「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ダウン症児の育児ブログ~派遣さんの☆ワクワク育児日記!~
ひろくん誕生~退院まで
<ひろくんの紹介>
ひろくんは、ダウン症児として2006年2月に岡山県笠岡市で誕生しました。
体重2360g、身長49cmのあかちゃんで、予定より20日程早い
36週での出産でした。
2007年8月現在、40才のパパと、33才のママと、8才のちー姉ちゃんのもとで、
元気にすくすくと育っています!
でも生まれた当初には、命が危ないこともありました。
自分たちが忘れない為にも、出生~退院までの間の出来事を簡単に
まとめてみたいと思います。
ひろくん、本当に生まれてきてくれてありがとう!
↑生まれて3ヶ月のひろくん(2006年5月撮影)
<ひろくん誕生!>
2006年2月に、ひろくんは縁あってこの世界に生まれてきました。
妻は、ひろくんを生む約1年前に流産していて、また、ひろくんの妊娠が
わかった昨年7月の妊娠2ヶ月目の時に出血があり、流産の危険のため
1ヶ月近くの入院生活をおくりました。
妻の流産今まで2回あったので、(長女を生む前に1度あり、長女の時も
妊娠後、切迫早産の気があり、長い間入院していました)とても
心配でしたが、なんとかお腹の中に留まってくれたようです。
だから、ひろくんが生まれてきたときは本当にうれしかった。
ひろくんを生んだ後も妻はうれしくてベッドでずっと泣いていたくらいです。
その時に産婦人科医から、へその緒が細すぎてここまで持ったのが奇跡の
ようなものだと言われ(栄養がいかないのと切れる恐れもあったので)、
いっそうひろくんの誕生が自分たちにとってはかけがえの無いものに思われました。
思えば、あのとき不思議なことがありました。
立会い出産の病院だったので、私はひろくんの誕生をこの目で確かめた後、
生まれた直後の、初めてのママとの抱っこをデジカメで何枚も何枚も
撮っていました。
撮れた写真をデジカメで見て、一生のいい記念になる写真が撮れたと
喜んでいたのもつかの間、再び写真を取ろうとした時に気づいたこととは、
そのとき取ったデータだけが全て無くなっていたこと。
以前取ったデータは全て残っているのに、何で今日撮って画像確認した
ばかりのデータが消えてしまうんだろう。
とにかく、大変残念だったことは言うまでもありません。
その後、退院まで1週間は何事も無く、妻はひろくんと病院で
入院していました。
入院している時に妻が先生から、
「退院日にはお父さんも必ずに来てくださいね。」と念を押されたようです。
その先生の言葉に少し不自然さを感じたものの、まあそれがあたりまえの
ことなんだろうと思いながら、退院当日、小児科の先生から、ひろくんの
経過についての話を聞くことになりました。
まず少しの沈黙のあと、
「両耳が全く聞こえていないようです。脳波がピクリともしていません。」
からはじまりました。
不思議にも自分はある程度冷静に聞くことができましたが、さすがに妻は
途中から泣きだしてしまいました。
もしかしたら、妻が泣きだしたから冷静になったのかもしれない。
妻の目は真っ赤でした。
両耳が聞こえないって、どういうことなんやろう。
もし聞こえないとしたら、ひろくんに自分の声も妻の声も、ちーちゃんの
声も、鳥の声も、川の音も、波の音も、音楽、その他自分が好きな
たくさの音が聞こえないってことだろうか?
