三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」 資料 日本神話 日本武尊を祀った神社(資料1)菅原神社 福島市山口字天神7 信達風土記によると、この村に天神山という所があ った。昔、日本武尊がここに東夷征伐の陣を置いた とされる。須川南宮諏訪神社 福島市伏拝字溝水内34 当社鎮座記には、大和武尊が 東征の折、伏拝諏訪 平から信州諏訪大神に祈念し障害を克服することが できたのでこの地を伏拝、その処を諏訪平と称し氏 人代々祭祀を奉仕して来た。御嶽神社 福島市飯坂町茂庭字田畑御嶽神社 福島市飯坂町茂庭字名号白鳥神社 福島市飯坂町茂庭字北ノ原多田野神社 郡山市逢瀬町多田野字別所41 社記に曰く、日本武尊東夷征伐の時、風折山 (今の 権現山)の岩穴(岩穴現にあり深瀬は不知)より風吹 き起これば必ず大風となり五穀熟作得ず。民艱難ノ 趣聞召され此地に熊野神社を祀り祈願し給ふ。日本武神社 郡山市西田町三丁目字関根179滑川神社 須賀川市宮の杜一 往昔、里老の伝に第十二代景行天皇の御代、日本武 尊東夷を征伐として下向有りし時、当所川の流れに 御足をひやし給ひしに、川底板滑りなるを御覧あり て、常磐に堅磐に常滑の滑川と仰せられしより滑川 村の名起れりと言う。菅船神社 須賀川市滑川字十貫内260桙衝神社 須賀川市長沼町大字桙衡 字亀居山九七番地の1 景行天皇の御宇皇子日本武尊東征の時鳳輦を此の地 に駐める。柊の八尋の桙を衝立て、山頂において、 一丈余の天然の立石を斎場となし、軍神武甕槌命を 祀り、神策鬼謀をめぐらして夷狄を討伐したので、 民ようやく安じて各々業に就くことができ、且つ五 穀豊穣を御祈りし郷土の開発に努力された。都々古別神社 東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 凡そ一千九百余年まえ人皇十二代景行天皇御宇、日 本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を 地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一 名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが 創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証さ れている。 (大場磐雄・亀井正道両博士による。)都々古別神社 東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224 御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。 日本武尊強夷征伐の時千度戦って千度うち勝って凱 旋された御神徳を讃えた。これらの都々古別神社は、 延喜式神名帳で名神大社として記載される古社で陸 奥国一宮とされている。しかし、現在棚倉町には馬 場と八槻大宮に二社ある。馬場社は大同二年、田村 麻呂が鎧を奉納して日本武尊を配祀したとされ、同 じような話が八槻社にも残されている。この二つの 都都古別神社が、どちらかがどちらの分祠であるの か、伊勢神宮や賀茂神社のような二社同一なのか、 あるいは全く別の神社が同名を名乗っているのは定 かではない。若都々古別神社 東白川郡矢祭町大字金沢字沢岸都々古別神社 西白河郡表郷村大字三森字都々古山 都々古山神社 西白河郡表郷村大字高木字向山 都々和気神社 西白河郡表郷村大字梁森字石崎 立鉾鹿島神社 いわき市平中神谷字石脇多珂神社 南相馬市原町区高字城ノ内112 景行天皇の四〇年七月(日本書紀)に皇子日本武尊 は東夷征伐の勅命を奉じて陸奥に下って各地に転戦 したまい、軍を太田川のほとりに進められた時、戦 勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名が今に残 る)の近くにある玉形山に神殿を創建したまう。 (社伝)冠嶺神社 南相馬市鹿島区上栃窪字宮下白鳥神社 南会津郡下郷町白岩字向井平 延暦13(794)年、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の 折当社を建立して戦勝をしたと伝えられる。 日本神話 日本武尊が関連したとされる菅布禰神社 (資料2)菅布禰神社 郡山市田村町糠塚字岩ヶ作菅布禰神社 郡山市田村町糠塚字反田380菅布禰神社 郡山市田村町正直字宮ノ前54菅布禰神社 郡山市田村町御代田字淵ノ上76菅布禰神社 郡山市田村町細田字宮ノ前150菅布禰神社 郡山市田村町金沢字三斗蒔170菅布禰神社 郡山市田村町谷田川字宮ノ下171菅布禰神社 郡山市田村町下道渡字仲ノ内184菅船神社 郡山市田村町田母神字宮ノ前80菅布禰神社 郡山市中田町高倉字宮の脇菅布禰神社 郡山市中田町黒木字宮前344菅布禰神社 郡山市中田町海老根字明神前94菅布禰神社 郡山市中田町柳橋字町651菅布禰神社 郡山市中田町下枝字宮ノ下698菅布禰神社 郡山市中田町下枝字長久保42菅布禰神社 郡山市横川町横川196 菅布禰神社 田村郡三春町過足字下屋敷133 菅布禰神社 田村郡三春町過足字舘70 菅布禰神社 田村郡小野町浮金字宮ノ前26 菅船神社 須賀川市塩田字外ノ内110 菅船神社 須賀川市塩田字西清水184 菅船神社 須賀川市滑川字十貫内260 菅布禰神社 石川郡平田村小松原字大柿291 菅布禰神社 石川郡平田村中倉字筒地436 菅布禰神社 石川郡平田村(九十辺鳥)子 字塚田100 菅布禰神社 石川郡平田村東山字宮野田和134 菅布禰神社 石川郡平田村蓬田字蓬田新田 菅布禰神社 石川郡平田村蓬田字蓬田岳一 菅布禰神社 石川郡平田村上蓬田字山田149 菅船神社 石川郡平田村永田字江名籠254 古墳の時代 郡山周辺の古墳(資料3) 前期=4世紀頃大安場古墳 前方後方墳 郡山市大善寺正直古墳群 前方後方墳 郡山市田村町正直仲ノ平古墳群 前方後方墳 須賀川市仲の平傾城壇古墳 前方後円墳 安達郡大玉村愛宕針生古墳群 円 墳 郡山市静町 中期=五世紀頃御代田古墳群 円 墳 郡山市田村町山中大善寺古墳群 円 墳 郡山市田村町大善寺大槻古墳群 円 墳 郡山市大槻町堂山古墳群 円 墳 郡山市大槻町堂山根岸古墳 円 墳 本宮市久保愛宕山古墳 円 墳 本宮市館の越天王坦古墳 円 墳 本宮市南内谷地古墳 円 墳 安達郡大玉村谷地久遠壇古墳 円 墳 安達郡大玉村仲島金山古墳 円 墳 安達郡大玉村地蔵堂産土古墳 円 墳 安達郡大玉村地蔵堂大壇古墳 円 墳 安達郡大玉村大壇上石切場古墳群 円 墳 郡山市田村町大善寺 後期=六世紀麦塚古墳 前方後円墳 郡山市大槻町麦塚渕の上古墳 円 墳 郡山市安積町淵の上陣場古墳群 円 墳 郡山市冨久山町陣場蝦夷穴古墳 円 墳 須賀川市和田 終末期=六~七世紀頃福楽沢東壇古墳 円 墳 郡山市大槻町福楽沢泉崎横穴古墳 横 穴 西白河郡泉崎村高倉古墳群 円 墳 郡山市日和田町高倉蝦夷横穴群 円 墳 郡山市田村町小川蒲倉古墳群 円 墳 郡山市蒲倉町カチ内阿弥陀坦古墳群 円 墳 郡山市安積町柏山ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.12.11
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和銅六(七一三)年、『みちのく』に丹取郡(現宮城県古川市・玉造郡付近か?)を建置、出羽に越後の百姓を入植させている。そして養老二(七一八)年、浜六郡で石城国を、白河、石背、会津、安積、信夫の五郡で石背国を置いた。安積は大和側に、完全に組み込まれたことを意味しよう。 養老四(七二〇)年、エミシの反乱が起こった。このとき持節征夷将軍で按察使の上毛野朝臣広人がエミシによって殺された。これに対し、大和の側からの攻勢が強まった。そしてその兵站基地となった安積からは、ここを流れる大河を利用した舟運で兵員や戦略物資が北に送られたと思われる。上流から下流まで一本の川として認識する必要がでてきたのであろうが、その名称については、確定的に証明するものは残されていない。なおこれに関して、平安時代(七九四~一一八五)初頭の木簡が多賀城跡から発見されている。 安積団解 申●番●●事 畢番度玉前●還本土安積団会津郡番度還 ●二人 畢土●●●●●●●●●●● この木簡の一行目には「安積團解 申●番●事」と件名が書かれているが、解(げ)とは上位官庁へ上申する文書の標題である。安積團とは現在の郡山市付近にあった軍事訓練所であって。古代の徴兵制では成人男子(二十歳から六十歳まで)の三人に一人が交代で兵役義務を負っていた。 二行目には「畢番度玉前(たまさき)●還本土会津郡番度還」と内容が記されている。この内容に解釈を加えて現代文に直すと「多賀城で警備や労働に当たっていた安積團の管轄していた兵士のうちの会津郡の兵士が、当番を畢(終)えたので、(多賀城の南の)玉前関を度(こ)えて出身地へ還ることを国府に上申した」というものである。これにより安積軍団には、会津や耶麻の兵も含まれていたことが分かる。この木簡は玉前関を越える時の通行手形の習い書きであった。玉前関は文献や記録には無く、この木簡だけがその存在を伝える。この平安時代初頭の木簡ということは、延暦七年の第一回エミシ征伐や延暦十年の第二回エミシ征伐に関連しての木簡と考えられ、この時期、安積軍団が多賀城に派遣されていたことの証明となる。なお玉前とは、現在の岩沼市南長谷の付近にあったとされる関で、国道四号と六号が分岐する岩沼の竹駒神社付近に「玉崎」という地名が現存する。古代の東海道は勿来関が、また東山道は白河関が終点であったと考えられ、二つの道の延長が玉前で合流し、そこに関所が設置され、その先は一本道となって多賀城に至ったようである。 この阿武隈川の名が文献として最初に出てくるのは吾妻鏡である、文治五(一一八九)年七月十七の条に逢隈河(おおくまがわ)と記述され、文治五年八月十二日条には『逢隈湊』が見えている。吾妻鏡には、平泉の合戦に際し、千葉介常胤や八田知家が石城海道を通り、東山道を進んで多賀国府に入城した頼朝らのあとを追って『逢隈湊を渡って参上す』とあり、海道軍が亘理郡において阿武隈川の渡河点で川を越えて多賀城に進んだことを示している。その地点は現在のJR常磐線阿武隈川橋梁の北、四~五〇〇メートルとされる。 この阿武隈川の名の出自を想像させる文献の一つに、後拾遺和歌集がある。その中に陸奥の歌枕として『武隈(たけくま)の松』があり、藤原元善(良)朝臣や藤原実方、橘季通、西行、能因など数多くの歌人に詠まれているのである。現在の岩沼が武隈と呼ばれたことから『武隈の松』と言われたとされるが、これは竹駒神社の語源ともされている。後拾遺和歌集は応徳三(一〇六六)年に作られている。すると阿武隈川の一部を成す『武隈』という文字が吾妻鏡に出てくる逢隈川より一二〇年も前に使われていることになる。