三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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その田村家最後の主であった丹波定顕様が病床に就かれたとき、ご自分が死の床にあることをはっきりと自覚しておられました。 ──自分に子供がないということを自然に受け入れてきたが、この自分の死後、田村家再興を誰に委ねればいいのか・・・。 このことを考える丹波定顕様は、言いしれぬ不安と恐怖に追い込まれていたのでございます。 ──しかし姉上様、私は死んでも、お側近くに行ってお力添えをいたします。必ずやお孫様のお一人を田村家に・・・。 定顕様は病床で呻吟しながら、政宗様からの桎梏から抜け出せなかった長い日々を思い返しておられました。 ──あの政宗様といえども、結局は豊臣、徳川のくびき軛から脱することができなかった。それに私も、もしもあのとき石田三成様にお縋りした結果として豊臣の臣となり、田村家を存続させられたとして果たして今の徳川の世に生き永らえることができたであろうか。 それはまたご自分を見直すことでもございました。それらを考えていて、ある意味、政宗様もまた同じく身動きのとれない立場におられたことに気がつかれたのでございます。 ──自分にとって、一生という時間は何もしないうちに飛んで行ってしまったように思われます。結局私は姉上様や田村家のために生きた筈であったのに、今に至るもその成果が見えず、ただ虚しい思いでございます。されど姉上様、姉上様は生きて田村家再興の夢を叶えてくださいませ。もはやそれができるのは、姉上様のみでございます。どうぞ姉上様、私の分も生きて田村家を再興してくださいませ。私はいつまでも姉上様を見守ります。私の身体は死んですがたがたち姿形がなくなっても、魂は生きております。何か困ったときには、障子を開いてみてくださいませ。そこに姉上様は風に遊ぶ桜の花びらを見たり、はたまた鳥のさえずりを聞くことができるでしょう。私は姉上様のお側近くで、そのようにしてお仕えをして参ります。 正保五(一六四八)年、丹波定顕様は宗良様に田村家再興のかすかな望みを託されながら、ついに亡くなられたのでございます。清顕様のご遺言を守れなかったことに強い絶望を感じておられながらも、慕っておられた方のために生きたということで、十分に生き甲斐を感じられるご生涯でございました。 いずれにしても牛縊丹波定顕様となられた孫七郎様は、ここ福聚寺ではなく、愛宕山(宮城県白石市勝坂高岡)に埋葬されたのでございます。しかしそこにご法名はなく、 征夷大将軍坂上田村麿三十一代・ 三春城主田村孫七郎坂上宗顕之墓・ 復改牛縊丹波正保五年五月十五日卒去とあるのみでございます。愛姫様は孫七郎様の質素な墓碑の建立に際し、『征夷大将軍坂上田村麿三十一代』と並べて『三春城主田村孫七郎坂上宗顕之墓』とされたのは、ご実家の田村家が坂上田村麻呂公のえい裔であることを誇示しながら宗顕という文字で伊達家にも敬意を払い、さらには『牛縊丹波』という名で孫七郎様のご意志を表現なされたのでございましょう。つまり愛姫様は、ご両家に対する思いを、このような形で表したのでございます。 承応元(一六五二)年の十二月、仙台青葉城の庭の桜は雪に覆われ、風に騒いでおりました。 ──孫さん・・・ 心の中で今は亡き孫七郎様にそう声を掛けられると、愛姫様はそっと庭への戸を開けられました。「孫さん、私のそばに来てくれていたの? ようやく孫の宗良が岩沼に田村の氏で立藩することになりましたよ。長かったですね」 愛姫様のご長男である仙台藩主伊達陸奥守忠宗様は、ご自分の三男の伊達宗良様に三万石を与えられて岩沼藩(宮城県岩沼市)を立藩させ、のち一関に国替えをなされました。一関藩三万石(岩手県一関市)がこれでございます。宗良様は従五位下・田村隠岐守宗良様となられ、一関に田村家を立派に再興なされたのでございます。 そして隠岐守宗良様立藩の翌年の承応二(一六五三)年一月二十四日、愛姫様はこの田村家の再興を見届けるかのようにして、奇しくも政宗様の命日に亡くなられ、松島瑞巌寺の寶華院に葬られたのでございます。そのご法名は、『陽徳院殿栄庵寿昌尼大姉』でございました。それにしても、『坂上田村麻呂公より続く田村家の再興を!』という愛姫様と孫七郎様の悲願は、このような形で叶えられることになったのでございます。その春、桜雨に急かされるようにして、私は見事な花を咲かせました。 臨済宗長谷山大慈寺。この寺は田村家が岩沼に再興されたとき、その菩提寺として建立されたものでございます。宗良様が一関に移封されたとき、この寺も一緒に移され、宗良様の母上のお房の方の戒名祥雲寺殿より大慈山祥雲寺と改められたものでございます。 ちなみにこの寺の境内には、見事な紅枝垂れの桜がございます。いつのときにか私のみしょう実生を移して植えられたものだそうでございますから、申してみれば私・愛姫桜の娘でございます。その娘もまた、一関田村家を見守っているのでございます。 あれから世の中には、ずいぶんといろいろなことがございました。しかし今では老樹となった私も、春にはここ福聚寺の境内でひっそりと紅枝垂れの桜の花を咲かせているのでございます。 どうぞ折がございましたら福衆寺のこの愛姫桜に、昔話でも聞きにお立ち寄りくださいませ。 (終) ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。4月14日の順位は、221人中48位でした。お陰様で、念願の50位以内に入りました。なお本日も219人中49位と高水準を維持しています。ありがとうございました。
2010.04.15
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慶長十一(一六〇六)年、奇しくも五郎八姫様は、お母上の愛姫様と同じ十一歳で、徳川家康様の六男の忠輝様にお輿入れをなされたのでございます。孫七郎宗顕様は五郎八姫様のお輿入れをお聞きになり、徳川家と伊達家との磐石の繋がりを感じられ、それはそのまま、再興される田村家にも及ぶ筈、と考えていたのでございます。 ──それにしても、五郎八姫様が生まれてから十年も経たか・・・。 孫七郎宗顕様は年月の過ぎる早さを指折り数えて、驚きを感じておられたのでございます。 慶長十四(一六〇九)年、愛姫様に八男の竹松丸様が誕生なされました。八男とは申されましても、愛姫様にとっては、ご三男でございます。 ──田村家の名跡を継ぐ立場になられる方が、これで二人になられた。このどちらかが、三春への帰還という私の人生最大の喜びを飾って下される筈。私が長生きをすれば、卯松丸様や竹松丸様にお仕えができる。 そして孫七郎宗顕様は、「こんなに心の安らいだときはない」と思われ、大きく安堵なされておられました。 慶長十九(一六一四)年、大坂冬の陣が起こりました。そしてこの年、孫七郎宗顕様が推測していたように、兵五郎様は伊達遠江守秀宗様として伊豫宇和島藩十万石の藩祖として出て行かれ、愛姫様のご次男の卯松丸様は、十一歳で栗原郡岩ヶ崎要害館主になられたのでございます。 ──これで姉上様のご長男の虎菊丸様が、次の仙台藩主になられるは必定。あの猫奴が! さぞかし悔しがっていることであろう。心の内で孫七郎宗顕様は、快哉を叫んでいたのでございます。「いずれ卯松丸様は、田村家を継がれることになる」 ところがこの孫七郎宗顕様の喜びに水を差すかのように、心の支えとしていた愛姫様ご三男の竹松丸様が幼くして亡くなられてしまったのでございます。その上、元和四(一六一八)年、孫七郎宗顕様が田村家再興の切り札と考えておられた愛姫様ご次男の卯松丸宗綱様までが、六歳で夭折なされてしまったのでございます。 ──なんという不運・・・。男子は姉上様ご長男の虎菊丸様、ただお一人になってしまわれた。これでは田村家にお迎えする訳には参らぬではないか! 孫七郎宗顕様は愛姫様の心の内を思い、田村家の将来を考えて、胸のはり裂けるような思いに沈んだのでございます。「この世には神も仏もないものか!」 そう言って神棚を睨みつけ、震える拳を膝に置いた孫七郎宗顕様の形相は、さながら怒れる鬼のようでございました。 そうしているうちに元服の際二代将軍秀忠様より忠の一字を賜って陸奥守忠宗様となられた愛姫様ご長男の虎菊丸様は、この年正室として振姫様(姫路城主池田輝政と徳川家康の娘の子)を迎えられたのでございます。 ──次の仙台藩を継がれるのは、陸奥守忠宗様・・・。 そのことを疑う者は、誰もおられませんでした。しかしそのことが嬉しいとは思いながらも、孫七郎宗顕様はもう一つの願いを忘れることはありませんでした。『田村家の再興』 その一事でございました。今年自分が四十七歳ということは、姉上様は五十一歳にはなられた筈という思いが、次の代の陸奥守忠宗様に大きな期待を寄せざるを得なかったのでございます。 ──しかしなんと言っても私は、田村家再興のためにのみ生きてきた身。姉上様! この後はどうなるのでしょうか? 私は、どうしたらよいのでしょうか。あと考えられることは陸奥守忠宗様のお子のご誕生・・・。つまり姉上様のお孫様・・・。 その期待していた孫の虎千代丸様が寛永元(一六二四)年、またご次男が寛永三(一六二七)年にお生まれになりました。ところが長男の虎千代丸様は六歳で夭折されてしまったのでございます。 ──うーむ、伊達家に打ち続くこのご不幸・・・、田村家はどうなるのであろうか? その年、私は桜の花を咲かせず、つぼみのままで落としました。私もまた、辛かったのでございます。 寛永八(一六三一)年正月七日、ご老齢であられた御東様が亡くなられました。 ──御東様も、相馬と伊達の狭間にあって御苦労なことでございました。あんなにも苦労を重ねながら、御東様も田村家再興の夢を叶えることができませんでした。つまるところ私たちは、この世という目に見えぬ組織に組み込まれていた二個の歯車に過ぎなかったのでございましょう。そして気がついてみたら、私どもが絶対に必要と思い込んでいたその歯車が不必要となっていたのでございます。 それから間もなく、田村孫七郎宗顕様は、牛縊丹波定顕様と名を変えられました。 ──『宗』の一字をそのまま使うことは、政宗様に臣従することを意味する。すべてを取り上げられ、田村家再興の夢が萎んでしまった今、『宗』を名乗る意味がない。 そう思われたからでございます。 孫七郎宗顕様は牛縊という空恐ろしい姓に改姓し、政宗様の宗の字を定に換えるほど、田村領の滅失を恨んでおられたのでございます。 寛永十三(一六三六)年の五月二十四日、政宗様は江戸桜田の仙台藩邸においてその生涯を終えられ、仙台の瑞鳳殿に葬られたのでございます。御法名は『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』でございました。「ひと他人の逝く道、いずれ我が道か・・・」 丹波定顕様は、一世を風靡されながらもあっけない政宗様の死に、世のはかなさと虚しさとを感じておられました。この年、会津加藤領とされていた田村領、その加藤氏の娘婿で田村領主となられた松下長綱様が改易され、田村領は幕府領とされたのでございます。そして翌年、陸奥守忠宗様のご三男の宗良様がお生まれになられました。││田村が幕府領となった今度こそ、宗良様が三春へ戻られる筋道が立った。宗良様は私にとっては孫も同然、来られたらまず最初に福聚寺の姉上様の桜にご案内しよう。そう思って丹波定顕様は、本当に安心なされたのでございます。ところが九年後の正保二(一六四五)年、忠宗様のご次男である従四位下侍従、越前守光宗様が十九歳の若さで亡くなられてしまったのでございます。丹波定顕様にとって、まだまだ気の許せぬ状態が続いておりました。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。4月9日の順位は、224人中51位でした。2008/7/22の記録、52位を抜いて新記録の達成です。ありがとうございました。
2010.04.10
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お 家 再 興 の こ と 孫七郎宗顕様はその住み家を、伊達の領内に求めざるを得ませんでした。しかし政宗様に対して不信の姿勢を明らかにしてしまった今、追われるときのことも考えておられました。そのために伯母の御東様のご実家の相馬に近い、金山(宮城県伊具郡)の里に身を落ち着けられたのでございます。また御東様も、ご実家領の相馬郡堤谷に居を求められました。立場こそ違い、田村という後ろ盾を失ったお二人にとって、そのこともまた辛いことでございましたでしょう。 孫七郎宗顕様にとって自立することの意義は、田村家を続けるという意志でございました。とは申されましても、愛姫様にお子が生まれないかぎり、どうしようもないことでもございました。「亡き伯父上、私はどうしたらよいのでしょうか? 私は田村家や姉上様のため、価値ある何かを残すことができたでしょうか?」 そう言って自分を責めておられました。 文禄四(一五九五)年、伏見桃山の伊達屋敷から届けられた『愛姫様に女子ご誕生』とのご注進に、孫七郎様は飛び上がりました。朗報がもたらされたのでございます。「五郎八姫(いろはひめ)様か・・・」 政宗様が男子の名のみをお考えになられていたため、急遽、姫の読みに変えられたと聞かされた孫七郎宗顕様は、愛姫様のお気持ちを推察しながらも、庶長子である兵五郎様と五六八姫様との関わりがどうなるのかを心配なされておられました。「姉上様、次はなんとしても男子を願いまする。私は田村家存続のため、ひいては姉上様への想いのためのみにこの世に生きて参ったのです。もし女子のみでは、伊達家の家督はもとより、わが田村家の将来もおぼつきませぬ」 幼いころに母の微笑みを失っていた孫七郎宗顕様は、それでも赤子を抱く愛姫様の微笑みを想っておられたのでございます。 一方で政宗様は、関白秀吉様との関係の強化を考えておられました。そこで政宗様は兵五郎様を、関白秀吉様の猶子(ゆうし)となされたのでございます。関白秀吉様は兵五郎様に秀の一字を与えられ、秀宗様となされたのでございます。 それを知られた孫七郎宗顕様は、「今後は、どういうことになるのであろうか?」とその先行きを考えておられました。関白秀吉様に認められた兵五郎秀宗様が、次の伊達藩主になられるのではないかと思うと、胸が張り裂けんばかりであったのでございます。 慶長二(一五九七)年、関白秀吉様は再び朝鮮出兵を命じられました。慶長の役と申しました。ところがその翌年、関白秀吉様が亡くなられたため、これを機に朝鮮から兵を退き、ようやく戦いが終わったのでございます。 五郎八姫様誕生から四年後、待ちに待った知らせが、孫七郎宗顕様の元に届いたのでございます。「愛姫様に、男子誕生!」「おお! 姉上様でかされた! これで兵五郎様を出し抜かれましたぞ。次にまたお一人、今度こそ田村家の跡継ぎをお願い致しまする」 孫七郎宗顕様は手の舞い、足の踏むところを知らぬほどの喜びであったのでございます。そのお子の名は、虎菊丸様と申されたのでございます。 慶長五(一六〇〇)年、政宗様のご三男の権八郎様が、吉岡の局を母としてお生まれになり、さらには翌年には、塙団衛門の娘を母として四男の愛松丸様が相次いでお生まれになったのでございます。それなのに・・・。孫七郎宗顕様は、その後愛姫様には次の子ができないことが気になっておられました。 慶長七(一六〇二)年五月、仙台城が完成し政宗様は岩出山城から移られました。それはそれは、堅固で立派なものでございました。そして翌年、徳川家康様が征夷大将軍となられて江戸幕府が作られるとともに、政宗様は六十二万石の大々名となられたのでございます。世は泰平に向かって、一気に進んでいたのでございます。 この年、愛姫様に待ちに待った男子が誕生なされました。それは政宗様の五男とは申されても、正室愛姫様のご長男の虎菊丸様より二年後、愛姫様のご次男であったのでございます。卯松丸様と申されました。「これで名門、田村家の名跡が継ぐお子が出来申しました。姉上様、ありがとうございまする。これで亡き伯父上も草葉の陰で喜んでおられることでございましょう」 孫七郎宗顕様は、生きることの目的がようやく成就しようとしているのが分かってきたような気がしていたのでございます。 その春、私は福聚寺の境内で精一杯の花を咲かせました。その流れ落ちるような紅枝垂れ桜の美しさに、町の人たちは大層喜んだのでございます。 ところがこの同じ年、柴田氏の娘に六男の吉松丸が生まれました。側室たちに次々とお子たちが生まれるにもかかわらず、孫七郎宗顕様は安心をなされておりました。虎菊丸様が兵五郎様にその地位を奪われるのではないかという不安がないこともなかったのでございますが、逆にこの多く生まれる男児のため、卯松丸様が田村家を再興する可能性が更に高まる、と考えておられたからでございました。 「なんと申しても兵五郎様は、すでに豊臣の時代に関白秀吉様の猶子となられ、秀宗様となられておる。しかし徳川の世と変わったいまの時代に、兵五郎様が伊達の本家を継承する訳はあるべくもないこと・・・」 そう思って、自らを安んじられておられたのでございます。しかし会津領とされてしまった田村の地が、そのまま卯松丸様に戻されるものであろうかという危惧の念は、拭い去れないでいたのでございます。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。4月4日の順位は、221人中57位でした。すごい。ありがとうございました。
2010.04.05