そしたら、いまひろくんの耳に何が聞こえてるん。
しばらく考えて、もしかしてそれって誰にもわからないことなんや・・
と思いだしたら、なんかせつなくてせつなくて・・他の事は考えられなく
なってしまいました。
病室に上がるまでに、何度も立ち止まって妻は自分にしがみついて
泣いていました。
「耳については首が据わった頃くらいに再検査するのでまだ、絶対に
聞こえないというわけではないですよ」と医者に言われたその言葉を今は
信じて耐えるしかありませんでした。
今から考えるとその時の話のなかで、「染色体異常の恐れがあります。
断定は出来ませんが・・、これから色んな症状が出てくると思います」と
先生ははっきりとダウン症の事を示唆していました。
但し、そのとき自分達は、ひろくんの耳が聞こえていないと言われたことで
相当なショックを受けていましたので、それ以上のわけのわからない言葉を
言われてもとても受け入れる状態ではありませんでした。
染色体異常も、実際染色体検査を行わなければはっきりとしたことは
言えないし、そんなあやふやなことよりも、今、確かなことは、聴覚検査で
ひろくんの脳波が反応を示していなかったことであり、自分達の目の前に
その無反応だったという証拠を示す脳波の波形が存在することであり、
それを目の前に見せられた状態では、もうそれ以上のことは何を言われても
自分達の耳は拒否反応をするしかなかったのだと思います。
その時の自分達の思いは、染色体異常よりも、ひろくんの難聴の方に
ありました。
とにかく、退院日は先生方に見守られながら、病院を後にしました。
でも、翌日にはひろくんがとんでもないことになることは自分たちには
まだ予想できるはずもありません。
「一緒に寝てやれる・・」そのことだけで私は頭が一杯でした。
<ひろくん初入院>
退院日は、長い間夢見ていた家族4人で寝ることが出来てとても満足でした。
自分の隣に寝かせたので、つぶれないように気をつけて寝ました。
これからの不安はもちろんあるものの、そのときだけはこの子の誕生を
祝ってやることしか考えたくはありませんでした。
夜中に目を覚ますと、ひろくんは目を覚ましていて、大きな目でじっと
自分を見つめていたのがとても印象に残っています。
「見えてるんかな?」と不思議に思ったほどです。
翌日、仕事が忙しくなり帰るのが夜の10時になりました。
帰ってすぐ、ひろくんの顔を見ると、顔色が何か黒っぽいことに気がつき、
とっさに額に手を当ててみると異常に冷たい。
赤ちゃんって、どちらかというとあったかいイメージがあったので、
とにかく体温を計ったらなんと32度しかありません。
これはどう考えてもおかしいので、急いで病院へ電話して、
受け入れ先の病院を探してもらいました。
夜の11時ごろだったと思います。
近くの病院には、当直の小児科医はおらず、少し離れた大きな病院へ
連れて行くことに決まりました。
結局それが功を奏しました。
12時ごろに家族全員で大きな病院へ向かい、そこで計った体温は
直腸で計って29℃になっていました。
すぐさま保育器に入れられ、無菌室で治療されることに。
ひろくんが応急処置のおかげで一命を取りとめ、少し落ち着いた時を
見計らって妻と交互に無菌室に入れてもらい、保育器に入っている
ひろくんと対面しました。
寝ているのかぐったりしているのかよくわからなかったけど、
ひろくんの身体は、点滴やセンサーの線だらけになっていました。
とても痛々しく、弱々しい我が子を見て、自分たちはその細い手を
さわって涙をこらえるのが精一杯でした。
(点滴やセンサー取り付けるため両手のひら及び両足までテーピング
されていましたので、手を握ってやることもできませんでした)
夜中の3時頃だったでしょうか、やっと先生が来られてひろくんの
病状の説明をされました。
「心臓に穴が開いています。3~4個程度の穴と、弁にも以上があるようです」
という内容のことを言われました。
ひろくんが生まれた病院では、エコーの結果、心臓に穴は開いていないと
言われていただけに、夫婦そろってかなりのショックを受けてしまいました。
心臓の穴が、今回悪い作用を起していてチアノーゼという症状がでていたようです。
心不全のようなものだったらしく、どうもあのままでは命があぶなかったらしい。
心臓に穴が開いてるということは今までの人生の中では考えたことすら
無かった言葉でしたので、それが何を意味するのかすら全然わかりませんでした。
いきおい不安だけが先走ってしまいました。
そのとき担当の先生は、
「染色体異常の可能性が高いです」
とはっきりと言われました。
今から考えてみると、目や耳の形、心臓の疾患等、ダウン症特有の症状が
医者の立場からみるとかなりあったんだなと思います。
