三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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一八九七年の二月、ハワイへの移民船・神州丸の上陸拒否事件が起きていた。これは、六七〇名の日本人を乗せた神州丸がホノルルに到着した際、契約移民一二二名を除いて五〇〇名あまりの自由契約移民が上陸を拒絶されたのである。続いて入港した佐倉丸や畿内丸も、同様の処置を受けた。相次いで上陸を拒絶された事件は、ハワイ併合派があえて日本との間に悶着を起こし、それを利用してアメリカ大陸でのハワイ併合論を形成しようとして起こしていた事件であった。アメリカ政府は、アメリカ人保護を名目に巡洋艦フィラデルフィアをハワイに派遣し、パールハーバーに停泊した。 (注)神州丸(しんしゅうまる)は、日本陸軍が建造した揚陸 艦であった。上陸用舟艇の母艦として高い能力を持つ今 日の強襲揚陸艦のパイオニア的存在である。その存在秘 匿のため龍城丸などのさまざまな名称が使われたが、そ の乗組員は日本陸軍軍人であった。すでにアメリカ側は 日本軍艦として認識していたため、スパイが乗艦してい たのではないかとの疑惑からの処置であったのかも知れ ない。日本陸軍内での艦種名は特殊船とされていた。 (神州丸 HPより) しばらく沈静化していた日米間が、再び悪化してきた。マッキンリー大統領は、「私には、急速に日本人問題の危機が近づいているように思われる。いうまでもなく、われわれはそれを望んでいない。どこかで断固とした処置が講じられないとあの国(ハワイ)を日本にやってしまうことになる」と発言した。これはまた、「邪教対キリスト教」の問題であり、「アングロ・サクソンをジャパナイゼーションから救え」との世論となっていった。 これに対して帝国政府は、「ハワイ共和国の現状維持を切望する」とアメリカ政府に伝達しながら、星亨駐米公使には「アメリカによる併合を避けられない場合は、極力妨害し遅延させること」との訓令を発し、イギリスやドイツに、アメリカのハワイ共和国併合に反対する共同抗議を提案した。 帝国政府が、アメリカのハワイ併合政策に反対していた最大の理由は、太平洋の中間に位置しているこれらハワイの島々が独立国であった方が、日本とアメリカの軍事的緩衝地帯ともなり、ひいては日本の国益にも叶うと考えていたからである。星公使は、本省に対して事態の急迫を説き、「帝国軍艦を出動させて、ハワイを占領するように」と進言していた。 このような対米強硬路線の意見の出る中で、平和解決を指向していた帝国政府は、上陸拒絶事件問題の早期決着を急いでいた。そのため、ハワイ共和国政府が対日賠償金を払うようアメリカ政府の斡旋を依頼した。しかしアメリカ政府も、ジレンマの中にあった。それはハワイを併合する以前に、ハワイ共和国の問題としてこの問題を解決すべきという考えと、併合そのものをすべきではないという考えとが拮抗していたからである。アメリカも平和解決を望みながら、水面下では危険な駆け引きが続いていたのである。 当時ハワイ共和国政府は、外国人上陸条例や労働契約の外国人移入に関する条例を公布し、移住者の入国取り締まりを強化していた。その上ジョンソン・リード法により、日本人のハワイの市民権獲得は、不可能になっていた。 しかしこの間に、ハワイ共和国併合論争の行方を決定づける事件が発生していた。米西(アメリカ・スペイン)戦争である。スペインの植民地であり、アメリカの裏庭と言われるキューバ島の首都ハバナで、独立運動の暴動が発生した。そこは、アメリカの資本が進出していたハワイ同様、世界有数の砂糖生産地になっていた。そこでアメリカは、在留アメリカ人の生命財産の保護を名目に、アメリカ海軍の戦艦メイン号をハバナ港に派遣したのである。 そもそも、真珠湾が軍港としてアメリカの軍事戦略上、重要な位置を占めるようになる経緯は、ハワイ王国時代にさかのぽって説明されなければならない。ハワイ王国とアメリカの間で一八八七年に更新された米布互恵条約(一八七五年締結)が、アメリカの真珠湾の独占使用権を初めて認めたのであったが、その後、アメリカは一八九八年にいたるまで、この権利を行使することはなかった。しかし、米西戦争がスペイン領フィリビンに波及し、太平洋におけるハワイの真珠湾の地勢的・軍事的重要性を認識するにいたったアメリカの軍事改策立案者らは、軍艦の航行を可能にするため、真珠湾の入口付近の珊瑚礁を剤り取る工事を開始したのである。 とにかく帝国政府の内情を知るにつけ、大変なときに大変なことを引き受けてしまったと思った。今までは第三者的に見ていた世界の歴史に、呑み込まれていく自分をイメージしていた。しかしまた、この風雲急な時期だからこそ、太平洋の中間で日米の架け橋となることができるとも考えていた。 富造は気を落ちつけようとして、大きく息を吐いた。やはり緊張していた。しかし今までの経験から、自信はあった。 ──アメリカは西部劇に代表されるように一本気で正義感の強い国だ。確かにこの国は大きく振れることがある、しかし復元力が大きい。ミスがあれば対外的にもキッチリ認める素晴らしい国だ。それにアメリカ人は実力さえ示せば、われわれとも対等に付き合ってくれる。アメリカは素晴らしい国だ。 富造は講義をしてくれた珍田総領事と別れの握手を交わした。その握手は、富造が最初にサンフランシスコに上陸したとき菅原が握ったあの力強い握手が、いつの間にか自分のものになっていたのを感じていた。
2008.05.15
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このような時期、アメリカ国内でハワイ共和国併合を支持していたのは、領土や勢力範囲を拡大することを国益と考える人たちであった。それは、海洋を制する国家が世界を征する、という考え方でもあった。それであるからその主張は、「真の争点は、太平洋の要を支配し優位を占めるのが、野蛮な東洋か文明国のアメリカか」という意見に集約されていた。 この混乱の中で日本人移民の社会は、日本人同盟会をホノルルおよびヒロに結成した。しかし彼らの言動は、王政復古派でも白人併合派でもなかった。彼らの関心は参政権を獲得すること、つまり白人たちと同等の権利を得ることに集約されていた。このようなとき、帝国政府は別の動きをしていた。居留民の保護と、アメリカの軍艦のホノルル係留は日布条約違反との名目で軍艦・浪速を日本から、またサンフランシスコに投錨していた練習鑑・金剛を、さらに時をおいて軍艦・高千穂の三隻をホノルル港に進駐させたのである。その上でハワイ各島の居留邦人の状況視察との名目で、金剛をヒロに派遣した。日本は邦人保護を名目に軍艦を派遣することでハワイの独立を支援し、アメリカへの併合の動きを牽制していたのである。このとき司令長官の東郷平八郎は全乗員に対し、「本鑑がこのホノルルに停泊する以上、皇国の領土の一部がここに延長されたと同様の意義を有するものである。従ってわれわれの一挙一動は、直ちに帝国の品性にまで影響を及ぼすものであることを自覚し、いやしくも軽挙妄動のことがあってはならないと同時に、いよいよ決行する場合は少しも躊躇することなく、断固として進むべきに進み、もって皇国武人の本領を十分発揮するよう切望する」と訓辞をして事に備える覚悟を促した。 (上・軍艦高千穂 下・練習鑑金剛 HPより) ドールを大統領とした暫定政府は、日本からの外圧には強い危機感を持っていた。暫定政府は、「将来脅威となる(激増する)日本人」として、その対応についてアメリカ側に注意を促していた。 マッキンリー大統領は、日本との関係が「深刻な状態から、危機的な状態に移りつつある」という認識を示し、「日本側は攻撃的な態度をとっている」と言って非難した。アメリカ国会は軍事的に圧力を加える日本に対応するため、「短期的には軍艦・オレゴンをホノルルに派遣し、ハワイを併合して星条旗を掲げる。長期的にはニカラグアに運河を建設し、新たに軍艦を十二隻建造して半分を太平洋岸に配備する」という案が秘密裏に議論されていた。 俄然ハワイを舞台に、日本とアメリカの間が険悪になった。 ハワイ併合派は、併合までの長期戦に備えて暫定政府ではなく、ハワイ共和国そのものの成立に動き出した。 一八九四年、アメリカは、自分たちが政治的支配を充分に維持するだけの労務者を確保した上で、ハワイ共和国の誕生を宣言した。リリウオカラニ女王はアメリカやイギリス政府に抗議したが、間もなく日本を含む諸外国は、新生・ハワイ共和国を承認していった。ハワイ王国の滅亡は、既成事実となった。 アメリカは本国での排日運動を背景にして、帝国政府とハワイ王国の間で結ばれていた移民条約(官約移民)を廃止された。その間に四十六船、二万九千人にも及んだ官約移民には、福島県からの二船も含まれていた。アメリカ人たちは、「逆民族浄化だ」と言って神経を尖らせていた。それはやがて日本人に限らず、アジアからの移民の制限はしだいに強化されることになった。すでにアメリカは、ハワイ共和国政府の頭越しに、それらの政策を決めていた。日本に残された道は、ハワイへの私的な移民のみであった。帝国政府は、ここに活路を求めようとした。個人の行為なら、政府は口を拭っていられるのである。 この年から政府間協議による官約移民の時代が終わり、私的移民の時代となっていた。そのために移住事業は営利事業となり、民間の移民会社の手により推進されていた。この高い営利性に着目した帝国政府は、これを与党である自由党に連なる民間実業家に委ねていった。 ハワイ人の意志を無視した各国の勝手な行為は、ハワイ先住民の間に民族主義の火をつけることとなった。 一八九五年、ハワイ人系王政派は、再びウィルコックスなどの指揮の下にホノルルへ侵攻し、発電所、電話局、警察署を占拠して官庁街を襲った。共和国政府軍と武力衝突となり、戒厳令がしかれた。しかし二週間で武装蜂起は鎮圧された。反乱軍の首謀者の烙印を押されて逮捕され廃位させられたリリウオカラニ女王は、カウラナ・ナ・ブア・オ・ハワイ(愛国歌)を国民に残してアメリカへ去って行った。 譽れ高きハワイの花よ 忠誠を誓いなさい、アイナ(土地)に忠実でありなさい 悪魔の心をもった使いがやってきました 貪欲な恐喝文書をもって ハワイ島のケアウェが応えています ピエラニのところからも助けがきます カウアイ島のマノが支援します カクヒヘワの人々も加わります 誰も手を触れてはいけない、誰も署名をしてはいけない 敵が提案してきた文書なぞに あやまって取られたわれわれのアイナを取り戻そう 私たちは惜しいとは思わない 政府の大金なぞは われわれの祖国の石 昔からの食物で満足しよう リリウオカラニを支えよう 私たちのアイナへの権利を維持できるように 繰り返し歌おう アイナを愛する国民の歌を
2008.05.14
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あの元年者の移住から十八年が経っていた。カラカウア王はこの一行のために盛大な歓迎会を開いた。ハワイ音楽とともにフラ・ダンスが舞われ、日本酒が振る舞われた。しかしこの移民の実体は半奴隷的、農奴的待遇であった。移民たちが知らないうちに、人身売買に近い形で送り込まれていたのである。ハワイには「主人と召使法」という封建的片務的な法律があり、労務者には契約満了が絶対的な義務とされていた。そのため農場では、ポルトガル人の人夫頭(ルナ)監視のもとに、炎天下、長時間労働を強いられていたし、少しでも作業の手が遅れればルナの鞭が飛び、工場では地獄の炎のような暑さと機械の騒音であふれていた。これはハワイ現地人に対しても同じ状況であった。 (元年者の記念碑・ホノルル) このような労働条件下で、日本人移民が必ずしも穏和にしていた訳ではない。官約移民開始後十五年の間に、日本人移民が起こした抗議運動は数百件にも及んでいた。移民たちは集団で、あるいは代表を立ててホノルルまで行進し、日本総領事館やハワイ王国政府移民局に陳情に赴いた。このような中で、かってのサンフランシスコの自由民権派、愛国同盟のメンバーがハワイに渡って行った。菅原伝も、その一人であった。 一八八七年に入ると砂糖の価格が下落し、経済不安が深刻化した。アメリカ系住民らは改革党を組織し、四〇五名にも及ぶ秘密結社・ハワイアンリーグを結成した。このリーグの目的は、貧困から先鋭化するハワイ人のナショナリズムの台頭を押さえるためにあった。そのための王権縮小と議会勢力の強化を目指したハワイアンリーグは、白人市民の義勇軍・ホノルルライフルズの協力を得、彼らの代表団となる十三人委員会がギブソン首相の退陣と新憲法の採択を要求したのである。 ギブソンは白人であったが、末日聖徒イエス・キリスト教会の布教のため一八六一年にアメリカからハワイに行った。しかしハワイにおける現地住民に対する人種偏見を見てからハワイの政治に関与し、ハワイ王国の首相を務めていた人である。ギブソンは「ハワイ人のためのハワイ」を主張し、白人によるハワイの搾取と闘う姿勢を示していた。しかし何らの有効な手段を打ち出せなかったカラカウア王は、自身の味方のギブソン首相を解任し、ハワイアンリーグに膝を屈したのである。 十三人委員会は新憲法を起草し、カラカウア王に対して二十四時間以内に承認するよう突きつけた。威嚇によって強制的に調印させられたこの一八八七年憲法は、ベイネット憲法(武力による強制憲法)と呼ばれた。このベイネット憲法の特記すべき内容は、次のようなものであった。 1 王の個人的指名による組閣の廃止。 2 内閣は立法にのみ責任を負う。 3 貴族院(上院)議員は王の指名によらず選挙による。(上 下両院の選挙) 4 王の政治的行為は、すべて議会の承認を要す。 5 義勇軍の編成も議会の承認を要す。 6 選挙権は、新憲法に宣誓した欧米生まれの外国人居住者で、 かつ土地の所有者に限る。 ギブソンは、この強圧的な憲法の成立に気を良くした白人勢力の圧力によって退陣させられた。失意のうちにハワイを去ったギブソンは、六ケ月後にサンフランシスコで病死したと伝えられているが、「ハワイにとっては悪党であったがハワイ人にとっては救世主である」と言われた。 この無茶な白人勢力に対し、ハワイ人も抵抗をはじめた。 一八八九年、イタリア留学を終えハワイに帰って来たハワイ人のロバート・W・ウィルコックスの自由愛国協会軍団が、王宮広場と政府の建物を武装占拠した。しかし真珠湾にいたアメリカ海軍の海兵隊とホノルルライフルズの支援を得た義勇兵に、一晩で鎮圧されてしまった。軍隊として訓練されていないウィルコックス軍は、軍隊としての形を成していなかったのである。また同時に活動した旧憲法の復活を唱える別の組織、フイ・カライアイナは、ハワイ人のみならずイギリスやドイツ系などの支持も集めていた。 一方この動乱の中の一八九一年、ハワイのカラカウア王はサンフランシスコで病気療養中であったが、ここで客死した。リリウオカラニ女王がその後を嗣いだが、財政の大幅な赤字とアメリカの砂糖輸入関税の増税がハワイ経済に大打撃を与え、ひいては再三にわたっての女王の組閣が成立せず、政治的混乱を招いていた。 女王は当然ながら王権派の国家革命党を支持していた。しかしそれがアメリカ人たちの反発を招き、組閣することができなかったのである。やむを得ず女王は白人首班の内閣を組織し、ようやく議会の承認を得て小憩を保つことができたのである。この混乱は、アメリカ派とフイ・カライアイナの間の強い対立に起因していた。しかしリリウオカラニ女王と王権派は、復権への活動の手を休めなかった。それがさらにアメリカ派との対立を激化させることになった。 一八九二年、サンジェゴからホノルルに移住してきたばかりの弁護士、ヘンリー・E・クーパーの助言で結成された秘密結社・併合クラブと十三人委員会は、新たに公安委員会を立ち上げ、クーデターを決行した。この公安委員会の期待を裏切ることなく、アメリカ軍艦ボストン号の砲兵大隊が上陸してハワイ王国政府庁舎、アリオン・ホールを占拠した。その上で公安委員会は、ハワイ最高裁判事のサンフォード・バラード・ドール(アメリカ人を両親にハワイで生まれたハワイ市民)にハワイ暫定政府の代表就任を依頼した。彼は公安委員会のメンバーではなかったが、併合派からも王権派からも信望が厚かったのである。 ドールの暫定政府は、その樹立を宣言すると直ちにハワイ王国政府庁舎と公文書館を占拠し、戒厳令を敷いた。すでにアメリカ政府は、反王制を宣言していた。リリウオカラニ女王は暫定政府との武力衝突を回避するため、暫定政府にではなく、アメリカ政府に一時的に降伏した。そしてドールには次のような正式な抗議文を送った。 私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、またハワイ王国憲 法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特 定の人々が私および、ハワイ国立憲政府に対して行った反逆行為 のすべてに対して、ここに厳重に抗議します(略) 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避 せんため、アメリカ政府が事実を提示された上で、アメリカの外 交使節のとった行為を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主として の権威の座に私を復位させる時が来るまで、私は抗議をもって、 ひとまず私の権限を放棄いたします。 紀元一八九三年一月十七日 R リリウオカラニ
2008.05.13
