「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 299
酒と薔薇2 あしばんさん
咄嗟に掴んだウソクの腕は、しなやかだった
上質なスーツの下の、ほとんど白に近い空色のシャツ
そしてその下の、締まった筋肉の感触までが手のひらに伝わる
「どうした」
街路樹の葉陰に肩の辺りをさらさらと撫でられながら
ウソクは、珍しく黙って相手の返事を待っている
自分の顔色をうかがう者たちの中で生きてきたこれまで
取り巻く大人たちや友人の親切が、単なる腰の引けた気遣いか
自分から政治的な何かを引き出すための手段に過ぎないのだということを
十代の前半には気付いてしまっていた
それゆえ「腕ひとつ」のことではあるが
自分に、こういった率直さを感じさせる強さで関わろうとする者に
どう対処していいのかわからないのが正直なところだ
「だから、その…プ、プレゼン…の時にはいてもらわないと…」
「…」
「出席してとは言いませんけど…」
「うちの仕事は投資だ」
「…そですけど…」
そこまで言って、必要以上に強い力を込めていたことに気づいたドンジュンは
指先に迷いを残しながら手を離した
その時…
もし、通りに面した高級フレンチ店のドアからその女性が出て来なければ
離れていく指を追っていたウソクの視線に
ほんの微かに柔らかな色合いが滲んでいたことに気付いたかもしれない
突然、目の前に現れたのは
以前、パクの会社のエントランスでウソクに振られた女性だ
相変わらず見事なシンメトリーに描かれた眉の持ち主は
ウソクと、忘れもしないドンジュンを目の前にして、連れの年輩の女性の横で固まっていた
彼女らに気付いたウソクの顔に社交用の笑みが浮かび
後ろの、店構えにふさわしい優雅さで会釈する
「こんにちは」
「あ…あら…ごきげんよう」
「いいお天気ですね」
「こんな時間から、仲がよろしくて結構ですわね」
ドンジュンを彼の恋人だと思わされて屈辱的に振られた彼女としては
当然と言えば当然の最大級の皮肉のつもりだったが
当のウソクは、そんなことは忘れてしまったかのように「お母様とお食事ですか」
などと話しかけている
ちょっとの間を置いて前回の経緯を思い出したドンジュンは
その母親だというファンデを少々塗り過ぎたかと思うような女性の
好奇を通り越した針のような視線にさらされた後
明らかに相手を卑下した調子で目を逸らされた
「ウソクさん、いつもながら素敵なお召し物ですこと」
「それはどうも」
「先日は、娘がお手間を掛けたようで済みませんでしたわね」
「いえ」
「世の中には色々な方がいらっしゃるからと、娘にも言い聞かせましたのよ」
「話の主旨がわかりかねますが、その見解に異論はありません」
「おほほ…相変わらずですこと」
母親は、今一度ドンジュンをチラリと見て続けた
「ま、ご子息の人生に関しては、お父様も何も仰れないでしょうけれどねぇ」
「…」
「血というものは争えないものですわねぇ」
突然、母親の口から出た遠回しな侮蔑の言葉がどういう意味を持つのかは
居合わせた全員に直ぐに伝わった
ウソクと父親の関係や歴史は、社交の世界ではとうに知れたこと
彼女は、世間に認められないタイプの二種類の「愛情」を、無理に遺伝子で結びつけて
娘のためにちょっとした復讐を試みたに過ぎない
勿論、ウソクとその若い恋人だと思い込んでいる男に関しては全くの見当外れなのだが
しかし、有象無象の中で育ってきたウソクは、そんな場は万とこなしてきており
そうやすやすとその手には乗らない
乗ったのは…
隣に立っている、直ぐに火がつく男の方だった
「ちょっとオバさん」
ドンジュンの中では
先ほどのレストランで聞いたウソクの父親の記憶と
無感情と言われる男が見せた、寂しさを甘受しているような目が蘇っていた
それは、自分が関われるようなことではないが
突如現れた白塗り仮面に、無神経にえぐられていいようなものでもない
「オ、オバさ…」
「あなた、何の権利があってそういうこと言うんですか」
「いい、やめておけ」
「自分の娘がモテないことを他人のせいにする前に、道徳の本でも読んだらどうです」
「ま、まぁ、何てこと…」
「そうやってくだらないことを言うために脳ミソ使って生きてるから
何千年経っても人間はバカから脱出できないんじゃないの?」
完全に固まった女性ふたりの前で
ウソクはやれやれという面持ちで眉を上げた
「中身を入れ替えることができないんだったら、せめてせっせと磨き上げることだね」
「な、何言ってるの、あなたは」
「彼を手に入れたかったら、僕よりいい身体になって出直してきたら?
