陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 60



彩子は、翼を抱くと、祐子が言ったとおり、やはり翔のことを思い出してしまうのだった。

「私、木田祐子と申します。川村翔さんをお願いしたいのですが。」

「はい、川村ですが。」

「私、森川彩子の友人で、少しお時間いただけないでしょうか?お話ししたいことがあるのですが。」

翌日、12時半に、日比谷のあるビルの地下にある喫茶店で祐子は、翔が来るのを待っていた。

祐子は、彩子から翔の写真を見せられたことがあったので、直ぐにわかった。

「お忙しいところ、申し訳ありません。」

「森川さんのお友達が、どういったご用件でしょうか?」

祐子は翔に、今、彩子が癌に冒され、命が短いことを告げた。

「彼女にとって、あなたは、永遠の人なんです。それで、病気のことを告げずに、会いたいと手紙を出したんだと思います。あなたには知られたくないと。でも、自分の命と向き合ったとき、どうしてもあなたに会いたくなったんだと思います。お願いですから、一度会ってやって下さい。病気のことは知らない振りして。お願いします。」

翔は、余りのことに、返事ができなかった。

かつて、自分が心から愛してやまなかった人が。

二度の手紙に冷たい電話をしたことを。

いや、13年前、自分が彩子にしたことを。

頭の中で、様々なことが巡り、喉がからからになっていた。

アイスコーヒーを口に含んで、飲み込んだ。

「いつ?」

「早くに。」


永遠の人2


彩子は、天井を見つめてじっとしていた。

祐子がドアを開けると、彩子の目線が祐子の方へ向けられた。

「今日もいい天気だね。窓少し開けようか?気持ちいい風が入ってくるよ。」

「祐子、いつも来てくれてありがとう。」

「ねえ、外に、散歩にいかない?」

「そうね。天気もいいし、外の空気が吸いたいわ。」

彩子を車いすに乗せて、祐子は、外へ出た。

病棟の裏に、木々が植えられ、その間にベンチがおかれている場所がある。

そこへ、車いすを進めていった。

遠くにすらっと背の高い男性が立っていた。

近づくにつれ、彩子の顔が青ざめた。

「祐子、止めて!部屋に戻って!」

翔の姿が分かったのだ。

「なんで、なんで、彼を呼んだの?こんな私を見せるため?会わないわ!早く、部屋へ戻ってたら。」

「彩子。」

祐子は、車いすの向きを変えて、部屋へ戻っていった。

ベッドにうつぶせになって、彩子は、泣いた。

「どうして、こんなことするの?いつ頼んだ?私が、もう死ぬから?大きなお世話よ。こんな姿、彼には見せたくない。ひどいじゃないの。」

「ごめん。彩子。そんなつもりじゃなかったの。許して。ごめん。私のせいでこんな悲しい思いさせちゃって。ごめん。」

彩子は、泣き疲れて、そのまま寝てしまった。

体力が低下しているのだ。

祐子は、外へ行った。

まだ、翔がそこにいた。

「すみません。彩子に内緒にしていて。彼女を傷つけてしまいました。あなたに、今の姿を見せたくないって。来ていただいたのに、私のせいで、川村さんにも嫌な思いをさせてしまいました。」