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(ハワイの王族) 左・カラカウア王 中・カメハメハ4世 右・カメハメハ5世 左・ルナリロ王 右・カイウラニ王女 ハ ワ イ の 小 史 ハワイでは製糖業が主要産業として確立し、それまで移入されていた清国人より、より質の高い日本人を移入する気運が高まっていた。 万延元(一八六〇)年、カメハメハ四世が、また慶応三(一八六七)年にはカメハメハ五世が日本に移民要請の親書を寄せていたが、明治維新に向かう混迷下にあった日本は積極的に対応できないでいた。そのためハワイ王国政府は、アメリカ人貿易商で在日ハワイ国総領事を兼ねていたユージン・バン・リードに幕府と交渉させ、出稼ぎ人三〇〇人を集めたが明治維新で新政府と入れ替わったため、すべて中止とされてしまった。その上、日本の言論界も黒奴売買に似た行為であり、外国人に欺かれて疾病にかかろうとも何の保証もないと反対していた。しかし出航の手配を整えていたにも拘わらず却下されたバン・リードは、無許可のまま一五三名の日本人をホノルルへ出航させてしまったのである。この最初の日本人移民は明治元年にハワイに渡航したことから、元年者と呼ばれるようになった。 しかし、ふれこみとは違う砂糖キビ農園における過酷な労働条件は、元年者移民の中から三名もの自殺者を出した。もちろんそれは酷暑と失望という自然、精神状況もあったが、酷使と苦痛という人為的問題も絡んでいた。これが日本の民心を強く刺激した。そこで翌明治二年、明治政府はハワイに使節団を派遣してハワイ王国政府と折衝をし、契約と異なる過酷な労働に不満を持つ四〇人を即時帰国させ、残留者には待遇改善を約束させることで両国間の悶着は一応の決着をみることとなった。この使節団の来布を機に日布修好通商が話し合われ、明治五(一八七一)年、日布修好通商条約が調印された。しかし再び日本人移民が渡航したのは明治十八(一八八五)年で、その間、日本からの移民は公式には許可されなかった。 一八七二年、カメハメハ五世が後継者を指名しないまま他界したため、王位決定は議会にゆだねられ、族長系統の最高位にあったウィリアム・C・ルナリロ王子が選出された。翌一八七三年、ルナリロは王位を継承し、カメハメハ五世の一八六四年憲法を擁護する旨を宣誓した。ルナリロ王は有力なアメリカ人を閣僚に据えることで、アメリカからの政治的経済的援助を期待した。 ハワイ王国政府は新内閣を組閣後、アメリカとの互恵条約交渉を再開した。ハワイでは、オアフ島のパールハーバーを海軍基地としてアメリカに独占的使用権を与えることによって互恵条約締結を実現しようという意見もあった。その一方の当事者であるアメリカは、一八六七年にロシアからアラスカの割譲を受け、さらにハワイ諸島西端のミッドウェイ島を手に入れていた。そのためもあってハワイ駐在のエドワード・マクック公使は、アメリカ国務長官宛に、「(ハワイ)国王からハワイの国家主権を買い取ることが可能であると思う」と報告してハワイ併合を示唆していた。 ハワイ併合論争は、アメリカが建国の理念としていた二つの原則と主義のもたらす矛盾から、ジレンマに陥っていた。一つは、ハワイがアメリカの否定していた君主制であり、もう一つは、他国に干渉せずアメリカ大陸の中で独自の道を歩む「モンロー主義」という原則であった。そのためハワイを植民地としてではなく、王制を廃止した州としてアメリカの共和制に参加させるという案もあった。しかしこの案は、併合の賛成派にも反対にも理解させることが出来なかった。つまりアメリカ人は、ハワイにいる白人以外の人種を劣等かつ野蛮な有色人種であると考え、文盲の苦力、奴隷に近い労務者を白人の紳士と同様に扱う訳にはいかない、という論理があった。それは王制、共和制以前の問題であった。その上でアメリカは、アラスカが北方を守り、中南米に運河を設けることで、ハワイ諸島がアジアへの太平洋の中継地として重要な役割を担うという大きな構想を画いていた。ところがルナリオ王が、翌年に急死してしまった。米布互恵条約交渉は、中断されてしまったのである。 ルナリオ王の死によって、デイビット・カラカウアとカメハメハ四世の未亡人エマ王妃の間で再び王の選出が行われ、カラカウアが王として選出された。 一八七四年、カラカウア王はアメリカ政府の招待でワシントンを訪問した。これをきっかけにして、米布互恵条約交渉が再開された。 一八七五年、米布互恵条約が締結されたことでハワイの砂糖に対するアメリカの関税が撤廃され、砂糖産業の発展が見込まれる中で農園の労働力不足は深刻なものなっていた。しかもアメリカはこの条約の第四条に、ハワイの港湾、全領土をアメリカ以外の他の国に譲渡や貸与をせず、また特権も与えないという条項を入れたため、ハワイ王国は全面的にアメリカに依存する体質となってしまったのである。 カラカウア王は、免疫のなかった病気の流行などで五万人までに激減した人口に不安をもっていた。それの解決のために白人の外来勢力の拡大を阻止し、ハワイ王国の独立保全のため日本と同盟を結び、アジア太平洋地域に同種族連合を形成したいと望んでいた。 一八八一(明治十四)年、カラカウア王は世界周遊の旅に出た。サンフランシスコに足を踏み入れたカラカウア王はそのまま折り返して太平洋航路で東京に向かい、日本側の盛大な歓迎を受けた。ここでカラカウア王は明治天皇に対してハワイへの移民を懇願し、やがて王位につかせる姪のカイウラニ王女と日本の皇族・山階宮定麿親王との婚約を申し入れた。一八八二年に建設されたイオラニ宮殿はこれと無関係ではなかったのかも知れなかったが、この結婚は日本側の理由で進展することなく終わった。 一八八五(明治十八)年、日布移民条約が締結され、第一回移民船で九四六名の日本人が東京市号でハワイに渡った。この移民は政府の斡旋で送り出されたので、官約移民と呼ばれた。約定書の内容は、次のようなものであった。 一、渡航費用はハワイ側が負担 二、三カ年の契約でハワイの砂糖耕地での労働。ただし労 働選択の自由なし。 日給 男 九弗+食費六弗 妻 六弗+食費四弗 三、一ヶ月の労働日数 二十六日 一日の労働時間 耕地十時間 工場十二時間 四、移民とその家族を無料で治療する 五、移民の給料の二割五分を天引き貯金する
2008.05.12
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とるものもとりあえず出頭した富造に、珍田はハワイ共和国政府からハワイ移民局の職員として、適当な人物の推薦を依頼されたことを話した。そして領事は、「日本人としては数少ないアメリカの市民権を持ち、ユタ準州国民軍でアメリカに忠誠を誓い、獣医として立派な職を有し、広島移民会社などとの強いコネクションのあるあなたが最適任である」と告げたのである。もし富造の了承が得られれば、「すぐに帝国政府に申請し、帝国政府からハワイ共和国政府に推薦、ハワイ共和国政府がハワイ移民局の職員として雇用する」ということであった。「勝沼さん。今年だけでもハワイの砂糖キビの農場に、移民会社の口利き移民として一二、二九三人が移住しているのです。これら言葉も分からない日本人の移民が大変苦労をしています。日本からの移民がハワイ共和国政府以上にあなたを必要としているのです。なんとか承知してくれませんか」 富造は逡巡していた。独り身の腰の軽さはあった。しかし聞けば聞くほどその任務は重大である。それに果たしてその責任に耐えられるかどうか? 富造はハワイに新たな希望を見る半面、ここアメリカの特にソルトレーク・シティで世話になった多くの人々と、ここで培われた人間関係は貴重だとも考えた。 ──多くの世話になった人たちに、なんと言おうか。それにせっかく築いた人間関係を失うことになってしまう。しかし妻子を呼び寄せるのにはそれ相当の安定した収入も必要だ。たしかに貧しく人口の多い日本は、恒久的な移民先を確保する必要もあるのではあるまいか? それにはハワイは、恰好な場所かも知れない。 その考えている様子を見た珍田総領事は机の引き出しから一通の書類を取り出し、黙って富造の前に差し出した。それは珍田が外務省に提出した書類の写しであり、日本人移民の現状が的確に記されていた。 醜聞新聞紙上ニ現ハレ広ク江湖ノ物議ニ上ルハ、我邦ノ体面上 最モ忌ム可キ事ナリトノ一議ハ、敢テ小官ノ喋々スルヲ要セザル 所ニ有之候。右等ノ流言ノ出ズルモ畢竟登港ニ於ケル本邦賤婦ノ 賤業追々世人ノ注目に触ルヽカ故ニ他ナラザル義ニ付、此際一層 ノ鋭意ヲ以テ此害源ヲ除去スルノ方法ヲ講究スルハ、最モ緊急ノ 事ト愚考致候。 ・・・近来邦人ハ動モスレバ、清国人ト同様当国人ノ嫌悪ヲ受 ケントスル折柄ナレバ、此儘ニ捨置キ醜業者ノ為ス任スレバ、此 醜業者ハ日本人排斥ノ為メ研竟ノ口実トナルハ蓋シ免レザル所ニ シテ・・・ 富造はそれを読みながら、重ねるようにハワイ移民官就任の要請をする珍田の言葉を聞く自分の手が微かに震えているのを感じた。「済みません領事。ちょっと考えさせて頂けませんか?」 珍田の目に失望の色が微かに浮かんだように、富造には感じられた。 ソルトレーク・シティに戻る長い汽車の中で、富造は高ぶってくる気持ちを抑えつけようとしていた。 ──人生の岐路に迷っている今、俺にとって正しい選択とはどちらなのであろうか? ソルトレークに戻った富造は、正座するとあの刀を引き抜いた。父親との会話を思い出していた。 「いいか富造。これを抜く時は、切羽詰まったときだけじゃ。仇やおろそかに抜くものではない。分かったな富造」 綱廣銘の刀は、富造の決断を迫るかのように光っていた。 ──珍田さんが言っていた。今年だけでもハワイに渡った日本人は、一万二〇〇〇~三〇〇〇人にもなると・・・。 富造は刀を抜き身のまま右手に持つと庭へ出た。夜の乾いた空気が、張りつめたように澄んでいた。富造は両手に刀を持ち替えると大上段に振りかぶった。一瞬ふと思った。 ──そうか、これは日本人のためになることなんだ・・・。アアッ。それにハワイは、ここより日本に近いんだ・・・。「えいっ」 大上段に振りかぶった刀を、裂帛の気合いとともに振り下ろした。それは自分の過去を断ち切った姿にも思えた。 富造はハワイへ行くことを決意した。そしてその決意の中には、妻子を呼び寄せることも含んでいたのである。 ──俺はいまアメリカの市民である。 その事実が強い自信を生んでいた。 ──今も続いているという「東北は賊軍」と考える日本に一線を引いて、ハワイにしっかりした生活の足場を作ろう。これこそが、末日聖徒イエスキリスト教の「先祖と家族を大切に」という教えなのかも知れない。 そう考えたのである。 富造は、諾の返答を持つと再び珍田を訪れた。 急遽、ハワイの現況についての講義がはじめられた。
2008.05.11
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間もなく、広島海外移民会社の重役となり日本に戻っていた菅原から、「ハワイを広島海外移民会社で募集する移民希望者の受け入れ先とする研究のために、ハワイ共和国へ行く」との連絡が入った。ハワイはアメリカの圧力で王国を廃し、そのバックアップで共和国となって成立していた。 ──菅原はハワイか。アメリカは難しいから、ハワイ共和国の市民権をとるのもいいのかも知れないな。 富造は、妙に惹かれるものを感じていた。 新たに成立したハワイ共和国を、各国が批准をしていった。しかしそれと同時に、ハワイに対して触手を動かしているかのように見える日本に対し、アメリカの世論は沸騰していた。特にアメリカ大陸にあった排日論者はこの機を見逃さず、その主張を強めていた。「日本側が日布渡航条約にもとづき、アメリカ人と同等の参政権を要求する危険性」「島には四万人の清国人と日本人がおり、彼らが騒乱を起こす可能性」「日清戦争に勝った日本が、次にハワイを狙っている」「将来脅威となりうる激増する日本人」「ハワイがモンゴル化(黄化・黄禍)する」 彼らは伝統的なイギリスの脅威論に加え、日本の脅威を説いていた。 その当時のハワイでは、二万五千の日系人が参政権獲得運動に熱中し、ハワイ共和国政府はそれを押さえようとしていた。その騒ぎに乗じて、アメリカのハワイ併合に反対していた帝国政府は、日本人居留民保護を名目に軍艦浪速、高千穂の両艦をホノルルに派遣した。その上さらにハワイよりサンフランシスコに廻航されていた軍艦金剛に、この運動を援助するための日本人の一団が乗り込んだ。井上敬二郎 神尾敬介 井上忍 桜田考次郎らである。 一方、ホノルルにはハワイ共和国保護の名目でアメリカの軍艦ボストン、モヒカン、アリアンスなどが入港してきた。ここへ日本軍艦三隻が入港したのであるから、日本とアメリカの軍事的緊張がいやが上にも高まった。「うーん。それにしても日本はやり方が下手だ。アメリカが少しばかりの日本の軍艦を見て驚くだろうとは、どんな了見なのだろう」 富造はそう言った。アメリカの新聞などで、ハワイの日本人移民たちが軍艦の前で日の丸を振りながら、「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と叫んでいると報じられていた。「いや。もしかすると、戦争はともかく日本はハワイを取る気かも知れないぞ」「まさか!」 周太郎の話に、思わず富造は大きな声で否定した。 やがてハワイの日本人による参政権獲得運動が実を結ばぬうちに下火となり、日米両国軍艦は互いに引き上げたが、その後、突如ハワイ共和国政府庁舎に、星条旗が掲げられた。 十二月二日、それを知った日本は、再び軍艦・浪速をハワイに派遣した。そんな帝国海軍の示威行動があろうがなかろうが、アメリカはハワイ共和国政府庁舎に星条旗を掲げることで、実質的領有を宣言したことになった。このことから、ハワイ島ヒロの火山街道を補修していた数十人の囚人たちが「王国政府がなくなったのであれば、われわれはもはや囚人ではない。自由だ」と称して仕事を放棄、翌日になるとこん棒などで看守に殴りかかるという事態となった。それに対して看守側が、やむを得ず首謀者の一人に発砲し、これを鎮圧するという事件を誘発していた。 (防護巡洋艦・浪速 HPより)「夢の国のように思っていたが、来てみればアメリカも大変な国だったな」 農学校を卒業し酪農を研修していた周太郎の、それが帰国に際しての感想であった。「そうですね。この様子だと、いずれ白人の国では、われわれ東洋人はどこへ行っても人種差別を受けるのかも知れません」 周太郎は頷きながら聞いていた。 しばらく二人は、黙っていた。 富造は三春に残してきた妻や子どものことを考えていた。するとそのことを見透かしたかのように周太郎が訊いた。「お前の長男の克巳は幾つになった?」「うーん。そろそろ六歳になるか・・・」「いつまでも、嫁さんと子どもをそのままにしておく訳にはいくまい?」 富造は返事をしなかった。どうにかしなければならないことは、充分に承知していた。「アメリカに学ぶことは多かったが、これ以上の何がある? そろそろ国に帰って妻子のことも考えろ」 周太郎はそう言った。富造が末日聖徒イエス・キリスト教会に入ったことと、日本に帰ることは別問題と思っていたからである。 しかし富造は、アメリカが人種の坩堝であると言われていることから、いつかは自分もその合金の一部に加えてもらおうと考えていた。それであるから、何とかしてアメリカ人になろうという考えに、変わりはなかった。 富造は曖昧な笑みを返すことで、その返事に替えていた。このことは二人の間で、もう何度も話し合っていたことであったからである。「兄貴。国へ帰ったら、俺が元気でやっていることをミネに知らせてくれませんか」 富造は周太郎の帰国後、ユタ準州国民軍へ入隊した。市民権を得るためには軍隊に入った方が早い、というアムッセンからの助言もあった。それには、ソルトレーク・シティのR・H・ルイス氏によって末日聖徒イエス・キリスト教会の執事に任命されたことも幸いしていた。富造は、市民権を得ることはアメリカ人になるということ、と考えていたのである。その夢は、間もなく叶えられた。この富造の市民権取得は日本人で最初か、またそれに近いものであったと言われる。 この市民権を得たときに、富造は思わず一人で苦笑した。自分がこの国での常識であるレディ・ファーストについていけるか、と思ったからである。 ──そんなことをしたら、それこそミネの方がまごつくだろう。第一この俺が、人前であいつと腕など組んで歩けるか! そんなことを考えていた富造は、誰もいないのにカーッと頭に血が上り、顔が赤くなっていくのを感じた。 その後も三国干渉で遼東半島から日本の追い出しに成功し、閔妃暗殺に口実を得たロシアは、清国から旅順と大連を手に入れた上で、さらに多くの太平洋への不凍港を求めていた。そしてロシアは、この二港とウラジオストックとの連絡を保つため、対馬海峡の安全航行が必要と考えた。そこでロシアは、朝鮮半島の南岸の馬山浦に海軍の根拠地を持とうとした。しかしそれに抵抗した日本側は釜山にいた商人・迫間房太郎の名義で周辺一帯の土地を買収し、この策略を押さえ込むのに成功した。しかしそれにも拘わらず、ロシアは満州から朝鮮にかけてじわじわとその勢力を浸透させていた。 ──日清戦争に勝った今、世界一の陸軍国と言われる強力なロシアと満州の野で、直接対峙することになってしまった。今後の日本の安全保障をどうするかが大きな問題だ。日本はいい意味でも悪い意味でも世界から注目される。 富造は、それらのことが気になっていた。 富造のナンパ時代の同僚の松岡辰三郎は、日本へ戻って、広島移民会社の重役となっていた。ハワイにあった菅原は、ハワイに広島移民会社からの移民受け入れの地歩を着々と構築し、その様子を富造に知らせて来ていた。「砂糖キビ労務者の需要が大きいので、それに合わせて多くの移民を集めたいというハワイ側の要請と、白人が賃金の安い黄色人種に職を追われ、やむを得ず生活の場を求めて町へ出て行くという現実がある。それに問題は、このままではハワイが移民に乗っ取られる可能性があるという意見が強く、なおかつ黄色人種は犯罪者の集団だという移民排撃の運動がある」 富造も考えていた。 ──ハワイはポリネシア人の独立国である。今のうちなら小さな島国だけに、日本人にとって差別の少ない移民地とすることができるのかも知れない。 そんなことを考えていた富造に、在サンフランシスコ・帝国総領事館の総領事・珍田捨巳から出頭命令が届いた。
2008.05.10
