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田 村 麻 呂 伝 説 新年おめでとうございます。 2010年が明けました。ということは、来年は2011年になるということです。なぜ年が変わったばかりなのに来年のことを言うのかと思われるかも知れません。それこそ鬼に笑われる話ですね。実は坂上田村麻呂が亡くなったのが弘仁2年、西暦で言うと811年、つまり来年は田村麻呂没後1200年という記念すべき年であるということなのです。 みなさんが御存知のように、この田村麻呂が生まれたのが郡山市田村町、凱旋したのが田村市船引町と多くの伝説が田村地域に集中的に残されています。この田村という土地の名と密着した話の内容のために、実際にこの地で起きた戦いが伝説になったと思い込んでいる方が少なくありません。ところがこの他にも、田村麻呂の伝説が郡山市逢瀬町から湖南町にかけて、また須賀川市、白河市、そして岩手県、宮城県、さらには栃木県にかけても残されていることが分かりました、決して、田村地域だけに伝わってきた話ではないのです。しかし田村には、古くからの守山の田村氏と三春田村氏が共に田村麻呂の裔を主張していたことも関係があるのかも知れません。 田村麻呂が実際にエミシと戦った胆沢のある岩手県奥州市は、江戸時代は仙台領でした。ですから、宮城県や岩手県で田村麻呂伝説の原型が形作られたのであろうということは、容易に想像のつくことです。 では何故、胆沢からこんなにも遠く離れた田村地域や郡山、須賀川、白河、そして栃木県にまでこの伝説が広がったのでしょうか。 これらの伝説は田村麻呂の史実や戦歴が話題となり、人の口を通して各地に流布していったものでしょうが、胆沢での戦いの後、仙台を中心に、盲目の琵琶法師たちによって田村麻呂の浄瑠璃が語られはじめます。これが奥浄瑠璃、仙台浄瑠璃と呼ばれるものですが、仙台藩や津軽藩は、これら盲目の奥浄瑠璃語りたちを庇護したと言われています。この伝統が仙台浄瑠璃となり、津軽三味線につながる芸能を残したとされています。 この仙台浄瑠璃は、江戸時代から昭和の初めにかけて盲法師(ボサマ)とかジョウルリさんと呼ばれた人たちによって東北地方一帯で語り継がれてきたものなのです。それらのことが田村麻呂の伝説を東北全域に広げた理由の一つと思われます。 田村麻呂没後1200年までに残されたこの1年の間に、多くの伝承を大事にしながら、この田村麻呂を「町おこし」として活用するアイデアはないものでしょうか。(この文章は、『街・こおりやま』に字数制限があるため、若干異なります) ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.30
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「国際交流に関すること以外で、いまやっていることについて書いてください」と言われて書いたのがこの文章です。いささか宣伝めいてしまいましたが、ご寛容の程を・・・。 MULTI-TALENTED MEMBERS国際交流の他にいろいろな活動をされている会員さんをご紹介するコーナーです。 今回は作家の橋本捨五郎さんです。 私がものを書きはじめたのはリタイアしてからですので、ほぼ10年前からになります。 最初に書いた「田村太平記」は南北朝時代の宇津峰山の戦いでしたが、現在までに34話を書き上げました。5話目となった「三春戊辰戦争始末記」から、この地方の忘れられた歴史上の事件や人物を意識して取り上げ、取材・執筆するようになったと思います。その後ヨークカルチャーセンターで「郡山の歴史を楽しもう」という演題で話をしたのを機会に、「郡山の歴史を楽しむ会(いまは福島の歴史を楽しむ会)」を立ち上げました。 現在は、万葉集にある「安積山 影さへ見ゆる……」の歌にまつわる話、「私見・安積山の歌(仮題)」を書いています。 この話は、第46代天皇になるはずであった安積親王が藤原不比等に暗殺されたのですが、この不比等に対抗した葛城王(橘諸兄・采女伝説の主人公)のことを書いたものです。 それからもう1話、橘為仲が詠んだという「陸奥の 芳賀の芝原 春来れば 吹く風いとど 芳る山里」の「芳る山」が郡山になったという説がありますが、郡山に関わるこの3人の関連を調査中です。さてここで皆さんに質問です。 橘為仲の歌の中と彼の名に、今の郡山の小学校の名が隠されています。それはどこでしょう。 (答えは最終ページです) 橋本さんが郡山歴史資料館に寄付をした三春馬車鉄道客車の実物大模型 ~おもな著書~「雪女」「源頼朝に郡山を貰った男」「さまよえる神々」「郡山の種痘事始」「馬車鉄道」答:芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校 さて以上が郡山国際交流協会情報誌の全文ですが、これには文字数の制限があって書けないことがありました。それが次に述べる『お願い』です。『陸奥の 芳賀の芝原 春来れば 吹く風いとど 芳る山里』 この歌は1984年発行の『郡山の歴史』には載っていましたが、2004年発行の『郡山の歴史』からは削除されています。理由は、橘為仲歌集などの関係書に記載されていなかったということでした。私も手を尽くしてみましたが、この歌を見つけ出すことができませんでした。 もしこの歌の出所などについて御存知の方がおられましたら、是非、お知らせ頂きたく、よろしくお願い申し上げます。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.20
