨日から始めた作業は思ったとおりあまり成果がなかった
それでも地道に続けるしかない
続けていればいつか行きあたる
あの青年に…

最後のオムレツの切れはしを口に入れ、残ったコーヒーを一気に飲み干し、
二人分の食器をシンクに運んだ
備え付けのディッシュウァッシャーを少しの間眺めてみたが、
結局手洗いしてクロスでふいて片づけた
ついでに冷蔵庫の扉を開け、中をチェックして
少し食料を買い足しておこうと思った
夕方一度戻ってきて店に出る前に買い物をしようと

スケジュールを頭の中で確認して、部屋に戻った
すでに相手は出勤しているので、部屋には誰もいない
ドアを開けたとたんに部屋の温もりが肌に纏わりつき、
同時にその部屋のもう一人の住人の残り香がかすかに鼻をくすぐった

自分も香りをつけているのに、
なぜ彼の香りの方を感じるのだろう
ふだん思いもしなかったような気持ちが芽生え
改めて部屋を見渡してみた
何気ない日常の朝がそこにあった
自分と彼とのふたりだけの暮らしが…

デスクの上に積み上げられた彼の書類
ベッドのサイドテーブルに伏せてある読みかけの本
無造作にソファの背もたれにかけてあるバスタオル
ソファの上にはパジャマが投げ出されている
ベッドの上ではコンフォーターがめくれたままの形を保ち、
そこに脱ぎ捨てられたもう一組のパジャマ

そんな一コマ一コマのどれもがふたりの暮らしを物語っていた
ここが家だと言った彼の言葉を思い出した
ここが家だと…

ここまで来たのに
やっとここまで来たのに
この暮らしを脅かす物が、
まさか自分の身の内から湧いてこようとは

どんなことがあっても
あの瞳を
あの瞳をずっと追い続けていくと決めたのは
ついこの間のことなのに
ここ何日かの間、心の中に広がる漠とした負の気持ち
それにどう立ち向かっていけばいいのか
真剣に考えると、立ち向かうどころか
それに飲みこまれそうになってしまう自分に気づいていた
情けない…

そこでまた別の顔を思い出す
空港で見送ったあの人
あの時、あの人は自分との間に線引きをした
そうすることで自分を守ろうとしてくれたのだ
その気持ちが痛いほどわかるだけに
甘えるだけでいいのかと自問する
そして、そこからまた迷路に入る

この暮らしを
あの瞳を
あきらめることができるのか

自分が立っている部屋をもう一度見渡してみる
自然と足が動き、バスタオルとパジャマを片づけ、
乱れた寝床を整える
この部屋は、一人で暮らすには広すぎるだろうか
そんな考えが浮かび、あわててまた頭を振る

この部屋は二人の物
何があっても…

気持ちを立て直すために、今日の予定を確認することにした
手帳を開き、昨日回った探偵事務所をリストからはずす
そして今日回る予定の事務所をリストアップする
大手でない、中堅以下の小さな事務所に目をつけた
亭主の浮気、妻の浮気、はたまた浮気相手の浮気
そんな件を主に調べている小さな事務所
あの彼が雇ったというのは案外そんな所の人間かもしれない

なぜなら暴力団のような、ある意味組織がしっかりしている所では
外部の人間が組員を使うのは案外と面倒なのだ
金だけの問題でなく

それにしても、あの偽学生はどこにいるのだろう
希望通り先生を大学から追い出したのに、何の動きも見せない
それとも、先生がいないから動けないのか
いずれにせよ、早く見つけなければ
これ以上何かをしでかす前に…
逸る気持ちを抑え、また作業を続ける

手帳にリストアップした事務所を書きこみ
出かける準備は整った
万が一遅くなって戻ってこれない事を考えスーツを着た
その時は買い出しは明日だな、と独り言を言いながら
買ったばかりのダッフルコートを手に取った

ふたりでそのコートを選んだ情景を思い出す
最近流行が回帰して密かなブームなんですよ、
特に大人の男性がよく買っていかれます
店員の言葉に彼はにやにやして自分の肘をつついた

そのコートに目をつけたのは彼が最初だった
ミンに似合うんじゃないか?
そう言って店の中にずんずんと入っていってしまった
今さらダッフルでもないんじゃない、学生じゃないんだから
そう言おうと思った矢先の、店員の先制パンチだった

中間色であればオフの時でもビジネスの時でもお召しになれます
その点が定番の強みです
気軽に羽織れるのも人気の秘密のようですね
有名なヨーロッパの老舗の店員はさらに微笑みを大きくした
そして深いベージュのダッフルを手に取り試着をすすめた

コートを欲しいとは思っていなかった
だが袖を通せば買う事になるという予感はした
なぜなら彼が乗り気だったから
断る理由が見つからず、その場でコートを羽織った
彼は、案の定よく似合うと言ってにっこり笑った

無駄な抵抗だとわかっていたが、イマイチだと渋ってみせた
すると、別の色も試着させられた
何着か試着をして鏡の中の自分を見るうちに、
案外いいかもしれないと思い始めた
そして結局、明るいカーキ色に決まった
彼が買ってくれると言うので、甘えることにした

それから彼にも試着をすすめた
どうせなら一緒に買おうよ、こっちは僕が払うから
目でそんな風に合図してみた
彼は主人公が入れ替わったことにちょっと戸惑いを見せたが
気づかないふりをした

ねぎをしょったカモが2羽になったと気づいた店員も加勢した
同じように、あれこれ試着させ、
彼は、自分が最初に試着したベージュのダッフルに決めた
コートの支払いをそれぞれのカードで済ませた時には店員は上機嫌で
一足早いクリスマスプレゼントですね、と言った
彼はその言葉に戸惑った微笑みを浮かべた
照れる事もできずに…

その時の彼の顔を思い浮かべながら、そのダッフルを着込んだ

外に出ると、冷気が顔を直撃した
ここへきて、空の青は濃い灰色を帯び
冬の気配があたりの空気を一気に張り詰めたものにしていた
それでも寒い空気を振りはらって歩くのは嫌いではなかった
車でなく地下鉄を移動の手段に使ったのも
外を歩き回りたかったからかもしれない