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ところがロシア、フランス、ドイツの三国が、日清講和条約にある日本の遼東半島領有に反対し、これを清国に返還するよう要求してきた。いわゆる三国干渉である。「今まで自分たちは世界をわがまま勝手に分割してきて、今度は日本が戦争に勝って得た遼東半島を清国に返せという。三国は大陸から日本を追い出して奴等だけで勝手に分割する積もりだ。干渉の度が過ぎる。これもやはり人種差別か・・・?」 富造は周太郎にそう言うと、ポロポロ涙を流して悔しがった。「富造。やはりお前は日本人なんだ」 しかしそうは言われても、うまく理屈立ての出来ない自分に鬱陶しさを感じていた。自分がアメリカと日本の双方に気遣わねばならない立場にあることを、無理にでも承知しなければならなかったからである。富造の心の中には、なにかがくすぶっていた。遼東半島の返還は、さらにロシアの南進を促した。 ところで日本が日清戦争の賠償として清国より割譲を受けた台湾でも、問題が発生した。つまり清国から分離されることにチャンスを見いだした台湾人たちは、台湾民主国として独立を宣言した。このため日本は、国際法上の法的な領有はともかく、実質的には武力による鎮撫が必要となってしまったのである。台湾独立派の抵抗はすざましく、五ケ月間の戦闘で台湾人一万四千余の戦死者を出したと言われる。負傷者はこれを上回ったであろうが、日本側は戦死二七八人、負傷者は六五三人に留まった。これは新鋭の武器と訓練の錬度の高い帝国陸軍と、貧弱な武器による民衆との戦いの結果を表している。 富造は、カラカイア王を支えたハワイ王国の首相、ウォルター・ギブソンを注視していた。ギブソンは末日聖徒イエス・キリスト教布教のため一八六一年にアメリカからハワイに行ったがそこでのハワイ人への迫害を見てハワイの政治に関与し、ハワイ王国の首相を務めていた人である。彼は「ハワイ王国の優位」や「盟主国家としてのハワイ」という構想を積極的に打ち出し、同種族を集結させてポリネシア大連合を結成し、西欧列強の太平洋諸島への露骨な介入に抵抗していた人であった。富造はギブソン首相のこのような行為に親近感を感じ、宗教的な触発を受けていた。そしてこのような考え方の人の信じている末日聖徒イエス・キリスト教会に憧れを感じ、その教会にも強い親近感を抱くようになっていた。 アメリカにおいては、日本人もその他の国の人々も移民であるとの理由で差別を受けていた。富造はその差別を受ける自分(日本人)たちを、アメリカという国家から奴隷解放などを主張して迫害を受ける末日聖徒イエス・キリスト教会の会員たちに、その姿を重ね合わせていた。それはまた、戊辰戦争において三春という地が受けた賊軍(白河以北一山百文)と裏切り(三春狐)という二重の差別、そしてそれに抵抗して広がったとも考えられる自由民権運動(自由・平等・普通選挙)などと重なって見えていた。 そして末日聖徒イエス・キリスト教会は、家族を大事にしていた。富造はいま、妻や子と離れて暮らしている。離れているからこそ、強い家族の絆が欲しかった。その絆を、この教会は大事にしていた。それはまた、町に住む人の心の優しさにも表れていた。そしてアメリカの豊かさ。それは物質的な意味ばかりではなく、精神的なものにあった。それらのことは、富造がこの教会に頼ろうとする強い意志の表れとなっていた。一人で生まれ、一人で育ったという気持ちのときもあったが決して一人ではなかった。神に支えられ、みんなに支えられ、そして家族に支えられて生きてきたことを知ったのである。 ──そう言えば一八八九年、自分がサンフランシスコに着いて間もなく、サンディゴに住んでいたサミエル・ブランナンという男が死んだと聞いたことがある。 富造は、その話を思い出した。 一八四二年、末日聖徒イエス・キリスト教に入会したサミエル・ブランナンはブルックリン号をチャーターし、一八四六年に男性教会員七十人、女性教会員六十八人、子ども百人を乗せてニューヨークを出航した。それから半年をかけ、南米のホーン岬を回ってサンフランシスコに着いた。ここに、末日聖徒イエス・キリスト教の新天地を作るつもりであった。しかしうまくいかなかったサミエル・ブランナンは種々の事業に手を出し、一時的には大成功するがやがて失敗、七十歳でサンディゴで死んだ。「とにかく兄貴。末日聖徒イエス・キリスト教とは、凄く覇気のある教団だ。この教会が持っている、信ずるもののために行う積極性と行動力は素晴らしい。俺にはこのブリガムヤングやブランナンらの行動力が、モーゼの出エジプト記のようにも思われる。俺も日本を出てきた。自由民権運動も、人種差別の撤廃も、結局は同じものだと考える。俺がこの教会の会員になることは、すでに神によって決められていたことだと考える。俺はこの教会の会員になることにする」 富造にそう言われたとき周太郎は、何も言わなかった。富造にこうまで主張されて、反対する理由を失ってしまったのである。 それから間もなく、富造が祈りのためローガンの教会に入って行ったとき、荘重なパイプオルガンの音が壮大な堂内に満ち溢れていた。ステンドグラスの窓からの光が音の粒を包み、堂の中を飛び、泳ぎ、転がっていた。彼の足は躊躇することなく、自然と前に進んで行った。 祭壇の前に立つ監督の姿が、大きく輝いているかのように見えた。そして彼の前に来たとき、富造は両手を胸の前で組み、両膝を床にして跪いていた。牧師が彼の頭に手を置くと頭が自然に垂れた。そして牧師が話す声を夢の中に聞くかのように感じていた。 (パイプオルガンの前で)「今日、言葉では言い表せられない喜びを心にもたらす出来事を記す。私は起こったことの完全な意味を、理解できないのではないかと思う。・・・驚嘆すべき示現が表された訳ではない。そこにあったのは平安の気持ちであり、グラント使徒の言葉はゆっくりとそして明瞭に語られた。祈りの言葉が私の耳にとどいたとき、私の心は、感動で膨れ上がった」 この年に、富造はガイル・サンチャー、ジョセフ・E・ルイスによるバプテスマを受け、末日聖徒イエス・キリスト教会に入会した。聖水に満たされたバプテスマフォントに息を詰めて頭まで沈めて身を任せたとき、富造は重教の言っていた言葉を思い出した。「科学は疑うことから始まり、宗教は信じることから始まる。そしてそれらは円となり、やがて繋がる」 富造は、母の胎内にあるような心の安らぎを感じていた。 このバプテスマは、ブリガムヤング・カレッジ神学コースに学んでいた富造にとって当然の帰結であった。そして富造は、アムッセンに劣らぬ、敬虔な信者となっていった。「トミゾー・カツヌマは、世界中で最初に教会に入った日本人である。何年も前、彼はユタで改宗した。彼はアメリカ市民になり、今は公務員として働いている」(日本末日聖徒史) 次の結果として、富造は教会の執事に任命された。 その頃朝鮮では、また新たな戦争の火種が発火した。 少数の日本軍兵士と抜刀した日本人の一団により、朝鮮王朝の閔妃(みんぴ)が惨殺されて凌辱され、石油をかけて焼かれるという事件が発生した。この事件を、当時朝鮮の宮中にいたロシア人技師のサバチンと、アメリカ人の侍衛隊教官のウィリアム・マックイ・ダイが目撃していた。その上さらに、異様な風体をした日本人が王宮から引き上げてくるのを一般の朝鮮人も見ていたので、ソウル市内は騒然となった。 日本では緘口令がひかれて秘密にされたが、富造たちはアメリカの新聞などでそれを知った。世界中の注視の中で、帝国政府は「大陸浪人の仕業であって政府は無関係である」と言って逃げようとしたが逃げきれなかった。世界の弾劾の世論の中で、やむを得ず政府は関係者を逮捕したが、軍人たちは広島軍法会議で全員無罪、民間人たちも広島地方裁判所で証拠不充分として全員免訴の判決が下された。この大事件に、日本人は誰も関与していなかったとされたのである。 この判決に、富造は衝撃を受けていた。 ──外国のメデァがこれだけ報道しているのに、帝国政府は隠しおおせると思っているのか!
2008.05.09
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神 の い ざ な い 富造は以前に、アムッセン家を訪れたときのことを思い出していた。アムッセン夫妻は、ワシントンを旅したときのアルバムを見せてくれた。そして大統領官邸の写真をみせながら、しみじみとした口調で言った。「本当に、ここがホワイトハウス(白亜館)という名前でよかった。この回りの住宅には黒人が多くなってしまったから、せめてこれが一つあるだけでも、アメリカは黒人の国ではないという証拠になる」 それを聞いた富造は、複雑な気持ちになった。にこやかに話している彼らの心の奥底に、「この黄色人奴」という意識が向けられているのかも知れない、と思ったからである。 ──あのときアムッセン夫妻は、俺のことをどう思っていたのだろうか? あの様子からすると、俺を差別の対象にしたとも思えない。しかし俺を白人だと思う筈もないが・・・。 アメリカ人は、よくわれわれに主張する。「アメリカ人は人種差別をしているのではない、自分たちの文化や個性を守りたいだけだ」 そう言われると、富造は無性に反論したくなる。 ──それじゃ、われわれ日本人たちの文化や個性はどうなるのか? お互いの文化を知り合うことで自分の国の文化を再確認する。それが大事なのではないのか? しかしそれは、できなかった。この国で世話になっているという感覚が、それを押し止めていた。そしてそれ以上に、次の質問が富造を驚かせた。「日本には宗教教育がないと聞いているが、どうやって道徳教育をしているのか?」と訊いてきたのである。 富造は返答に窮した。たしかに日本の学校に宗教教育はない。しかし善悪の規範はもっている。その規範の基礎は、神や仏にある。だからと言って、それ以上のことは自分でも分からない。アムッセン氏は日本のことを良く勉強していると思うと同時に、宗教教育を受けているアメリカ人の間になぜ人種差別が蔓延しているのか? そのことが不思議であった。 コントリビューター紙が、次のような記事を掲げていた。「日本人は、英語圏諸国の進歩と成功は、その言語と宗教的性向に大きく関係していると考えているそうである」 富造には、この穏やかな文字の裏に、差別の牙が隠されているように思えた。ここには、明らかに白人の優位性が主張されていたからである。 アメリカにおいて、大日本帝国という体制、また天皇制に対する批判が強かったが、それが祖国であることがやるせなかった。自分とはなにかということは、常に直面させられる問題であった。 ──俺は必ずアメリカ人になってみせる。 そんなことを思うと、富造は克巳のことが気になった。三歳くらいの子どもが、その両親と一緒に遊んでいるのを見たりすると、胸が締め付けられるような気がした。 ──手紙では元気だと言って来てはいるが、本当なんだろうか? 疑念がわくと矢も盾もたまらない気持ちになった。 ──神様。どうぞ克巳が無事に育っていますように。 そんなとき富造の両手は自然と組まれ、祈りの形となっていた。 ──人は何故祈るのか、私は何故祈るのか・・・。夢と失望を紡いで時間がただ流れ、季節は次の季節に移っていく。これでいいのか。このままでいいのか・・・。 日清戦争は年を越していた。そして日本人と清国人の間の関係に、微妙な変動が起きはじめていた。 二月二日、 帝国陸軍は、山東半島とこれに続く威海衛を占領した。 二月十二日、帝国海軍は、東洋最強といわれた清国北洋艦隊を、威海衛軍港に降した。「一体この戦いに、日本はどれほどの犠牲者を必要とするのでしょうか?」 富造の戦争に対するあの強硬な態度は、影を潜めていた。「うん。それは清国がどこの地点で敗北を認めるかに、かかっているのだろう」 周太郎の言葉に、富造は考え込んでしまった。 ──下手をすると、あの広大な清国に負けはないのではないのかも知れない。 二人は日本から送られてくる戦争の記事と、アメリカ側の報道との大きな差に、困惑していた。そしてアメリカの新聞は、日本の報道が管制され自由ではないと報じていた。 一方サンフランシスコで愛国同盟と並立していた遠征社の機関紙「遠征」は、在米日本人のあり方として、次のように主張していた。「四囲皆異人種の中に漂流せる有数の日本人何となく心細き感情を有する際、救援扶助憐憫等の必要起りて宗教と関係を来す、是第一変遷にして福音会既に起こり支派亦起り在留の同胞殆ど悉く其内に網羅せられ将に渡米せんとする者をし是非とも宗教を信ぜねばならぬかの如くに感ぜしめ、不信者も便宜上信者の面を被るに至らしむ」 (米国初期の日本語新聞)福音会の世話になった富造としては、まったくこのような心理状況にあった。 ──自分は、その被差別人種の日本人である。そこから逃れるため随分と努力も忍耐もした。それにも関わらずアメリカに長く住んだ自分は、純粋な日本人とは言えなくなったのではあるまいか? とすれば、われわれ移民はなにをアイデンティティとして生きるべきなのか? そして生きるということは、それ自体を探すということなのであろうか? もしそうだとすれば、宗教に頼るということは重要なことなのかも知れない。 アメリカ人であろうとする富造は、まだ模索を重ねていた。 四月、心配していた戦争がようやく終わり、日清講和条約が下関で調印された。アメリカにおける日本人社会は、戦勝での昂揚感に包まれた。アメリカ人たちは日本人に対して尊敬とまではいかなくとも、日本人と意識してくれるようになったと思われた。しかしその喜びは、つつましやかなものであった。その喜びを爆発させることは、各種の民族の住むこの地では憚かられることであると理解されていたのである。
2008.05.08
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当時のアメリカでは、日本や朝鮮が清国の一部、もしくは属国と思い込んでいる者が少なくなかった。それであるから日本という民族が朝鮮という民族を巻き込んで、独立戦争をしていると思ったとしても無理はなかった。「この間町を歩いていたら『わがアメリカは、イギリスと戦って独立した。同じ立場の、日本の独立戦争を応援する』などとアメリカ人に言われて、憮然としたよ」 周太郎はそう言って苦笑いをした。「いやー俺の場合は後ろからついてきた白人の子どもたちに、『チャイニーズ、チャイニーズ』とはやし立てられましてね。俺は思わず『アイアムジャパニーズ。ゲット、ウェー!』と怒鳴ってしまいました。子どもらは驚いて逃げてしまいましたが、ともかくあれには、がっくり来ましたね」 そんなことがあると、富造は不思議と愛国的になった。あの脱亜の志士の意識が目覚めるのである。 ──いや、なかなかアメリカ人になるということは、難しいことだ。 富造は一人で苦笑していた。日清戦争は、二人に激しい精神的打撃を与えていた。「富造。この日清戦争とは朝鮮の意志を無視し、朝鮮を日本と清国が植民地として奪い合っているものではないのだろうか、そしてそれは、西欧列強にならった植民地獲得戦争ではないのだろうか」「それもそうですがアメリカだってハワイで何をしています? 結局は領土の拡大じゃないですか? 日本だって土地が狭くて人口を養い切れないのだから、仕方がないんじゃないですか?」「いや、それを言い出せば、自分の都合が悪かったら他国の土地を奪っても何をしてもよいということになる。 それにロシアだって、日清戦争はアジア進出の足がかり、そして中継基地と考えている節もある」「だから結局は、大国同士、互いの領土の拡張じゃないのですか? それに負けるわけにはいきません」「・・・」 富造は一歩も引かなかった。「結局戦争とは、古来負けた側が差別を受ける、ということになるのかな」「つまり、はじめた戦争は勝たねばならない、ということです。もし日本が勝ったとしても、アメリカでの黄色人種に対する差別はなくならないかも知れません。しかしこの国において日本人の地位は、清国人よりは確実に上になります」「富造はそれがいいと?」「いや戦争がいいとは言っていません。これによって、人種差別が少なくなることがいい、と言っているのです」「まぁな、しかしお前の論法だと、単に被差別者の入れ替えに過ぎないのではないか。まさか今は奴隷などということはあるまいがな」「たしかにそれはないでしょう。むしろその差別は、経済的軋轢にその理由を求めるべきなのかも知れません。西欧列強を含めての領土拡張の目的は、結局経済問題の解決でしょうから」「そう言えば彼らは、移民たちがアメリカ人の職を奪う、とよく言うな」 周太郎は憮然として言った。 失業者で溢れ返った街の道路には、白人で裕福な家族の乗る鉄製タイヤをつけた馬車が、石畳の上を耳障りな音をたてながら行き交っていた。都市は騒々しく不潔で不衛生ではあったが、反面活気に満ちていた。他人の目を気にする必要がなく、ペースが早く、現金と商いの世界でもあった。しかしそれは、白人を含めた労務者の世界とは、まったく別のものでもあった。「アメリカはカネの世の中だな」 周太郎が言った。「どうもそこのところが俺には飲み込み難いのですが、考えてみればアメリカは移民で成り立った国、民族同士の気心が分からないとすれば、契約とカネを仲立ちにするより方法がないのかも知れませんね」 富造も言った。 不景気のアメリカでは、各地でストライキが起きていた。ワシントンでは、コクシーの指導により、労務者たちが政府の禁止命令を無視してデモ行進を実施した。それに対してアメリカ政府は、連邦軍を出動させるとこれを実力で排除した。「それにアメリカは、いざとなると力でねじ伏せるところがある」 周太郎が苦笑しながら言った。「例えば、ハワイ王国の問題はアメリカとの二国間の問題だから別と言ってしまえば語弊があるかも知れないが、このままではたしかに朝鮮の独立は難しいだろうな。日本がそう考えているかどうかは分からないが、ロシアだって身勝手だ。名前が日清戦争だから日本と清国の戦争のように思えるが、朝鮮王はロシアに色目を使っているそうだ。気が付いたら日本は、ロシアと直接対決、などということになりかねない」 すでにロシアは清国の一部の満州に対してその地歩を固め、さらに日本海に達しようとしていた。ロシアとしてはアジア経営のため、軍港としての不凍港を国是として求めていたのである。「そうなんですよね。いずれ近い将来、日本が対馬海峡を挟んだロシア対峙することになるというのなら、先ず日本が朝鮮を取っておいて、その対峙する線を朝清国境に押し上げておくというのも、やむを得ない選択かも知れませんね」 富造の説明に周太郎は黙ってしまった。牙を剥いている国際政治の非情さが、ひしひしと感じられた。そして日清戦争自体が、その国際政治の現実であった。戦いは続いていた。 十一月六日、 金州城を攻略。 十一月七日、 大連を占領。 十一月二十一日、 旅順陥落。 この戦勝に対しての犠牲は、大きかった。しかしアメリカに在住し、しかも白人優越主義を嫌というほど見せつけられた日本人たちにとって、この勝ち進んでいる母国に寄せる期待は、日本に住む日本人より遥かに大きいものがあった。バナナ(白い積もりでも外側が黄色い日本人)とまで言われた屈辱的な体験が、その期待をより大きくしていた。富造に対しても差別はあった。白人から「お前とは話したくない」と言われたり、話しかけても無視されることがあったのである。
2008.05.07
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日本では不作が続き、景気が悪かった。戸閉め、夜逃げ、そして自殺の話が、人の口に乗らない日はなかった。そしてそれらの話は農家にも及んでいた。彼ら農家の次・三男や夜逃げ者の行く先の多くは、北海道でありアメリカであった。新たな希望と新天地を、ここに求めようとしていたのである。しかし行ったら必ず成功する、という訳にはいかなかった。それは北海道であれアメリカであれ、入植者にとっての悪条件は同じであった。 この年ソルトレーク・シティに、末日聖徒イエス・キリスト教会の大神殿が完成した。その威容もさることながら、その建設期間の長さに驚かされた。「三十年以上、つまり俺が生まれた頃はじまった工事だそうです」 富造は周太郎に言った。「うーん。この息の長さはどこから来るのか? 宗教とはそんなに強いものなのか」 周太郎も感嘆の声を上げていた。「アメリカとは、底の知れぬ深さを持っている国だな」 ところで富造は、アメリカの各地で発生する暴力事件を聞きながらも、ソルトレーク・シティでの静かな生活に安心していた。ここに来たときに感じたフレンドリーな感覚が、より強まっていると思っていたからである。「兄貴。俺はこの懐の大きい街が好きだ」「多分、この懐の大きさは、宗教にあるのかも知れないな」「そうなんだ兄貴。恐らくそれは、末日聖徒イエス・キリスト教にあるのではないか、と思うんだ。それに俺には、この末日聖徒イエス・キリスト教は、他のキリスト教とは違うところがあるような気がします」 当時この教会はアジアでの発展の基礎を東京に求め、伝導部の開設を準備していた。日本をアジア伝道の足場に、と考えていたのである。富造がローガンにあるブリガムヤング・カレッジに併設されていた神学科に入ったとき、ソルトレーク・シティはそのような宗教的熱気の中にあった。 アメリカの教育を一言で言えば、自立であると思えた。その基本は、農業科であれ神学科であれ、変わりがないように思えた。個人が個人として社会的に認められ、その個人が自立することによってはじめて自由が得られと教えていたと思えた。日本にいたときに考えていた自由民権の自由とはニュアンスが違うように感じられ、もっと広い意味があるように思われた。聞けばこの考え方は、初等教育から一貫しているのだという。 周太郎もビーハイブ扶助協会で養蚕の実践と指導を続けながら、富造の入っていたローガンのブリガムヤング・カレッジの農業科に入学した。彼は日本に帰ったら、湊の義兄と同じく蚕業技術者となって家を継ぐ、という彼の夢を育てようとしていた。 (ブリガムヤング農科大学と学生名簿・上から2行目が勝沼富造) 一方、日米用達社は、日本にある広島海外渡航会社と特約をし、アメリカでの労務者受入会社として、広島県を中心に移民の募集をしていた。この会社に限らず海外渡航会社は、旅費融資などの金融も行っていた。渡航先での返済を条件に、無資力の者にもチャンスを与えていたのである。そしてこの日米用達社の誠実な仕事振りは、むしろ日本で名声を博していた。逆に言えば、まだまだ一発屋の多い、阿漕な業界であった。 アメリカで経済恐慌が発生した。八千以上の会社が破産し、百五十六の鉄道会社が潰れ、四百の銀行が閉鎖された。さらに農産物の価格はどん底まで下落し、労務者の二十%が失業した。この失業者の増加は、日本からの移民受け入れにブレーキをかけてしまった。日米用達社の仕事は、一時頓挫のやむなきに至った。しかしアメリカとは違い、ハワイには神戸移民会社や小倉商会などが、順調に移民を送り込んでいた。そこで日米用達社は、ハワイに目を付けた。 この年の七月、特約関係にあった広島海外渡航会社は日米用達社に対して労務者を募集し輸送することに同意し、両社は次の条件で正式な合意文書に署名した。 1 移民が特定の場所に行きたい場合には、用達社は必要な旅行 の手配を行なう。 2 移民が仕事口の斡旋を求めた場合には、用達社は求人情報を 提供する。 3 用達社の傘下で働きたい場合にはその仕事を監督し、一○○ 名以上の団体の場合には、用達社はその配置について海外渡 航会社と特別に打ち合わせをする。というものであった。 この協定により、日米用達社は広島梅外渡航会社のアメリカやハワイはもとより、カナダ、メキシコにおける特約代理業者となることになったのである。日米用達社は、その規模を拡大することになった。 ところがハワイでは、この時期、多くの清国人がペストで死んだことから清国人排斥の気運が高まっていた。そのようなときに梅屋という人が見聞したとして、「ハワイのホノルルへの船でコレラが発生し、罹患した清国人の乗客を生きたまま海へ捨てた」などという話を聞いたのも、この頃であった。 富造たちは、暗然としてその話を聞いていた。「アメリカ人そのものになれないまでにも、アメリカの市民権をとらなければ、この差別から逃れることができない」 そう富造が主張するのを周太郎は黙って聞いていた。富造と違って、日本に戻る積もりであったからである。 その間に菅原は日本に帰国し、広島海外渡航会社の重役に就任し、日米用達社は自然消滅してしまった。そしてそれと同時に第十九世紀の後継紙として発行されていた自由がついに廃刊されることとなり、アメリカにおける自由民権運動は、終焉のときを迎えたのである。 一八九四(明治二十七)年の四月、朝鮮の全羅道で県庁を襲撃して要地・白山を占領するという、東学党の乱が発生した。これはキリスト教を西学というのに対して民族的宗教を東学と称し、宗教戦争の形をとった農民戦争であった。 五月三十一日、東学軍は全羅道の主都全州府を占領した。長年に渡 って朝鮮進出を準備していた日本は、この内乱を注 視していた。 六月 四日、清国は朝鮮政府よりの要請を受け、六月十二日に鎮 圧のため清国軍を出兵させた。その機会を捕らえた 日本は、わずか四日後の十六日に日本軍を仁川に上 陸させ、先手を打ってソウルに進軍させた。そして その日のうちに日本は清国に対して、日清共同によ る朝鮮内政改革を提案したが、二十一日に拒否され た。そこで日本は朝鮮に対し、朝鮮内政改革案を提 示して交渉に入ったが不調に終わった。 七月二十三日、この不調を口実とした日本軍は朝鮮王宮を占領し、 朝鮮軍の武装を解除した。日本と清国の間に、朝鮮 を巡って軋轢が生じた。これが日清戦争の前哨戦と なった。 七月二十五日、帝国海軍は、清国海軍と仁川の西の豊島沖で海戦と なり、優勢のうちに帰還した。 七月二十九日、陸上においても、日清両軍が成歓で戦火を交えた。 八月一日、 互いに宣戦布告がなされ、両国は戦争状態に入った。 日清戦争である。 九月十六日、 帝国陸軍は平壌を占領。 九月十七日、 帝国海軍は海戦で勝利。 十月二十四日、鴨緑江に架橋して清国に突入、遼東(金州)半島と 花園口に敵前上陸してこれを占領。 これらの戦果が日本から流され、それらの記事は在米日系新聞に華々しく報道されていた。しかしアメリカの新聞は、緒戦の戦果はともかくとして、長期戦になった場合、日本の不利を報じていた。清国は誰が見ても、大国であった。しかしアメリカの日本人たちは、日本が勝つことで清国人より優位に立てると息を殺しながらも期待していたのである。
2008.05.06
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日本の蚕業の特徴は、その繭から作られる生糸が長く、高品質でかつ丈夫なことにあった。ビーハイブ扶助協会も、二人から積極的にそれらの技術を学びとろうとしていた。「本当は湊の義兄さんに頼んで三春から蚕種を取り寄せたいところだが、輸送の期間とその間の温度管理を考えると、まず成功はおぼつかないな」「うん。俺もそうは思うけど、これについては、いまここにある蚕を使うしかないでしょうね。それと問題は、簇(まぶし・蚕が繭を作るとき糸を掛けやすいようにする網)ですね。稲藁も菅もないところですから麦藁を使うしかないと思いますが、これは固い。編んだら折れてしまうでしょう」「そこなんだ富造。そこで俺は、麦藁を一度煮沸して柔らかくしてから編んだらどうかと思っているんだが?」「なるほど兄貴。それはいいかも知れませんね。それに簇を消毒することにもなりますしね」「それじゃ蚕座紙には何を使う?」「紙は何とか小さな皺を付けて漉いてもらうことにしたらどうでしょう」 二人は蚕具そのものから検討をする必要があった。それらの代替品として、いろんなものが試された。またアムッセンも二人を養蚕のエキスパートとして遇し、地域に大きくアピールしてくれていた。そして何よりも、ブリガム・ヤング自身が養蚕に積極的だったのである。 このようなことからアムッセンのバックアップを得た富造は、アムッセン邸から五〇〇mほど北にあったブリガムヤング・カレッジ(農業科)に入学した。日本での獣医の資格がここでは認められないためにアメリカでの資格を取ろうとしたこともあったが、他人に教える以上、アメリカ式の養蚕についての学問と技術についても知りたいと思ったからである。「兄貴。俺はここで頑張ってみるよ。実力さえあれば、アメリカ人は俺たち日本人とも対等に付き合ってくれることが分かったんだ。まず養蚕をやってみることで、日本人の地位の向上になるかも知れない。それに移民たちの中にも、養蚕の経験のある者が少なくない筈だ」 それはまたアメリカ人になる一歩として、日本人社会から離れてアメリカ人の社会に入り込もうとしていた富造の、趣旨に叶うことでもあった。そんなとき富造は、アムッセンにさらに声をかけられた。「ユタ準州のオグデンにある矯正学校で、養蚕を教えてみる気はないか?」 その依頼の言葉に、富造は感激していた。実力さえあれば自分たちとも対等に付き合ってくれるという考え方に、間違いがないことを実感したからである。 (ユタ準州のオグデン矯正学校)「兄貴。ソルトレークでの養蚕は、将来性があるかも知れませんね。とにかく教会の、力の入れ方が違う」「うん、そうだな。それに矯正学校で教えてくれとは、アメリカ人の先生になれという意味と同じだ。ありがたい話ではないか。それに正式な講師になれば、ビーハイブ扶助協会での収入とも相まって生活の糧にもなる。湊の義兄さんにこんな形でアメリカでもお世話になるとは、思いもよらなかったな」「湊の義兄さん・・・ですか。姉さんも元気でいるんでしょうね?」 思わず二人の話題は、三春へ戻っていた。「ミネさんや克巳も、元気なんだろうな」 富造は窓の外に視線を移した。街の建物の遥か向こうに、急峻な薄紫の山容が迫ってきていた。富造は話をしながら、別のことを考えはじめていた。それは日米用達社に力をつけ、日本から移民を呼び寄せて搾取のない会社を作れないかということであり、教養も品性もない下等な労務者として軽蔑されている日本人たちに、よりよい仕事を与えられないかということであった。「兄貴。三春の三師社(自由民権運動の学校)を作る積りで矯正学校に参加し、移住して来る日本人のために自由のコミュニティを作りましょう。そして何とかして日本人を人種偏見から救い出しましょう。それには、あんな田中のような日本人をアメリカにのさばらせておいては、日本人としての名が廃ります」 周太郎も真面目な顔をして言った。「もしビーハイブ扶助協会やオグデン矯正学校での仕事がうまく行けば、これは大きな力になる。夢で終わらせたくないな」 しかし望んでいた矯正学校の養蚕クラス立ち上げには、予想外の難題が発生した。この矯正学校の監督者のディビット・カーレイが、二人の講師就任に反対したのである。「矯正学校の生徒たちは社会に対する反逆者であり、手の付けられない犯罪者の集団である。教育などを施しても、更正する訳がない」 アムッセンが強く反駁したが、ついに押し切られてしまった。「やはりわれわれは差別されているのかな。本当は日本人だから駄目なのかな」 肩を落とす周太郎に、富造は明るく言った。「そんなことないよ兄貴。なにもわれわれが悪いことをやった訳ではない。あえて頭は下げなくても良い。アメリカには実力さえあれば、国の違いを越えて認めてくれる寛容さがある。何人であれ、好きになるとこの社会には人種偏見がない」「しかし富造。いくら俺たちがアメリカの社会に溶け込んだと思っていても、人種の問題となると受け取られ方が違うかも知れないぞ」 この周太郎の危惧が、現実となった。 カルフォルニア州のウィンタースで、白人労務者たちが同じ農園で働く清国人や日本人労務者のキャンプを襲撃するという事件が起きた。外国人労務者らは荒縄で縛り上げられ、キャンプ内の物品がことごとく略奪されたというのである。その他にも事件があった。フレスノにおいては十余名の日本人が突然拘引拘留されるという事件が起き、またアイダホ州では日本人の間に疱瘡が流行しているという理由で日本人が放逐されるという事件が発生した。二人は、愕然とした。「確かに移民が増えれば白人の仕事は減る。しかし移民のする仕事は彼ら白人の嫌がる重労働や危険な仕事ばかりではないか。それなのに労働だけさせて差別するとは、どういうことなのか? 不当ではないか」 憤然として言う富造に、周太郎が慰めるかのように言った。「人種差別とは、もともと不当なものなんだ」 そしてその頃、かって二人が建設工事に携わっていたオレゴン・ショートライン鉄道で、あの田中忠七とその配下の日本人労務者との間で紛争が発生した。田中が、労務者から預かった一万五○○○ドルもの大金を私(わたくし)し、その支出の説明できなかったことが原因であった。このカネは、労務者たちが日本の家族へ送金する目的で、その賃金から田中が差し引いて預かっていたものであった。そのため田中の元請けであったレミントンが、この高額のカネを横領した田中を解雇することで決着をつけたのである。「やはりな。悪いことは長続きしないな」 二人はそう言って笑った。しかしその田中が今後どうこの国で生活して行くのかを考えると、他人ごとではない、とも思われた。外国で生きるということは、決して楽なことではなかったのである。
2008.05.05
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ユ タ 準 州 ソ ル ト レ ー ク ソルトレーク・シティは、末日聖徒イエス・キリスト教会の本部のある、不思議な町であった。とにかくフレンドリーなのである。いままで人種差別の強い風を受けていた富造にとって、その身構えを緩めさせる何かが感じられた。いままで受けてきた人種差別が、ここでは薄くなっているとも感じられた。そしてこの町を知るにつれ、この町が辿って来た歴史に、その理由の一つがあると思うようになっていた。 一八三〇年、末日聖徒イエス・キリスト教会が組織され、モルモン書が出版されると、彼らはすぐに宣教活動に入った。しかしその活溌な活動から改宗者が増えると同時に、近隣住民の反感が高まった。その反感からを逃れようとした教会員たちは、ニューヨークからオハイオ州、そしてさらにミズーリ州に移動した。しかしこれら行く先々でも、武装した暴徒たちに追い払われた教会員たちは、やがてイリノイ州ノープーに、新しい町を築いたのである。 この新しいノープーの町には、各地で迫害を受けた教会員が集まってきた。一八四四年、ノープーの人口はシカゴに迫るまでになったが、このことが逆に地域社会に不安と疑念を膨張させることになってしまったのである。近隣の町の新聞は、この教会員の撲滅を目的にした記事を書いたため、煽られた暴徒による家屋の破壊、農作物の焼き払い、脅迫が続き、やがて教会員の射殺事件までエスカレートしていった。 ブリガム・ヤングをリーダーとする末日聖徒イエス・キリスト教会の会員一四八人が、これらの迫害を逃れるため西へ向かったのは一八四六年のことであった。そして種々の苦難の中で多くの犠牲者を出しながらグレート・ソルトレークにたどり着いたのは一八四七年、やがて彼等はこの広大な塩の砂漠や塩の湖、そして岩山が周りを囲むこの土地に自分たちの町を築きはじめたのである。 グレート・ソルトレークは大昔の海が内陸部に残され太陽熱によって蒸発、塩分だけが残された巨大な塩水の湖である。そのため潅漑用の水としては使えず、ここに生活の場を築くのには更なる努力と忍耐を必要としたのである。しかもこの周辺には何年か毎に天地を埋め尽くすかのような膨大なバッタが発生し、丹精込めた農作物や緑を食い荒らして開拓者たちを苦しめた。このために、このバッタの群は、モルモン・ローカストと呼ばれたほどであった。 (グレート・ソルトレーク・筆者背面) このときに奇跡が起きた。海水に近いグレート・ソルトレークに住む鴎の大群が、これらのバッタをついばみ、湖に捨てたのである。鴎に助けられた人々は、鴎をこの地方のシンボルとした。このような不毛の地での開拓の努力は、彼らの信仰をさらに強いものに育てていった。またグレート・ソルトレーク周辺には、ほぼ一万二千年前からネイティヴ・アメリカン(アナサジ族、フレモント族)が住んでいた。 これらの歴史を学びながら、富造がいま住むソルトレークの立派な町が出来たのが、自分の生まれる前、それもたかだか十八年前に過ぎないことが、まるで信じられなかった。 ある日、富造は、町の大通りで多くの人が群がっているのに気がついた。様子を訊くと、馬車を引いていた馬が市内電車の電線で感電したのだという。馬は泡を吹いて倒れ、御者は鞭を持ったまま呆然と立ちすくんでいた。それを見た富造は適切な応急処置をとり、しばらくそのまま落ち着くまで休ませるように指示をして立ち去った。 それから間もないある日、富造はカール・クリスチャン・アムッセンの使いという黒人の訪問を受けた。「ご主人様の馬を診察して欲しい」、と言うのである。その名を聞いた富造は驚いた。彼は、ソルトレーク・シティの名士であったからである。「ここがアムッセン様のお屋敷で・・・」 連れられて行った先は、柱廊玄関と大理石のマントルピースやマホガニーの回り階段をもつ、豪壮な大邸宅であった。 当主のアムッセンの出迎えを受けながら、富造は訝った。「どこで私のことを?」 アムッセンが答えた。「私の大事にしていた白いアラブ馬が病気になりましてね。たまたま町で、あなたが馬を診察するのを見ていました。そしてこの男はできる、と思いました」 (旧アムッセン邸・ユタ州ローガンシティの遺族の提供による) この馬の診察を機に、富造はしばしばアムッセン家を訪れるようになった。アムッセンはデンマークの出身で蒸気機関の配管の会社を所有している事業家であり、末日聖徒イエス・キリスト教会の著名なチャーチプレジデントでもあったのである。このアムッセンの信頼を得、アムッセン邸の一室に住居を与えられた富造は、ソルトレーク・シティの社会に受け入れられるよう努力していた。何としても、あの差別される側に、追い込まれたくなかったのである。そしてその努力は、この事件をチャンスにして、この地で獣医として認められはじめることとなり、それはまた彼の自信となっていた。富造はここから一つの経験を得た。それは、アメリカ人は実力さえあれば、日本人とも対等に付き合ってくれるということである。 このころ富造は、日本にいる重教に手紙を出している。「先年重教兄も御一覧のソルトレークは、我が琵琶湖の眺めにも優り、湖畔には緑樹繁茂し、昨今の夏期八十度なるに、涼風おとつるるより至って凌ぎよし・・・。 ・・・当地にて、馬車馬が電鉄レールを横切らんとする際電気に感じ、馬は数尺空中に跳ね飛ばされ、即死後に馬を解剖したるに、腸間膜腺、心臓肥大を見る」(重教七十年の旅より) 富造はアムッセンの影響で、教会に通うようになっていた。あのフレンドリーな気質が、この教会と無関係でないことを知ったこともあった。富造も東京とサンフランシスコで、キリスト教の片鱗に触れてはいた。それであるから、この末日聖徒イエス・キリスト教についても違和感はなかったのである。 やがてアムッセンから、日本で養蚕の経験のあった富造に、一つの話が持ち込まれた。「ビーハイブ扶助協会(婦人会)で、日本の方式による養蚕法を教えてくれないか」 それは富造と周太郎が、日本で養蚕を実践していたことを知っての依頼であった。「それは素晴らしいことだ」 周太郎は喜んで言った。「さすがアメリカは懐が大きい。われら外国人にチャンスを与えてくれた」 ユタ準州での養蚕は、一八五六年にエリザベス・ホィタッカーがイングランドから蚕種を輸入し、蚕にレタスを与えて育てていたがうまくいかず、一八五九年にフランスから桑の木を輸入してから一応の成功を見、絹のドレスを作るという実験段階にあった。しかし一八六三年にはオクターバ・ウルセンバッハとその妻が、また一八六七年にはポールとスザンナ・カルデンらがフランス式の養蚕に努力を傾けていたが、肝心の蚕の成長が思わしくなかった。このためブリガム・ヤングは無料で教会員に桑と蚕種を提供したり、個人でも努力しようとする者に援助をしたりしていた。ソルトレーク・シティに移住してきたばかりの教会員にとって、まだ安定した生活基盤が確立されていなかったため、種々の取り組みが行われていたのである。このようなときであったので、アムッセンは二人の日本人の出現に喜んでいたのである。
