陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 32



『あの人、もしかして、あの時の人?』

その人は、美奈がこのホームでパニック発作を起こした時に美奈を支えてくれた人のように思えた。

美奈は、タクシーの中で、2錠目の頓服を飲んだ。

『あの人だわ。絶対にあの人だわ。間違えないわ。』

美奈は、あの日のあの時をはっきりと思い出していた。

思い出すとまた、胸が痛み始めた。

ハンカチで口を押さえた。

『呼吸を整えなくちゃ。大きく吐いて、吸って。』

会社に着くまでに、胸の痛みも、呼吸の乱れも収まった。

「あれ?お前、今日は何かあるのか?初デート?」

誠二の声が後ろから聞こえてきた。

「おはよう。失礼ね。誰が初デートよ。」

「その、花柄の服はなんだよう。どう考えたってお前じゃないだろう。」

「失礼ね。私だって、ワンピースくらい着るわよ。それにデートのお誘いなんてしょっちゅうです~。ご生憎様~。」

「嘘言え。お前みたいなじゃじゃ馬を誰が誘うんだよ。」

「田中君だけよ、そんなこと言っているのは~。残念でした~。」

「・・・・」

誠二は、そのまま自分の席へ戻っていった。

「変なの。さーてと、仕事、仕事。」

次の瞬間、美奈は、自分が職場の中で自分だけ違う場所にいるような錯覚に襲われた。

『はぁ。私、大丈夫?変になったりしないわよね。大丈夫よ。』

咽がからからに渇いてきた。

少しぬるくなったコーヒーを口に運んだ。

『早く、森口先生に会いたい。先生に会いたい。』

「村沢君、どう?順調に進んでいる?」

「はい。川原室長。大丈夫です。」

「頑張ってね。」

「はい。」

そう答えたものの、仕事は遅れがちだった。

以前のような集中力はなく、直ぐに疲れが出て来てしまう。

気が付くと、ボーッとしていることがある。

金曜日、夜の9時に漸く、クライアントの資料から問題点を箇条書きにしたレポートを作り上げた。

「室長、クライアントの資料から考えられる問題点を挙げてみました。見て下さい。」

「ありがとう。見させてもらうよ。」

「はい。」

美奈は、自分の席に戻ると、帰る用意をした。

会社を出ると少し離れたタクシーに乗り、帰宅した。

「あれ?今のって村沢じゃないか?」

丁度、クライアント先から帰って来た誠二がタクシーに乗り込む美奈の姿を目にした。

「あいつ、まだ、タクシー使っているのか?体調、戻っていないのか?」

美奈は、タクシーに乗ると、いつものように、家の住所をドライバーに告げると、そのまま座席に深々と座り、目を閉じた。

少し、顔に痺れを感じる。

『明日、森口先生に会える。』

家に着き、着替えるとそのままベッドに滑り込んだ。

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