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海江田もやめちゃうらしいね。みんなそれなりにがんばっているんだろうけど、今はすさんだ世の中なので、よくがんばってるな、この調子でガンバレッ、なんて言ってくれる人は誰もいないのだ。そうしたら、みんな嫌になっちゃて投げ出したくなるよね。 そういう世の中で育った子供たちは、そんな批判ばかりするおとなになっちゃう気がする。 暴力で育った子は暴力で解決することを覚える。優しさの中で育った子は人に優しくすることを覚える。そうじゃなかったっけ?この批判の連鎖をどう断ち切るかが最大の課題なんじゃないかと思う。 全く意味もなく森ハイ。飲め飲めって言われるともういいって気がするし、お前はもう飲んじゃダメっていわれるともう一杯飲みたくなる。それも同じ??いや、これは何か違うだろ。 まずい酒を飲むともう帰ろうって気になる。旨い酒を飲んだら、財布は寂しくても、もう一杯飲もうって思う。これは間違いなく同じ。
2011年07月08日
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しばらく前のことですが、肺がんの手術後に、完全に切除しきれなかったから放射線治療をしましょうってことになった患者さんがいたんです。 放射線治療って、毎日毎日少しずつ照射するので、毎日毎日通院するのが普通です。 ある日、その患者さんは来院しませんでした。 次の日やってきたので、昨日はどうして来なかったのか聞いたところ、雨が降ってたから来なかったのだそうです。昔から雨の日には仕事に行かないんだよ、って。 その人は大工の棟梁だったので、雨の日には働かないのです。 看護婦だの女どもは、そんなわがままはいけません、あなたの体のためなんだから雨が降っても来なさい、と促します。本人は、ああ、わかった、わかったと言ってましたが、次の週も雨の日には来ませんでした。 せめて、来ないなら電話してください、こっちも予定があるのですから、と言っても、わざわざ電話しなきゃいけねーのかいっ、オレは雨が嫌いなんだよ、オレの体なんだからオレの好きでいいだろう、と言う。 女ってやつらは、言うことをきかない男をてなづけたいという本能でもあるのか、しつこく説教していました。 本来、男とはそういう生き物です。 今夜はいい月夜だから一杯飲みに行こうかなあと、突然フラッと出かけるときってあるじゃないですか。女は、せっかく夕飯の準備してたのにとか、飲みに行くなら行く前にそう言ってから出てってよとか、うざいことを言う生き物なんです。 僕も最近は飼いならされてしまって、飲みに行くときは前もって携帯でメールしたり帰宅してご飯食べてから行ったりします。 それくらい当たり前のことでしょう、って女達は言うけれども、男たるもの、いちいち飲みに行くのを女房に断るなんざみっともないってのがちょっと前までの常識だったような気がします。 雨の日には病院の予約をすっぽかす棟梁は、僕にはさほど困った患者には思えなかったのでした。ちなみに絵は、「セクシー・モンロー」って名前のカクテル。
2010年04月13日
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朝ごはんを食べたあとにTVをつけたら、たまたまWOWOWで「銘酒物語」とかなんとかいうドキュメンタリーをやってました。 広島県の「富久長」という銘酒を手掛けている女性杜氏が、「美味しい酒を美味しいと思う、それこそが生きる喜びである」というようなことを言っていて、まさにそうだよなあって、ますます酒道の修行に励みたいと心を新たにしました。酒の道は一生・・・一升は飲めねー。 今夜は、冷蔵庫を開けたらビールを切らしていることに気づき、やむを得ずとっておきのワインを開けました。 3000円近くもするブルゴーニュ(コート・ド・ニュイ・ヴィラージュ)です。ヴィンテージは2002なので、できてから約7年を経過していることになります。 やや褐色調を帯び、酸とタンニンのバランスが絶妙。7年たっても葡萄は葡萄、あたりまえだけど葡萄の味がします。 新世界のピノ・ノワールは、イチゴであったりトマトであったり味わいもメルヘンチックで白雪姫と七人の小人たちみたいなかわいらしさや健康さがあるけれど、ブルゴーニュのピノ・ノワールは不健康で魔術的で妖しいイメージ。 旨ぁ~~っ、生きる喜びっ!
2010年01月23日
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夢の中で、かみさんに質問されました。「あなたは、酒を造るか、酒を飲むか、どちらかを選ばなければならないとしたらどうする?」と。僕はすかさず答えました。「酒を飲む人がいないとしたら酒を作る行為に意味は見出せない。酒を飲むことによってはじめて、酒を作るという動機が生まれるのである。飲まなければサイクルはまわらない。酒が生きていることを実感するために飲む方を選ぶ」 こんなことをほんとに夢の中で言ったのか。正確には、起きた瞬間に再構築した会話なのかもしれません。それにしても、俺ってばなんだかすごい、と思ってしまいました。 忘れないように、起きてずーっとぶつぶつ繰り返しながら、今ここに記録しています。
2009年08月20日
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飲みに行く途中に現代音楽なんぞ聴いていると、my iPodですが、とても理解できないな、と思うのですが、飲んだあとにその続きを聞くと、なーんだこれは酒飲みの心理にぴったりなんじゃないかと受け入れてしまえます。じゃあ、北のミサイルも受け入れてしまおうか、と。インフルエンザも解散総選挙も中大教授殺人も、頭で考えるとわからないことが多いけれども、理解しようとか自分はこうしようとか批判とかを捨てて、そのまんまの現実を受け入れればいいだけのことなので、もう一杯飲めば良かったかなという程度のものでしかないように思えるのです。そういう点から、酒は未来を良いものにはしてくれませんが、現在を許容するのには役立つのではないかな。過去を振り返って、ああしてれば良かったなんて思うのは幻想でしかなくて、未来のことは予想できなくて、そういう意味では過去と未来は絶対値のように似ているものだなあ、そして今はゼロなのである、それを気づかせてくれるのは酒なのかな、と。抽象的すぎるでしょうか。 とにかく、気持ちよくカクテルやらモルトやらを味わっている時間以上に楽しいことがあろうか、ってことです。
2009年05月25日
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酒を飲みながら絵を描いて、自分が描きたい絵はちょっと違うなどと思いながら、じゃあ次の酒でその本領を発揮しようと思い、描き、やっぱり納得がいかないので次の酒を飲み、きりがないから帰る。 家族が寝てしまっているときは、 もうちょっと早く帰れば良かったかなと思い、 家族が起きていれば、 もうちょっと飲んできても良かったかなと思い、 せめて歯でも磨きつつ、鏡にうつるいつの間にか老けた自分の顔と容赦ない体重計に叱られて寝る。 朝はぐずぐずなんとか起きて、しかたなく仕事に行く。 納得がいかない仕事とてきとーにやった仕事に一喜一憂し、夕方になればそろそろ酒が恋しくなり、さて今夜は何を飲もうかと思う帰り道。 そして、その一杯の酒で蘇るのだ。さあ、次は何を飲もうというポジティヴな気持ちが。
2009年05月11日
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上手に描けたと思う絵は、あとからみるとつまらないことが多い。なんだかバランスが悪くて歪んでいたり、何かがちぐはぐであったり、そうした気にかかるところがある絵に惹かれることが多い。 なにか落ち着かない、なんとなくおかしい、そういうものを持っている絵が印象に長く残る。 これはただ下手だっただけかもしれないが、自分としては妙に気になる。何かバランスや構図や変だし、スケッチが不正確だ。修正したいっていう気持ちが、印象を深める。 人の個性というものもそうでる。欠点がある人の方が好き嫌いは別として印象に残る。 もちろん酒も。ちょっと飲みにくさを持っている酒が旨い。だからラガブーリンだのタリスカーだのがまた飲みたくなる。ビールの苦さしかり、ビターズ1dashの薬っぽい甘苦さのニュアンスしかり。
2009年02月23日
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近頃、生きるとか死ぬとか、そういう意味とか、正常な都会的社会生活を送っている者が語ってはいけないような問題について、ミクシで語り、バーで語り、もしかしたら迷惑がられているかもしれません。 でも、ちょいと青春を思い出して、たまにはそんなことを考えるのも悪くないのじゃないかと思って、できるだけ真剣に向き合ってみようと思っている今日このごろなのです。 そういう生きる意味とか目的とかって、実はない、という結論に達しそうな気配の中、スケッチブックを取り戻しました。 返して、っていうのは、かなり悔しいものでしたけれども。 数日して帰ってきたスケッチブックの白い紙は、まるで何ヶ月ぶりかで味わう「女」みたいなほど清純で、武者震いするくらいなまめかしくて、食べたいほど愛しかったです。 久しぶりに「描く」行為に生きる意味みたいな錯覚を感じてしまいました。 そんな錯覚をまたここに載せられることも楽しみです。 いつ死んでもいい、って覚悟はなかなかできないものです。でも、いつかそんな覚悟ができるほどの酒を飲んで、そんな覚悟ができるような絵が描けたらほんとに死ぬ覚悟ができるのだろうか、などという卵とニワトリとどっちが先?みたいな迷路を探索しながら、いつかゴールに到着するのでしょう。 ほら、画家は死んでからが勝負だから。 生きてるうちにどれだけ売れるかなんて、どうでもいい。死んでからどれだけ売れるかが重要なのだ。そのために、生きているうちにどれだけ修行できるのか、そこに生きている意味があるのかもしれないし、ねっ。
2008年10月06日
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BARうちんちで、飲みながら真剣に記事を書いていたんだよ。 われながら、なかなか良い文章であった。 ところが、誤って全文消してしまった。あーあ、同じことをまた書く気にはなれない。ちょっと真剣な話題だっただけに、また思い出して書くのはめんどくさいし照れくさい。 酒の席では、よく同じ話を何度も繰り返す人がいるよね。アルコールのせいで短期記憶のメモリがうまく機能しなくなって。 あるいは酒を飲むたびに同じ話をする人もいる。忘れちゃってんだね。 逆に今の僕なんかは、思い出すのが面倒くさくって同じ話など二度もしたくねー状態。酒というものは同じ薬理効果で違う結果をもたらすこともあるという点でも興味深い物質である。 これはブロック&フォールと言う名のカクテル。意味がよくわからないが、なんとなく今の気分にマッチしてるような気もするぜ。 今度こそ、消さないように・・・。
2008年09月22日
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7月20-22日に熊谷うちわ祭りが催されます。 その大総代でもあるJ氏が、「桜っ子」と命名されたぐいのみを持ってきてくれました。これで酒を飲もうと。この「桜っ子」は、J氏の友人の女性ガラス職人が作ったものです。 本物が見せられないのが残念ですが、絵の片隅でご勘弁を。 これでは雰囲気は伝わらないでしょうが、とても可愛らしい。ただ見ているだけでもステキなのですが、これに酒を注いだときの優美さはその何十倍にもなります。透明感が増すと桜色が映えて、なんとも言えぬ香りが立つ。 酒器は、酒を満たしてこそ美しいのだなあ。 カクテルグラスはカクテルが満たされているときが美しい。 ワイングラスは4分の1ほどワインが注がれたときが美しい。 ロックグラスは、丸い氷や四角い氷の反射と屈折によって命を得る。 フルート型のシャンパングラスは泡を栄養にして背を伸ばす。 ショットグラスは、なみなみと注がれたときが美しいというか、ちょっとうれしい。
2008年07月12日
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今宵もメルトダウン。なぜメルトダウンになってしまうのだろうか。 楽しいから?悲しいから? 悲しいことなど何もないのだけれど、楽しい話が途切れたときにちょっとだけ悲しい気持ちの風がそっと指先をなでるから? あるいは逆に、この楽しいままに人生が終わってしまっても悔いはなかろうと・・・ それともやっぱり、 このまま永遠に生きたいと思うのに、ちょっと死に近づいてみたくなるから?つり橋の真ん中で板の隙間を覗き込むような怖いものみたさ? デビルの顔した潤に話しかけてみるけど、彼も答えを持っているわけでもない。 やわらかな毛を撫で、無限の印みたいにくるまったしっぽをさすっても答えが出るはずもない。 それは、ただ3連休が終わっちゃって明日から出勤することが嫌なだけかもしれないけどね。 このまま眠りにつくのがなんだかこわいみたい 潤の肌ざわりだけが僕を現実につなぎとめてる その感触を肌に記憶させたままシーツにくるまろう
2007年09月17日
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他人のことはどうでもよろしい。それよりも自分の心配をせいっ。 僕はなぜBARに行かないか。 週に1,2度行きますが、BARうちんちの方が断然多いです。今夜もそうですが、行きたいのに行かない。それはなぜか。 この理由はふたつです。 まずは、あたりまえですが、経済的問題です。うちはお小遣い制になっているので、給料日にお小遣いをもらい、それをやりくりして暮らしています。計画的に使っているつもりでも、たいてい最終週はひもじい生活を強いられます。例えば今週です。 もうひとつの理由は、家庭的事情です。もし、現在一人暮らしだったら、毎晩のようにBARに寄ってしまうでしょうね。しかし、家族の手前、週1,2度で我慢しています。これでも多いと思う人もいるかもしれませんが、昔はもっと放蕩な生活をしていたので、かみさんもこの程度ならやむを得まいと思っているのでしょう。最近はそれほどうるさく言いません。 子供達への影響などは、あまり考えていません。親が楽しそうに暮らしているというのが一番大事と思っているので。まあ、これは言い訳ですが。 あと、こんな顔で「遊んでよ」ってねだられたら、 「いってきます」とは言えなくなってしまうのです。
2007年07月18日
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人はなぜBARに行かないか。 このブログの友人達は、当然のことながらBARに行く人が多いであろう。しかし、世の中にはBARに行かない人の方が多い。人に連れられて、2次会や3次会、彼女との特別なデートなどで行ったとしても、暗くなる前から一人でBARに出かけるような人は身近を見回してもほとんどいない。 僕だって、4,5年前までは一人でBARに行くなんて考えられなかった。 人はなぜBARに行かないか、それはなぜ僕は以前BARに行かなかったかを思い出すことと一緒だ。 理由は3つ思いつく。 まず一つは、居酒屋などに比べて値段が高いということ。正常な社会生活を営んでいる人々は、みんなそれぞれの懐事情に応じて酒を飲んでいるわけであるから、値段が高いところが敬遠されるのはやむを得ない。 でも、比較的安いBARもあるし、ほどほどに飲んでから来ればたくさん飲まずに済むし、高い酒もあれば安い酒もあるし、回数を減らすという方法もある。裕福な人がBARに来るかといえば、実際そんなことはないわけだし。 もちろん、安い方が来やすいけれども、それは1番の問題ではないような気がする。 次の理由は、BARは敷居が高いという幻想である。 先日、友人を連れてLVSJに行ったら、彼らはカクテルにも店の雰囲気にも出される料理にも、いちいち感激していた。なんておしゃれでかっこいいのだろうと。 BARはかっこいい。もちろんそうだ。でもかっこよすぎて、自分には合わねえなあ、と思ってしまう。 居酒屋だったら、「おやじ、酒くれ。あと適当につまみも。」で済むかもしれないが、BARではそうはいかない。聞いたこともない色んな洋酒があり、無数のカクテルもある。居酒屋では「酒くれ」のほうがかっこいいかもしれないけれど、BARではそれじゃあかっこ悪い。かっこよくするためには、ある程度の知識が必要なのだ。でもそんなこと勉強するのはめんどくさいし、覚えた名前もすぐに忘れる。でもって、「いちいちうんちく垂れながら飲んで何が楽しいんじゃ。そんな堅苦しい飲み方はごめんだね」と、なるわけだ。 こういう『聞くは一生の恥』は頭の固いオジサンに多くて、その点では若い女性のほうが素直で積極的だったりする。僕も今では、知らぬことが多いほうが楽しいのだということがわかっている。その酒場が似合うなんて、最初からあるわけもなく、通っているうちにいつのまにか馴染んできて、似合って見えるようになるものなのだ。で、自分が似合ってきたなと思えば人からそう見えなくても気にならなくなる。 もう一つは、 これが最も根本的ではないかと思うのだが、一人のBARは手持ち無沙汰ということ。 僕も一人で店で飲むという週間は4,5年前までなかったのだが、一人で食事するというのは普通であった。なにせ高校時代から下宿していたから、その当時から近所の中華料理屋、食堂、喫茶店などは日常的に一人で入っていた。ただ、それが楽しいとは思えなかったけどな。 映画も一人で見られない人がいるよね。寂しい奴にみられるんじゃないかなんて思ってなんとなく落ち着かなかったりして。ほんとは、映画なんて一人で見るのが一番リラックスして楽しいのに。 家では一人で飲んでいてもTVがあるから時間をもてあますなんてことはないのかもしれない。TVを置いてる店もあるけれど、ひとりで飲みながら店のTVを見てるなんて、寂しいオヤジの典型のような気がして、それもどうかなーと思ってしまう。 