2008.05.04
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宿舎に戻ってきた富造は、急に思い付くとポケットから手帳を取り出し、薄暗いランプの光であの帰りの林の中で作った歌をしばらく眺めていた。 異国の村 淋しや 落葉踏めば 微かに聞こゆ 故郷の音「自分としては感情がこもっているとは思えるのだが、しかしどうも字数が合わないな」 富造はそれを見ながら、独り小さく呟いた。呟きながら指を折って数えていた。それは六・四・六・七・七であった。どうも具合が悪いなと思ったときふっと、「とつくに」という単語が頭をよぎった。 ──そうか、とつくにか・・・。富造はもう一度指を折った。 異国(とつくに)の 林哀しも 廃葉(おちば)踏めば 微かに聞こゆ 故郷(ふるさと)の音「うん、まだ一字余るが、こっちの方がいいか」 そう書き直して再び手帳をポケットに入れた富造は、窓の外の暗がりを見た。そして、今までのことを思い返していた。 ──父上や母上、ミネに克巳、それに姉さんや重ちゃんは、どうしているだろう。みんな楽しく暮らしているのかな。俺も日本を出発してからカルフォルニア州のサンフランシスコ、サンタローザ、アイダホ州のナンパ、コロラド州のデンバー、ユタ準州のオグデンそして今度はソルトレーク・シティ・・・。それにしても随分動き回ったな。 そう思ったが、このソルトレーク・シティが終の棲家(ついのすみか)になる、とも思えなかった。もう動くことはないだろうと思う反面、またどこかに移るかも知れないという漠然とした思いもあった。 ──それにどうして今、俺はここに居るんだ? これから俺は、どこへ行こうとしているのか? この根無し草のような生活が落ち着くどこかがあるのだろうか? そして俺がこのまま死んだら、この俺はどうなってしまうのか? ミネや克己は、どうやって生活するのだろうか?富造は、妙に感傷的な気持になっていた。慣れたことから離れるとは、こういうことかも知れない、と思った。冷たい気温で空気が澄んでいるせいか、雪に覆われたロッキーの山脈のなかのボスガス山がいつもより近くに見えた。 (ボスガス山) ──今まで俺は、あちこち移転を続けてきた。それは生きるための手段であった。そのこと自体、なにも悪いことではない。では自分は生きて、今後何を成そうとしているのか? そう思いながら富造は、最後の大事な荷物、あの刀の入った袋を机の上に置いた。そして父からの餞(はなむけ)の日本刀を取り出すと、おもむろに鞘を払った。 父の言った言葉が思い出された。「刀は武士の魂じゃ」 富造は刀身を目の前から突き出すようにして、しばらく見つめていた。それは月の光を、鋭く跳ね返していた。「武士の魂か・・・」 富造はゆっくりと刀身を元の鞘に納めると、じーっとその刀を見ていた。「よしっ! 俺はアメリカ人になる」 富造は自分の決意を固めるかのように声を出して言ったとき、父の別れの言葉を思い出していた。「これを抜く時は、自分の命も断たねばならぬような切羽詰まったときだけじゃ。仇やおろそかに人前で抜くものではない。分かったな?」 ──しかしアメリカ人である以前に、俺は日本人だ。 この矛盾した気持は、富造の一生をつきまとうことになる。彼は静かに机の上に刀を置くと、勢いをつけて椅子から立ち上がった。そして今までの思いを断ち切るかのように、もう一度自分に声をかけた。「さあて、今度こそ本当の出発だ」 日本人でもアメリカ人でもない彼は、大きく息を吸い込んだ。 外に出た富造は、宿舎の建物を振り返った。もちろん灯の消えた窓には、人の姿は見えなかった。 ──もう二度とここを見ることはあるまい。 富造は後ろ髪を引かれる思いで、思わずその宿舎の黒い影に頭を下げた。 日本人に対する偏見が、さらに強まっていた。アメリカの新聞は、愛国同盟とその機関紙・第十九世紀を改題した愛国を槍玉に挙げて攻撃していた。配達されるアメリカの新聞の見出しは、さらに厳しくなっていた。 Put Up the Barsユ Says Our Working People (追い払えと労務者は言っている) Immigration on the Increase (増加する移民) What Collector Phelps Says of the Outlook (税関長フェルブスの将来の見通し如何) Bad for Our Boys and Girls (少年少女に害) A Street Filled with Japanese Sirens(街路に聞こえる日本人売春婦の呼び声) Anarchists from the Mikadoユs Realm(日本帝国からやってきた無政府主義者) それを読んでいた富造は、なんとかこの偏見を取り除けないものかと考えていた。最初にサンフランシスコに上陸したとき世話になった愛国同盟とその機関紙が、「無政府主義者たちにより組織されており、団員たちはこの地から日本に向かって政治活動をしようと目論んでいる。ほとんど毎日発行されている「愛国」と呼ばれる新聞は、無政府主義者の機関紙である。赤旗を振りかざし、日本人に忠告を与えているが、これまでに帝国政府当局は幾度かこの新聞を発行停止の処分に科して、新聞が日本に送付されるのを差し止めている」と決めつけていた。愛国同盟の新聞・愛国は米紙に無政府主義者と攻撃されるようになったように、当初の自由民権的風潮から離れ、国粋主義的主張をするようになっていた。
2008.05.03
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菅原伝が社長になって、新たに日米用達社という会社が設立された。この会社はサンフランシスコ在住の愛国同盟員からなっていた。やはり鉄道建設労務者の請負業で、日本人労務者を供給することを目的としていた。日米用達社は、富造と周太郎を窓口にして田中とその配下の労務者と接近した。この関係で、日米用達社は特別な郵便取扱い、送金、翻訳、手紙の代筆などのサービスを田中の労務者に提供することとなった。しかし日米用達社が田中の労務者にサービスを提供することになったため、逆に富造と周太郎は田中から独立する夢を果たすことが出来なくなってしまった。それにもし独立したとしても、田中の下請けにならざるを得なくなってしまったのである。「富造、これは困ったことになったな」弱音を吐く周太郎に、富造が言った。「なあに兄貴、大丈夫さ。たしかに菅原には義理がある。だからそれを利用してもう少し働き、カネを貯めてここから出るさ。鉄道建設ばかりが仕事じゃない。新しい何かを見付けるさ」 一八九二(明治二十五)年、二人はユタ準州オグデン(彼らは親しみを込めて奥殿と書いた)に移った。オグデンを通る大陸横断鉄道を中心にして、南北に縦断する新たな鉄道の工事が始まったのである。アメリカに来て、すでに富造には四年の歳月が流れていた。 当時のユタ準州は、人口がわずか二十一万人であった。 現在のユタ州は、その東半分をロッキー山脈が占め、西半分は砂漠であるが大自然の懐に包まれ、ブライスキャニオン、キャニオンランズ、キャピタルリーフ、アーチィーズなどの国立公園やアリゾナ州にまたがるモニュメントバレー、恐竜のダイナソウ・ナショナル・モニュメントなどの観光スポットを抱えている。その人口の八七%はソルトレーク・シティーやオグデン、ローガン、プロボといった都市に集中し、ウインタースポーツの一大メッカでもある。二〇〇二年には冬季オリンピックが開かれた。人口は、約二三〇万人である。 このユタ準州オグデンの西約二十五キロメートルのグレート・ソルトレークに突き出た半島の先にあるプロモントリーポイントは、一八六九年に、サンフランシスコから東進したセントラルパシフィック鉄道とネブラスカ州オマハから西進したユニオンパシフィック鉄道の接続点であり、最初に完成を見た横断鉄道の記念碑的地点であった。この東西両方向から発進して来た機関車を中心にして記念の金の犬釘を打ち込まれた完成式典の集合写真には、東洋人らしい顔は一つも残されていない。この年、リオグランデ鉄道傘下のテンティック鉄道はユタ準州スプリングビルとテンティックの間を完成させた。 (プロモントリーポイントでの記念写真) これらの仕事で収入は充分に上がっていたが、それに反比例して富造の心の中では罪悪感も強かった。「過酷な労働の中で多くの犠牲者を出しながら、われわれは単なる使い捨ての労働力であったのだろうか?」 そう問う富造は、すでに辞める決意を固めていた。「いいよ富造。お前のやりたいようにやれ。お陰で俺も、しばらくの学資金は貯まったと思う」 周太郎は自分を納得させるかのように軽く頷きながら、そう言った。「ただ兄貴。俺は自分で決めたことだからそれでいい。田中忠七に対しても割り切れる。しかし残して行く日本人労務者の行く末については、気になっているんだ」「うーん。それは仕方がないと言えば仕方がない。確かに辛いことだよな・・・。それにしても辞めてどうする」「ソルトレーク・シティへ行こうと考えている。ユタの大学に入ろうと思う。その後どうするかは決めてないが、いずれ日本人移民のためになる仕事を、と思っている」 周太郎は黙って同意した。 ソルトレーク・シティはこの州最大の街であった。富造たちの今までの収入にそぐわないほどのつましい生活は、二人の懐に多くのカネを残していたのである。 富造と周太郎は田中に辞表を提出した。田中は重要な収入源でもある二人の慰留を必死に試みたが、二人の決心は変わらなかった。やはり田中の仕事のやり方が納得できなかったし、このままの状況の中で人種偏見の壁を取り除くことも出来ない、とも感じていた。あの自由民権と脱亜の志士の意識が、まだ心の隅で疼いていたのである。そして辞表を出す数日前、離職について田中と話し合っていたとき、二人が自分の思う通りに動かないと知って怒って言う田中の侮辱の言葉を、富造は唇を咬んで耐えていた。「二人で一度に辞めるとは・・・、人様の世話にだけなって、身勝手なやつだ! この裏切者奴! ここを辞めてみろ。アメリカの厳しさが嫌というほど分かるさ。先ずはお手並みを拝見だな」 半月後、すべての私物を片手に持ち、事務所の裏口から見たユタ湖の向こうのロッキー山脈のテパノガス山やカスケート山にはすでに深い雪が降り積もり、夕暮れの白い山頂には、太陽の一瞬の輝きが取り残されていた。その輝きが、富造には自分自身の孤独と重なって見えていた。 ──今頃は安達太良山にも雪が降っているだろうな。 そして日本では見ることのできないほどの長い夕暮れの自分の影に、富造は感傷的になっていた。とはいっても、残して行くことになる田中の配下の日本人労務者については、やはり気になっていた。みんなに済まない、思っていた。しかしそれについては、日米用達社としての立場もある菅原が協力してくれた。別の担当者を派遣してくれていたのである。 ──義理を果たすなど立派なことを言いながら、また君に迷惑をかけてしまった。しかしこれは自分だけのための退職ではない。分かってくれ。今後必ず、日本人のためになることをやってみせる。 富造はそう思いながらも、自分の勝手を許してくれた菅原の善意に感謝していた。すでに周太郎は早めに辞め、ソルトレーク・シティへ先発していたが、富造は監督者としての責任感から、今日まで退職を一日延ばしに延ばしていたのである。 ──いよいよこの宿舎ともお別れだ。いろいろ世話になったな。 そう思って見回した部屋はすっかり整理され、いままで使っていた事務用の机だけが、ポツネンと残されていた。それを見ながら、三春のことを思い出していた。 ──あの頃は楽しかった。世の中には。こんなに辛い人種差別があるなどということは知りもしなかった。しかし考えてみると、われわれ士族は心の隅ででも百姓、町人を馬鹿にしていたのかも知れない。差別される側になって、はじめてそれを知った。
2008.05.02
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今日も富造は鉄道建設の工事の現場で、田中忠七の雇われ監督として忙しく時を過ごしていた。毎朝、近くにある貨車の飯場から富造の預かっている古い貨車の事務所兼店舗に集まってきた日本人労務者たちは彼の手配によって仕事を割り振られ、工事現場へ出かけて行った。それにまた、富造が日本で得ていた獣医の資格が役に立っていた。工事の資材を運ぶ馬や中央から来る監督官の乗る馬が疲労などから倒れたり病気になった時、彼の獣医としての手腕が大いに買われていた。 ここで働く労務者たちの不平の多くは、日本語が通じないことからくる外国人労務者との間の意思の疎通の悪さによるものが多かった。英語や清国語を使わないですませることの出来るこの小さなコミュニティは逆に英語の流入を阻止し、それ故にこのコミュニティから出ていくことが出来ないという悪循環におちいっていた。つまり彼らは労働条件の不満を理由に、職を変えてアメリカ人の社会に出て行く訳にもいかなかったのである。彼らは何であれ、まずカネを稼いで故郷に送金できればそれでよかったし、事実、田中に差し引かれるものがあったとしても重労働の報酬は日本でのそれよりはるかに高額であったのである。しかしそれは、まるで孤島で働いているのと同じであった。 その孤島で労務者たちは飯場の食事では不足の分を富造の管理していた店で補い、必要な物を買い、愚痴をこぼした。愚痴の多くは金銭の問題であった。貧乏な日本より多くのカネが稼げる筈で来ていたのに、支払われる実質賃金はいろんな名目の天引きが多く、名目上の高い賃金を知っているだけに、それは切実であった。彼らはそれが不満だと思っても、言葉や距離そしてなによりも人種差別の問題もあって、他の仕事を求めて町へ出ることが出来ないでいた。「兄貴。ここの日本人労務者は俺たちを必要としているんだ。われわれに対するこの報酬は正当なものなんだ」 周太郎はこの主張を聞きながら、富造は変わったと思った。多くの異国人と一緒に生活するということは、こういうことかとも思っていた。 富造はここの診療所で、医者の役割も果たさせられていた。田中は富造の英語力もさることながら、獣医の資格を医者として利用していたのである。まっとうな医者が、こんな不便なところまで来る訳がなかった。富造としては好んだ訳ではないが、現実目の前に怪我人や病人がいれば獣医だからと言って治療しない訳にもいかなかった。 田中などの請負人は、アメリカ人雇用者と日本人労務者との仲介役でもあった。雇用者側にとっては、かけがえのない仲介役だった。請負人は労務者を募集供給し、英語のわかる現場監督を使って労務者の仕事を監督した。請負人側がこうした役割を果たしていたので雇用者側は自分の手を煩わせることなく、安上がりに日本人労務者を雇うことができた。鉄道会社の義務はただ一つ、労務者に住居を提供することであった。住居といってもそれは、使われなくなった有蓋貨車か掘っ建て小屋であった。 請負人は鉄道会社に関係する事柄すべてを扱い、いわば会社と労務者との緩衝器であった。その結果、労働争議では請負人と労務者の関係がつねに鍵となっていた。間題が賃金であろうと労働条件その他であろうと、争議は必然的に雇い主ではなく請負人を巻き込んだのである。そして通常それは、富造ら現場監督に丸投げされるのが当然とされていた。「まったく王とは、身勝手なもんだ」 ついに富造は周太郎の前でぼやいた。 まもなく二人はコロラド州のデンバー(伝馬}に転勤させられた。ロッキー山脈の裾野に広がり、海抜約一六〇〇mの高地のこの町は温度差の激しい町であった。その上気圧が低いため水が沸騰しても一〇〇度にならず、妻のミネがようやく送ってくれた貴重な日本の米を炊くのにも苦労させられた。 田中はより一層、富造や周太郎を必要としていた。それの証拠に、富造と周太郎はこの田中王の下で、日本では考えられないほどの多額の報酬を手にしていた。笑いが止まらない、そんな状況だったのである。しかも田中に代わっての実質的な請負人ということもあって、富造と周太郎はさらに多額の収入を得ていた。「生活や今後のために確かにカネは欲しい。しかし果たして、これは人間のやることでしょうかね」 富造は眉間に皺を寄せて言った。「うーん。結果として日本人が日本人を喰うような仕事は、本当はやりたくないな」「そうですね。とにかく俺はカネを作ったら、ここから出て行きます」「富造。やはりお前はアメリカに永住する気か?」 富造は返事をしないでいた。 その頃アメリカ社会での清国人排斥運動がエスカレートし、日本人もその槍玉に挙げられてきた。アメリカの新聞の論調も激越となってきていたのである。見出しの幾つかを取り上げてみる。 Influx of Japanese(日本人の流入) The Mikadoユs Subjects Crowding into the United States(日本帝国臣民が米国へ殺到) Over four Thousand Hear Now(既に四〇〇〇人が在留) They Are Mostly Students and Eke Out An Existence by Service Out(ほとんどが学生で家庭に奉公口を得てやっと生活) Objectionable Immigrants(嫌悪すべき移民) Twenty-five Japanese Returned by Commissioner McPherson(二五名が移民官マクファーソンの手で送還) Another Tide of Immigration(移民再び増加の気運) The Japanese Colony Increasing Very Rapidly(日本植民の急増) What the Subjects of the Mikado Do When They Come Reach California(帝国臣民はカルフォルニアに来て何をしているのか) Their Effect Upon the Labor Market(彼ら労務者の就労に及ぼす影響) Importation of Women for Immoral Purpose(売春の目的で日本人女性の移入)等々であった。やがてこのような記事が日本の世論を硬化させ、本気で「日米若し戦わば」という議論が発生した。しかしアメリカに住む移民たちが感じる屈辱感はアメリカ人に向かって直接晴らすことはできず、内向せざるを得なかった。そしてこの内向した意識は、日本人としての国家意識に収斂されていった。たとえばそれは、富造個人が軽蔑されることは日本人としての対面を傷つけられるだけでなく、日本国が辱められることと思えたのである。そういうことがあっては日本国に対して申し訳ない、と感じていた。そのためもあって富造は、何とかアメリカの社会に溶け込もうと努力していた。それは差別から逃れる最上の方法だとも思っていた。
