のんびり生きる。

のんびり生きる。

今でも忘れられません


 膝の上で手を握りしめ、戸口ごしに降りしきる雨の向こうをすかすように見つめながら、倉田は言った。
「喬子が図書館の机の上にかがみこんで、目を血走らせて官報のページをめくってるんです。お父さんに似た人間が死んでないか確かめるために・・・いや、そうじゃない」
 倉田の声に、鞭で叩かれたかのような、苦痛の色が混じった。
 「死んでてくれ、どうか死んでてくれ、お父さん。そう念じながら、喬子はページをめくってたんです。自分の親ですよ。それを、頼むから死んでいてくれ、と。僕には我慢できなかった。そのとき初めて、喬子のそういう姿を浅ましいと感じてしまった。それで、僕のなかの堤防が崩れちまったんです」
・ ・
頼むから死んでいてくれ。
彼女の肘のすぐそばで、新着図書の推理小説を読んでいた若い女性は、百科事典をひいていた小学生は、雑誌の暴露記事に目を丸くしていた老人は、そういう喬子の立場を理解できたろうか。想像したろうか。肘の触れ合う距離に、声の届く範囲に、そういう生活があることを想像できたろうか。
 そして、ページを操る手を止めて、ふと顔をあげたとき、机をへだてて座る新婚の夫の目のなかに、喬子は見つけるのだ。非難よりもなお悪い、道端に落ちている汚物を見るような嫌悪の色を。
 夫が離れてゆく。彼女はそう悟ったとう。言葉で告げられるよりも雄弁に。机の下で足が触れ合うことも、夫が席をたって傍らに来てくれることも、もう二度とない。彼は身体ごと後退りしていこうとしている。
 必死の形相で、行き倒れて死んだ者のリストのなかから、親の姿を見つけだそうとしている―どれほど彼女を愛し、理解しているつもりでいても、恵まれた温かい家庭で育まれてきた倉田には、そういう喬子の姿を正視することができなかったのだろう。
 それを責めるのは酷だと、本間は思う。
「自分の顔を鏡で見てみろよと、言ってしまったんです」
 とつとつと、倉田が言っていた。
「まるで鬼女だって」
 一度はつかんだと思った生活が、消えてゆく。引き止めようとして、あまいに強く握り締めたために、彼女の手のなかで粉々に砕けてしまった―
 本間の想像は当たっていた。新城喬子は孤独だった。過酷なほどにひとりぼっちで、骨を噛む冷たい風は、彼女一人にしか感じることのできないものだった。
 どうかお願い。頼むから死んでいてちょうだい、お父さん。
 辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で、倉田が言った。「僕らが正式に離婚したのは、それから半月後のことでした」

                    「火車」P457

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: