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北の元寇 5逆修碑 マモーなどの言葉が、なぜ長い年を経て、福島県でも語り伝えられてきたのでしょうか? 考えられることは、この地方からも蒙古軍と戦うための兵士たちが連れて行かれたのではないかということです。平安時代、すでに防人(さきもり)としてこの周辺の人たちが九州などに派遣されていたことを考えれば、津軽に派遣されることはあり得ることだと思われます。そして戻って来た兵士たちが、凄惨な戦いの様子を故郷に伝えたとも・・・。 この地方にも、少なくない数の逆修碑が残されています。逆修供養とは、『死後に修すべき仏事を修す』ことを言い、戦いに出て行く時など自分たちを祀り、祈った上で出陣したときの碑です。これらの碑は平和な時代に作られたとは思えないから、蒙古襲来と関係があると考えてもよいのではないでしょうか。 そう考えてくると、次にあるような年代の逆修碑は、三度目の蒙古襲来を恐れて九州防衛のため出兵させられた人か、はたまた『北日本への蒙古襲来』に対応する兵士として召集された人のものなのかのどちらかに該当するのではないかと思われます。 関根供養塔 弘安元年(1278) 郡山市西田町 弘安六年(1283) 郡山市安積町 上舞木供養塔銘 弘安七年(1284) 三春町 浮彫三尊来迎像 弘安八年(1285) 郡山市富田町 逆修碑・逆修供養 弘安八年(1285) 泉崎村 年代不詳 須賀川市岩瀬 安東一族と『北日本への蒙古襲来』に関して、東日流(つがる)外三郡誌大要の766頁に次の記述があります。 これぞの真心、神に通じ、神風起こりて国難を除きけるは、 人をして上下を造らず睦ぶ心に神ぞ救済すと曰ふ。この年 東日流にては、元船十二艘漂着し、『元兵、山にこもれる』も、 安東一族に誅され、また救われたり。・…中略・・… 注 『 』 筆者 これは九州への蒙古襲来の際、安東水軍が出撃した証拠とされる文言ですが、この『東日流外三郡誌』自体が贋作ではないかと疑われていることから、そのまま鵜呑みにする訳にはいかないと思われます。しかしこれは骨嵬(くい)軍、つまり三春秋田氏の祖とされる安東氏と蒙古兵が津軽で戦った際に、安東氏の勝利を表しているようにも思えるからです。しかも津軽には、『対馬』『津島』『若狭』『加賀』『能登』『越前』『越後』『輪島』などの姓が多くみられるというのも興味深いことです。またこの記述の中で、『元兵、山にこもれる』という部分が子守唄の内容と合っていることから言うと、東日流外三郡誌の記述は本当である可能性も捨て切れません。 時代は下がりますが、土佐光信(永享六年・1434?〜大永五年・1525)による清水寺縁起の蝦夷の絵は、耳までさけた口と尖った耳をもつ邪鬼、仏敵として描かれています。土佐光信は、二回目の元寇、つまり弘安の役(1281年)より153年後に生まれていますから、当然見て画いた訳ではなく、世上の話などを元にしたものと思われます。この絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)(筆者不明の全2巻の絵巻物)を思わせる蒙古的な弓や盾を持ち、海上の大船から小舟に乗り移って攻める構図です。たしかに三春町史がいうように、魔蒙(マモー)を思わせる絵です。 ところでこのマモー、この単語を聞いたことのない若い方でも、モンキー パンチのルパン三世と言ったら気づかれる方もおられるのではないでしょうか。銭形警部、不二子ちゃんのルパン三世です。ここでマモーは、一万年も前から自己を複製し続けてきた複製人間・クローンとして、さらに永遠の命を得た神を自称した常識を超えた魔物として描かれています。この作者のモンキー・パンチの本名は加藤一彦氏、北海道厚岸郡浜中町の出身です。浜中町は根室半島の南、北海道の東端にあります。これは私の想像ですが、この地にも蒙古襲来の古い記憶があったことから、彼は霧多布岬の荒々しい奇岩と風景とを組み合わせ、この魔物の名『マモー』を思いついたのかも知れません。このことを知りたいと思い、出版社を通じて作者に問い合わせをしてみましたが、残念ながらご返事を頂くことが出来ませんでした。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.01.21
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北の元寇 4ねぶたとねむった流し ある日私は新聞紙上で、郡山女子大教授で民俗学者の野沢謙治氏が書かれた『みんゆう随想』を目にしました。それには次のように記されていたのです。 (前略)この『ねむった流し』は青森や弘前で盛大に行われ るネブタやネプタと同じものであり、観光化しているネブタ やネプタも、本来は地域の子どもたちが担うケガレを川に流 す行事であった。(中略)ネムタ流しの眠りが悪いのは、起き ていなければならないときに眠ってしまい、目覚めぬままに 寝込んでしまうからである。(中略)一方「豆葉つっかかれ」 は、豆の葉が流れないで川岸にとどまることである。 (後略) これを読んだ私は、『北日本への蒙古襲来』と関係があるのではないかという想像に襲われ、その確認のため、早速、学校に野沢先生をお訪ねしてみました。先生は、「郡山市田村町守山の西河原地区に、平成15年より毎年旧暦の7月6日、つまり『七夕祭り』の前日の六日に、その名も『ねむった流し』という行事を復活させた。この行事は、川の上手と下手に一間四方、高さ1メートルほどの台を作り、その四方にネムの枝を立てます。そして夕方、浴衣姿の小学五・六年生の男女10人ほどが二組に分かれてこれらの台に上がり、太鼓やブリキ缶を竹の棒で叩く。しばらくしてその台に再び上がった子どもたちはネムの葉と豆の葉を持ち、『ネムッパ流れろ、マメッパつっかかれ』と唱えながら交互に川に投げる行事である」と言われました。 当日、私はその行事を見に行ってみました。主催した田村町史談会長の吉川貞司氏によると、「山形、秋田、青森県にも同じ行事があります。弘前市史には、『ねぶた祭り』は『ねむり流し』から始まったのだから、古い呼び名は『ねむた流し』または『ねぶた流し』であった、とある」と言われたのです。この話は地域的に見ても、越(アマメハギ・新潟県~福井県)、出羽(アマハゲ・山形県遊佐町)、陸奥(ナゴメハギ・秋田県能代市)と言うように、『ねぶた祭り』は各地にあり、ねぶたの語源は一般に『眠た』とされています。しかもそれらの『ねぶた祭り』には、『ねぶた流れろ』『まめの葉残れ』という囃子(はやし)があるのだそうです。これは守山の囃子と全く同じです。『ねぶた』は『賊・土着人』を表し、豆の葉とは『忠義な味方』だとする説が有力です。 この守山と同根ではないかとされる青森の『ねぶた祭り』は、奈良時代に中国から伝わった『七夕祭』や夏に死者の霊を迎える『お盆』、さらには秋の収穫を迎える前に農作業の邪魔になる眠気をはらう『眠り流し』などの行事の影響を受け、青森独自の変化を遂げていった祭りとされています。 青森では藩政時代以前から、7月になると子供たちが2メートルから3メートルくらいの竿に灯篭を吊して,『七夕祭』と書き,上に小ザサやススキを束ねて、「ねむたコ流れろ,豆の葉さとっつぱれ」とはやしたてながら村を練り歩く行事があるそうです。これは『眠気よ流れてしまえ,豆の葉は流れないで川岸に留まれ』という意味で,大人たちが笛や太鼓ではやすのです。こうしてこの時期にありがちな仕事中の眠気を払い、豆は『マメに働く』という意味で使われ、また津軽弁で『眠い』ということを『ねんぶて』と言うことから,これが訛って『ねぶた』というようになったのではという説もあるそうです。このかけ声と意味は、守山のものとまったく同じなのです。歴史フィクション作家の八切止夫氏は、次のような説を提示しています。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東 大将軍・紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ田 子の浦(静岡県)まで攻め込んだ阿弖流為という王がいた。 その後、坂上田村麻呂らと十二年に渡って戦ったが最後には 制圧された。阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され斬首 されたが、東北に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らさ れ生きながらに埋められたとされている。その上に土をかけ、 降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北 三大奇祭の『ねぶた(根蓋)』の起こりである。つまり 『根(死)』の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』というこ とである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車 を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとある が、踏んづける恰好はしないし、田村麻呂が題材として登場 することは稀である。『ねぶた』の起源の一つに田村麻呂伝説 があるが、これは一般に田村麻呂が知られるようになってか ら登場するようになったと考えられる。 この文に関連しますが、『ねぶた』の山車の回りを大勢のハネトと言われる人たちが、「ラッセラー・ラッセラー」の掛け声と共に飛び跳ねます。これが土をかぶせた蓋を踏み固める姿であるという説もあります。 ところで昔から日本海側の各地では、7月7日の夜に七夕祭りやけがれを川や海に流す禊(みそぎ)の行事がありました。それは『ねぶた祭り』と同じように、7日の夜に『ねぶた人形』を川や海へ流す習慣であったそうです。禊の行事が、能登半島から北の日本海沿岸に多いという事実に着目すると、海流との関係が考えられます。日本海には、沿海州寒流と北鮮寒流が極東ロシアの日本海沿岸から北朝鮮沿岸を下って対馬暖流に接続し、そこから日本沿岸を反時計回りに流れるリマン海流があります。この対馬暖流を利用すれば比較的小さい船でもウルルン島(鬱陵島・韓国領)から竹島(日本領)を経て島伝いに若狭湾へ、さらには能登半島以北の、いわゆる越の国(石川、富山、新潟県)以北の沿岸に漂着する可能性が高いと言われています。海流に乗った渡海は、予想外に容易であったとされます。すでに6世紀半ば以降には東日本特有の牧馬畑作農耕文化が各地に定着していたという事実が、このルートを使用した証拠になると考えられています。 舟で日本へ海を渡って来た渡来人たち(なぜ日本に渡ろうとしたかは不明)が、能登半島までは何とか眠らないで海を渡り、能登半島を過ぎたらどこかに『つっかかって』、つまり引っかかって上陸することができるという意味が、各地の唱えごとになったのではないでしょうか。すると『ねむった流し』の終着地は津軽であり、『ねぶた』であるということになります。 2015年の10月から11月にかけて、北朝鮮人民軍の銘のある小さな漁船が11隻、相次いで日本海側に漂流してきました。調査によれば、それらの漁船乗組員の死亡推定時期は、1ヶ月から3ヶ月経過したらしく、すでに白骨化したものもあったそうです。それらの舟のすべてが若狭湾(京都府〜福井県)から北で見つかっています。それは耕耘機のエンジンを積んだ長さ8メートルほどのボートで、とても大洋に漕ぎ出せるような代物ではなかったといわれます。このように対馬暖流に乗れば日本に着けるという実例から、古い時代でも朝鮮からある程度楽に、日本に着いたと考えられます。 この『ねむった流し』の習慣は土地によって形を変え、独自の祭りになったようですが共通点も多く、昔、京都の文化が日本海を北上して津軽へ運ばれたのではないかという説が有力となっています。これらのことが記録として表れたのは明治5年であって,それまでは『ねふた』『弥むた』『ねぷた』『ねむった流し』など、呼び方が23種類もあったと言われますから、守山の『ねむった流し』は、日本海側から伝わってきたものであったのかも知れません。ともかく日本海側の各地の唱え方と守山や青森とのそれとは、まったく同じなのです。しかも守山は、海とは接していないのです。 この『ねぶた』と『ねむった流し』の間に、もう一つ想像される不思議なことがあります。それは、青森の『ねぶた祭り』は七夕の灯籠流しの変形であろうという民俗学的な見方があるのですが、その上で、『青森ねぶた』は田村麻呂の蝦夷征討伝説に基づいていると伝えられているのです。ただし田村麻呂が青森まで遠征したという史実はありません。ところが守山にも、数多くの田村麻呂伝説が伝えられているのですが、ここにも田村麻呂が来たという史実がないのです。それなのにこの双方に、『青森ねぶた』と『守山ねむった流し』の行事が残されているのです。ただし『青森ねぶた』が、田村麻呂の大武丸討伐を祝う祭りであったとすれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りということになるのですが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、特に深い意味はなさそうです。 『ねむった流し』と『ねぶた祭り』、そして『なまはげ』と『お人形様』、さらにそれらの背後に見え隠れする田村麻呂伝説は、何を意味するのでしょうか。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.01.11
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一富士、二鷹、三なすび 初夢に見ると縁起が良いとされるものに、『一富士、二鷹、三なすび』があります。文献においての初出は、平安末期の西行法師の歌集『山家集』でした。しかし『山家集』では、暦の上の新年とは無関係に、節分から立春の夜に見る夢を初夢としていたようです。 その後、暦の上の元日を新年の始まりと考えるようになったのですが、『正月2日』の夜となったのは、大晦日から元日にかけての夜は眠らないという風習があったことが理由とされています。 この『一富士、二鷹、三なすび』のいわれについては、江戸時代の最も古い富士講組織の一つが駒込の富士神社にあったことから、鷹は神社の周辺に鷹匠屋敷があったことから、そして駒込の茄子が名産品であったことに由来するとされます。 この夢の伝えの起源については、次のような諸説があげられています。 1:徳川家に縁のある駿河国で高い山の順として富士山、次 に愛鷹山塊の越前岳があり、また初物の茄子の値段が高 かったからという説。 2:徳川家康が富士山や鷹狩り、それに茄子の初物を好んだ からという説。 3:富士は日本一高い山、鷹は賢くて強い鳥、茄子は事を 『成す』という意味からという説。 4:富士は「無事」、鷹は高い所を飛ぶ、茄子は事を 『成す』という掛け言葉からという説。 そして極めつけは、江戸時代の中頃から「日本三大仇討ち」として喧伝(けんでん)されてきた『曾我兄弟の仇討ち(富士の裾野)』、『赤穂浪士の討ち入り(赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」)、『荒木又右衛門の伊賀(三重県)越えの仇討ち(伊賀国は茄子の産地)』から言われたとされています。 この吉夢のいわれの一つに、源頼朝が主宰した『富士』の裾野で『鷹』を使った巻狩りが行われた際、曽我兄弟の仇討ちが同じタイミングで『成』ったというのがあります。その時の犠牲者が、郡山最初の領主とされる伊東祐長の父の工藤祐経であったのです。これは、予想外のことでした。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.01.01
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