2008.05.01
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この年、日本を訪問したロシア帝国の皇太子が、滋賀県庁より滋賀駅に人力車で進行中に、道路で立哨警備をしていた滋賀県守山警察署巡査の津田三蔵が突然帯剣をもって襲いかかるという事件が発生した。大津事件である。津田は、ロシアの皇太子が日本の軍事力の偵察のため来日したと思い込んで切りつけたものであったが、幸い軽傷ですんだ。報告を受けて驚いた明治天皇は急遽西下、京都御所に入ったのち、お見舞いのため大津に向かった。大国ロシアの報復を恐れた政府は津田に皇室罪を適用して死刑にして糊塗しようとしたが、大審院長の児島惟謙は法律通り無期懲役の判決を下ろして司法権の独立を守った。しかし津田は、兵庫仮留置場より釧路集治監に移送されて間もなく病没した。外務大臣・青木周蔵はこの事件の責任をとらされて、更迭された。 ナンパの砂埃の吹き込む田中事務所でこのニュースを知った富造は、日本がロシアと戦争になるのではないかと心配した。もし戦争にでもなったら、日本はたちどころに負かされてしまうだろうと考えていたからである。日露間の戦争を避けるために、帝国政府は津田巡査を暗殺したのではないか、と想像していた。自由民権運動で殺された琴田岩松や山口守太郎などを考えると、充分あり得ることだと思っていた。だが幸い、事件はそれ以上に大きくならずに済んだ。 このころサンフランシスコの丹野太郎から、プロテスタントのメソジスト派伝道のために日本に戻るという手紙があった。それによると彼は、人を助けるに政治活動は一つの方法とは思う、しかし政治という争いよりも宗教のいう助け合いを重視したい、アメリカでの政治活動を止めて日本での宗教活動に専念するというものであった。 ──そうか、丹野は日本に帰るのか。それもいいだろう。人のためとは言うが、結局政治は個人とか団体の自己主張に過ぎないのかも知れない。その点宗教は違う。あまねく人々への愛だ。政治に限界を感じ、神の僕として生き直すことにするという丹野の気持ちも分かるような気もする。それにしても、何故人間は苦しまなければいけないのか? 富造はそうも考えていた。 それにしても、時折手紙や新聞などで日本文字を見ることは嬉しかった。日本語新聞の切れ端などはポケットに入れて持ち歩き、内容は覚えるほどに分かっていても、何度も何度も読み返した。一番辛かったのは、身体の大きい現地の人たちとのコミュニケーションがとれないときであった。相手が何を考えているのかが分からないのは、辛いよりもむしろ怖かった。相手の対応などの感じから日本との文化の違いがあり、アメリカの常識に反しているのではないかと思うと心細かった。相手が話してくれるので懸命に聞き、辞書を引いてようやく分かったら冗談だったなどというと、がっかりして怒りさえ感じた。言葉が分かれば、話し合いたいことは山ほどあった。 アメリカで勉強したいと言って再び渡米してきた周太郎は、とりあえずサンフランシスコで菅原の世話を受け、やがて富造を頼ってナンパに移ってきた。アイダホ州はすぐ南のユタ準州からの移住者が少なくなかったが、そのほとんどが末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった。富造と周太郎は、ここでこの教会や教会員と接触することとなった。富造は、周太郎をナンパの田中事務所の会計係として採用してもらった。二人は生活のために給料のいい田中事務所に勤めたのであるが、兄弟が同じ所で働けると言うことはありがたいことであった。「富造。お前、田中のやり口を知っていたのか?」 ある日、周太郎はそう切り出した。 苦しい顔をして、富造は黙ってしまった。「労務者に様子を聞いたが、これは尋常じゃないぞ」 たとえば、田中事務所の鉄道建設労務者には高い賃金という魅力があったが、労働期間に季節性があった。夏場こそ鉄道建設の工事量も多く、物資の輸送も繁華を極めて高賃金が保証されていたが、冬場になるとガタ減りで賃金も貰えないことがあった。その上、田中と日本人労務者の関係は、非常に搾取的であった。田中の配下の労務者は、日当一ドル二十五セントを稼いでいたにもかかわらず、田中事務所は一日十セントの就業手数料を徴収した。しかしこの手数料は、よその業者も似たり寄ったりであった。 問題はこれ以外の、田中の別途収入であった。一日当あたりの 手数料に加えて、月極めでいわゆる通訳事務所費を取った。さら に田中はこの名目で、労務者の賃金から月一ドルを差し引いた。 その上で田中には、労務者の日本への送金代行料という収入の 道もあった。労務者は定期的に日本の家族に送金していた。これ ら労務者の要請に応じるため、請負人は労働賃金から一定額を天 引きし、その金を労務者に代わって日本に送った。こうした有料 のサービスは、田中がはじめたものである。この方法は瞬く間に 拡がっていった。 田中は、約一○○○人の労務者から就業手数料として一日当た り一○セントを徴収していたのであるから、一ケ月二十六日働く として二六○○ドル以上となり、通訳事務所費として一〇〇〇ド ル、月収の合計はこれだけでも三六〇〇ドルになった。その他に 送金代行料、医療費などを取り立てていた。 それに収入源は、医療費にもあった。これも田中がはじめたも のである。労務者の中に病人や怪我人が多く出たので、田中はナ ンパに診療所を建てた。この建設費用と維持費を賄うために、労 務者全員から最初に五ドル徴取し、その後は月五○セントを医療 費として差し引いた。 収入源はこの他にもあった。物品の販売から得る利益である。 どの請負人も食料品雑貨を配下の労務者に売っていた。通常、鉄 道会社との取り決めで、請負人たちは無料ないし割引料金で労務 者への物資の輸送ができたのにである。 (一世・黎明期アメリカ移民の物語り、より) 田中は、折りさえあれば労務者の無知につけ込んで、二重三重に搾取しても平気な男であった。それであるから、その生活は、贅沢なものであった。このような事情を知っていた日本人の労務者らは、陰で田中を王と呼び、羨望と怨嗟の的となっていた。しかし一方で田中はこの収益を維持するために、どうしても二人を必要としていた。「兄貴、ごめん。ただどうしても俺はカネが欲しいんだ。きれい事は言っていられないんだ」 そう言われて、今度は周太郎が黙る番であった。 当時、清国からのアメリカ移民は一二〇万人を数えていた。その半面、日本人移民は一万にも満たなかったのである。それであるから、日本人はマイノリティの最下層と位置づけられ、差別を受けていた。日本人より先に移民していたため人数も多い清国人は、それだけでも強い圧力となっていた。それはまた、アメリカ底辺の民衆層、貧困な白人、黒人、ラティノ、その他の人種と清国人との、職の奪い合いでもあった。このような中での日本人の清国観は、祖国・日本での清国観が再生産されて差別的な面も強かったが、むしろ協力し合ったり結束したりする面も少なくなかった。日本人と清国人は、互いに親近感やけなし合いなどの複雑なからみの中で、筆談などでのコミュニケーションが行われていた。それであるから、英語と漢文の素養のあった富造や周太郎は、現場の仕事ばかりではなく、労務者たちの不平を聞きその不満の相談にのり、場合によっては一緒に相手先に出かけて問題解決の話し合いをしていた。流暢とは言えないが、彼の英語は大いに役立っていたし、それがまた労務者たちの、強い信頼の気持ちを掴んでいたのである。
2008.04.30
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一八九一(明治二十四)年、アメリカは移民局を設立した。それまで検査なしで入国していた移民の検査が実施されるようになり、いわゆる「好ましからざる移民」の入国拒否を実行するようになったのである。そのために渡航して行った日本人労務者の中には、アメリカに到着してから入国を拒否される者も少なくなかった。しかしそれはまた、アメリカにおける下層労務者の不足を招くことにもなった。 富造は、サンフランシスコに英語に堪能な書生あがりを探しに来ていた田中忠七と知り合った。田中は富造の高度の教養、経歴、そして語学力に目を付けたのである。 田中忠七は元船員であったが、一八八五年に船がアメリカの港に着いたときその船から逃げ出しシアトルに行った。そのとき一人の日本人売春婦と知り合い、その女と組んでユタ準州オグデンへ行き、ヒモとなって女を働かせていたというような男であった。 一方、当時盛んであった鉄道建設の労務者には清国人が多かった。そのため清国人の業者がワイオミング州ロックスブリングスを本拠にして、ウイリアム・H・レミントンという白人のアメリカ人の下請けで、ユニオンパシフィック鉄道会社に清国人の労務者を供給していた。田中は日本人移民を使って、この清国人業者の孫請けをしていたのである。このような中で、ユニオンバシフィック鉄道の支線、オレゴンショートライン鉄道の建設がはじまる予定になっていた。 ところがこの清国人の業者が仕事の準備にオグデンに来たとき田中の女を見て、「お前の女が気に入った、愛人としてロックスプリングスヘ連れて帰りたい」と言い出したのである。それを聞いた田中は渡りに船と女を言いくるめ、この清国人を説き伏せてうまく自分をレミントンの直接の下請人にさせてしまったのである。これは中間に立っていた清国人業者を出し抜いたこととなり、利益が大きくなることになった。田中は自分の配下に約五〇〇人の労務者をもち、それを一〇〇人ずつ五グループに分けて沿線に張り付けていたのである。 このオレゴンショートライン鉄道は、ワイオミング州グレンジャーからオレゴン州ハンティングトンの間の工事であった。田中はその中間のアイダホ州のナンパに事務所を置こうとしていた。それもあって、どうしても富造が必要であった田中は、富造を高給で誘ったのである。 ──いずれにしてもカネが欲しい。このまま一生、女房や子どもと離れて生活するという訳にはいくまい。それに兄貴もアメリカに来たいと言っていたし・・・。 田中の強い要請に、富造の心は揺れていた。しばらく考えていた富造は、大きく頷くとナンパに行くことを即決した。「いいんだな?」 そんな富造を上目使いに見ながら、田中がにやにやしながらそう重ねて訊いたとき、富造は胸を締め付けられるような気がした。これでいいのかと、一瞬、後悔の念が疼いたのである。しかし富造はどんなことをしても、今すぐカネが欲しいと思った。積極的にカネを得る努力するということには、若干の後ろめたさがあった。あの脱亜の志士からカネの亡者に成り下がったように思ったからである。 とは言っても当時の進歩的な日本の青年たちの心を捕らえていたのは、海外で働いて日本に尽くすという精神であった。それは富造とて、同じであった。しかしカネがなくて生活ができないということは、日本に尽くすというということもできないということでもあった。富造の頭の中では、故郷へ錦という考えもよぎっていた ──それはともかく、まず生きなければ・・・。 富造は、妻子のことも考えていた。 ──一緒にアメリカに住むためには、何と言われてもカネが必要だ・・・。 ナンパへの汽車の旅、そして乗り継いだ馬の旅は、富造の度肝を抜いた。その広大な国土、そこに住む多種多様な人間、そして特に旅に要する時間の長さから、その測りしれぬ広さと奥の深さを実感させられた。富造が汽車に乗ったのは、はじめてではなかった。しかしこれが駅に入って来るときのあの何とも言えぬ興奮を、言葉にすることが出来なかった。そして乗った汽車が動きだしたとき、その景色から目を離すことができないでいた。 アイダホ州はその北をカナダとの国境に接しており、ナンパはこの州の南西部に位置する州都ボイシーから、さらに十六キロメートルほど西にある町、とは言っても幹線道路に沿って四~五軒の店があるだけの小さな集落である。北部からは険しい山岳地帯が迫る中で、南部のスネーク川に沿った地域を潅漑した農業地域となっていた。またボイシーは一八六三年にアメリカ陸軍によってフォート・ボイシーが建設された町として、また有名なオレゴン・トレイル沿いの町として栄えたが、人口は今でもたかだか三万程度の町である。一八八〇年代以降は大陸横断鉄道に宿場町としての役割を奪われたため、周辺にこの鉄道工事をあがなう程の人口がなかった。それであるからボイシーのさらに奥にあたるナンパの農家は、互いに見えぬほど遠くに離れた隣家に住み、家族単位で農作業をしていたのである。同じ田舎でも、三春の自然や周辺の様子とはまるで違っていた。周辺の荒々しい景色を見、気が弱そうな、しかし荒くれた日本人労務者の姿を見ながら、富造は馴染めないものを感じていた。 (アイダホ州・州旗)
2008.04.29
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(アメリカ本土での富造の足跡) 大 陸 流 転 一八九〇(明治二十三)年一月、富造はサンフランシスコの北、約八〇キロメートルのカルフォルニア州サンタローザ(日系人は親しみを込めて三太郎と呼ぶ)に移ることになった。そこのファウンテン・グローブ(長沢農場)に就職が決まったのである。この知り合いのないアメリカで、日本人の経営する農場に勤めることができたことは、そして日本語だけでも通じることができるという意味でも気の休まる仕事であった。そしてそこで飼っている馬や家畜の世話が、さらに彼の心を和ませていた。しかしここでは日本人ばかりではなく、多くのメキシコ人やフィリッピン人も入り交じって働いていた。 長沢農場は、葡萄王と言われた日本人の長沢鼎(本名・磯長彦助)の経営する農場であった。長沢は鹿児島藩の出身で、慶応元年、藩より英仏留学を命ぜられ、さらに森有礼、寺島宗則らとともにアメリカに渡っていた。一八七九年、サンタローザで親日家のアメリカ人ハリスとともに広大な葡萄園・ファウンテン・グローブを経営し、一八八二年には葡萄酒醸造業を興した。ハリス没後、その遺産の全部を継承した長沢は、長沢農場と名を改め、当時は百万長者とうたわれていた人であった。現在サンタローザの市議会ホールには彼を顕彰する胸像があり、それにはレーガン大統領の賛辞が添えられている。 ところで富造が渡米する十年も前のカルフォルニア州では、清国人移民の入国禁止案が一般投票にかけられ、圧倒的多数で可決されていた。しかもこれら人種差別の法律は、清国人から提訴の権利さえ奪ってしまったために、白人に殺されても法的な抵抗さえできなくなっていた。それもあって一八八五年には、ワイオミング州のロック・スプリングのチャイナタウンが白人の襲撃を受けて放火され、清国人二十八人が死亡、十五人が負傷し、さらに数百人が町を追われて家や商店が破壊される事件が発生していた。その理由は、清国人が低賃金で働き、しかも白人のスト破りの要員として使われたことに対する、白人労務者側の反感があった。また一八八六年にはオレゴン州で清国人へのリンチ事件が相次いでおり、多くの清国人が虐殺されたりしていた。白人は清国人移民を殺しても、この法律により、ほとんどその罪を問われることがなかったのである。 富造が渡米した一八八九年に、バンカビルで白人労務者による日清両国人の労務者が襲撃される事件があった。彼らには、日本人と清国人との見境がつかなかったこともあった。このサンタローザの北の方でも、多くの清国人が人種差別の嵐に中で殺害されていた。しかもその方法たるや、清国人たちを何もない草原に追い立て、野生動物を狩るかのように馬で追い、鉄砲で撃ち殺したのである。そのため過酷な状況の中で生き残るようなことを、チャイナマンズチャンスと言われるようになっていた。チャイナマンとは、清国人の蔑称であった。 このようにアメリカは清国人を排斥しながらも、それに代わる廉価な労働力を必要としていたそこでアメリカは、日本人に目を付けた。そして正にこの年、日本人が本格的にアメリカ移住をはじめたのである。しかし白人労務者にとっての労働市場での圧迫は、清国人も日本人も同じことであった。今まで緩やかだった矛先が、日本人にも向いてきたのである。富造が渡米したのは、そういう時期であった。 一方ニューヨークに行った重教はウェスタン・エレクトリック会社に入社し、約一年の間、電信器、電話交換機そして電気鉄道の実習に励んだ。そしてそれが終わるとシカゴからカナダに回り、バンクーバーから日本に帰った。富造のいたサンフランシスコを通らずカナダに回ったのは、できるだけ多くのものを見ようという考えからであった。 やがて日本に戻った重教から、近況を知らせる手紙が届いた。それには、はじめて実施された衆議院選挙に河野広中が立候補し、次点に四倍の差をつけてトップ当選したこと、周太郎が千駄ヶ谷村(いまの東京都)にあった旧信濃高遠藩の江戸下屋敷跡の土地を借り、桑を植えて養蚕をはじめたこと、重教本人は三吉電機工場に入社して日本電気学会の評議員となり、さらに月刊誌・電気の友を創刊し、またアメリカでの電話の呼びかけ声「ハロー」を日本語に訳せないため「申す申す」から「もしもし」にしたこと、などが書いてあった。そして最後に、周太郎が養蚕と酪農の研究に渡米したがっているとの意向が記されていた。富造が長沢鼎農場に就職したことを知ってのことであった。そして、ミネが男の子を産み、父の直親が克巳と名付けたことを知らせてきた。 ──俺も父親になっていたのか! 外国に居てのこの知らせは、故郷への想いを募らせた。「カツミ、かつみ、克己」 まだ見ることのない幼な児に、声をかけてみた。 ──どんな顔をした子なんだろう。 そう思うと、嬉しいよりも寂しさが先立った。居ても立ってもいられない気持ちであった。 ──もし収入があったら、兄貴が来るときに一緒に連れてきてもらえるんだが。しかしこの厳しい被差別の中で、女房、子どもが安心して暮らせるだろうか? そうも思ったが、サンタローザでの仕事は富造が日本で獣医として学んできた経験が生かせる羊牛飼育とその健康管理の仕事であったので、それはそれで気に入っていた。 アメリカでの生活は、富造が思い描いていたような楽しいことばかりではなかった。そしてサンフランシスコの菅原は、発行部数の少なくなった新聞で、筆鋒鋭く次のような主張していた。「米国政府ハ外面自由平等ノ主義ヲ主張シ、内面外人ニ対スル政略ハ、其ノ主義ニ反シ」ており、「米国ハ商工業ニ非常ニ自由ノ保護ヲナシ他国ニ向テ非常ナル不利益ヲ与フ、清国人放逐ノ如シ」とその欺瞞性を論じ、「日本にては賢者は必ず富を致さず、愚者必ず貧を致さず、貧富は愚賢に随はざることの如く心得候へども、当国にてはこれに反し、賢者は富を得、愚者は貧を招くことを通例と致候」とその優勝劣敗の原理を肯定していた。 バンカビルでは、再び日清両国労務者が白人労務者に襲撃される事件が発生した。この日本との余りにも違う生活と環境は、富造自身に対して日本人とは何か? という命題を突きつけることになった。
