陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 30



森口は、その香りに美奈の後姿を目で追った。

美奈は、ドアをでる時、振り返って森口を見た。

長く忘れていた感情が吹き出してくるのを美奈は感じていた。

「パパ。」

「終わったか。お昼を食べていくか?」

「そうね。」

「どこか途中に寄っていくか。以前、よく行っていた公園近くにあるレストランへ行ってみよう。」

「そうね。久しぶりだわ。」

会計を済ませると、2人はレストランに向かった。

森口は、最後の患者を診終えると、処置室へ行った。

処置室には、診察を終えた早川がいた。

「終わったのか?」

「ああ。この間の彼女。」

「この間の彼女?」

「パニック障害の。」

「ああ、あのシンクタンクで働いているとかいう彼女か。どうした?」

「先週とは、雰囲気も変わって、穏やかな感じになってきたんだ。」

「感情転移が起きたのか。今まで、突っ張ってきたものが取れたんだな。森口に安堵感を覚えたんだろうな。気を付けて治療に当たらないと、彼女を返って傷つけることになる。」

「そうだな。このまま安心感を与えて快方に向かって欲しいよ。」

精神科では、医局に入ると必ず言われるのが、『患者と個人的に親しくなってはいけない』ということだ。

患者は、心の安らぎを医師に求めてくる。

医師は、患者の気持ちを考え、ありのままに受け入れて深いところで患者の心を包み込んでくれる。

そこで患者は、医師に対して信頼や尊敬、親密感などの感情を持つことがある。

時には、恋愛に似た感情を持つこともある。

しかし、医師は、患者に対して安心感を与えつつも、冷静な医師としての目をもち続けなければならない。

このような治療で、医師の中には、患者のこのような感情に反応する、「逆転移」という現象が起きる。

「逆転移」は、医師が患者の信頼や尊敬、親密感などの感情に対して私的な感情を持つことを言う。

「気を付けろよ。あまり、入れ込むな。」

「分かっているよ。若造じゃないんだぞ。」

美奈と父親は、テラスの席に通された。

その席から、若葉の美しい木々の公園を見渡せた。

「もうすぐゴールデンウィークだな。」

「そうね。もうそんな季節なのね。」

「美奈もそろそろ結婚を考えないと。」

「何、それ。いきなり。パパったら何を言い出すのやらって感じ。」

「こんな所で、休日にパパとランチか?」

「いいじゃない?親子水入らずで。」

「嬉しいけれど、ママも心配しているよ。お前がやりたいようにやればいいとは思っているけれど、大学院を出てから、仕事ばかりの毎日じゃないか。誰か、いい人いないのか?」

「パパとママが知らないだけかもよ~。」

「そう願いたいよ。」

「ホント?」

「本当だよ。」

「仕事が恋人なんて、言いませんから。まだ、運命の人が現れていないだけよ。私の周りはそんな人ばかりよ。」

「今度の病気も、美奈の心の杖になってくれる人がいなかったからじゃないかって、パパもママも思っているんだ。パパやママじゃお前をかばってやることはできても、美奈が心から飛び込んで行ける相手じゃないだろう?」

「私は、パパやママと一緒にいると、心が安らぐわ。大丈夫よ。心配しないで。そのうち、いい人見つけて、パパに紹介するから。その時になって、結婚しないでくれ~なあんて言わないでね。」

「泣き言を言える日が早く来るのを待っているよ。無理していないか?いくら社会に女性が進出している時代だと言っても、やっぱり男性と互してやっていくのは、それ相当の努力が必要だ。美奈の仕事も大変な仕事だ。銀行でパパも体調を崩して辞めていく女性を見ているからね。」

「心配かけて、ゴメン。でも、パパ、私は大丈夫。信頼できるお医者さんにも巡り会えたし。それより何より、パパとママがいてくれるから。」

「美奈は、ずっと手の掛からない、いい子だった。だからこそ心配なんだ。それだけに頑張りすぎているんじゃないのかって。」

「私は、私よ。大丈夫だって。」

美奈は、運ばれてきた菜の花と生ハムのパスタを見て「わ~、きれい!」と声を上げた。

美奈は、公園の方に目をやった。

ふと、森口のことを思い出していた。

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