また岩瀬郡天栄村にある広戸神社には、藤原鎌足が鹿島神宮参拝の途次、天下三笠松の一つである『武隈の松』を見ようと松本村に立ち寄ったという由来が残されている。 享保四(一七一九)年に完成した仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』に、葉室光俊(一二〇三~一二七一)が作った『風そよぐいなばのわたり霧はれて阿武隈川にすめる月影』という和歌が収められている。『いなばのわたり(稲葉の渡)』とは『逢隈湊』のことである。阿武隈の名の萌芽がここに表れていたことになろう。 これらから推察するに、この川を上流から下流まで統一した最初の名称は、逢隈川であったと思われる。しかもこの逢隈という名は、現在でも阿武隈川流域に数多く見られる。例えば阿武隈川最上流に架かる雪割橋の次が『逢隈橋』であり、下って来た郡山市からの国道二八八号線の『逢隈橋』。また郡山市へ合併した旧西田村の地域には、旧田村郡『逢隈村』が含まれていた。また福島市の松川町と飯野町を結ぶ橋も『逢隈橋』である。さらに宮城県に入った亘理町にも『逢隈橋』が、そしてJR常磐線にも『逢隈駅』という駅名がある。 現在、岩沼市二木に、二木の松史跡公園がある。この『二木の松』は、『武隈の松』の別称である。また宮城県出身の知人が、「地元の伝承として『阿武(あぶ)の松』があった」と教えてくれた。口伝えなので詳細は不明であると言われるが、宮城県名取市下増田『大野』にあったという。こうなると阿武隈の三字が揃うのであるが、似たような話が宮城県名取市杉ヶ袋『大野』にもあったというから、同じ大野という地名からしても、何らかの関係があるのかも知れない。ただし杉ヶ袋には、大野という地名は残されていない。 しかしこうなると『阿武の松』と『武隈の松』が存在する位置から考えて、現在の阿武隈川の西の住民はこの川を『阿武隈川』、東の住民は『逢隈川』と呼んでいたと推測できるのではあるまいか。その論拠として、阿武隈川の西の天栄村、さらには宮城県域での北部に『阿武の松』『武隈の松』があり、東、つまり宮城県域での南部に当たる地に村名、そして橋梁に逢隈の名が残されているからである。 確かに阿武隈川という大河に橋が架けられたのは近世になってからである。阿武隈川の東に接した田村郡に逢隈村が明治二十四年に、また同時期、現在の宮城県亘理町にも逢隈村が置かれた。いずれも当時行われた町村合併による新村名であった。さらに常磐線逢隈信号場が出来たのが明治三十五年、駅に昇格したのは昭和六十三年と新しい。それであるから、これら橋や駅の名は阿武隈という川の名が定着していく中で、逢隈という古い記憶が呼び起こされて付けられた可能性が高い。 結局、阿武隈川の命名については想像の域を脱し得ず、単に推論の羅列となった感は否めないが、可能性としては高いものがあると自負している。 (終)11/7 お陰さまで 80,000HIT を超えました。ブログ開始から 1186 日平均アクセス数 68 になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。今までの経緯1位 2010/10/21 226人中 第33位2位 2010/10/20 231人中 第34位 3位 2010/ 4/18 215人中 第36位ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.11.11
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奥羽の地は都人から見て辺境の地であった。ある意味で外国、という感覚であったのかも知れない。奈良時代(710~794)に作られたとされる勿来の関は、来る勿れ(来るな)という意味が示すように、エミシの南下を防ぐ目的で設置された防御点であったらしい。白河関はそれより早くて5世紀前半、少なくとも645年の大化の改新の時に文献に出ることから、その頃に作られたと思われる。 大化元(644)年、中国唐王朝二代目の皇帝・太宗は、高句麗遠征の詔を発した。この決断は、高句麗、百済、新羅の朝鮮三国と日本を30年にもわたって巻き込む大戦乱の幕開けとなった。朝鮮半島の東西で覇を競っていた百済と新羅は、朝鮮北部の高句麗から強い圧迫を受けていた。そこで高句麗と連合した百済に押された新羅は唐に接近、そのため百済は、唐と新羅の挟撃を受けて苦戦していた。そうみると日本海側を北上していった城柵が河口港周辺に設置されて行ったのは、対朝鮮半島軍事経略上の最適場所であったからだと考えられる。熾烈化する朝鮮の戦乱に対して、武力を背景に有無を言わせずエミシを大和の政治機構に組み入れ、防衛体制を整えようとしたのであろう。 大化三(647)年、大和は渟足柵(ぬたりのき)を、その翌年には磐舟柵(いわふねのき・新潟県村上市)を築いた。渟足柵や磐舟柵が作られたことから、福島県においてもエミシと大和の境界線が県の中央部、つまり現在の郡山市周辺にまで進出してきたと考えられる。神話の『国土創成』が参考になる。今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである。いずれ『道の前』と『道の尻』は、対になる地名である。 その後大和は勿来と白河関を底辺として阿武隈川流域に南から白河、石背、阿尺、安達、信夫に郡衙を置き国造を派遣した。白河には関和久遺跡と借宿廃寺が、須賀川には栄町遺跡と上人坦廃寺、郡山には清水台遺跡と清水台廃寺、二本松には郡山台遺跡と西地区寺院、福島には五老内遺跡と腰浜廃寺が残されている。これらの郡衙は多賀城の下部機構として整備され、律令時代の地域に根ざした地方役所となった。一説によると、郡衙は正倉院(米倉)・郡庁(行政施設)・館(宿舎・厩)・厨院(調理棟)など約40棟で構成されていたとされるが、福島県域にあった郡衙にこれらのすべての施設が揃っていたかどうかは不明である。とは言っても、これらの郡衙と廃寺跡は、大和が北流する阿武隈川の西側に沿って壮大なくさびを打ち込んだ、ということになるのではあるまいか。これらの郡衙と寺院は、非常に近い場所か同じ場所に併設されていた。ここで注目すべきは、これらの施設全部が阿武隈川の西側であったということである。 そしてそれに対応するかのように、阿武隈川の東には日本武尊の神社が数多く残されている。(資料1~2 参照)ところで日本武尊は大和側の人である。天皇の命令でエミシを平定に来たのに、なぜ日本武尊はエミシの地に神として祀られたのであろうか。それに対する一つの推定が、常陸風土記にある。それには、日本武尊が井戸を掘るなどして地元に貢献したと記述されている。そこから考えられることは、日本武尊の恩に報えるため、エミシが自分たちの集落にこれらの神社を勧請したと考えてもよいのかも知れない、またそれは、大和に服従したという証明にしたとも思われる。つまりこの阿武隈川の東側に日本武尊を祀った神社が数多くあることから、日本武尊に平らげられはしたが、もともとはエミシの土地であったということではなかろうか。このなだらかに起き伏す山並みが、狩猟採集に向いた土地であったのかも知れないからである。 稲作文化の伝播による大和の進出は、この時期あたりまでではなかろうか。これ以後、大和の武力による進出は足を速めるのである。斉明天皇の4(658)年、阿倍比羅夫は船180艘を連ねてエミシ征伐のため日本海沿いに蝦夷地(北海道)の後方羊蹄(しべりし)にまで侵攻した。しかしこれは点の確保であって、面としての確保ではなかった。海からの北進は、大和にとって是非とも確保したい重要な地域だったと思われる。ただこの後方羊蹄は北海道ではなく、青森市後潟字潟山にある尻八(しりはち)館だとする説がある。青森県立郷土館によると、この館は古いアイヌの砦を土台として安東氏が築城したものだと言う。しかし、土地を収奪される側としてのエミシの抵抗が強くなっていく。そのためこの阿倍比羅夫侵攻の事実だけでエミシと大和の境界線は津軽海峡であったとは言えない。いずれエミシの問題への対応の重点が、戦乱の朝鮮半島に近い日本海の側に転じたということなのであろう。 一方、唐と新羅の連合軍に敗れた百済の人民は、大和に逃げてきていた百済王子を擁立することで大和に援助を要請した。これに応じた大和は、斉明天皇の七(661)年、百済への派遣軍を出発させた。 天智天皇二(663)年、阿倍比羅夫を将として百済に派遣された大和の水軍は、朝鮮錦江河口の『白村江の戦い』(百済復興戦争)で唐の水軍と戦い、大敗を喫した。この戦いは、大和が鉄を得るため加勢の兵を出したとも言われ、その後、鉄の武具で地方を平定していくことになる。大和は、唐と新羅による反撃を恐れた。翌六六四年、中大兄皇子(ナカノオオエノミコ) が防人(さきもり)と烽火(のろし)の制度をつくり、対馬、壱岐、筑紫に水城を築いて防衛に当たらせることにした。そのときに集められた兵士たちが防人である。兵士の一部は1年交代で衛士(えじ)として上京、また一部は3年交代で北九州に防人として出て行った。このときの軍団は全国に配置されていた常備軍で、通常、兵士1000人で一団が編成された。兵役は公民の義務で一般から徴発され、武器、食料自弁の農民兵であった。 防人には東国の人たちが選ばれた。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていないが、一説には東国の力、つまりエミシの力を弱めるためとも言われている。任期は、3年で毎年2月に兵員の3分の1が交代とのことであったが、実際にはそう簡単には故郷に帰してもらえなかったようである。東国から行く彼らには、部領使(ぶりょうし)という役割の人が引率をし、徒歩で北九州まで行く訳であるが、当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いがない。そしてせっかく任務が終わって帰路についても故郷の家にたどり着くこと無く、途中で行き倒れとなる人たちも少なくなかったのである。 防人には、今の福島県域の人たちもいた。そしてこの人たちが、エミシ人であったともそうでなかったとも、証明するものはなにも残されていない。この派遣には、『福島エミシ?』の力を殺ぐということも考えられていたのかも知れない。九州に送られた防人たちの歌が万葉集の巻20に載せられている。 会津地方には、『君をのみ しのぶの里へ ゆくものを あひずの山の はるけきやなぞ』 の歌があり、中通りには『あひ見じと 思いかたむる 仲なれや かく解け難し 下紐の関』、 そして浜通りには『筑紫なる 匂う娘ゆえに 陸奥の 可刃利乙女の 結ひし紐解く』などの歌があり、この他にも多くが残されている。 これらの歌から、この徴兵は福島県全域でも行われたことが分かる。そしてこれらの歌のほとんどは、家族と離ればなれになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちを詠んだものであった。しかし上に立つものには、彼らの士気を鼓舞し、出征させなければならないという別の配慮があった。次のような歌がある。『今日よりは 返り見なくて大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我れは』『海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ』 万葉後期を代表する8世紀の歌人・大伴家持の和歌である。福島県域からどの程度の人数の防人が徴兵されたかは不明である。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。久しぶりにトップが入れ替わりました。2010/10/20 231人中第34になりました。ご協力ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。今までの経緯1位 2010/4/18 215人中 36位2位 2010/7/30 208人中 39位3位 2010/4/17 218人中 41位