最初に行ったのはこぎれいな探偵事務所だった
所長も所員もすべて女性という業界では目新しい事務所だった
主に亭主の浮気を心配する女性を相手にしているということで
女性の悩みは女性が解決するのよ、とその若い女所長は胸を張った
浮気現場を隠し撮りすることはありますかという質問には
所長があっさりと、現場主義の私が撮るのよと言って笑った
青年の写真を見せても、特に反応はなかった
すごいハンサムだわ、という以外には

次に訪ねた事務所は、雑居ビルの3階にあり、
所長は元警官だという初老の男だった
こちらは浮気調査よりも家出の調査などが多いという説明だった
定年退職した警官がそのノウハウをうまく使って
地道にやっているという印象を受けた
隠れて証拠写真を撮るような機会はあまりないとのこと
写真を見せると、よかったら探してやろうかと言われた
少し考えた末に、もし見かけたら連絡をと頼んで金を握らせた

ふたつ目の事務所を出るとすでに昼の時間だった
朝食が遅かったのでまだ空腹ではない
もうひとつ回ろうかと思ったが
コーヒーショップが目の前にあったのでそこに入った
カウンターで注文したコーヒーを受け取り窓際の席に座った
コーヒーをすすりながら胸ポケットから手帳を出した
そしてそのページを開いた
何度も考えて答えの出ない問い
あの青年は何者か…

英語は完璧だった
ただし、思い返せばコックニーが少し入っていた
ロンドンにいたというのは嘘ではないだろう
だが…

羅列した項目をもう一度眺めてみる
何度見ても答えは出ない

なぜオックスフォードの件を知っていたのか
組織に関係あるのか
ならば、なぜもっと強硬な手段に出ないのか
あの件が外部に漏れる可能性はどのくらいか
MI6の側から漏れた可能性は?
ロジャースさんは何か他にも知っていることがある?

考え疲れて、ため息をついてふと回りに目をやってみる
今、尾行はついているだろうか
自分自身が囮になっている可能性もなくはない
昨日からかなり大胆に聞きこみをしているのは
その可能性に賭けている部分もあるのだ
向こうから出てきてくれれば話は早い
その時はそんな風に思っていた

もう少し用心すべきだったと気づいた時には遅かったのだが

店の中はむっとするほど暖かく、昼を急いですませるサラリーマンや
デートの途中だろうか、笑顔でお茶を飲んでいるカップルなどで埋まっていて
特に変わった風景は見当たらなかった

コーヒーを一気に飲み干したのは急きたてられる思いからだろうか
手帳をしまい、空になった紙コップを掴んで立ち上がった
コップをゴミ箱に投げ入れ、また街へ出た

店を出ると少し離れた所から声をかけられた
振り向くと、先ほどの元警官が手を振っていた
近づいて、どうしました、と聞いてみた
初老の男はにっと笑って、役に立てるかもしれないよと言った
たまたま同業者から電話があり、例の青年の事を知っているらしいと言う

今日は暇だから案内してくれると言う彼の言葉に
いいタイミングですね、と答えると、男はわずかに顔色を変えた
疑ってるのか?
その反応に少し違和感を覚えながらも
そういう意味じゃありません、ラッキーだなと思って、と答えると
男はまたにっと笑った
足を棒にして歩いて回っても何にも出てこないことがある
けど、たまに一発目で当たりなんてこともある
まあ、めったにないけどな
男はそう言うと誘うように歩きだしたので、半歩遅れて後ろをついて行った

途中、僕の父も警官でしたという言葉がふと口から出た
男は足を止め、こちらをまじまじと見つめた
その視線を受けて、殉職しましたけど、と余計な言葉までつけ足してしまった
そりゃ気の毒だったな、男は肩を叩いた
それで、親父の後を継いだのかと聞かれた
自分は警官ではありませんと答えると
てっきりデカの聞きこみかと思ったんだが
男はそう言ってまた歩きだした

何をやったんだ、写真の若造は?
歩きながら男が訊ねた
少し考えてから、人を脅していますと答えた
それがエスカレートする可能性があるのでやめさせたいんです
脅しかと言って、男は眉をひそめ、ふんと鼻を鳴らした
それから車はこっちだと言って露地に入った

ビルとビルの間の細い道を入っていくと、ビルの裏手の駐車場に出た
表通りの喧噪とはうってかわって
ロープで枠を囲っただけのさびれた様子の駐車場だった
場所はいいのに手をかけていないせいか、駐車場は空いている
車は数台しか停まっていなかった
一番奥に停めてある大きなワゴンを指さしてあれだよ、と男が言った

その車が妙な印象を与えたのは
後部座席のウィンドウまで黒塗りだったからだ
体の中で小さなランプが点滅した

りっぱなワゴンですねと言うと
退職金で買ったのさと男が肩を震わせて笑った
その乾いた笑いが、隙間だらけの駐車場の空間に大袈裟に響いた
変わらぬ歩調で車に近づきながら
男がポケットからキーを取り出した

そして、へんてこなロック解除の音がしたのと、
ワゴンから黒い影が飛び出し、こちらに向かってきたのはほぼ同時だった

ある程度予想していたので最初の襲撃はよけることができた
が、体勢を崩した直後背中から羽交い締めにされた
元警官だという男が後ろからかぶさっていた
身動きが取れずにいると
先ほどかわした男が正面から向かってきたので
足で蹴り倒して、絞められた腕をふりほどこうともがいた
元警官という話は本当かもしれない
締め方は本格的だ

男を数歩引きずってワゴンのどてっ腹にぶつけ、ようやく腕をふりほどいた
次の瞬間腰に激痛が走り思わず片膝をついた
ワゴンの中にもう一人仲間がいたのだ
下を向いたまますばやく振り返ると、二本の足が見え、脇に鉄パイプが光っていた
その隙に、先ほど蹴り倒した男が追い付いてきて同じ腰のあたりに蹴りを入れられた
その場を逃げるため転がって車から離れたが
立ち上がった時には二人の男が同時にこちらに向かってきていた