「いいえ。彼女、大丈夫ですか?」

祐子は、うつむいた。

翔は、歩きながら、過去を振り返っていた。

自分が彩子に対してしたことを。

病気で自分のことを必要としていたのに。

そして、今、彩子は。

『俺は、何てヤツなんだ。何てヤツなんだ。』

職場に戻ったが、翔には、回りに見えるものが全て、偽りのもののように思えてならなかった。

祐子は、彩子の病室へ戻っていった。

そして、彩子の手を握り、彩子の寝顔を見ていた。

「ごめん。」

そこへ隆が入ってきた。

隆は、取り急ぎアメリカに一旦戻り、卒業証書をもらい、荷物を日本に送り返してきた。

そして、就職が決まっている会社に事情を話し、入社時期を遅らせてもらっていた。

毎日、彩子の実家から黎と翼を連れて病院に来ていた。

「祐子ちゃん、来てくれていたの。ありがとう。あれ、彩子、寝てるの?黎、ママ寝てるから静かにね。」

「隆さん来てくれたし、私、行くわ。また来るから。」



「祐子、さっきは、ごめん。そして、ありがとう。翔さんに会わせてくれて。遠くからだったけれど、はっきり彼の姿を見ることが出来たわ。全然変わってなかった。」

「彩子、私の方こそ、あんたに内緒で、出しゃばったことして。ごめん。」

「うぅうん。会えてよかった。」

彩子は、そこまで言うと、電話口で嗚咽を上げて泣いた。

泣くまいとしている彩子の様子が電話口から伝わってきて、祐子も辛かった。

「本当よ。祐子。さすが、親友!ありがとう。嬉しかった。隆には、一生、翔さんのことは言わないで。この間、祐子が行っていた通りよ。私を一番愛してくれているのは、隆だもの。私は、彼と一緒にいたから、今まで幸せだったのよ。隆こをが『運命の人』だって、さっき、翔さんを見て思ったわ。隆とだから、色々なことにチャレンジ出来て、乗り越えてこられた。私を自由に生きさせてくれた。隆との日々を振り返ると、楽しい思い出ばかりよ。喧嘩も沢山したけど、言いたいことを言い合える仲だった。翔さんには、言えなかった。翔さんは、翔さんで、愛していたわ。多分、私の人生の中で一番深く。翔さんへの愛も、私の中では、永遠なの。それも本当よ。祐子が言ったように、思い出は美しさを増していくものなのね。そして、隆への愛も永遠なの。彼には、本当に感謝しているし、運命共同体。2つの愛を心の中で大切にするわ。ありがとう。」

「彩子、あんたは、幸せよ。こんなに深く、本当に人を愛して、愛されて。」

「そうね・・・・・。」

突然、電話の向こうでバタンという音がし、彩子の声がとぎれた。

「彩子!」


愛を胸に抱いて


「呼吸困難を起こしたんだ。もう・・・・・。」

隆は、下を向いてそれ以上、口を開かなかった。

彩子は、人工呼吸器を付けられ、ベッドに横たわっていた。

「彩子。」

祐子は、口に手を当てた。

そして、廊下に出て隆の胸に抱かれて泣いた。

彩子の両親は、黎と翼を連れ、ベッドの側の椅子に座って、じっと彩子を見つめていた。

自分たちより先に逝こうとしている娘を。

彩子の兄も並んで座っていた。

血圧が下がり始めた。

ピーピーと緊急を伝える警報が鳴りなじめた。

医師と看護婦が慌てて部屋に入ってきた。

隆も祐子も部屋に入った。

彩子は、そのまま愛する人たちに見守られながら翌朝、旅だった。

「彩子。」

「あやちゃん。」

みんなの呼ぶ声に、応えはなかった。

隆は思わず、廊下に出た。

ドアの前に、見知らぬ男が立っていた。

その男の顔は、蒼白だった。

隆は、そのまま廊下を走って外に出て行った。

男は、ゆっくり、力が抜けたような足取りで、病院を後にした。


冬の朝


彩子が亡くなり、秋も終わり、年も改まったある日の朝。

「あなた、もう10時よ。まだ寝ているの?いくらお休みでももう起きたら。」

弘子は、夫の書斎のドアを開けた。

夫は、家で仕事をして遅くなると書斎で寝てしまうことがしばしばあった。

次の瞬間、弘子は言葉を飲んだ。

顔から血の気が失せていくのを感じた。

そして、その場に崩れ落ち、座り込んでしまった。

冬の朝に照らされた夫の寝顔の安らかそうな表情。

しかし、凍っているようだ。

布団に赤いものが見えた。

「死んでいる。」

枕元に走り書きのメモがあった。

ただ、『すまない』と。

(完)

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