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十月二日、政宗様より田村改易に伴う行動予定が知らされて参りました。 関白殿小田原御在陣ノ節、田村殿宗顕参陣セラルザルニ就テ今 度御地ヲ没収セラル、(中略)今日又追テ御飛脚を以テ、月斎以 下ノ輩早速米沢ヘ引移ベキ旨仰下サル。 (三春町史) ──なんとあれほど願っていた小田原参向を妨害したのは、ほかならぬ政宗様ではござらぬか! それなのに、その不参を理由に三春舞鶴城を取り上げて伊達に渡し、田村一族は米沢に移住せよとは、どういうことか! そして十月九日、ついに舞鶴城は請取の使者とされた伊達の臣・片倉景綱様に引き渡されたのでございます。田村領は一旦は関白秀吉様に没収されておりましたが、浅野弾正少弼長政様のお執り成しで、再び政宗様が受け取られたからでございます。この結果、田村孫七郎宗顕様をはじめ、田村家中はすべて田村領を離れなければならなくなったのでございます。政宗様は彼らを、関白秀吉様のご指示通りに米沢に招こうとなされましたが、政宗様の対応に怒った多くの者が伊達の敵であった会津蒲生領などに去り、他家に仕えたり百姓になった者も多かったのでございます。 ──姉上様、申し訳ございませぬ。私の力、足らざる故に・・・。 孫七郎宗顕様は私、愛姫桜の前で、一人悔し涙を流しておられたのでございます。 天正十九(一五九一)年、関白秀吉様は葛西、大崎一揆を理由に、改めて政宗様に所領の安堵をなされたのでございます。その内容は、田村、小野、塩松、信夫、小手の五郡が伊達領から外されて会津の蒲生領として移され、葛西、大崎十二郡を政宗様の新たな所領とされたのでございます。政宗様は米沢を離れられ、玉造郡の岩出山(宮城県)に城を移されたのでございます。 ──わが手を離れ会津領になってしまった田村は、もう二度と田村家の手に戻ることはあるまい。それに坂上田村麻呂公の血を引き、政宗様の名代であったにせよ舞鶴城主であった自分は、いまさら他家への仕官など考えるべくもない。と言って今後は自分のためにと生き方を変えても、それは単に無為に生きるということになってしまうのではあるまいか? 孫七郎宗顕様は、そう思っておられました。 ──お家断絶とはこんなにも切なく悲しいものか! しかもその当事者としてこの自分がめぐり合わせるとは・・・。結局自分は何のために生きてきたのか? 何のために命をかけて戦ってきたのか? 伯父上から預かった田村家を、姉上様のお子である次の世代へ伝えるためではなかったのか! それにこの後、伊達の意にそぐわぬからと船引城に退去させられたこともある御東様は、如何なされる。 そう思う孫七郎宗顕様の元に、衝撃的な出来事が知らされたのでございます。それは政宗様の側室の猫御前(飯坂氏娘、猫好きのためかこう言われていた)に、ご長男の兵五郎様が誕生したことでございます。「なんと! 正室たる姉上様を差し置いて!」 人にとって悲し過ぎると言うことは、どうしようもないということでもございます。孫七郎宗顕様も、只呆然となされておられました。 それにしても世の中は、激しく揺れておりました。天正二十(一五九二)年、関白秀吉様は朝鮮出兵をはじめられたのでございます。 ──すべてを失い、自分を信頼してきた家来たちにも去られてしまった。その上姉上様に子がないということは、自分の存在が否定されるようなものではないか。人としてこれ以上に辛いことがあるのであろうか!すでにここに至って非力を感じられた孫七郎宗顕様の目に、去らなければならない ふるさとの山々は静かな佇まいを見せておりました。ある日、孫七郎宗顕様は、忽然と私の前に表れました。しばらく遠くから眺めておられましたがやがて近づき、私の幹を愛おしそうに撫でておられました。そして、こう独り言を言われたのでございます。 ──私の代で領地を失い、姉上様のお子に譲れないということは辛い。しかし姉上様がお幸せなら、それはそれでやむを得まい。しかし自分をそう納得させる以上、いつまでも政宗様のそばで禄をはんでいる訳にも参るまい。 このような苦しいときに孫七郎宗顕様が私のところへ来られたのを見て、清顕様の御遺言を忠実に守ろうとする気持を愛姫様へ伝えたい一心で愛姫桜の私に伝えに来られた、と感じておりました。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、227人中94位でした。久しぶりの2桁です。ありがとうございました。
2010.03.25
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愛 姫(めごひめ)様 と 再 会 の こ と この月、予期せぬことが起こりました。突然、愛姫様が、三春を訪れられたのでございます。しかもそれは、政宗様が言われた桜の季節ではなかったのでございます。「何事!」と驚かれる孫七郎宗顕様に、愛姫様がこう申されました。「此度(こたび)、伏見の桃山へ上ることになりました。」 そう聞かされれば単なる綺麗事でございますが、実は伊達家の人質として、ということでございました。「なんとそれは思いもかけぬ出来事。姉上様までもが、ご災難に・・・」「いいえ、私は災難とは思いませぬ。例えこのような形であっても伊達家が存続さえすれば、田村家の再興につながると思っておりますから。ただ孫さん、田村家の今後について、あなたはどう思います?」「はい、私は亡き伯父上の御遺言を奉じて、姉上様のお子のお帰りをお待ちして参ります」「そうですか、しかし孫さん。あなたは本当にそれで良いのですか? 悔いはないのですか?」 そう問われて孫七郎宗顕様の心は、大いに乱れたのでございます。確かに今までにも考えないことではなかったのでございますが、面と向かってそう訊かれれば、答えられるほどの準備も無かったのでございます。 その後愛姫様は孫七郎様のご案内で、お父上やご先祖の眠られる福聚寺に追善供養の参詣をなされました。線香を手向けられ、長い間手を合わせておられた愛姫様は、何を祈っておられたのでございましょう。愛姫様の脳裏には、お父上が田村家を守るためになされたお輿入れの事情、この戦乱の中で培われた田村家と伊達家の絆、政宗様とのお子を田村家の主になさることのご承諾、などが駆け回っていたのでございましょう。しかし未だお子に恵まれぬことを詫びておられたのかも知れません。 墓参りを終え、境内の『愛姫桜』の前に立たれた愛姫様は、こう言われました。「孫さん、父上が私の子に田村家を継がせるなどと言ったばかりに、苦労をかけます」「・・・」 その固くなった雰囲気を和らげるかのように、愛姫様は悪戯っぽくこう言われました。「それにこの私の桜もこんなに大きくなりました。ということは、私も年をとったということ?」「いやいや、決して左様なことは・・・」 そう言いながら孫七郎様の顔は、赤くなったのでございます。照れたのでございましょう、思わず孫七郎様は私の細い枝の先を手折られたのでございます。「本当は、桜は枝を折ってはいけないのですね」 愛姫様は独り言のようにそう言われながら、私の枝の先をほんの少し折ると、そっと懐紙に包まれました。 その様子を見て折った小枝を懐に入れる孫七郎様に、愛姫様が思いもかけぬことを申されました。「孫さん、私の名が何故、愛(めご)か分かります? 普通、愛は『めご』とは読まないでしょう?」 悪戯っぽい咄嗟の質問に、孫七郎様は口ごもりました。「私、小さいとき父上に聞いたのです。私は親の年がいってからの子でしたから、父上が特に喜ばれたそうです。『めんごい(可愛い)子だ、めんごい子だ』と。それですぐ目子にしたそうです」「なるほど、めんごい、が目子に・・・」「そう。孫さんも知っているでしょう? 『孫は目に入れても痛くない』という諺を。父上は私を、孫のように可愛がっていたらしいの」「・・・」「それに私は伊達家へ輿入れが決められたとき、それが何なのかさっぱり訳が分かりませんでした。だって十一歳だったのですから。しかし後で分かったの。本当は父上は、私に婿を迎えたかったって」 孫七郎様は、もしそうなっていたら自分の生き方は大きく違っていたであろうと思って、返事ができなかったのでございます。「しかしあの頃の情勢が情勢だったでしょう。父上は私を、田村家の北の護りとすることに賭けたそうなのです」「そうですか。私も今になれば、それはそれでよかったと思います。姉上様は田村家のためばかりではなく、伊達家に対しても十分にお役目を果たされていると思います。それに此度のご上洛、孫七郎、衷心よりお見送りさせて頂きます。ご道中つつがなきように」「ありがとう。けれども孫さん、人質とは言っても住むのは伊達街道に沿った伏見桃山の伊達上屋敷ですから、心配はありません。それに上屋敷に近い近江国蒲生や野洲に伊達の飛び地も頂いたことですし、ときには政宗様も来られましょうから」 それを聞かれた孫七郎様は、少々なりとも気の休まる思いをしたのでございます。また愛姫様は、恐らくこれが生まれ故郷の見納めになると思われたのではないでしょうか。淋しげな眼差しの中にも、終始和やかな微笑みを絶やすことがなかったのでございます。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、237人中ーーー位でした。
2010.03.20
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政宗様の小田原参向につきましては、あの関白秀吉様から出された惣無事令を破ったことで、「小田原に行くと死罪とされる」という意見が強かったこともあって、なかなかまとまらなかったこともあったのでございます。しかしそれらの事情を知られて気がせ急いだ孫七郎宗顕様は、政宗様と共に小田原への参向を強く望まれ、その話し合いのため黒川城に行かれたのでございます。田村家の存在を、関白秀吉様に強く印象づける必要を感じられたからでございます。「今更何を申すか孫七郎! すでに田村は伊達の麾下。それはならぬ!」 この申し出は、政宗様に一蹴されてしまったのでございます。「伊達の麾下? その理屈はおかしいではございませぬか! もともと田村家には織田信長様からの書状も残されておりまする。また田村麻呂公より以来、永続として田村の領主であると認められておる田村家は、伊達の麾下などではございませぬ」「なにを言うか孫七郎! その方はわが名代、それに今は豊臣の世。いつまでも昔のことを持ち出して、通用するとでも思っておるのか?」「なんと、なんと申されます政宗様。それに亡き舅殿・清顕様のご遺言は、政宗様もご存知の筈。政宗様のお子をわが田村家の跡継ぎとなさる以上、武の上下関係のみで律することは異常でございませぬか! 