2010.10.20
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福 島 県 の 古 代 史 『天孫降臨』の神話は、我が国へ稲作文化を持ち込んだ外来民族の渡来を表しているのではあるまいか。瓊瓊杵尊は九州の高千穂の峰に降り立ったとされるが、歴史の事実として、古代中国の長江文明により発達した稲作は、朝鮮半島を経由して北九州の北部に入ったものである。神武天皇が出発したとされる高千穂は、千本の稲穂を象徴するとも解釈されている。神武東征は、武力による抗争ではなく、稲作文化と狩猟採集文化のせめぎ合いと考えた方がよいのかも知れない。古事記によると、神武天皇は岡田宮(北九州市)で一年、安芸の埃の宮で七年、吉備の高島の宮で八年を過ごしたとある。これは、それらの地における稲作技術の習熟期間を暗示しているのではあるまいか、これらのことからエミシと倭の最初の境界線は、神武天皇が戦って征服した畿内であろうと想像できる。 この想像を前提とすれば、神武天皇による東征や日本武尊によるエミシ征討の一連の戦いの話は古墳文化の北上と無縁ではないと思われる、これは、古墳が稲作農耕文化の北上とリンクすることを意味していると同時に、境界を考えず広大な土地を共同で利用する狩猟採集文化が、土地を囲い込む農耕文化に追われていったことを意味すると思われる。これらのことから、『神武東征』の話も『日本武尊』の話も個人によるものではなく、大和族の拓殖集団であると考えた方がよいのかも知れない。 国立歴史民俗博物館の二〇〇五年度研究報告会で、『九州での弥生時代は、紀元前九五〇年頃、瀬戸内、近畿、中部、関東と進み、南東北・北陸へ入ったのは紀元前五〇〇年頃から西暦二五〇年頃までの約七五〇年の間であった』と発表された。これは稲作がそれぞれの地方へ入った時期の確定となる。 ここから後の時代は、弥生時代となる。この弥生時代の後期、奈良盆地で前方後円墳が作られるようになった。この前方後円墳を作った者の連合が大和政権である。前方後円墳の北限は宮城県古川市の青塚古墳であるが、すでにこの時期、稲作文化が多賀城を越えてここにまで至っていたということであろうか。実際、郡山地方では田村町大善寺の大安場に前方後方墳が残されており、郡山市田村町に御代田古墳群には前方後円墳がある。前方後方墳は、大和への反抗勢力の証とも言われている(南奥の古代通史)。このことは大和との軋轢があったとしても、弥生時代すでにこの地方は稲作文化に組み入れられていたということになろう。いずれにしても大安場古墳の前方後方墳の存在などから大和側の文化が深く浸透していたことが理解でき、これら古墳の北への連鎖は稲作文化北上の足跡とも考えられる。 郡山周辺の阿武隈川流域でも縄文から弥生時代の古墳や遺跡から数多くの土器が発掘されているが、縄文時代晩期の伝統を受け継いだものと遠賀川(おんががわ)系のものとが一緒に出土している。遠賀川とは福岡県を流れる川で、この川の河口付近から多くの弥生式時代前期の稲に関する土器が発見されているため、弥生式時代前期土器の総称を遠賀川式土器というようになった。ただし郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団の説によると、古い土器を遠賀川系と呼んだことがあるので、正確に遠賀川系と言えるかどうかは疑問としている。なおこの土器の特徴は、薄くて、軽くて、強くて、飾りの少ないもので、稲作技術と共に日本各地に広まっていったと考えられ、稲作の広がりを確かめる証拠でもあると言われている。 この時代になると、水稲耕作が発展すると同時に社会に階級差が生じ、各地に政治的なまとまりが形作られていった。この頃の様子を漢書の地理誌は、『楽浪郡(前漢の武帝が朝鮮半島に設置した)の海の向こうに倭の人びとが住んでいて、百余りの国に分かれており、蝦夷の種類は都加留(つがる)、荒蝦夷(あらえみし・夷俘・王権にまつろわぬ者)、熟蝦夷(にぎえみし・俘囚・王権に服した者)という三種類の蝦夷がいる』と伝えている。この地方にある古墳の存在などから、郡山地方が百余りの国の一国であり、三種類の蝦夷のどれかであったのかも知れないと考えられる。すでに大和の影響下にあったことが窺える。 会津大塚山古墳(会津若松市一箕町、前方後円墳、一一四メートル、四世紀後半、東北最古級、日本の割竹形木棺、三角縁神獣鏡出土)は東北地方で第四位、福島県内でも亀ヶ森古墳(一二七メートル、会津坂下町)に次ぐ第二位の大きさである。ここで発見された三角縁神獣鏡は三世紀から四世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえでの重要な遺物である。なお郡山の大安場古墳から副葬品として出土した石釧(いしくしろ・古墳時代の石製腕輪のうち、鍬(くわ)形石と車輪石を除いたものの称)と同じ石釧が存在する古墳は、それぞれの地域の最有力者のものと考えられている。この石釧は畿内の王権からの下賜品であるとの説もあって大和とのつながりを暗示し、大塚山に比すべき存在とされている。 また中国の前漢の時代(紀元前二〇二年~紀元八年)に作られた前漢鏡の拓本が三春の高木神社から採取され、國學院大學に保存されていることなどから、この時期、佐渡島、新潟、会津、耶麻、郡山、三春、磐城まで結ぶ線以南の地方が、すでに卑弥呼、つまり倭と結びついていたと考えられる。つまり日本神話でいう大和豊秋津島(おおやまととよあきつしま・本州)の北限である。しかも会津は、新潟とは阿賀野川で結ばれていた。ただし大安場古墳に埋葬された人がエミシの人であったか大和人であったかは、不明である。なお古墳時代中期以降から会津地方の古墳造営が減少し、変わって中通りで盛んに古墳が作られるようになった。中通りの方が、稲作に適した気候であったのであろうか。 (資料三) エミシと大和の境界は、日本神話や魏志倭人伝から、愛知、静岡、千葉、埼玉、栃木と東進してきたと想像できる。またこのことは、稲作文化が四世紀の末から五世紀の初頭にかけて福島の南の県境に達したことを表しているものと思われる。そしてこの福島と栃木県境に残されている白河関と勿来関は、いみじくも現在の関東と東北の境界線であり、これこそがこの時点での狩猟採集文化のエミシと稲作文化の大和との境界線であったと考えられるが、それがさらに大和の勢力に追われて北上するのである。福島県には日本武尊を祀った神社が数多くあるが、これらを日本武尊に征服されたエミシの集落の跡と想像すれば、稲作圏伸長の跡とも考えられる。付録に記した神社の一覧表(資料一)が参考になろう。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.10.10
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邪馬台(やまたい)は『やまと(倭・大和)』とも読めることから、そもそも邪馬台国は存在しなかったという説がある。その邪馬台国はもともと男子を王としていたが、一四六年の頃から約四十年間にわたって乱れ、戦争状態にあった。一八八年、倭の国々は協議して、邪馬台国の一人の女性を王にした。女王・卑弥呼である。魏志倭人伝には『卑弥呼事鬼道能感衆(鬼道を行って良く人々を惑わせた)』とあるが、その意味は解析されていない。老齢であったが夫や婿はなく、弟がいて政治を助けていた。 二二〇年、中国では後漢が滅び、魏、呉、蜀の、三国時代に入った。 神功皇后(ジングウコウゴウ)摂政三十八(二三八)年、魏の国が朝鮮半島全体を掌握した。翌二三九年、卑弥呼は帯方郡(ピョンヤン以南の地)に使節を送り、魏都に至っている。そこで使節は魏の皇帝に忠誠を誓うことを条件に、卑弥呼を親魏倭王とし、その証拠としての金印紫綬を与えられた。そして「帰国したら目録と照らし合わせて国中の人に展示し、魏が倭国に好意をもっていることを知らせるがよい」と言われ、三角縁神獣鏡一〇〇面を授かって各地の豪族に分与した。これは魏が、邪馬台国の後見人となったことを意味する。卑弥呼はその後も、二四〇年、二四三年、二四五年と立て続けに使節を送り、魏王に生口(奴隷)を贈って同盟を結ぶことに成功した。これらのことから、神功皇后は卑弥呼であるとの説もある。 卑弥呼は魏王より国内統一のための手段として授けられた三角縁神獣鏡だけでは不足したので、その分は倣製鏡(国産品の意)で補ったと考えられている。この国産の三角縁神獣鏡が会津若松の大塚山古墳から発掘されている。また最近の発掘調査によると、すでに四〇〇面を超える三角縁神獣鏡が発掘されているという。魏志倭人伝に伝えられる一〇〇面とは大きく異なるが、これら三〇〇面以上は倣製鏡なのであろうか。平成二十一年十一月二十三日の福島民報に『桜井茶臼山古墳と大彦命』が鈴木啓氏により寄稿されているので、その一部を紹介する。 会津盆地には能登半島南部の特色をもつ土器・竪穴住居が分布すること から、邪馬台国周縁の北陸地方の人びとの移住があって弥生末期の社会が 飛躍的発展を遂げたと推測される。 二四七年、卑弥呼とは以前から仲の悪かった狗奴国の男王・卑弥弓呼(ヒミココ)との間で争いが起こった。魏は塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書を与え、中国が仲介にのりだしたことを回状をつくらせて触れまわらせた。 二四八年、卑弥呼が死んだので大きな墳墓が作られた。そしてその後に男王を立てたが人々の間に不満が高まり、そのため戦いになった。そこで倭人たちは卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(トヨ)を王に立てた。国中はようやく定まった。ところでこの台与は豊国(とよのくに)を主にして治めていたが、後に『とよのくに』は、都に近い方から、豊前・豊後と分かれたという。このことはまた、邪馬台国九州説を補強することになるのかも知れない。 