いつでも勝負してあげるから」
目の前の女性ふたりの顔が、火を噴いたように赤くなった
とりわけ母親の方は、せっかく塗り込めたファウンデーションが剥がれるかと思うほど
口元をピクピクと振るわせながら耳まで真っ赤になっている
ウソクとの関係にますますややこしい火種を蒔くようなものだが
そんなことなど、どうでもいいくらい腹が立ったのだ
「じゃ、さよなら」
踵を返して歩き出したドンジュンから女性たちに視線を戻したウソクは
自分でも劇がかっていると思うくらいに肩をすくめて見せて
微笑みながら「では、よい午後のひとときを」と丁寧に会釈する
思わず見とれるほどの整った顔立ちとその優雅な振舞いは
これだけ怒りを覚えていてさえ「惜しい」くらい惹かれるものであったが
女性ふたりは、同じ形の眉を同じ角度で歪ませて睨み続けていた
足早に歩いて行くドンジュンに追いついたウソクは
怒り心頭のままの顔で歩き続ける男の横についた
「こっちは反対方向だろ」
「いいんです!」
「何をそんなに怒ってる」
そのウソクの言葉に反応して立ち止まったドンジュンが
ムカムカの矛先を、当の本人に向けた
「あんなこと言われて、何で黙ってるんですか!」
「別に、どうということもない」
「あんな風にバカにされて、平気でいられる神経がわからない」
「無視しておけばいい」
「ヘンですよ、そんなの」
「だから、君はガキだと言うんだ」
「ガキでけっこう!無視ってのは体のいい “逃げ”でしょ!」
いきなり言い争いを始めたように見える男ふたりを
道行く者たちはチラリと盗み見みながら微妙に距離をとって避けてゆく
「まぁ、僕には関係ないですけどね、じゃ、僕、帰りますから、ごちそうさま!」
「待てよ」
「何です」
「さっきの話はどうなった」
「は?」
「話の途中だっただろ」
「…」
白塗り仮面のお陰ですっかり忘れていた
話とは、ウソクの腕をとってすがるような目を向けた時の件だ
先程、自分が意味不明のシドロモドロだったことを思い出す
「もう、いいですよ」
「半端は嫌いでね」
「だから…その…だから…あんだけ口出してるんだから…
その…ちゃんと方向性が確定するまで居てくれないと困るってことです」
「なるほど」
「たぶん…問題も出てくるし…」
「俺は目の上の何とかだったんじゃないのか」
「そんなこといつ…」
「言ってるだろう」
「けど…でも、ちゃんと認めてます」
「認めてる?」
「そりゃ、クソ意地悪いし、冷凍血管だし、自己中だし、性格も悪そうだけど
仕事に関しちゃ有能だと思うから、ちゃんと頼りにしてるんです」
「それで褒めてるつもりか」
忌々しそうな口調のわりに、ウソクに刺々しさはない
その、自分よりほんの少し高い位置にある目が
パクの社長室で会った時以来、初めての穏やかな色を帯びていることに
珍しくその相手に素直になっていたドンジュンは気付いた
大事な叔母や姪との時間のために、わざわざ着たものだろうか
いつもと違う柔らかい雰囲気のスーツの色も手伝っているのかもしれない
「言われることは、いちいちアタマにくるけど…
何から何までもっともで、こんな凄い人がいるんだって思い知った…」
「…」
「だから…いや…だからってわけじゃないけど…関係ないかもだけど…
ってか、何だかわかんなくなっちゃったけど…」
先刻のムカムカが、次第に哀しさのようなものに変わっていくのを感じる
「さっきのあんな言われ方なんて間違ってる…」
「…」
「あなた…あんな言われ方していいような人じゃないでしょ」
そのドンジュンを5秒ほども見つめていただろうか
ウソクはゆっくり瞬きをして
微笑みたいのか泣きたいのか判別できぬ複雑なものを
唇の辺りに浮かべたように見えた
その時、自分が放った言葉が
ウソクの胸の一番深い場所の或る想いに繋がっていたことなど
ドンジュンには知る由もない
「済みません、余計なことですね…じゃ、僕、仕事に戻ります」
相手の返事を待たぬままペコリとお辞儀をしたドンジュンは
怒りにまかせて歩いて来てしまった道を戻って行く
残された男の表情に変化はなかったが
去って行く背中が完全に人ごみに紛れてしまうまで
そこに立っていた
その日の撮影の前半部は、ジンのシャワーのシーンで終わった
元々の脚本にはなかったために、シン監督の趣味だの何だのと囃されたのだが
案外そうかもしれぬとシン本人も認めていた
撮影が進むにつれて、凄みすら加わっていく主人公の全てをモノにしたいと思うのは
アーティストとしては当然のことではあるし
これが最初で最後の露出だと宣言しているスヒョンの美しさを記録したいとは
シン以外のスタッフの誰もが感じていることだ
「お疲れさまです、スヒョンさん」
黒いバスローブを羽織り、頭からタオルを被ったスヒョンに声をかけたのは
ヒョンジュ役を巡りミンチョルに無謀なアタックを試みた、あのイルスという青年
スタッフと同じようなラフなジーンズ姿ではあるが
シン監督にチョイスされただけのことはある艶のある存在感を持っている
「ああ…君か」
「隣のスタジオで仕事があったんです」
「そう、順調にいってる?」
「はい」
アシスタントの女の子が持ってきた水のボトルを横から受け取り
スヒョンがタオルで髪を拭くのを待って手渡す
「本にないシーンでしたね」
「ああ、そうね」
青年の目は、額に張り付いた濡れた黒髪を辿り
ボトルを含むスヒョンの唇の端から僅かにこぼれ出て喉につたわる水を追っていた
「先日のシーンは…」
「ん?」
「あの…先日の…僕とのシーンはボツですか?」
「いや、何で?」
「他の女や男とのシーンは撮り終わったと思ってたから」
「追加らしいよ」
「そうか…よかった…その…スヒョンさん、最初、あのシーンを撮るのに反対だったから…
もしかしたら切られたのかと思って」
「大丈夫だよ、監督は使う気満々だから」
僕とのシーンとは、ジンが酒場で見知らぬ青年を誘って口づける場面
初めての監督とスヒョンの意見の対立は激しいものだったが