BARに行ったらTVもないし、さらにバーテンダーが無口だったりすると、もう手持ち豚さんブーブー。隣の常連らしきお客は、楽しそうに友人やバーテンダーと話してるのに、オレは忘れられた酒瓶か?それとも寂しき老人か?しかたないからさっさと帰るか、逆に暇つぶしにどんどん飲んじゃってベロベロになるか。 BARに一人で来て飲んでる人なんて珍しくもなんともないのに、自意識過剰で自分が不自然に見えないか心配してしまう。僕も一人BARデビューの夜はそうでした。でも2,3度行ったらもうOK。 これらの難関があるから、人はなかなかBARに行かない。そんなのは難関でもなんでもないってことを示し、星の数ほどあるカクテルの醍醐味を垣間見せても、中にはそれで思い切って別な友人を誘って新たなBARに行ってみる人もいるようだが、やっぱり結局それっきりってことが多いようだ。 だから、最近は僕から誰かをBAR道に誘ったりはしない。よほど気に入った女性でもなければ。行く人は行く、行かない人は行かない、それはもしかしたら遺伝なのかもしれないしね。BAR遺伝子。
2007年07月17日
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金曜日はビアガーデンで宴会だったが、昨夜はうちのかみさんが宴会に行った。帰りはさほど遅くなかったのにけっこう飲んできたようだった。 さっき聞いてみたところ、生ビール2,3杯のあと、酎ハイ4,5杯飲んだらしい。 生ビール2,3杯は理解できる。ビールおいしいもの。でも酎ハイ4,5杯ってどうなんだあ? 「生グレープフルーツしぼるやつ、おいしいよ」って、知ってるよ。グレープフルーツジュースを薄めた酒であっても、最初の1杯はおいしいかもしれないと思います。でもそれを4,5杯って何、そんなにグレープフルーツ好きだっけ? オレ様も4,5年前までは、そんなスタイルで飲んでいたけれど、覚醒しちゃった今は、もうそんな飲み方は考えられない。 ビアガーデンだって、生→黒→H&H→チェリーと飲む奴だから。 どんな飲み方がいいとか悪いとか、ないとは思うけど、オレ様も覚醒したために夢の楽しさを捨ててしまったのかもしれないけれど、それにしてもなんだかもったいない飲み方だ。 オレ様の妻だったら、もう少し酒と真剣に向き合えよ。 今だって、黒霧島をいきなり麦茶で割ってるし。そんなにじょぼじょぼ麦茶入れたらせっかくの焼酎の香ばしさが麦茶の香ばしさに隠れちゃうでしょ、酎ハイみたいにして飲まないでおくれよ、もう。
2007年07月16日
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なぜ僕はBARへ行きたがるのだろう、それをじっくり考えてみたいと思った。そんな思索にふける場所と言ったら、BARしかなかろう。 というわけで、昨夜もいつものようにLVSJのカウンター。スケッチブックに書き留めたことをそのまま箇条書きにしてみる。1.友人と会えること、友人たちと仕事や家庭の話とは別の話で楽しめること。2.酒と真剣に向き合えること。3.グラスに反射する光をみる。4.音と光と味と匂いと・・・シックスセンス。5.酔えば味わいはぼやけてしまうけど、酔えなければ酒じゃない。そんなジレンマに板ばさみになりながら、正しい姿勢のまま心が悶えることを味わう。6.自分と対話する。7.こうやって考えている瞬間瞬間の連続が、次の日酔っ払って覚えてないから、また同じことを繰り返してしまう。8.今ほんとに飲みたい、体が欲している、心が欲している酒を探す醍醐味。9.そんなことをずーっと考えたまま1時間凍りついていても許される場所、それを解かす酒もあるし。 実は明日は誕生日、昨夜は自己申告する必要もなく、いきなりシャンパーニュをごちそうになった。 ブリュットインペリアルだよ。 お通しにはオーナーが釣ってきた鮎も登場。初物食べる時は西を向いて笑えと誰かが言っていたな。 以前一度会ったことのあるお客さんと初めて色々お話した。しばらくしてK先輩がやってきて、さらに話が盛り上がる。 デザートもサービスしてもらっちゃった。フルーツ&シャーベット&ホームメイドのアップルパイのハッピーセット。ろうそくは勝手な想像で。 今日も仕事だったから、後ろ髪引かれつつ12時過ぎに店を出た。 もうひとつ、BARに通う理由を見つけた。物につられる? あはは。
2007年06月22日
