陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 31



やはり、朝、起きるのは辛い。

「おはよう。」

「おはよう。あら、ステキね。そのライトグリーンの花柄のワンピース。いつ買ったの?そんなの持っていた?。初めて見るわ。いつも、パンツスーツのあなたなのに。」

「似合っている?昨日、病院の帰りにパパにデパートに寄ってもらって春夏の洋服を買ったの。私、ずっと黒とかグレーや紺のパンツスーツばっかりだったじゃない?ちょっとイメージチェンジ。気分転換しようかなって思って。たまにはいいでしょう?」

「あら、そうだったの。パパったら、何も言わないんだから。そっちの方が美奈にはお似合いよ。」

「そうだろう。パパもそう思うよ。一緒に買い物をして楽しかったよ。」

美奈は、朝食を済ませると家を出た。

靴も、ワンピースに合わせてちょっとヒールの高いベージュのバックストラップのパンプスを履いた。

何となく、駅までの景色も違って見える。

『どうしよう、電車で行ってみようかな。ダメだったら、次の駅で降りてもいいし。』

美奈は、パニック発作を起こして以来、約1ヶ月振りの電車だ。

『頓服も飲んできたし。大丈夫よ。』

自分に言い聞かせた。

いつも乗るタクシー乗り場を横に見て、改札口に向かった。

そう、1ヶ月まで、何も感じることなく、通り過ぎていた改札が、今の美奈には、運命の門のように思えた。

『大丈夫。大丈夫。』

美奈は、改札を通り過ぎ、ホームに向かう階段に向かった。

階段の上からホームが見えた時、一瞬、美奈の足が止まった。

鼓動が早くなり始めた。

『大丈夫よ。大丈夫。私は、大丈夫。』

一段目の階段に足を下ろそうとした時、足が震えるのを美奈は感じた。

次から次へと出勤を急ぐ通勤客が、美奈の横を通り過ぎていく。

美奈には周りの騒々しい出勤風景は全く別世界で起きていることのようだった。

一段一段、美奈は、踏みしめるように階段を下りていった。

階段を下りていく途中、電車がホームに入って来る音がした。

グォー。

美奈の体の芯まで響いてくる。

ホームには、溢れんばかりの人が電車を待っていた。

美奈は、その列の一番後ろについた。

電車がホームに入ってきた。

胸がどきどきし始めた。

『大丈夫。』

心の中で繰り返した。

電車のドアが開き、人の波が車両の中に流れていった。

美奈も、波に流されるように車内に。

あの、身動き一つできない状態。

気温が上がってきているので、冷房が入っていた。

美奈は、冷房の風に当たらないように下を向いていた。

頓服を飲んできたが、胸が痛み始めた。

『終点までは、無理だわ。』

次の駅に電車が滑り込んでいった。

ドアが開くと、人の波が外に流れ出た。

美奈も、一緒に外に出された。

『今日は、ここまで。もうダメだわ。』

呼吸も、少し乱れていた。

電車に乗り込む人を見ながら、美奈はホームに残った。

電車のドアが閉まり、電車がゆっくりと走り始めた。

その電車を見ていた美奈。

美奈の乗っていた隣の車両のドアから美奈を見つめる視線を感じた。

『あれ?あの人?』

電車は、スピードを増してホームを出て行った。

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