三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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参 考 文 献一九六七 坂上田村麻呂 亀田隆之 人物往来社 一九七三 須賀川市史 須賀川市教育委員会 第一法規出版一九七五 日本神話 上田正昭 岩波書店 〃 新訂増補国史体系(普及版) 日本後紀 黒坂勝美 吉川弘文館 〃 謎の東日流外三郡誌 佐治芳彦 徳間書店 〃 郡山市史1 原始・古代・中世 郡山市 大日本印刷一九七六 考古学入門 浜田青陵 講談社一九七八 三春の歴史と文化財 三春町教育委員会一九七九 新訂増補国史体系(普及版) 日本紀略 黒坂勝美 吉川弘文館一九八〇 坂上田村麻呂伝説 大塚徳郎 宝文堂 〃 アイヌと日本人 更科源蔵 日本放送出版協会 〃 福島県民百科 福島民友新聞社一九八一 白村江 鬼頭清明 教育社一九八四 三春町史2 近世 三春町 凸版印刷一九八五 津軽古代王国の謎 佐藤有文 サンケイ出版 〃 都路村史 都路村一九八六 坂上田村麻呂 高橋崇 吉川弘文館 〃 東日流外三郡誌 小舘衷三 藤本光幸 北方新社一九八七 「東日流外三郡誌」の原風景 菅英志 新人物往来社 〃 東日流外三郡誌の謎 松田弘洲 青森・あすなろ舎 〃 大系・日本の歴史 小学館一九八九 征夷大将軍 高橋富雄 中央公論社 〃 古墳時代の王と民衆 都出比呂志 講談社一九九〇 東日流外三郡誌と語部 佐々木孝二 八幡書店 〃 真実の東北王朝 古田武彦 駸々堂出版 〃 別冊歴史読本 日本歴史「伝記」総覧 新人物往来社一九九一 古文書の語る日本史 筑摩書房 〃 明通寺縁起 若狭・明通寺 〃 人物日本史 新潮社一九九二 悪路王伝説 定村忠士 日本エッディタースクール出版部一九九三 福島の歴史と考古 鈴木啓 平電子印刷所 〃 別冊歴史読本「古史古伝」論争 新人物往来社一九九四 虚妄の東北王朝 安本美典 毎日新聞社 〃 田村麻呂と阿弖流為 新野直吉 吉川弘文館一九九五 逆説の日本史(古代黎明編) 井沢元彦 小学館一九九六 福島遺跡地図 福島県教育委員会一九九七 世界の神々と神話の謎 学習研究社 〃 天皇の伝説 主婦の友社 〃 大安場古墳群 郡山埋蔵文化財発掘調査事業団 石井電算印刷一九九八 だまされるな東北人 本の森一九九九 岩手県の歴史 山川出版社 日本異界絵巻 筑摩書房二〇〇〇 青森県の歴史 山川出版社二〇〇一 あさか乃神社誌 あさか乃神社誌編集委員会 不二印刷二〇〇四 福島県神社名鑑 福島県神道青年会 CD 〃 東北の田村語り 阿部幹雄 三弥井書店二〇〇五 日本の歴史を読みなおす 網野善彦 筑摩書房 〃 歴代天皇全紀 新人物往来社二〇〇六 論点 日本宗教秘史 新人物往来社二〇〇九 南奥の古代通史 鈴木敬 歴史春秋社 〃 古代史を書き換える21の新・論点 新人物往来社 〃 日本と朝鮮半島二〇〇〇年 NHK 〃 眠りと祭り 野沢謙治 福島民友 〃 桜井茶臼山古墳と大彦命 鈴木啓 福島民報H P 三春町歴史民俗資料館http://www.town.miharu.fukushima.jp/rekishi/index.htmH P 魏志倭人伝 http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.htmlH P 客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧http://72.14.235.104/search?q=cache:HBcUyukha0cJ:kamnavi.jp/jm/arahaba.htm+%E8%8D%92%E8%A6%87%E5%90%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE&hl=ja&ct=clnk&cd=5&client=safariH P 能代古代通史http://www.shirakami.or.jp/~h-2666/index.htmlH P 邪馬台国ってどこなの http://kuromajyutu.blog65.fc2.com/H P 新古代学の扉 日本国の原風景http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jnihon.html H P 東北伝説 遠野物語の里から http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/H P 坂上田村麻呂を巡る旅http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuindex.htmH P 帝国電網省喫茶室http://72.14.235.132/search?q=cache:Ljwyn5I4r3oJ:ojhec.hp.infoseek.co.jp/bbs/log_199908.html+フランス人ベリユ&cd=3&hl=ja&ct=clnk&client=safariH P ねぶた祭りのルーツhttp://www.mni.ne.jp/~aoimori/nebuta/sub05.htmlH P 郡山(安積)地方関連の古代歴史考察(阿久和姫)http://74.125.153.132/search?q=cache:OeTqvMKBh9IJ:http://www5.plala.or.jp/obara123/rekisi_10.htm+%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%AE%89%E7%A9%8D%E3%80%80%E9%98%BF%E4%B9%85%E5%92%8C%E5%A7%AB&hl=&ct=clnkH P 客神社と荒波々幾神を祀る神社」よりhttp://209.85.175.104/search?q=cache:HBcUyukha0cJ:kamnavi.jp/jm/arahaba.htm+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%80%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%80%80%E8%8D%92%E8%A6%87%E5%90%90&hl=ja&ct=clnk&cd=1&client=safariH P 真実の東北王朝http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku10/nityuohi.html#tuboisibumi お世話になった方々 (五十音順 敬称略)岡祖伸 尾形徳之 品川萬里 田母野公彦 氷室利彦 藤井康湊耕一郎 宮沢淑子 渡邉信夫故・鈴木忠作 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.03.11
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大同元(八〇六)年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位した。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や中・下級官人の待遇改善などを行い、政治・経済の立て直しを行った。しかし病弱であった平城天皇はわずか四年後の大同四(八〇九)年、嵯峨天皇に譲位したのである。ところが平城上皇と嵯峨天皇の間で対立が深まった。薬子の変である。このとき田村麻呂は嵯峨天皇の側に立って動き、平城上皇を平城京に戻して出家させ、薬子を自殺に追い込んだ。 このことは、嵯峨天皇に神仏の加護があったと思わせたのであろう。嵯峨天皇はその勢力拡大の政策として寺社を利用したらしいのである。それはまた、平城上皇への贖罪であったのかも知れない。その上で嵯峨天皇は、多くの寺社を全国に展開することで天皇の力の象徴としようとしたらしいのである。嵯峨天皇による勝利宣言であったと考えられる。現に平城上皇は、大同元年から二年にかけて全国に観察使を派遣し、地方政治の実状を調査させたと記録にある。そうすると大同年間とは、維新や改革より革命とでも呼ぶべき節目の年代ではなかったのではあるまいか。それらの出来事が大同二年に集中しているのである。 これらのことを踏まえて考えられることには、大同元年十月十二日、田村麻呂が陸奥と出羽国に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、認められたという事柄があった。擬任とは、本人は都にありながら現地に赴任したことにするという制度である。こうなると擬任ではあれ、郡司と軍毅に任ぜられた田村麻呂の残した名声を、地域の安寧を願って庶民が神仏という形で利用したということも考えられる。擬任であるから、本人は来なくても一向に差し支えない、ということになる。つまり征夷大将軍・坂上田村麻呂の身代わりとして各地に寺社が勧請された、と考えるのはどうであろうか。そしてこの二つのことが、田村麻呂による大同二年の建立説の理由の一つなのかも知れない。 それにしても、大同二年および大同年間創建の伝承は明らかに多過ぎる。すると大同年間の伝承を伝えた者、場合によってはそれぞれの地の歴史的事実をも大同二年伝承に組み替えていった集団がいたということになるのではあるまいか。しかし、いくらこれらの集団が寺社の創建や仏閣の開基を大同二年に決めたところで、結局伝承していくのは一般大衆である。もし一般大衆がこれを拒んでいたら、大同二年の伝承は今に伝わることはなかったはずである。それにしても、なぜ大同二年の鉱山や温泉発見の伝承までが田村麻呂と結びつくのであろうか。