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古 代 の 物 流 2013年12月31日、NST新潟総合テレビ開局45周年記念特別番組で、『遥かなる古代の空〜眠りから覚めた城の山(じょうのやま)古墳(新潟県胎内市)』が放送されました。 4世紀前半に作られた城の山古墳は、1995年以来、地元・新潟県胎内市の教育委員会の手により調査が実施されていましたが、2005年、それまで必ずしも明確でなかったこの塚が、日本海側最北の前期古墳であることが分かりました。さらに2012年の再調査で大和政権の身分の高い人物のものと同じような副葬品が発掘され、大和朝廷が東北方面へ進出していく過程の手がかりになりうるものとして位置づけられたのです。その中に三角縁盤龍鏡がありました。このデザインは、1世紀から3世紀頃の中国(後漢20〜220年、魏220〜265年、晋265〜42年)にみられるもので日本では非常に珍しく、例え中国から直接持ち込まれたものではなく国産であったとしても、大和朝廷を介してこの地域にもたらされたものと考えられています。また年代的に言っても、邪馬台国との関係がうかがわれます。 ただここで気になったのは、三春町実沢にある高木神社です。私は、2010年に『阿武隈川〜蝦夷と大和の境界線』(当ブログに掲載)という本の中に『中国の前漢の時代(紀元前202年〜紀元8年)に作られた前漢鏡の拓本が三春の高木神社から採取され、國學院大學に保存されていることなどから(云々)』と書いたのですが、今回この文章をまとめるについて出典を明確にしようと思い、随分探したのですが分からなくなってしまいました。不勉強の至りと反省しています。もしどなたかご存知の方がおられましたらお知らせいただきたく、よろしくお願いします。再確認をしようと思った理由は、邪馬台国と日本神話について多くの著書を持つ安本美典氏の『高天原の謎』に、夜須川(小石原川・福岡県大刀洗町)の周辺には高木神社が著しく多く、『その祭神の高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)は神話の冒頭で高天ヶ原にある「別天津神(ことあまつかみ)」の1柱とされており、邪馬台国の元来の王(大倭王)は高木神のようだ』と記述されていることにありました。前漢鏡を仲立ちとして、邪馬台国と高木神社がなんらかの関係があったのではないかと考えたからです。 ところで県内の多くの古墳から出土している黒曜石の刃物や装身具として使われた緑色凝灰岩、さらには矢尻を固定するためのアスファルトなど遠距離を運ばれて来た原料や製品があります。しかし胎内市教育委員会水沢幸一氏によると、この古墳から緑色凝灰岩の管玉が見つかっているのですが、分析の結果9点中7点が会津坂下の『宮の北遺跡』で作られていたものと成分が一致したそうです。その宮の北遺跡(住居跡)からは、管玉の未製品・台石・砥石・鉄針・石針など管玉製作の道具が発見されており、玉造の村であったことが分かっています。なお県内の多くの古墳から出土している黒曜石の刃物や装身具として使われた緑色凝灰岩、さらには矢尻を固定するためのアスファルトなど遠距離を運ばれて来た物や製品があります。このことは、(福島県?としては)輸入品ばかりではなく、管玉のような輸出品があったということになります。しかもその原料となる緑色凝灰岩は、新潟や山形の日本海沿岸部からの産出であったのです。このことから考えられるのは、原料を輸入して完成品を輸出する現代的行為であり、当時の物流の様子を垣間見ることができるようです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.26
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(七) 三春〜シルクロードの源流 2 宮国強兵と三春 当時のこのような三春が、最新鋭の乗り物であった馬車鉄道を必要とした理由は、何であったろうか。それは生糸に関連したことであったことは間違いない。 封建社会の胎内から資本主義的産業を自らの力で作りだしていった先進諸国においては、基本的に、「お互いに、『市場』として役立ついろいろ違った産業部門は均等に発展するものではなく、お互いに追越しあっている。そしてより発展した産業は、外国貿易を求める。」(レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』豊田四郎・飯田貢一訳)と言う考え方が普遍的であった。 このような考えが、福島県田村郡の小さな地域にも、当てはまるものと思われる。三春藩は戊辰戦争を戦うことなく、西軍の無血入城を招き、それにより官民の物的被害を最小限に抑えることができた。この田村地方に古くから伝わってきた繭と生糸の伝統が、国家的要請と結びつくのである。この恵まれた状況の中で三春の商人たちは、養蚕農家から農地を担保にとり金融をしながら繭を集荷する集荷問屋の機構を作りあげていった。そして、この集荷問屋により集められた繭を買い、糸を繰る製糸業が発達していった。三春町の合名会社三盛社(商社兼製糸場・廃藩による士族救済の殖産振興会社)などがその好例であったし、またそれに付随して小さな家内工業が発生していった。そしてこの田村地方の蚕の育成の伝統と技術が、明治以後の郡山の製糸業発達と都市化のための原料面での基礎ともなっていったのである。 日本最初の株式会社 明治六年六月、安達郡二本松町に地元の有力者・山田脩・安斎宇兵衛、佐野利八。梅原新固らを中心に、二本松製糸会社が設立された。この会社は、わが国の株式会社の嚆矢とされている第一国立銀行の同年八月の設立より、わずかではあるが早かった。つまり戊辰戦争により破壊された二本松城趾に、製糸会社としては日本最初の株式会社が芽を吹いたことになる。有名な官営富岡製紙工場がフランス人ブリュナの設計監督のもとに設立され、器械一式もフランス製であったのに対し、二本松製糸会社の場合は、イタリアなど先進地の技術を参考にしながらもすべてを国産品でまかない、九十六人繰りの器械製紙工場を日本人の手のみで建設された画期的な工場であった。 製糸の品質の整合 同じ年、生糸改(きいとあらため)会社が、政府の指図により、全国同一基準で各地に会社が設立された。この会社の目的は、小規模経営によるバラバラであった品質の統一と粗製乱造のいましめにあったが、それでも家内工業や農民の間の養蚕と製糸未分離による座繰り製糸のため改良は進展しなかった。そのために明治七年には、生糸製造人の全容もつかめず、取り締まりも出来ず困ってしまい、ついに県令の名によって布告を出されるほど、改会社の運営は困難であった。 この会社は、製糸業者と生糸商人をともに大蔵省の直接管理下に掌握するという政府の方針の下に、横浜および主要生糸産地に設立されたものである。ここでは、横浜改会社・地方改会社・製糸業という流通ルートが、権力的に設定されたのである。この基準による改会社として、福島県には明治六年、三春生糸改会社と福島生糸改会社が設立された。三春生糸改会社は三春に本社を置き、磐城和平駅・行方郡・相馬郡原町・相馬郡浪江町 田村郡小野仁井町村・田村郡守山町・田村郡上移村・石川郡石川町に出張所を置いた。また福島生糸改会社は本社を福島に置き、伊達郡保原町・伊達郡飯野村・伊達郡掛田村・伊達郡掛田村・伊達郡小網木村・伊達郡桑折村・伊達郡梁川村・安達郡二本松町・安達郡本宮村安達郡針道村・安積郡郡山町・岩瀬郡須賀川町・白河郡白河町に分社に置いた。 新たなる物流 これらの動きのなかで、製糸業、および集荷問屋以外の商人のグループが誕生する。その人々は、商品を貿易港である横浜まで運ばせ、売込商に売ったり、または自らが売込商として輸出商である外国商人(当初、日本からの輸出を司る輸出商は、外国人に限られていた)に売り、輸出を行っていた。ということは、この外国人輸出商に近づける業者ほど、金融力があり利益も大きな業者であった。とはいっても、売込商として明確に分業が為されていたのは少数の大手の業者であって、中小の業者はこの一部分を、また大手業者によってはこの全部を兼ねていた者も珍しいことではなかった。 失われた夢 ともあれこれらの大きな社会の流れの中で、明治の初期、三春町は一時的に大発展をとげた。この町に発券銀行として設立された第九十三国立銀行はこれら地元産業の企業の金融をまかなった。そして支店を郡山や平、東京や横浜に置き為替業務をおこなったのである。また安田(富士)銀行三春出張所が開設されたのも同じ理由からであろう。 さらに廃藩置県による三春県庁やその後合併してできた磐前(いわさき)県庁の三春支所、田村郡役所、三春税務署、県内五番目に作られた三春電信局や七番目の三春郵便役所、更に自由民権運動の政治結社二二師社、その目的のための私塾・正道館と付属印刷所、三春師範学校(明治十年、三春・平・福島・会津若松の師範学校が福島に福島師範学校として統廃合、現在の福島大学教育学部の前身となった)県内四中学のうち一校(三春・平・福島・会津若松に設立されたが、のち一県・一校制により福島中学となる。しかしその後、県内にい1校の中学校が福島では偏り過ぎるとの理由で、安積郡桑野村(現・郡山市開成)に移され、現在の安積高校の前身となった。三春伝習学校(三春師範学校の前身)、三春英学校(真城学校)、田村郡立蚕業講習所、獣医学講習所、聖ヤコブ教会、三春電気会社、三盛社製糸場、三春煙草収納所(東北・北海道を管掌した。福島県石川・若松・坂下・豊成・小野新町、宮城県狼河原(大河原)、岩手県千厩・大泊、青森県三戸・山形県東根・鶴岡・米沢、秋田県増田、北海道函館にその出張所を置いた)、ベッドの備え付けられた山中(やまなか)ホテル、そしてこの三春馬車鉄道……。 この頃、三春は政治・金融・通信・教育の中心地として栄え、須賀川は商業の中心地として発展していた。そして同じ頃、既に人口も増え町となってはいたが、郡山の人々は、電報や商品の仕入れのたびに、三春や須賀川まで出掛けなければ用が足せなかったのである。しかし今は、三春からそれらの一切が夢と消え、ご多分にもれず過疎の町としてあえいでいる。この一時的発展と現在との大きな落差、これは一体なんであったのかを思うとき、戊辰戦争で官側に味方したという見返りや、無血入城で破壊されなかった町並や藩の施設をそのまま利用できたことが、その大きな理由の一つであったと思われる。またそれは同時に古さをそのまま残すこととなり、新たな発展への疎外要因ともなって沈滞していったとも考えられる。 (1) 「戊辰落日 上」 綱淵謙錠一三三〜一七二ページ (2) 「歴史・みちのく二本松落城」 榊山潤 二一〜二二ページ (3) 「会津戦争のすべて」 会津史談会一九二ページ (4) 「戊辰東北戦争」 坂本守正 五九ページ (5) 「会津・仙道・海道地方の諸城の研究」 沼舘愛三一七五〜一七九ページ (6) 「福島自由民権運動史」 高橋哲夫 (7) 「繭と生糸の近代史」 滝沢秀樹 五一ページ (8) 「聖公会宣教八十年史」 郡山聖ペテロ・聖パウロ教会 二ページ (9) 「郡山郷土読本」 郡山市立学校長協議会 一六八〜一六九ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.21
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温 泉 伝 説 二本松市の岳温泉の起源は古い。平安期の史書『日本紀略』の寛平9(897)年の項には『小結温泉に正五位下を授ける』と記されているそうです。その後、名称は『湯日』、『十文字』、『深堀』、そして『岳』と変わっていくのですが、その長い歴史には土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移してきた経緯がありました。 湯日温泉時代は、安達太良山の鉄山直下に営まれていた小規模な湯小屋が丹羽二本松藩時代に温泉街として整備され、番所や藩公の御殿も配置されていました。江戸中期には湯女(ゆな)が100人にも達し、歓楽温泉場として遠くは水戸などからも来湯客で賑わったと言われます。しかし文政7(1824)年、連日の雨と台風直撃による山津波のため一瞬にして崩壊、埋没してしまったのです。 