卑弥弓呼との戦いの実情は明確ではないが、倭国に何か大きな戦いがあったことを示唆していると思われる。また前述した一四六年の頃の戦いには、『日本武尊』の戦いが比定されるのではあるまいか。いずれ卑弥呼の時代は、神功皇后の治世(二〇一年~二六九年)と重なる。そしてこの神功皇后の夫である第十四代・仲哀天皇の父が、日本武尊であるとされている。 前述した『天の岩戸』の神話は、実在の人物である卑弥呼が天照大神のモデルであったとする研究者は多い。しかもこの神話は天照大神の再生を語ったのではなく、実は死を物語るのだとの説である。すなわち天照大神は死んで岩屋(墳墓)の中に葬られたのであるが、岩屋の前では多くの神々が哀惜し、その後継者の人選をどうするかについて不安動揺が広がった。しかし岩戸が再び開かれると中から輝くばかりの女神が現れた、それは若い別人であったというのである。また天照大神は『天の岩戸』の以前と以後では性格が変わっているとされることから、この説を補強する声もある。この説によると、『天の岩戸』以前の天照大神は独断で物事を決めていたが、後では高皇産霊神(タカムスビノカミ)の指示を仰いでいるなどのことから、これは古い指導者の死と新たな指導者の登場が神話となって表わされたとする説である。台与がこれに充てられている。 伊勢神宮内宮には天照大神が祀られ、外宮には豊受大神が祀られている。豊受大神は天照大神のお世話をする神とされているが、この神が最初に祀られたという元伊勢神社が京都府の天橋立のそばにある。そこに伝わる系図に日女子(卑弥呼)と台与が出てくる。ここでも天照大神、つまり神話と実在した卑弥呼、そして台与との関連が推測されるのである。卑弥呼が王として立てられたのは西暦一八八年とされるから、弥生時代の後期ということになろう。 古天文学によると、卑弥呼の死んだ二四七年に九〇年ぶりの皆既日食が起きている。もともと卑弥呼は(日の)巫女であったにもかかわらず、巫女として皆既日食を予言できなかったことから卑弥呼の死は自然死ではなく殺害されたものであるとも云われている。そして次に立てられた男王も、卑弥呼同様、翌年に引き続いて起きた日食を予告出来なかったことから廃され、女王台与が擁立されたとされている。それはともかく、皆既日食は真昼に、しかも急激に暗黒となるのであるから、古代人にとって、驚きと畏れ以外の何物でもなかったのではあるまいか。それであるから天の岩戸神話はこの日食を題材にしたのではないかとされている。 魏志倭人伝に出てくる動植物の名前に、次のものが出てくる。これらからも、邪馬台国の北限が福島県であったと推定できるのではあるまいか。 動 物 クロキジ 東北地方に生息するキタキジ。本州・四国の大部分に生息 するトウカイキジ、紀伊半島などに局地的に生息するシマ キジ、九州に生息するキュウシュウキジの四亜種が自然布 していた。 植 物 ボケ 本州から四国 スギ 東北から屋久島 クヌギ 岩手県以南 カエデ 福島県以南ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.09.21
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即 位 年 生年 没年 年齢 ↑ 前六六〇 初代 神武天皇 前七一一~前五八五 一二七歳 縄 前五八一 二代 綏靖天皇 前六三二~前五四九 八四歳 文 前五四九 三代 安寧天皇 前五七七~前五一一 六七歳 時 前五一〇 四代 懿徳天皇 前五五三~前四七七 七七歳 代 前四七五 五代 孝昭天皇 前五〇六~前三九三 一一四歳 ┬ 前三九二 六代 孝安天皇 前四二七~前二九一 一三七歳 │ 前二九〇 七代 孝霊天皇 前三四二~前二一五 一二八歳 │ 前二一四 八代 孝元天皇 前二七三~前一五八 一一六歳 弥 前一五八 九代 開化天皇 前二〇八~前九八 一一一歳 生 前 九七 十代 崇神天皇 前一四八~前三〇 一一九歳 前 二九 十一代 垂仁天皇 前六九 ~ 七〇 一三九歳 時 七一 十二代 景行天皇 前一三 ~一三〇 一四三歳 代 一三一 十三代 成務天皇 八四 ~一九〇 一〇七歳 │ 一九二 十四代 仲哀天皇 ~二〇〇 不 明 │ 神功皇后 ~ 不 明 ┬ 二七〇 十五代 応神天皇 二〇〇 ~三一〇 一一一歳 │ ○ 三一三 十六代 仁徳天皇 二五七 ~三九九 一四三歳 古 四〇〇 十七代 履中天皇 ~四〇五 不 明 墳 ○ 四〇六 十八代 反正天皇 ~四一〇 不 明 時 ○ 四一二 十九代 允恭天皇 ~四五三 不 明 代 ○ 四五三 二十代 安康天皇 四〇一 ~四五六 五六歳 ↓ ○ 四五六 二一代 雄略天皇 四一八 ~四七九 六二歳 注1 卑弥呼は一八〇年頃から二四八年頃まで生存したとされる。 注2 日本書紀などの天皇系譜から、讃=履中天皇 、珍=反正天皇 、 済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇等の説がある。このうち済 興武については研究者間でほぼ一致を見ているが、讃と珍については宋 書と記紀の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説とし て、讃が仁徳天皇で珍を反正天皇とする説や、讃は 応神天皇で珍を仁徳 天皇とする説などがある。倭の五王の正体については今のところ不確定 である。 この表にもあるように、神武天皇の即位は紀元前六六〇年であるとされている。六〇年は干支で言う一回りである。それがきれいに十一回ということから感じられることは、余りにも人為的な数字であるということである。しかもそう考えてくると、西暦の存在を知ってから即位年を決めたことになるから、その決定した年代は大分後のことになる。 それにしても、異常に長いと思える天皇の寿命が出てくるが、魏志倭人伝にも『そこの人たちは皆長生きで百年、若しくは八、九十年生きたりする』と記述されている。ここでは天皇の寿命ばかりではなく、一般人たちの寿命にも言及しているが、これは古代の人間が、今の一年を二年として数えていたという説によるものとされている。 これら歴代天皇のうち、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの八代については、『欠史八代』と呼ばれ、実在の天皇は第十代崇神天皇以降であるとされている。そうすると初代の天皇は崇神天皇ということになる。この欠史八代のことを考えると、『天孫降臨』以降の神話は弥生時代から古墳時代、つまり邪馬台国の時代のことを組み込んだものと考えられる。ところで『記紀』が作られたときに、神武天皇に続く天皇による国土支配の正当性を主張するため、神武東征などの偉大な武勇伝を格調高く語る必要があったとされているが、仮に神武天皇が生誕した紀元前七一一年から九代開化天皇が崩御した紀元前九八年を単純に計算すると、神武天皇の年齢は実に六百十三歳ということになり、前述した一年を二年とする数える方をすると千二百歳を超えることになる。これでは、神武天皇の寿命がつくりごととしか考えられない。その後も高齢の天皇が続出するが、現在、九代までの天皇は、この空白を埋めるために創造された架空の天皇であると説明されている。それを証明するかのように、この欠史八代の天皇は諡(おくりな)のみが並べられ、しかも本来書かれるべきである事績については全く書き残されていない。唯一、七代孝霊天皇のみに播磨国を通過して吉備を攻め平定した記述が出てくるが、この話は桃太郎伝説のモデルになったといわれている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.09.11
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邪 馬 台 国 (やまたいこく) 地球の長い歴史の中で、何度かの氷河期というものがあった。それらの最後に起きたのがヴュルム氷河期である。このヴュルム氷河期の末期、つまり日本は今から一万六千年ほど前に旧石器時代を過ぎて縄文時代(一万六千年~一万前)に入るのであるが、この旧石器時代の遺跡が郡山周辺で約二〇ヶ所近く確認されている。しかし遺跡の中身は、ほとんど残されていない。それでも一九九一年に発掘調査された郡山市田村町守山字弥明(みみょう)にある旧石器時代の弥明遺跡は、出土数十三点と数こそ少ないものの動物を解体するのに利用した貴重な石器類が出土した。これらは採集狩猟の生活を証明するものであろう。 その後に続く縄文時代は、学問的にいくつかの時期に分けられる。 『この縄文時代の中期に青森県で多く作られていた円筒土器は、北は北海 道の北端の宗谷岬や礼文島、南は岩手県中央部から西へ向かって奥羽山脈 を越え、秋田県の八郎潟付近にまで達している。さらにこの円筒土器の系 統を引く事例まで加えるとその分布範囲は拡大し、日本海を南下して富山 湾沿岸から能登半島にまで達していた」 (青森県の歴史) 青森県の三内丸山遺跡は縄文時代中期(紀元前五五〇〇~紀元前四〇〇〇年)のものである。このことから日本全土の気温が今より温暖であったとも考えられる。またこのことは、この広い範囲にエミシ文化が定着していたことを示唆している。古代東北地方に盤踞し、大和の『征伐』の対象とされたエミシ人は、縄文人の直系の末裔であり、人種としては絶滅したとされている。 魏志倭人伝は中国の正史『三国志』の中の魏の歴史で、三世紀末、二八〇年から二九〇年の間に書かれたものとされている。その中の、『卷三十、魏書』『烏丸・鮮卑・東夷伝』倭人の条に、二千文字程度の記述であるが、三世紀中頃の日本列島についての記述がある。 この魏志倭人伝には、最初に魏から邪馬台国に行く道筋とそれに続く多くの国の名が書き出されている。邪馬台国の位置が特定されていない現在、軽々に結論づけられないが、諸説ある中で、邪馬台国が九州にあったという説と畿内にあったという説が最有力である。私は稲作渡来の最初が北九州であったことも考慮に入れ、しかも『神武東征』の出発地と一致することから、邪馬台国九州説を支持したい。魏志倭人伝に書かれている多くの国の名の中に次のような名がある。已百支国(いはき)、邪馬国(やま)、躬臣国(こし)である。もし可能であれば、私はこれらを磐城、耶麻、新潟(越は、のちに京都に近い方から越前、越中、越後となった)と考えてみたいと思っている。するとこれらの地域を東西に結ぶ線が、邪馬台国の北限と考えてもよいのではあるまいか。すると前述した『四道将軍』の話の線(国境?)とも合致する。 魏志倭人伝には、次のような記述がある。 倭の気候は温暖で、牛、馬、虎、豹、羊、鴨などはいない。その風俗 は、男は髪をお下げにして冠はかぶらず、ほとんど縫うことはない木綿の 布を頭からからかぶっている。女性も髪は垂れたところを曲げて束ね、一 重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服としている。 その生活は稲と麻など繊維をとる植物を栽培し、蚕に桑を与えて糸を紡 ぎ、絹糸や綿糸などを作っている。 死ぬと棺に入れるが墓室のようなものは無い。土を盛って塚を作る。喪に 服すのは十日余りで、その間は肉を食べない。喪主は号泣し他の人は飲酒を して歌ったり踊ったりする。そこの人たちは皆長生きで百年、もしくは八・ 九十年生きたりする。 ここに出てくる弔いの様子は、『天の岩戸』の話に似ている。この天の岩戸の歌舞音曲の様子は、卑弥呼の弔いを記したものとも言われている。 ところで魏志倭人伝の後に書かれた『宋書・倭国伝』などに、中国の各王朝に貢ぎ物をした倭の五王の話が出てくるが、倭の五王とは、讃王(十六代仁徳天皇)、珍王(十八代反正天皇)、済王(十九代允恭天皇)、興王(二十代安康天皇)、武王(二十一代雄略天皇)の五人のことである。それらの関係を、新人物往来社の『歴代天皇全紀』より抽出して次の表に記す。(五王は○を付して表した)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.08.20