最初に打たれた腰の痛みが効いてきて、徐々に動きが鈍くなっていくのがわかった
逃げ道を確保するために
男二人に交互に蹴りを入れて隙間を見出そうとした瞬間
耳の後ろでシュッと風が動く音がした

振り返る間もなく、両膝が折れた
首の付け根に衝撃を感じたのはその後だった

お兄さん、金を出す時はもうちょっとはずんで欲しいね
元警官の言葉がはるか遠くにぼんやりと聞こえ
後の二人がとびかかってくるのが、コマ送りの画像のようにスローで見えた

元警官なんて嘘だろ…

消えていく意識の中でそう呟いてみたが、後の祭りだった


ため息の行方  あしばんさん

NYから来たミス・リタは
どこぞのモデルかと思うような女性だった


スラリとした身体をタイトな黒いパンツスーツで包んで
器用に束ねた髪(夜会巻きって言うって後で聞いた)は見事なブロンド
化粧は濃いけど嫌味じゃなくて、頭の良さそうな眼差しの邪魔にもなってない

その彼女が、パクの会社の応接室に入るなり他の何にも目を向けず
窓際に立っていたパク・ウソクの前に一直線に進んで抱きついた
ヤツもうやうやしく背中を抱きしめて微笑む

「会いたかったわ、1年ぶりかしら」
「相変わらず綺麗だ」

彼女の頬に、まるで女神でも崇めるようにキスするあいつの
満面の笑みに呆気にとられた
ヤツの女の扱いにはいつもソツがない

ようやく僕に気づいたかのようなリタにヤツが僕を紹介すると
彼女は僕の全身をさらっと見てから、握手を求めて来た

「よろしくドンジュンさん、プロフィールのお写真よりハンサムだわ」
「お世辞でも嬉しいです」
「英語お上手ね」
「ドンジュン君に通訳はいらないよ」
「じゃあ、話が早いわね」

ヒールのせいで、僕とほぼ変わらない長身
側で見ても見惚れるくらいの美貌
パク・ウソクと並んでると目も眩むようなカップルに見えるけど
でも、ただの美人じゃない
僕を値踏みした時の目は、凍るように鋭いものだった



彼女が到着する前に、僕はパク・ウソクと打ち合わせを終えた

「え…あなたは会議に出ないんですか…」

そのひと言を口にした僕はまったくのマヌケ面だったと思う
会議テーブルの上の書類から目を上げたパク・ウソクは
何言ってるって顔で僕をジロリと眺めた

「当たり前だろう、うちは今は単なる橋渡しだ
 今回の顔合わせも向こうの要望でここを使うことになったに過ぎない」
「そか…そうですよね」
「そんな心細そうな顔であそこと渡り合えるのか」
「大丈夫です」
「言っておくが相手は表現のプロだからな、口先で騙すのは無理だぞ」
「…はい…」

カロッツェリアとして再生しようなんていうクレイジーに
尚、普通じゃない発想をぶち込むための導火線
世界の先端を行くと言われてるデザイン会社との契約が成功すれば
株主たちの賛成はおろか、新しいスポンサーも見込める

パク王国のバックアップ、長年のノウハウと技術者の確保
それから世界的なクリエィターの確保
このお膳立てが揃えば、パチフラたちにNOとは言わせない

そんな大きな局面だからか
僕は無意識にパク・ウソクの参加を期待してた

「チーフデザイナーのリタはあそこの重役でもあるからまず彼女だ」
「今、新事業の準備でも忙しいんでしょ?」
「ああ…まあな…」
「すごいキャリアの女性ですね」
「天が二物を与えたいい例だが、ヴィーナスみたいな顔に騙されるなよ」
「は?」
「仕事に関しては、その辺の男どもより遥かに抜け目ない
 あの鉄の心臓さえなけりゃ最高にいい女だけどな」
「へ?」
「今のはオフレコだ」
「あ…はぁ…」

思わず聞き返したのは
鉄の心臓ってのに興味が湧いたからじゃない
この男から「いい女」なんて言葉が出るとは思わなかったから

この男に関しては、とにかく女の噂がない

普段、節操ってもののないスヒョンの側にいるせいで
ほとんどそういう感覚が鈍ってるにしたって
この男の女関係が最高機密扱いになってるとしたって
噂ってものまでを制御するのは世の中難しいはずなんだけど

どこぞのご令嬢と食事をしただのパーティに出ただのは聞こえても
誰だかを泣かせただの、修羅場になっただのって話はいっこうに聞こえて来ない
あっても、いつだかの勘違い女くらいだろう

「余裕だな」
「は?」
「今、まるで違うことを考えてただろう」
「…あ…いや…」
「まぁいい、君の心臓も普通じゃないからな」
「ふっ普通ですよ!」
「俺は、普通ってものには興味はない」

その台詞に妙にドキリとして
ふんと鼻で笑われたにも拘らず反論できなくなった
昨日の自分を忘れようとしてるのに
ちょっとしたことで湧き上がって来るのが悔しい

「さて、そろそろ到着だな」
「あの…」
「あ?」
「あの…ちゃんと聞かせてくれませんか」
「何を」
「なぜうちみたいなちっぽけな企業にこれだけの時間を割いてもらえるのかを」
「投資ノウハウの講義でもしろって言うのか?」
「じゃなくて…こんな話…危険が大きいでしょ」
「ハイリスク、ハイリターンは今さらだろ」
「そのリターンって何ですか」
「まだ、乗っ取りなんて考えてるんじゃないだろうな」
「いえ…そんなことは…」

パク・ウソクは手に持ってたペンをポイと放り出して椅子の背にもたれ
会議テーブルの向こう側から真っ直ぐに見据えた

「うちは小さな繊維会社から出発してあらゆるものに手を出してきたが
 全てハードを売ってなんぼの世界だった」
「ええ」
「ここ最近は海外投資にばかり力を入れ過ぎて、Information Technologyや
 システム開発事業には何十歩って遅れをとっている」

それは、あの爺さん社長のワンマンが招いた事態だって
2年前くらいからの記事には随分書き立てられてた
優秀な長男も腰巾着の幹部たちもヌル過ぎて
それでこの男が呼び戻されたんじゃないかと思ってる