結果的には、ジンのヒョンジュへのどうにもならぬ想いが溢れるシーンとなり
スヒョンも十分に納得した
「控え室に戻りたいけど、もういい?」
「あの…ちょっとご相談があるんですが」
「そう、じゃ、一緒にどうぞ」
部屋に戻るスヒョンの後ろを追いかけるジーンズ姿の青年を
僅かに眉をゆがめて見るチョンマンの姿があった
「誰か探してるの?」
「あ?え?」
控え室の椅子にドサリと座ったスヒョンが
部屋の真ん中に突っ立っている鏡の中のイルスを真っ直ぐに見る
「キョロキョロしてたから」
「ああ…ええ…」
「ん?」
「あの日、スタジオに来てた…スヒョンさんのお店の若い男の人」
「誰?」
「あの… 黒い髪の… 外でモニターを見てた… 」
「ああ、ドンジュン?」
「今日も、もしかしたらと思って」
「何で?」
「ああいうシーンの撮影にはチェックに来てるのかなと思って」
「ああいうシーン?…ああ、絡みのことね」
「ええ、まぁ…」
「彼も忙しいからね、そうそう顔も出せない」
「そうですか…」
「で?」
「スヒョンさん…」
「ん?」
「ドンジュンさんって…恋人なんですか?」
何となく予感していた質問ではあった
「そう」
少し唇を噛んだように見えた青年の表情に、ほんのり赤みがさす
「やっぱりそうですか…悔しいな」
「何が」
「あなたのお相手は、すごくゴージャスな女性だと思ってたから」
「ふふ…それも悪くないね」
はぐらかされたような気がして、それ以上言葉が出なかった
もちろん、スヒョンは十分に意識してそうしたのだが
「…あの…」
「で、相談って?」
「あ…そう…あの…今度、演劇のワークショップに出ることになって」
「新しい事務所の?」
「いえ、大学のプロ志望のメンバーで…50~60人くらいの規模で…
で、現役の人の話も聞きたいってことになって…スヒョンさん…ダメですか?」
「撮影があるからね」
「あ、あの…さっきシン監督に伺ったら、ちょうどお休みの日なんです」
「そう…周到だね」
「済みません…勝手して…」
「でも、僕は素人同然だけど?」
「そんなことありません!」
「それに、この世界に留まる気がないって前に言ったね?」
「ええ、それはわかってます…でも、実際にあんなすごい演技をしてるんですから…
プロを目指す奴らに何か伝わったら素晴らしいと思うんです」
何とか自分の意志を伝えようとする強い口調はドンジュンを思い出させる
ーそういえば、誰だったか…彼の目はあいつに似ていると言ってたな
「今の撮影の話は一切できないよ」
「ええ、わかってます、監督にもちゃんとお願いします」
「じゃ…監督と相談の上で返事する」
「よろしくお願いします!」
何度も頭を下げた青年が部屋を出て行った後
部屋は急に静かになる
椅子にもたれるように深く座り直したスヒョンは
長いこと、鏡の中の自分を見つめていた
酒と薔薇3 あしばんさん
「ドンジュンさん、工程表はもう決定でいいですか?」
「うん、オーケー、作業分割図は?」
「まだ抜けがあるので週末までには…」
「明日中に頼む、残業バーガー付けるから」
「コークも」
「ギスのポケットマネーでポテトも付ける」
「了解!頑張ります」
今回のプロジェクト立ち上げのためのタスクフォースとして
ドンジュンについている若い者は男5名、女1名
ドンジュン自身が、ギスの社員の中から実績を問わずに選んだ口も腕も立つ連中だ
「ああ、それにしてもこの厚い企画書が遂に日の目を見るのね」
「まだ安心はできないだろ」
「でも、上手くいくような気がしてきた」
「このプロジェクトを初めて聞いた時は僕らも驚いたけどね」
最初はこんなはずじゃなかった
ハリョンからの手紙を受け取った時は、想像すらしてなかった
キリョン再生のためにパリに行くかどうか…そんなことで逡巡してた
それなのに…
そこまで考えると、ドンジュンの想いはある方向へと滑り出す
それは、ここ最近いつものことで
すっかり仕事に埋没しているからなのだろうと思い込もうとしていたのだが
今日はそれだけでは済まなくなっている
企画書全体に殴り書きで、しかし的確にチェックされた赤い文字を追えば
昼間に見たあの男の目を思い出すからだ
薔薇の葉陰を辿る、時間が止まってしまったかのような目
「…って相当な手腕らしいですね、ドンジュンさん」
「え?何?」
「ウソク氏ですよ、最近よく名前が挙がりますよね」
「ああ…うん…そうね」
「今まで他国企業とは絶対に手を組まなかったドバイの大企業家を口説き落として
現地の経済特区にオフィスビルを共同開発するらしいですね」
「丸め込むのが上手いのね」
「ドンジュンさん、そんな人とよく渡り合えますね、怖くないですか?」
「別に…普通…だけど…」
この場合の「普通」を彼らがどう受け取ったかはわかならいが
少なくともドンジュンは、その日までウソクを怖いと思ったことはなかった
相手の力量は認めざるを得ないものであるし
仕事を機械のようにこなしていく男など、こちらが気を抜かなければどうにでもなると思っていた
しかし、今日、どうしたわけかまるで違う陰影を見せられて
それがかえって怖さに繋がるような気がする
情に弱いと指摘された本人に、まんまとはめられているだけなのだろうか
どこにすっ飛ぶかわからぬ自分を制御するために芝居を打ったのだろうか
それくらいのことは朝飯前の男だと、誰もが言うだろう
そう思えば、なぜか…苛つく
「あれだけの男前だと女性が放っておかないでしょうね」
「でも、社内の子には絶対に手を出さないって噂、本当なのかなぁ」
「へぇ~2代目ドラ息子にあるまじき!」
「ドラじゃないでしょう、これだけ実績があれば」
「ワケありの女性がいたりして」
「あ…その可能性はあるかもね」
「ちょっとっ!」
「「「はっはい!」」」
「お喋りが過ぎるんじゃないのっ?ここは飲み屋じゃないんだからさ!」
「す…すみませ…」
「仕事の相手のプライベートがどんなだって関係ないでしょ!
今日もそういうくだらない話するオバちゃんに会ってムカついてんだよ!
どうしてもやりたいなら辞表書いて荷物まとめてからやってくんない?」
いつもの自分なら、そんな他愛もない話にそこまで突っ込んだりはしないだろう
今のようなちょっとした休憩時間のお喋りには、自分も大喜びで加わることさえある
十分自覚しつつも止まらない口先
すっかり静かになってしまったブースの中、ドンジュンの椅子が小さな音を立てて動く
「ごめん…大きな声出して…」
「いえ…僕たちこそすみません」
「ちょっと空気でも吸ってくるわ、みんなも休んで」
「はい…」
ブースを出れば、内容までは把握できずとも硝子越しに珍しいドンジュンの怒鳴り声を聞いた他の社員が
どうしたものかという顔で様子を伺っている
社員達に、新しいプロジェクトの不安を抱かせるような行動はとるなと
いつも言ってる自分がこれじゃだめじゃん…
あんな話聞くんじゃなかった…
あんな…タコ親父の話だとか
宝石屋にも行くんじゃなかった…
あんな顔のヤツを見るんじゃなかった…
何だか…ワケわかんない…
「おい、ドンジュン」
掛けにくそうな調子の声に振り向いてみれば
顔に大きく「心配」と書いてあるようなギスが立っていた
「あ…何?」
「何、じゃないぞ、おまえ大丈夫か?」
「うん」
「スタッフが叱り飛ばされたって言ってたぞ、珍しいな」
「まだまだアナタのように人間ができてないからね」
「イヤミな奴だな…まぁ、悪いと思ってるよ、全部おまえに任せることになっちまって」
「ハリョンのためだからね」
「この俺に向かってそういうこと言うか」
仕方なさそうに笑いながら
スラックスのポケットに手を突っ込むのは、ギスの昔からの癖だ
ハリョンが倒れてから、すっかり「いい夫」ぶりを隠そうとしない彼は
ドンジュンにとって、安心な人間のひとりとなっている
この男のために何かをやってやりたいと思うようになろうとは、と
幾度、心の中でつぶやいたことだろうか
「で、何?まだ報告書まとまってないよ」
「ああ、うん、あれだ」
「何よ」
「その…今度の株主会が終わったら式を挙げたいと思ってな」
「…」
「ちゃんとしなくちゃと思って」
「うそ…」
「こんなこと嘘ついてどうすんだよ」
「マジ?」
「ああ、まじだ」
「わおっ!」
「ハリョンの体調次第だが、一応日程は決めた」
「そぉかぁ~!うん、そうかぁ~」
「ごく内輪でな」
「うん、何だっていいんじゃない、うん、そうかぁ~!ああ、そうかぁ~」
「で、おまえも式に出てくれないか?」
「僕?」
「ああ、ハリョンがどうしても出て欲しいって言うんだよ」
「まずくないの?…僕、元カレだよ?」
「あいつは、まるでそういう意識はないみたいだぞ」
「ふん…どうせ戦友かなんかだと思ってるんだろ」
「まぁ、出てやってくれよ」
「花婿がいいって言うなら出ますけどね、めかしこんで一番目立ってやる」
「で、スヒョンさんと一緒に来てほしいってよ」
突然、スヒョンの名が出て驚いた
「…何で?」
「わかんねぇけど、ぜひ一緒に祝ってほしいって言ってる」
「…」
「いや、忙しいだろうから無理だろうって言ったんだけどな、絶対にそう伝えろって」
「…そう」
「無理なら無理って言ってくれりゃいいからな」
「ん…式だけなら大丈夫かも…聞いてみる」
「悪いな、頼みばっかりで」
「そう思ったら、ペイ上げてよ」
「ばーか、それとこれとは違うだろうが」
ハリョンの幸せの場に立ち会える
その場にスヒョンも一緒にいられるのなら嬉しくないはずがない
静かな教会の一番後ろの席
黒いスーツを着たスヒョンの片手が自分の手を握ってくれていて
祭壇のハリョンたちを見守っている…
ドンジュンがそんな場面を想像したのは、一度や二度ではない
その時に、自分はどんなに彼を誇りに思うだろうかと
それこそが、どんなに幸せなことだろうかと
しかし…
その日のBHCにスヒョンが顔を出したのは閉店間際だった
局地的に降った雨をやり過ごし、撮影の時間が大幅に伸びたためだ
何となく落ち着かないままに接客をし
チーフ代行のイヌに「疲れていても集中するように」と注意を受けたり
注文を間違えて伝えて、mayoに拳固を食らったりしながらも
ドンジュンは何とか仕事をこなしているように見えた
そんな様子を、見ぬふりながらも一番気にしていたのはラブだろうか
一日中一緒だったスヒョクが、昼間に街で見かけた「ゴージャス」の話を出そうとする度に
適度にごまかして本人の耳に入れぬようにしていたことなど
ドンジュン自身はまるで気付いてはいないのだが
閉店後、ドンジュンが事務室に向かえば
スヒョンはドアの前で他の男と立ち話をしていた
男の、メッシュの入った髪は相変わらず艶やかで
その向こう側の、男を見つめるスヒョンの表情はいつだってとびきり優しく見える
「撮影は順調なのか」
「今のところ問題はないかな」
「監督からロケの詳しい日程が送られてきた」
「おまえ自身の仕事との調整は大丈夫?」
「何とかなるだろう」
「無理はするなよ」
ドンジュンは、今もってスヒョンとミンチョルの会話には入ることができない
それどころか、ふたりの声の抑揚にはつい神経質になってしまう
これはいつになったら治る病なのだろうかと考えるも
全快の見込みも、とっかかりもないことに気づかされるばかりだ
そんな気分は、ミンチョルがその場を立ち去り
ドンジュンに気付いたスヒョンがニコリと微笑みかけ
のろのろと近づいた自分の腰に手を回してキスしてきてさえ晴れることはない