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メルカート冬号 東北情報通信懇談会・創童舎 東北 コト・モノ・ヒト 始め 『河野広中 自由民権のさきがけ~背景と生成』 嘉永二(一八四九)年、河野広中は三春藩(現・福島県三春町)郷士の三男として生まれた。河野家ではこの他にも呉服商などを手広く営んでおり、彼自身二本松の商家に丁稚に出されている。やがて広中は川前紫渓に儒学を学んで尊皇攘夷論を唱えるようになり、また水戸天狗党の逃亡者と交わる事により次第に社会の動きに目を向けるようになっていった。 大政奉還後全国の藩主が京都に召集された。三春藩もこれに従って上京、勤王の趣意を上申した。しかしこの時八割の藩が幕府をおもんばかって出席を差し控えたため会議が開けず、程なく鳥羽伏見の戦いが勃発する。その後に結成された奥羽越列藩同盟も一枚岩とはならず、広中は兄広胖(ひろやす)らとともに棚倉の東山道先鋒軍陣営を訪ねて帰順を図った。これは三春藩が戦前に朝廷へ上申したことの具現でもあった。そしてその時の参謀が板垣退助であった。 明治維新後、広中が各地の戸長、区長などを歴任していたころ、J・S・ミルの『自由之理』を読んで自由民権運動に開眼する。広中は全国に率先して民会を興し、明治八年には上京して国会開設の建白をしたが、政府の容れるところとはならなかった。そこで任地の石川(現・福島県石川町)に政治結社・石陽社を設立、東北地方の自由民権運動のさきがけとなった。また西南戦争が勃発すると高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議した。帰郷後、三春に政治結社・三師社と学塾・正道館を設立、同時に福島県で民会規則の起草、県会開会の準備にあたった。 明治十三年、大阪で開かれた第四回愛国社大会では国会開設を政府に訴えることを決議し、その建白書を提出したが却下された。明治十四年、自由党結成に参加した。しかし翌年、福島県令三島通庸の暴政に対して起こされた福島事件で逮捕されて軽禁獄七年の刑を受けたが、大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄した。牢から出た広中は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画した。 広中は明治二十三年の第一回衆議院議員総選挙以降、第十四回衆議院議員総選挙まで連続当選した。その間、自由党、憲政本党と移り、明治三十六年、第十代衆議院議長に選ばれた。しかし十二月の第十九議会開院式で桂太郎内閣を弾劾、衆議院解散に至った(奉答文事件)。また日露講和条約に反対して国民大会の議長となったが、日比谷焼打事件に発展した。明治四十二年には、アジア主義団体・亜細亜義会に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加した。のち立憲同志会に加わり、大正四年、第二次大隈重信内閣の農商務大臣に就任した。 大正十二(一九二三)年、広中は七十四歳で死去した。ときに過激とも思える彼の行動は、戊辰戦争の際のいわれなき誹謗中傷『三春狐』に対する義憤であったのではないだろうか。なお三春出身の勝沼富造、宮城県出身の菅原伝らがサンフランシスコで自由民権運動の新聞を印刷、日本の運動のバックアップしたことを申し添えておく。 福島の歴史を楽しむ会 橋本捨五郎 注1 J・S・ミル/イギリスの哲学者、経済学者、社会民主 主義、自由主義思想に影響を与えた。 注2 『自由之理』 J・S・ミル著『自由論』、日本では、 一八七二年、中村正直訳『自由之理』 として出版され た。自由民権運動に大きな影響を与えた。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.15
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八 丈 島 八丈島は伊豆七島最南端の御蔵島より更に遠く、尚且つその間を親潮という強い海流に阻まれた絶海の孤島である。『鳥も通わぬ八丈島』と言われたこの島は、かって流刑の島であった。政治犯はもとより、神官、僧侶、商人、渡世人……、江戸末期にはあらゆる罪人がこの島に流された。そこに男女の区別はなかった。『当人勝手次第に渡世すべきこと』それが流刑者にとって唯一の掟であり、島の中に九尺二間(六畳)の小屋を建て自活するのが習わしであった。村人、流人、混然となっての暮らしの中、台風によってたびたび飢饉に見舞われ、島民の半数が餓死するのも決して珍しい事ではなかった。 (奥田瑛二独談より) 食べる物もままならぬ荒れ果てた土地、しかし目に痛いほどに日差しの強い八丈島の、たおやかに立つ高い椰子やヘゴシダの林と澄み切った海の水、そして眩しいほどの白い砂の深い入江に一個の水死体がひっそりと打ち寄せられた。 そこには故郷を棄てたのではなく、故郷を失いしかも自らの意志で己を流罪に処した孫右衛門の、変わり果てた姿があった。 これを見つけた島民たちが、その死体の主を特定するのに、さして時間はかからなかった。彼は何年も前から罪人でもないのに来島し、苦労して開墾に従事し、率先して嫌な仕事に精を出し、子どもたちに読み書き算盤を教え、そして島民たちの尊敬を受けていた老人であったからである。 きれいに片づけられてはいたが、彼の住んでいたあばら屋の机の上には、繊細な細工を施された簪(かんざし)と達筆にしたためられた遺書らしき短歌が一首、丹念に写された般若心経の上にそっと置いてあった。 何故に捨つる 命なるやと 人問わば 民易かれと 祈るのみなり 島に嵐でも近づいているのであろうか、遠くから鈍い雷のような海鳴りが聞こえていた。 (終) ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.10