とにかく、腕から心臓に通っている血管にカテーテルを通しているとのこと。
大きい病院で本当によかったと思いました。
たらい回しにされていたら、ひろくんにもかなりの負担がかかったことだろう。
この子はまだついている・・
と自分たちは何でもいいので良く思える可能性にしがみつくしかありませんでした。
とにかく、もう早朝の時間になってしまったので、ひろくん以外の
家族3人はいったん家に帰ることになりました。
先生が言うには、翌日、ひろくんが落ち着いたら、心臓に詳しい病院へ
連絡を取って、そこへ搬送することも検討するとのことでした。
とりあえず病院が始まる9時ごろに先生から自宅にひろくんの状態を
電話連絡をしていただくことに。
もしかしたら、そのとき妻も一緒に付き添い入院になるかもしれません。
帰ってその準備もしなくてはなりませんでした。
帰りの車の中で、今までの緊張が少し溶けたのか、妻と涙を流して
しまったことは忘れられません。
7才になる長女も同乗していたので、出来るだけ我慢はしていたのですが、
そんなに自分は出来た人間ではありませんでした。
「しかたないよな・・」もう自分で自分を納得させるしかなかった。
次の日は会社を休んで、先生からの電話を3人で待ちました。
「ひろくんの病状は落ち着いているだろうか・・」
と思うのはそればかり。
妻は、何か考えては泣いてばかりいました。
なんせ妊娠した時から昨日までずっといっしょにいたのに、
今は会いたくても会えないどころか、あのような姿で離れた病院に
1人残されたひろくんを思うとそうなるのもうなずけます。
自分も同じ気持ちでしたので。
でも、7才になる長女のことを考えると、自分だけでも気丈に振舞うしか
ありませんでした。
<ひろくん集中治療室へ>
朝、先生から電話があったら直ぐに病院へ行けるように、
シャワーを浴びて部屋へ戻った時のこと。
妻が、「今、不思議なことがあった」と自分に話しかけてきた。
話を聞いて見ると、ひろくんのことを考えて机に両腕を乗せて
うつむいていたところ襟首を誰かに後ろからつよい力で引っ張られたと言う。
ちーちゃん(7才になる長女)かなと思ったが、自分の目の前にいるし、
私はシャワーを浴びていたので誰が引っ張ったのかわからないと言う、
考えようによっては非常に怖い内容だった。
自分は設計業なので、うたがい深く何かの間違いだろうと色々と
そのときの状況を問い詰めてみましたが、結局なにがおこったのか
よくわかりませんでした。
仮にうとうとしていたとしても、下を向いていた以上、強い力で後ろに
引っ張られると言うことは余り考えられないし。
でも、疲れでからだが痙攣することもあるし、それはそれであまり深くは
考えないようにしました。
但し気になることに、妻は過去に身内の不幸を当てたことがあります。
今は亡き妻の父が、建設現場で足場から落ちて右目を失明したときのこと。
妻は、ちょうど足場から落ちた時間に、かけていた眼鏡の右のガラスを
割っていました。
それも、何もしてないのに、自然にひびが入ったという大変不思議な話です。
妻は当時家にいた母にそのことを話すと、何か悪いことがあったかも
しれないから自宅へいなさいと言われ、外出を取りやめたと言う。
その直後の電話で、父親が足場から落ちた連絡を受け、時間を逆算してみると
丁度眼鏡の割れた時間に足場から落ちて右目を失ったことがわかったという。
これは妻が高校生の時の話で裏もとりましたが実話です。
そのことを一瞬思い出したので、悪いことがなければいいが・・
と思っていると、どんぴしゃのタイミングで、電話が鳴りました。
震える手で、受話器を取ったのはいうまでもありません。
電話は病院からで、緊急でひろくんが心臓の権威のある病院に
搬送されることが急に決まったと言う内容でした。
あのあと、少し容態が悪くなって、事後報告だけどある薬を使用したとのこと。
(薬名は忘れてしまいました)
でも、とりあえず生きていてくれているみたいなので少しホッとしました。
あの大きな病院でさえ、ひろくんには小さかったらしく、何年か前に
李登輝総統が心臓病で入院したと言う心臓では権威のある病院に
搬送されることになりました。
とにかく、いそいで準備をして病院へ向かい、病院の待合室で
その搬送される病院からやってくる迎えの救急車を待ちました。
管だらけで保育器に入れられたまま、救急車に載せられて出発するひろくんを、
先生方と一緒に小さくなるまで見送る寂しさはありませんでした。
「変われるなら変わってあげたい・・」
と声にならない声で妻が泣きながら言いました。
もちろん自分も全く同じ気持ちでした。
自分たちも直ぐに車にのり、先生、看護婦さんたちが見送ってくれる中、