そういう “特別” は自分だけなのだと言い聞かせるいつもの ”慣れっこ” だ
「リタ嬢は無事に帰国かな?」
「彼女、スヒョンのこと諦めないって言ってたよ」
「僕の意思は変わらない」
「今日…これからまた撮影だって聞いたけど」
「ああ、ウナさん待ちの夜景シーンだから」
「そか…大変だね」
「契約が上手くいったんなら、おまえも忙しくなるだろ」
「うん…まぁ…そうなんだけど…」
今夜も側にいたいというわがままは言えない
「スヒョン…あのね、ハリョンの結婚式があるんだ」
「式?」
「うん、ついに決めたらしいよ」
「そう…彼女の体調は大丈夫なの?」
「うん、その…紹介してもらった病院がすごくよくて、精神的にも安定してるって」
その時、紹介者のウソクの名を意識して削除したわけではないのだが
敢えて口にしようとも思わなかった
「あの…で、スヒョンも出席してくれないかって」
「僕も?」
「うん、ハリョンが…どうしても僕たちにって」
「そうか…ふふ」
「何がふふ?」
「彼女にはいろいろ忠告されたな、おまえのことで」
「忠告?脅迫の間違いじゃないの?」
「まぁ、おまえのことが大事だったっていうことに違いはないよ」
「…それで…行ける?」
「いつ?」
ドンジュンが取り出した手帳のカレンダーには、本人しかわからないような細かい予定が
所狭しと書き込まれていて、その忙しさを物語っている
そのあちらこちらに「ウソク氏」の文字が散らばっていることは、当然なのだが
スヒョンの目の奥に薄い陰がよぎる
「やっぱ…だめ?」
「いや、先約がある…おまえも会ったでしょ、スタジオで、イルス君って俳優」
「うん…よく憶えてないけど…」
「彼から今日話があって、演劇のワークショップに出てくれっていうのがその日だ」
「そか…」
「でも、あっちは午前だから早めに出れば大丈夫かな」
「よかった、撮影日じゃないだけラッキーだ」
辺りに誰もいないのを確認して、スヒョンの首に腕を回して口づける
「ね、式の間、ずっと手を繋いでいたい」
「ん?」
「別に、神様に何か誓えなんて言わないから」
「ふふ…」
「ね?」
…いいよ
スヒョンの囁きを聞きながらその肩に顔を埋めれば
いつものファーレンハイトが胸に広がる
酒と薔薇4 あしばんさん
最上階の大会議室から出てきた幹部達は
皆、一様に顔の真ん中に「しぶしぶ」という文字を付けているようだった
「どうも…つい納得させられてしまうな」
「やることが新し過ぎてよくわからんが…大丈夫かね」
「まぁ、最終的にはパク社長の判断だから」
「しかし、ここのところ、社長があの男に反対したことがあるか?」
「まぁな…この分じゃ専務の座も危ういかもしれんな」
蚊の羽音よりも小さな彼らの囁き声が、その耳に届くはずもないが
会議室に残った専務ーパク・ウソクの兄ーは、椅子に腰掛けたまま深いため息をつく
「…できるのか?」
「ええ、週明けまでにまとめます」
「現地との調整は?」
「手配済みです」
「…おまえのやることには、いつもハラハラさせられる」
「兄さんが心配する必要はないですよ」
「心配だろうよ、今まで社長がやってきたインド進出のやり方を180度変えるんだぞ」
「変化のない企業に未来はありません」
「失敗すればおまえだけの問題じゃなくなるだろうが」
「失敗はしません」
「その自信はどこから来るのかねぇ」
「自信も何も…結果がものを言うだけです」
「周りが、おまえのポスト云々を取り沙汰するのも当然だな」
「そういうものに興味ないのはご存知でしょう」
「やれやれ…」
相変わらず、兄は弟の心情を読み取ることができずにいる
パク・ウソクという男は、どこからどう攻めても、ほころびを見せることはない
彼らの間に、世間で噂されているような「確執」は一切ない
15の時に出会ってから今日まで、兄は感じている
目の前の弟は、確執ができるほどの熱い感情を家族に持ってはいないのだと
出て行けと言えば、眉も動かさぬまま即刻その言葉に従うのだろう
周りのビル群の向こうには既に暮れかかっている空が広がる
その細く糸を引くような哀しげな雲を目にして、彼は思い出した
「あ…そう、ジヨンさんからおまえに手紙を預かって来たんだった」
「手紙?」
兄のスーツのポケットから出てきた、宛名のない封筒は
うす水色のホテルの紋章が刻まれたものだった
「土産の礼だろう、支配人に預けたんだろう?」
「ええ」
「おまえに会えずに残念がってたぞ、ふたりとも」
「電話でよく謝っておきましたから」
「一体何の用事が入ったんだ?」
「…」
「まったく…本当におまえは付き合いの悪いやつだな」
ウソクは、その小さな封書を開けることなく
無造作に薄ベージュの背広の内ポケットに突っ込んだ
「対外的な付き合いはともかく…なぁ、たまには、うちにも顔を出さないか」
「…ええ」
「母さんとも食事くらいしてやれ」
「近いうちに」
「また、結婚相手云々の話が出るのは我慢してもらわんといけないがね」
「わかってますよ」
「…おまえ…いないのか?…その…」
「その話は、時間の無駄です」
「しかし」
「兄さん一家がいるんだから問題ありませんよ、さて、デスクに戻りますので」
兄の口から、再び細いため息が漏れる
自分については一切口にしない弟の心を、解きほぐせる女性などいるのだろうかと
いらぬ世話だとは思いつつも考えずにはいられない
「で…そう、おまえ、行くのか?」
「え?」
「ベンガロールだよ」
「…」
「直接、手を下したいんじゃないのか?」
「…」