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日 本 武 尊 日本神話最大の悲劇の英雄と言われる日本武尊がいる。日本武尊は第十二代景行天皇の八〇人の子の第二子であったが、その性格は荒いとされていた。この日本武尊が子どものとき食事に来ない兄を呼びにやらされ、一人で戻ってきた日本武尊に父の景行天皇が訊いたところ、「兄が言うことを聞かなかったので、厠に入った折りに捕らえ、手足をもいで菰に包んで投げ捨てました」と答えたので驚き、この猛々しい性質におののいてしまった。そこで景行天皇は、日本武尊が十六歳のとき九州の熊襲征伐を命じた。役目を終えた日本武尊は出雲に回り、出雲建(イズモタケル)と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう。ここに出てくる武、建はいずれも『たける』と読み、猛々しい者の意を表したものである。 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じた。日本武尊は叔母に当たる倭姫命を訪ね、「父(景行天皇)は自分に死ねと思っておられるのか」と言って嘆いた。倭姫命は日本武尊に伊勢神宮にあった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言った。 駿河国(静岡県)に着いたとき、荒ぶる神がいると欺かれた日本武尊は野原で火攻めに遭ってしまった。そこで叔母から貰った袋を開けたところ火打石が入っていたので、天叢雲剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまった。このことから天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになり、その地が焼遣(やきづ=静岡県焼津)と言われるようになった。さらに相模(神奈川県)から上総(千葉県)に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして日本武尊の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛(オトタチバナノヒメ)が自ら海に身を投げ、日本武尊に代わって命を捨てると、ようやく波は静まった。 その後、日本武尊は房総の北で八握脛(ヤツカハギ)という悪者と戦った。この悪者たちが日本武尊に抵抗するため巣穴から出て留守にしている間に茨を穴の中に入れ、馬に乗った兵士たちが八握脛たちを追い込んだところ、穴に逃げた彼らは皆その茨によって死んでしまったという。この神話から、現在の茨城県の名ができたという。 さらに日本武尊は北上し、八槻郷(棚倉町)で八人の土蜘蛛に八本の槻弓・槻矢を放ち、これを討った。日本武尊は蓬田岳、竹水門(南相馬市)においても賊と戦った。このとき竹水門で戦わずして投降したとされるエミシは、安岐国に流されたと伝えられる。安岐国にエミシが流されたということは、前述した安積国造神社の祭神・比止禰命の出身が安岐国ということと重なることから安積と安芸の強い関係が想像できる。 その後、皇壇が原(宮城県名取市閖上・ゆりあげ)から日高見川流域(北上川)にまで至った日本武尊は陸奥を平定した後、大和を目指して帰途についた。途中、尾張(愛知県)に入った日本武尊は美夜受媛(ミヤズヒメ)と結婚し、草薙剣を美夜受媛に預けて伊吹山(岐阜・滋賀県境)へ荒ぶる神を素手で討ち取ろうと出立したが、その前に白い大猪が現れた。大猪は荒ぶる神の化身で、襲われた日本武尊は失神して病の身となった。日本武尊は弱った体で能煩野(三重県亀山市)に至ったとき、従っていた吉備武彦を遣わして朝廷に報告させ、自らは能煩野の地で亡くなった。時に三〇歳であったという。これらエミシの服属を語るのが日本武尊の東征説話であるが、古事記で語られるのはアヅマ建国起源説話でありエミシ征討説話はその一部分にすぎない。 日本武尊の死が都に伝わると、人々は御陵を作り周囲で泣き悲しんだ。すると御陵から日本武尊の魂が一羽の八尋白智鳥(やひろしろちどり・白鳥)となり、空高く飛び去ったとある。また日本武尊が日高見川にまで達していたというこの神話は、倭の勢力がこの周辺にまで伸びていたという主張であったのであろうか。 ここに出てくる八握脛(ヤツカスネ)と八握脛(ヤツカハギ)。この脛(はぎ)を辞書で引くと、『ひざからくるぶしまでの部分、すね』とあり、束(つか)とは『長さの単位で四本の指を並べたほどの長さ』とある。これではまるで長脛彦とは同一人を表しているのではないかとも思えることから、エミシの別称ではなかったのかと思える。彼らは『足の長い者』という意味の蔑称として土蜘蛛と呼ばれ、倭の人々はまつろわぬ土着勢力を人間以外の存在、つまり土中に棲む蜘蛛のたぐい、妖怪のたぐいとして分類していた。しかし天皇の支配下に入った土蜘蛛はそのレッテルを外され、人間として扱われることになった。なお前述したように、八は『多くの』という意味を持つ。 福島県には、日本武尊を祀った多くの神社がある。 (参照 資料一) 福島市 5 郡山市 1 田村地域 1 須賀川市 3 東白川郡 4 西白河郡 2 いわき市 1 南相馬市 1 南会津郡 1 日本武尊と関連するとされる菅布禰神社もまた、次の通りである。(参照 資料二) 田村地域 20 須賀川市 3 石川郡 8 日 高 見 国 景行天皇の二十五(九六)年、景行天皇は武内宿禰に北陸、東方諸国を視察させた。宿禰は二年後に帰還して、岩手県『北上』地方の語源とされる『日高見国』のエミシについて報告、この地の軍事的攻略を勧めた。 神武天皇に敗れた長脛彦が潜んだとされる日高見国については、今の東北中部の他に大分県の日田、和歌山県の日高郡、岐阜県の飛騨、茨城県の信太のすべてが日高見国の意味であるという。なお、このこれと関係するかどうかは不明であるが、須賀川市の長沼城跡の日高見山に日高見稲荷神社が祀られ、須賀川市今泉には日高見国御影神を祀った白方神社がある。さらには棚倉町の都都古別神社近くの八溝山は日高山と呼ばれていたという。またこの日高見の『見』には周辺という意味がある(南奥の古代通史)という。
2010.08.10
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天 孫 降 臨 天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が成長したので、高天原から豊葦原中国 に遣わした。瓊瓊杵尊は多くの神々と共に日向の高千穂峰(たかちほのみね・宮崎県)に降り、天津神(あまつかみ)による地上支配がはじまった。天津神と は、天上に住む神のことであり、もともと地上に住んでいた神を国津神(くにつかみ)と称した。 この神話は、天津神の子孫を主張する天皇家の地上 支配の論拠とする上で、もっとも重要な神話の一つである。天照大神は、皇室の祖先となる神・皇祖神であり、太陽神、農耕神である。初代の神武天皇は、この 天照大神の五代下であるとされる。そして天照大神が農耕神であるということは、歴代天皇の即位儀礼である大嘗祭の儀式が稲に関していることに色濃く投影さ れている。皇室で今でも行われている稲作や養蚕の行事なども、それを裏付けているように思える。 瀬 織 津 姫 命(セオリツヒメノミコト) 天照大神の時代に、伊邪那岐命が黄泉(よみ)の国から戻ってから初めて生まれた神に八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)がある。このおどろおどろしい名の悪魂としての神が、不思議に美しい名の女神・瀬織津姫命に名を変えられた。瀬織津姫命は水の神であり、桜の神である。この女神信仰は全国各地に存在している。熊野地方では那智の滝の神、また伊勢神宮内宮では天照大神の『荒魂(あらみたま)』とされている。荒魂とは神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。このため同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性が表れ、実際に別の神名が与えられたり、ときに客神(マロウドガミ)として別に祀られていたりすることもある。江戸時代後期の国学者で神道家の平田篤胤(ひらたあつたね)は、大禍津日神(オホマガツヒノカミ)は八十禍津日神と同じ神であり、瀬織津姫命と同神としている。この八とか八十には『沢山の』という意味が含まれている。『八百万の神々』や『八岐大蛇』などという言い方もその例である。 瀬織津姫命は桜と瀧とのそばに多く鎮座している。しかも瀧の名は、不動滝が典型的である。三春の滝桜の近くには瀬織津姫命を祀った滝不動尊と柴原神社があり、不動滝がある。この二つがここにあることにも興味が引かれる。 神 武 東 征 瓊瓊杵尊の兄・饒芸速日命(ニギハヤヒノミコト)は、天磐舟(あまのいわふね)に乗り、河内(大阪府)の河上の哮峰(いかるがのみね)に降臨した。饒芸速日命はその地の士豪・長脛彦(ナガスネヒコ)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)と結ばれ、可美真手命(ウマシマデノミコト)が生まれた。 瓊瓊杵尊の孫の神倭伊波礼昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)は、日向の高千穂宮を出発、筑紫宇佐(大分県)、岡の水門(おかのみなと・福岡県遠賀郡芦屋町)、安芸の埃の宮(えいのみや・広島県)、吉備の高島の宮(岡山県)を経て、大阪湾から奈良盆地に攻め入ろうとして草香(東大阪市日下)に上陸したが、応戦した長脛彦に敗れた。日の御子である神倭伊波礼昆古命が太陽に向かう西から侵攻したことの非を自らさとり、太陽を背にして東から攻めるべく紀伊半島を迂回した。神倭伊波礼昆古命はそこから舟で、西の熊野と伊勢の境に進んだが荒坂の津(三重県)で暴風に遭って難破した。