搬送先の病院に向けて出発しました。
行き先は、その病院の集中治療室(NICU)です。
車で高速を使って約1時間くらいでその病院へ到着しました。
集中治療室に入ってみると、そこは乳幼児専用で、未熟児やひろくんのような
障害を持った子どもがたくさん入っていました。
ひろくんは、手足にセンサーをつけ、カテーテルを通したまま、
酸素吸入を受けていました。
ここで治療してくれる限り、妻が付き添って入院する必要はないようです。
ただ、先生や看護婦さんもつきっきりでひろくんのめんどうをみてくれる
わけではありませんので、やはり、出来ることなら一緒にいてやりたいと
思いました。
とにかく、先生の話でも、心臓に疾患があることは間違いなく、
染色体の検査も受けることに同意しました。
この結果は、ニ週間くらいかかるらしく、夫婦そろってしか結果は
教えられないし、どちらの染色体が悪さをしたかと言う内容の質問や
検査には答えられないと言われました。
ひろくんのその時の診断は以下の通りです。
・心房中隔欠損
・心室中隔欠損
・白血球異常(かなり高い数値が出ていた)
・耳が聞こえないこと(後日検査で再確認)
・染色体異常の可能性有(要検査)
上記2つは、自然に塞がる可能性があるとのこと。
白血球異常は後日、搬送される前の病院との単位の違いだったことが
わかり、実際は正常だと言うことがわかりました。
(でもこれってあぶないことかも・・)
これらは皆、染色体異常いわゆるダウン症特有の症状だとのことで、
染色体検査を勧められ、その場で夫婦そろって同意書を書きました。
ダウン症・・。
以前「八日目」という映画を何年か前に偶然見たことを思い出しました。
かなり、かわいそうな映画だったと記憶しています。
その、主人公が確かダウン症だった・・ということを思い出していました。
そのこと以外に、ダウン症に関する知識は自分たちには全くありませんでした。
ダウン症や、難聴のことは、結局検査してみないとはっきりとわからない
のでその点についてはそれ以上考えるのはやめました。
もし最悪の結果だったとしても、それを受け入れられるかだけが
自分たちには一番大事だと思ったので、それを2人で確認しあいました。
私たちの結論は、悪い結果(ダウン症)だと思っていようと言う話になりました。
私たちにとっての、今の時点で考えられる限りの最悪の結果は、
ダウン症児で耳が聞こえない障害を持っているということでした。
あと、これは考えたくなかったのですが、命が短いと言うこと。
この子を育てていく為には、今考えられる以上の障害がもしあったとしても
自分たちは受け入れなければならないし、それを拒否する選択枝は
私たちには考えとして全くありませんでした。
とにかくこれから起こることに逃げずに、ひろくんと共に生きていこう
という結論にしかなりませんでした。
どこにも逃げ場はありません。
(もしかして、これは自分の考えを単に妻に押し付けていたのかもしれません。
そのとき妻には考える余裕など無かったと思いますのでかなり妻にとって
きつい事を言っていたのかもしれません。そのときの自分は自分に
そのことを言い聞かせるのに必死でした)
とにかく今後、妻をどう支えて行ったらいいのかに悩みました。
7才になる長女はあまり事情が飲み込めてないようでしたので、
とにかく妻が立ち直ることが先決でした。
私自身も一杯一杯でした。
「自分を支えるものは今のところ無い」とそのときの日記に書かれていたように、
まずは自分をしっかり持って、自分で自分を支えるものを見つけていくことが
必要でした。
<ひろくんのいない家で考えたいろいろなこと>
集中治療室で2週間ほどひろくんは1人で治療を受けていました。
その間、家族3人で毎日暮らすことになるのですが、ひろくんのことを
思うと涙が止まらなくなることもありました。
顔が見えないので余計にそうなるのでしょうね。
何で自分が涙を流しているのか、理由がよくわからないのが不思議でした。
妻にも、「何に自分は泣いているんやろう」と涙を流しながら
訪ねたこともありました。
<育てるのに不安がある?>
でも、初めてのことなので、人に聞くなり調べたりして自分なりに
頑張っていくしかないので、その辺の不安はありませんでした。
何とかしていく自信はなんとなくあります。
出来ることしかできないのですから、出来ることを精一杯やるだけです。
<自分の人生目標がすっかり変わってしまったから?>
でもそのために泣いてしまうような自分では無い様にも思います。
<長女の将来?>
少しあるかもしれません。
障害に対して理解の無い人とでは結婚に関しての障害があるかもしれません。
ダウン症はほとんど遺伝とは関係してないそうです。