早く小田原に参向せねば、伊達家はもとより、田村家も危のうございまする」「何をたわけたことを! それに、何をもって異常と言うか! 親子の関係があれば尚更のこと、上下があって然るべきではないか! 伊達家に余計な口を出すな!」「何を申されます、政宗様。それでは『田村家の存続はあり得ない』と云われるのと同じではございませぬか? 『伊達家に口を出すな』と言われるのなら、その言葉、そのまま返上致しまする。『田村家に口をお出しになられるな』と」「何を!」 そう言われて政宗様は、一瞬黙ってしまわれました。しかし孫七郎宗顕様はその間隙を縫って、このように言われたのでございます。「政宗様。もし田村家が断たれることがあらば、私は亡き殿にも、愛姫様にも申し訳が立ちませぬ。それはまた、私とて生きている甲斐がない、ということでございまする」 孫七郎宗顕様は必死の思いで、涙を流さんばかりにして言い切られたのでございます。 ──この辛い気持、姉上様は分かってくれている筈だ。 孫七郎宗顕様はそう思うと、平伏したまま目を閉じました。愛姫様の困ったときのお顔が、目に浮かんでいたのでございます。その愛姫様のお立場も考えられ、それ以上の抗議はせず、じっと我慢をしていたのでございます。 ──しかし、このまま政宗様に任せておいたら、田村家はどうされるか分からぬ。 ここにきて孫七郎宗顕様の頭には、政宗様への不信感が芽生えはじめていたのでございます。 ──姉上様への想いの証(あかし)としての政宗様への服従、これではこれまでの努力のすべてが、消え去るのではないか。 その思いに苛まれていたのでございましょう、私の元を訪れられ、見上げられた孫七郎宗顕様の苦汁のお顔は、晴れることがなかったのでごさいます。 六月五日、小田原に着かれた政宗様は石垣山城において白の死装束を身にまとい、覚悟の上で関白秀吉様との会見にのぞまれました。惣無事令に反し、会津や須賀川を戦い取ったことに関して関白秀吉様の怒りのあることを恐れていたからでございますが、これを見た千利休のとりなしで死を免れることはできました。しかし七日、政宗様の恐れていたことが別の形となって現れました。政宗様は、関白秀吉様に会津、須賀川、安積を召し上げられてしまったのでございます。 六月十八日、政宗様は小田原より橋本刑部様に、飛脚を立てられました。 関白様が田村八万七千六百八十二石八斗七升と申されたは、小 野六郷は田村領に含まるるの意である。 この文意は、小野六郷も田村の領であること、その小野仁井町城主の田村梅雪斎様が田村の臣であることを、関白秀吉様が確認なされたということであったのでございましょう。孫七郎宗顕様はそれを見て、「田村と小野は伊達の領地ではないということを、関白様も政宗様も認められた」と考えられて、ようやく気を休められたのでございます。 それからほぼ一ヶ月後の七月十七日、関白秀吉様は小田原を発たれ、八月九日には黒川城に着かれました。そして数日間の会津滞在中に『奥羽仕置』を行ったのでございます。政宗様の領分は先に申し述べた形になり、その上で田村と同様、白河、石川もまた小田原不参の理由で改易とされたのでございます。それらを聞いた孫七郎宗顕様の憤懣は、それは大きゅうございました。「それでは田村領主の解任と田村家所領の没収になるではないか!」 そしてそのことはまた、政宗様に対して、田村家中の憤激を招いたのでございます。 ところで石田治部少輔三成様の、次のような文書が残されております。 我等事、今日ミはる(三春)まて参候、明日ハミさか(三坂)へ可参候、明後日十 日ニハかならす其地へ可参候(中略) 治少 (石田治部少輔三成) 佐藤大すミ殿 (三春町史) そこで孫七郎宗顕様は、三春に来られた石田三成様に、田村改易の取り消しを訴えたのでございます。 しかし三成様に、「今更したり顔で、何を言われる! われらが陣触れには馬揃えもせず、所領のみ安堵せよとは虫が良かろう。すでに関白様の決められたこと、変更はあり得ぬ」と叱責され、ついにその甲斐がなかったのでございます。その後、三成様は田中城(南相馬市鹿島区鹿島)に出向かれました。 そこで八月十二日、孫七郎宗顕様は伊達成実様を通じ、政宗様に田村領回復の依願の書状を出されました。いくら三成様に「遅すぎる」と言われても、政宗様には清顕様の御遺言もあることから、田村家存続のための何らかのご考慮がある筈、と考えたからでございます。しかし三成様への直訴に出し抜かれた結果となった政宗様は、孫七郎宗顕様を呼びつけて叱りつけられたのでございます。「勝手をいたすな! だいたい舅殿亡き後の田村は、伊達家への貢献が足らぬではないか!」 そう言って政宗様は、孫七郎宗顕様を責めたのでございます。無視された形となり、言葉も返せぬまま孫七郎宗顕様は、頭を下げたままで怒りと興奮で震えておられたのでございます。政宗様とすれば至極当然の理屈なのでございましょうが、それを納得できない孫七郎宗顕様は、尤もらしい顔をして主張されるのを、黙って聞くほか亡かったのでございます。 ──駄目だ。政宗様の頭には田村家の苦衷など爪の欠片ほどもない。もはや政宗様、頼むに非ずか・・・。 そう思いながら孫七郎宗顕様は、今までの来し方に自分自身を見失っていたことに気づかれたのでございます。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、227人中224位でした。
2010.03.15
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石 田 三 成 様 の こ と その後、関白秀吉様のお使いとして再び下向なされました金山宗洗様が、白河、田村、伊達、最上などを歴訪され、『惣無事』と『関白様への出仕』とを督励なさいました。ところがその裏をかくかのように、鳴りを潜めていた磐城勢が、またも小野仁井町、大越などの田村東部に軍事行動を起こしたのでございます。ところで追放され、小野仁井町城に籠もっていた梅雪斎様の母上様は、岩城家のご出身でございました。政宗様に疎んじられた梅雪斎様が、その岩城家に頼ろうとなされたお気持ちは分からないでもありませんでした。 天正十七(一五八九)年の早春、政宗様は小野仁井町城の梅雪斎様が神血による誓約を破り、常陸・磐城と内通していることを非難なされて磐城境、相馬境、そして安積の片平城の用心を固められました。ところが政宗様は米沢で落馬して骨折なされ、その行動の予定が大幅に狂っていたのでございます。その足元を見透かすかのように、岩城勢が梅雪斎様の手引きで、再び小野仁井町城を攻めていたのでございます。その防戦のために伊達勢が出陣なされましたが、南からは常陸、西からは会津勢が、さらに北では最上、大崎が抵抗の構えを崩していなかったのでございますから、『惣無事』と言われましても政宗様や孫七郎宗顕様としても気の休まるときはございませんでした。 孫七郎宗顕様は、小野仁井町城の回復のために出陣をいたしましたが、相手が身内の梅雪斎様でございますから、その闘志には凄まじいものがございました。ところが間もなく、政宗様より、戦闘の中止命令が届いたのでございます。これは身内同士のため戦闘が激烈になることを心配なされたこと、それと金山宗洗様による『惣無事』の伝言に対し、田村の領主の孫七郎宗顕様が直接刀を交えることで後の言い訳ができなくなることを恐れたのでございます。 三月二十一日、政宗様は、片倉景綱を孫七郎宗顕様の代わりとして小野仁井町城の奪還に出陣させました。部下同士の小競り合いと見せたかったのでございましょう。やがて政宗様は揉めていた大崎領を手中になされたため、伊達領の北の脅威が大幅に減じたのでございます。そこで政宗様は白石宗実に三春入りの予定を伝えられましたがその書状の中で、『足の痛みで出馬が遅延しているうちに岩城勢に攻められたことは、無念の至りである』と書き送ったのでございます。 四月二十二日、政宗様の傷が癒えてようやく米沢を発たれたころ、伊達・田村方であった片平城主の片平親綱は、会津方の安積郡阿子島城と高玉城を攻めておりました。五月三日、安達の本宮へご到着になられた政宗様は三春には立ち寄られず、本宮から直接安積に出陣なされました。五月四日、阿子島城を落とされた政宗様は、翌日には高玉城を落とされ、猪苗代に侵攻なされました。しかし政宗様の元には、『再び常陸、会津、磐城、相馬の敵勢が、南から田村を狙っている』との情報が伝えられましたので、田村領の防衛力強化のため伊達勢の一部を遣わしたのでございます。ところが二十六日、相馬勢は北東の岩井沢館を落とし常葉城を攻め、その間の二十七日には、磐城勢が東の小野仁井町城を落としてしまったのでございます。田村東部は、全面的な侵略に曝されていたのでございます。 磐梯山麓の摺上原で会津勢を破った政宗様は、若松の黒川城に入られたのでございます。そこで三春の苦況を知らされていた政宗様は、伊達成実らに三千の兵を与え、百五十騎の兵を遣わしたのでございます。敵方の連合軍は、そこで七月まで対陣したのでございますが黒川城を落とされて三春を攻めることもならず、ついに引き上げてしまったのでございます。 九月一日、孫七郎宗顕様は黒川城に入り、政宗様にご祝辞と御礼を申し述べられました。「今後とも伊達への変わらぬ忠誠をのう」 そう言われた孫七郎宗顕様は、愛姫様に頼まれたように思えたのでございます。政宗様に平伏をしながら、愛姫様の面影を追っておりました。そして四日、孫七郎宗顕様は三春へ戻られたのでございます。 私、愛姫桜は、濃い緑に包まれておりました。 