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さらに続けよう。 中学までは健全で無菌の少年であった僕だが、高校はいわゆる越境入学で、親元を離れて下宿した。ここで世間を知ることになる。部活の先輩や下宿の先輩たちの厚いご指導のもと酒を飲み始めるようになる。 酒を飲んで酔っ払って吐くことは、恥ずべきことでもなければ、誇れることでもない。ごくあたりまえのことであると刷り込まれた。 主にホワイトかレッドだったが、たまには角やカティサークに手を出すこともあった。角は大人の味がしたし、カティサークはエロスの匂いがした。 大学でも当然のようにそれは続き、社会に出てもやはり同じであった。酔っ払ってもう飲めません、なんていう言い訳は通じなかった。それは飲みが足りねえからだ、と言われ飲まされた。そう言っている先輩達自身が吐きながら飲んで、みんな身を持って正しい飲み方酔い方?を教えてくださった。先輩達を見習い、酔っ払って騒ぎ踊り脱いだ。酒の名前など教えてくれる人はいなかった。 そんな中でも、たまには友人や女性と飲みに行けば、聞いたことのある名前のカクテルやバーボンを頼み、くどくつもりがその子の部屋のトイレで朝を迎えるテイタラク。 考えてみたら、40になるまで、自分が好きな酒を好きな量だけ好きなペースで飲むということがなかったような気がする。 その時に『なぜ酒を飲むのか』と問われれば、楽しい人間関係のためというのが答えだったかもしれない。でも、そんな理由など真剣に考えたことはなかった。でもそんな飲み方をしながら、日常的飲酒習慣が築きあげられたのだ。 父はよく友人達を家に招いて酒を飲んでいた。挨拶に来いといわれたり、酒を注げと言われたりするので嫌だった。最近はやらなくなったが、昔は昼にそばやに入っても、そばを頼む前にビールを頼む人だった。ある意味欧米人のようだな。 この間テレビを見ていたら、癖や習慣は遺伝的影響が大きいという話をしていた。たまたま生まれたときから全く別々の家庭で育てられた双子の生活を調査してみると、貧乏ゆすりの癖、爪を噛むくせ、好きな音楽、好きな色、得意な教科、音楽に合わせてリズムをとるしぐさなどが一致することが多いという。それも、年をとるに従ってより似てくるのだそうだ。 確かに自分の子供達をみていると、妙なところが自分に似ているなあ、あるいはかみさんに似ているなあと不思議に思ったりすることはある。 僕の父も決して酒が強いわけではないが、赤い顔をしてよく飲んでいた。ああいう姿になりたくはないものだな、と昔は思っていたけれど、いつの間にか同じ道を歩いていたのかもしれないと、近頃は思う。 自分の息子が酒飲みになって欲しいかどうかよくわからないが、酒場の居心地よさを知る人間にはなって欲しいかな。 もし、酒を飲むことが遺伝であれば、『なぜ』などという疑問は無意味かもしれない。まさか遺伝だけってはずはあるまい。 次回は、『なぜ酒を飲むのか』と表裏一体のテーマ『なぜバーに行くのか』について論じてみたい。
2007年06月20日
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風呂に入って歯を磨いていつでも寝れる態勢となった。空いたグラスにラフロイグ15年を足した。ラフロイグに敬意を表して。あれ、そんなタイトルの小説なかった?ああ、『スコッチに涙を託して』だったかな。 僕はチビで酒が弱くて脚は遅くて爪を噛む癖があったから爪が小さい。そんな肉体的コンプレックスからか、昔からヒーローに憧れた。もちろんガキの頃はウルトラマンや仮面ライダーやタイガーマスクであったけれども、物心つくとそれは小説の中のヒーローに取って変わった。 健全にアルセーヌ・ルパンやシャーロック・ホームズや眉村卓あたりから始まったのだが、星新一、筒井康隆、小松左京、半村良、柴田錬三郎(眠狂四郎にはまったときがあった)、江戸川乱歩、豊田有恒、大藪春彦、平井和正、ブラム・ストーカー、ポー、スティーブン・キングetc.に続き、いつしかチャンドラー、ルカレ、フォーサイス、ラドラム、フリーマントルらへ傾倒し、それからクィネルやスティーブン・ハンター、ジェイムズ・クラムリーなどを経て、最近はペレケーノスやデニス・レヘインに首ったけ。陰陽師やハリーポッターも好きだけどね。 ハードボイルドやノワールには酒が欠かせない。酒を一滴も飲まぬヒーローなどありえない。ハリーポッターに出てくるペガサスでさえもシングルモルトウィスキーが好物なのだ。 酒を飲めるってかっこいい。 昔からそう思っていた。もちろん、自分がそんなヒーローになれるわけないけど、酒を飲むことによってその世界にちょっと関われる気がする。たぶん気のせいなんだろうけど、もともと気のせいの世界なのだからいいんじゃない? そんな小説の中に棲んでいる住人のうち7割くらいは、完全無欠のアルコール依存者のようである。