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西欧諸国に追いつこうとして富国強兵を掲げていた明治政府は、その具体的政策のひとつとして、全国への鉄道布設を重要課題としていました。しかしイギリスで発行した国債の返済の途上にあり、資金不足であった政府は、旧士族に与えた金禄公債や各地の資産家の資金を当てにして日本鉄道会社を設立し、その資金で全国に鉄道網を広げようとしていました。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、政府の保護を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定し、同年11月に設立特許条約書が下付されました。政府はこの『日本鉄道』に、国内の鉄道網建設を目論んだのです。この政策に従った日本鉄道は、明治16年、上野と熊谷まで開通させています。これらの建設にあたって、政府は国有地の無償貸下げ、8%の配当保証、用地の国税免除、工部省鉄道局による工事の施行や用員の訓練・補充など、手厚い保護と助成を与えています。 日本鉄道が、建設工事に入る頃の県内の様子です。 白 河 昔ながらの城下町で、人力車の継ぎ立てが多い。 郡 山 明治二十年代までは三百戸程の村。二十一年には四十八台の人力車もあり、交通の要地であ る。 二本松 人力車が百六十台もあり、各地から人力車の乗り継ぎのため人が集まり、車夫で宿泊するも のが毎日五十人以上あり、人力車の町といった感じ。 福 島 有名な生糸は、内国通運や誠一社が横浜に馬で陸送した。一頭が約百五十キログラムをび、 一日百頭を稼動した。人力車が四百五十台もあり、仙台・山形も営業範囲である。 桑 折 街道上の中継地で、宿屋十軒、人力車や馬車もあり舟運による中継地でもある。 しかしこのような状況もあって、鉄道建設反対の運動もあったのです。農民のほとんどは、「汽車の煙で稲が枯れる」「灰で桑が枯れる」というような風説によるものが大半でしたが、その他にも、「今までの宿場町が廃れる」「人力車の商売が成り立たなくなる」と言う経済的な理由のものもあったのです。 明治17年、日本鉄道会社は、第一線区とした上野から高崎までを5月に開業、次いで第二線区の大宮から白河までの工事と、第三線区である白河・仙台間の工事を開始しました。第一線区が養蚕地である群馬県であり、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証していたこともあって、鉄道が通ることへの福島県内の養蚕家の期待は、大きかったと思われます。この線は、『日本鉄道・奥州線』と位置付けられました。しかし日本鉄道はその建設資金獲得のため、地元に建設債券の消化を求めたのです。それは郡山だけではなく、鉄道の通らない三春でも求められたのです。三春での消化状況をみると、三春町が32人、南小泉村が1人、三丁目村が1人、木村村が1人、柴原村1人、滝村2人で総人数38人、その総株数は494株、金額2万4700円を集めました。しかし郡山村では、出資者の募集はなかなか困難であったようです。明治16年の文書にも「鉄道会社ヨリ払込之儀催促有之ドモ壱人モ出金セシ者ナク其俵打過居レリ」とまで書かれていたのですが、その後、呉服商の」橋本清左衛門など29余名の資産家が、3万円の株金を引き受け、その目的を果たしたのです。しかし日本鉄道が、鉄道が通らない三春にも建設債券の購入を要請したことは、須賀川・郡山・本宮と平坦な地を利用して鉄路を敷設しようとした日本鉄道が、三春も利用可能と考えたためと思われます。このように、日本鉄道の奥州線の開設が進む中で、奥州街道上にあった小さな宿駅は、急速に宿場町としての機能を失って衰退していったのです。 当時の郡山の町は、今の旧国道にある会津街道の分岐点が北限でした。そこには今でも、『会津道』と『三春街道』の道標があります。そして南限は今の東邦銀行郡山中町支店あたりまでの細長い集落だったのです。そして今の柏屋あたりから駅までは、畑や田んぼが続いていたのです。今でこそその後の市の発展により、駅が街に近い場所にあるように見えますが、古い絵などを見ると、郡山駅は畑に囲まれていたのです。 この奥州線開業当時の駅の様子を、『ものがたり東北本線史』から転載してみます。『奥州線が全通したころの駅は、すべてが木造平屋建てのこじんまりした建物で町外れの寂しい所にあったから、そのモダンな駅舎は人目をひいた。駅前の道路は新しく開かれた幅の広いもので、雨の日はぬかるみとなり風の日は黄色い渦が空高く舞い上がっていた。駅の出入り口には人力車が人待ち顔に並んでいたものである。夜は待合室や改札口あたりに薄暗いランプがぶら下がり、あとは信号機の青や赤のランプが見えるだけで駅の裏側は真っ暗である。番頭や車夫の提灯が駅前の通りを彩っていたものである。 待合室に入ると、時刻表、賃金表、乗客心得などがいかめしく壁にぶら下がっている。待合室と反対側の出札窓口には『切符売下所』と看板がかかっている。しかし上等切符を買う人はあまりいない。 列車到着五分前、駅長はガランガランと鐘を鳴らす。出札口の窓がパタンと閉められる。やがて白い蒸気を吐きながら列車が入ってくる。上野〜青森間の直通列車以外は、大てい貨車と一緒の混合列車である。列車の前部と後部の車掌のほか制動手も乗車している。汽車がホームに止まると、助役も駅夫も客車のドアを片端から開けて行く。旅慣れた旅客はホームの便所に駆け込む。駅夫は「小便せられたし」と触れ歩いている。こういう駅は5分くらい停車する。老人や婦人は汽車が今にも発車しそうな気がしてなかなか便所に行けない。 駅夫は大きなヤカンにお湯を入れて上等車にお湯を持っていく。冬は大きな駅の駅夫は大変である。上等・中等の旅客に湯タンポのサービスをしていたから、その湯を詰め替えなければならない。下等の旅客にはひざ掛けを貸した。しかしそれで十分でないから、自分で毛布を持って乗った。赤い毛布であったから、地方から東京へ出かける『お上さん』を『赤ゲット』などと言った。冬はよく雪害で運休するので『雪中ご旅行の方は防寒具と食糧を持参せらるべし』という掲示が駅にも車内にも貼ってあったものである。 下等の客車はマッチ箱のように小さい。ドアから入ると細長い木の椅子で車内が五つに仕切られている。客車内を縦に通り抜けることは出来ないから、一度乗ったら歩き回ることはできない。椅子には、背をもたせかける板ができる前は、一本の鉄棒が渡してあるきりであったから、長距離の汽車旅行は腰が痛く楽ではなかった。上等・中等・下等の呼び名が一等・二等・三等になったのは、明治三十年十二月からである。そのころ便所のある客車はほとんどなく、蒸気暖房もない。夜は客車の中にランプが二つ、屋根裏から吊り下げられる。座っている人が、ぼんやり見える程度である。五十銭もする特製弁当と熱いお茶などを車掌に注文しているのは、上等か中等の客であろう。この一等車の運賃は、三等車の三倍で、庶民にはまったく無縁のものである。』 いずれにしても、福島県最初の鉄道は、このようなものであったのです。
2024.03.20
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公共用の旅客運輸業の乗り合い馬車は、明治維新前より外国人の経営により運行されていました。しかし乗客のほとんどが外国人で、日本人としては乗り難くかったのです。これを見た日本人も、乗合馬車の営業を出願する者が何人も現れたので、幕府は統合を命じました。それでも開業ができたのは、維新後の明治2年であったのです。 戊辰戦争の終了とともに誕生した明治政府は、明治2年の1月、東京から京都・大阪を経て神戸までつなぐという壮大な鉄道敷設を決定しました。しかし、路線を海に近い東海道経由にするか、海から遠い中山道経由するかは軍事上の問題もあり、決定に至らなかったのです。そこで政府は、距離も近く、地形も平坦な東京と横浜の間に最初の鉄道を建設することを決定したのです。建設の資金は、イギリス東洋銀行を通じて、外債30万ポンドがロンドンで募集されました。明治3年3月、建設路線測量のため、汐留の一角に最初の杭が打たれました。この建設は、鉄道発祥の地であるイギリスから指導を受け、日本の技術を融合させてはじめられたのです。ところが、新政府が鉄道の敷設予定地とした品川近辺には、西郷隆盛のお膝元である薩摩藩の江戸屋敷などがあり、測量することさえ拒否されたのです。 ところで鉄道の輸送力の根幹となる軌道の幅は、イギリスの標準軌である狭軌の1067ミリが選ばれました。これは当時の日本の状況を考えると、妥当な選択であったとされます。すなわち軌道の幅が広いほど大きく重い列車を速く走らせることができるのですが、建設費がかさむことが欠点であり、さらに軌道の幅が大きければ曲線半径も大きく取る必要があるので、貧乏国で山がちの日本では、標準軌は贅沢であると考えられたのです。それはそれでやむを得ないと思われるのですが、薩摩藩など沿岸にあった江戸屋敷の所有藩の反対には困っていました。そこで、工事を進めるため政府が取った手段は、当時入江となっていて海であった現在の京急神奈川駅近くから桜木町駅近くをほぼ直線で結ぶために、線路部分の幅となる広さでの海面埋め立て工事をすることになったのです。 それを請け負ったのが、横浜の土木建築請負を中心に事業を営んでいた高島嘉右衛門でした。彼は鉄道建設に、強い関心を持っていたのです。その埋め立てられた土地の一部が、今の横浜市西区に高島町として、その名が残されています。明治3年3月、線路の敷設工事が、東京と横浜の双方から初められました。そして明治4年、政府は鉄道運営の所管官庁として工部省鉄道寮が立ち上げました。明治5年5月、高島嘉右衛門は東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建言したのですが、これは却下されてしまいました。しかし高島は、政府要人の岩倉具視を説き、明治天皇および当時の政府に、『華族と士族の資産をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と新潟に鉄路を敷き、蒸気機関車を走らせる』ということを建言したのですが、直ちに取り上げられることにはならなかったのです。ところでこの鉄道で使われたレールをはじめ蒸気機関車、および客車の全てはイギリスからの輸入であり、時刻表の作成も運転士も外国人によるものでした。 明治5年5月7日、鉄道の開業に先立ち、品川から横浜の間で、1日2往復の試運転が行われました。所要時間は35分、時速およそ40キロメートルでしたが、横浜毎日新聞は、『あたかも人間に翼を付して、天を翔けるに似たり』との記事を載せています。その年の9月12日、日本最初の鉄道が、新橋駅と横浜駅とで、『新橋汽車お開き式』が行われ、諸官庁は休暇となりました。明治天皇は直垂を着して午前9時に出門、4頭立ての馬車に乗って新橋停車場にご到着、それより特別仕立ての列車に乗り、午前10時に発車、54分で横浜に着かれました。そして午前11時、横浜停車場において開業式が挙行されたのです。内外の諸賢を前にした天皇は、『東京・横浜間ノ鉄道、朕、親ラ開行ス。自今此便利ニヨリ、貿易愈繁昌、庶民益富盛ニ至ランコトヲ』の勅語を賜り、次いでイタリア公使や外国商人頭取総代のイギリス人のマーシャルが祝詞を奏した後、横浜在住の商人頭取の総代が祝詞を奏しました。それぞれに勅答があって式は終わり、天皇は横浜駅楼上の一室にて休憩されたのち再び列車に乗り、正午に横浜を発して新橋に向かったのです。そして新橋停車場においても、午後1時より同様の開業式が行われたのです。そして翌・13日より、一日に9往復の列車が運転されたのです。ところでこの開業に先立つ7月、天皇が初めて汽車に乗っておられます。中国巡幸からの帰路、暴風に遭ったため横浜に上陸、品川までをこの汽車を利用したのです。これが最初の、『お召し列車』となったのです。 この新橋と横浜間の鉄道は、大評判となりました。乗車券は、上等1円50銭、中等1円、下等50銭でした。鉄道開通の当時、米10キログラムは約65銭といわれており、現在の貨幣価値に照らしてみると、上等が1万5000円、中等が1万円、下等が5000円に相当しますから、その運賃は大変高価なものだったのです。それもあって、開業の翌年には大幅な利益を計上しています。その営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入は42万円、貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引いても21万円の利益となっていたのです。この結果「鉄道事業は儲かる」という認識が、実業界で広まりました。そしてそれを受けて、京阪神地区でも建設がはじめられ、明治7年には大阪駅と神戸駅間が開通し、明治10年には京都駅まで延伸しています。ちなみに、この時の新橋駅は、のちに貨物専用の汐留駅となり、現在は廃止されています。 曲がりなりにもスタートした国有の鉄道は、政府の事業として計画された中山道沿いの鉄道区間のうち、東京〜高崎間の測量がはじめられたのですが、明治10年の西南戦争による煽りを食って、着工されるには至りませんでした。鉄道発展に寄与し、のちに『日本の鉄道の父』と呼ばれた井上勝が鉄道の原則国有を主張していたこともあって、この頃までに開通していた国有の鉄道は、新橋と横浜間のほかには、北海道の幌内鉄道や岩手県の釜石鉄道、それと滋賀県の大津と神戸の間など、部分的なものに留まっていました。歳末近くで慌ただしい明治13年12月21日、在京中であった福島県令の山吉盛典、宮城県令の松平正直、岩手県令の島維精、青森県令の山田秀典、山形県少書記官深津無一らが集められ、それぞれの地域での鉄道建設の協力が要請されたのです。この会合は、表面上東北開発が強調されたのですが、国策的要素が強かったのです。例えば、渋沢栄一が明治8年2月に立案したという『奥州鉄道建設急務五ヶ条』の第一項で、『陸奥国は北海道と接している。ロシアとの境界問題は重大で、国境警備のため、北海道と結ぶ奥州道中に鉄道を作ることは大眼目である』と主張していたのです。しかし少ない国家予算と、鉄道建設の外債を発行したばかりの日本では、鉄道網の整備が進まないことが予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心とし、華族や民間の資本を用いての鉄道建設に、政策を転換することになったのです。そのことが、日本鉄道株式会社の設立に結実していったのです。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、その上、政府の債務保証を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定され、同年11月に設立特許条約書が下付されました。しかしこの設立特許条約書には、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という付帯条件が付いていました。この『日本鉄道』という会社の名は、日本全国の鉄道をこの会社に敷設させるという目的があったのです。
2024.03.10
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中世以前の人たちの旅は、ただひたすら歩くことでした。馬に乗ることもありましたが、それには馬を飼う費用と乗る技術が必要だったのです。それでも時代が下がると、馬車が使われるようになったのですが、道路は舗装されてなく、状況が悪かったので、快適な乗り物とは言えなかったのです。1600年、女王エリザベス一世は、拝謁したフランス公使に、「数日前に、私の乗った馬車が早く走るのはよいのですが、その揺れで車の壁に体が打ちつけられ、苦痛に耐えるのが大変でした」と話したと言われています。当時の馬車とはこのような乗り物だったのです。 それでもこのような馬車が、レールの上を走ることで酷い揺れから逃れてスムースに、しかも多くの貨物を運べるようになったのが馬車鉄道でした。このような馬車鉄道は、ヨーロッパで発達をしていますが、それは人を乗せるものとしてではなく、貨物運搬用だったのです。世界で最初に作られたサリー鉄道は、イギリス、ロンドンの中心部近くのワンズワースとロンドンの南部のクロイドンを結んでいた馬車鉄道ですが、これも貨物線用だったのです。この鉄道の開業は1803年ですが、木製の軌道の上の貨車を馬が牽引するこのような貨車の軌道は、中央ヨーロッパでも15世紀までに現れています。18世紀になると、鋳鉄製のレールも用いられるようになったのですが、それでもこうした軌道は、炭鉱などの専用鉄道であり、炭鉱会社や運河会社が保有していたのです。 そうしたなか、イギリスで一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、いわゆる産業革命が起こりました。機械化によって一気に生産性が向上し、長距離を移動する人や貨物が増加したのです。工場生産が拡大する中、大量・高速、かつ定時性の輸送の需要が増え、旧来の輸送手段に対しての不満が高まっていったのです。当時の大量輸送の手段であった馬車鉄道では、脆弱であったのです。それに対応するものとして、大型であった蒸気機関を改良し、ジョージ スチーブンソンとロバート スチーブンソン親子により蒸気機関車が開発されたのです。そして1825年9月27日、イギリスの港町ストックトンと炭鉱の町ダーリントンの間に開通したのがストックトン&ダーリントン鉄道のロコ モーション号でした。最初の頃は、ロコ モーション号は貨物用にのみ用いられ、旅客用には同じレールの上に馬車を走らせていたのです。 1830年(天保元年)、世界初の旅客鉄道となるリバプール&マンチェスター鉄道で、蒸気機関車のロコ モーション号が、一般の乗客が乗った客車を時速46・6キロメートルで走りました。このリバプール&マンチェスター鉄道の大成功によって鉄道敷設は急速に延び、イギリスでは1840年代の『鉄道狂時代』が出現したのです。『鉄道狂時代』とは、イギリスで発生した鉄道への投資熱のことを指します。バブル経済と共通のパターンをたどり、鉄道会社の株価が上昇するにつれて、投機家がさらに多くの金を注ぎ込み、不可避となる崩壊を迎えたものです。 イギリスの鉄道はいずれも私営で始まったのですが、そのゲージはかならずしも一様ではありませんでした。しかし鉄道会社の吸収や合併がくりかえされるうちに徐々に4フィート8インチ半に統一されて行き、1846年には政府がそれを標準軌にすると決定して以降、建設される鉄道はすべて標準軌とされ、既設のレールも標準軌に改築されていったのです。蒸気鉄道の建設は、直ちにイギリス以外にも広がりました。そしてイギリスの4フィート8インチ半の軌道は、世界的にも標準軌とされ、それより幅の広いゲージを広軌、狭いものを狭軌と呼んでいます。日本の鉄道の多くは狭軌であり、新幹線のみが広軌と言われています。 この蒸気鉄道が世界に普及していく過程で、馬車鉄道は、都市内の交通機関として使われるようになりました。イギリス以外で最初の馬車鉄道が走ったのは、1836年(天保7年)、ニューヨークで市内の交通機関として現れ、1854年(安政元年)にはパリ、1861年(文久元年)にロンドン、1865年(慶応元年)にベルリンと続き、その後もオーストリアのリンツやザルツブルグ、スイスのチューリッヒ、イタリアのミラノなどの世界の名だたる都市に広まっていったのです。ところで変わっていた馬車鉄道は、イギリス スコットランドのグラスゴー馬車鉄道でした。この馬車鉄道は、2階建てだったのですが、2階は椅子だけの吹きさらしだったのです。つまりご主人様は1階の客車の中に乗りましたから雨や風から守られましたが、2階に乗せられていたのはお付きの召使いたちは、冬の日などは寒さに震えながら乗っていたかもしれません。しかし考えてみれば、召使いたちはご主人様の頭の上に土足で乗っていたことになりますから変な話です。いずれにせよこの馬車鉄道は、今のロンドンの2階建バスの原型になったのかもしれません。 いま私の手元に、ニューヨークで撮られた馬車鉄道が載った本がありますが、『写真その昔』のページに、『鉄道馬車の終着駅』という写真があります。そしてその説明文には、『1893年の冬、吹雪のニューヨークの鉄道馬車の終着駅。出発しようとして湯気を出している馬車鉄道の馬が写されている。撮影者のステーグリッツは、4インチ×5インチ用のハンドカメラを使用した』とありました。ともあれ撮影された年が、1893年(明治26年)となっています。ちなみに三春馬車鉄道の運行がはじまったのは明治24年(1891年)ですから、少なくともニューヨークと同じ時期に、ここを走っていたことになります。馬車鉄道は、いま振り返ると時代遅れにも感じられますが、舗装道路もなく道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく、至極快適な乗り物だったのです。ちなみに日本最初となる東京馬車鉄道の開業は、明治15年(1882年)でした。当時の欧米では、馬車鉄道は遠距離を走る蒸気鉄道を補完するものとなっていたのです。
2024.03.01
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