十月二十日、政宗様は黒川城を出発、隊伍堂々、須賀川へ向かわれました。すでに白河は政宗様に服し、石川も服属を予想されていたにも拘わらず、政宗様の伯母にあたる須賀川の二階堂家のみが従わなかったのでございます。ここ数年、伊達、田村に敵対してきた二階堂家に対して、政宗様の敵意は大きかったのでございます。この戦いに孫七郎宗顕様も月斎様、刑部様を従えられて参陣なされ、大いなる戦功を上げられたのでございます。 やがて石川大和守昭光様は政宗様と誓詞を交換されて服属なされ、さらには磐城と伊達の講和も成立し、これに伴って小野仁井町、大越も磐城への奉公を止め、田村家に復帰したのでございます。南方の敵の主力である常陸の佐竹家は、静まりかえっておりました。「亡き伯父上。政宗様の威を借りたとは申せ、われわれは常陸境まで押し返して、昔日の田村領の回復ができ申しました。このまま領地を確保して、姉上様のお子をお迎えする所存にございます」 孫七郎宗顕様は福聚寺に来られ、田村家三代の墓前に深々と頭を下げられたのでございます。そのお顔は自信に満ちあふれ、輝くばかりでございました。 ──いずれ我が軍功は、米沢に居られる姉上様にも知れる筈。いま少々のご猶予を。 私、愛姫桜を訪れられた孫七郎宗顕様は、そのことのみを楽しみとしていたのでございます。 三たび金山宗洗様を下してまで惣無事令を発していた関白秀吉様の、蘆名家、二階堂家攻撃に対する追及には、厳しいものがございました。このような中、天正十八(一五九〇)年一月十日、田村家中が黒川城に参上し、年首の賀詞を申し上げたのでございますが、その折、政宗様は、孫七郎宗顕様に対してこう申されました。「その方もすでに十九歳、何故、室を娶らぬ?」 愛姫様に想いを寄せている孫七郎宗顕様は、大いに返事に戸惑われたのでございますが、咄嗟に次のように応えられたのでございます。「はい、政宗様。私は田村家の再興が叶えられるまで妻帯せぬと、神仏に誓って女断(めだ)ちをしたのでございます。どうか政宗様には、再興のために格段のご尽力を賜りたく、お願い申し上げまする」「ほほう、それはまた・・・。わしにとっても責任の重いことよのう」 政宗様はそう申されて、呵々大笑なされたのでございます。 ところで関白秀吉様の小田原出陣は、北条征討と合わせて関東奥羽の諸家に小田原に参陣して、直接、臣従を迫るものとなっていたのでございます。会津の蘆名家を滅ぼしながらも関白秀吉様の怒りを恐れていた政宗様は、北条征討へ参加するかどうか迷っておられました。そして結局政宗様は、準備の進められていた常陸攻撃を、中止なされたのでございます。二十三日、刑部様が黒川城に参上いたしました。いよいよ常陸・佐竹の本拠へ攻め入る筈の予定が理由も知らされずに変更されたことに、疑念を持ったからでございました。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、228人中129位でした。
2010.03.10
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このころ政宗様は、安積に出兵して陣を敷かれました。しかし敵は安積、つまり田村の西側からばかりではありませんでした。御東様のご実家の相馬勢が背後の田村北東部の岩井沢館を奪い、常葉城や移城(うつしじょう)を攻めました。そして別の一手である磐城勢が、再び小野仁井町城を落として船引にまで迫ってきたのでございます。先祖伝来の田村の地をここまで蹂躙されたのでございますが、孫七郎様は心の中で、「姉上様、姉上様」と唱えながら必死で戦っておられました。政宗様に認められたという自信からか、孫七郎様の身体からは戦意がほとばしり出るような勢いであったのでございます。しかもその鎧の下には他人に知られぬよう、愛姫様の使っておられた淡い桜色のしごき帯を身につけていたのでございます。もはや心の中で愛姫様は、孫七郎様ご自身の守護の『お守り』となっておりました。ですからその想いは、田村家のため、そして姉上様のための只一点であったのでございます。やがて伊達勢が応援に駆けつけ、ようやく鎮圧したのでございます。 安積に出陣していた政宗様は、常陸、磐城、石川、白河、会津の敵方四千が北上してくる様子を物見から知らされました。しかし大崎、葛西、最上に多くの兵を出されていた政宗様は、この大軍勢に六百の兵で対応しなければならなかったのでございます。孫七郎様は月斎様や刑部様らの田村勢を引き連れ、伊達勢とともに安積の阿武隈川と逢瀬川の合流点に陣を構築したのでございます。敵の陣容を確認しながら、孫七郎様は、もはや一家対一家の戦い方は終わり、組織対組織の戦いに変わったことを強く感じておられました。 この合戦で政宗様は、安積久保田の山王館に本陣を置き、逢瀬川沿いの郡山城を出城にして敵方との間に、激闘が交えられました。しかもこの混戦の中で、政宗様の身代わりとなって、伊達方安積の武将、伊東肥前が討ち死にをしたのでございます。これが世に言う久保田合戦でございます。それでも岩城家の重臣・白土摂津隆通様が仲裁使として来たのを幸いに、ようやく戦いが止んだのでございます。この厳しい戦いの合間にも、孫七郎様は愛姫様への思慕の情のたかまりを感じておられました。 ──姉上様。孫七郎は戦っておりまする。政宗様を無事にお返し致します故、いましばらくお待ち下され。 陣払いをした翌日、孫七郎様や梅雪斎様、刑部様、月斎様、右衛門様、熱海内膳様らが続々と政宗様の元に戦勝祝いに参上したのでございます。相馬派であった梅雪斎、右衛門様親子もこの合戦の後伊達派に鞍替えを致しました。その折、田村家中は連名で、「先般相馬義胤が三春乗っ取りをはかったのは、畢竟は御東様が三春に在城し、これと内々連絡を保ったためである。従って御東様に隠居を勧告され、政宗様に男子が誕生するまでは田村家の名代として孫七郎様を仰せ付けられるべきである」との旨を言上したのでございます。この要請に対して政宗様は、『宗』の一字を与えられて『孫七郎宗顕』様とされてその名代となされ、御東様を船引城に移し、梅雪斎様らの相馬派を追放なさろうとしたのでございます。それを察知なされた梅雪斎、右衛門様の親子は、小野仁井町城に退かれたのでございます。孫七郎様にしてみれば、政宗様が後ろ盾になられたことで、ようやく田村家の頂上に達することになったのでございます。間もなく御東様が船引城に隠居なされ、田村孫七郎宗顕様が代わって三春舞鶴城に入られたのでございます。 ──これで名実共に田村の領主。 そうは思いましたが孫七郎様は、『宗顕』の名を頂いても、心が晴れませんでした。この重責にどう対応すべきなのか、未だ心が定まっていなかったからでございます。それにはまだ、清顕様と愛姫様のお子との間つなぎの中間的立場という考えもあったのかも知れません。そのこともあったのでございましょう、孫七郎宗顕様は福聚寺のご先祖の墓に詣でられ、私の前に立ち寄られたのでございます。私のことを『愛姫桜』と呼んでおられた孫七郎宗顕様にとって、そのことは愛姫様との邂逅の意味もあったと思います、私にこう語りかけたのでございます。「姉上様。政宗様の名代や宗顕の名は一時的なものでございまする。いずれこの城もお返し致すものでございますから、どうぞお気になされることの無きように」 家中の混乱は、まだまだ続いていたのでございます。 間もなく三春へ入られた政宗様は、田村の伊達派と綿密に会合をなさったり、三春周辺の軍事の状況を視察なされました。その上で田村家の仕置を着々と進められましたので、相馬派の面々が詫びを申し出たり、須賀川の二階堂家中が転じて来たりしましたので、孫七郎宗顕様の下で田村家はようやく安定してきたのでございます。 その上で政宗様より、『万端御仕置ノ儀』が命じられました。これにより今後の田村家のあり方が決められたのでございます。政宗様はこのころようやく磐城、石川、白河とは比較的に友好的な状態となっており、孤立的状況を脱しかけていたのでございます。政宗様はほぼ四十日の間三春に滞在なさいましたが、その間に孫七郎様のご案内で福聚寺に参詣なされ、私、愛姫桜をご覧になられました。「おう、愛が生まれたときに植えたと聞いておったが思っていたより大きなものじゃ」「はい。この桜は愛姫様に似て、本当に美しい花をつけまする。その花の季節でないのが悔やまれまするが・・・」「うむ、残念じゃがその方の話をよくしておこう。いずれ折があったら、愛にもこの桜を見せたいものよ」「それは嬉しいお言葉にございます。それに町の衆も、この桜を『愛姫桜』などと申して親しんでおりまする」「ほほう、それはまた・・・。愛も幸せなことよ」「はい。それでございますから、私も愛姫様が三春へ来られるのを心待ちにしております」 孫七郎宗顕様はそう答えながら、愛姫様との再会を何とはなしに確信したのでございます。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.03.05
