「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ぴかろんの日常
リレー企画 304
酒と薔薇 6 あしばんさん
エレベータホールに降り立ったその男を目にしたホテルの支配人が
スヒョンの直ぐ後ろから走りより声をかけた
「パクさま、お待ち下さい、お車を回すことはできません」
「そんなに飲んじゃいない」
「いいえ、バーから連絡がきております」
「このホテルは客に指図するのか」
「パクさま…今日はどうなされましたか」
「どうもなされていないね」
「少し酔いを醒まされた方がよろしいかと」
「では、ひと泳ぎするかな」
「ご冗談はおやめ下さい、お部屋をご用意しますので」
「いや、帰る」
ひと気のないロビーとはいえ、周りへの配慮を考えた支配人の抑えた声は
気遣いの欠片もないウソクによって台無しにされる
スヒョンの横で呆気にとられていた若いホテルスタッフが我に返り
自分の仕事を思い出して客をエレベータホールへと促したその時
ようやく、深夜のチェックインの客が顔見知りであることに気づいたウソクが表情を変えた
「おや、これはこれは…」
「こんばんは、ずいぶん飲んでらっしゃる?」
「そう見えるのならそうでしょうね、そちらは?」
「仕事が長引いたので、今夜はここに」
「ああ、撮影でしたね、ご苦労様です」
ほんの一瞬ではあるが、目の前の男たちの様子にホテル側のふたりは困惑した
3メートルほどの距離をおいて交わされた、一見、何の変哲もない社交辞令からは
僅かな親しさも読み取れず、かと言って敵意も感じられない
同じように微笑んだ美しい目元には相手を見据えるような対峙の強さのみが漂っていた
つかの間の妙な沈黙を破ったのは、年長の方のホテルマンだった
「パクさま、どうかお部屋へ」
「帰ると言ったはずだ」
「どうしてもとおっしゃるのでしたら、こちらでお車を手配しますので」
「ここの従業員は、是が非でも俺の意見は却下したいらしい」
「クビになりましても、このような状況を見て捨てるわけにはいきません
私がパク社長に叱られて済むだけではありませんから」
「…」
その名前が呪文であるかのように、ウソクの表情は勢いを失った
「ふん…勝手にしろ」
そのまま顔をそむけてロビー南側のラウンジに歩き出したウソクは
一番手前の豪奢な黒革のソファに、綿の抜けたぬいぐるみのようにドサリと座り込む
スヒョンに頭を下げ、フロントに小走りで去った支配人を目で追った後
固まった身体を動かしかけた若いスタッフは、お伴すべき客に片手で「いいから」と合図され
ひどく躊躇しながらも、手にしていたカードキィをスヒョンに手渡した
ソファに沈み込んで目を閉じていたウソクは
少々うるさい意匠のアールデコのテーブルの向こうに気配を感じて目を開けた
ジーンズに黒の濃淡のシャツを重ね着し革のコートを無造作に羽織った男
胸元には、やはり銀色のシンプルなペンダントが揺れている
その、一切の憂いをも自分の艶にしてしまいそうな男の視線が
店で会った時にも増して挑んでくるように見えるのはラウンジの鈍い光りのせいだろうか
相手は、今夜のこの自分の体たらくについて
グループ傘下のホテルで散々わがままを言っているドラ息子の件については全く無視するつもりらしく
その点についてはありがたかった
「ミス・リタは無事に帰国しましたか?」
「ええ」
「実に楽しい女性でした」
「昔からああです」
「わざわざ店まで来ていただいたのに、お役に立てずに申し訳なかったですね」
「彼女は侮れませんよ、これからのことはわからない」
「残念ながら無理です」
「幾度聞いてもにべもない」
「でも、あなたは無理に僕のことを通そうとしたわけじゃないでしょう」
「どういう意味です?」
「ドンジュンの契約成功のためにひと役買ったってことです」
「まさか、俺はそんな暇な人間じゃない」
「今回の件はどう考えたってあなたにとって大したプラスにはならないし
あなたほどの人が本気でミス・リタの加勢をする気になったら僕の意思なんて無いも同然でしょう」
「ビジネスには、適度な捨て駒も必要です」
相変わらず凄みのあるほどの麗しさを隠さないウソクは
ボタンを外したシャツの襟が若干歪んでいようと、ネクタイが崩れていようと
側にいる者をひたすら威圧する存在感に変わりはない
ただ、前回と違ったことと言えば、先ほどの父親の名前が出た時の妙な印象だろうか
ドンジュンの意識から感じることのできる「もうひとりのウソク」を見たような気がした
「ウソクさん、ひとつお聞きしたいと思っていたんですが」
「酔っぱらいに答えられることなら」
「あいつのどこを買ってるんです?」
「誰?」
「ドンジュンです」
「ああ…予想のつかないところですよ」
「それも才能ですか」
「もちろんです、攻めの仕事ができる人間はそう多くない」
「でも、下手すればバクチだ」
「バクチにも理論が存在します、彼は論と証拠を扱えるんですよ、無意識にね」
「…なるほどね」
さすがにパクグループのやり手だと言われるだけのことはあると感心するとともに
口を尖らせるわ膨れるわで自分に言いたい放題のドンジュンを思い出して
少々可笑しな気持ちになったスヒョンだったが
向かいに腰掛ける男にとっては、その表情の変化こそが気に入らなかった
「フランスのロジェという男を知っていますか?」