その時の、ウソクの表情
逡巡…というのが一番ふさわしい表現だろうか
長い睫毛をゆっくりと瞬かせて、目は僅かに所在なげな色を帯びる
彼のそんな表情を見たことがあっただろうかという気がして
兄は、ついしげしげと眺めてしまった
「まだ…決めてません」
「何だ、珍しいな、おまえの辞書にも” 決めかねる” なんて字があるのか」
「…」
「その理由が、女関係だったら少しは安心なんだがな」
「仕事ですよ」
「だろうよ、まぁいい、早めに決めてくれ、内部の調整がある」
黙って立ち上がり、テーブルの角をするりと回って出て行くパク・ウソクを見送って
兄は、気の重い、社長への報告をまとめる作業に取りかかった
「何か、軽めのお食事をお持ちしましょうか?」
「いや、いい」
「こんなにお早い時間にいらっしゃるのは珍しいですね」
パク・ウソクが、ホテルの会員制クラブに寄ったのは、日付が変わる直前だった
決して「早い」時間などではないが
接待のために客を連れて来る時以外
ほとんど1時を過ぎた頃にしか姿を見せぬウソクにしては確かに
いつもの場所、いつもの深紅のベルベッドのソファに腰掛け、ただグラスを傾けていたウソクが
ネクタイを軽く緩め、シャツの一番上の小さなボタンを外していたことに
幾度目かに席に近づいた馴染みの給仕は、内心驚いた
彼が、どのような場合でも服装を崩すことがないというのは
陽が東から登るのと同じくらい当然のことだと、周りの誰もが思っている
自分でも、珍しく酔っているように思えた彼は
ようやくグラスの手を止め、懐から出した小さな封書を開けた
綴られた文字が、店の飴色の灯りに照らされてぼんやりと浮かび上がる
親愛なるウソクへ
素敵な贈り物をありがとう
あの子も、とても気に入っています
大切にしますね
先日のマーラーは行けなくなってしまってごめんなさいね
いつか、必ずご一緒しましょう
あなたのことは、遠く離れていてもいつも気にしています
あなたのママの、あなたへの愛情と同じくらいに
どうか、身体だけは壊さないように
目を閉じ、深く息を吐いたウソクは
その手紙を折り畳むと同時に携帯を取り出した
意思とは関係なく指が動くということがあるとすれば、酒のせいかもしれない
そんなことをぼんやり考えながらコールを待ち
いい加減切ってしまおうかと思った時に、相手の声がした
『お待たせしました!』
「遅い」
『あ…ああ…こんばんは…すみません…今風呂にお湯を…』
「今後、コールは5回までだからな」
『う…はい…で…あの…何か?…リタが何か言ってきました?』
「いや」
『あっ!あの厚塗り仮面が文句言ってきました?』
「何のことだ」
『げ、忘れてる?…眉のカーブがハモってる親子ですよ!僕は謝りませんからね!』
「ああ…どうでもいいことだ」
『じゃ…何ですか?』
「叔母たちが…喜んでくれたようだ」
『あ…お土産?』
「ああ」
『そうですか~!僕が選んだのもOKだったんだ!』
「ああ」
『よかったですね…で?』
「それだけだ」
『それだけで、わざわざ電話を?』
「付き合わせた以上、報告の義務があるだろう」
『それはどうも…』
「意外そうだな」
『どうやったって当たり前には思えませんよ』
「その正直な物言いをどうにかしろと言っているだろうが」
『はい、善処します』
「何だ、機嫌が良さそうだな」
『あ…まぁ…そうですね…ええとですね…ふふ…ギス達が結婚することになったんです』
「ああ、聞いた」
『なんだ、ご存知なんだ』
「式に出てくれと連絡があった」
『…え』
「どうした」
『…式に?』
「問題でもあるのか」
『…いえ…どうも…んと…その…出るんですか…?』
「例のインドの話次第だ」
『ああ…決まったんですか?』
「いや…まだだ」
『そか…ま…その…決まったら教えて下さい…いろいろ…準備…ってか心づもりも変わるんで』
「…ああ」
『…』
「…」
『あの…まだ仕事ですか?』
「いや」
『あ…どっかのお店ですか?…なんか、ジャズみたいなのが聴こえる』
「ああ」
『…』
「…」
『えと…それじゃお疲れさまで…ゲーーッ!』
「あ?」
『お湯がーっ!スミマセン!じゃ切ります、おやすみなさいっ!』ブチッ
「…」
やや暫く、ウソクは妙な表情で携帯を睨んでいたが
やがて、ため息をつき、滑らかなベルベッドに身体を深く沈ませた
その日の、誰にも吐露できぬ寂しさが僅かに軽減されたように感じるのは
「正直な物言い」の男のおかげなのだとは、思いもよらぬまま
パク・ウソクは、閉店までグラスを傾け続けた
目元に、老練な給仕にしか見分けらぬほどの、微かな笑みを浮かべて
(割り込みサイド)イドバタカイギ ぴかろん
「なんちゅーか、罪なオトコやなぁアイツは…」
「ぼす。しょれは誰のことでしゅか?」
「アイツやアイツ。無自覚な正直物言いオトコや」
「ああ、ドン君でしゅか?」
「それやそれ。そのドンドコドンや」
「ドン君はドンドコなどではありましぇん。それに罪な男ってどーゆー意味でしゅか?」
「惑わせとるやないかい!『どのような場合でも陽が東から登るのと同じくらい当然、服装を崩すことがないと周りの誰もが思っている』あのゴージャス・ウソクはんを!」
「ややこしい言い方しないでくらしゃい。『いつもキチンとしているウソクしゃん』でいいでしゅ!」
「その上あの罪なドンドコドンはこの、馴染みの給仕とやらをおどかしまくりや!」
「脅してましぇんよ」
