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目明かし金十郎・① いま私の手元に、『目明かし金十郎の生涯』という本があります。この本の著者の阿部善雄氏は台湾に生まれで、昭和十年、郡山に帰って安積中学校を卒業し、昭和二十年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業の後、中学校の教師となっていましたが、昭和二十四年東京大学史料編纂所に入り、助手、助教授を経て、昭和四十八年に教授となっています。定年後は東京大学名誉教授、そして立正大学教授をされていた方で、著書にもこの『目明かし金十郎の生涯』や『最後の日本人・朝河貫一の生涯』などがあります。これらの著書にみられるように、阿部善雄氏は福島県に対し、深い思いがあったのであろうと推察できます。このような阿部善雄氏が、この本を書くに至った事情を、『目明かし金十郎の生涯』の『あとがき』にこう記しています。 私がこの『御用留帳』にはじめてめぐりあったのは、昭和三十三年である。その頃私は、阿武隈川のほとりに住む友人で、須賀川二中教諭の折笠佐武郎の一家をよくたずねたが、彼は守山藩史料の存否を確かめようとする意欲に燃えていた。そうしたある日、私が守山の田村町教育委員会を訪れたとき、郡山市文化財保護委員で守山藩の歴史に詳しい伊藤尭信氏が私をオートバイに乗せて、谷田川支所に案内された。その二階に投げ出されて山をなしていたものこそ、この『御用留帳』百四十三冊だったのである。 ところで江戸時代、江戸ばかりではなく、全国の各藩に『目明かし』と呼ばれる人たちがいました。『目明かし』は、藩の下級役人である『同心』に私的に雇われ、その手先となって犯罪人の捜査・逮捕に従事した者たちのことで、身分は庶民であって、町人でさえなかったのです。この『目明かし』は、目であきらかにするという意味ですが、『岡っ引き』とも言われました。『岡っ引き』とは、庶民が『目明かし』をバカにして呼ぶ言い方でしたが、『下っ引き』と呼ばれる手下を持つ者も多かったのです。『岡』には、『岡場所』、『岡惚れ』と言うように、見下した意味がありましたが、『おか』には『かたわら』にいて手引きをする者の意味もあったといわれます。『目明かし』には、犯罪を犯した者に共犯者などを密告させることで罪を許し、代わりに犯罪捜査の手先とされた者たちのことです。というのは、犯罪捜査に『同心』を当てたとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、そして彼らが犯す犯罪の実態を良く知らなかったために、それを知る犯罪者の一部を、体制側に取り込む必要があったのです。『目明かし』とは、江戸の警察機能の末端を担っていた、非公認の協力者たちであったのです。 江戸の警察組織の前身は、『町奉行所』でした。ここには『町奉行』というお役人が頭となって行政・司法・警察・消防をつかさどっていたのです。 ちなみに、有名な時代劇ドラマ、「おうおうおう! この桜吹雪が全て御見通しだ!」の『遠山の金さん』のモデルとなった遠山金四郎景元も、この町奉行の一人でした。この町奉行所に勤める人たちは現在の警察官にあたりますが、現在と比べて違うのはその人数です。当時、江戸の人口は約百万人もいたのですが、警察業務を担っていたのは『同心』と言われる、たった三十人ほどだったのです。しかしこれだけの人数の同心では、到底江戸の町の治安を維持することなどできません。そこでこれらの同心には、十手を持った『目明かし』を、『同心』の私的使用人として各々五人ほどがついていたのです。『同心』というのは武士で、幕府の下級役人です。『同心』が持つ十手は幕府からの支給品で、一種の身分の証明も兼ねていました。いわば十手は、『同心』という身分の証明であり、いまの警察手帳のようなものでした。ですから、無くしたりしたらそれこそ責任問題です。そのため、支給された十手は大事にしまっておいて、ふだんは個人的に購入した十手を持ち歩く『同心』もいたそうです。そのため『目明かし』には、このような十手さえも支給されていませんでした。しかし『目明かし』の持っていた十手は、『目明かし』自身、またはその『目明かし』をやとった『同心』が、自費で、個人的に作ったものです。ところで『目明かし』は、専業ではありません。通常は、『担い屋台』の『夜鷹蕎麦屋』などを営業しながら、夜歩く人の行動などを監視していたのです。彼らは、同心に頼まれたときだけお手伝いをする、言わばアルバイトの探偵でしたから、『警察のイヌ』みたいなものだったのです。そのため『目明かし』としての収入は少なく、現在の貨幣価値で年収七万五千円ほどとされるのですが、なんと、江戸町奉行であった大岡越前守の年収が二億円、火付盗賊改方の鬼平犯科帳のモデルである長谷川平蔵が二億二千五百万円であったというから驚かされます。 ところで、『いざ捕物!』となったとき、三十人ほどの『同心』だけでは足りない時があります。そのようなときは例外として、『同心』が『目明かし』に十手をそのときだけ、一時的に持たせて捕り物の手伝いをさせることもあったそうですが、それは例外中の例外で、ましてや普段から『目明かし』が十手を持ち歩くことはなかったのです。ところで『同心』や『目明かし』が持っていた十手ですが、これは悪党から身を守る武器であり、捕り物道具の一種でした。とは言え、その長さはせいぜい四十センチほどの鉄の棒の手元に鈎をつけたものです。『目明かし』たちは、これで賊の刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用いて犯人の関節を押さえつけるたり投げるなど、柔術も併用したというのですから、生半可な人間では、『目明かし』にはなれなかったのです。なお、女性の『目明かし』もいたそうですが、女性の『同心』はいませんでした。 江戸時代には、それぞれの藩が、各自の警察機構や司法機構などの体制を備えたことから、反乱を警戒する幕府は、大名同士の法的拘束力を持つ約定を堅く禁じていました。そのため犯罪者が他の藩領に逃亡した場合、その犯罪者の逮捕と引き渡しを求めることができないことになってしまったのです。それでも、正面切って犯人の引き渡しを求めようとすると、それは大変面倒なことになってしまったのです。そうした際の解決策の一つに、幕府の大目付に逮捕を依頼する方法がありました。しかし藩主がこの方法を選べば、自分の力で捕らえることができない無力さを証明することになりかねません。そしてこのことはまた、その藩の中での犯罪の多発と、取り締まりの無能力をさらすことになるため、最後の手段として、ヤクザの親分たちを『目明かし』として採用せざるを得なかったのです。これらの『目明かし』たちは、藩の領域を越え、各地で『とぐろ』を巻いている他の仲間と相互連絡を取ることによって、犯人の発見と逮捕につなげたのです。つまり『目明かし』は、藩主たちにとって、内分のうちに事を運ぶことが出来るという、具合のいい隠れ蓑ともなったのです。
2024.08.20
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旗本・三春秋田氏五千石 慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦い後、水戸藩は奥羽諸藩の反乱に備えるため、北関東の拠点として作られたもので、慶長十四年(一六〇九)、徳川家康の十一男の徳川頼房が常陸水戸二十五万石を領したことから、水戸徳川家初代藩主とされました。 この関ヶ原の戦いで,常陸の佐竹氏が、東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなりました。とは言え、それまで常陸国を治めてきた佐竹家の表高は約二十万石、実高は約40万石でしたから、この大藩の転封先の秋田には、そのような空き地はありませんでした。つまり、いまの秋田県秋田郡には秋田氏、秋田県仙北市角館町には戸沢氏、秋田県美郷町六郷には六郷氏、秋田県千畑村本堂には本堂氏、秋田県横手市増田町平鹿には小野寺氏が治めていたのです。しかし幕府は、なんとしてもこれらの地を空け、佐竹家に与えなければなりませんでした。そこで幕府は小野寺氏を改易とし、秋田氏を茨城県笠間市の宍戸へ五万五千石で、戸沢氏を山形県新庄市へ六万石で、六郷氏を秋田県由利本荘市へ二万石で、本堂氏を茨城県かすみがうら市中志筑へ八千五百石で安堵したのです。さあここで、『秋田美人』です。秋田に転封された佐竹氏が、腹いせに領内の美人を全員秋田に連れて行ったので、それに対し、水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏に抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性を全員水戸に送りつけたというのです。そのため、秋田の女性は皆美人で、水戸の女性はそうでない人ばかりだというのです。実はこの話、水戸に住む学生時代の友人に聞いたことなのですが、笑いながら教えてくれたので、冗談の一種だと思っています。 さて、秋田から宍戸・五万石へ来た秋田実季でしたが、寛永七年(一六三〇年)九月、罪を得て伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季が継ぎました。そして正保二年(一六四五年)七月、俊季は五万五千石に加増された上で三春転封となり、その後の宍戸は、水戸藩領となったのです。これは俊季が、大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、さらに実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。そのため三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、旗の下を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地には陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、一七〇四年から一七一〇年の宝永年間には総数二万二千五百六十九家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。ちなみに、一六四八年頃に発せられた慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で百二名あり、一隊をなす程度になっていました。季久の収入となる五千石領は、(田村市)大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、洪田村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしたのです。なお、村田マサさんの旧居が、ここでした。 旗本秋田氏七代の季穀(すえつぐ)は、文化四年(一八〇七年)に駿府城加番となりました。加番とは、城主に代わって諸事を統轄した家臣の長の城番を補佐し、城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。そして天保二年(一八三一年)、季穀(すいつぐ)は浦賀奉行に任じられています。浦賀にペリーがやってきた時でしたが、江戸城勤務であったので、難しい交渉には晒されませんでした。それでも自領の村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに百名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますが、旗本総数での平均値をみると、それぞれが約百七十石に過ぎないことになります。それでも戊辰戦争後になると、従来の家臣を扶持することができなくなった徳川家は、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、平均値はたったの三十一石になります。なお一石は一年間に一人が食べるお米の量でしたが、一日で三合食べる計算でしたから、江戸時代の人はお米を沢山食べていたことになります。その上で徳川家は旧旗本に対し、新政府の職員となるか、農商に帰するかを迫りました。 旗本たちは、失業状態となりました 受ける俸禄も有名無実となり、旗本に与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、あっさりと解雇されてしまったのです。しかも間もなく、これらすべての経済的諸問題が、新たに発足した明治政府に移管され、金禄公債で保障されたことで、各藩主は経済的恐怖から解放されることになりました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売したが失敗して『武士の商法』侮られる者、そして北海道行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部は政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。このような旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家で、日本名は三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。ウィリアム・アダムズは、サムライの称号を得た最初のヨーロッパ人であり、いまの横須賀市西逸見町に二百五十石の領地を与えられ、妻は日本橋大伝馬町の名主の娘でした。 元和六年(一六二〇年)、按針は平戸で病死し、五十五年の生涯を閉じました。アダムズの領地であった逸見町にある塚山公園には、按針の遺言によってこの地に建てたと伝えられる二基の供養塔が残されており、この『三浦安針の墓』は、国の史跡に指定されています。なお、その子のジョセフ・アダムズは、父の持つ旗本の地位と領地と朱印状を継いだが、その後の消息は不明。死後は領地の三浦に埋葬されたとも言わます。
2024.08.10
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細川ガラシャ、そしてマリー・アントワネット 平成二十四年春、三春歴史民俗資料館で開かれた特別展で頒布された、『愛姫と三春の姫君』というパンフレットの説明に、『細川京兆家・細川昭元の子孫は、秋田家に仕えることとなった。家中に二家ある細川家のうち、桜谷を代々の屋敷地とした桜谷細川家には多くの資料が残されており、三春の細川家こそが京兆家といわれた細川氏の嫡流です』とあったのですが、なぜこのように、由緒ある細川京兆家が、中央から離れた奥州の一角、この三春へ来たのでしょうか。まず、細川京兆家について調べてみました。 細川京兆家は、室町幕府の屋台骨として絶大な権力を誇った家で、『京兆』とは右京大夫の唐名の『京兆尹(けいちょういん)』のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来します。これは、有名な徳川光圀が中納言であったので、その唐風の呼び名の『黄門』と呼ばれたように、唐名で京兆家と呼ばれたものです。なお京兆尹とは、古代中国の官職名で、首都の近郊を管轄する行政長官の官名として使用されたものです。 細川京兆家十九代当主の細川昭元は、室町幕府十五代将軍の足利義昭から昭の諱を受けて織田信長と戦いましたが、後に投降して信長の妹・お犬と結婚し、さらに信長からも諱を授かり信良と名を改めています。豊臣秀吉の時代になると、聚楽第に秀吉の悪口が落書きされた事件で捕縛され、まもなく病死してしまいます。この昭元とお犬の間の長女が、三春藩初代の秋田実季の正室『円光院』となります。一方、信長のもう一人の妹の『お市』の娘の『お江』が、二代将軍・徳川秀忠と結ばれたことから、その子の三代将軍・徳川家光と秋田実季の子の俊季は、又従兄弟の関係となったのです。秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらに、この良縁をもたらしたということで、細川京兆家二十一代当主の細川義元は、秋田家に迎えられたのです。そして、いわゆる家老である年寄衆より上席で別格の家として、元勝 義元 宣元 忠元 孚元 昌元と代々城代あるいは大老として三春藩に勤めていました。