「君のところの車などに興味はゼロだった、業界自体が行き詰まりだしな
 再生計画も虚しく末路は見えてる、社長の友情だか同情だかが邪魔したが
 遅かれ早かれ株は売却するつもりでいた、二束三文で」
「…」
「ところが、変なのが現れてな」

パク・ウソクはちょっと薄ら笑いを浮かべながら
右手の長い人差し指をコツンコツンとテーブルに落とす

「物を売るのをやめて脳みその中身を売るから協力しろって言う
 初めはバカバカしいと思っていたんだが、あながちそうとも言えない」
「…」
「君のプロジェクトが成功すれば、初めての本格的ソフト事業への繋がりが
 できる上、その先には見事に繊維、金属、機械、ファイナンス、物流、
 今うちが持つ殆どの部門での需要が見込まれる」
「そんな…」
「あ?」
「そんな上手く行くんですか」
「手を抜くつもりはない」
「で…でも、もしコケたら…連鎖反応起こすじゃないですか」
「ああ大丈夫、いつでも切る用意はあるから」
「切るって…」
「最近系列企業のすべてを独立採算制にしているのを知ってるだろ
 勿論それだけじゃない、独自の資金の運用システムを調整中だ」
「…」
「まさか、君のところと心中するとは思っていまい?」
「…」
「何の同情もしない、危ないと判断したら即時手を退く
 誰がどう関わってようと、その時の状況など一切関係なくだ」

僕は、思わずゴクリと唾を呑み込んだ
パチフラと同じ台詞を言いやがる
久々に見たこいつの悪魔顔はムカつくけど…納得がいく

「まぁいずれにしろ頑張ってくれ
 1万人からの人生が掛かってると思えばやり甲斐も出るだろう」

そうだ…これはビジネスだ
この男がただの酔狂でうちに投資するわけないんだ
毎日何十億もの金が動いてるこの企業がうちに投資する理由は
ただ利益を生む機械に育て上げる、それ以上でも以下でもない

僕は…相変わらず甘いんだろう…
でも…
ホントにそれだけなんだろうか

明らかに張っていた肩が落っこちたのに気づかれたかもしんないけど
僕は、真っ直ぐに相手を見た

「仰ることはわかります」
「でなけりゃ困る」
「あなた…言いましたよね…夢が過ぎるって」
「覚えはある」
「今でもそう思ってますか?」
「いや、商売になりそうだと判断したから動いたまでだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
「この分厚い計画書の中の1行もあなたの気持ちに響きません?
 ああこんな感じっていいかもしれないなって、ちょっとも思いません?」
「何?」

何でそんなことを言う気になったのかわかんない

「僕は、少しでもそう思ってもらえなきゃできない
 これから力を貸してくれるって言う人に少しでも共感してもらえなきゃ
 そんなの例え世間が成功だと判断したって何の価値もない」
「何を言ってるんだ」
「だから!僕を理解してくんないヤツとは組めないってことだよ!」

パク・ウソクは、指を宙に止めたまま僕を見てる

「仕事に意味など考えたことはない」
「意味じゃない」
「…」
「何を…感じるかってことだ」

ヤツのちょっと困ったような顔を見たのは
その時が初めてだったかもしんない

暫く彷徨ってた濃い茶色の目は、そのまま僕から逸らされて
ブラインドが全開している窓の外に流れて行った

「…考えておく」

ヤツのその何でもない言葉を
ヤツをよく知ってる連中が聞いたらどれほど驚いたかなんて
その時の僕にはわかりようもない
普段は、返答を先延ばしにするようなマネは絶対にしない男だって
そんな話を聞いたのは後日だ

その時の僕は、ただ「はぐらかされた」くらいにしか思わなかった

「あなたのご期待にどれほど添えるかわかりませんが
 僕だって手を抜くつもりはありませんから」
「ああ」

ようやく窓から視線を戻したパク・ウソクは
ちょっと息を吐いてから腕時計を見て立ち上がった

「いろいろ言ってくるだろうが、冷静にな」
「え?」
「君は直ぐに答えを出したがるのが悪い癖だ」
「わかってますよ」
「それに直ぐに血がのぼる」
「気をつけます」
「何が今一番大事なのかを考えろ」
「めちゃくちゃ信用がないみたいですね」
「とにかく慌てるな」
「わかってます!」

パク・ウソクが
お付きの爺やみたいに何やらしつこく僕に注意したその理由は
この後の会議でわかることとなった


ゆらゆら 3  ぴかろん

「イナシ、朝ご飯、どうぞ」
「…。これ、何が塗ってあるの?」

テソンに差し出された朝食の、フランスパンらしきもののトッピングがよく解らない
俺は恐る恐る聞いてみた

「アンチョビとカッテージチーズを混ぜてパセリを散らしてみました♪それとテソン特製コンソメスープ。あ、トッピングしてないパンにはテソン特製リンゴジャムで召し上がれ~。それから、サラダもちゃんと食べなきゃダメだよ」
「あんちょび?」
「うん♪食べて」
「…。にがい?」
「美味しい♪」
「…。まずスープからいただきましゅ…」
「もう!イナシ、わけの解んないものだと警戒心強すぎ!僕を信用してないの?僕が美味しいっちってんだから美味しいんだよ!ほら!」

突き出された『あんちょびとかってーじちーずのぱん』を、俺は齧ってみた
味わうと…確かにおいちい♪
テソンにニッコリ微笑むとテソンもニッコリ微笑んだ
リンゴジャムも美味しいしサラダもスープも美味しかった
食後にはテソンが淹れてくれたフルーティーな紅茶が出てきて至れり尽くせりだ…うふん…
やっぱりたまにはcasaメシ食わなきゃなぁ

そうやって俺が朝御飯を食べている間、mayoさんとテスは何やら深刻な顔で話しこんでいた
聞くともなしに聞いていると、昨日どうしてチェミに何も言わなかったのか、とか、秘密にしててもチェミにはバレてるのに、とか
mayoさんがテスにチクチク責めているように思えた

「だぁぁってぇぇ…言う暇なかったしぃ、チェミにはあんまり関係ないしぃ、チェミは関心持ってないと思うしぃ」
「何言ってんの。テスの事だよ?チェミが関心持たないわけないじゃん!あんな顔して本とはイライラハラハラしてたと思うよぉ」
「…でも、昨日の夜、僕がベッドに滑り込んだ時、なんにも言わなかったもん…」
「黙ってるつもりだったの?」
「うー。そうじゃないけど…。言いそびれたんだもん…」
「ほんとぉ?」
「ほんとだもん!だってさ…だってチョンエの心はヨンナムさんで一杯だったんだもん!」

チョンエ?ヨンナムさん?

「てすっ!どゆことだよ!」

俺は慌てて二人に声をかけた

「あ。イナさんがいたんだ…」
「『チョンエのココロがヨンナムさんで一杯だった』の『だった』ってのはどういうことだ!説明してくれ」
「なんでさ。なんでイナさんに説明しなきゃなんないのさ」
「だからっ。昨日ってお前チョンエに会ってたの?」

テスは真顔になってコクンと頷いた

「ええええっ?いつだよっ!」
「…夕方…っていうか…まぁ、夜っていうか…」
「(@_@;)チョンエ、済州島に帰ったんじゃねぇのか?」
「帰ったよ」
「(@_@;)」
「空港まで送ってってあげたの。スヨンさんも一緒に」
「なにっ?!なんでテスが!」
「だってチョンエが電話で頼んできたんだもん!」
「それをチェミに言ってないんだよね~テスシ。怪しいでしょ?」
「(@_@;)あ…アヤシイコトしたのか?」
「なによアヤシイコトって!ただ送ってっただけだもん!」
「どうやって?!」
「どうやってって…車でだよ」
「テスが運転したのか?!」
「どういう意味よ!ぶー!僕だって運転ぐらいできるもん!」
「(@_@;)あぶねぇ…」
「危なくないもん!…でも昨日はジョンダルが運転してった…」
「じょんだる?」

ジョンダルってのはテスの、子分とは思えない子分で、禿頭口髭いかついガタイ、だけどなんだか可愛い奴だ

「…お前、まだ親分気取りやってんの?!」
「だってジョンダルったら僕のこと慕ってくれてるんだもんっ(`^´)」
「mayoさん、ほんと?」

俺がmayoさんに尋ねると、その辺をウロチョロしていたはるみがmayoさんの膝に駆け上り、ブンブン頭を縦に振った…

「テスシ、ジョンダルの前では『えばりテス』なんだよね~はるみ♪(^-^)」
「いいじゃんかmayoッシ!(`^´))」
「…」
「イナさん!その目はなによ!」
「…一瞬、昔のテスを思い出した…」
「ふふふん。僕だっていきがってた時があったからね」

胸を張って威張るテスは、ほんとうにちっとも怖くない(^^;;)
俺はテソンの作ってくれた朝食を頬張りながら、テスがチョンエを送っていったいきさつを聞いた

昨日の夕方、チョンエから、今夜済州島に帰ると電話があったのだそうだ。テスはチョンエとあれこれ話し、お互いに幸せになろうね、などと約束したらしい。なんとなく電話を切りたくなくてだらだらと喋り続けるうちに、お互いの今の『詳しい状況』などを報告しあったそうだ。その話の中でジョンダルが登場する
俺もよく知らなかったのだが…casaの4人は知っている…テスは『副業』として『なんでも屋稼業』をやっているらしい。組を解散した時に、ジョンダルを始めとする組員たちの行き場を案じ、テスが起業したとか…
やるじゃん、テス
『なんでも屋』の運営に関してはジョンダルに任せ、必要な時にテスが『えばりテス』になって出て行くのだそうだ
その話の間中、mayoさんはクッククック笑っていた

「笑うことないだろmayoッシったら!『なんでも屋』のおかげで、行かなきゃなんなかったリュルさん関係の出張やらなんやら、避けられたんじゃないのよ!」
「はいはいはい(^^;;)そうでした」
「ふぅぅん…」

その『なんでも屋』の話が出たときにチョンエは突然ジョンダルに会いたいと言ったんだって
俺はピンと来た。ヨンナムさんの夢と被るところがある仕事だから…
案の定、車の中でチョンエはジョンダルとテスに、仕事内容や経営状態について詳しく聞いてきたらしい

「でね、興味あるの?って聞いたらチョンエ…」
「ヨンナムさんだろ?」
「…。うん」

テスはニコっと笑った。けどその笑顔がいつもよりほんの少しだけ寂しそうに見えた

「チョンエは…それ聞いてどうするつもりだったのかな…」
「うん…。ヨンナムさんが同じような事をやりたがってたからって…それだけ…」
「それだけ?」
「うん。ヨンナムさんにこの事話してもいいかって」
「ふぅん」
「もしかしたらヨンナムさんがその仕事について尋ねてくるかもしれないけど、その時はいろいろ教えてあげてねって…ふぅ…」

溜息をついて、テスは窓の外に目をやった

テスにはチェミさんがいて幸せに暮らしている
チョンエにもヨンナムさんがくっついて、きっと幸せになるだろう
俺には…
うふふ…
俺にはテジュンがいるんだなぁ…うふふ…

つい声に出して笑ってしまったら、テスにキモチワルイなぁ、笑い事かよ、と言われた
その後テソンが、よかったね、イナシと笑い、mayoさんとはるみはニコニコしながらウンウン頷いていた

「え?なにがよかったの?」
「自覚してないの?幸せそうだよ、イナシ」
「…そ?」

ふふ…うふふ…そっかな…

「さ、ご飯食べたらパン作ってきなよ。今なら最高の『しあわせぱん』が作れるよ」

テソンが柔らかい声で言った

「そうそうイナシ、来週あたり、パン屋開店しようかな~って思ってる」

mayoさんが言うとはるみも、ニャイニェン!と鳴いた

「『こどもぱん』は目玉商品にするから、開店前後、あんまり揺れないように!」

二人(と1匹)に注意された
んなもん、『揺れ』なんていつ来るかわかんねぇよ!と言い放ち、俺は工房に降りた

『ん。まぁな。それはいいんだ…』
『どうしてチェミに何も言わなかったの?秘密にしててもチェミにはバレてるのに。テスの事だよ?チェミが関心持たないわけないじゃん。イライラハラハラしてたと思うよ』

