全3件 (3件中 1-3件目)
1
戊辰150年・新聞記事福島民報誌の特集記事『戊辰150年』の、取材を受けました。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.01.17
コメント(0)
高田騒動と三春藩 三春町史2巻91頁、秋田輝季の項に、次の記述がある。 『万治元年(1658)七月、輝季は十歳にして四代将軍徳川家綱に初見をし、寛文二年(1662)の暮れに従五位下信濃守に叙任された。延宝四年(1676)、父盛季が大坂城中で倒れると上坂し、父の最後をみとった。輝季はそのまま大坂城に在番し、同年三月、大坂にて家督を許されている。公役中の特筆事項は、越後騒動にあたって、天和元年(1682)、その中心人物小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預り、翌二年に高田城在番を命じられて高田に出張した。』くどいようだが、ここに出てくる本多不伯は、高田騒動において切腹させられた小栗美作守の兄にあたる。しかしこの人物の三春での様子などについて、三春町史からはまったく見えて来ない。なお在番とは、江戸時代、大名が改易される際に、他の大名が幕府の命令で無主となった城地を守る役のことである。 大名の改易が発令されると、幕府は該当する大名の居城と領知を接収するための要員を選定し、現地に派遣する必要があった。高田藩の場合は、改易後に新たな領主が入るまでの六年間は『在番時代』と呼ばれ、2名の大名が一年交代で高田城を守衛した。改易は領主と家臣、居城、領国などの解体を伴い、大名の無力化を意味する。このため一つ間違えば反乱の原因となるため、幕府側も周到な準備や配慮を行っている。これは改易を契機とする抗戦を予防するためであり、幕府は反乱の芽を摘み取るために細心の注意を払って改易を行った。改易処分が幕府から高田藩に伝わると、高田藩では厳重な警備体制が敷かれた。高田藩に領地の接する大名も、何かが起きては大変ということで、自衛的に藩境に軍勢を配置し、警戒態勢をとった。その一方で、幕府と高田藩の家老などの重臣との間でも打ち合わせをしている。ここの打ち合わせが上手くいかないと、高田藩松平家の家臣が篭城して武力衝突に発展する可能性があるのである。しかしいずれにせよ、武家の原則である「喧嘩両成敗」を最重要視したものであった。 三春町史では詳細が不明なので、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみた。すると藤井典子学芸員から、次のような返事があった。『高田騒動の件ですが、三春町史にはたいした記述は無いと思います。高田騒動の際の三春藩の動き(高田在番)に関する資料はまとまったものは無いと思います。東北大学附属図書館の秋田家史料に若干含まれていると思いますが、最近のものでは上越市史に詳しい記載がありますし、在番関係では相馬藩の史料(相馬藩世紀)にもやや詳しい記載があります』。そこで『相馬藩世紀』を相馬図書館からとりよせ、チェックしてみた。三春藩も関与したこの事件における高田城在番と、本多不伯を三春城下に預ったことについての記述は、ここにも全くなかった。その後も、三春歴史民俗資料館より提供を受けた白峰旬氏の論文、『天和元年の越後国高田純次受け取りについて』および『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』などを参考にして、調べを進めてみた。 そもそも高田騒動とは、何であったのか。一言で言えば、それは越後高田藩(新潟県上越市)二十六万石の後継ぎをめぐっての騒動のことである。お家騒動とは、江戸時代の大名家における内紛のことを指す。抗争の原因として最も多いのは、藩主の後継を巡る家臣間の対立であった。とかくどこのお家騒動でも、その内容はややこしい。いやそのややこしさこそが、お家騒動の原因となっていったのかも知れない。そのややこしい話をかいつまむと、次のようなものであった。 延宝二年(1674)、高田藩主の松平光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。そのため筆頭家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子、15歳の万徳丸を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に拝謁して三河守綱国となった。これで事が済めば問題はなかったのであるが、市正の弟の永見大蔵(ながみおおくら)や家老荻田主馬らが、「美作がわが子の大六を光長の嗣子にしようとしたが見込みがないので,元服もしていない子供の万徳丸を立ててお家を乗っ取ろうとしている」と騒ぎ出したことから,その後も後継者の妥当性について意見が混乱した。そのため藩政を執っていた小栗美作は、永見大蔵と、彼と結んだ藩士と対立していた。 延宝七年(1679)正月、永見大蔵らは藩主光長に目通りをして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の隠居を要求した。この要求に屈した光長は、小栗美作に隠居を命じた。やむなく美作は自主的に隠居を願い出て、子の大六に家督を譲った。それにも関わらず家臣たちの騒ぎが収まらず、事態の収拾ができなくなった光長は、大老の酒井忠清(さかいただきよ)に裁定を訴え出たことで、騒動が表面化することとなった。 翌年の五月、4代将軍家綱が死去し、ただちに弟である綱吉が5代将軍に就任した。綱吉は、「左様せい様」と陰口されるほど家綱時代に下落した将軍権威の向上に努め、すでに堀田正俊を片腕に処分が確定していた高田藩の継承問題を自身で裁定し直し、積極的に政治に乗り出したのである。そのために高田藩裁定が十二月になって始まったのであるが詮議は難航、年を越した天和元年(1681)六月二十六日に以下の裁定を下された。すなわち、松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして領地を没収改易とされて(滋賀県)彦根藩の江戸屋敷に預けとなったが、そののち、(愛媛県)松山藩へお預けの命が下り、ここでの蟄居処分となった。ちなみに綱吉は、元禄十四年(1701)には、赤穂藩主・浅野内匠頭の即日切腹と言う判断もしている。 一方で、高田藩を継いだはずの松平綱国(万徳丸)も、(広島県)福山藩へ預けられ、しかも小栗美作とその子の大六は切腹、その親族と一派の者は流罪、大名家へお預け、追放などとなった。その上で首謀者の永見大蔵、荻田本繁は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島にそれぞれ島流しとなり、その他の者も大名家お預けとなった。この判決に対して永見大蔵派は、これは小栗美作が幕府大老へ贈賄したことによる片手落ちの判決であると憤り、両者の争いは更に激化していった。このような事態に絶望した高田藩士250名は自殺し、他の多くが他国へ流出したという。高田藩内は、混乱の極みに達していた。このような状況の中で、幕府側の行動は早かった。 この高田藩改易にあたり、老中の大久保忠朝が総責任者とされ、同じく老中の稲葉正則 、堀田正俊の指示を受け、親族である(愛媛県)宇和島藩主 伊達宗利が事後処理の窓口とされた。なお宇和島藩は、伊達政宗の長庶子 伊達秀宗により立藩された藩である。天和元年(1681)六月二十八日、高田城受取の任命が富山藩主の前田正甫(まえだまさとし)に出された。正甫は受書を提出し、軍役人数4350人余りをもって富山を出発した。なおこの軍役高と扶持人数の関係は、在番大名の場合、一万石につき150人であったから、三春藩秋田輝季は役高三万五千石、525人となる。なおこの先、藩主名を併記すると内容が混乱するので、あえて藩名で統一する。 高田藩領および高田城の接収には、富山藩といまの新潟県の村上藩と長岡藩が選ばれた。幕府からの上意伝達の上使としては、大和郡山藩(奈良県)と幕府奏者番が、また城受け取り目付として、幕府使番の2名と勘定奉行の1名更に大目付1名が派遣された。彼らは出発前から緊密に連絡を取り、動員する人数の確認や、各人員らの一斉出立により道中が混雑しないように時期をずらしつつ、高田城郊外のある地点に集結するなど細かな打ち合わせを行った。このように高田城受取りが通常の改易と違って厳重かつ大人数になったのは、高田藩の石高の大きさや松平光長の徳川親藩としての格式を考慮した結果とされる。 各藩の役人たちは、天和元年七月二十四日までに高田郊外に集結、上使の松平直之の下で七月二十六日、高田城は接収された。支城の糸魚川城も、村松藩(新潟県五泉市)と目付の岩瀬氏勝により接収され、翌七月二十八日には破却されている。八月四日、高田での火事の際の消防活動は、在番の松本藩(長野県)と新発田藩(新潟県)に命じられた。八月十日、この在番二藩以外の藩は、江戸への帰途についた。前述の三春町史によれば、何月かは不明であるが、この年に、高田藩小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預けられている。三春藩が次の高田在番になることが、示唆されていたのであろうか・ 三春歴史民俗資料館より教示された相馬藩世紀、および同館より提供された『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』によれば、天和二年(1682)一月十九日 中村藩(相馬市)は高田城在番を命じられた。そこで二月十四日、中村藩は相番となる三春藩に使者を送り、二十二日には三春藩の使者が中村藩へ赴いた。