生活が破綻し、友人に酒をたかり、見知らぬ人にも酒をたかり、しらふに戻るときなど死ぬまでない。 それがまたかっこいい。自分にはそんな暮らしはできないと思っているけれども、心のどこかで、そんな堕落し破滅した人生も悪くないのではないだろうかという思いがよぎることがある。それはちょうど、ふだん幽霊なんて信じてはいないけれど、暗闇にいると自信がなくなるような感じ。 断っておくが、冗談で言っているわけではないよ。本気も本気、酒が入っている分、普段より率直である。アルコールで前頭葉が鈍っているから非理論的なのはご勘弁。 小説を読み返すと、色んな銘柄の酒が登場している。 ウィスキーならグレンリベット、ジャックダニエルにオールドグランダッド、ラフロイグとおぼしきピーティなアイラ・・・。『愛ルケ』にマッカランが出てきた時は興ざめだったけど、『コンスタンティン』でキアヌ・リーブスがアードベックを飲んでいたときはちょっと笑えた。 そうして改めて世界を見回してみると、あるひとつの酒に対して特別な思い入れをしている人はたくさんいて、それが風景のあちらこちらに顔を出していることを知る。昨日まで妖怪の存在なんて信じられなかったのに、今はまわりにうようよと漂っていたことに気づいた『妖怪大戦争』の少年のような気もちだ。 そろそろ眠くなってきたな。今夜はここまでにしよう。 酒を飲む理由を考えながら書いているのだが、表面をなぞるだけで全然本質に迫れないでいる。本質って何なのか、そんな本質ってものが存在するのかもわからないけれど、こうして考えているうちにふと近いものにたどり着けるかもしれないとも思う。 だから、今夜はここまでだけど、まだまだ徹底的に連載する予定である。
2007年06月19日
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お昼休みに『僕はなぜ酒を飲むのか』を考察した。午前中は閑だったのに、午後からは二日酔いでは到底集中力が続かないだろう忙しさであったが、8時くらいに仕事を終え、ぐったりして帰宅した。 今夜の夕食は餃子。僕以外の家族はホットプレートであつあつを食べたようだが、僕は冷えた餃子で十分満足である。 蒸し暑い夜、こんな日はやっぱりビールに限る。缶ビールを開けてグラスに注ぐのだが、泡が落ち着くまで待てない。ラー油たっぷりの酢醤油でしっとり冷めた餃子をほおばり、ビールを飲む。今夜の僕にとっては最高のマリアージュ、牡蠣とシャブリなんてめじゃない。 僕が酒を飲む理由のひとつ、それは当たり前だけど、おいしいからである。 この一杯のビールのおいしさは、麦茶でもサイダーでもアイスコーヒーでも代用できない。じーんさんに限らず、ビール好きの人たちにとってはあえて言葉にする必要はないであろう。こんなに書かなくても、ぷはーっの一言で済むことだ。 僕が酒のおいしさに覚醒したのは、約4年前のことである。それまでは一人でバーに行くなんてありえなかったし、うちでビールを飲むのも週末だけだった。 自分の人生が劇的に変化する瞬間なんて、そうそう訪れはしない。でも僕には訪れた。それは仕事でもなく、女でもなく、酒であった。 以前にも書いたことがあるけれど、あのまずかったラフロイグがうまいと思えた瞬間だ。 そんなことは小説かブログの中だけの話だと思う人もいるかもしれないが、僕には紛れもない現実だった。 突然、眼からウロコが落ちたように、ひとりバーに出かけてはいろんな酒を飲んだ。昔は吐くまで飲まされて吐いても飲まされて、うまいなんて思ったことのなかったウィスキーがどれもうまい。 シェリー、マディラ、カクテル、ブランデー、カルバドス、ドライ人にオランダ人、自分の知らなかった、あるいは知っていたかもしれないが気づいていなかった酒の味わいのヴァリエーションは、不思議な生物達がひしめく深海探検であり、自分が実はずーっと前からそんな深海に棲んでいたことに気づいたのである。 4年たち、あのときのまぶしさはないかもしれないけれど、いまだに深海を探検し続けている。 もちろんこれは、理由のひとつでしかない。理由はいくつもあるのだ。手元に一口残ったタラモアデューを空け、風呂に入り、別のウィスキーをグラスに足したら、続きを書こうと思う。
2007年06月19日