でも、そんなことは一般に人にはわかるはずもありません。
自分も、ひろくんを授かる前はダウン症に関して全然知らなかったのですから。
自分は、生まれてきたひろくんのために何でもする覚悟は出来ていますので、
何かを失うから泣くということはないはずです。
結局、何で涙が出るのかはもっと深いところに原因があるように思いました。
もしかしたら、自分が気づいていないところにあるのかもしれません。
少し涙の原因として思うのは、ひろくんと自分は理解し合える関係に
なれるのだろうかという心配でした。
ダウン症児で、耳が聞こえないとすると、どうやってコミュニケーション
を取っていけばいいのか。
自分が今まで学んだことを少しでもひろくんに教えることが出来るのかどうか、
ひろくんに手話が理解できるかどうかも、自分の今の知識では判断できません。
そうなるとひろくんがつらいだろうなとも。
結局、ひろくんが苦労するのが目に見えているからなのかもしれません。
親が子どもに甘いというのは多分親の本能だと思いますので、
苦労する子どもを見たくないと言うのは正直自分もあります。
与えられた試練をこの子は乗り切っていけるのかどうか。
いじめや後ろ指を差されることも覚悟しなくてはなりません。
それが、不憫なのかもしれません。
それなら、それを不憫だと思う自分がまず変わらなければなりません。
でもどうやって、その様なレベルに変わることができるのか・・。
今わかるのは、今の自分のままでは、自分が思う理想の育て方は
ひろくんに対しては絶対にできないということ。
だから今の自分の限界や小ささをとてもとても感じています。
多分これも、涙の一因なんだと思います。
でも、とにかくやっていくしかありません。
今まで使っていた言い訳はひろくんには使えません。
力ずくで出来ることとできないことが世の中にあることを自分は一番
今回のことで教えられました。
努力すれば何でも出来る、という世界にしか住んだことが無いので、
今の自分をある意味捨てなければひろくんを育てることは出来ません。
とにかく、自分がひろくんの成長に合わせて変われるよう努力し続けて
いくしか、これから起こることに対してのいろんな答えは
見つからないような気がします。
今後、ひろくんの病気がよくなればいいのですが、一生の大部分を
入院生活ですごしたダウン症の方もいらっしゃると聞きます。
それに加えて、ダウン症の人の寿命が短いことも気にかかります。
平均50才くらいだと聞きます。
と言うことは、自分たちが死ぬ時くらいにひろくんも死ぬと言うことになります。
そうすると、残されるのは、長女のちーちゃんのみ。
そのときに寂しい思いをさせないように、それまでにいい結婚をして、
いい家庭を作ってもらいたい。
そうなって欲しいのなら、いい女性に育てる義務が自分たちには
今まで以上に発生します。
ただでさえ、結婚するのに以前よりも障害が出てきたのですから。
理想と現実は全然違うこともきちんと認識しないと、
後で取り返しのつかないことになりそうです。
こうでないとおかしい、と思っても現実を見て対応していかないと、
幸せな生活は送れないような気がします。
今後自分の中でいろんなギャップに折り合いをつけていくことが
結構難しいのではないかと思います。
自分のキャパはそんなに大きくないと思いますので。
このように今まで、考えたことも無かった問題が次々に浮かんでくるので、
今までの自分は本当になんだったんだろうと考えることもしばしばです。
でもこれらは、障害児を持ったからと言って初めて考える問題では
ないはずです。
その点自分は今まで大変甘かったなという反省が今になって
たくさん出てきました。
とにかく、ひろくんが病院にいる間、自分のなかでいろんな考えが
駆け巡りました。
多分妻もそうだったに違いありません。
<染色体検査の結果>
集中治療室で、ひろくんが治療を受けている間に、染色体検査の結果が
わかりました。
夫婦揃ってしか、この結果を聞くことは出来ず、妻と私とちーちゃんと
3人で先生の話に耳を傾けました。
やはり、予想通り染色体異常、すなわちダウン症でした。
ちーちゃんには、何のことなのか全くわかるはずもないのですが、
私たちにとっては、万が一の望みにかけていたところも多少ありました
ので、もうすがるものは何もなくなってしまいました。
覚悟はしていたのですが、やっぱりこの宣告はとてもつらいものが
ありました。
それまで、ひろくんの状態が良くなってきていたので、もしかして・・と
期待はしていたのですが、やっぱり現実は厳しかったです。。
先生は、ダウン症の説明を淡々としてくださいました。
私たちのことを配慮して、第三者的な冷静な口調で説明して下さったの
だろうと思います。