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御東様を表に立てて強く主張する相馬派に対し、伊達派は清顕様の御遺言を背景になされて孫七郎様を立てるべく、相馬派に談合を持ちかけました。しかし田村家中が二派に分裂したということは、難しい問題を内在させてしまうことになったのでございます。孫七郎様と致しましても、亡き清顕様とのお約束、それと愛姫様への想いから伊達派でありたいと思っておられましたが、それを自分から声高に主張する立場にはないことを淋しく思っておられました。 ところで御東様が相馬家に頼ろうとなされたお考えの中には「伊達派が力を持つことで、甥の孫七郎に田村家を乗っ取られるのではないか」という危惧を隠しておられたのでございます。しかしそのお気持ちを察せられた孫七郎様は、さらに微妙な立場に立たれたのでございます。 田村家としましては勢力が二分されましたが、それでも表面的に伊達家への奉公でまとまっていったのでございます。御東様は御東様なりに、清顕様のご遺言に忠実であろうとなされていたのでございましょう。政宗様の許に、『田村家の事はひとえに伊達家の御下知に任せ奉る』旨の文書が、田村家一族および重臣の連名で届けられたのでございます。 ところがそのころ、伊達家にも大変事が起きていたのでございます。実はこの年の三月、白河の白川義広が会津に入部して、会津蘆名の家督を継いだのでございます。佐竹常陸介義重の次男で白川に入嗣していたこの義広が、さらに会津に入ることによって、常陸、会津、白河、須賀川の連合は、より強固なものとなったのでございます。そのことはまた、政宗様の御舎弟の竺丸様を入嗣させる約束を結びながらこれを破棄した蘆名家に対しての政宗様の敵対感情は、さらに深まったのでございます。 そのような中、関白秀吉様は『関東、奥羽惣無事の儀』を命じられ、相互の停戦を命令されたのでございます。しかし奥州はこのような状況でございましたから、全国の諸大名が続々と上洛する中で上洛に応じていないのは奥州の大名だけとなっていたのでございます。ところが天正十六(一五八八)年、『関東、奥羽惣無事の儀』にも拘わらず、政宗様は北奥の大崎、葛西に出陣なされました。ですから政宗様としては目の前の戦いに忙しく、上洛の余裕がなかったのかも知れません。その上『イ』と言って警戒していた石川弾正が、田村と伊達の結節点である塩松に攻め込みました。しかし伊達方の宮森城主白石宗実が駆けつけ、石川方の首二十ほど取って撃退いたしました。 ここにきて田村の伊達派は、政宗様に出馬要請をいたしました。しかし要請を受けた政宗様にしても、かねてから戦闘状態にあった北の大崎、葛西、さらには敵対する西の出羽の最上義光に対する配慮から、すぐには動くことができませんでした。それでも政宗様は、間もなく伊達郡の築館城に着陣なされました、ところが同じ日、田村家の相馬派の願いにより、相馬義胤様は築館と三春とを分断する位置にあった安達郡の百目木城に入られたのでございます。そのために、伊達と相馬の緊張が一挙に高まったのでございます。 そこで田村家中では、伊達、相馬のどちらの側も三春には入れないという談合が為されました。片方を入れることは、その反対派を刺激することになるからと考えられたからでございます。ところがそれにもかかわらず、相馬藩家臣の新館山城と中村助右衛門の二人が三春の町屋に宿泊し、その翌日、二人は登城して御東様に伺候なされたのでございます。「これは約束違反である。その上すでに、相馬義胤様とその兵は城の下まで押し掛けて来ている。また昨夜から相馬派の大越顕光の軍勢は、舞鶴城の東林の谷に七~八百挺の鉄砲・弓・槍を伏せこめている。伊達、相馬の双方をも入れぬとの申し合わせにも拘わらず、梅雪斎殿は相馬様を城に入れるお積もりか!」 切り死を覚悟して登城した伊達派の橋本刑部様は、そう言って相馬派の梅雪斎様に強く迫りました。内密に相馬義胤様引き入れの約束をしていた梅雪斎様も、刑部様の余りにも強い談判に恐れをなし、『相入レ間敷(まじく)』と答えてしまったのでございます。そこで刑部様は城中の者に武装させ、相馬義胤様の入城阻止を命じたのでございます。 その情勢を知らぬまま、舞鶴城の『半腹』まで登った義胤様は、孫七郎様など田村の伊達派に弓・鉄砲を浴びせられたのでございました。そこで義胤様は慌てて馬を乗り返し、東の虎口に回りました。ところがここでも弓・鉄砲を射掛けられ、入城を阻止されたのでございます。義胤様は百目木城まで逃げ帰りましたが、今度は百目木城内の伊達派の抵抗で入ることもできず、相馬に帰るにも遠く、やむを得ず船引城に籠ったのでございます。この騒動の後、孫七郎様の許に、月斎様と刑部様が訪れたのでございます。 田村家長老である月斎様が口を開かれました。「孫七郎、今その方は田村家の総大将。小さなもめ事に身を曝してはならぬ」「小父上は、あれが小さなもめ事と言われますか?」「左様、相馬があれで退いたから良かったようなものの、もし総力を挙げて攻めてきていたらどうなっていたか、思いやられるわ」「しかし相馬も、総大将が出てきたのではございませぬか?」「それが甘い。相馬方は、もし義胤殿に事が起きても、弟君がおられる。その点こちらは、その方一人のみで後がない。心せよ」「・・・」『畠に地縛(ぢんば)り 田に藻(ひるも) 田村に月斎 なけりゃよい』と謳われて恐れられ、月斎陣場という地名(石川郡浅川町)までも残した月斎様にこう言われれば、祖父の弟という血のつながり以上の重みがあったのでございます。 (注)*地縛り、藻。農作業の邪魔になる害虫雑草の類。 この折、政宗様は、田村月斎様に相馬派方に付いた田村郡の大倉城を攻めさせました。敗れた城主田村彦七郎顕俊は赦免を願ったので政宗様はこれを許し、召し出しを伝えて宮森城に戻ったのでございます。その翌日、この戦いの裏をかくかのように、磐城勢が田村東部の小野仁井町城を襲いましたが、田村勢はこれを撃退したのでございます。「孫七郎。その方の働き、感じ入ったぞ」 孫七郎様は、政宗様の直々のお言葉に奮い立っておられました。 ──政宗様に認められた! その喜びは、強烈なものでございました。孫七郎様は、幼い頃の遊びを思い返しておられました。何の不安も感じず、愛姫様と庭の南天の赤い実を食べものに見たてて遊んだままごと、走り回った鬼ごっこやかくれんぼ、それらは本当に楽しい思い出であったのでございます。凱旋なされた孫七郎様は、愛姫様になぞらえた私の、可憐に咲く紅枝垂れの桜花を愛でておられたのでございました。 ──姉上様! 必ず姉上様のためにも、そして姉上様のお子のためにもこれら田村家の失地を回復してご覧に入れまする。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.02.25
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伊 達 と 相 馬 の こ と この二本松攻めでの勝ち戦に清顕様は大変喜ばれましたが、孫七郎様を呼ばれてこう諭されたのでございます。「孫七郎、戦いに個人的な血気を持ち込んではならぬ。一人ひとりの兵を生かしきる方法を混戦の中でも考え指示できなければならぬ。それがあればこそ兵どもは、前面の敵にのみ集中し、全力で当たることができよう」 ところがそれから間もなく、清顕様はご病床に伏されることになってしまったのでございます。急を聞かれて孫七郎様が病室に入られたとき、すでに清顕様の意識は朦朧とされておられました。それでも孫七郎様が空をさまよっていた清顕様の熱い手を握ると、その目を薄く明けてこう言われたのでございます。「月斎殿。孫七郎。皆の衆、愛を・・・、愛の子をよしなに頼みまする」 この田村月斎様は、田村家の最長老であったのでございます。「承知しております、ご安心くださいませ。それよりも、お気を強く・・・」 しかし清顕様は孫七郎様のその言葉をご確認なされたかのように、一瞬目を大きく見開いたかと思うと、すぐに目を閉じてしまわれたのでございます。 そのご様子を見ておられた孫七郎様は、奈落の底に突き落とされたように感じられました。いままで全てにおいて頼り切っていた清顕様が亡くなられたのでございますから、当然のことだったのかも知れません。死の床で、そして一家一族の集まっていた所でのこのご遺志の発露は、孫七郎様をはじめとして、田村家中に磐石の重みを与えることとなったのでございます。「田村家の御為、愛姫様の御為、ひいては伊達家の御為、精一杯努めまする。どうかご安心召されませ」 すでに息を引き取られた清顕様に、孫七郎様はきっぱりとした声でお答えになられたのでございます。月斉様を後ろ盾に、藩重役や清顕様後室の御東様のいる所でのこの発言は、新しい指導者として家中の暗黙の承認を得ることとなりました。しかし孫七郎様の心の中には、自分が認められたという自覚はありませんでした。むしろ清顕様と愛姫様のお子との間に、暫定的に立たねばならぬことになったことを強く意識なされたのでございます。 孫七郎様は、私、愛姫桜の前に立たれ、こう申されたのでございます。「姉上様、大変なことになってしまいました。伯父上が亡くなられたことで家中に動揺が感じられます。考えてみますれば、ばば様のご実家は伊達家、姉上様の母上の御東様は相馬家のご出身、そして姉上様は、ばば様のお里の伊達家にもう一度お輿入れなされておられる。その上伊達家と相馬家との難しいご関係を考えたとき、私はこの田村家の舵をどう取るべきなのでしょうか。今までは伯父上が、ご両家の鎹(かすがい)となっておられたのでございますが、私では若すぎて荷が重すぎます。それに私が姉上様のそのお子との間にどのように位置すべきかを考えますと、責任の重さに押しつぶされてしまうかのようでございます」 このとき私の垂れた枝に風が静かにそよぎ、揺らいでおりました。その動きを見て孫七郎様のお心の内は、和んだようでございました。 政宗様は三春に使者を遣わして、清顕様のご弔問をなされました。