十文字温泉時代は、湯日温泉から6キロ程下の平原地(現在の不動平)に建設されました。高台に藩公御殿や温泉神社が作られ、下方には4区画の町並み、中心地に14軒の旅館と3つの共同浴場、茶屋・商店・工人が軒を連ねていました。しかし戊辰戦争において新政府軍の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまいました。 深堀温泉は現在の岳温泉に隣接した深堀村に建設されました。しかし明治36年、旅館からの失火により温泉街は全焼してしまいました。そしてその地には再建されることはなく、現在は往時を偲ぶ石垣のみが残されています。その後も温泉再建に熱意を傾ける岳下村・永田村・原瀬村の有志が岳温泉株式合資会社を設立し、国有林の払い下げを受けて建設、今の岳温泉につながりました。 さてこの岳温泉は田村麻呂の発見と伝えられていますが、果たして弘仁2(811)に亡くなっている田村麻呂が発見したとは、『日本紀略』の記述から見ても、ちょっと考え難いなと思っています。岳温泉以外でも各地にある温泉発見の由来が伝えられています。それらには神話に基づくもの、僧侶や武将、それに動物が発見したものなどがありますがその大半はフィクションです。実際の発見者は近郷の農民などが多いのでしょうが、いずれも神からの贈り物と考えて神聖視していたものと思われます。著名な人物による発見伝説で共通することは、開湯伝説を作成する際に名前を引用しただけの場合が多く、「おらが湯」の宣伝活動に因るところが大きかったと言われます。 ところで鳥獣が発見したとされるものや、動物が湯に浸かっているのを見た古人が温泉であることを発見したものとしては、白い動物にちなむものが多いようです。したがって、情報化が進んだ今日のようにボーリングで開発される温泉では開湯伝説が存在するはずはなく、温泉開発者が「神のお告げを夢で見た」など開発者の思いによるものがわずかに散見される程度です。そこで県内各地の開湯伝説を拾ってみましたが、これは全てを網羅しているわけではありません。日本武尊 = 飯坂温泉 大穴貴命(おおむなちのみこと)のお告げ= 土湯温泉 神のお告げ(薬師如来が小野小町に) =小野川温泉 神のお告げ(聖徳太子が泰野川勝に) =土湯温泉嵯峨天皇の病気治癒のため見つけられた=岩瀬湯本温泉 二岐温泉 不動明王 = マルナカ鉱泉(鏡石)弘法大師 = 大塩温泉 東山温泉 大塩裏磐梯温泉 微温湯温泉 鷲倉温泉 行基上人 = 芦ノ牧温泉 大森温泉 源翁禅師 = 熱塩温泉 州安和尚 = 甲子温泉 田村麻呂 = 岳温泉 欠入駒ヶ鼻温泉 八幡太郎義家 = 母畑温泉 西久保温泉 横向温泉 休石温泉 源田温泉 俵藤太 = 穴原温泉平家の落人 = 一ノ木温泉 尾瀬桧枝岐温泉 天栄温泉 平藩の奥方の夢 = 玉山温泉 金山開発 = 日中温泉猫 = 猫啼温泉猿 = いわき湯本温泉 早戸温泉 湯野上温泉 鹿 = 入間沢温泉。入道温泉 成沢鉱泉鶴 = 玉梨温泉 新鶴温泉 白米温泉 さわの湯鉱泉白鳥 = 岩井戸温泉 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.16
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福島県田村郡三春町 この町は、旧磐城国田村郡の西端の阿武隈山地の山あいの底にへばりついた、人口一万人位の古い小さな町である。そして、この底の中央にある、小高い、その割に急峻な丘の上に、永正元年(一五〇四年)舞鶴城という典型的な山城が築かれてから、初めて町としての体裁を備えた城下町である。三春藩五万五千石の中心であったこの町には、古い歴史を反映して、文化的にも誇れる幾つかのものが残されている。町内各所には、古い創建に成る神社仏閣があり、重要文化財の仏像を始め、絵画の雪村、句の今泉恒丸、郷土芸能の三春盆踊り、三匹獅子、そして今にのこる三春人形、三春駒などの工芸品など、また、明治に入ってからも、若山牧水、竹久夢二などともゆかりがあり、最近では大林組社長の大林賢四郎、歌会始・読人の秋田一季、洋画の大江孝、歴史の高橋哲夫そして女性登山家の田部井(旧姓・石橋)淳子を生んだ町である。また我が家に残っている嘉永元年(一八四八年)の火災のため焼失した三春愛宕神社再建の寄付帳の中には、式守家の署名と軍配の形の判子が押してある。現在の国技・相撲の行司の式守家との関係とも考えられ、娯楽的なものも含めて、一通りのものが藩内に揃っていたと思われる。 勿論、藩という組織そのものは、政治、軍事を基盤として成立して来たものではあるが、当然それらを維持する経済力を有していなければならなかった。であるから三春藩も経済的には自立しなければならなかった。他藩からの移入(例・会津の酒)を禁止しながら、他藩に移出していたものに、生糸・蓑・菅笠・藁工品・馬、そして時代が下がってからは、タバコなども加わるなど、今の国際間の輸出入のような関係もあったようである。 地勢的には高い山こそなかったが、褶曲が激しく谷が侵入し、山また山、谷また谷の錯雑した地貌を呈していたが、その谷地を通じて交通路は大いに発達していた。その主幹線として、東方に向かう常葉街道、小野新町街道が浜通りを結び、北には小浜街道、西北には本宮・二本松街道、西方郡山に西南笹川・須賀川街道、南方には守山・石川街道と四通八達、江戸までの間道を含め、その他数多くの里道が四方に通じていた。 当時の水運は、伊達郡梁川町以北仙台まで阿武隈川を利用して行われていた。郡山は奥州街道に接し、本宮の南で、この川の西に位置していた。つまり三春と郡山は、阿武隈川を挟んで、東の山地と西の平野に相対していた訳である。 当時の郡山を中心とした安横平野は、一部を除いて水利の便も悪く、農耕不適格地として広がっていた。ただ、地理上たしかに郡山村は、奥州街道とのいわき=新潟線の十字路に位置してはいたが、それに類した周辺の町としては、三春をはじめ、花の本宮と言われた宿場町、そして行政の中心、更に物資の集散地でもあった城下町、二本松・須賀川に囲まれていた。そのために、これら周辺の町からは、郡山村へ特別の用向きは無かったのである。会津方面から北へ行く人は熱海から本宮を、南へ向かう時は須賀川か白河を経由したと思われるし、磐城・田村方面から北へ行く人は本宮か二本松、そして南へ向かう時は須賀川を経由したものと思われる。そして藩政時代にはこの奥州街道に沿った間道も発達していた。この間道は奥州街道が各大名の通り道であり、殿様優先の交通体系を嫌った当時の商人たちの産業道路として利用されたものである。(郡山女子大・田中正能先生は、絹の道と表現)。このような状況であったために、郡山経由の道路は、わずかに南北縦断か東西横断の時に、近道として利用されたに過ぎなかったと思われる。 戊辰戦争と三春宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのはなんじゃいな トコトンヤレ トンヤレナあれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナー この町も、戊辰戦争を避けることが出来なかった。三春藩を含めて、奥羽越列藩同盟が組織された。だがはじめの会津藩救解同盟の段階では平和的な同盟であり、大部分の小藩にとっては、仙台・米沢といった大藩へのいわばお付き合いでお茶をにごしておくこともできた。しかしその救解同盟が攻守同盟に変わり、仙台藩を盟主として白石に奥羽越公議府が開設され、反薩長の姿勢を強化してくるようになると、話が変わってきた。それは今までのあなたまかせの立場を放棄し、小藩といいどもそれぞれが独自に自藩の将来の生き残り策を決定しなければならぬ羽目に追い込まれたことを意味した。そしてそれはなにも小藩に限ったことばかりではなかった。仙台藩も米沢藩も同じことであった。 恭順論が主導権を握ったところでは奥羽越列藩同盟に離反して「裏切者」の汚名を残し、対戦論の勝ったところでは西軍に壊滅的打撃を受け、「朝敵」として悲劇を迎えることとなる。この同盟に参加した全ての藩で、恭順論と対戦論が交錯したように、当時十一才という幼少の主君を戴いていた三春藩(五万石)も例外ではなかった。大政奉還間もなく朝廷支持を表明したものの、それを公表できなかった。なぜなら表だって反対をすれば、磐城から小野にかけてあった笠間藩飛地のように、周囲の各藩に攻め滅ぼされるのが目に見えていたからである。 三春藩は京都に帰順の使者を送ったものの、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟が攻守同盟に変化し、この要求により会津・仙台両軍を主力とする白河の攻防戦に派兵し、やむを得ず西軍と兵火を交えた。当時の二本松藩は白河藩(十一万石)をも預かっており、その版図の中にあった白河城での攻防戦は、二本松藩をして奥羽越列藩同盟に対し多大なる義理を生んだことになったと思われる。しかしその後の棚倉城奪還の浅川の戦いで戦線の背後に回って挟み撃ちにした黒羽藩を三春藩の攻撃と言い触らされたことから、「三春狐」のいわれなき悪名が広がった。三春藩が挟み打ちにしたと信じた仙台藩は、これの実情調査のため、仙台藩の氏家兵庫を三春藩に派遣した。その返事によっては幼かった三春藩主・秋田信濃守映季を人質とするか、三春・守山藩を討伐することとしたのである。その氏家兵庫は、なぜか事態を穏便に済ませたのであるが、結局、三春藩の主張を認めざるを得なかったのではあるまいか。 三春藩は、隣藩・二本松藩に共に恭順の誘いをかけた。しかし二本松藩は三春藩からの帰順要請の使者を殺害してしまったのである。二本松藩は西軍の攻撃に曝され、落城していった。それにも拘らず、三春町の人々は、今なお残る「三春狐」の呼称の苦味に堪えているのである。当時西軍の歩卒たちが放歌して言うには、 「会津肥後守力が強い二十三万右手で投げた」 「会津猪、米沢狸、新発田狐に、だまされた」 「会津・桑名の腰抜け侍、二羽(丹波氏・二本松藩主)の兎は ぴょんと跳ね 三春狐にだまされた」 ところで一般庶民は、もっと確かな目で歴史を見つめていた。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。 この幕末の嵐の中で戦った日本人同士、悠久の大義という言い訳の下、各藩がそれぞれにその存立の方法を探った。奥羽越列藩同盟に逆らった三春・新発田・秋田藩、そして自ら仕掛けながら降伏した仙台・米沢藩、さらには二股をかけた郡上藩、その上で不本意ながら当事者とされ塗炭の苦しみに追い込まれた会津藩、そして二本松藩。現在から振り返ってみれば、結局戦いに参加した個人個人にとってあの戦争は、何の意味もなかったのではないか。そうすれば今現在まで残る市民レベルでの怨念は一体何なのであろうか、そしてこの後ろめたさは。これ程まで後世の人の心に災禍を残す戦争を、私は憎む。第二次世界大戦もベトナム戦争も、そしてアフガニスタンの戦争も。戦争とは本来無意味なものである。 三春藩は白河や棚倉そして須賀川のような周辺の町村の殆んどが戦場となり、二本松少年隊・会津白虎隊に象徴されるように徹底的に破壊され尽くした中で、三春のみが戦火をまぬがれ、辛くも町全体が生きのびた。この無血入城の交渉にあたって活躍した人物が河野信二郎(広中)であった。そしてこのときの交渉相手であった西軍の参謀が板垣退助であったのは、その後に起きた福島県の自由民権運動にとって、大きな幸運であった。河野広中はその自由民権運動のリーダーとなり、西の土佐、東の三春といわれる程の活動をしたが、時の明治政府の反自由党勢力と戦って入牢を繰り返した。戊辰戦争の時の三春帰順の中核的存在であり、「三春狐」とそしられた彼の、精一杯の努力と見るのは私の身びいきであろうか? しかし大正四年には農商務大臣にまで登りつめたが、同十二年、彼の自由民権運動の総仕上げであった普通選挙法施行の準備中に、病死してしまったのである。彼の銅像は、郷里・三春町の舞鶴城跡を見上げる場所と、福島県庁に建てられている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.11