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人はなぜ酒を飲むのか。何かを忘れるためあるいは何かを忘れないでいるためと言った人がいる。酒を飲むのに理由なんていらねえと言った人もいる。 他人が酒を飲む理由を考えてもしかたがないから、自分が酒を飲む理由を考えてみる。 僕は酒が弱い。すぐに赤くなるし心臓ドキドキ頭はフラフラ。いわゆる下戸だ。ウィスキーなんぞ飲んでいると、「お強いんですねえ」と言われることもあるが、酒に強いことと強い酒を飲むことは全く別のこと。弱い酒をがぶがぶ飲むより強い酒をちびちび飲むほうが、ずっと下戸には向いている。 家で飲んでいる時はビール一缶でも十分に酔えるのだが、外で飲んでいるとなぜかもう一杯もう一杯と杯を重ねたくなる。飲み過ぎずに帰る日もあれば、いつしかそのレベルを越えて器からあふれるまで飲んでしまう日もある。その閾値がどこにあるのか今もってわからない。閾値は体調やら気分やら酒やらなにやらで毎日変わるのであろう。閾値がわかったところでそれに従うかどうかはまた別の問題であるが。 そういうわけで軽い二日酔いなんて持病みたいなものだが、月に一度くらいはもう酒なんか一生飲まなくていいと思うほどひどい二日酔いにさいなまれる。 胸をかきむしりたくなるような身の置き所がない胸くそ悪さ。寝てやり過ごせればまだいいのだけれど、たいていそうもいかないし、むしろ寝ているより動き回っていた方が気の紛れることが多い。吐く物などすっかりないのに何度も便器を抱きしめにトイレに駆け込み、ぬらぬらと魚臭い汗をかきながら立ち上がったり座り込んだりを繰り返す。 もちろん、二日酔いの特効薬は迎え酒であることはわかっているのだが、ここが最後の砦だと思うから朝から飲むわけにもいかず、ただひたすら耐えるのみ。 それでも夕方になれば、多少の眠気が残る程度にまで回復し、当分飲むまいと思ったことなど10年前のことのように感じられるから不思議だ。まず、ビールでも飲もうかな、と。 理由になってないね。 もっと理由らしい理由は、連載(その弐)で。
2007年06月19日
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今夜もノミアルキ。LVSJのあと、急に思い立って「Dear Friend’s」に行ってみた。何年もずーっと行ってみたいと思っていたけど、行こうと思えばいつだって行けたのに行かなかった店。 スコッチモルトウィスキーソサイエティのボトルが並んでいるのが、ドア越しにも見えていたし、噂は色々聞いていた。 3時間近くもいただろうか。その間、他のお客さんなし。 店主と色々話してきた。 グレンキース、カリラ、そしてシェリーカスクのリンクウッド。どれもとてもおいしかったし、店主との酒談義もとても楽しかった。 たぶん、またいつか行くのだろうと思う。でも、いつ行くのだろう。 この店は良い店だが、自分の好みと何かが違うという違和感。それをあえてブログで書くというのはどんなもんだろうと思うのだが、あえて書いてみる。 居れば居るほど自分の気分と解離していくのは、相性という一言では割り切れないものがある。楽しいし、おいしいのに、なぜなんだろう。 酒を飲んでいるうちに、いつかこれ以上ないというほどのおいしい酒にめぐり合えるのではないかという期待もある。同じように、色んなバーを訪ねているうちに、自分の理想としているバーに出会えるかもしれないという期待もある。 でも理想のバーってなんだろう。明確なイメージはない。理想の酒って何?理想の女性って誰? おそらく、生きている中で理想のバーにも理想の酒にも理想の女性にもめぐり合わないんじゃないかと思う。 LVSJは良い店だ。でも理想の店かといわれればそうではないような気がする。なのにやっぱりLVSJに足が向いてしまう。なぜなんだろう。それは妥協とも違うものだ。 自分は、酒にもこだわりがあり、バーにもこだわりがあり、女性にもこだわりがあるから、よけいに理想には出会えないのかもしれないな。もっとこだわりがなければ、ずっと早くに理想に出会えてたかもな。現在の婚姻年齢上昇中の社会情勢と同じなのか。 でもこだわりというのともちょっと違う。理想的なものを追い求めるというのは、ある種の本能であって、生きるためのエネルギーとも考えられる。 たぶん、理想というものは瞬間的なものであって、まるで真円のシャボン玉が一瞬で歪み破裂するように、同じ酒でも飲むたびに印象が微妙に変化するように、永続的に固定したものではないのであろう。 そういう変化を味わうのも楽しみであるし。 でもやっぱり理想のバー、理想の酒を求めてしまう。いつまでたっても粋な人間にはなれないようだ。 ああ、ウィスキーの風味を表現できないように、今の自分の気分が表現できないもどかしさ。
2007年06月05日
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