陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 19



美奈は、新しい仕事がどんなものになるのか楽しみだった。自分が試されるような気がした。

『来週までは体調を完璧にしておかなくちゃ。来週の月曜日の会議の予定を手帳にかいておこう。』

美奈は、手帳を落としていることを思い出した。

「もしもし、先週、そちらの駅で具合が悪くなって、救急車で運ばれたものですが、その時、手帳を落としてしまったようなのですが、事務所に届いていませんか?」

「えっと、お名前は?」

「村沢と申します。」

「あ~、先週ですね。何色のどんな手帳ですか?お名前とか書いてありますか?」

「ベージュのシステム手帳です。ブルーのペンが付いています。表に、ローマー字で名前が書いてあります。」

「そうですか。ちょっと、お待ち下さい。調べて来ますから。」

あの時の光景が美奈の頭の中に蘇ってきた。

胸がまた苦しくなってきた。

『苦しい。』

受話器を持ったまま、頓服を飲んだ。

「お待たせしました。申し訳ありませんが、届いていないようです。届いたらご連絡しましょうか?」

「お願いします。」

胸の苦しみに耐えながら電話番号を伝えた。

美奈は、ベッドに横になった。

青い空の見える窓に目が行った。

『あの時の人。』

救急車が来るまで、ベンチから滑り落ちた美奈の体を支え抱きしめてくれていたあの男性の腕を思い出していた。

『お礼も言えなかった。彼が、私の手帳を持っているのかしら?同じ時間にあの駅に行けば、会えるはずね。』

家でゆったりと過ごした美奈は、水曜日から会社に行こうと思っていた。

「大丈夫?」

「大丈夫か?今日は、一緒に行こう。」

「大丈夫よ。」

「途中まで、どうせ同じ電車だから、パパに一緒に行ってもらった方がいいわ。」

「わかった。そうする。」

水曜日の朝、美奈は父親と一緒に家を出た。

「パパとこうして通勤するなんて久しぶりね。パパの方が遅く出るから、特別な会議がある時くらいだものね。それにしても、親と一緒に通勤するなんて。」

「もう、夏の日差しだな。」

「そうね、女性には、この光線が大敵なのよ。」

駅の改札を通り、ホームへ降りる階段の所まで来ると、美奈の足が止まった。

「どうした、美奈?」

「胸が苦しくなってきた。頓服を飲むわ。」

美奈は、バックから薬を取り出し、急いで口に投げ入れた。

小さなミネラルウォーターのペットボトルを書類鞄から取り出し、口に水を含んだ。

「ベンチに座ろう。」

「パパ、ごめん。」

「いい。それより、大丈夫か?」

「うん、ちょっと苦しくなってきた。やっぱり、電車は無理かも。私、タクシーにする。」

「休んだらどうだ?」

「大丈夫よ。家にいる時は、平気だったし、電車がダメみたい。この間、麻紀が言っていたんだけど、初めて発作を起こしたところを体が覚えていて、同じような環境に遭遇すると、発作を起こしてしまうんだって。それが、パニック障害なのよ。」

「そうか。じゃあ、タクシーで行こう。」

「一人で大丈夫よ。パパは、会社におくれちゃわない?」

「今日は、いつもより早く出て来たから大丈夫だ。美奈だけじゃ、心配だ。」

二人は、タクシー乗り場に向かった。

「丸の内。」

父親が運転手に告げた。

「大丈夫か?」

「うん。そのうち、薬が効いてくるわ。」

「そうか。」

「この小さな粒が私の命綱ってわけ。私の病気にコントロールされているみたい。」

「しばらく、様子を見るんだな。余り、仕事を詰め込むな。」

「来週から新しいプロジェクトが始まるの。」

「そんな状態で大丈夫なのか?」

美奈は、返事をしなかった。自分もどうなるのか、わからなかったからだ。

「じゃあ、ここで行くわ。」

「気を付けるんだぞ。登山家は、引き返す勇気を持たなければいけないんだ。お前も、引く勇気を持つんだぞ。」

「わかったわ。」

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