一心にパンを捏ねているチェミさんの顔を見ていたら、今しがたの会話から言葉がぽろぽろ零れ出た

「…か~わい~い」
「ん?飯は終わったか?」
「可愛いんだぁチェミさんって」
「は?何をわけのわからんことを」
「んふふ。大丈夫だよ。テスはチェミさんから離れないから」
「な…何を言っとるか!」

俺がテジュンから離れないようにテスはチェミさんから離れない

「離れられないんだから大丈夫だよ、チェミさん」
「…」
「んふふ。んふふふふ…」

あんなにヨンナムさんを想って苦しかったのに
ずっとずっとヨンナムさんへの『好き』を持ったままテジュンと生きて行くと思ってたのに
どういうきっかけで切り離されたんだろう
ヨンナムさんを思っても胸はチクリとも痛くない。それどころか『懐かしさ』さえ感じる
多分、今、ヨンナムさんとうんと色っぽいキスを交わしても、こないだまでのような気持ちにはならないだろう

「…。切り替わると早いだろう?」
「え?」
「長かったな」
「え?」

チェミさんが言いたいことは漠然と解っていた。けど俺はすっとぼけた。すっとぼけながら、パンを作り、時折自然にこみ上げてくる笑いに気持ちを乗せた


ゆらゆら 4   ぴかろん

パンをオーブンに入れた後、俺は少しだけチェミさんと話をした。チョンエとヨンナムさんのことだ

チョンエはヨンナムさんにめちゃくちゃ参ってる。だってあいつ、なんだか女っぽくなったもん
テスに惚れた時と似てるけどちょっと違うんだ。こんな気持ちは初めてだわ、なんて思ってるはずだよ
え?なんで解るかって?だって俺、こぉんなちっちゃい頃からあいつの事知ってるもん!
え?あ、そうそう。あいつの初恋の相手は俺だよ。俺のことかなり好きだったみたい、へへん
でもなぁ、色気ないんだよな、あいつ。え?見たところ瞳ウルウル唇ポッテリで色っぽかったって?
だからさぁ、それはヨンナムさんのせいだっつーの。違う違う。テスに会ったからじゃないよ。あいつほど色気から遠い女はいないからさ
え?俺が気づかないだけなんじゃないかって?…うーん、そうかもしれないけど…。ま、だから俺とあいつは結ばれることはなかったってワケだし…
そんかしテスとくっついたって?あは。だってさ、テスがチョンエに一目惚れしちゃったみたいで…あ、これ禁句?いい?…だからまぁ、その時は幸せだったんだと思うよ、テスとチョンエ
…。ん?チェミさんフクザツな思い?ん?いてっ!頭のてっぺんグリグリしないでよ!…妬いてんの?きゃは。チェミさんか~わい~い

「爽顔さんのこと、えらくあっさり諦めたんだな」
「んー、あっさりでもないんだけどぉ、なんだか…」

なんだかテジュンがかっこよくて…

「うふふふふ」
「本当に爽顔さんに対する恋心は消えたのか?」
「んくふふふ。消えたっていうかぁ…」

『思い出にできるか?時間がかかってもいいから…』

「そうだなぁ…、霞んで行くっていうかぁ…」
「濃顔さんの濃い攻撃にひれ伏したのか?」
「濃い攻撃っちゃ濃い攻撃かも」
「なにっ?」
「だってテジュンって濃いもん!何もかもが」
「何もかも…か?」
「うん」
「ふむ…」
「ちょっとチェミさん、変なこと考えてない?俺が言ってるのはねぇ」
「わかっちょるわい!ハートが濃いんだろう?」
「…ん…」

多分俺の顔が得意げだったからだろう、チェミさんは俺の両こめかみを、人差し指の第二関節でグリグリ攻めた
それは気持ちいい強さで、文句を言うつもりだったのに言えなかった
凝り固まっていたものがほぐれて流されていく。留まれやしないのだから、共に流れていくのがいい
テジュンとは手を繋ぎ、それ以外の人とは微笑みあいながら、俺は今からを生きていきたい

「くぉら!開いた口からヨダレが垂れそうだぞ!」
「あ…らってしゅっごくきもちいいんらもん…」
「ぶぁかめ!」

チェミさんは、今日の俺のパンを褒めてくれた
まだ焼きあがってないのにとてもいい出来だとニコニコした
きっとあったかいパンができるぞ、冷めてもあったかい、良いパンがな…

冷めてもあったかい?

「気のせいなんじゃない?」
「そうかもな。だがそれがウチの売りだ」
「は?」
「気分次第の気まぐれパン屋だ」
「ほぉん」
「お前の性に合ってるだろう」
「…俺ってそんなに気分屋か?」
「ふ…まぁな」
「…。ミンチョルのほうが気分屋だと思うけど…」
「ぶふっ」
「そう思うだろ?」
「さぁ、俺はおキツネ様のそういう部分は見たことないからなぁ」
「わかるじゃん!気に入らないとすぐブイって膨れるし、傷つくとガラスの目玉になって内に閉じこもるしっ!」
「おキツネ様と喧嘩でもしたのか?」
「べつにっ」
「じゃあなんでそんなにおキツネ様を目の仇にするんだ?」
「らってあいつ、俺のパン、食べたないんだもんっ!」
「くぁっはっはっはっ。仕方なかろう。減量期間中だったんだから。でももう大丈夫なんじゃないのか?」
「…そかな…もう食べても大丈夫なのかな…撮影終わったのかな…でもあいつ、油断するとすぐ脇腹にくるから…」
「ぶわっはっはっはっ(>▽<)」

チェミさんは大口を開けて笑った
ここんとこ、映画の撮影のために、俺の親友は随分ほっそりしてしまった
なんだかミンチョルじゃないみたいな…そう、ヒョンジュそのものみたいな…そんな静かな雰囲気を纏っていた