また中村藩は家中の者に、江戸から越後までと高田から江戸までへの道中検分、更には佐野街道を経て中村までの道中検分を申しつけている。中村藩は四月三日に江戸に入り、参勤のお礼を済ませた。二十三日には老中 戸田忠政へ、相番の三春藩と同道で高田へ出立の日限を伺い、その出発日は中村藩が五月十日、三春藩が翌十一日と決定されるとともに、両藩は高田城在番の起請文を提出した。 四月九日の朝、三春藩は中村藩の目付と面会をし、高田の様子を確認のための伝言及び書面を受け取った。それによると、中村藩が担当する番所は、関町口、土橋、上田銀山、越中との出入口である市振関所であり、三春藩のそれは荒川口、陀羅尼口、馬出、材木蔵、塩木蔵、蝋點蔵、山屋敷、下越後街道の出入口である鉢崎関所とされた。また信州との出入口である関川関所は、15日交代で、中村藩、三春藩の相番と定められた。五月二日、中村藩家臣が江戸より高田へ向けて出発した。ところがその八日、中村藩主の相馬昌胤は病気のため江戸出発を延期したのである。 五月十日、高田での扶持給付に関する事柄についての書状一通が、三春藩より中村藩へ遣わされたという記述がある。これは三春藩が受け取って、中村藩へ渡したということなのであろうか。翌日、中村藩の相馬昌胤は病をおし、一日遅れで江戸を出発した。そして五月十七日、相馬昌胤が高田に到着したその翌日、後を追うかのように、三春藩の秋田輝季が高田に到着した。その昼過ぎに相馬昌胤が秋田輝季を訪問、先任の松本藩と新発田藩との在番交代が決められた。 五月十九日 相馬昌胤と秋田輝季が同道して高田城へ入り、本丸と二の丸を受け取った。その二十一日には三春藩の人数が行列をもって大手より入り、三の丸の交代が済んだ。この三の丸の引き渡しが済んだのち、本丸・二の丸が中村藩に引き渡された。在番の交代についても、任命と同様、老中奉書により命じられていた。 貞享元年(1684)正月二十八日、高田城にいた中村藩主相馬昌胤および三春藩主秋田輝季宛に、老中奉書が届いた。この在番は一年交代であるため、翌貞享二年には後任大名ヘの引き継ぎがはじまることになっていた。そこには、中村藩に代わって棚倉藩(福島県)が、また三春藩に代わって亀田藩(秋田県由利本荘市)が申し付けられたことが記されていた。これにより棚倉藩は中村藩へ、また亀田藩からは三春藩へ飛脚が派遣されている。そして二月二十七日には、家老1人と他に3〜4人、その他に双方が受け取る城外・遠所の番所、在番中の逗留場所が記された『覚書』が、中村藩・三春藩からそれぞれに出された。それによると、棚倉藩は対面所、亀田藩は安藤次左衞門屋敷へ逗留するように申付けられ、また同日、中村藩から棚倉藩へ詳細な『覚』が出され、三春藩からも同様な『覚』が亀田藩へ渡された。その『覚』は、詳細なものであった。煩雑さを顧みずに記すと、次のようなものであった。 『三春藩から亀田藩が受け取る城内外の番所とその人数は、追手門に物頭3人・札改歩行士2人・足軽25人・小頭2人・長柄者10人、それに鉄砲20挺・弓10張・長柄10本、作事門には給人3人・足軽10人、千人夫小屋には足軽4人、源松院屋敷には足軽4人、南門には物頭3人・長柄者10人・札改歩行士2人・足軽15人・小頭2人・長柄者10人、喰違門には給人2人・足軽5人・中間2人、塩硝蔵には物頭3人・足軽10人・小頭1人・長柄者5人、それに鉄砲10挺・弓5張・長柄10本、鍾馗門には足軽4人・中間2人、城米蔵には給人3人・足軽10人、小頭1人、長柄者5人、狐口門には歩行士2人・足軽4人・、中間2人、それと鉄砲2挺、材木蔵には足軽4人、蝋點蔵には足軽2人、出丸塩木蔵には足軽2人・中間2人、それと長柄2本、荒川口には足軽4人・中間2人、陀羅尼口には足軽4人・中間2人、山屋敷には給人2人・歩行士2人・足軽6人・中間4人・それに鑓3本と鉄砲2挺、鉢崎には歩行士2人・足軽2人、関川には給人4人・足軽8人・長柄者7人と鉄砲5挺と鑓5本、廻場には物頭3人・歩行士4人・足軽長柄16人、馬出木戸口には足軽4人であった。そして亀田藩は、六百人扶持であった。 五月十七日には亀田藩が、十八日には棚倉藩が高田へ到着し、十九日、高田城本丸において、在番交代の老中奉書が中村藩と三春藩に渡された。二十一日、三の丸は三春藩と亀田藩の間で、本丸は中村藩と棚倉藩の間で引き継がれた。これにより、三春藩と中村藩が高田を後にした。その二十七日、中村藩は江戸へ到着、すぐ老中へ報告をし。閏五月五日には将軍綱吉に対して参府の御礼を済ませた。そして六月二十三日、国元の中村へ赴く暇を将軍綱吉より与えられ、六月二十五日には 相馬中村へ出発した。資料が乏しいため三春藩の行動が見えてこないが、おそらく同じような動きをしていたと思われる。 ところで高田騒動の中心人物、小栗美作と大六は切腹、対立していた荻田主馬らは八丈島へ流罪となった。