新・やっぱりクマが好き!!

新・やっぱりクマが好き!!

少し前のお話 その2



ちょっと今回の日記は結構リアルな部分があるかもしれません。
それだけ最初にお断りしときますね。
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1999年4月30日
私はこの前の日記でも書いたように個人病院から転院しました。
この日旦那が帰ったあと、私は全く知らない土地で(当時は岡山に住んでなかった)一人ぼっちでいることになったんです。

4人部屋の中でカーテンを締め切って、誰とも話しもできない、本も読めない。何もすることないまま寝ていると本当に悲しくなってきます。

部屋の他の方たちも私に気を使って小さな声で話してくれるんですが私にはそれさえも辛かったです。
普段の私はよくしゃべり、笑い、怒りと感情の起伏が
かなり激しいほうですが、この日からの私はまるでマネキンのように無表情をしていたと思います。

見ず知らずの土地で誰とも交流無く天井と時計だけ見てベットに寝ている。この孤独感はものすごく辛い物でした。

そして運命の日がやってくるのです。
体の中でガンが動き始めた悪魔の日が・・・。

1999年5月1日
生理の始まりのような感覚を受けた私は動けないので簡易トイレに座ってまた驚くことに。

再び出血していた。
すぐナースコールを鳴らし、内診してもらうことに。
先生は即私を車椅子で連れて行った。

「子宮口は大丈夫だし、赤ちゃんが出てくる気配は無いけど
君の体の中にある病気から出血してみたいだよ」

「病気?、私、病気なんですか?」
訳がわからないまま口を開くと

「昨日の超音波検査で君の子宮内に異常があるかもしれないって
のがわかったんだ」

「それで調子悪いんですか?」
「多分中毒症もこの関係かもしれない」

「とりあえずもうすぐ君の担当の先生がくるから
それまでまた病室で寝ていてください」

帰るとき私は1つの言葉を思い出していた。
2月の法事の時に行った病院。

・・・もしかしたら異常があるかもしれないのでこの写真を見せてください・・・

まさか・・・・もう既にあの時わかってた??
何ともいえない感情が溢れた。
だけど今さらどうすることも出来ない。

もうこの病院を頼ってきた以上。ここの先生に全て
お任せするしかないのだ。

先生は来て一番に私のとこに来てくださり。
「病気はすぐには何とかなることは無いと思う。ただ何らかの要因かで動き出すことがあるから油断は出来ない。
だけど、とりあえずもうしばらくおなかの張り止めの薬で様子を見ていきたいんだ
君の体の赤ちゃんは今もし出てきたら推定700グラム程しかない。
耐えれるのなら耐えれるところまでは体内に置いておかないと
赤ちゃんの命が心配になってくるんだ」

「はい、わかりました」
先生の説明は丁寧でよく理解できた。
私も未熟児の赤ちゃんのリスクを知識では知っていたから。

とりあえずこの子の為に、私は負けないようにしよう。
そう思っていた。
だけど、、、異変はすぐに訪れた。

おなかの張りを監視する装置が凄く間隔が短くなり始めた。
私も段々と苦しく辛くなってきた。
おなかの張り止めを最大近くまで出してようやく落ち着いたけど
どうしようもないくらい凄く張ってくる。

晩ご飯はそれでも何とか少しだけ食べた。
バナナがあったのでせめてそれだけでもと思い口にした。
ご飯食べて薬を飲んでやっと段々とゆっくりできるようになって
2時間後くらいの安心していた頃に今度は吐き気を催した。

食べたものを全部吐いて更によくわからないけどのた打ち回りそうなほどの痛みが来た。

(まさか陣痛??)

あまりの私の状態を見かねた同部屋の人が看護士さんを呼んでくれた。

「苦しいです・・・」
そう伝えるのが精一杯だった。

張り止めの薬を最大値にしてももう全く意味はなかった。

そのまま陣痛が出始めた。

きっと昨日揺られた救急車が・・・

体の中の病気が・・・。

苦しいよ・・・。

色々なことが頭の中を回る。
どうしようもないくらい辛いので何も考えたくない。
だけど何か思ってないと体が二つに引き裂かれそうなほど
痛くて痛くて・・・。

陣痛室に移された私はあまりの痛さにずっとのた打ち回っていた。
だけど初産だし子宮口もなかなか開かなかったし、すぐには生まれそうに無いことと
この日は運悪く宿直の先生が研修医の人だったことがあり、
(とても私の手術は出来ない)
明日の朝には私の先生が来るのでそれまで我慢することに。