2008.04.28
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このときソルトレークの夕刊紙は、日本について次のような記事を掲載していた。「東洋における最も新しい発展は、憲法に基づいた政府が設立されたことである。天皇により新しい憲法が制定され、貴族院と衆議院が設立された。(略)言論の自由、集会の自由、信教の自由が権利として宣言され、与えられたのである」 富造は富造で、新聞を作るためのアメリカ国内での情報収集の過程で知った人種差別の激しさに驚きを隠せなかった。「それはなあ勝沼、どこから来た民族であれ、アメリカに移民してきた当座は一番下の社会階層から出発したには違いない。だからイギリス系やフランス系ドイツ系に比較して、集団として遅れてやってきたアイルランド系やイタリア系、ポーランド系の人たちは白人ではあっても、またヨーロッパ文化という共通の基盤に立っていながらも、新移民と呼ばれて差別されている。だから今でも彼らは、マイノリティ(少数派)と呼ばれている」「マイノリティ・・・?」「うん、そうなんだ。だからそのために、彼らこのマイノリティは、アメリカ社会の最上層の階層に入り難い立場にある。無論、絶対に入れないというものでもないが」「最上層の階層・・・?」「それはWASPだよ。すなわち白人(White)、アングロ(Anglo)、サクソン(Saxon)、プロテスタント(Protestant)さ。それに対して黒人やわれわれ黄色人種、特に清国人に対して差別が酷いが、この社会階層を上に移動するということは、難しいことだろうな」「そうか。アメリカは自由な国と思っていたが・・・」「この辺については、充分に認識しなければなるまいな」 富造は日本での自由民権運動とは、また異質のものを感じていた。 アメリカでの清国人の活動は早かった。「おけい」という日本人女性の名で知られるカルフォルニア州ゴールドヒルに、若松コロニー(いまの福島県会津若松出身の武士や商人の約四〇人で作られた)を設立して少数の日本人が移民をはじめたころ、すでに清国人は六~七万人を数えていた。鉱山労働や大陸横断鉄道建設に、彼らが大きく寄与していたのである。しかるに彼らが排斥された後は、日本人がその悪い面も一緒に引き継ぐことになる。 ところがそのような現実を知らぬ日本人は、「清国人は退守頑愚にして米国に背反し日本人は進取有為にして米国と組合す」などと言って自惚れていた。それはアメリカ人が日本文化に対してもつ違和感などが差別につながっていると思うと同時に、日本人の教育程度の高さに対する畏れもあると思い込んでいたのである。たしかに日本人移民たちの教育程度は、決して他の国からの移民のそれと比較して低くなかったからである。 ところが富造がサンフランシスコに来たこの年、日本人排斥運動が起こっていた。その日本人たちは排斥されている側にもかかわらず、それら非難の矛先を日本からの出稼ぎ労務者に対して向けていた。彼らを、アメリカ移住に適さぬ粗野で無知な下等日本人と蔑んだ。また先に来ていた日本人たちもその論調を知って、「後からこのような粗野で無知な下等日本人が来るから日本人が排斥の対象になるのであって、われわれ上等の日本人は白人と同じ側にある」と主張していた。つまりは先に移住をした日本人が後続の日本人を差別したのである。「僕たちは脱亜の志士だ。それら下等な日本人と一緒にしてもらいたくないね」 菅原は富造にそう言って笑っていた。しかしこのような脱亜の志士的な考え方が、在米日本人の間の団結力を阻害した一因となったことは否めない。 ──しかし日本人は本質的に、自分の殻に閉じこもりたい、つまり唯我独尊的な気持が強いのであろうか? 日本には長屋的な一体感があったのに、ここでなくなっているのはどういうことなのであろうか? 富造はそれらの話を聞きながら、考え込んでいた。 一方、日本での自由民権運動は、確実に衰退の時期にあった。しかもこれらサンフランシスコで発行する新聞は日本での縁故を頼っての送付であったため、発行部数も少なかった。つまりこの仕事はあまり利益の上がらない仕事であり、そこでの給料は必ずしも良くはなかったのである。 ──収入が少ないからと言って、いつまでも丹野さんたちの部屋に居候している訳にもいくまい。 そう思った富造は、サンフランシスコを離れたいと考えていた。この大都会は大都会の大きさゆえに、人種差別の根を人々の目から隠してはいた。だからそう言った意味では決して住み難い街ではなかった。しかし日本人が数多く住み、故国からも旧知・未知の人々が次々と訪れてくるこの大都会は、日本人同士の動向はお互いによく知られ合うことにも繋がってもいた。それであるからもし富造が「仕事がうまくいかぬ落後者」としてレッテルを張られることがあるとすれば、それはなんとも耐え難いことであった。さりとて今さら中途で帰国するなど思いもよらぬ話であった。もしも帰国すれば、息子を信用して送り出してくれた両親や慎重に行動するように忠告してくれた兄たちに会わせる顔がない、という思いもあった。 ある日富造は、菅原に福音会を通じて就職口を探してくれるように頼んだ。それを聞いた菅原は身体を小さくして言った。「勝沼。アメリカにまで呼び寄せて君の役に立てないとは、申し訳ない」 菅原は富造に責任を感じていたのである。「そんなことはないさ。考えてみれば、君だって一人でやってきた。俺だって、いつまでも君に甘えていい訳がない。この際この街を離れて、一人で生きてみるよ」「この街を、サンフランシスコを出ると言うのか?」「うん。一人で生きるということはそういうことでもあると思うんだ。大丈夫、心配しないでいい」 そう言いながらも富造は考えていた。 ──脱亜の志士だなどと気負っていたが、単なる自己欺瞞に過ぎなかった。こんなことで挫ける訳にはいかぬ。 しかし菅原が持ち込んでくる仕事は、サンフランシスコでの日雇いの肉体労働が多かった。 ──菅原は、本当は俺をここに置きたいんだな。 そういう菅原の気持ちを察しながらも、富造は頑なにこの街を出ることの主張を繰り返していた。「勝沼。いい仕事が見付かった」 思わず振り返った富造に、菅原が言った。「君の獣医の資格と経験が、役に立つ仕事だよ」
2008.04.27
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愛国同盟の機関紙・第十九世紀や自由は、桑港湾岸地区(サンフランシスコ・ベイエアリア)に住む日系人の間に広められたが、同時に祖国へ送りつけられる政治文書でもあった。 ──もしかするとこのペンネームから、菅原や丹野の実家にも累が及んでいるのではあるまいか? そう思うと、富造もそれ以上を言えなかった。いまだ日本はそういう状況であったからである。愛国同盟の新聞「自由」の発行を手伝う積もりである富造も、下手をすると日本に住む自分の家族にも同じ迷惑をかけるかも知れない、署名記事を書く場合は余程注意しなければならないと思ったのである。 しかし菅原は態勢をすぐに建て直して言った。「うーん、まあそうだな。日本は国内的には国会開設ということで自由民権運動をなだめ、表面的には国民の要求を認めた。しかし実質的には天皇制を確立することで、議会は天皇に対してのみ責任を持ち、国民を無視してしまった。日本という国は、これで国民と決着をつけようとしているのかも知れないな。しかし国際関係は日本の意向とは無関係に動くからな」 重教は、しばらく日本を離れている菅原に分かり易いように話していた。しかし菅原は一歩先んじていた。日本のニュースに対するアメリカの報道は、むしろ日本国内より的確であったのである。「ところで加藤木さん。私は日本が貴族院という制動機能を持つ制度を置くことで、天皇制への安全弁を取り付けたのではないかと考えています。つまり一般人の選挙によって成立する衆議院に対し、貴族院を置くことで政府から見てひねくれ者だ変わり者だと言われる人間が出てきても、また政府に盾つく無政府主義者たちが出てきてもそれを押さえることができます。また今回選挙が行わせるということで選ばれる衆議院議員や選ぶ国民も、自分たちの意志として国体や元首に関して異論はないと認めさせようとしているのかも知れません。結局その心情の突き詰めた先には、『日本には神格化された天皇陛下がおられる、という風に国民を考えさせるようにしたもの』と考えています。どう思われますか?」 富造は驚きの目でまじまじと菅原を見た。海外に出れば自分の国が良く見えるとはよく言われることだが、と思っていたのである。「なんだ勝沼、照れるじゃないか・・・」 そう言うと、菅原はがらっと話題を変えた。今度はアメリカについての話が弾んだ。「ベーリング海のアザラシの保護のため米英が対立しましてね、武力衝突直前まで行ったんですがアメリカの譲歩で決着しました。またサモア諸島ツツイラ島のパゴパゴ港の領有を巡って英独の艦隊がサモア周辺に展開し、アメリカを含めた三国が険悪な情勢となったのですが、この時に猛烈な台風が襲ってきて互いの軍艦が仲良く三隻ずつ沈没や大破してしまいました。このためベルリンでの会議がなごやかに進み、アメリカがツツイラ島を領有することで妥協が成立したということがありました」「ははは、仲良く三隻ずつか・・・。まるで蒙古襲来の神風みたいだな」 富造がそう言うと思わず四人は吹き出した。「まったくだ。しかしその間にも、アメリカは間髪を入れずにアリューシャン列島の領有を宣言してしまいましてね」「えーっ。アリューシャン列島などというと地の果ての島のようだが、地図で見ると千島列島が目前じゃないか。アメリカという大国が、あんな極寒の小さな島まで自分のものにするとは驚いたな」 二日後の午後四時、重教は大陸横断のセントラル・パシフィック鉄道の汽車に乗り込みニューヨークに向かった。この兄との別れは、富造にいよいよ一人だな、と自分自身に覚悟を強制した。しかしもはや別れに涙はなかった。汽車の時間表による旅程の長さが、この国がとてつもなく大きな国だということを嫌と言うほど実感させられた。 重教が東部へ発った後、富造は収入の道がなかったこともあり、新聞発行の仕事を手伝うことになった。この編集にかかわった富造はアメリカの新聞を読み、掲載されていた記事の要約したものをこれら新聞のために転載した。「徒手空拳」で渡米し、「進取の勇気絶倫なる若者」であり、勉学することを目的とした「出稼ぎ書生」であると自認していた富造たちにとって、清国人の排斥はそれだけに無視し難い現実であった。自分たちの周囲で起きていたそれらの清国人排斥が、やがて日本人に及ぶのではないかと恐れていた。アメリカに住む黄色人種の移民の将来を左右する重大事件と認識したのである。また日本における大同団結運動が分裂したのを知ったのもこの事務所であった。 その一方でこれら日本語の新聞は、移住者たちの連帯を支えていた。しかしその紙面でもっともよく読まれたのは個人の動向であった。いま、彼らが命を賭けて作った新聞のほとんどが残されていない。それでもそこから垣間見られるのは、これら若者たちの自負であった。明治政府の圧制から逃れ自由の聖地としてのアメリカに亡命していた自由民権家を支えていたのは、「脱亜の志士」という誇りであった。それはまた「和魂洋才」の思想とも一致するものであった。 ある夕、福音会が富造の歓迎会を開いてくれた。福音会は、美以教会のハリス牧師の監督の下でゼッシー街に設立されていたが、その後、美以教会から分離したものである。そのためもあって福音会には特に牧師のような人もなく、いわば学生の団体のようなところがあった。この歓迎会は、最初に祈とうにて開会し聖書朗読、までは教会らしかったが、その後は落語、剣舞、奇術、さまざまな出し物が飛び出した。寿司が配られ、レモネードで乾杯した。まるで日本のバンカラであり、日本とアメリカが混在した不思議な感覚であった。富造には、脱亜の意味が精神的な意味ばかりではなく、肉体的にも日本を離れたという意味に思えて、妙な充実感に満たされていた。 カリフォルニアのキリスト教会は、西洋文明のフロンティアとして異文化・異宗教への伝道に情熱を燃やしていた。日本から来た留学生たちは、帰国すれば指導的立場につくであろうインテリである。その彼らを、キリスト教に教化して日本に送り込もうとする意図もあった。それであるから何かと言うとこのような会合が開かれ、教育の場とされていた。 菅原は大同団結運動の分裂にショックを隠せない様子であった。それに日本では帝国憲法が発布され翌年の帝国議会の発足を予告されたこともあって、この新聞発行も終焉の時期を迎えていた。
2008.04.26
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次の日、菅原は自分の仕事場を見せてくれた。「勝沼、君に丹野太郎君を紹介する。彼は君と同じ福島県の出身だ」 富造は丹野と握手をしながら言った。「いやあ、あなたも福島県ですか。私は三春です。あなたは福島県のどちらから?」「驚いたな。三春ですか。私は平の出身ですが自由民権運動に手を染めて喜多方へ行きましてね。積極的に弾正が原事件に関与して逮捕されてしまいました」「えぇっ! 平のご出身ですか? 実は私の父も平出身なのです。こんな遠いところでお会いするとは・・・。奇遇ですね」「平の? 勝沼・・・さん? 勝沼と言えば、藩政時代に柔術の有名な先生が三春へ行ったとは聞いていましたが、その勝沼さんのご子息ですか?」「いやぁ・・・」 そう言うと富造は、思わず頭を掻いた。有名と言われたことに照れたのである。「で三春と言えば、河野広中氏とはどんなご関係です?」 丹野は富造が三春出身というだけで、河野とは親しいと決めつけていた。富造は河野や三春での自由民権運動について、丹野に話した。 (注:この丹野太郎という名は「喜多方市史 6(中)資料番 号229 年月不詳 拘引人名簿」に出ている。参考に した「米国初期の日本語新聞」には丹森太郎と出ている が、姓を間違えられた可能性のある人物である。(三春 自由民権運動資料館・藤井康氏 談)喜多方で起きた喜 多方事件は福島事件・弾正が原事件とも言われ、福島県 自由民権運動の領袖の河野広中の逮捕につながった事件 であった。丹野太郎はこれに連座し、拘引されていた) ところで菅原と丹野の交遊関係は、一八八七年、日本人乗客四十四人を乗せた英国郵船ゲーリック号がサンフランシスコに着いたことに関わっていたという。 このゲーリック号の乗客の中に天然痘患者がいるという通報で、上陸が禁止された。彼らは遮断船に移されて板の間に毛布一枚で寝かされ、暗くて空気の流通も悪く、食べ物も水のような小豆粥と少々の野菜が出るだけという最悪の事態になっていた。福音会々員が連日事態打開に動いたが好転せず、丹野太郎や菅原伝ら十人が救出委員となり、さらに日本に伝導に行ったことのあるハリスらも加わって積極的に働きかけたためサンフランシスコにいた同胞たちに一体感が生まれ、日本人としての意識や愛国意識を大いに強めた事件となった。ゲーリック号事件と言われた。「それに勝沼。君と行き違いになってしまったが仲間に中島半三郎君というのがいてな。彼は加波山事件に関連していた。君の友人が死刑になったり獄死したりしていた例のあの事件だよ」「えっ? あの加波山事件に関連していた?」 富造には、自由民権運動に拘わった志士たちにこの遠いサンフランシスコで会うことが驚異であった。 中島半三郎は群馬県中島村(いまの藤岡市)に生まれ、自由民権運動に参加して加波山事件に関連、一八八七年に渡米して新聞・新日本を創刊した。この頃、日本国内での抑圧から逃れた自由民権の志士たちが新聞を発行していた。これらはアメリカで発行されたものであるにもかかわらず、日本の国内法(刑法、新聞紙条例、官吏侮辱罪、朝憲紊乱罪など)の訴追を受け、当事者欠席のまま禁固や罰金の判決を受けていた。そのような状況の中の一八八八年一月、中島半三郎は菅原の在米日本人愛国有志同盟(のちの愛国同盟)に合流、この年の二月に日本で開かれる大同団結運動のカルフォルニア州代表として、帰国していたのである。 四人が小さな倉庫の片隅を簡単に区切った小さな部屋に落ち着くと、菅原は二人に言った。「僕らはサンフランシスコのオファレル街に愛国同盟という組織を作りましてね、『第十九世紀』という機関誌を発行しています。これを日本に送って自由民権運動をアメリカから応援しているんですよ。しかしいくら送っても横浜で官憲に押さえられることが多くて、閉口しています。やむを得ず、つい先だっても新聞の名を『自由』に改題したばかりです」 菅原らが新聞を武器に展開していた言論活動は、抑圧され続けている日本の言論弾圧への激しい批判であり、自由と権利を人民から剥奪した非民主的な明治専制政府の糾弾であり、口封じされて閉塞状態におかれた国内の同志たちにあてた強力なメッセージでもあった。それであるから、「本国の有志と気脈を通じ(中略)日本の改良を計り、外より之を警鐘する」ことを目的に、愛国同盟を結成したのである。つまり彼らの生活はアメリカにあったが顔は日本に向けられ、日本の社会や国家としての行方に熱い視線を注いでいたのである。「しかし僕らは他のグループから、亡命自由民権家の書生の虚飾空論、と指弾されましてね。じゃ彼らは何を主張しているかと言うと実利実益、という現実的なものなのです。それじゃまるでカネの亡者じゃないですか」 菅原は軽蔑するかのように言った。そして日本の様子を訊いてきた。「うーん。まあ来年には選挙によって国会が開かれる筈だが、まだまだ制限が多くて普通選挙にはほど遠い。しかも国際的には、朝鮮に対する清国とロシアの積極的な動きに対し、日本は激しく反撥をしている。この国難に、国内的にはむしろ専制的に立ち向かおうとしている。しかしあの二つの大国に対して日本はどう対応するのか、難しい時代になると思っている。だからこれからも、この運動は必要だと思うよ。」「そうですか。僕は加波山事件や西南戦争の終結で、自由への山場を越えたものと思っていましたが・・・? それに清国やロシアの動きはそんなに不穏ですか?」 菅原は鋭い目で富造を見ていた。日本に送っている新聞「自由」の記事が当を得ているのかどうか、それを探ろうとしているようにも思えた。「これには僕の論説が載っています」 富造は手渡された最新の新聞に目を通していたが、思わず失笑した。それを見て「何ごとだ?」というような顔をする菅原に言った。「菅原、この論説の署名人名が菅奥洲だって? お前はこれで誰が書いたか分からないようにした積もりかも知れないが、俺の目から見ると、これでは頭かくして尻かくさずだよ。菅原の菅と出身地の奥州(宮城県)の組み合わせでは余りにも単純だよ。どう見てもすぐ日本の官憲にバレるぞ」 その論説は、「魯独英仏米五國の内閣を論評して日本二十三年后の内閣に及ぶ」という題のものであった。菅原は、一瞬黙ってしまった。 富造もそう言ったものの黙ってしまった。次頁の論文の署名が丹森太郎となっていたのである。 ──これでは菅原と同じだ。 そう思ったからである。『第十九世紀新聞』『愛国』:『米国初期の日本語新聞118頁』より転載。