しかし再び態勢を立て直した神倭伊波礼昆古命は紀男水門(きのおのみなと・和歌山県)に上陸、八咫烏(やたのからす)の案内で長髄彦の軍を惑わせて熊野山中を走破し、菟田(うだ)の穿邑(うがちむら・奈良県宇陀郡菟田野町)に至った。この八咫烏であるが、古代中国に太陽の中に三本足の烏がいるという伝説があった。八咫烏が太陽神の末裔とされる神武天皇のシンボルとされたことから、この話も有史後の出来事を参考にしたと考えられる。なおサッカーの日本チームのシンボルマークは、この三本足の烏である。 さてここで兄猾(エウカシ)を破った神倭伊波礼昆古命は奈良盆地へ侵攻した。この神武天皇軍が大和地方に入る前に、忍坂(おしざか・奈良県桜井市)で敵である先住勢力を宴会に招き、酔いつぶれたところを殺してしまった後で、戦勝を悦んで歌ったという久米の子(神武天皇の傭兵)らの歌がある。このような歌があるということは、この時代、この地方に、蝦夷が住んでいたという証拠になろう。 愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり・一人) 毛々那 比苔(ももなひと・百な人) 比苔破易陪廼毛(ひとは云へど も)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず・抵抗もせず) (人は、『えみし(蝦夷人)』を一人で百人にも相当する強者 だといっているが、俺たちにかかれば抵抗もしなかった) この久米歌とは文字の無かったこの時代、自分たちがどのように勇ましく戦ったかを後世に伝えるために歌と舞にしたものであるとされている。ところで、この久米歌において、「えみし」は漢字で「愛瀰詩」と大変美しい表記がされている。「愛のみちわたる詩」といった意味になるであろう。ここにも蝦夷蔑視のようなものはそのかけらもない。「えみし」という言葉は一種の美称であり、畏敬の対象となる敵なる強者を指す言葉である、このように酒食の供応に簡単に応じてしまうなど、『えみし』は『大和』を敵と感じてはいなかったのかも知れない。愛瀰詩は平和の民であったという気がする。歴史の記述の中に大和から攻撃される『えみし』の話は出てくるが、抵抗はしても積極的に大和を攻める『えみし』の記述は、まったく出てこない。この美しい表現に則り、以後、蝦夷をエミシと表現する。 さてここで再び長脛彦との間で戦いがはじまったが、父の饒芸速日命と伯父・長脛彦との板挟みになった可美真手命は、長脛彦を斬って、神倭伊波礼昆古命に帰順し、奈良盆地内の平定が終った。神倭伊波礼昆古命は橿原に新しい宮を築き、初代・神武天皇となって即位した。日本神話は、長脛彦の誅殺を伝えている、 四 道 将 軍 第十代・崇神天皇の時代、全国統一のため四道将軍と呼ばれる四人の将軍が、それぞれ北陸道、東海道、山陽道、山陰道の四方面へ派遣された。北陸に派遣された大毘古命(大彦命・オオヒコノミコト)が日本海側から、東海に派遣された武渟川別命(武沼河別命・タケヌマカワノワケノミコト)が太平洋側から兵を進め、諸国の豪族を征服した。やがて二人が落ち合った所ということから相津(会津)と言われるようになったという。このように地名を付したということは、とりもなおさず、会津は倭の範囲であるということを宣言したことになろう。 なお大毘古命は、三春藩秋田氏の先祖と伝えられている。
2010.07.20
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日 本 神 話 日本に限らず神話の世界には、荒唐無稽とも思われる記述が続く。とは言っても、どこの神話もその表現の中には実際に起きたことなどが形を変え、口承や伝承を経て成文化したものも含まれていると考えられている。そのため日本の神話の中にも、実話ではないかと思われるような話がいくつもあり、そのため荒唐無稽とばかり切り捨てられないものがある。 日本の神話は、八世紀に成立したとされる『古事記』上・中・下三巻のうちの上巻と、『日本書紀』三〇巻のうち神代の一・二巻、さらに出雲、常陸、山背(やましろ)、肥前、日向など各地の風土記の部分や『古語拾遺』に記録されていたものの集大成である。 古事記は、序と上巻、中巻、下巻の三部構成になっている。上巻は『天地のはじめ』から『神々の誕生・天の岩戸・八岐大蛇(やまたのおろち)・国譲り・海幸山幸』といった神代を扱っており、中・下巻は天皇の系譜を記している。その中巻は初代の神武天皇から第十五代・応神天皇まで、下巻が第十六代・仁徳天皇から第三十三代推古天皇(在位、西暦五九二~六二八年)までという構成になっている。ところが古事記は日本書紀から、日本書紀は古事記から、互いに一部分を引用しているらしいから、不思議ことである。 ただここで注意すべきは、古事記や日本書紀の記述は、六~七世紀に国家を統一した大和朝廷の神聖にして偉大な正統性を主張するための『正しい日本史』として編纂されたものであったから、政治的な色彩の強い建国神話であるということである。その上で日本神話の原型となった古事記や日本書紀の内容が、魏志倭人伝にある邪馬台国や女王・卑弥呼の生きた年代とも重なることに注意すべきであろう。神話には架空の部分が多いのは確かであるが、もちろんそれでも一〇〇%が創作であるとは言い切れない。邪馬台国で起こった事実などを誇張したり矮小化し、その上脚色したことが十分に考えられるからである。 日本の神話も、世界各地の神話と同じように天地開闢(かいびゃく)から語られはじめているが、阿武隈川に関連すると思われる部分をピックアップしてみよう。 天 地 開 闢 はじめ天地は定まっていなかったが、やがて天地が分かれると神々の住む高天原(たかまがはら)に天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が現れた。いきなり現れたこの神は独神(ひとりがみ・配偶者を持たない単独の神)であって天の中心を司る神であった。この天之御中主神から代を重ねていくのであるが、神のみで続いた『神代七代』の最後に生まれたのが、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)である。 この日本神話の特殊性と言うか面白さの一つは、神と人間の関係にある。例えばキリスト教のアダムとイブ、またギリシア神話のオシリスとイシスのように神が自分の形に似せて人を作ったという話、つまり神と人との確然たる分離に対して、日本神話では神がいつの間にか人間になっているという違いである。 国 土 創 成 伊邪那岐命と伊邪那美命の神は、高天原の神々の命令によって天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天逆鉾(あめのさかほこ)を泥海にさし下してかき混ぜた。そして引きあげられた天逆鉾の末からしたたり落ちて出来たのが、淤能碁呂島(おのころじま)である。二柱の神はこの『おのころ島』に降り立ち、大八洲(おおやしま)、つまり日本列島を生み出した。それらは淡路、伊予(四国)、筑紫(九州)、壱岐、隠岐、対馬、佐渡であり、最後に作られたのが大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま・本州)であった。古代より、淡路、伊予、筑紫、佐渡、大倭豊秋津島は主要な国土であったが、壱岐、隠岐、対馬については、大陸との交流の中継基地としての価値が認められてのことであろう。例えば壱岐は小さな島であるが、近年の発掘調査などにより、ここに高度の積み石による突堤跡を残すなど当時東アジア最大の港があった。隠岐からは、石器として貴重な黒曜石が産出している。 これらの地名から、古事記の時代の地理感覚が推測される。そしてここに佐渡が出てくるということは、本州全部ではなく、今の関東と東北の境あたりまでが、大和の範囲であったことを示しているのかも知れない。現在の福島県域が大和に含まれるかどうかは、微妙なところである。 天 の 岩 戸(あまのいわと) 天照大神(アマテラスオオミカミ)は、神代最後の神とされる伊邪那岐命と伊邪那美命の御子であるが、弟神である素盞鳴命(スサノオノミコト)が乱暴を働くことに恐れをなし、天の岩屋に隠れた。そのために、高天原も豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに・地上)も、いつまで続くか分からない闇夜に包まれてしまった。困った八百万(やおよろず)の神々は天安河原(あまのやすがわら)に集まってその対応を相談なされた。その結果、神々は『天の岩戸』の前に舞台をしつらえ、踊り歌って手拍子をとって高笑いなどをした。その楽しそうな様子を感じ、どうしたことかと思った天照大神が、天の岩戸を少し開けて外を覗いたところを、隠れていた天手力男命(アメノタジカラオノミコト)が力任せに引き開け、天照大神の手を取って外に引き出し、注連縄を張って「これより中にはお帰り下さるな」と言った。世の中にようやく日が戻り明るくなった。素盞鳴命は責任をとらされ、高天原から追放された。 いつもクリックして頂いている皆様方、ブログが不調で大変申し訳ありません。 実はコンピューターがダウン、新規に購入したものの素人の悲しさ。ソフトの入れ替えデータの修復に手を取られ、苦労をしております。とりあえず片肺飛行ですが本文のみは可能になったようです。頑張りますので、しばらくご猶予を頂きたく、よろしくお願い申し上げます。
2010.07.14
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小さくて見にくいかも知れませんが、ここに関連する地図を挿入しました。ただし、この2枚の地図が縦になっていますが、横に並べてご覧になって頂きたいと思います。 注:☆ 日本神話。 ○邪馬台国 □日本史 △伝承その他 新 潟 ☆ 佐渡は大八州(おおやしま)の1つです。 ☆ 四道将軍の内の1人の大毘古命が、日本海側から東に兵を進め て諸国の豪族を平定した。 ○ 魏志倭人伝の躬臣国(くし)は越国か? のちに京都に近い方 から越前、越中、越後と称した。 □ 渟足柵 (ぬたりのき・新潟市沼垂)。蝦夷の勢力圏に接する当 時の日本海側最前線拠点。会津若松 ☆ 四道将軍の1人の武渟川別命が太平洋側から兵を進めて諸国の 豪族を平定し、日本海側から来た大毘古命と会った所を相津(会 津)と言った。 □ 会津若松市一箕町の大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発見されて いる。 ○ 魏志倭人伝の邪馬国(やま)は、耶麻郡か?福 島 □ 腰浜廃寺郡 山 ☆ 阿岐国(広島県安芸郡)より下向した比止禰命が安積国造神社 に祀られたとされる。 □ 清水台廃寺は安積郡衙の跡とされる。二本松 □ 郡山台遺跡。三 春 △ 実沢の高木神社から前漢鏡が発見されている。田 村 ☆ 日本武尊が、蓬田岳で吸鬼と吹鬼を退治したとされる。 △ 田村麻呂が、大滝根山で大武丸を退治したとされる。須賀川 △ 蝦夷の住んだ国は日高見国と言われたという。須賀川市長沼城 趾の地名は日高見山で、日高見稲荷神社が祀られ、今泉の白方 神社には日高見国御影神が祀られている。棚 倉 ☆ 都都古別神社は、日本武尊が土蜘蛛(賊)を破った所と言われ る。 △ 八溝山は日高見山とも呼ばれたという。白 河 □ 白河関。蝦夷の勢力圏に接する当時の内陸部最前線拠点。 □ 借宿廃寺いわき ☆ 武渟川別命は、この周辺から内陸部に向かったか? ☆ 日本武尊が、川前の鬼ヶ城山で賊を退治したとされる。 ○ 魏志倭人伝の已百支国(いはき)は、磐城か? □ 勿来関。蝦夷の勢力圏に接する当時の太平洋側最前線拠点。南相馬 ☆ 竹水門(たかみなと・原町区・多珂神社)の賊は、日本武尊と 戦わずに投降したという。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.06.20