「ああ、パチフラ氏ですね」
「何ですって?」
「その方が何か?」
「彼はドンジュン君の才能を欲しがっているが、本人は頑として拒否するのだと」
「詳しいことは聞いてません」
「原因はあなたですか?」
いつになく饒舌…いや、それを通り越して余計なことを言い過ぎだと本人もわかっていたが
ウソクの口は止まらなかった
その日の、自分の心の底だけに仕舞われたやるせない過去が形を変えたのか
目の前の、泰然としている男のどこにこれほど突っかかりたいのか
「あいつはそんな甘い男じゃありません、仕事の方向性の問題だと思います」
「方向性ね」
「ドンジュンに、ずいぶん興味がおありのようですね」
「彼の才がくすぶるのは勿体ないと思ってね」
「くすぶってますか?」
「今は何とかなっているようですけれど、これからはどうかな」
静けさに満たされたラウンジに張りつめる空気の糸
それに充分気づいている支配人は、とうの昔に車の手配が整っているにも拘らず
数メートル離れた柱の向こう側に気配を隠している
「俺は彼に言ったことがある、自尊心を揺さぶるような他の理由があるならそれを切れと」
「…」
「自分をコントロールできない状況を作らないことだと」
「なるほど」
「どう思われます?」
「確かにそうです、正論だ」
「この歳になれば、人間、自分の思い通りにならないこともあると充分わかってます」
「異論はありません」
「スヒョンさん…あなたは、彼が希望すれば全てを手放しますか?」
「…」
「いかがです?」
「ふたつの意味にとれる質問ですね」
「どうとっていただいてもかまいません」
「別れるかという意味なら…」
大した時間ではなかったが、ふたりにとっては長い沈黙でもあった
その問いに対して何の期待もしていないはずのウソクにとっても
自身の中でずっと抱き続けてきたドンジュンへの想いを再確認させられているスヒョンにとっても
「もちろんです」
「…」
「僕は、彼のこれからの人生の何の障害になるつもりもありません」
「…」
ウソクの唇が僅かに動きかけて止まった
その薄く美しい形が何を言おうとしたのか、スヒョンにはわかる由もないが
知りたいとも思わなかった
ロビー奥の古時計の重い針が僅かに動いた瞬間
黒革のソファから身体を浮かしたのは、スーツ姿の男の方だった
「帰ります」
「お気をつけて」
「お疲れのところ引き止めました」
「これからも、ドンジュンをよろしくお願いします」
「…では」
どちらかが手を差し出せば、相手も応えたのかもしれない
しかしどちらもそうはしなかった
そこに唯一繋がったものがあるとすれば、目に見えない極めて個人的な感情
それを敢えて言葉で表現するならー迷い
閉め損ねたカーテンの隙間からの光に唸ったのは
この上なく目覚めの悪かったドンジュンだった
起きる瞬間にみた夢がよくなかった
スヒョンがホンピョと一緒に暮らすことになったと言い出した
ちょっと待って!ミンチョルさんじゃないのっ?ホンピョって何よソレッ
僕はどうなるのさっ
そう何度か叫んだような気がして、自分の声で目が覚めた
「…さいてー…」
ホンピョでも飲みに誘えばヨカッタなんて思ったバチが当たった
結局ヤツらだって帰ってこなくてイナさん達と…
と、そこまで思い出してカレンダーを見、時計を見て、重大なことに気づいた
「イナさん!これから仕事だから買いに行けないの!
お願い!僕の分のパン取っておいて!
今度テジュンさんのアクターのケアを無料でやるから!お願い~(;_;)」
メールを送ってみたものの、もちろん返事など期待できない
「今頃、店は大騒ぎだろうなぁ…」
みんなが楽しみにしていたのを思い出す
カーサの一角から漂う焼きたてのパンの匂いを想像して
あのウィンドウに差し込む朝の陽の光を想像して
カーサの面々の明るい顔を想像して、ドンジュンはしばし微笑ましい気分になった
スヒョンのスタジオに差し入れしたら喜ぶだろな
でかいカゴに焼きたてパンをいっぱい盛って行ったら、ちょっといい感じだな
目立ちたがりのジホのおっさんより先にやんなくちゃな
スヒョンってば、噂の「こどもパン」を食いながら絶対に言う
ーこどもパンって、おまえのこと?
ーふんっ
そこまで空想した時、窓から差し込んだ光の一部が
キッチンの奥の小さな珈琲ポットに当たって白く光った
夕べ、結局飲むことのなかった珈琲
その風景の向こうには、焼きたてのパンを手に持ち
ひどく不機嫌そうなパク・ウソクの顔が揺れる
ー何だこれは
ー食べてみて下さいよ、めちゃくちゃ美味しいんだから
ー何パンだって?
ーこどもパン
ー子どもが作ったのか
ーだから、つべこべ言わないで食ってみてってば!
…
ドンジュンは苦しそうに目を閉じた
もう、気づいていたはずの気持ち
どんなに誤摩化そうとしても
すり替えようとしても
起き上がりかけていたベッドに再び倒れ天井を睨んだドンジュンの視線は
いつしか部屋の隅の小さな薄茶色のしみに辿り着く
ある明け方、自分に腕枕をしたままのスヒョンがつぶやいた
ー薔薇みたいだ
ーえ~そう?
ーいちど意識すると今日からそうとしか思えなくなるもんだ
ーそうかなぁ
今では、どう見ても薔薇にしか見えないその形を睨んだまま
ドンジュンは、ひどく乾いたように感じる唇を噛んだ
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