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た ま ゆ ら 〜 妻 の 一 周 忌 今回は個人的なことで申し訳ありません。実は一昨年(2012)の暮れに妻を亡くし1年になります。 あの3月11日の大震災により自宅は半壊と認定されましたが、それ以上に、彼女の信仰していた麓山の聖ペテロ聖パウロ教会の会館が全壊と認定されたのです。この再建につきましては、信徒たちの努力とともに国内外の多くの教会から義捐金が寄せられて彼女の亡くなる直前に完成したのです。この折、落成式は妻の誕生日である来年の1月14日に挙行することが決まっていました。ところが2012年12月23日、妻が急逝してしまったのです。 翌日の24日、クリスマスイブの礼拝が教会で行われたのですが、不思議なことが起こったそうです。賛美歌を歌っていると、信者さんたちの背後から妻のソプラノの声が聞こえて来たというのです。後部の座席にいた理事長さんは、何故何人もの人が後ろを振り向くのかと思って自分も振り向いてみたが、何も変わったことがないのにと思っていたそうです。ミサが終わってから、皆で「美智子さんがクリスマスイブに来てくれた」と話し合ったそうです。ところがそれと同じことが、盛岡と秋田の教会でも起きていたということを後で聞かされ、驚かされました。 そのクリスマスの直後の27日、教会で妻のための葬送ミサが行われたのですが、また不思議なことが起こりました、ミサの後、理事長さんが私と息子夫婦と娘夫婦と孫の6人の写真を撮っていただいたのですが、そのようなときですから、誰も明るい表情などしていません。ところがその写真の中の、なんと私の腕の付け根の右、そして左、さらに祭壇のマリア様の像の上の梁に、画面上で直径約30センチほどの玉響(たまゆら)が写り込んでいたのです。しかもその写り込んだ写真が3シーンもあったのです。その写真を持って私の家に来てくれた理事長さんは、実に言い難そうにしてその写真を見せてくれたのです。確かに私も、TVなどで似たような心霊写真を見たこともありましたが、まさか自分の写真に現れるとは! 思いもよりませんでした。ただしデジカメで撮られた写真ですから、現像ミスとは考えられません。不思議な出来事だとは思っていました。 何故こんなことが起きたのか? 写真を見た子どもたちがこの現象についていろいろ科学的な解説をしてくれました。つまり心霊写真の一種として、「オーブ(たまゆら)と称するものがある。これはフラッシュを発光した際にストロボ光が空気中の水分・ホコリなどに反射し発生する現象で、夜間、露が降りてきたときなどに特に発生しやすいものです。また、空気中で結露した水蒸気が湯気となりフラッシュ光で乱反射を起こすことがある。恐らくそれが写り込んだものである」と説明してくれました。そう言われればそうなのかも知れませんが、私にすれば、いくら科学的に説明され「そうなのか」とは思っても、やはり亡くなった妻の魂だったのではないかと思っていました。 そこで私は、妻が私の両腕に抱えられていた孫息子を、『成人するのを見守ってね』と言いに来たと思うことにしたのです。「それがいい」。この考えに子どもたちも皆同調してくれました。それで私も、ようやく気持ちが落ち着いてきました。それにしても、私はこのような不思議な写真を見たのは初めてです。しかもそれが、自分の身に起こるとは・・・。夢にも思いませんでした。 2013年1月14日、妻の遺影を前に会館の落成式が行われました。そして昨年(2013)の12月6日、身内、近親者のみで仏式による妻の1周忌を行なったのです、そして今年の22日には、教会でも一周年の追悼ミサが行われました。このミサが終ってから、私たち家族だけ、それから皆さんとの記念写真を撮っていただきました。私は、もしまたオーブが写り込んでいたら、今度こそ偶然とは言えないなと思っていましたが、流石に今回は写っていませんでした。 なおこの式に合わせ、12月15日から25日にかけて妻のメモリアル作品展(桐塑人形)と息子の写真展を一緒に、あの教会会館で開かれました。図らずも親子展になったわけです。しかし考えてみると、妻は凄いなと思っています。何故なら、極楽と天国の両方に行けるのですから。 初春や 妻逝きて知る ありがたさ (独居老)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.06
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清 水 台 遺 跡 市内清水台から、清水台遺跡の証拠とされる素弁蓮華文(そべんれんげもん)軒丸瓦が出土しています。早い話が『三万石の長者煎餅』の模様です。ここには郡衙もあったとされ、郡山の地名誕生の一説ともされています。しかし清水台地域は明治の時期から市街化したため、発掘は遅々として進んでいません。 清水台から出土した軒丸瓦の中には、百済(くだら)様式の八葉復弁蓮(はちようふくべんれん)華文(げもん)瓦によく似た六葉復弁蓮華文(ろくようふくべんれんげもん)があるのですが、は、奈良の東大寺や奈良・明日香村の寺々、さらには熊本県山鹿市の鞠(きく)智城跡(ちじょうし)から7世紀後半の百済人が作ったと思われる八角形の建物の跡からも発掘されています。 日本で最初の瓦葺建物とされているのは、588年に建立された奈良県明日香村の飛鳥寺です。朝鮮半島の百済より「瓦博士」を招き、造瓦技術の導入が図られています。飛鳥寺の軒丸瓦の文様は素弁蓮華文といって、百済のものと非常によく似ています。ただし、このほかにも飛鳥時代に建立された諸寺の瓦は多様な文様を持っており、技術の導入の過程が単純ではなかったことが知られます。 596年、日本最初の本格的な寺院で飛鳥の四大寺である大(だい)官大寺(かんだいじ)、川原寺(かわらでら)、飛鳥寺(あすかでら),薬師寺(やくしじ)からも八葉復弁蓮華文瓦が出土しております。また、これらの寺は奈良の法隆寺と同じ伽藍配置だったそうです。 639年に舒明天皇によって造営がはじめられた百済大寺は、九重塔をもつなど飛鳥寺をはるかに上回る規模をもった大寺院でした。この寺に葺かれた瓦は、蓮弁の中に子葉を重ねたもので、単弁蓮華文と呼ばれています。また百済大寺と同様に、朝廷が造営した四大官寺のひとつである川原寺の軒瓦は、蓮弁が二つ連なったものを一単位とする複弁蓮華文となっています。 白鳳時代に建立された和歌山県上野廃寺からも、八葉復弁蓮華文の丸瓦が出土しています。天平13(741)年には、聖武天皇の詔(みことのり)により、国分寺や国分尼寺が建立されることとなり、瓦葺きの大きな寺院が全国に造られはじめます。また天平15(743)年、聖武天皇が盧舎那大仏造立の勅願を発布し、国全体を護る寺として総力をあげて造営された東大寺からも、八葉復弁蓮華文瓦が出土しています。このように古代の遺跡から瓦が出土するということは、その場所で国家的な事業が行われた証拠と考えることができると思います。神亀元(724)年に創建されたという多賀城跡からも、八葉重弁蓮華文軒丸瓦が発見されています。これは多賀城創建時の軒丸瓦とされています。 この八葉復弁蓮華文は朝鮮半島でも同じデザインのものが見つかっていますので、このデザインは百済人によりもたらされものと考えるべきなのでしょう。(2008/11/22、日本と朝鮮半島2000年 第四回 そして日本が生まれた〜白村江(はくすきのえ)の敗戦から律令国家へ。NHKより) 清水台で見つかった瓦の模様は六葉復弁蓮華文ですが、時代が下がるにつれて単純化され、結果として飛鳥寺のものとほぼ同じ八葉の素弁蓮華文に戻っています、不思議な巡り合わせです。そしてこの瓦製造の古窯跡が、麓山公園周辺から発見されています。 2010年、国指定の史跡になった白河官衙遺跡群の廃寺は、奈良の法隆寺と同じ伽藍配置であり、須賀川の上人壇廃寺も中門、金堂、講堂を持つ伽藍配置だったそうです。ということは、清水台遺跡もこれらと似た配置の建物があったとも考えられます。もしそうだとしたら、素晴らしい話ですよね。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.01
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