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この表を見て気がつくのは、阿武隈川の西、つまり『阿』の国にも、結構鬼が多いということである。しかしこれは、大和が蝦夷を討った跡、もしくは蝦夷が帰順した跡と考えてはどうであろうか。例えば郡山市逢瀬町多田野に多くある鬼の付く地名の所には、田村麻呂ばかりではなく、源義家や鎌倉権五郎が鬼を退治したという伝説や、近くにある浄土松の大蛇伝説が残されている。このことから、この地域にも広く蝦夷が住んでいたと考えられるが、いずれ蝦夷が、自分たちの方から鬼という表現をすることはあり得ないことである。 今これら鬼のつく地名の場所は、ほとんどが市街地になったり農地になったりで、不気味な風景は残されていない。大滝根山でさえ『あぶくま鍾乳洞』などの開発で観光地化し、今も鬼穴と言われる近くの大きな穴に鬼が住んでいたとはとても見えない。その中で唯一その感じが残っているのが、御霊櫃峠の中腹で、『鬼ヶ城』など鬼のつく地名が集積している所である。そこで逢瀬町史談会の鈴木忠作氏のご案内を得て様子を見に行ってみた。想像はしていたが、逢瀬川源流の谷の道はまるで沢登りであった。ようやく行き着いた所に洞窟は一つしかなかった。そこは深い山であった。明治の頃、毛筆で書かれた郷土史によると、大きく湾曲して切り立った崖の壁に複数の洞窟があるという。しかし鈴木氏もそういう場所は知らず、その後も見つかっていない。 さてこれにて『阿武隈川』の一件は落着と思ったのであるが、田村麻呂に滅ぼされたという大武丸のことがどうもしっくりこなかった。宝亀元(七七〇)年、田村麻呂の父・苅田麻呂は陸奥鎮守将軍となり、多賀城に赴任した。宝亀三(七七二)年、郡山に住む丈部継守(はせつかべのつぐもり)ら十三人が兵糧を提供したことにより、阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)という姓を賜り、外従五位下の位を授けられた。これは郡山地方が多賀城の兵站基地になっていた証拠であろうし、逆に位を与えてまで実行させなければならない重要なことであったのであろう。この阿倍安積臣という姓は戦士もしくは人夫や兵糧、そして経済的支援をさせられたことに対しての恩賞であったとされている。郡山に残る虎丸長者や花畑長者の伝説は、これらの業務を拒否し、抑圧され没落していった話とも言われている。 田村麻呂が蝦夷との戦いに登場するのは、延暦十(七九一)年のことである。田村麻呂は征夷大使・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の副使という立場ではあったが実質的な大使として胆沢(岩手県奥州市)で蝦夷と戦って大勝を博したときである。しかし彼らの軍団が都を出発して胆沢に到着する間に戦いがあったという歴史上の記録は、どこにも残されていない。それにもかかわらずその中間地点である田村地域には、田村麻呂の出生から凱旋までの伝説が色濃く残されている。たしかに蝦夷討伐軍が胆沢に行くために、東山道から白河関を越え阿武隈川に沿って北上したであろうことは想像できる。しかも尚かつ、何度かの戦いの度に通っていたのであろうから、田村麻呂の伝説が残されたということも想像できる。それを肯定した上で蝦夷や田村麻呂、そして安積の歴史を重ねてみると、この頃の福島県域は大和の勢力範囲にあったことになる。ところが安積地方で大和側として働いている人々がいるにもかかわらず、また田村麻呂が胆沢という遠隔地で戦っているのにかかわらず、大滝根山で田村麻呂に討ち滅ぼされたという悪路王・大武丸の伝説が残るのは何を意味しているのであろうか。田村麻呂が正式に征夷大将軍に任命されたのは、延暦十六(七九七)年のことである。この年、安積郡の人で外少初位上の丸子古佐美、大田部山前が大伴安積連(むらじ)という姓を賜っている。福島県考古学会顧問の鈴木啓氏は、この『勲位は軍功者に与えられるものであるから、(田村麻呂に従って)蝦夷征討に従軍したことがわかる』と言っている。このことからも、また田村麻呂が実際に戦った時期と場所から言っても、田村地域で戦ったとするにはどうしても無理が感じられる。すると田村麻呂以前の時代に、大滝根山で何らかの戦いの伝承となるものがあったと考えざるを得ない。するとそれは誰なのか? そこで考えられるのは日本武尊である。 神話によると日本武尊は、東国平定の際、八槻郷(棚倉町)で八人の土蜘蛛を、また蓬田岳(石川郡平田村と旧・田村郡の郡山市との接点)に棲む吸鬼(水鬼)と吹鬼(風鬼)を討伐し、さらに北の陸奥国竹水門(たかみかど・南相馬市高字城内・多珂神社)において戦ったとされる。ここに出てくる蓬田岳と大滝根山は意外に近く、十五キロメートル程度である。これらのことから、大滝根山での戦いは日本武尊によるものであったものが、『田村麻呂に辺境鎮撫の後方基地として白河、岩瀬、安積、安達、信夫を掌握する位置としての賜田として田村庄が与えられたと推定されている(三春町史 二六五頁)』ことから、田村麻呂が戦ったことに変化していったのではあるまいか。 さてここまで見てみると、蝦夷討伐の英雄・日本武尊は神話上の人物であり、一方の田村麻呂は実在の人物であることが分かる。また双方とも伝説では、二人とも今の福島県域で戦っていたことになる。今それらを証明する方法はないが、この地域に日本武尊や田村麻呂関連の神社が数多く残されているということは、二人の何らかの足跡であったということではなかろうか。田村地域に残る三春駒伝説は、地元の人たちが軍馬を提供して日本武尊に行為が、田村麻呂伝説になったとも言われている。そうすると、少なくとも日本武尊の時代の福島県域はグレーゾーン、大和と蝦夷の鬩(せめ)ぎ合う所であったと考えてもいいのかも知れない。 これらのことから、阿武隈川の名を考察するについて、旧石器時代までさかのぼるべきかどうかはともかくとして、相当、昔のことを考える必要があろう。しかし文字として残された歴史は大分後になってからのことであるから、この空白を埋める必要がある。その埋めるものは、神話ではなかろうか。なおこの阿武隈川と対比して現在使われる阿武隈山地の名称であるが、これは明治十八(一八八五)年、東京大学で地質学を講じたドイツのナウマンが阿武隈川の名称から命名したものである。ナウマンは日本でのゾウ化石の研究開拓者であったことから、彼の発見した化石にナウマン象の名が付されている。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.06.10
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鬼 の 棲 む 川 現在の福島県域に人が住みはじめたのは今から一万年も前の旧石器時代からであるが、ここを流れている川に阿武隈川の名がついたのはいつの頃からなのであろうか。この川は距離が長いだけに、流域の各地域で、それぞれ別々の名で呼ばれていたと思われるが、それが阿武隈川の名で統一されたのは生活上か、または何らかの必要があって一本の川であるという認識が生まれてからだと考えられる。想像できることは、ここに住んでいた人たちが阿武隈川と名を付けた筈ということである。 古代、蝦夷は蝦夷地(北海道)から出雲(島根県)にかけての広い範囲で生活していた。それが大和の勢力に追われて東走し、北上して行ったものと考えられるから、東北地方においての蝦夷と大和の境界は、東西に連なる線が南から北へと平均的に押し上げられていったと想像してもよい。ところが阿武隈川は南から北へ流れることで、その流域を東西に分けている。すると蝦夷と大和は、阿武隈川を挟んで東西に存在したという不思議なことになってしまうのである。 『あさか』についての話が三重県津市に伝わっている。 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伯母の倭姫命が、藤方片樋宮(三重県津市にある加良比乃神社とされる)に着くと、そこには阿佐鹿の悪神がいたというのである。この阿佐鹿の名前から安積が連想されるが、ではこの阿佐鹿の悪神とは誰を指していたのであろうか。悪神とする以上、それは『大和側にとって良からぬ者』と考えられる。当時それは、蝦夷以外に考えられないことから、阿佐鹿の悪神とは蝦夷を意味していたと思われる。するとそれは、安積に蝦夷が住んでいたということなのであろうか。 それでは、この疑問に答えられる何らかの文献が残されていないだろうか? 郡山市清水台に、ご祭神を比止禰命(ヒトネノミコト)とする安積国造神社が祀られている。この神社の御由緒によると、『第十三代・成務天皇五(皇紀七九五)年、天湯津彦命(アメノユヅヒコノミコト)十世孫の比止禰命は勅命により初代阿尺国造に任ぜられ(先代旧事本紀所載)、阿岐国より当地へ下向された』とある。この阿岐国とは、現在の広島県安芸郡付近とされているから比止禰命は大和側の人物と考えられ、阿尺、つまり阿武隈川の西側は大和の勢力範囲であったと推測できる。成務天皇五年は西暦一三五年である。『歴史読本・歴代天皇全紀』によると、国造の制度が地域支配の制度として確立したのは『大化の改新』以後であると考えるのが妥当であろうとしている。そうすると、安積国造神社の御由緒を尊重しながらも、比止禰命の安積国造赴任は成務期ではなく『大化の改新(六四五年)』後であると推測されるから、大和の勢力の浸透したこの時期に阿武隈川となったと思ってもよいと思われる。 ││これらのことから阿武隈川の西の『阿』は阿尺評の『阿』であったと仮定できたが、東の『武』とは何を表しているのであろうか? そう思って随分調べてみたが、『武』の付く国名や地名に類するものはまったく見当たらなかった。探しあぐねていて、この地方で根強く語られている田村麻呂の伝説に気がついた。ところで現在、田村郡は度重なる町村合併のあおりを受けて、田村市、田村郡、郡山市(郡山市田村町、中田町、西田町)の三つに分割されてしまった。