私は、そのとき今までの疲れがドッと出たようで、もう、目の焦点を
合わせることも難しくなってしまったことを覚えています。
自分の心と身体が分離されたようなそんな不安定な状況になっていました。
先生は21番目の染色体を示されて、それが通常2本あるところが3本ある
ことを強調されていました。
後の話は、恥ずかしながら全く覚えておりません。
その後、親に連絡したり、親戚の方や知人には手紙を送ったりとても
忙しかったように思います。
<集中治療室からの退院→入退院を繰り返す>
ひろくんの病状はその後順調推移し、10日ほどで一旦退院しました。
その後2週間は特に問題がなかったのですが、ある日、突然ミルクを
飲まなくなり、呼吸が喘息のような症状を起しました。
みぞおちが陥没するほどの呼吸をしだしたんです。
いそいで、近くの病院へ連れて行ったところ、小さな病院だったので
手に負えず、救急車で以前入院していた大きな病院へ運ばれました。
病名は、RSウィルスに感染しているとのこと。
普通の乳幼児でもかかる感染症らしく、ダウン症だからというわけでは
ないとのことでした。
しかし、集中治療室へ一旦運ばれその3日後に一般病棟に移されました。
一般病棟へ移ると言うことは、赤ちゃんの場合24時間誰かが付き添わ
なければなりません。
もちろん妻がそれを担当することになるのですが、家から病院まで1時間も
離れていましたのでしばらくは妻と別々に生活しなければなりませんでした。
7才になるちーちゃんもストレスがたまったことだと思います。
その間は、ありがたいことに私の母に来て家の面倒を見てもらいました。
本当に、このときほど親をありがたいと思ったことはありません。
(その間、大喧嘩もしてしまったのですが・・)
2ヶ月程の入院でひろくんは完全退院しましたが、その間3度ほど、
退院しては病院へ連れ戻されるということを繰り返していました。
決まって、退院した翌日になると調子を崩してしまうんです。
どうして退院してはすぐに病状が悪化するのかがわかりませんでしたが、
CTを撮ってみて初めて肺炎であることが分かりました。
通常のレントゲンでは見えてこない部分でしたので、原因を特定するのが
遅れたらしいです。
あまり、乳幼児に被爆させるのも好ましくなかったというのもあって
こればっかりは、致し方ありません。
結局、病名は誤嚥性(ごえんせい)肺炎で、ミルクや痰が、胃に入らずに
肺の方に入ってしまって起こる肺炎だそうです。
だから、肺の下や裏側が画像では真っ白だったそうです。
とにかく原因が特定できましたので、鼻からチューブを通し、そこから
ミルクをやる処置に切り替えました。
そのとたん劇的によくなり、やっと退院のめどがつくようになりました。
不安定だった酸素濃度も安定してきました。
<ひろくんの現状(2006年7月20日頃の様子)>
4月半ばに最後の退院をしてから今のところ入院はありません。(現在7月後半)
2ヶ月ちょっとの入院生活でした。
妻も看護で疲れ果てていました。
その間、かなりのストレスもあったのでしょう。
よく口ゲンカをしたのを思いだします。
お互い余裕がなくなっていたんでしょうね。
でも、妻の入院生活でプラスになったこともありました。
妻が言ってましたが、そこでは同じダウン症の子どものママさんと
友達になることが出来、もっとひどい症状の障害者も見たことからとても
いろんなことを勉強したそうです。
本当にいろんな症状の方がいますから、ひろくんはまだましなんだと
思えるようになったことがとても大きかったようです。
今も時々は、鼻からのチューブを外してしまうひろくんですが、
もう大目に見るしかないですよね。
入院することを思うと。
現在7月終わり近くになりましたが、もうミルクを口からほとんど飲ませて
やっています。(180cc程度)
どうしても、ミルクの飲みが悪い時だけ、チューブから入れるようにしています。
ひろくんが産まれてもう6ヶ月近くになりますが、この調子でいくと
離乳食はまだまだ先の様な気がします。
先日も、夏バテか調子が悪くなり、当分チューブはとれんな~と先生に
言われたばかり。
ひろくんは、ダウン症児の中では比較的、良く育っているようで、今現在
体重約5300g、身長61cmとがんばっています。
寝返りも出来、首も座ってきているので育児も以前より大分楽。
話かけにも応じるし、良く泣きます。
そのおかげで、私もやっと最近少しずつ色んなことが出来るように
なりました。
今後は定期的に、このページをUPしていこうと思っています。
後日、もっと読みやすくまとめるつもりです。
<了>
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