「ここを見てみい!『目元に、老練な給仕にしか見分けらぬほどの、微かな笑みを浮かべて 』や!ふふふん。びっくらこいたやろうなぁ『ローレンキュウジ』は」
「それはウソクしゃんがドン君に知らず知らずのうちに惹かれてしまっているからでしゅ。ドン君はべちゅに老練な給仕しゃんをドッキリさせようとしてるわけでは…」
「しかし、クサい」
「は?」
「クサないか?『ローレンキュウジ』。俺はこの『ローレンキュウジ』、あの『フェルデ爺』の兄弟やないかと睨んどる」
「…えっと、フェルデ爺はパディでしゅし、老練な給仕しゃんは多分人間でしゅけど…」
「同じニオイがするで。間違いないわ!同門の出や」
「同門?」
「給仕協会とか執事協会とかやな」
「職種が違いましゅ」
「そういう学校の同窓生や!間違いない!」
「…パディはそういう学校で勉強しゅるんでしゅか?」
「それにしてもウソクはんはクールに決めてンなぁ~かっこええ。一字違いでこうも違うか」
「一字ちがい?…もしかしてウシクさんとくらべてましゅか?」
「パク・ウソクはんとパクパク・ウシク。イヌ先生の腰のコトも考えんと…」
「ウシクしゃんは『チャン・ウシク』でしゅよ」
「速いねん、キムパプ食うの」
「それはそうでしゅが…」
「インドかぁ~」
「は?」
「インド行きも躊躇うほど、ドンドコドンはゴージャス・ウソクはんの心を惑わしとる!それを天使は感じ取ってはるやろ!罪なやっちゃ!」
「でもでもでも…ドン君は…ドン君は…」
「『ゴージャス』と『ごしゃいじ』は似てるな」
「は?!」
「いっぺん会わせたらどうや?」
「は?!」
「ウソクはん、和みが欲しいんやろ?ドンドコドンでなくてもええがな。あの人案外子ども好きかもしれんで。『ごしゃいじ』と遊ばせるの、どうや?そしたら天使も安泰でフェルデ爺やら『ローレンキュウジ』やらがドキドキハラハラせんでもええやろ」
「そしたら『正統派』が黙ってないでしゅ」
「大丈夫や。ウソクはんは『紳士』や」
「それはそうでしゅけろ…」
「ウソクはんのお兄さんも『弟』には気を遣うんやなぁ」
「…」
「エロミンの軽妙なトークでウソクはんのお兄さんも和ませんと…」
「えっと、何の話でしゅか?」
「ドンドコドンの話や」
「は?」
「どうなるんや!今後は!ええ?おい!」
「しょれは続きをハウスでしゅ」
「待てん!」
「…」
「寝る」
「は?!」
酒と薔薇5 あしばんさん
本当に、どうしていいかわからなかった
スヒョンから、今日の撮影は長引きそうで、ホテルに泊まることになるかもしれないと言われ
僕は事務室の周りをノロノロとうろついてたんだけど、観念して自分の家に帰った
ホントは、今日も一緒にいたかった、スヒョンと
疲れてんなら、ただ一緒に眠るだけでもいいから側にいたかった
ひとりでいると、頭の中に何だかわけわかんないものが入って来そうで
仕事の段取りとかも考えなくちゃいけないのに、落ち着かないし…
でも、仕方なく帰った
久しぶりに自分ちの風呂に湯を張って
それから、珈琲でもいれようとしてペーパーをセットして
風呂の前に珈琲って妙だよな…なんてぼんやり思ってたら…ヤツを思い出した
この匂いが嫌いだって言ったヤツのこと
胸の、何だか、喉に近い辺りが詰まったようで不快だ
たかだか、ひとりの男の可哀想な昔話を聞いただけじゃないかと思っても
モヤモヤは…そう、この間からずっと居座ってるモヤモヤは消えない
こんな日は、ホントにスヒョンと一緒にいたいのに…
誰かを引っ掛けて飲みに行けばよかった
ホンピョたちはここに帰ってくるだろうか、それともヨンナムさんちかな
今日はあいつらも何だか忙しそうだったから…帰ってこないかな…
そんなことをつらつらと考えてると、携帯が鳴った
こんな時間にかけてくるのはスヒョンかもしれないと思って、急いで手に取る
予定より早く終わったからっていう電話かもしれないと思って
僕は犬みたいに飛びついたんだけど
液晶の名前を見て…息が詰まった
今日、レストランの白いテーブルクロスの上でサインをしていたヤツの手元を思い出す
パク・ウソクって文字を…ここ最近、何百回目にしてることだろう
出ようかどうしようか迷って、切れちゃうと思いながらもまだ迷って
ようやく通話のボタンを押した
お待たせしました!
遅い
あ…ああ…こんばんは…すみません…今風呂にお湯を…
今後、コールは5回までだからな
いつもの、低くて、ちょっと囁くような音の混じった声が伝わって来る
何回か、頭の中で深呼吸を繰り返して、返事した
仕事の先の人間が、何だかの用件で電話して来ただけのことだと
ヤツの伯母さんと、いとこのあの子がプレゼントを喜んでたってことだった
そんな報告をしてくるなんて
何となく、ヤツらしくないなと思って、つい口走った言葉
それだけで、わざわざ電話を?
言った側から、とんでもない質問だったって思った
そういうのって、まるで相手の思惑を何気なく探ってるみたいだ
ヤツにはわかりようもないのに、赤くなった顔を隠すように下を向く
幸い、ヤツはあっけらかんとスルーしてくれたけど
ギス達が結婚することになったんです
ああ、聞いた
なんだ、ご存知なんだ
式に出てくれと連絡があった
上手く話題を変えたつもりだったのに、ヤツのひと言でめちゃくちゃ焦った
頭の中に、お気楽に置かれたままだった「妄想の景色」が一気に変わった
その日の後半、ずっと描いてたハリョンの結婚式の日の妄想の景色が…
ー僕の手を握るスヒョンの向こうに、ヤツの横顔がある
…式に?