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あれから数年が経っていた。それはカウにとっても失意の日々であった。ものを思う年月であった。そして過ぎ去った日への想いでもあった。 ──お前様のあの自信に満ち輝いていた日々は、いったいどこへ消えてしまったのでしょう。お前様が命をかけていた三春藩は、いや福島県は、お前様に何をしてくれたのでしょう。藩とは所詮、お前様のように利用をするだけして、終われば打ち捨ててしまう所なのでございましょうか。だって藩財政のことは決してお前様や伊藤直記様だけの責任ではなかったのですから。 カウはぽっかりあいた心の空洞の中で、孫右衛門の出奔先を探し歩いていた。その探していた行き先に、あの古い記憶の浜辺があった。若い嫁入り間もないカウを連れた孫右衛門が、波の荒い磐城の浜辺に立っていたのである。 海のない山国の三春を発ってから二日目の夕方、旅籠に入る前に見に来た海は遠雷にも似た音を響かせていた。カウが孫右衛門と連れ添ってからはじめての、そして唯一の旅がこのカウが望んでいた海を見る旅であったのである。「お前様・・、この海は唐天竺までも続いているのでしょうか?」 そう言って振り返ったカウの顔を、孫右衛門は黙ったまま優しく見返していた。薄暗がりの中を押し寄せてくる波が一瞬のうちに立ち上がるとまるで大きな壁となり、前のめりに落ちて砕けるとすぐ返す波とが交錯して出来る、白い泡立ちが走っていた。孫右衛門の熱い視線を感じながらもカウは、寄せては返す波を、息を詰めて見ながら言った。「海とは怖いような音のするところですね」「うむ、これが海鳴りというものじゃ。恐らく嵐が近づいているのであろう。波も荒い」 そう言いながら孫右衛門は、カウの腰に手を軽く回した。強い波の音と潮風の匂いの中に身を固くするカウを、磯の香りに混じって男の体臭が微かにくすぐった。「お前様・・」 そう言いながらも、「強く抱いて・・」という言葉を、カウは恥ずかしくて口にすることができないでいた。孫右衛門の腕にそー、と倒れ込みそうな思いに胸を高鳴らせ頬を火照らせながら、結ばれた幸せというものを身体いっぱいで感じ取っていた。 それらのことを思い出していると、カウは孫右衛門の行方が分からないことが無性に悲しく、独り身の生活が余りにも哀れに感じられた。無意識のうちに足が仏壇に向かった。そっと障子を閉めると、今は居ない孫右衛門と二人だけの空間が、あのときの海のように心の中に拡がっていった。カウは優しかった孫右衛門にそっと声をかけた。「どうして、何故お前様だけが私に黙って三春を出られなければならなかったのですか? そして、どこへ行ってしまわれたのですか? できれば私もお前様と一緒にどこへなりとも連れて行って頂きたかった。だって私たちは幾千代をかけて約束した夫婦だったのでございますもの。私を連れて行って下さらなかったのですから、私を連れに必ず戻って来て下さいませ。もしこのままお戻りにならなかったら、私は結局お前様の何であったのかが分からないではありませんか」 そう呟くカウの脳裏に、孫右衛門がぼそっと言ったことのある「このようなわしを、長い間良く支えてくれた」という言葉が甦っていた。 ──そんなにも気を遣って下さっていながら、どうしてこの私一人を置いてきぼりになさったのですか? そう思うカウもまた、この世への未練がまさに消えようとしていた。「お義父さま、お義母さま、ご先祖さま。どうか孫右衛門を私に戻してくださいませ。私とてこれ以上、たった一人で生き延びることにどんな意味があるのでございましょう。離縁されたままで彼の世に行くのでは余りにも悲し過ぎましょう?」 ついにカウは、孫右衛門が戻って来ないなら自分の方から行こうと思った。手向けられた香の煙が一本、細くすー、と立ち上がり、途中から小さな渦を作ってたなびいていた。「お父さま、お母さま。カウはもう疲れ過ぎました。どうぞ孫右衛門の元へ、あの人の元へお導き下さいませ」 一瞬、あの磐城の浜での雷の音にも似た海鳴りが耳元で聞こえ、目の前に黒い壁のような大きな波が忽然と立ちはだかった。そして香煙が、密(ひそ)やかに頽(くずお)れていった ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.05
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森口マリアンさんより、掲載した英文について連絡がありました。2008/11/22 の「ホノルル福島県人会 85 周年記念誌」の修正をしましたので、よろしくお願いします。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.03
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