「持ってってやれ。食べてくれるかもしれんぞ」
「…うん…」
「それと、お前の大切な人にも持ってってやれよ」
「え?あ…うん…」
「…。にやけやがってこの!」

チェミさんはまた俺のこめかみにグリグリと攻撃を仕掛けた

パンの焼きあがりまで散歩してくるとチェミさんに告げて、俺は工房を出た
朝こっそり抜け出したヨンナムさんちは、あれからどうなったろう
ギョンジンは元気になったかな…
ソクとスヒョクは…。ま、心配ないだろう
ヨンナムさんはきっと…、きっと…アタマがお花畑になってるんだろうな…
テジュンは、ちゃんと会社に行ったかなぁ…
裏の戸を開け路地に出ると、見慣れた顔が待っていた


ため息の行方2  あしばんさん

ースヒョンさん、暖かいお茶いかがですか?

ようやくの休憩
その辺にあったパイプ椅子にドサリと腰を下ろした僕に
自前の白いカップに入れたお茶を差し出してくれたのは、ウナさんだった
紙コップやペットボトルばかりが行き交うスタジオで
そういうものは、目にするだけでホッとする

僕が礼を言って受け取ると、彼女は直ぐ横の椅子に腰掛け
向こうに設えられているセットを遠目に眺めた

「フリーダの絵って…本当にすごいですね」

ギャラリーのセットが組まれたスタジオには
フリーダ・カーロの絵が数点掛けられている
近影は実物で撮影済みだと聞いているが
ここにあるのは、撮影のために許可を得て用意された複製だ

「私の日常も普通とは言えませんけど、彼女の人生は…」
「ご覧になったのは初めて?」
「ええ、スヒョンさんは?」
「僕もです」
「本当に…最後に…どうしてあの言葉なんでしょうね」

生命万歳…彼女の遺作の題名だ

遠くを見つめるウナさんが口にしたのは、先ほど撮ったシーンと同じ言葉
その横顔にソニの印象が重なる
こうしてお茶など飲みながら話してはいるが
おそらく彼女の中の基本は既に「ソニ」なのだろう

今日初めて演技を共にした彼女の第一印象は…緊張感
緊張を促すという意味じゃない
そこにひとりの女の人生が、ある重みを持って存在する
そんな、質量のある空気を感じさせる人だ
これをオーラと言うのなら、持って生まれたものかもしれない

「スタジオの雰囲気がいいですね
 上手く進行してるかどうかはスタッフの表情でわかります」
「長年の経験ですね」
「ふふ…シン監督は日程が押すと変わるんですよ」
「変わる?」
「まず段々無口になって、そして髭を剃らなくなって
 そのうちに甘いものばかり食べたがるようになります」
「甘いもの?」
「イライラと不安が収まるんですって」
「太っちゃうね」
「あ、それ禁句ですよ、最近お腹の出具合を気にしてるから」

屈託なく笑うウナさんに、僕もつられて笑った

「撮影済みの映像も見せていただきましたけれど
 監督が、あなたでなけりゃ撮らないと言ったわけがわかりました」
「最高の褒め言葉だな」
「このお仕事…続けないんですか?」
「これっきりです」
「引退する私が言うのも変ですけれど…勿体ない気がしますね」
「初めからそのつもりでしたから」
「AM社から声が掛かってるって言う噂も聞きましたけど」
「ああ…手紙をもらっただけです」
「あのエージェンシーなら仕事の舞台は世界になりますね」
「僕には無理ですよ」

スタジオの奥で、急にセットの一部を変えたいと言い出したシン監督と
それに呼応した美術スタッフの小さな悲鳴が上がった

「監督がまた頼むって言ったらどうします?」
「次の作品に?」
「気に入った俳優はどんどん使う人ですから」
「クランクアップの頃は干涸びてて、もう誰も声を掛けなくなりますよ」

彼女はケラケラと可笑しそうに笑い
それから、ふとカップを持つ手元を見下ろして、しみじみと言った

「そうですね…大変な世界ですものね…ご無理は言えません」
「あなたの言葉だと説得力あるな」
「自分だけじゃなくて、周りの人も大変ですもの」
「…そうですね」
「でも、助力してくれる人たちの祈るような期待にも応えたしですしね…」
「ええ…」

ふわりと思い出した
あの、クランクインの朝陽の中に立っていたドンジュンを…
それが今までのような鮮明なシルエットでないのは
幾ばくかの不安が絡んでいるからだろうか
それは全て自分が招いた灰の闇なのだけれど

「僕は…元の世界に戻ります」
「そうですか」
「まぁ正直言えば、まだそこまで気が回りませんけどね」

それが一番いい
自分のためにも…メンバーのためにも
それから…




「他に、ご質問はありますか?」

小会議室の楕円テーブルの向こう
40歳くらいの男性チーフデザイナーがリタと小声で何か話してる
既に、頭痛がするほど細かな質問攻めにした後だ

この日、僕のアシストで付いたギスのところの若いのが
解けぬ緊張のままに散らばった書類をうやうやしく整え始めると
リタはようやくファイルから目を上げた

「私たちにできることを、ひと言で言うと?」
「素人の発想です」
「素人?言ってくれるわね」
「勿論一流のデザイナー集団だってことは重要です
 でも、シリンダーの配列だのバルブ駆動方式だの知らなくていいんです
 固定観念のない発想が欲しいんですよ」
「自前じゃ無理?」
「目の前に世界に通用するプロフェッショナルがいるのに?
 デザイナーの適性試験をしてる時間はありません」

リタは、そこで満更でもなさそうに唇の端を少しばかり上げた

指を口元に持って行くと
マニキュアの色と口紅が同系でまとめられていることがよくわかる
この場合イヤリングもゴールドで正解かな

「新しいカロッツェリアね…」
「新しいというより、基本に戻るって意味の方が強い
 現在の名門カロッツェリアのような小規模の生産工場も持ちません
 人件費の全てを提案、意匠、技術に注ぎ込むんです」
「全てをね…」
「将来は、あなたたちの得意分野インダストリアルデザインにも繋げたい
 あのピニンファリーナだって、フェラーリからミネラルウォータのボトルまで
 デザインしてますでしょ?」
「あのボトルは美しいわ」
「デザインを通して、環境問題も何もかもを含めクライアントに提案できる
 そういう企業を目指すんです」