そのご葬儀も私の前で、しめやかに厳かに執り行われたのでございます。故・清顕様には定南紹策和尚が導師となり、法名は『長雲寺殿前光録雲岳公大居士』でございました。 清顕様亡き後、孫七郎様が想像なされたように、田村家は伊達家と相馬家の狭間で難しい立場に立たされることになりました。それに清顕様が亡くなられる際に申されたことは、「愛姫様のお子を田村家の跡継ぎとせよ」ということのみでございました。そのために清顕様の御遺言は、孫七郎様の立場を確固とすることにはならなかったのでございます。 孫七郎様の若さを心細く感じられた御東様は、田村宮内少輔顕頼月斎、田村右馬頭顕基入道梅雪斎、田村右衛門清康、橋本刑部少輔顕徳の主だった四人と相談をし、すべて政宗様の意を尊重して政事(まつりごと)を行うこととしたのでございます。具体的には清顕様の孫、つまり愛姫様のお子を迎え入れるまでは、相馬家出身の御東様が伊達家を背景にして田村家を守ることに決めたということを意味したのでございます。 政宗様は、関白秀吉様との関係を修復なさろうとされておられました。政宗様にすれば、二本松攻めは父の仇討ちという名分の立つ戦いであったのでございますが、先に関白秀吉様の使者として来られた金山宗洗様に、「東国が不穏なれば関白様直々にご出馬なさる」と伝えられていたことが気持の上での大きな重しとなっており、その上世の中は、すでに関白秀吉様の元でまとまりを見せはじめていたからでございます。ところがその一方で、この田村と伊達に対抗して、会津、須賀川、白河、常陸が強固な連合を組んだのでございます。この西から南へかけての勢力からの圧力に、北の伊達家と北東の相馬家は、田村家にとって有力なお味方となる方々でございました。実質的に田村家の頂点に立たれた御東様は田村家内の談合を破り、そのご実家である相馬家を頼ろうとなされました。そう思われるには、梅雪斎様からの強いご示唆があったのでございます。「御東様、田村家の行く末をよくよくご考慮くだされ。相馬様が御東様の御実家であることを差し引かれましても、ご両家当事者のご年齢も大事でございまする」「当事者の年齢?」 そう問い返しはしたものの、御東様にも心当たりがあったのでございます。「左様でございまする。伊達の政宗様には父上の輝宗様がすでにこの世になく、しかも二十一歳の若さ。それに引き替え相馬家ご当主の義胤様は三十九歳でご性格も穏和、それにお父上の相馬弾正大弼盛胤様も五十八歳でご存命、家中に重きをなしております」 そう言って御東様の心の内の反応を見た梅雪斎様は、「これから生まれるかどうか、また生まれても田村家に迎え入れられるかどうか分からぬ愛姫様のお子を当てになさるより、相馬家より今すぐにでもお世継ぎを迎えられた方がお家のためでございます」と畳みかけられたのでございます。それもあって御東様は、その考えに傾くことになったのでございます。しかし時折戦場で見せる政宗様の『撫で切り』、敵の糧食を断つためにではございましょうが牛馬まで殺してしまう恐ろしいまでの戦い振り・・・、これらを知っておられた御東様は慎重に事を運ばれました。しかしこれらのこともあって、田村家中は、田村梅雪斎様や田村右衛門様親子の相馬派と、田村月斎様や橋本刑部様の伊達派とに二分されてしまったのでございます。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.02.20
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「承知仕りました」 子どもながらそう力強く言いながら平伏した孫七郎様の心の内には、あの愛姫様との楽しかった日々が駆けまわっていたのでございましょう、福聚寺を訪れると涙を流しながら私の細い幹を軽く撫で、こう申されたのでございます。「姉上様、このようなことは何も武家ばかりではなく、どこの家にもあることでございましょう。親から受けた仕事を自分の代でしっかり受け継ぎ、大過なく子に譲るということは当然のことでございますから。しかし伯父上が居られる今、そう申しつけられましても、考えがまとまりませぬ。私はどうしたらよいのでございましょう」 もはや孫七郎様にとって、私という桜の木は愛姫様そのものとなっていたのでございましょう。そしてこの年、伊達家ではお父上の輝宗様が隠居なされ、政宗様が家督を相続なされました。伊達家は、名実共に十八歳の政宗様と十六歳の愛姫様の代になったのでございます。 天正十二(一五八四)年の暮れ、三春の北にある小浜城(二本松市岩代地区)の大内備前守定綱は政宗様の家督相続のご祝儀に米沢に参り、「父・義綱の代から伊達家に奉公して参りましたが先年の伊達家御内乱により自分は田村殿を頼むことと相成りました。しかし些細なことから田村殿の意に違(たが)い、その後は会津の蘆名家、常陸の佐竹家の介抱を以て進退相続して参りましたが、勿論唯今からは米沢に詰めて奉公を致します。屋敷を賜り、そこへ妻子を引移したく・・・」と言上したのでございます。かねてから田村家と大内家の抗争を気遣っておられた政宗様はこの言葉を幸いとされ、定綱に米沢の屋敷を与えて越年させたのでございます。 翌年、定綱は妻子を米沢へ迎え入れる準備と蘆名、佐竹両家へ恩顧の礼を申し述べることを理由に小浜に戻りましたが、約束をした春になっても米沢に帰らなかったのでございます。その年の五月、政宗様は裏磐梯の檜原村に出城を築き、会津地方に攻め入ろうとしたのですが蘆名氏配下の穴沢勢の強い反抗に遭い、米沢への退却を余儀なくされました。この様子を見て『伊達弱し』と考えた定綱は、会津の蘆名、それに須賀川の二階堂、さらには二本松の畠山に手を回し、それらの兵を自身の援兵として、続々と小浜城に結集させたのでございます。 この三春と伊達の間にくさびを打つ形となった大内家の反伊達・田村の不穏な動きと呼応するかのように、岩城家も田村の背後の東から圧力を加えましたので、清顕様は、西、北、東から敵に取り囲まれ、孤立することになってしまったのでございます。そこで清顕様は、北の大内家を屈服させるために政宗様のご出陣を願ったのでございます。 強い危機を感じられた政宗様は米沢を発ち、伊達郡の小手森山を攻めて大内方の首五十から百余りも討ち取られました。しかもこの合戦で政宗様は『撫で切り』、つまり女子供まですべて殺す戦いを行い、敵方はもとより、田村家側をも震え上がらせたのでございます。これは家督相続後の初戦であった会津地方での敗戦を、この戦いで雪(そそ)ごうとした政宗様の強硬な手段であり、周辺領主への見せしめでもあったのでございます。これまでの領主間の争いは、他の領主が仲裁に立ち、双方の面子を立てることなどで解決して参りました。そのためもあって、領主たちは互いに婚姻関係を結び合い縁戚関係を固めていたのでございます。それでございますからこの撫で切りは今までの解決の方法を根本的に変えることとなってしまったのでございます。 この政宗様の撫で切りを見た大内勢は浮き足立ち、近辺の味方の城に自ら火を放ち、二本松の畠山義継の下に逃走したのでございます。政宗様は、三春との回廊を北から確保なされたのでございます。この戦いの後、塩松地方はすべて伊達方領地となってしまいました。清顕様とすれば、以前からの田村の領地を伊達に奪われたわけですから、大層悔しい思いをさせられたことになってしまったのでございます。 畠山義継は敗れた大内定綱を受け入れはしましたが、直ちに政宗様へ臣従の意を表し、政宗様との間を取り持ってくれた政宗様の父君の輝宗様の居られた安達郡の宮森城に、御礼を申し上げに参上したのでございます。ところが何を思ったか義継は、城の門まで見送りに出てこられた輝宗様を馬に乗せて拉致すると二本松に向かって逃走をしたのでございます。狩りの途中でそれを知った政宗様は、阿武隈川東岸の粟巣で追いつきましたが、それでも義継は輝宗様を自分の身の盾として舟で逃げようとしたのでございます。「政宗! このまま畠山を二本松城に入れては後が面倒。わしとともに畠山を撃て!」 この輝宗様の声に意を決した政宗様は、義継を父上様ともども鉄砲で撃ち殺してしまったのでございます。この決断は政宗様にとって辛い選択でございましたでしょうが、これこそが戦乱の世を表徴する出来事であったのでございましょう。そして輝宗様の初七日が済むと間もなく、政宗様は父の仇である二本松攻めをはじめたのでございます。 この危機に瀕した二本松の幼い当主の畠山家の救援を口実に、常陸以下、会津、磐城、石川、白河の大連合軍が北上してきたのでございます。本宮観音堂、そして人取橋付近で両軍が激突したのは、それから間もなくのことでございました。清顕様や相馬長門守義胤様も伊達方として出馬なされて敵方を退けましたが、伊達方の戦死者一千人、敵方の死傷者は二千人にも及んだのでございます。この戦いで伊達方は重臣の鬼庭左月斎を討たれて窮地に立ち、一時は総大将の政宗様を見失うという、それはそれは大戦(おおいくさ)でございました。 七月、豊臣関白秀吉様は、戦乱の奥羽に金山宗洗様を使者として派遣なされました。その折り三春へ寄られた宗洗様は、関白秀吉様が全国を平定なされたことの武威を誇示なされ、「東国が不穏なれば関白様直々にご出馬なさる」と言われてお帰りになられたのでございます。孫七郎様は、関白秀吉様の持つ強大な力をひしひしと感じておられました。しかしこの宗洗様の強い要請にも拘わらず、政宗様はどうしても二本松城を落とそうと考えておられました。父・伊達輝宗様の弔い合戦であり、檜原村での敗北の雪辱と考えておられたからでございます。 十五歳となって元服をなされたばかりの孫七郎様は、この戦いで初陣を飾ることになりました。伯父の清顕様と大叔父の田村宮内少輔顕頼月斎様とともに召し出された孫七郎様は、ここではじめて政宗様にお会いになったのでございます。「おう、その方が孫七郎か。よく愛に聞いておったぞ」 その声に見上げた孫七郎様は、政宗様の独眼の精悍な顔立ちの中に凛々しいものを感じられたのでございます。 ──流石は御大将! 姉上様はこの方の奥方なれば、お幸せであろう。おう、そうすると、政宗様は我が兄上様と考えてもよいお方・・・。 そう思われた孫七郎様は、この戦いを、田村家のため、伊達家のため、それはひいては愛姫様とそのお子様のためと考えたのでございます。仮に自分の心の中を愛姫様が知らなくても、それはそれで孫七郎様にとって大きな生きる目的となっていったのでございます。 ──姉上様。私はこのことのためのみに、この世を生きて参ります。 孫七郎様は、強くその気持を固めておられました。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.02.15
