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奈良市にある采女神社に、次のような案内板がある。それには、『天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女が、猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為、祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭の当日は、采女神社本殿にて祭典が執行され、中秋の名月の月明りが猿沢の池に写る頃、龍頭船(りゅうずせん)と鷁首船(げきすせん)の二艘の船は、幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る』とあるが、この案内板には、郡山に関する文字はない。ところが奈良市の『奈良新発見伝』には、『福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住んでいました。奈良の都から葛城王が東北巡察使として彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮中に仕えさせることになりました。 美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けましたが、その寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えられています。池の南東には、采女が入水するときに衣服を掛けたという衣掛柳があり、北西には、采女神社があります。この采女神社は春姫が身を投げた池を見るのは嫌だといって後ろを向かれたということで、道のある池側とは反対の方向を向いています。ところで、この采女の出身地とされる郡山では、こんな風に伝えられています。 春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、衣を柳に掛けて身投げをしたように装い、故郷まで苦労して帰り着きました。しかし恋人は春姫を失ったことを悲しんで井戸で自殺をしていました。春姫もその井戸に身を投げてなくなったということです。』という話が載せられている。どうでしょうかこの『奈良新発見伝』にある話、この話にある『福島県の郡山市片平町』という地名と、ヒロインの名が同じ『春姫』であるということから、郡山で伝えられていた『采女物語』を参考にして作られた気配は濃厚である。ところがこれら郡山や奈良の『話』に関して原型の一つと思われるものが、天暦五年(951)頃に成立したとされる『大和物語の155段』に記載されているので、これを抄略してみる。 『むかし、大納言が美しい娘を持っていた。帝の嫁にと思っていたところ、大納言のもとで働く内舎人の一人だった男が、この娘に惚れて、恋にやつれて病気のようになってしまった。 とうとう「どうしても言いたいことが」と娘を呼び出して、「どうしたのでしょう」と出向いてきたところを、用意していた馬に乗せて、抱きかかえて奪い去り、そのまま、安積山まで逃げ延びて、住まいを作り、女を住まわせて年月を暮したが、とうとう身ごもってしまった。 そこで娘は男のいない間に、山の井戸に写った自分の姿を眺めると、かつての美しい姿とも思えない、恐ろしげな姿だったので、女は恥ずかしさにさいなまれ、 安積山 影さへ見ゆる 山の井 あさくは人を 思ふものかはと詠んで死んでしまった。帰ってきた男は、この和歌を見て途方に暮れ、和歌の思いを胸に、女のそばで死んだという。遠い昔話である。』 ここには『安積山のうた』があり、山の井戸に映ったのは安積山ではなく娘の顔になっている。すると『安積山のうた』にある『山ノ井』が写したのは山ではなく誰かの顔であったのではなかったかと想像できる。ところで、万葉集は8世紀頃に編まれたとされ、大和物語のそれは天暦五年(951)の頃とされるから、『大和物語』は万葉集よりほぼ150年後の作品となる。この大和物語の作者にはいろんな説があり、現在に至るも不明であるが、国文学者で元・大正大学教授の阿部俊子氏は、源順(みなもとのしたごう)(911〜983)を挙げて、次のように記しておられる。『第52代嵯峨天皇をその先祖とする源順の作品には、 あさましや あさかのぬまの さくらばな かすみこめても みせずもあるかがあり、さらに ゐても恋ひ ふしても恋ふる かひもなく かく浅ましく みゆる山の井がある。この歌の本歌は、万葉集にある安積山のうたです。源順は、村上天皇の命により、漢字のみで書かれた「万葉集」の短歌を、「平仮名で書かれた和歌」に置き換えた人物と推定されており、その置き換えは、約4500首の「万葉集」の歌のうち、4000首を越えると算定されています。さらに源順は、第一勅撰集「古今和歌集」に倣って、第二勅撰集「後撰和歌集」を編纂していますから、万葉集と古今集のことを熟知していたはずです。大和物語155段の『大納言の娘が安積山で死ぬ話(現代語訳福永武彦)』の中は、万葉集の官官接待に関するエピソードとは次元が異なる説話の中に、「安積山のうた」が出てくるのです。この「安積山のうた」を31首の短歌の折句に詠みこんだ源順の作品は、古今集仮名序の不自然さに注目せよという、後世への大変なメッセージなのかもしれません。』とあった。なおこの折句は、資料として、巻末に掲載しておく。 ところで、これらのことに関連するかどうかわからないが、第21代の雄略天皇の御代(456年〜479年)に、『伊勢の国の三重の采女』が、宴会で天皇に捧げる盃に木の葉が入っていることに気付かず酒を注いでしまい、天皇の怒りに触れて殺されそうになった。そこで采女は即興で天皇を讃えて繁栄を祈った歌を詠んだところ歌の出来が大層素晴らしかったので感心し、命拾いをしたという記述が古事記にあるという。古事記は万葉集より先に編纂されているから、この話などは、『安積山のうた』の左注の原型になったのではないかと思われるほど似た話である。なお三重県四日市市には、采女という地名がある。ともあれ、これらの話が縁となって、昭和四十六年に郡山市と奈良市は姉妹都市を締結し、毎年八月に開かれる『うねめ踊り』には奈良市から親善使節団が郡山市を訪れ、また仲秋の名月には郡山市から親善使節団が奈良市を訪問して両市の交流を深めている。しかしこの祭りの主人公である葛城王が、本当に郡山に来られたかは解明されていないが、福島県教育委員会の『うつくしま電子辞典』に、『8世紀前半(700〜750)、貴族の葛城王が陸奥国をおとずれた』と記述されている。これは事実なのであろうか。そこで私は、『葛城王』が実際に郡山へ来られる状況にあったのかを知るために、彼の経歴を調べてみた。ただしこれから先は、年代について分かり易くするため西暦年で追ってみた。
2023.12.20
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ところで郡山市史に、『詩に詠まれた安積山は額取山のことである』とある。そこで額取山を調べてみた。額取山は、青森県から栃木県に至る千メートル前後の峰々が連なる奥羽山脈の郡山市の西側に横たわる山である。標高は1108・7メートルで、登山コースは北側から登る磐梯熱海温泉口、東側から登る滝登山口、南側から登る御霊櫃峠口の3コースがある。ところがこの山に対して、東北大学名誉教授の高橋富雄氏は、その著書、『地方からの東北学』において、『当時の都人が思いを抱く安積の山とは一つしかなく、それは安達太良山以外にはないのではないか。安達太良山は万葉集に3首載っているようにみちのくを象徴する山の一つであり、まして天平時代の当時は、安達もまた安積郡の中に入っている頃であるから郡衙の高台から見る安達太良山は、まさに安積地方を代表する高峰だったろう』と書かれておられます。しかしそれなら、何故、『安積山のうた』を詠んだ人は、『安達太良山 影さえ見ゆる』としないで『安積山 影さえ見ゆる』としたのであろうか。近世以降になっても、安積山が安積郡内のどこにあったかが議論の対象とされてきた。これについて、天正十六年(1588)、仙台の『伊達治家記録』には、日和田の山が采女の歌に詠まれた安積山であると記している。また元禄二年(1689)、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で日和田の安積山を訪れているが、この日和田にあると思った山ノ井清水がここから三里も離れた帷子(片平)村にもあることを里人に聞いて、不思議に思ったと書いている。しかしどの文献にも、安積山の存在地の特定はされていないのである。これらのことから想像できることは、『安積山』とは何か別のもの、もしくは『事』をあらわそうとしたのではあるまいかということである。では一体それは、何なのであろうか。 私は図書館に行って、万葉集を確認してみた。この『安積山のうた』は、『陸奥国前采女某』の作として、万葉集の(16〜3807)にあり、その左に左注と言われるものが、次のように短く記されていた。 『右の歌伝へて云はく、葛城王、陸奥国に遣はされたる時に、国司の祇承、緩怠なること異に甚だし。ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり、左手に觴を捧げ、右手に水を持ち王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』 この左注とは、歌の次、つまり歌の左側に書かれた注釈のようなもので、『万葉集では、歌本体のほかに、歌の前につく題詞と、歌の後ろにつく解説の左注がつく。これら歌の解説をする左注は、歌がつくられた背景などを読者に教えるのが目的である』とあったのである。この説明から私は、ここにある左注を、そのまま膨らませて書かれたものが、『郡山の歴史』にある解説文であり、世間一般に伝えられている『采女物語』の原型となったのではないかと思った。しかし同時にこの左注の内容から言って、詠み人の釆女が記したものとは思えず、他の人が書いたものではないかと思った。そこで、万葉集の左注を、私なりに検討をしてみた。 1*『右の歌伝へて云はく』=伝えられている未詳の話。2*『葛城王、陸奥国に遣はされたる時に』=歴史書には、葛城王が郡山へ遣わされたという記述が無い。また都から郡山への道筋 となるはずの地方史にも、これに関する記述が見当たらないようである。3*『国司の祇承(しぞう・下向してきた勅使を接待する役)の緩怠なること異に甚だし』4*『ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ』5*『飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず』6*『ここに前の采女あり 風流(みや)びたる娘子なり』7*『左手に觴(しょう)(酒杯)を捧げ、右手に水を持ち』=宴席のため左手に盃を持っているのは当然として、右手に酒ではなく水を持 って行くのは不思議である。8*『王の膝を撃ちてこの歌を詠む』=この采女は、天皇に連なる身分の高い葛城王とは初対面のようであるが、このような失礼な ことができたものであろうか。9*『すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりといふ』=ここでは大勢の宴会ではなく、葛城王単身での宴を想像させる。 そしてこの歌は、『陸奥国前采女某』が詠み人とされている。しかし『某』とは名を特定できないということであろうから、『詠み人知らず』ということになるのではないだろうか。平成二十六年に出版された『郡山の歴史』に、垣内和孝氏は、『前采女は歌の作者ではなく詠者として登場しており、安積山の歌そのものは、これ以前から存在していたとの推定もある』と指摘しておられることもあるから、この左注は采女が書いたものではないと私は思っている。ではこの『陸奥国前采女某』とは、誰なのであろうか。 ところで采女には地方豪族の出身者が多く、容姿端麗で高い教養を持っていたと言われ、天皇のみが手を触れることが許される存在ということもあって、男性の憧れの対象となっていたという。 陸奥国からの采女については、『献上された豪族の娘たち』の著者の門脇禎二氏は、その95ページおよび97ページに、『陸奥国に対しても養老六年(722)以前のある時期には、采女を貢がせるようになったとあることと、安積山のうたが詠まれたのは、この年から、葛城王が橘の姓を与えられた天平八年の14年の間であろう』と推定されていることから、陸奥国より采女が貢がされたであろう期間は短期間であったことになる。ともあれ、その後の南北朝時代に執筆された『百寮訓要集』には、『采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。古今集などにも歌よみなどやさしきことども多し』と記載され、また室町末期の『官職秘抄』にも『ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり』との記述があるという。しかし私は、『その国々の受領』とは『都周辺の受領』ではないかと思っている。理由は、成長してからであれば美人の判断は容易であろうが、その成長までの過程で身についた地方での文化や素養そして言語が、天皇の傍らに仕える身として適宜なものであったのか、疑問に思っているからである。つまりいくら美人であるとは言っても、あえて都の文化から離れた陸奥や筑紫などの遠国から呼び寄せたものであろうか。なお、2014年に出版された『郡山の歴史』26ページに、『古代においては、中央と地方の格差は現代の我々が考える以上である。』とあるのは、これを推測するものとしてうなずけるものがある。
2023.12.10
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私は祭り太鼓の音に誘われて、郡山駅前の大通りへ出掛けて行った。そこでは大勢の観客の前で、奈良市からの親善使節団を先頭にして、『うねめ踊り』の流しが行われていた。「へ〜え。奈良からも来るんだ」 私は、かたわらの妻に言った。「そうねえ。郡山も有名になったわね」「ああ。ところで『安積山 影さえ見ゆる 山ノ井の』って歌、知っている?」「知っているわよ。郡山生まれですもの」「そうか、そうだよな。それじゃ聞くが、『山ノ井』ってなんだ?」「山ノ井? そうねえ・・・、山の中にある井戸かしらねえ・・・」 気のせいか、妻の返事が少し心細く聞こえた。「山の中の井戸? それじゃあ『安積山の影』は?」「『安積山の影』ねえ・・・、これは・・・安積山そのものかしら、知〜らない!」「なんだ! 郡山生まれのくせに」 とりとめのない話をしている間にも、太鼓の音が遠くにはなったが、踊り流しは続いていた。 『うねめまつり』は、昭和三十年に『市勢発展のため』に、愛宕町の荒池公園で第一回が開かれた比較的新しい『まつり』である。しかし資金難もあって、昭和三十七年を最後に、その後は開催されなかった。しかし昭和四十年になって、旧郡山市と安積郡九カ町村と田村郡三カ町村が合併、市民が一体となれる祭りを催したいという気運が高まったことから郡山市と郡山商工会議所が中心となり、郷土の伝説である奈良時代の宮中女官の『采女物語』を主題とした祭りとして郡山駅前大通りで再開された。通常はこの年を第一回としている。この『采女物語』に出て来るのが『陸奥国前采女某』の作として万葉集にある『安積香山 影さえ見ゆる 山ノ井の 浅き心を わが思はなくに』という歌である。この歌について、私の手元にある平成六年出版の『郡山の歴史』には、次のように記載されている。 『安積山と山ノ井について、日本最古の歌集である万葉集に、次のように詠まれている。 安積香山影さえ見ゆる山ノ井の浅き心をわが思はなくに・陸奥国前采女某 この詩は、葛城王が陸奥国に派遣されたおり、その地の国司のもてなしを受けたが、もてなしがとりわけ不十分であったあったため、王は不快になり、怒りを顔にあらわした。酒食を用意したが、少しも楽しもうとしない。その時、前(さき)に采女として仕え、今はこの地に帰っている一人の風流な女子があらわれた。女子は左の手にさかずきを持ち、右の手に水を持ち、王の膝を打って、安積山のうたを詠んだ。するとたちまち王の心は解きほぐれ、喜び、楽しみ、飲むこと終日であったという。詩の内容は、「安積山の影さえ映って見えるほどの浅い山の清水、そのように浅い心であなたを思っているのではありませんのに、深くお慕い申しあげていますのに・・・。それにもかかわらずあなたは・・・」というものである。「アサカ」という地名は、三重県松阪市や、大阪市の住吉や、堺市にもあり、郡山でないとの意見もある。しかし、陸奥国の安積というのは安積郡のことであり郡山地方にしかない。また日和田の奥州街道脇の小山を安積山と呼ぶが、詩に詠まれた安積山は額取山のことである』 私はこれを読んで、なるほどとは思ったが、やはり『安積山』と『山ノ井』の関係が気になった。つまり『山ノ井』が山にある井戸とは想像できても、井戸の上にある木の枝や葉は映せたとしても、山の全体像は映せないのではないかと思ったからである。次の日、私は、祭神を葛城王とする采女神社のある片平町へ行ってみた。この采女神社のある一帯が、『山ノ井公園』となっている。そこには『安積山のうた』の歌碑があり、『山ノ井清水』と案内板が立てられた小さな池がある。ところが行ってはみたものの、周囲にあるうちのどの山が額取山か分からなかったので、地元の人に聞いてみた。すると、「額取山は、いま目の前に見えている丘に隠されていて、ここからは見えないよ」と言う。それを聞いた私は、アレッと思った。それは、この『山ノ井清水』のある所から見えない額取山を、ここにある『山ノ井』が映すことができない筈だと思ったからである。次いで私は、日和田町の安積山公園に行ってみた。 松尾芭蕉も見たという日和田町の安積山は、いまは安積山公園となっており、そこには芭蕉の句碑が建てられ、その背後には、昭和四十五年に造られた郡山市営の日和田野球場が広がっていた。地元の人に聞くと、「ここは公園や野球場を建設するときに整地されたが、もともとが山と呼ばれるほどの大きなものではなく、せいぜい丘程度のものであった」と言う。今は整地されてしまったから、昔の安積山とは景色が大きく変わっていることになるが、ただ、その公園の一角に、『山ノ井』という案内板の立つ、直径50センチほどの小さな池? があった。しかし安積山が丘程度の山であったとしても、こんな近くの小さな池では、やはり安積山の全体を映せたとはとても思えない。どうも私の見た範囲では、このどちらの公園の『山ノ井』にも、いわゆる安積山という山の全体像を映せる状況にはないようである。すると『山ノ井』は、本当に安積山を映していたのであろうか? ちなみに、この安積山公園の所在地は日和田町字安積山にあり、隣接して字山ノ井がある。町村史からみれば、明治二十二年の町村制施行により、日和田村、高倉村、八丁目村、梅沢村が合併して安積郡山野井村が発足しているが、大正十四年に安積郡山野井村が日和田町となっている。いずれにしても、日和田町に安積山と山ノ井の地名があるは、何を表しているのであろうか。
2023.12.02
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