いまの三春町桜谷にある三春歴史民俗資料館の場所に屋敷を構えたことから、桜谷細川氏と呼ばれました。また、義元の二男の元明は分家を興し、本家と並んで重職についています。ところで時代の下がった戊辰戦争の時、三春藩の細川可柳という名が出てきます。そして現在、七軒ほどの細川さんが三春に住んでおられます。これらの方々は、細川京兆家の末裔なのでしょうか。秋田家や細川京兆家の菩提寺は三春の高乾院にあり、ここには細川義元や元明の立派な墓もあります。いずれ名門である細川京兆家は、三春で代を重ねたことになります、 ところで、この細川京兆家の分家とされるのが『肥後細川家』です。ただし近年の研究では、肥後細川家の祖は宇多源氏佐々木大原氏の流れとも云われていて、要するにまだよくわかってないというのです。この肥後細川家の祖とされる細川藤孝は、三淵晴員の次男として京都東山に生を受けています。そもそも三淵家と細川家では、養子が出たり入ったりしていて諸説がある上に、細川藤孝は、熊本で暮らしたことはないとされます。しかし、系譜的には細川藤孝から始まるので、肥後細川家の初代として扱われているのですが、実際に熊本藩主になったのは孫の細川忠利からです。平成五年八月九日より平成六年四月二十八日まで内閣総理大臣を務めた細川護熙氏の先祖は、この忠利ですから、護熙氏は細川京兆家の分家ということになります。つまり三春の細川家こそが、細川京兆家といわれた細川氏の嫡流なのです。 この分家という関係ではありますが、肥後細川家の細川忠興は、明智光秀の娘の『玉』と結ばれました。ところが天正十年(1582年)、本能寺、いまの京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町において、明智光秀は主君の信長を討ったのです。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。玉は『逆臣の娘』として、生まれたばかりの子供とも離され、いまの京丹後市の山中に幽閉されたのです。やがて侍女である『清原いと』が受洗してマリアと称していたことから、その手引きで玉も受洗、ガラシャの洗礼名を受けたのです。 慶長五年(1600年)、関ケ原合戦が勃発する直前、徳川家康に従って山形の上杉征伐に向かっていた細川忠興らの妻子を人質としようと、豊臣方の石田三成が動きました。三成は、細川家にも豊臣方に従うようが申し入たのですが、留守を預かる玉はこれを拒みました。翌日、三成は兵を送って細川屋敷を囲ませ、力づくでも従わせようとしたのですが、玉は捕らえられて恥を晒すよりもと、死を選びました。しかし、キリスト教では自殺を許さないため、玉は家臣の小笠原少斎に命じて、部屋の障子の外から槍で胸を突かせたと言われます。辞世の句は、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」でした。享年、38歳という若さでした。 このガラシャの最期は、日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられ、印刷物などを通じて広く知れ渡ることとなりました。そして、それからおよそ100年後の1698年、新作戯曲『気丈な貴婦人〜丹後王国の女王』が、オーストリアのハプスブルク家宮殿内のホールでオペラとして上演されました。その戯曲のモデルは、イエズス会の宣教師たちが伝えた細川ガラシャの生涯でした。玉の運命はハプスブルク家の女性たちに共感をもって迎えられ、『貴婦人の鑑』と呼ばれて、マリー アントワネットにも影響を与えたといわれます。 悲劇のヒロインの東西両横綱といえば、東の細川ガラシャ、西のマリー・アントワネットではないかと思われます。実はこの二人の女性、生きた時代も国も異なりますが、不思議な共通点があったのです。どちらも政略結婚で嫁がされ、時代の大激変に巻き込まれて、奇しくも同じ37歳で非業の最期を遂げたのです。すなわちガラシャの悲劇は、遠くヨーロッパにまで伝えられていたのです。マリー・アントワネットが断頭台に行く前、義理の妹に宛てた手紙に、『私はガラシャのように潔く最期を迎えたい』と書いていたそうですが、情報の出所は、どうやら、ガラシャの子孫でもある細川家の関係者から出てきた話のようです。マリー アントワネットはフランス革命でギロチンにかけられる際も、落ち着いた態度だったと言われます。 果たしてマリー アントワネットは、細川ガラシャのことをどこまで知っていたのか、またその生き方に本当に憧れていたのかは、謎として残ったままです。ところが、中村勝郎著『なぜ日本はJapan と呼ばれたか』によりますと、マリー アントワネットは、日本の漆器の愛好者であったそうです。と言うことは、マリー アントワネットが持っていたガラシャへの憧憬が、漆器と重ね合わされたのではないかとも想像できます。それでも、時代の激変に翻弄されながら、死の間際まで決然とした態度を貫いた二人の生き様には、時空を超えた運命的なつながりがあるように思えてなりません。 このオペラの台本は、初演から約300年を経て、ウィーン国立図書館に所蔵されているのが見つかりました。ガラシャ生誕450年を迎えた平成二十五年には、上智大学創立100周年記念事業として、日本でも復活上演されています。
2024.08.01
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