陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 34



「なんで、こんな目にあわなければいけないんですか?私が、何を悪いことしたって言うんですか?」

「悪いことなんてしていません。何て言っていいのか。」

森口の手が涙を流す美奈の手を包んだ。

森口は、思わず、美奈の手を握ってしまったが、これは精神科医として患者に対してやってはいけない行為だった。

森口は、直ぐに手を引っ込めた。

そして、下を向いた。

「大丈夫です。」

森口は、何もなかったように冷静な声で言った。

「来週もまたいらして下さい。お疲れにならないように。上司とお話してみて下さい。」

美奈は、一礼して部屋を出て行った。

そして、誰もいないがらんとした待合室の長いすに座った。

『どうして、どうしてなの?なんで、こんな目に合わなくちゃいけないの?』

流れてくる涙を止めることができなかった。

しばらくして、診察室から森口が出て来た。

「村沢さん。大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です。」

森口は、美奈の隣に座った。

「一人で帰れますか?ご家族に連絡しましょうか?」

「ご心配掛けて申し訳ありません。大丈夫です。タクシーで帰ります。」

「タクシー乗り場まで行けますか?」

美奈は、思わず森口の胸の中に顔を埋めた。

「先生だけなんです。私の本当の気持ちをお話できるのは。」

森口は、美奈の体を優しく両手で包み込んだ。

「安心して下さい。」

しばらくそのままでいた。

丁度その時、処置室から、早川が出て来た。

「あっ。」

処置室のドアが開く音に気が付いた森口が振り返った。

そこには、早川が立っていた。

「さあ、行きましょう。看護士にタクシー乗り場まで送らせますから。」

「柳瀬さん、患者さんをタクシー乗り場までお連れして。」

処置室の中から、看護士が出て来た。

「頼んだよ。」

「はい。」

美奈は、看護士に付き添われて精神科を出て行った。

「おい、森口。お前。大丈夫か?あんなところを他の先生に見られたらどうするんだ。」

「彼女、少し、気持ちが高ぶっていただけだよ。」

「変わった方がいいよ。担当を変わるんだ。」

「大丈夫だよ。」

「いや。お前が大丈夫でも、彼女は大丈夫じゃない。お前も、彼女を離したくないんじゃないか?」

「そんなんじゃないよ。あのまま、突き放すわけにいかないだろう?」

「でも、あれは治療じゃないだろう。治療の域を出ているよ。お前の感情がそうさせたんじゃないか?」

「違うよ。今、彼女が求めているのは、心の安住の地なんだ。それを与えてあげるの僕の役目だと思うんだ。安心感を与えている間に彼女が自信を取り戻して独り立ちしていけるようになれるようにしてあげればいいんじゃないか?」

「そうかも知れない。でも、お前の今の行為は、違うと思う。逆転移が起きているんだ。ここで、立ち止まれるのか?止まれないのなら、担当医を変わった方がいい。これは、お前のためだけでなく、彼女の為だ。患者である、彼女を第一に考えなければいけない。」

「彼女を第一に考えるのなら、今、一番されて信頼して、安心感を与えている僕が彼女に安心感を与え続けていくことじゃないのか?」

「彼女は、お前に恋愛感情みたいな感情を持っているのは確かだ。冷静な医師の目を失ってはいけない。」

「わかっているさ。そんなこと。じゃあ、君ならどうした?彼女を引き離したかい?止めてくれと言ったか?できる訳ないだろう?言える訳ないだろう?彼女は、安らぎを求めているんだ。それを与えてあげるのが一番なんだ。」

「そうかも知れない、でも、何度でも言うよ。君の行動は、精神科の医師としてあるまじき行為だ。君の行為によって、彼女は安らぎを得たかもしれない。でも、彼女は、君に対して恋愛に似た感情を持ているんだぞ。それに君は、応えたことになるんだぞ。君も彼女に対して、恋愛感情を持っていると彼女は、感じたに違いない。どうするんだ。個人的な接触は禁止されているんだぞ。」

「彼女を立ち直らせてあげたいんだ。」

「お前は、彼女に恋愛感情なんて持っていないんだろうな。担当を変わるんだ。」

「早川。」

森口は、確かに美奈に対して特別な感情を抱き始めていた。

美奈が、恋人に会うような気分で森口の診察室に入るように、森口も美奈が入ってくるその瞬間を待っている自分を感じていた。

今日も、シフォンのブラウスとスカートの姿の美奈の姿は美しかった。

素直に自分の思っていることを話す美奈。

森口に自分をゆだねている美奈。

森口は、そんな美奈を愛おしく思わずにはいられなかった。

「ありがとうございます。」

「どうぞ、お気を付けて。」

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