問題でもあるのか
…いえ…どうも…んと…その…出るんですか…?
例のインドの話次第だ
とっちらかってて、すっかり忘れてたことが降り掛かってきた
そう、ヤツが行っちゃうかもしれないんだって
僕にはまるきり関係ないんだけど…いや、関係はあるけど…あると思うんだけど…
ああ…決まったんですか?
いや…まだだ
そか…ま…その…決まったら教えて下さい…いろいろ…準備…ってか…心づもりも変わるんで
またヘンなこと口走ってる…何だよ…心づもりって
…ああ
…
…
あの…まだ仕事ですか?
いや
ヤツの沈黙ってのには慣れてない
いつだって台本でも読んでるんじゃないかと思うくらい滔々と言葉が流れるのに
あ…どっかのお店ですか?…なんか、ジャズみたいなのが聴こえる
ああ
息が詰まる…頭がくらくらする、逃げ出したくなる
視線は手元の珈琲の缶に落ちたまま…
僕は、ホントにヤツと話すのが苦手なのかもしんない
大体、あの初対面の時からして上手くいかなかったんだし
白く煙る風呂場で、いきなり勢い良く溢れ出した湯を発見して…
駆け出したんだけど、湯を止めるのが目的じゃない
正直言って、湯のことなんか考えちゃいなかった
無理矢理会話を終わらせたけど、めちゃくちゃ不自然だったろうか
次に会った時、あの電話の切り方はナンダッ…って…
何やってんだろ…
でも、目眩がしたっていうのは比喩じゃない
ホントに目の前が揺れた
僕は…
スヒョン…何だか…めちゃくちゃ疲れてるのかな…
スヒョン…
ソニとの初めての食事のシーンは、思ったより難しかった
怒りも哀しみもない、抜け殻のようなジンの表現に加えて
知り合ったばかりのソニへの、興味とも何とも言えぬ心の変化を見せるのだから
物語りの中で、唯一彼の素の表情が現れる場面かもしれない
カメラが回る直前まで、集中してヒョンジュの顔を思い浮かべる
数時間前まで、店で、側で感じていたミンチョルの空気に
頼りなく、甘く、寂しく、脆い影を溶け込ませて感覚を膨らませる
もう手の届かない身体ーそういう意味ではミンチョルも同じ存在だがーへのイメージ
そこに微かな波紋を与えるソニの影
もちろん、その日の「無自覚な奴」のことは、できるだけ頭から外していた
「ね、式の間、ずっと手を繋いでいたい」
「別に、神様に何か誓えなんて言わないから」
わかっているのだろうか、どういう顔をしてその言葉を言っていたのか
僕にまとわりつく腕が、溺れたもののように必死にしがみつき
待ちうけている未来を打ち消すために、もがいていることを
ミンチョルのように幸せでいてくれるなら、それもいい
僕の中だけではどうすることもできないことだから
でも、おまえに、おまえの気持ちを説明してやらなけりゃいけないのなら…
さすがのこの僕にも、少しばかり骨の折れる仕事だ
「スヒョンさん、失恋でもしたの?」
深夜をとうに過ぎた休憩時間
行き交うスタッフの中から声をかけてきたのはユン女史だ
いつものようにラフなシャツにジーンズ
連日の現場で疲れているはずだが、口調だけは相変わらず元気だ
「読心術ができるんですか?」
「あはは…やーねぇ、でまかせで言ったら当たっちゃった?」
「当たっちゃいないですよ」
「またまたぁ~アヤシいなぁ」
「何か変ですか?」
「ううん、ちょっとあさっての方向に気張ってるように見えただけ、はい、これ」
ユン女史が差し出した、たった今撮られたらしいポラロイド写真に
ジンとは全く違う僕の横顔が写されていた
役に集中しているようには思えない憂い顔が、次第にはっきりと浮き出てくる
「どう?これ、オークションに出したら高値が付くかしらね」
「サインでもしましょうか?」
「でも、ジホ君にバレたら叱られるかなぁ」
「これ、失恋って顔ですか」
「もうちょっとクールだけどね、自分を認めないビジネスマンってとこかな」
「何ですか、それ」
「自分に不自由してるって感じ」
「…そうですか?」
「そうよ、スヒョンさんみたいな人は要注意かもね」
「僕ですか?」
「そうそう」
「僕って、どういう奴です?」
「全てに優しい人」
「なのに、不自由ですか?」
「そうよ、自分にも周りにも優しいってことは、不自由の最たるものよ」
「そういう場合、どうするべきですかね」
「あら、簡単よ、わがままになればいいのよ」
「…」
「そうすれば楽になる」
「余計、苦しくなりませんか」
「そう、苦しいわねぇ」
「矛盾してるじゃないですか」
「そうよ、矛盾だらけでしょ人生なんて、思った通りになんて行かないわよ
あ、矛盾の権化が来た来た、次のシーンの照明が気に入らないって駄々こねて大変なのよ
じゃ、もうちょっと待っててね、3時には終わらせなくちゃ、お肌に悪いわ」
彼女は笑いながら、大声を張り上げているシン監督の元に走って行った
僕は、折りたたみ椅子に深く座り直して
彼女が置いて行った自分の写真をしばらく見つめていた
写真の中の目線の先には、あの男が見え隠れする
あの、冷たく整った陰影の男
ユン女史のお肌への執念が実り、撮影は3時過ぎに終わった
クルーに送られ、撮影場所の直ぐ近くのホテルに着いたのは、それからほどなく
そんな時間にも丁寧に対応するホテルマンに礼を言い
静まり返ったロビーを過ぎてエレベータホールに向かった時
今、そこに降り立った男を目にして立ち止まった
足元の重厚なペルシャ絨毯すら霞むようなその姿は
例え、その倍の距離があっても間違えようがないだろう
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