2008.04.25
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「いやあ。船旅はどうでした?」 そう言って差し出す菅原の握手の手を握りながら、アメリカ人みたいな大きな態度だなと富造は思った。そして菅原が迎えに来てくれたことに安堵していた。英語には自信があったが、事情はまったく知らなかったのである。もし菅原が迎えに来ないとき一人で彼の家までたどりつけるか、口には出さなかったが心の中で心配していた。「アメリカにはロッキー山脈という大きな山脈がありましてね、そこを横切って大陸を横断する鉄道が出来ましたが、それは難工事でした。しかし新しい鉄道の工事場や保線工事では、今も多くの日本人や清国人が働いています。またニューヨークやシカゴにもこれと同じような馬車鉄道が走っていましてね。長距離は蒸気鉄道、短距離や市内は馬車鉄道という役割が自然にできているようです。ただサンフランシスコは坂が多いので、ケーブルカー発達しましてね。すでに六本あるんですが、今また七本目のオムニバスケーブル鉄道が出来たばかりです」 菅原は重教に向かって丁寧な言葉を使って説明した。 その急な坂道を見た富造は、そこをソリで滑り降りたら面白いだろうと、子どものようなことを思った。三人は、港から街まで馬車鉄道に乗った。二頭の馬で二十人ほどの客を乗せて、御者が鞭を振るった。その動きは思ったよりスムーズだったが、腰に伝わる車輪の回転音がごろごろと異様に感じられた。 富造は隣に座っている菅原の耳に口を近づけると、小さな声で言った。「日本でも上野から君の故郷の仙台まで蒸気鉄道が通じたし、仙台から野蒜(宮城県桃生郡鳴瀬町)まで馬車鉄道の工事がはじまった。出来上れば、やはりこういうものなのかな?」 菅原は思わず富造から身を離し彼の目を見つめると「なに? 野蒜? 石巻湾のか?」と驚きの声を上げた。「うん。郡山の安積疎水を設計した・・・」と小さな声で言いかける富造に、「大丈夫だよ勝沼。誰も日本語なんか分かりはしない。普通に大きな声で話せ。かえってアメリカ人に、なにかよからぬ相談をしているのではないかと疑われるぞ」と言って笑った。「・・・郡山の安積疎水を設計したオランダ人のファンドールンの設計で、野蒜に港の建設がはじまったんだよ」 富造はわざと大きな声で話した。「なにも急にそんなに、でっかい声でなくてもいいよ。ところでなんで野蒜なんて所に港が出来るのかな?」「それは分からない。ともかく仙台停車場から野蒜まで築港資材の運搬と、将来の旅客運送のための馬車鉄道工事もはじまったという訳だ」「ふーん、それにしても野蒜って港に適していたかなあ」 菅原はうさん臭そうな声で言った。「それからまだ着工にはなっていないが、三春でも馬車鉄道建設のための現地調査がはじまった」 そんなことを話ながら見る馬車鉄道の窓に流れるサンフランシスコの街は、ガラス窓のついた七、八階建の高層ビルが並び、歩道には石が敷かれ、中央は馬車道で五センチほどの小石が敷きつめられていた。広い所では七〇メートルもあった。 やがて兄弟は、しばらくの滞在先になるホテルに案内された。フロントデスクで受付を済ませるとボーイに先導され、二メートル四方ほどの小さな箱に押し込められたかと思うとスーと上の方に吊り上げられ、四階の部屋に通された。不思議な箱だと思ったが、これがエレベーターというものを最初に見たときであった。 部屋には寝室、浴室、便所が備えられていた。大鏡は水のように透明感が溢れ、敷物は華を撒いた上を歩くようであった。天井からは宝石かと見間違うほどのビードロのシャンデリアがぶら下がり、一旦ガス灯に火が点けられれば七彩に輝き、それは素晴らしく、窓には紗に花紋を織り出したカーテンがかかり、霞をへだてて花を見るようであった。 驚く富造らに、「日本から来たばかりだから驚くでしょうが、このホテルは安い方です。高価なホテルともなれば、こんなものじゃないです。長逗留になるとカネを節約する必要があるかと思いましてね、こんな所にしましたが僕も日本から来たばかりには驚いたものです」 菅原がウィンクをしながら言った。 部屋に入ると菅原が、アメリカの現状を手短じかに話してくれた。富造にとって特にショックだったのは、一七九〇(寛政二)年に作られたアメリカ帰化法が今も生きており、外国人の市民権を自由な白人のみに制限していることであった。一八七〇(明治三)年に改正されたアメリカ帰化法でも、外国人の市民権はかっての奴隷に拡大されたのみで、東洋人は含まれていなかったのである。「すると菅原。お前も市民権がないのか?」「日本人は東洋人だぞ、当たり前だよ」 早速夕方、菅原がサンフランシスコ見物に連れ出してくれた。菅原は「歩幅を広くして歩け」「あまり大きな声でしゃべるな」「親切そうな日本人や、片言の日本語を話す外国人に気を許すな」「白人がいるところでは、英語を話せ」と注意してくれた。日本人たちが何か悪い相談をしているのではないかと気にするのだという。 ──日本人はそんなに悪い奴と思われているのかな? 富造はそんなことを考えながら、街路の両側に五階六階の整然と並んだ石造や煉瓦のビルディングを呆然と見上げて歩いていた。「こら! 口を開けて上を見るな! まっすぐ前を見て歩け」 すかさず小さな声で菅原の叱責の声が飛んだ。 すぐ近くのチャイナタウンを案内してくれたとき、菅原が富造に小声で言った。「アメリカでの清国人の歴史は日本人のそれより長いし人数も多いんだ。それだけに彼らの方に力がある。現に彼らは街を形成しているが、数の少ないわれわれはそのチャイナタウンのそばで暮らしている。覚えておいてくれ。それにな、ここではこんな川柳が流行っているんだ・・・。清国街に 居候する ジャップかな」 菅原は白い歯を見せるとニッと笑った。ジャップが日本人の蔑称であることは富造も知ってはいた。しかしそれはまだ観念的なもので、そう言われても実感としては捉えられないでいた。(ニューヨークの馬車鉄道:サンフランシスコではないが当時の雰囲気を知るために掲載した。『面白写真術1のりものいっぱい』フォトマージュ社(1979)102ぺージより転載)
2008.04.24
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「そうだろうな。だからあ奴らも、そういう自己弁護が出来るからどんなことでもやれるんだろう。この船に乗っている百姓や無宿者の移民たちも、ただの食いつめ者としてではなく外地で働いて送金して国を富ます助けになる、という気持ちを底にもっていると思うよ。そうでも思わなかったらアメリカくんだりまで、行けるか?」 そう言って重教は、にやにやしながら三春で流行っていた唄に小声で調子を付けた。「ハァ しっちょいからげて どこさ行く 行くとこないから アメリカさぁ・・・か」 (注:しっちょいからげて=着物の裾をからげて走るさま。 本当はアメリカではなく北海道、である。移住するこ とで、生活苦からの脱出を意味していた) 富造は思わず憤然として言った。「しかし重ちゃん! 少なくとも俺たちだって、いずれ国のためになる、そう思って出てきた筈じゃないか! それをそう茶化されると怒りたくなる!」「いや、ごめんごめん。お前に言った訳ではないんだ。あんないい加減な連中を見ていると皮肉の一つも言いたくなるじゃないか」 そう言われて富造は、思わず背後を見た。誰かに聞かれたかと思ったのである。 イルカを見飽きたのか人の気配が閑散としてきた。「うん、まぁそうだよね。しかしこんなに世界中の人を招き寄せるアメリカとは、一体どんな国なんでしょうね?」 富造は小腰をかがめ、船の手すりに乗せた手の上に顎を置き、遠くを見ながら訊いた。船はゆっくりと揺れていた。水平線に見える低い雲が、まるで陸地のように上下していた。 ──陸地が恋しいからそう感じるのかな? そう思いながら富造は、雲を飽かず眺めていた。 重教が言った。「アメリカは、人民の人民による人民のための政治と言った国だ。この言葉こそ世界の理想だ。おそらく若く、活力のある国なのだろう」 それを聞きながら富造は、重ちゃんは小野目みたいなことを言うな、と思っていた。今度は手すりに背中を預けながら言った。「重ちゃん、俺もそうは思う。しかし菅原の手紙でも、『今度アメリカ議会は外国人契約労働法というのを作って、アメリカ人の雇用主に外国人労務者を移入することを禁止したそうです。ただその本来の目標は清国人で、彼らが低賃金で働いてアメリカ人労務者の生活水準向上を妨げたというのがその理由なんだそうです。その法律を背景に清国人移民排斥運動が起きているし、サンフランシスコの市長選では立候補者が清国人と同じく日本人の排撃演説をしたため日本人も排斥運動の目標になりつつある』と言ってきています」「なるほどな。日本人は特別だとは聞いていたが、人種差別はわれわれが思った以上かも知れん。富造、アメリカに着けばいずれ二人は別行動になる。お互いに注意をして行動しなければなるまいな。例えどうあれアメリカはわれわれにとって他人の国、外国人であるわれわれは甘く考えるべきではないし自重しなければならないことも多かろう」「そうですね。それでも俺は菅原を頼れるけど、重ちゃんには頼れる人がいない。注意してよ」 船はアメリカに近づいていた。 二人を乗せた船が、急激に迫った荒涼とした山の間を抜けた途端に広がったサンフランシスコ湾の広さに、富造は驚いた。しかし湾内に入ってからの両側の海辺の丘や樹の佇まいは、日本での景色を彷彿とさせていた。右手に見える町の様子は、丘の形そのままに這い上っている四角い白い建物の群れと、その道路を多くの馬車が上り下りするのが蟻の列のように見えていた。風は強く波頭が白くはじけていた。陸から飛んできた鴎が船客の差し出す手のパンくずを追いかけ、上手についばんでは離れていった。船はゆったりと舳先を回して港に近づいていく。そして風を横腹一杯に孕んだ船は、大きくかしいだ。この港に入ったときは五月になっていた。暑くもなく爽やかな風が吹いていた。富造は単純に、とうとうやった、と思っていた。いま富造の前に広がるサンフランシスコの街は、港を中央に、左右にどこまでも広がる大市街となっていた。人口七百人だった漁港の片鱗などは、どこにも見られなかった。尖塔の見える教会。天を圧するかのような大ビルディング。煉瓦や白壁、そして角形や丸形や尖った屋根の家。それらが階段のように並び、その美しさは夢のようであった。富造には先のことはまだ見えず、到着したことが無性に嬉しかった。 一八六八(明治元)年、アメリカでは、カルフォルニアの州都サクラメント近くのコロマ渓谷で金鉱が発見された。ゴールドラッシュである。金鉱地帯の入り口であったサンフランシスコは、混乱の極にあった。なにしろ人口七百人の漁港がたった一年間で三万五千人にもなったのである。しかもその住民はさまざまな人種の肉体労務者からなっていたから、犯罪、賭博、売春が横行した。しかし西部の果てに突然、金とともに出現したこの活気あふれる土地を東部諸州と結び付けるために、大陸横断鉄道の建設が急がれた。アメリカは西部開拓にその夢を懸けていた。 そこで鉄道会社は清国人の苦力(クーリー)を大量に輸入し、彼らをおだてて酷使し、その血と汗によりシェラネバダ山脈を越え、砂漠を横切って鉄道を敷くという難工事を推進した。しかし一八六九年、多くの犠牲者を出しながらネブラスカ州のオマハからカルフォルニアのサクラメントをつないだ大陸横断鉄道が完成すると、会社は一万五千人もいた清国人労務者の首をあっさりと切ってしまったのである。その上で今度は暴力的な清国人排斥運動が起き、彼らは悲惨な生活を強いられた。そんなこととも知らず清国人の後からやって来た日本人移民も、同様な辛酸の中に突入することになる。 一八八二年、清国人排斥法が施行された。そのため各地で仕事を追われた清国人たちは、彼らによって一八五四年に建立されていたオールドセントメリー教会をよりどころにして集まって来た。いまのサンフランシスコのチャイナタウンである。しかし白人たちは日本人の方を好意的に見ていた。それは労働力としての清国人を排斥したものの、それに代わる新たな労働力に日本人を当てようとしていたからであり、清国人よりも数の少ないこと、つまりコントロールし易いという事情もあった。 そのサンフランシスコの港には、菅原と同僚の二~三人の日本人が迎えに来てくれていた。
2008.04.23
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第二章 心 の 旅 路 脱 亜 の 志 士 一八八九(明治二十二)年、富造二十六歳の四月二十五日、晴、午前六時、東京に住んでいた家族みんなが、そして友人たちが二人の出発を新橋駅まで見送りに来てくれた。そこに一時は、「見知らぬアメリカにまで行って、野垂れ死にでもする積もりか!」と怒って身じろぎもしなかった父と、それを見てオロオロとしていた母の姿もあった。汽車の窓越しに家族の姿を見た富造は、不覚にも涙ぐんだ。重教にはアメリカでの予定の日程があったが、富造にはそれがなかった。 ──日本にミネを連れに戻って来れるだろうか? その想いは強かった。父や母の、そしてミネの涙ぐんだ淋しそうな姿が、強烈に胸に迫った。とりあえずミネは東京を離れ、三春の実家へ預けられることで話がまとまっていた。それもあって、汽車から降りて行くのをやめようかとさえ思った。ゆっくり動きはじめた汽車の窓から身を乗り出し、帽子を振った。堰を切ったように涙が流れ、妻の姿が霞んでいた。それに結婚してまだ二ケ月に足らない妻のミネの腹に小さな命が宿されているのを、富造はまだ知らなかったのである。 その日の九時、二人が乗り込んだアメリカの汽船ニューヨーク号は、横浜からサンフランシスコへ向けて十一時に出航した。 エンジンの音がゴクゴクゴクと腹の底に単調に響いていたが、しばらくすると船首の波を切る音が、ざわっザワッと聞こえるようになっていた。二人は船尾に立って、こよなく愛する国、大切な人たちが住む町が小さくなっていくのを食い入るようにして見詰めていた。そして遠くに見える富士山には、白い雪が輝いていた。見送りでもするかのようにマストにまとわりついていた鴎も、いつの間にか見えなくなっていた。航跡が扇のように後ろに白く広がり、泡立っていた。外海の波は高くなり、船は大きく揺れはじめた。煙突からは火の粉まじりの黒煙がたなびき、甲板に流れてきたりしていた。 富造兄弟の乗った船底の下等室は、蒸れかえるような匂いで充たされていた。海が荒れはじめ、船は前後左右に大きく揺れて波浪が船に激突する音が響き、絶えずぎしぎしと重苦しい音をあげていた。その上はじめの数日はペンキの強い匂いで増幅された船酔いで、二人とも食物が喉を通らなかった。ようやく船酔いには慣れてきたが、その後も「食事はうまい」という訳にはいかなかった。 渡米の準備から親戚友人への挨拶、そして外国船での航海と連続していた緊張も、ようやくほぐれてきた。そして天気も落ち着き、船酔いから解放されると、船客の様子が少しずつ見えてきた。大丸髷の見るからに田舎臭い新妻を連れた人もいた。正月でもないのに一升瓶を持ち出しては、「元旦や 一系の天子 富士の山」などと言いながら、誰れ彼れなく酒を注ぐ人もいた。船には人種もなにも、雑多な人が乗っていた。 二人は船底のきつい匂いを逃れて、ほとんど一日中船の甲板で過ごした。来る日も来る日も、船から見えるのは青い海ばかりであった。その先の水平線は、船の揺れに合わせてゆっくりと上下していた。その水平線をかすめるような影を島かと思って目を凝らすと、雲だったりした。甲板の上からイルカの群れを見つけた。船内は大いに沸いた。船客たちはイルカの群れに歓声をあげ、手を叩いた。その群れは横になったり船と平行になったり、背鰭で水を切ったと思うと海面から踊り上がりまた海中に没したりしていた。キラキラ光る陽光が、イルカの動きを飾っていた。「重ちゃん。あの船室で賭け花札をやっている連中には参ったね。よくも飽きもせず、薄暗い蝋燭の下でやっているわ」 富造は自分の顔が、少しゆがんでいるように思えた。「まったく嫌な奴等だ。それにあの中の一人は態度も悪いし、まちがいなく女衒だぞ」 重教はきっぱりと言った。「やっぱりそうか。どうもだらしなく浴衣を着た女たちは見るからに薄汚いから、そうかなとは思っていました。あいつらはアメリカにまで行って清国人や黒人に身体を売る気ですかね? 国の恥さらし奴が!」 富造は、ちっ、と小さく舌打ちをした。 このころ欧米では、「移民とは母国でない国に永住の目的で移ること」と定義されていた。つまり移民という行為には、移住地に定住、あるいは永住することが前提とされていた。ところが当時アメリカを目指した多くの日本人たちの目的は、単刀直入に出稼ぎ、つまり「錦衣帰郷ノ栄ヲ得ル」ことにあった。それであるから移民という言葉の意味もまったく理解されないままに出航して行った。それに横浜や神戸のような開港場には、いわゆる移民斡旋業者が高まっていた渡米熱を利用して金儲け目的で出稼ぎ労務者を募り、送り出していたこともあった。そしてこれらの労務者を相手にする女たちもここに集まってきていたが、その彼女らを「アメリカで働くとカネになる」という甘い言葉が、渡米熱を煽っていた。しかし渡米してしまえば何の保証もなく、国籍など無関係に本来の業務? をさせられることになってしまうのである。彼女らもまた、故郷に錦を夢見ていた。「しかしあ奴らとて身体を売ったカネを故郷のわが家に送金をし、苦しい生活を助けようと自分から進んで出てきた連中なのかも知れん。それに外部から見ると貧乏で嫌な奴とも思えるが、『自分が身体を売って送金をすると家が豊かになる。その上それは日本が外貨を獲得することにもなり、結局は国の富になる』と自己弁護をしているのかも知れないな。もっとも例えそういうカネであっても、外貨が欲しいという日本の国自身も問題だがな」「なるほどね、すると重ちゃん。そんな生活が海外雄飛と言えるかどうかは別にして、海外へ出るということは日本の発展ということとつながっている、つまりは別な形での愛国心の発露ということにでもなるのかな?」 そうは言ったものの富造は考えていた。 ──俺や兄貴はあ奴らとは別だ。ともかく菅原に迷惑をかけることになるかも知れないが、日本人の気概をみせてやる。いまに見ていろ。 イルカは船のスピードに合わせたかのように、そばを離れずに泳いでいた。富造の目はイルカを見ていた。
2008.04.22
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