結局一睡もできないままあたしはベッドの上をのた打ち回っていた。
ベッドには一晩中辛くて苦しくて流した涙が
大きな跡になっていた。

朝が来て先生が一番に駆けつけてくれた。
「ぶっちさん、もう、出そう、
じゃないと今度は君の体が持たない。今日までよく耐えれたね。
赤ちゃんのことは未熟児センターのスタッフがいるからきっと元気にして、君の元へ返してくれるから」

その言葉に私は辛うじて小さく頷くだけであった。
もう既に正直体力は限界だったし、気力だけで持ってる状態だったから。

そして帝王切開手術が行われることになったが
旦那は一昨日帰るときに同意書のサインをしていなかった・・・。
先生にだんなを呼び出してもらうと旦那はのんきに寝ていたらしい。

ただことじゃない私の理由を聞くと一目散にうちの母を連れてきてくれるそうだが運が悪いことにゴールデンウィークで
そして私は苦しい中更に1時間半耐えなくてはならなくなる。

着いた時は旦那に会えたことより、非情なようだが正直サインだけが欲しかった。2日間に近いこの苦しみから解放して欲しかった。
極限の体力で旦那の来るのを待ってたのだ。

そして即手術になった。

私は喘息を持っているので帝王切開時にも腰椎麻酔を使う。
だんなが来る前に麻酔科の先生から説明を受けていたし、いざ手術が始まってからもこの先生がずっと手を握っていてくれたから安心した。

帝王切開の手術しても上半身は麻酔が効いていないので
手術してる時の事は覚えている。

緑色のカバーが掛けてあって見えないようになっているが
先生たちの息を呑む声や非常に驚いた声が未だに鮮明に残ってる。

そんな中、赤ちゃんは産まれてきてくれた
最初は泣き声も無かったけど。
吸引してもらって弱弱しく「ぅにゃー」とカモメみたいに泣いた。

1999年5月2日
長男ぴろきち誕生の瞬間である


700グラムと思われていたが実際には980グラムもあった。
でも、まだ、砂糖1キロよりも軽い体重。
ビックリする話だよね。

でも、よかった・・・
・・・本当に良かった・・・。

何とか母として無事に使命を果たせたようだ。

そのままぴろは私と分離されその後
彼を自分の胸に抱き上げるのが半年後とは思いもよらなかったけど・・・。

その後私は再び病室に戻ることに。

病気のせいで体中の細胞が水を吸っていた。
だから私はこの地点で体重が68キロくらいあった。

だけど病気のせいでそうなっていたらしく、
手術の際に導尿という尿を取ったり計ったりするものをつけるのだが1日12リットルもの尿が出て私はあっという間に3日間で64キロまで落ちるのである。

手術から帰ってきた先生は旦那を呼んだ。
旦那に私の胎内に入っていたものを見せた。

「これ、もしかして胎盤ですか?」

「いえ、奥さんの中に入っていた病気です。胎盤はこっちです。
コレが奥さんの体内で悪さをしていたので奥さんは激しい中毒症とになってしまったんです。

私も30年くらい産婦人科をしていますがこんな経験は初めてです。
正直この病気で子供を胎内で育てた例は99.9%無いです。

奥さんは自分の体を犠牲にして赤ちゃんを育てていたんですよ。
正直この病気で赤ちゃんを産んだ例は全世界で一桁くらいしか報告されていません。ですが代償が大きすぎます。

このあと普通なら2週間くらいで退院できるのですが奥さんには10日後にもう一度<そうは>という手術を受けていただきます。」

「どんなことをするんですか?」

「簡単に言えば中絶と全く同じです。子宮の中にあるものを取り除いてしまうと言った感じです。
今なら子宮口も開いているし、奥さんの負担も少ないです。

中絶と同じ手術をしたからといって妊娠しにくくなるということは一概には言えませんが一応見える範囲では取りましたがまだ全て取りきれていない。

ですので10日くらいたって奥さんの体力が回復したらしようと思っています。中に残っている組織を取らないと奥さんは重篤な状態になってしまいます。

このまま放っておいたらガンの可能性もあります」

「ガン?ガンになってしまうんですか?」

「この細胞ははっきり言ってガンにものすごく近いものなんです」

「・・・妻に伝えるべきですか?」

「今はまだ体力も回復していないし、お子さんのこともあります。
産後の妊婦にあまりショックを与えるわけには行きません。もう少し内緒にしておいてください。私の口から手術のことは言います」


「わかりました・・・」
このときの旦那の心境を私は知らない。
後になって全て聞いたものだ。
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このときの旦那と先生の話など何も知らない私は
痛み止めが効いて眠り続けていた・・・。

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