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愛 姫 桜 (めごひめざくら)~ひそやかな恋の物語 お 輿 入 れ の こ と 私は奥州田村郡三春の郷、ここの領主であられた田村家累代の霊が祀られております福聚寺の境内の片隅に咲く紅枝垂れ桜の精でございます。坂上田村麻呂公の末裔にあたられるという田村大膳太夫清顕様の娘の愛姫様がお生まれになられたとき、わが子のお幸せを祈られて植えられたのでございます。それからこの私、紅枝垂れ桜のことを、誰言うとはなしに『愛姫桜』と申すようになりました。私としても、このような美しい名で親しまれることは、とても嬉しいことでございます。 その愛姫様が出羽国米沢の伊達政宗様のもとにお輿入れになられたのは、天正七(一五七九)年のことでございました。そのとき政宗様は十三歳、愛姫様は十一歳という、まるでままごとのような幼いご夫婦でございました。それらの様子などもお話ししたいと思いますので、しばらくの間お耳をお貸し下さいませ・・・。 清顕様のお父上の田村安芸守隆顕様が田村家の家督をご相続になられたのは、天文二(一五三三)年のことだったそうです。その隆顕様の奥方様は伊達家、清顕様の奥方様は相馬家のご出身でございました。この隆顕様の後を清顕様がお継ぎになられたのでございますが、その間にも清顕様は田村家の領地として田村郡の六十六郷は申すに及ばず、小野保六郷、白河郡六十三郷、石川郡六十六郷、それに安達、安積、岩瀬郡の半ばを手中に収められ、常陸の佐竹とも戦って常陸境(いまの福島、茨城県境)にまでも達していたのでございます。このような情勢でございましたので、田村家にとって伊達家と縁組みをなさるということは北の安定を図る意味において、また南への進出を目論んでいた伊達家にとっても大変に都合の良いものであったのでございます。しかしながらこの良縁にもかかわらず、清顕様は大きな問題を一つ抱えておられました。それは、愛姫様お一人のお子しか恵まれておられなかったということでございます。 この戦乱の世に男子のお世継ぎに恵まれなかったということは、大変なことでございました。そのため清顕様は、愛姫様のお輿入れに際しまして、あることを考えておられました。それは、将来愛姫様に恵まれる男のお子のうちのお一人を田村家の世継ぎとして迎え入れる、ということでございました。しかしそのことを理解させるには愛姫様がまだ幼過ぎると思われ、まだ胸一つに抑え込んでおられました。 清顕様には善九郎氏顕様というご舎弟がございました。早くに奥方様を亡くされておられましたが、その方に孫七郎様というお子がおられたのです。その孫七郎様は愛姫様とは四つばかり年下の、お従弟という関係にございました。ところが善九郎様もまたご一子であったということもあって、この二人はまるで実の姉弟のように仲むつまじく、孫七郎様は愛姫様を、いつも「姉上様」と呼んで慕っておられたのでございます。この七歳になったばかりの孫七郎様にとって愛姫様のお輿入れは、とても淋しいことのようでございました。忽然と遊び相手を失い、ポツンと一人でいる様子を見たお父上の善九郎様なども、思わず苦笑をなさるような落胆ぶりであったのでございます。 この坂上田村麻呂公から連綿と続いた家系が途切れるのを自分の目で見ることは耐えがたいと考えておられた清顕様は、愛姫様に男の子が生まれのを待ち焦がれておられました。せめて間が愛姫様であれ、自分の血筋でお家を続けたいと思われていたのでございます。 ──どうしても愛(めご)の子に田村家を相続させたい。しかし愛が子を生(な)してから話しても遅い。 そう考えられた清顕様は、善九郎様だけには話をしておこうと思われました。後ろめたさはございましたが、それを隠して政宗様と愛姫様の子を田村家の世継ぎとして受け入れたいということを申されたのでございます。「兄上の申されること、尤もなことと思いまする。しかし出過ぎたこととは思いまするが、もしもの折には私にも孫七郎がおりまする。乗っ取りなどと思われては困りまするが、お家を続けるにはそういうこともあるのではございませぬか?」「うむ。わしも孫七郎には済まぬと思う。確かにそのような例がないでもない。しかしそれは万分の一のこととして、直系である愛の子を受け入れてもらいたい」 そう言われた善九郎様は、「御意のままに・・・」と申されたのみでございました。兄、清顕様に対して、全面的な信頼を寄せておられていたのでございます。 ところがその翌年、田村家に大変なことが起こってしまいました。各地で起こった四度もの合戦で田村勢は負け続けていた上に、塩松(二本松市岩代地区)の戦いで善九郎様が討ち死にされてしまったのでございます。この大敗を目の当たりにされた清顕様は、失意のなかに三春へ退かれたのでございます。 善九郎様のご葬儀も、この福聚寺で営まれました。喪主となられた孫七郎様の小さなお姿を見るにつけ、親を失った子の姿ほど悲しく、そして淋しく感じられるものはございませんでした。孫七郎様のお気持ちを十分に知り尽くしていた私は、その春、咲きはじめた花を一刻ほどで一斉に散らしました。それを知った町の人々は凶相が現れたと捉えたようでございました。 ある日、清顕様は孫七郎様をお呼びになり、善九郎様の討ち死にを詫びられながらこう申されたのでございます。「孫七郎。十三歳のその方には少し早いかも知れぬが申し聞かせておくことがある。知っての通り戦いとは激しいもの、必ず勝つとは限らぬ。そのためもあって、わが味方を常に作っておかねばならぬ。伊達家に輿入れをさせた愛がその例じゃ。わしの室は相馬家、ばば様は伊達家の出身、愛はその伊達家へ輿入れをさせた。この伊達家と相馬家との縁組みは、わが家にとって重要な意味がある。領地の安全は戦さばかりではなく、縁組みによることも大事じゃからのう」 孫七郎様は、清顕様の話を理解なさろうとして懸命に聞いておられました。「わが家は、わしもその方の父も子どもには恵まれなかった。その方は例え多少気に合わぬ女子(おなご)であろうと早く良き家柄の姫を娶(めと)り、どうしても気に入らねば好きな女を側室に据えてでも子を生して、家の安泰を図らねばならぬ。分かったな?」 孫七郎様はそう言われて、返事もできずにおられました。それもまた、無理からぬ齢であったのでございます。「それにその方も知っての通り、もはや田村家の血筋を引く者はその方以外いなくなってしもうた。とは申せ、米沢には愛がおる。孫七郎、わしは生前の善九郎に、田村麻呂公以来の伝統のある我が家に、愛の子を跡継ぎにすることで承知をしてもらっていた。そのとき一緒にその方にも話しておけばよかったのだが、まさか善九郎がこのように早く亡くなるとは・・・、思ってもいなかった。その上でわしらは、愛による血筋こそが一番真っ当と思っておった。常々忘れず、いずれ生まれてくる愛の子を立ててくれよ」 その話を聞いたとき、孫七郎様は胸を締め付けられるような感覚に襲われたのでございます。口にこそ出しませんでしたが、わが田村家はそれなりの安泰の中にあると思い込んでいたからでございます。ところがそうでもないと知らされたとき、孫七郎様は悄然とした気持に引きずり込まれたのでございます。城の周囲の山々の静かな佇まい。その懐に抱かれた家並み。そこに営まれていたあの厳しい戦いとは無縁な領民の生活。そして姉上様と呼んで遊んでいた起伏の大きな城内の林などを思い返しておられたそのとき、孫七郎様は単に幼い頃の楽しい思い出としてのみではなく、愛姫様への憧れとともに淡い思慕の情があることにはじめて気が付かれたのでございます。それでございますから、清顕様の話を聞きながらも目を閉じると、愛姫様の顔が、美しい微笑みや弾けるような笑いが、脳裏に浮かんだのでございます。 ──姉上様! そう胸の内で声を掛ける孫七郎様に、「孫さん・・・?」と聞き返す声が聞こえたような気がしたのでございます。忘れもしないその声から、清顕様の話が愛姫様からの頼み事のように聞こえたのでございます。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.02.10
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