腕を組んでいたチーフデザイナー氏が口を開いた

「まぁ方向性としては、うちの目指すものと違わないからな
 車自体は未経験の分野だけど、悪い仕事じゃないとは思ってる」
「クリエィターとして失望はさせません」
「魅力的な言葉ではあるね」

アシスト君がすごい早さで議事録を打ってるのをチラリと見て
リタは少し身体の位置をずらした

「ここって禁煙じゃないわよね」
「ええ、大会議室はダメなはずですけど」
「最近はどこに行っても愛煙家には地獄よね」
「NYなんか厳しいでしょ?」
「人殺しみたいに見られるわ」

彼女はバッグからシルバーのシガレットケースを出しかけて
ちょんと肩をすくめて、それを戻した

「吸わないんですか?」
「やめておくわ、またウソクに文句言われる」
「そ…ですか…」
「彼って珈琲も飲まないでしょ」
「ええ」
「この上お酒もやめるようなら、山にでも籠るべきね」

僕は、すんでのところで「彼はよく飲む方か」と聞くところだった
ヤツの嗜好に気を取られてる場合じゃない

こういう、関係のない話題をサラッと出すのは
相手の注意を散漫にさせ勢いづかせないワザ
…かどうかは知らないけど、会議が始まってから既に2回ばかりやられた
その度に、ペースを持って行かれないように話の筋道を立て直す

彼女が、彼女の「不可欠」のひとつらしい珈琲に口をつけ
カップを置いたのを確認してから続けた

「そちらのメリットは欧州への知名度拡大です」
「でも、あなた方のサポートがメインでしょ?」
「社名はその都度出させていただきます」
「うちが、そんなエサに食いつくと思う?」
「ええ、過去何度か欧州に進出を試みて失敗してますでしょ」
「目標達成できずにいると言ってほしいわ」
「あちらは基本的に保守ですからね
 欲を満たすためにデザインを生み出した国と、芸術をベースに育んで来た国では
 そう簡単に上手くは行きませんよ」
「あなたって、言いにくいことを平気で言うのね」

言葉の調子に比べて
彼女の目は、面白そうだとでも言うように笑ってる

「でも、僕はあなた方の力はもっと評価されるべきだと思ってる
 だからこの新しいやり方に参加してもらって
 そこから、ゆっくりと浸透させて行けばいいんです」
「ミネラルウォータのボトルまでね」
「新事業にもきっと役立ちます」
「なぜ?」
「今提携を考えてらっしゃるマネージメント会社も欧州とアジアに弱いでしょ?
 間違いなく繋がって行きますよ」
「ずいぶん調べたのね」
「それだけあなた方が欲しいんです」

リタはしげしげと僕を見て口を開いた

「あなた映画はお好き?」
「へ?」
「映画」
「…ええ…まぁ…」
「例えば…そうね…映画 E.T.の一番印象に残った場面と聞かれたら?」
「は?」
「ごめんなさい、何となく聞いてみたくなったの」
「何で E.T.?」
「あなたを見てたら浮かんだのよ」
「まあいいや、ピザかな」
「ピザ?」
「あの最初に出て来るピザの分量は、あの3人兄弟に充分だったのか」
「ええ?」
「僕も3人兄弟だけど、いつも取り合いだったからすごく気になった」

リタは美しい眉の線を少し下げて「なるほどねぇ」と笑う

「ウソクの言った通りね」
「え?」
「子供だと思って甘く見ない方がいいって」

僕は、不覚にも思わず赤くなって口を尖らせてしまった
褒められたのかバカにされたのかわからない
横のアシスト君がクスと笑ったような気がしたのも気に入らないけど

笑う彼女は一層綺麗に見える
あのパク・ウソクがヴィーナスのようなと形容する…

「わかったわ」
「へっ?」
「このお話、悪い方向には行かないと思うわ」
「え…じゃあ…」
「欧州チームへのプレゼンの場には同席させていただけるわね?」
「椅子をピカピカに磨いておきます」
「ふふ…CEOと連絡をとって明朝お返事をします、朝9時にホテルに来ていただける?」
「もちろんです」
「お待ちしてます」
「よろしくお願いします!」

たった今子供扱いされたことも忘れて、飛び上がるように立ち上がった僕は
テーブル越しに手を出し、11,000キロ以上彼方から来たふたりと握手をした

そのまま抱きしめたいような気分
上手く行ったのかもしれない
取り敢えず少し前に進んだみたいだ
いつもの高揚感
考えてたよりずっと手応えがあった
ギスに早く連絡したい
迷惑かけたってしょげてるハリョンもきっと喜ぶ


興奮気味で、ほんの一瞬間気を散らしていた僕は
チーフデザイナー氏がおもむろにブリーフケースの鍵を外し取り出したファイルの
鮮やかな、血のような赤い色にドキリとした

「ところでドンジュンさん」
「あ、はい!」
「あなたのお店を是非覗いてみたいんだけど」
「え?…は?」
「こんな変わった履歴の方は珍しいもの」
「…はぁ…」

リタは、立ったままの僕に赤いファイルをスイと押してよこした

「うちの新事業に関する書類よ、目を通して下さる?」

ヴィーナスの微笑みがテーブルの向こうから射抜く

高揚が残る中、僕はわけがわからぬまま腰掛け
そう厚くはないファイルをめくる
そんな書類を僕なんかが見てもいいのだろうかと思いながら

「できれば今夜お願いしたいの、明日は帰国だから」
「え?何をです?」
「お店よ」
「あ…ああ…それは…構いませんけど…」


僕の手は、あるページでビクリと止まった

…え?

手の中のファイルには
見覚えのあるような外国の俳優やモデルらしき写真が並び
その中に…

「チェ・スヒョン氏の指名料はおいくらかしら」






© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: