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13 鉄道よもやま話① 日本で初めて鉄道が営業開始したのは、明治五年五月七日のことであった。明治三年に測量開始し、建設を進めていた新橋・横浜間鉄道のうち、品川・横浜(いまの桜木町)の間がこの日に開業したのである。これは外国から輸入されたレールや枕木などの資材を横浜港に陸揚げをし、そちら側から線路を敷設していた。とにもかくにもこの日から、この区間に二往復の旅客列車が運転を開始し、翌日には六往復、八月十一日には八往復に増発された。徳川幕府が滅び、明治新政府が発足してからわずか五年という短期間で日本に鉄道が開通したのだから、まさに驚異的スピードと言える。鎖国政策により欧米諸国の技術発展から取り残されていた日本は、なんとかそれに追いつこうと必死だったに違いない。そして明治五年九月十二日には、新橋(のちの汐留貨物駅)横浜間が本開業をした。当初開業日は九日を予定していたが。当日が雨のためこの日に延期された。この鉄道が一般の乗客に解放されたのは翌十三日からで、一日九往復の列車が運転を開始した。 ところで、この明治天皇のご乗車の祝賀列車を運転したのは外国人であった。運転を担当したのはイギリス人の汽車機械方(要は運転手)のトーマス・ハートであったが、この祝賀列車に限らず、すべての列車の運転手はイギリス人であった。それは運転手だけではなく、開業当時の車両は、機関車も客車も全部イギリスから輸入されたもので、さらには列車ダイヤを組むのもイギリス人ならば建設における指導を行ったのもイギリス人であった。まさにイギリス人なくして日本の鉄道は開業できなかったのである。創業当時の鉄道員は日本人が駅務を中心に配置されていたのに対し、イギリス人を中心とした外国人は高級職員だけではなく。建設部門や列車運転に関わる現業機関のほとんどの職場を独占していた。けれども、それは至極当然なことであった。この時代の日本人に鉄道に関するノウハウなどあるわけがなかったため、経営から技術、管理、車両、諸施設の供給に至るまでありとあらゆることがイギリス人の指導の下に行われていたからである。 ただし北海道開拓使が管轄した初期の北海道の鉄道では本州とは異なり、アメリカ人技師の指導のもと、アメリカ製の資材を購入して建設がすすめられた。また、私鉄の九州鉄道は、ドイツ人の指導のもとドイツ式鉄道を採用していたから、鉄道を取り巻く技術的環境が混在していたことになる。大正十四年に全国で車両の連結器が一斉に同じ物に交換されたのは、このような状況にあったからである。いずれにしても、創業期の日本の鉄道は、イギリス人を中心とした外国人が主導権を握っていた。これら外国人技術者、俗に言うお雇い外国人の数は、明治七年ごろがピークで百十五名を数えたという。ただし、それも長くは続かなかった。まず明治十二年四月には新橋鉄道局で初の日本人運転手が三名、ついで同年八月には神戸鉄道局でも三名の登用を見たと記録されている。そして同年十一月には新橋・横浜間の全列車に日本人運転手が乗務するようになったという。 さて踏切といえば、列車優先であることは言うまでもない。例えば地方のローカル線のように一日十本ぐらいしか列車が通らなくても、そして道路側の交通量が多くても、決して列車の方を遮断するということはない。ところで、鉄道創業期の踏切は現在とは異なり、列車の方を遮断していた。『踏切』は、基本的に『道』の方に焦点を当てた用語で、鉄道を踏んで横切る道、といった概念の用語である。鉄道創業期の踏切では、遮断のバーはもちろん手動で、常には線路の側を遮断していた。そして列車が接近してくると係員がバーを動かして道路側を遮断し、列車を通行させたのである。しかし明治二十年頃からは、今度は道路側を遮断するような形に変更された。ただし、現在の踏切とは異なり、常に遮断のバーを下した状態にしておいて、通行人が現われると係員は列車が来ていないことを確認した上で、線路側を遮断して通行させたというから、これまたのんびりした話である。当時の道路交通の主と言えばあくまでも人間であり、スピードが速いものと言っても、せいぜい人力車か馬くらいしか通行しなかったから、こんな方法でも特に問題は無かったのであろう。しかし、明治も終わりの頃になれば当然列車の本数も増え、スピードも向上。急行列車も走るようになったわけだから、いちいち通行人があるたびに線路側を遮断していては。危険きわまり無い。そこで現在の踏切とほぼ同じ方式になったのは、およそ明治の末から大正時代にかけてのことと推測されている。 工部省鉄道寮では、明治五年五月七日の品川・横浜間の仮開業の時点から列車の発車時刻表を駅構内に掲示した。それには品川発車午前八時、横浜到着午前八時三十五分などと書かれており、現在と同じように分刻みで列車の時刻を示されていた。さらにその下には、乗車における諸注意が掲示されていた。それには、『乗車セムと欲スル者ハ遅クトモコノ表示ノ時刻ヨリ十五分前ニ、ステーションニ来リ切符買入ソノ他の都合を成スベシ』とか、『発車時限ヲ遅ラサルタメ、時限の五分前ニステーションノ戸ヲ閉ザスベシ』といったことも書かれていた。要は発車時間の十五分前には切符を買い、その他の手続きを済ませておくこと。発車時間を厳守するため、発車五分前には駅の入り口を閉めるから注意しろ、と言っているわけで日本の鉄道は今同様、その初期から時間にはかなりうるさかったようである。しかし、ここでちょっと考えていただきたい。 当時の日本は、寺の鐘の音を聞いて暮六つとか五つ半とか言っていた江戸時代からわずか五年しか経っておらず、二時間単位の古い時間の感覚から抜け出ていない人も多かったのではないだろうか。そこへ八時というような西洋式の時間が出てきた上に、三十五分などの分単位の時間など、当時の人には感覚的に合わせることができなかったと思われる。それよりなにより、まず一般庶民では時計など持っている人などいなかったわけだから、一体どうやって発車時間の十五分前までに駅に行けたのかという疑問に突き当たる。当時の庶民が時間を正確に知る手がかりは、皇居内で発していた正午の号砲ぐらいのものだったというから、考えてみれば実に不思議な話である。この問題の解決は実のところ乗客の慣れ以外の何ものでもなかったようだ。そもそも列車に乗って旅することなど、いくら品川・横浜間の短距離とは言え、当時の庶民にとっては大旅行であり、当然それなりの緊張感が伴っていたので、中には夜明けと共に駅で待機していた人もいたという。それでもやはり乗り遅れる人はいたらしい。鉄道寮でも開業前からこの庶民の時間感覚の問題には危惧していたようで、一時は芝増上寺の大鐘を芝の愛宕山頂に移し、一時間ごとに鐘を鳴らして正確な時間を庶民に伝える計画まで立てたというが、これは寺側の反対により実現しなかったという。結果、庶民の自覚に頼るしか方法はなかったのである。新橋・横浜間の本開業に伴い、切符は十分前、駅の入り口を閉めるのは発車三分前と多少は緩和されたものの、その後も発車間際に駆け込む人や乗り遅れる人が後を絶たなかったという。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.06.20
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現在の郡山市は、隣接する須賀川市、本宮市そして三春町を含めれば、人口約50万になる県内随一の都市圏です。そうすれば仙台の半分の人口になるのですから、地下鉄は無理としても、郡山を通る鉄道網をうまく利用できないかと思っています。郡山市は、在来鉄道、国道、高速道の十字路であり、その上、新幹線そして近くには空港も擁する交通の要衝でもあります。しかしこの域内での公共交通機関を考えた場合、果たして「便利だ」と言えるでしょうか。このことは郡山を訪れる多くのビジネスマンがよく口にする、「郡山は出入りするのには便利だが、市内を移動するのには不便だね」という言葉を重く受け止めるべきではないかと思っています。そう言われるのは、50万都市圏内の交通体系が整備されていないことにあると思われます。バスも含めて、もう少し交通機関の流れを整備する必要があるのではないでしょうか。またその一方で、周辺の各市町村も、一通りの公共設備を揃えようとする意欲も大きいと思われます。それらについての経済性を考えたとき、果たしてこれは有効なことなのでしょうか? お互いの市町村の設備を利用し合うことで、それぞれの経済性を高めることが出来ないものでしょうか。そしてこのことはまた、郡山市の目指しているコンベンション・シティの主旨にも合致するものと思われます。しかしそのためには、まず50万都市圏内の交通を便利にする必要があります。ともあれ、この約50万の人口に比して、現在存在するJRの駅と、混雑する道路上のバスやマイカーによる交通は、考え直すべき時期に来ていると思われます。この不便であるという最大の理由は、現在JRでもバスでも公共性の高い乗物は、そのすべてが郡山駅を始発とし、終着としている点にあると思います。ここに問題があるのではないでしょうか。幸い郡山駅には、在来線の東北本線上下、磐越東西線、水郡線の5本の鉄道が集中しています。しかしマイカーが普及する中で、鉄道の衰退は誰の目にも明らかです。そこで考えられるのは、この集中する鉄道網を見直し、これら各線にある駅の間に、新たにミニ駅を多く作って相互乗り入れとし、鉄道と町の活性化につなげるというのはどうでしょうか。 例えば磐越西線、磐越東線、水郡線からも東北本線に乗り入れるという考え方が出来ないものしょうか。つまり今は、郡山駅に着いてからの先へは、必ず乗り換えをしなければなりません。距離的にはたいしたことがないのに、乗り換えやなんやかやで時間がかかるわけで、この時間的ロスも利用者の負担なのです。そこで、郡山駅が始発・終着ではないと考えてみればどうなるでしょうか。例えば郡山駅を山手線の上野駅や東京駅のようにスルーするという位置づけで考えられないでしょうか。現実に東京の山手線などには、2キロメートル程度の間隔にある駅の数は少なくありません。このような間隔で新しくミニ新駅を貼り付ければ、通勤、通学、買物客、そして高齢化社会にも合わせた便利な鉄道になると思われます。 (一)ミニ駅の提案 1…ミニ駅は、東京都電の停留所程度の一両分の長さ のホームとして費用を抑え、安全確保のため、 新幹線のようなホームドアを設置する。 2…ミニ駅は無人駅を原則とする。 3…水郡線は福島空港までの延伸が望ましい。しかし 無理の場合、川東駅からデユアル・モード・ビー クルを導入する。なお、デユアル・モード・ビー クル(Dual Mode Vehicle)とは、列車が走る レールと自動車が走る道路の双方を走行出来るよ うに改造されたバス車両のことで、これにより、 郡山市内より福島空港まで乗り換えなしで、 しかも交通渋滞に巻き込まれることなく、定時を 確保しての運行が可能となる。また、荒天などの 際の成田国際空港のサブ空港と しての位置付けをしたらどうか?。 4…予想図作ってみましたが、熱海3丁目ミニ新駅・ 本宮の竹花ミニ新駅・三春駅・須賀川の一里塚 ミニ新駅と川東駅には大駐車場を作り、郡山市 の中心部へ入るマイカーを規制する。 (二)運行の提案 1…郡山駅には新に通過駅の性格を持たせ、東北本 線、磐越東西線、水郡線の相互乗り入れとする。 2…現在あるJRの駅は、快速電車の停車駅と考え、 ミニ新駅には短時間の間隔で一両の鈍行として 運行する。ただしJRのダイヤには変更を加え ず、空いてる時間を利用する。 3…郡山駅周辺への通勤に電車を使う人が多くなり、 従業員のための駐車場の確保が楽になる。 4…運行主体としてはJRが理想であるが、もし無 理なら私鉄に経営を依頼したり、バス会社を含 めた新会社設立も考えられる。 (三)ミニ駅の周辺には、多くの施設が存在して いるので、少し具体的に見てみます。 1…東北本線北部には宝沢沼ニュータウン 日和田 ニュータウン 本宮高校。 2…東北本線南部には郡山東高 三菱電機 郡山警 察署 自動車街 ビックパレット 福島県郡山 合同庁舎 東都国際ビジネス専門学校 日本大 学 日大付属高 清陵情報高校 須賀川北部工 業団地 須賀川高校 須賀川桐陽高校。 3…磐越東線には南小泉ニュータウン 福島県理工 専門学校 田村高校。 4…磐越西線には富田東ニュータウン、郡山北警察 署 奥羽大学 郡山北工業高校 百合ヶ丘ニュータウン南東北 卸団地 熱海ユラックス 熱海アイスアリーナ 太田熱海病院 磐梯熱海温泉 5:水郡線には清陵情報高校・福島空港 これら実行の結果として、郡山の新市域の形成に大きなインパクトを与え、鉄道での通勤通学者が増え、なおかつ通勤者の場合などは帰りがけに映画を見たり、『赤のれん』に寄るなどで町の活性化にもつながり、域内の街自体も大きく変貌することが考えられます。私は、これらのことが議論の対象になればいいな、と思っています。
2024.06.10
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昭和二十一年二月、東北本線に進駐軍専用列車が定期的に運行されるようになりました。私はそれを郡山の駅で見たのかどうかの記憶ははっきりしませんが、満員で押し合いながら乗り、果ては客車の屋根にへばり付いて乗った列車の中から、幼稚園くらいの女の子であろうか、可愛いい服で着飾ったその子を連れたアメリカ軍人の家族三人が、客車一両を独占して楽しそうに遊んでいたのを思い出します。幼いながらも私は、駅で汽車の来るのを待つ度に、そしてこのような客車を見るたびに、敗戦国の哀れさを感じたものでした。 戦後、白河と棚倉間を走っていた白棚線の復活は検討されたものの、最終的に鉄道としての復活が断念されました。しかし線路敷を専用道路に転用し、バスによる国鉄白棚線として復活しました。現在もJR東日本により、蒸気機関車がラッピングされたバスが運行されています。評論家の戸塚文子さんが、国鉄時代の昭和三十二年六月七日の日本経済新聞の『行楽』欄に掲載された随想が残されています。『中村メイコさんの「田舎のバスはオンボロ車・タイヤはつぎだらけ・窓は閉まらない」という歌でおなじみだが、どういたしまして、ここではチョット都会でも目立つくらいのスマートな新車が走っている。続いて「デコボコ道をガタゴト走る」という文句にも例外はある。それが東北本線白河から水郡線磐城棚倉へ最近開通した国鉄バスの白棚高速線である』 この歌の内容にも、一理ありました、当時は舗装された道路が少なくそれも市街地に限られ、それこそ田舎の道には、時折、砂利が敷かれて補修はされましたが、雨が降れば泥水の池がそこここに出来、歩くのもままならぬ状態だったのです。国鉄バスが通るために舗装され、しかも直線が多いこの道は、周辺地域の垂涎の的だったのです。 国鉄以外で廃線とされたものに、伐採をした材木を運ぶ目的であった森林軌道の本宮〜大玉間、小野新町〜川内間、浪江〜葛尾間を結んでいましたが、その他にも、磐越東線の神俣駅と大滝根山からのセメントの原料となる石灰石を運んでいたロープウェイが消えていきました。戦後はマイカーの普及とそれに伴う国鉄分割民営化により、廃線が相次いでいます。 昭和二十五年六月二十五日、突如、北朝鮮が韓国に攻め入り、アメリカ軍を主体とする国連軍がこれに応戦する事態が発生しました。いわゆる朝鮮戦争です。国内では、国連軍の発注する食料や物品、そして戦いで破損した戦車や武器の修理などの仕事が増え、国内経済が潤いました。朝鮮特需と言われた好景気です。この戦いは昭和二十八年まで続いたのち、現在も休戦状態となっています。そのようななかで、国鉄も復興に取り組むことになり、東北本線も、複線化や電化への動きが加速されることになります。 郡山は、暴力団抗争などが相次いで起こることから、治安の悪い街『東北のシカゴ』という不名誉な異名が広がっていました。その悪名をなんとか払拭しようとして考えられたのが音楽であり、『東北のウェーン』を目指す運動が高まりました。昭和二十四年、郡山音楽協会が発足し、女性合唱団や男性合唱団が結成され、市民の音楽活動が活発化します。昭和二十九年には、国鉄郡山工場大食堂で『NHK交響楽団郡山公演』が開催され、その後も『ウェーン少年合唱団』や『ドンコサック合唱団』などの来演が相次ぎ、それが契機となって『十万人のコーラス運動』に発展しました。このような市民が一丸となった運動により、音楽都市が郡山の代名詞となりました。しかしこの時代、郡山には、オーケストラの演奏会ができるような大きな公共施設がありませんでした。そのため会場は、国鉄郡山工場の大食堂が使用されたのです。 昭和三十年十一月、国鉄は主要幹線を十年で電化することになり、上野駅と盛岡駅聞が、第一期計画に編入されました。そして翌年の八月三日、大宮駅と宇都宮駅間の直流電化の起工式が行われました、 昭和三十五年三月、黒磯駅を宇都宮駅までの直流とその先の駅の交流区間との接点駅として工事を進め、黒磯駅と福島駅の間が交流による電化が完成しました。さらに十一月二十二日、郡山駅と安積永盛駅の間が複線化されたのを皮切りに、県内全線の複線化工事がはじまり、七年後の昭和四十二年九月二日、県内の全てが複線化されました。 昭和四十年、郡山機関区は貨物の取扱を開始し、傘下の郡山操車場が郡山貨物ターミナル駅に昇格しました。郡山市はこれを契機に、安積郡九町村及び田村郡三町村を吸収合併、人口約二十二万人を数える全国有数の広域都市となったのです。 昭和四十二年十月、国鉄は東北本線の始発駅を東京とする時刻改正を行い、これまですべての東北本線の列車が上野止まりであったものを、二往復ではありましたが、東京駅始発としました。これにより、ようやく東北本線が東京駅始発という本来の姿に戻りはじめたのです。 昭和四十三年九月、国鉄諮問委員会が提出した意見書により、『使命を終えた』として廃止、もしくはバス転換を促す国鉄のローカル線への取組みがはじめられました。国鉄の赤字線は、昭和三十六年度に百九十六線で赤字総額が四百十四億円であったのに対して、四十一年度には二百二十八線、千三百四十七億円に膨れ上がっていたのです。この『使命を終えた』との基準により、全国で八十三線が選定され、国鉄は翌年から地元との廃止協議に入ったのですが、各地で反対運動が起こったため進捗は滞り、廃止協議すらままならない線路も多く、難航しました。県内でも、第二次特定地方交通線に指定された川俣線と日中線の廃止が決定され、会津線の西若松駅と会津滝ノ原駅の間も廃止が決まりました。しかしこの鉄道は会津鉄道株式会社の会津線に転換することで、生き残ることになります。 昭和四十七年五月、JR松川〜岩代川俣間の川俣線が廃止されました。川俣線は延伸して常磐線に接続する予定であったのですが、不発となってしまいました。そして七月一日、磐越西線の郡山駅から喜多方駅までが電化されました。 昭和四十九年十月、喜多方〜熱塩間の日中線が廃止されました。日中線は米沢まで伸ばし、会津線と東武日光線を経由して東京までつなごうとしていた鉄道だったのです。 昭和五十七年、東北新幹線が大宮駅と盛岡駅間で暫定開業をし、上野駅と大宮駅の間には新幹線リレー号が運行されました。 昭和六十年三月、東北新幹線の上野駅と大宮駅間が開業しました。これにより、大宮駅での新幹線リレー号への乗り換えが不要になったのです。 昭和六十一年七月、JR丸森線が廃止され、福島と宮城両県と沿線の市町は第三セクター鉄道への転換を選択し、丸森線を引き継ぐ阿武隈急行株式会社を設立しました。阿武隈急行線の全線開通および電化は昭和六十三年に完成し、地元では『あぶきゅう』の愛称で親しまれています。 昭和六十二年四月一日、国鉄の分割民営化が実施されました。国鉄はJapan Railway JRとして、北海道旅客鉄道・東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道・四国旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道に分割されて民営化されました。 平成三年六月、東北新幹線は東京駅と上野駅間が開業し、東京駅が東北新幹線の始発駅となりました。そしてこの七月、JR会津線を引き継いだ会津鉄道会津線、西若松〜会津高原尾瀬口駅間は、野岩鉄道鬼怒川線を経て東京の浅草へつながったのです。 平成五年十二月、郡山貨物ターミナル駅と郡山貨車区が統合され、郡山総合鉄道部が設置されました。 平成十年、郡山操車場の跡地に、福島県産業交流館、通称『ビッグパレットふくしま』が建設されました。 さて日本では、二〇二七年を目処に、品川駅と名古屋駅の間を結ぶ、リニアモーターカーによる中央新幹線の営業運転開始を目指しています。その距離286キロメートルを、40分で走るとされています。新幹線に続いてのこの鉄道は、大きな夢を描かせるものとして期待されているものです。なおリニアモーターとは、軸のない電気モーターのことで、一般的なモーターが回転運動をするのに対し、基本的に直線運動をするモーターのことです。超電導リニアの最初の開発者であり、『リニアの父』と言われた京谷好泰(きょうたによしひろ)氏が名付けたのがこの和製英語でした。
2024.06.01
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