以後、これらの三つをまとめて、田村地域と表記する。田村地域には、田村麻呂の生誕からはじまる数多くの伝説が残されている。その中でのハイライト、田村麻呂が大滝根山(田村市滝根町)を根城にしていた悪路王・大武丸を破ったという伝説に、『武』の文字があったのである。もし大武丸の『武』をこれに当てはめることが可能であれば、『阿』と『武』がそろうことになる。そう考えると、『阿』尺評と大『武』丸の国がこの川を挟むことになり、阿武隈川は蝦夷と大和の境界として格好な位置となる。宝亀元(七七〇)年、田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は、陸奥鎮守将軍に任じられ多賀城に赴任している。この苅田麻呂にも阿武隈川について次のような伝説がある。 1 坂上苅田麻呂が大きな熊に乗ってこの川を渡り、屯田(みやけだ・郡 山市田村町御代田)へ行ったので大熊川の名称が発生した。 2 大熊川が合曲川になった。 3 合曲川が逢隈川となった。 4 逢隈川が阿武隈川となった。 この『1の大熊川』はともかく、合曲川、逢隈川は同じ読みの『おおくまがわ』である。この大熊川という名から阿武隈川に変化したという伝説である。しかしこれらは、あくまでも言い伝えであり、それにこの順序であったかどうかも疑わしい。 これらのことから、阿武隈川の東に鬼を見つけ出すことで、西の大和と東の蝦夷の境界線が阿武隈川であったとの推測が可能になるということになるのではないかと考えた。そこで鬼という単語に着目したのであるが、この単語の最初は日本書紀にあった。その中に『まつろわぬ鬼神』という表現があり、鬼は天皇に仇をなす辺境の『蛮族』だとされていた。そうなると鬼は蝦夷を表現していたと想像してもよいと思われるし、郡山市日和田町の蛇骨地蔵伝説などにでてくる大蛇なども蝦夷を表現していたと考えてもいいのかも知れない。郡山周辺には鬼や蝦夷の付く地名や遺跡、そして大蛇伝説などが多いのである。つまり阿武隈川周辺は、鬼(蝦夷)の棲み家であったのであろうか。それらを次に、書き出してみる。 阿武隈川東部 (武の国?) 田村市大越町 『鬼穴』『鬼五郎』 〃 滝根町 『蛇内』 〃 船引町 『鬼久保』『蛇石』 田村郡小野町 『鬼石』』 〃 三春町 『蛇石』 郡山市田村町 『大蛇神社』『鬼越』 〃 西田町 『鬼生田』『鬼久保』 二本松市 『安達ヶ原の鬼婆』 いわき市川前町 『鬼の城山』 阿武隈川西部 (阿の国?) 郡山市安積町 『蛇石』『蛇食』 〃 熱海町 『鬼池』 〃 逢瀬町河内 『鬼株』 〃 逢瀬町多田野 『鬼兜』『鬼ヶ城』『西鬼ヶ城』『東鬼ヶ城』 『鬼ヶ坂』 『蛇沢』『浄土松の大蛇伝説』 〃 逢瀬町夏出 『鬼ヶ平』 〃 大槻町 『蝦夷坦』 〃 片平町 『鬼渡神社』『鬼池』『蛇光』『北蛇光』 『西蛇光』『上蛇間々』『下蛇間々』 〃 湖南町 『鬼渡神社』『鬼渡館』『鬼の洞窟』『鬼沼』 『鬼沼山』 〃 日和田町 『蛇ヶ森』『蝦夷穴横穴古墳群』 『蛇骨地蔵の大蛇伝説』 〃 富久山町 『蛇石』『蛇池』『蛇石山』 須賀川市 『蝦夷穴』『鬼久保』『蝦夷穴古墳』 二本松市 『鬼神坂』『鬼瓦』『蛇石』『蛇石山』『蛇塚』 『蛇ヶ淵』『蛇淵』『蛇砥石』 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、231人中77位でした。
2010.05.24
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(『あとがき』とは、本来、話の最後に書くものですが、このブログにおいては、話の理解を深めていただく意味において『まえがき』の次ぎに持ってきました。どうぞご了承頂きたいと思います。) あ と が き『まえがき』に述べたような会話がきっかけとなって調べはじめた阿武隈川命名の推察作業は、思った以上に難航した。日本の古代の歴史にその切り口を求めて書きはじめてみたもののそれだけでは足りず、日本神話、邪馬台国、東日流外三郡誌、そして田村麻呂と多岐にわたっていったからである。しかもそれらは、田村麻呂の登場時期が遅れていただけで、古代史、日本神話、東日流外三郡誌、邪馬台国の四件は、ほとんど同時代の中で並列的に、しかも同時進行していたのであるから、書いてみるとその煩雑さに手を焼くことになってしまった、そのためにやむを得ず話を分解して構成し直し、三話に分割して関連づける手法をとってみたのがこの作品である。読み難さをお詫びしながら、ご厚情に甘える次第である。 まず『第一章 阿武隈川~蝦夷と大和の境界線』において、日本神話と邪馬台国から日本の古代史を俯瞰してみた。古代、阿武隈川は、蝦夷と大和の境界線であったという。しかし大和が東北に進出するにあたっては、南から北へ平均的に押し上げて行ったと考えるのが妥当であろう。しかるに、阿武隈川は福島県を東西に分かち、流れている。すると蝦夷と大和は東西に分かれていなければならないことになる。これはどういうことなのであろうか。日本神話と邪馬台国から書き進めながらも、これらを補足する形となったのが東日流外三郡誌であり田村麻呂であった。 『第二章 三春藩と東日流外三郡誌』で参考にしようとした『東日流外三郡誌』は、問題の多い書である。昭和二十二年に青森県五所川原市で発見されたというこの書は、贋物であるとする説が強いからである。しかしこれの作成を命じたのが三春藩主の秋田千季(ゆきすえ)であり、その命に従ったのが弟の秋田孝季(のりすえ)であったとされることから、三春との関連が憶測される。そのため第二章は、三春藩との関連を強調する結果となってしまったが、この調査の結果として、本文中にあるように私なりの大きな発見が四件ほどあった。この東日流外三郡誌のなかに『阿武隈川命名』に関する直接的記述はなかったが、そこには日本神話と邪馬台国との関係で無視出来ない内容が含まれていたのである。 『第三章 田村麻呂~その伝説と実像』は、第一章と第二章の時代より五〇〇年ほど遅れて登場した田村麻呂に焦点を合わせたものである。『阿武隈川命名』については第一章の最後に推考してみたが、第一章を補足しようとしたものが第二章でありこの第三章である。阿武隈川が田村麻呂の胆沢での戦いでの兵站線になったのではないか、と考えたのがその理由であった。福島県の田村地域には、田村麻呂の生誕から凱旋に至るまでの多くの伝説が残されている。そのためこの地には、田村麻呂の伝説が実話であると思い込んでいる人は多い。それはともかく、この他にも郡山市逢瀬町や湖南町、須賀川市、白河市、岩手県、宮城県、そして栃木県にも伝説が残されている。田村麻呂伝説をその実在と並行させることでこの三話の総括としたかったからである。 とは言っても、これらの話を、独立した三話として読んで頂くことは、一向に差し支えない。それにしても、このややこしい話を懸命に読みやすくしようと努力はしたが、意に反したところが少なくない。これらの話の煩雑さを避ける意味で、その多くを巻末に資料としてまとめてみた。ご参考に供することができれば、幸いである。 なお本文(田村麻呂)にも入れたが、延暦十(791)年、安積の大領で外少八位上・阿倍安積臣継守が軍粮米を提供したことで、外従五位下の位を与えられている。このことは、当時の安積地方にそれなりの農業生産力があったことを示していると思われ、現在市内の各地に残る多くの池や沼は、そのための灌漑施設であったとも考えられる。この理由から、明治になって作られた安積疎水によって郡山が沃野と化したという説は、一考を要しよう。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、230人中54位でした。
2010.05.16
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今回の話は、表題が「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」で、「第一章・阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」「第二章・三春藩と東日流外三郡誌」「第三章・田村麻呂~その伝説と実像」の三部で構成しております。ただしこのブログのカテゴリーの文字数に制限があるため、それぞれを一話として掲載します。しかしこの三話は互いに関係している部分がありますので、その点をご留意の上で読んで頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。 ま え が き ある歴史の勉強会が終わって雑談となったとき、先輩が私に言った。「阿武隈の隈という字には境界という意味がある」 咄嗟に、歌舞伎などで役柄の性格や表情を誇張するために顔に赤や青の顔料で描いた線、隈取りに気付いた私は、彼に訊いた。「するとあの川は何処との境だったのでしょうね?」「多分私は、蝦夷と大和の境であったのではないかと思っている」「なるほど。ところで阿武隈川という名がついたのは何時の頃だったのでしょうね?」 彼は具体的な返事をしなかったが、私は、なんとなく彼の説に納得してしまった。 家に戻った私は、辞書をひいてみた。いくつかの意味が書いてあったが、そのうちの一つには、こうあった。 隈=濃い色と薄い色、光と影が接触する部分。 ──うーん。先輩が言った意味が含まれているな。だが蝦夷と大和の境というのが気になるし、そう仮定すると阿武とは何を意味するものであろうか? 阿武隈川はその源流を、栃木県に近い甲子山や旭岳に発し、深い峡谷を形作りながら東進、白河近郊に達した頃はすでに大河の様相を呈しながら北転する。その後この川は福島県の中央部を東西に分かち蛇行を繰り返しながら北上、宮城県岩沼市周辺で急に東に流れを変え、太平洋に注ぐ東北第二の大河である。この大河が、どのような過程を経て阿武隈川という名になったのであろうか。 現在、郡山市の市街地を西から東へ流れる川の一つに、逢瀬川という川がある。昭和三十年代の郡山市大合併、そしてそれに伴う住居表示が変更されるまでは通称として上流では『たかはた川』下流では大重川(だいじゅうがわ)と呼ばれていた。この川は旧郡山市大重と安積郡富久山町との境を流れる川であったが、大重という町名が抹消されて、新しく大町二丁目に変わるとともに川の名も本来の逢瀬川に戻ったようである。このことは、一本の川でも、その時期や場所によっては呼び名が変わることがあるということの証拠となると思われる。 ──これと同じことが、阿武隈川にも当てはまるのではあるまいか。 この疑問が私を突き動かした。そしてこの疑問を解くために徹底的に調べる中で、神話や古代史のさまざまな事象に驚かされることになったのである。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。本日の順位は、225人中78位でした。
2010.05.11
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