高田藩主の松平光長は家中の監督不行き届きで改易、松山藩お預かりという厳しい処分が決まったが後に罪を許され、復位復官して合力米三万俵の俸禄が与えられた。しかし世継の綱国とは不和となり、病弱を理由に廃嫡した。しかし小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、越前松平家一門の松平直矩(なおのり)の子宣富(のぶとみ)を光長の養子とした。元禄十年(1697)、光長は隠居したが、翌年に宣富は津山藩(岡山県津山市)十万石に封じられ、減封・加増などの浮沈があったが、津山藩主松平家として幕末まで存続した。 いずれにしても参考にした文書は、高田藩史や相馬藩世紀、『白峰旬氏の論文、天和元年の越後国高田純次受け取りについて』、それに『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』にすぎない。しかしそこから確認できたのは高田騒動の詳細であり相馬藩の内情であった。三春藩の記述は、全く少ないのである。ただ三春藩もこれらの資料により、相馬藩とほぼ同じ行動をとっていたと考えられる。しかし残念ながら、高田騒動についての三春藩の動静が、三春に残されていない。 三春藩が預かっていたことで気になっていた本多不伯の動静であるが、三春歴史民俗資料館の調査により、天和元年(1681)七月に三春に着き、元禄十年(1697)六月十六日死去ということが分かった。幕府の検使御徒目付の田辺九兵衛と都築半兵衛により、紫雲寺へ葬られたのであるが、この間、約十六年、三春にいたことになる。いずれにしても、三春藩が高田騒動に関して相当の役を担ったことは、間違いのない事実である。なお三春歴史民俗資料館の平田禎文氏は、次の書籍を参考にされたという。 2007 史学論叢書第37号〜天和元年の越後高田城受け取り について 別府大学 2009 近世大名の権力編成と家意識 佐藤宏之 吉川弘文館 ただ不思議なことは、新津図書館で調べた次の書籍に、高田騒動の城代時代の詳細が載っていないことである。 2008 シリーズ藩物語 高田藩 村山和夫 現代書館 2004 上越市史 通史4 近世2 上越市史編纂委員会 東京法令出版 1914 高田市史 高田市教育会 秀英舎 2015 藩史大辞典3巻 木村礎 藤野保 村上直 雄山閣ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.01.15
コメント(0)
郡山の製糸 この地方において、古くから桑を植え、蚕を育てて絹糸を取り、絹を織って生計の足しにしていた農家は少なくありませんでした。このような郡山村に、はじめて会社組織の製糸会社が出来たのは、明治十三年(1880)に設立された正製(セイセイ)組であり、翌年の真製社でした。しかしこの頃の製糸会社はまだ機械を使用しておらず、一般農家が行っていたと同じ座繰製糸という方法をとっていました。安積疎水が開通し、沼上水力発電所が建設されると、その電力と豊富な疎水の水を利用して、郡山絹糸紡績会社が発足しました。その後も相次いで、片倉組や小口組が進出し、日東紡績などに発展していきました。明治期以後の郡山は、安積疎水を利用した農業のみならず、工業都市としての性格を持つようになっていったのです。 絹の原料となる生糸は、蛾の一種であるカイコガの幼虫がサナギになるためにつむいだ繭を茹で、ごく細い絹糸を引き出して縒りあわせて作られるものですが、そのカイコの祖先は、東アジアに生息するクワコでした。これが中国大陸で家畜化されたというのが有力な説です。カイコは、野生に回帰する能力を完全に失った唯一の生物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができないのです。日本でも地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方が残っています。 世界においての絹の歴史は古く、すでに紀元前三千年頃の中国ではじまっていました。神話伝説によれば紀元前2460年頃、中国を統治した黄帝の后が、お湯の中に繭を落としてしまい、それを箸で拾い上げようとしたときに箸に巻きついてきたのが絹糸の発見となったと言われています。当時、絹糸を作る技術は門外不出とされ、絹織物の重さと同じ重さの金と交換していたと言われますから、貴重なものとされていたことが分かります。一説には紀元前六千年頃ともされていますが、少なくとも紀元前206年から紀元前8年の前漢の時代には、蚕室での蚕の卵の保管方法が確立しており、細々と続けられていた養蚕は、西暦1000年以後になってから、農村部においての生産が盛んになったのです。 一方、他の国々では絹の製法が分からなかったため、非常に古い時代から、絹は中国から陸路や海路で、インド、ペルシア方面に輸出されていました。これがシルクロード、つまり絹の道のはじまりでした。シルクロードの中国側起点は長安(西安市)、もしくは洛陽であり、欧州側はシリアのアンティオキアもしくはローマと見る説もありますが、日本がシルクロードの東端だったとする考え方もあります。紀元前千年頃の古代エジプト遺跡から、中国絹の断片が発見されています。古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、ローマが紀元前一世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国に達したのです。しかしローマでは、金の重さと同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、アウグストゥスが法令で絹製の衣類着用を禁止しました。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したのですが、それでも絹着用の流行は留まることはなかったといわれています。 六世紀になると、絹の製法は東ローマ帝国に入りました。中世のヨーロッパでは1146年にシチリア王国が自国での生産をはじめ、また絹貿易により発展するヴェネツィアを見て、イタリア各地で絹生産がはじまりました。フランスでもイタリアの絹職人をリヨンに招き絹生産をはじめました。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイギリスでは、何度も絹の国産化を計画したのですが蚕を育てる事に悉く失敗し、1619年になってようやく成功に漕ぎ着けました。しかし植民地であったアメリカが独立したため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが英清間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へと繋がっていく遠因となったとする説もあります。 日本には、絹の製法は弥生時代に伝わり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも、さまざまな織り方の絹織物や、日本茜や貝紫で染色されたものが見つかっています。このことから、すでに高い技術があったことが分かります。聖徳太子が制定したとされる十七条憲法に、「春から秋に至るまでは農桑の節なり」と記してあることから、すでに養蚕が広まっていたと考えられます。律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになったのですが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退していきました。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていたのです。しかし中国では、明代になると日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわりました。 養蚕関連についての日本での記述は、和銅五年(712)に編纂されたという古事記にさかのぼります。その古事記によりますと、蚕は女神の死体から生まれたことになっています。豊穣の女神である大気津比売(オウゲツヒメ)が、口や尻から食べ物をとりだすのを見た須左之男命は、自分に汚いものを食べさせようとしていると思い、怒って殺してしまいました。するとこの死んだ女神の体から、さまざまな穀物が生まれ、頭からは蚕が生まれたというのです。また日本書紀においては、イザナミノミコトが火の神カグツチを生んだために体を焼かれ、亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメは、後にカグツチと結ばれてワクムスビが生まれるのですが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという話があります。 三代実録には、仲哀天皇四年(195)に秦の始皇帝十一代の孫の功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物であるカイコの卵を奉納したとされ、また『古事記』の下巻に、蚕は韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ヌリノミ)が飼育していたもので、「一度は這(は)う虫になり、一度は太鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫、つまりカイコを、『民の竈』で知られる第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命(イワノヒメノミコト)に献上するという話が語られています。 日本では、江戸時代になっても養蚕が盛んにならなかった理由としては、製糸技術が稚拙だったほかに、元々幕府は農民が養蚕を営むのを嫌った、ということにもありました。それは何よりも食料確保を重視していたからで、農民が米や穀物以外の農業をするのは好まなかったからです。そこで桑畑が拡大しないように田んぼを桑畑に転換するのを禁止し、桑畑は山の斜面に限るということにしたのです。このようなこともあって、日本の生糸は質が悪く、高級呉服の布地には向かず、高級呉服に使う生糸は中国からの輸入品が当てられました。着物を呉服というのも中国の南部の呉の布の服という意味でした。そのため、江戸時代になると中国から輸入する生糸の量が膨大になり、たくさんの金銀が流出しました。それで幕府は、貿易を制限せざるをえませんでした。日本の生糸が粗悪だったのは、繭から糸にするのを人の手で作っていたことにもありました。これを糸取りといいます。この糸取りでは、繭から取り出す5~6本の細い糸を、唾で湿らせ指でよじるようにして一本の糸にしたのです。これを「撚り」(より)といいます。この仕事は細かい手仕事ですから、男性より女性の方が向いていました。しかも唾液が豊富に出るのは若い女性ですから、この糸取りは農家の若い女性の仕事でした。しかし、人の手でやりますからどうしても不ぞろいになります。そのため、繭が吐き出す糸は1000メートル以上もあるのですが、糸取りの最中にどうしても切れてしまいます。そこで糸を継ぐのですが、そうすると糸が太くなってしまいます。絹糸はできるだけ細く太さも均一なのが上質なのです。そのため国産の生糸は、質が悪い粗悪品とされ。京都の西陣などでは、国内産より中国産の生糸を使っていたのです。 初め幕府は、養蚕は春蚕(ハルゴ)だけを認めていました。江戸時代も中期になると秋蚕(アキゴ)も認めたのですが、それでも春と秋の年に二回だけでした。法制的には幕府の法律や政策は、天領にしか及びません。そのため実際は、どの藩も幕府の政策すべてを、そのまま自分の領地でも適用していました。ですから江戸時代の養蚕は、全国的に初めは春蚕だけ、中期になって秋蚕も行われるという状況でした。とくに二本松藩では、食料確保が最大の政策でしたから、安積郡域ではあまり行われませでした。しかし隣の田村郡域では、比較的盛んに行われていました。それが幕末から急に養蚕が盛んになり、明治になると、春、夏、秋、晩秋、晩々秋と年に5回もやる地域も出てきたのです。 しかし長年の生糸産業衰退の影響で、日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ませんでした。鎖国が行われ始めた寛永年間から、品質の改良が計られました。また幕府は、蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みたのです。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方にでも生糸や絹織物の産地が形成されたのです。この結果、貞享年間(1685)には、初めて江戸幕府による輸入規制が行われ、さらに八代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わずに生糸の生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と生産量はにおいて、遜色がなくなっていったのです。 養蚕をするには、金と労力がかかります。養蚕に金がかかるのは、蚕種を買うためです。それと桑畑の手入れが大変でした。江戸時代の肥料は人糞が主ですが、それでも金肥といって、魚から作る肥料を撒きました。蚕は孵化すると脱皮しながら成長しますが、その時には夜も寝ないで桑の葉を与えなければなりません。段々蚕が成長してくると、家中が足の踏み場もないくらいになり、食事は立ったままするということになります。養蚕が忙しいのは蚕に餌を与える作業があるからです。家族だけでは無理なので人を雇うのですが、そのためには手間賃を払わなければなりません。そこで借金をするのですが、そのようなこともあって、三春町や船引町には、銀行の先駆けとなる金融機関としての金貸しが、多くいたのです。 江戸時代においての福島県の養蚕は、一般に思われているほど盛んではなく、二本松市北部の旧東和町を除くと、さほど行われていませんでした。この地域で養蚕が行われていたのは、さらに北の川俣でした。その影響で、田村郡でも養蚕は行われていましたが、それでもタバコ栽培の方が盛んでした。安積郡では逢瀬村や三穂田村で細々と行われていたくらいで、ここ以外ではほとんど行われていなかったようです。その頃は、座繰りという器械で生糸にしたのですが、実はこれが発明されたのは明治になってからでした。生糸を染色して絹糸にし、これで織物に仕立てていたのです。 明暦年間(1655年~58年)になると、川俣の生糸商人による京都への生糸販売が行われました。川俣には、近江や信濃などからも商人が蚕の卵、真綿、絹製品を求めて買付けに集まり、活況を呈していました。安政二年(1773)には、蚕の卵に「奥州本場」又は「奥州種」の商標と鑑札をつけることが幕府から許可され、福島の地位が確立されていったのです。これ以降幕末から昭和に至るまで、養蚕と蚕種製造業は大いに栄え、全国的に見ても有数の蚕の卵の産地になっていったのです。 日本では、鎖国後も中国絹を必要としていたため、長崎には中国商船の来航が認められ、国内商人には糸割符(いとわっぷ)が導入されていました。糸割符とは、生糸輸入の方式で、江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えたもので、白糸割符とも言われました。鎖国は、外国文化の流入をきらって行われたといわれますがそうではなく、有力な輸出品がなかった日本は、貿易を制限しないと金銀が流出して経済が破綻してしまうからでした。そのため、管理貿易の必要性から鎖国をしたというのが実態です。 一方で長野県は、山国でありながら良い蚕の卵が手に入らないので、江戸時代の終わり頃まではさほど盛んでありませんでした。長野県で養蚕が可能になったのは福島の蚕の卵が入手できるようになった幕末からです。風土が大いに関係するらしく、どういうわけか川俣伊達地方の蚕の卵は病気になりにくかったというのです。そこで、長野県の養蚕農家はこの福島産の蚕種を購入して養蚕をしていました。ちなみにこの蚕種の開発は当たれば大もうけができるというので、あちこちの資産家が挑戦しました。しかし、たいていは失敗で、江戸時代までは大金持ちだったのに先祖が蚕種事業に手を出して失敗し、今ではすっかり貧乏になってしまったという話はよく聞きます。真偽のほどはわかりませんが、地方の没落した旧家の子孫が没落の理由にあげるのが決まってこの蚕の卵事業でした。 実は江戸時代の日本の養蚕業に大きく貢献したのは、福島の県北地方でした。どういうわけか、福島県では川俣地方だけは奈良時代から養蚕機織りが盛んだったのです。江戸時代には福島絹という名で有名でしたが、その福島絹もたぶん高級呉服の表地にはならず裏地に使われていたと考えられています。というのも、東日本の絹で京都の西陣に送られる絹布のほとんどは、裏地だったのです。 この頃東アジアに来航したポルトガル人は、日中間での絹貿易を仲介し、巨利を得ていました。日 幕末の開港前の限られた国内市場において、一定の発展をしていた製糸業は,開港を契機として海外の市場と結合し,生糸輸出の増加を通じて生産力を増大させていきました。このため、開港後は絹が日本の重要な輸出品となっていったのです。幕末から養蚕が活況を呈するようになったのは輸出のためでした。日本が開国すると、アメリカやヨーロッパの商人が日本に来て、手当たりしだいに繭をかき集めるようになりました。外国が日本の繭を求めたのは、当時ヨーロッパでは蚕の伝染病が流行し、壊滅的被害を受けていたからでした。そして為替相場が今とちがい、極端に日本の通貨が安く設定されていましたから、外国人からすれば驚くくらい安い値段で日本の繭が買え、逆に日本の養蚕農家は驚くほどの高い値段で売れたのです。しかしこれで困ったのは、西陣をはじめ各地の機織業者でした。まったく生糸が調達できなくなったのです。そこで、機織り産地では、明治になると銘仙とよばれる高級服地を開発しました。川俣地方でも事情は同じで、この時がもっとも苦しい時代でした。 養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する業務であり、製糸業とは、繭から生糸へ加工する業務です。この養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上での重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつであり、昭和の初めに至るまで日本最大の輸出商品となったのです。そして製糸業は外貨獲得産業として,明治以降の富国強兵政策を支える貿易・産業構造の一環を構成することになったのです。ほぼ前後して、中国でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められました。元々国内での需要と消費が多く、生産者も多かった日中両国での機械化による生産量の増大は、絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えたのです。なお、日本最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場の技術指導を行ったのは、フランス人技師であるポール・ブリュナーでした。 明治六年(1873)、岩倉使節団が米欧歴訪中にイタリアを訪問し、当時のイタリアの養蚕、生糸生産の様子を詳しく視察しています。なおアメリカのユタ州ソルトレイクでは、1856年にエリザベス ホイタッカーがイングランドから蚕の卵を輸入し、蚕にレタスを与えて育てていたがうまくいかず、1859年にフランスから桑の木を輸入してから一応の成功を見、絹のドレスを作るという実験段階にありました。また1863年にはオクターバー ウルセンバッハとその妻が、その他にも1867年にはポールとスザンナ カルデン夫妻がフランス式の養蚕に力を入れていたのですが、思うようではありませんでした。そこで1892年、ソルトレイクに滞在していた三春出身の勝沼富造が、ここのビーハイブ婦人会の依頼により、三春式?の養蚕法を教えています。 明治二十四年(1891)、日本第二の大都会、大阪に大阪馬車鉄道が開通する9年も前、三春馬車鉄道が郡山 三春間に開通しました。田村地方の生糸などの製品や、それを扱う商人たちの利用が多く、郡山からは出来たばかりの鉄道で、東京や横浜へ出掛けて行ったのです。なお同時期、三春には国立第93銀行が設立され、その横浜支店を通じて、輸出などに関しての為替業務などが行われていました。ちなみに現在、仙台市に本店をもつ七十七銀行がありますが、これは仙台に置かれた第七十七国立銀行がその前身でした。そして驚いたことには、次のようなことを、会津若松市の友人に聞いたことです。それも今年、平成二十九年、幾つもの少人数による無尽が、今も続いているというのです。 明治二十八年(1895)、輸出生糸の品位、正量などの検査を行う国の検査機関の生糸検査所が、横浜と神戸に設立されました。明治三十四年(1901)には閉鎖されましたが、昭和の初めには、輸出用生糸の大部分が、高品位となっていました。しかし第二次世界大戦で、日本は東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰しました。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになったのです。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っています。平成十年の統計によると、日本は世界第5位の生産高ですが、中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位のウズベキスタンも日本を大きく引き離しています。平成二十二年現在では、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は、国内では2社のみとなってしまいました。 郡山の絹の製糸業は、明治時代に入ると著しい発展を遂げました。安積疎水の開削と田村地方での養蚕が結びつき、郡山を中心に相次いで器械製糸工場が操業を開始したのです。明治三十二年には、日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業の発展と関係があったと言われています。ちなみに、群馬県富岡市の旧官営富岡製糸場が、明治五年十月に開業したのですが、富岡製糸場は、世界遺産に登録され、そして安積疎水も、日本の遺産に登録されました。現在の郡山市桑野、つまり旧桑野村の名は、開拓事業の中心地であった開成地区全域が養蚕のため、桑が植えられていたことからの地名です。生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったのですが、昭和四年(1929)以降の世界恐慌で世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化しました。 今でも郡山の山間地をまわると、年配者から昔は養蚕で儲かってよかったという話を聞きます。それは中山間地の農村には養蚕に代わる農業がなかったのと、養蚕は稲作とちがって借金でやるからでした。それでも養蚕を続けたのは、借金を返すためというより、養蚕をやめると今までの借金を精算しなくてはならなくなり、そうすると、返しきれないほどの借金が表面に出てしまうためでした。このあたりは、今の小さな会社の経営者が廃業したいけれど、借金があるから辞めるに辞められないというのとほぼ同じです。また養蚕というのは博打に似たところがあって、今年はダメでも来年は大当たりするかもしれないという期待があります。そこで戦後もしばらく続いていたというのが日本の養蚕の歴史でした。日本で養蚕がなくなるのは養蚕の経済性が失われたというより、昭和30年代の高度経済成長で、農村の人々にも新しい働き口ができたということの方が大きかったのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.01.04
コメント(4)
全3件 (3件中 1-3件目)
1