こうなると田村麻呂の武将としての行動範囲を逸脱していると思えるし、異質にさえ見える。異質さとは、宗教とは対極にある武人であるということにある。 京都八坂の音羽山清水寺建立時においての田村麻呂との関係に、次のようなことが記されている。 宝亀十一(七八〇)年、田村麻呂が、妻の安産のためにと 鹿を求めて上山し、清水の滝に至って延鎮上人に会い、 殺生の非を諭されて観世音菩薩の功徳を語り、深く観 世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観 音を安置した。 延暦十七(七九八)年、田村麻呂は延鎮上人とともに伽藍 を造替え、本尊金色八尺の千手観音像、脇侍に地蔵菩 薩・毘沙門天像を安置した。 清水寺は嵯峨天皇の時代に田村麻呂の願によって『鎮 護国家を祈る道場』として勅許され官寺としての性格 もそなえた。 大同二(八〇七)年、田村麻呂によって伽藍が建立された。 清水寺の発祥の年とされ、創建の年とされる。 大同二年は、田村麻呂が清水寺を創建した年である。このことが、この問題を解く鍵となるのではないだろうか。田村麻呂以降の家系は多くの役職に就いてきたし、その官名は奥羽にのみ留まるものではない。それに多くの氏族を派生しているということは、各地にそれら多くの末裔たちが散って行ったことを窺わせている。そのなかには坂上党と称されていた人々のように、武家の集団として生活していた者たちもあったということである。特に田村麻呂の五男の滋野は奥州を与えられ、やがて関東に勢力を広げる坂上党(安達)の始祖と言われた。 田村麻呂の子孫とされる坂上党の住んでいた所の一つに福島市山田字音坊がある(日本史年表・地図 吉川弘文館)。場所は安達郡に接していて、あづま運動公園と東北高速道に挟まれた山間地にある縄文中期の遺跡のある所である。出土土器に関東地方の影響を強く見られる。ここに田村麻呂関連の神社仏閣がないかと探してみたが見つからなかった。それにしても何故か田村氏の系統が田村ではなく、安達(福島市)に住んでいたのであろうか。 この他にも坂上党を称する者に嵯峨野坂上党(京都)、山本坂上党(兵庫県宝塚)などがあるが、特に山本坂上党は全国の坂上党武家団の頭領で、当時検非遣使であった坂上頼次宿弥がこの地を所領として与えられていた。これら坂上党武家団は平安中期から鎌倉、室町時代を代々の将軍の守護として活躍したが、幕府の衰退に伴ってこの地も侵略を受け、坂上党武家団は解体されてしまったのである。 京都市西京区嵐山宮町にある松尾神社はこの坂上党武家団の神社であり、一六七一年に田村麻呂や大山咋命を武神と崇めて創建されたといわれている。松尾とは田村麻呂の幼名松尾丸から取ったもので、 この神社も別名「松尾丸社」と呼ばれているそうである。 このように繁栄していた田村麻呂の系統が、それぞれの地に先祖・田村麻呂を顕彰して寺社を建立したためこのように広範囲に、しかも多くなったとは考えられないだろうか。 もちろんそれら寺社の実際の建立年は、必ずしも大同年間であったとは限らないことも考えなければなるない。年代が下がってから建立したものなどを、時をさかのぼって大同二年としたことは考えられる。これほど多くの大同二年建立とされる寺社の縁起を成立させるための時間的余裕が十分にあったことから、大同二年建立とは人為的に作られたものであったとも考えられる。つまりこれらの寺社を勧請した田村麻呂の末裔たちにしてみれば、大同二年の清水寺の建立は一族の大いなる誇りであったことから、単純にこの年を『記念の年』としたかったと考えればいいのかも知れない。 今のところ、大同二年についての明確な解答は見つかっていない。 (終)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.02.23
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大 同 二 年 田村麻呂伝説を内容で分けると二つの型がある。一つは田村麻呂のエミシ征討に関わる伝説であり、その二は寺社建立にかかわる伝説である。一についてはすでに詳述したが、対するエミシは記録を持たなかったし偶像を作らなかった。大和側は仏教文化を普及させる中で狩猟を非とし、農耕を是とする精神風土を強化するために田村麻呂を利用したのではあるまいか。室町時代に多く書かれた仏教説話をもとにした草子ものは、観音の慈悲のありがたさを説くことを主眼にしていたが、その例として語られるのは『殺生の戒め』である。これに対するエミシの意識の確証を歴史は残すことをしなかったが、被征服者の歴史は陰に隠されるのは世の常である。 江戸時代に書かれた仙道田村兵軍記という本がある。平姓田村氏の始祖といわれる三春・田村清顕の一代記として書かれたもので、延暦十三(七九四)年の田村麻呂の征夷から始まり、古くからこの地に定着していた橋本氏に結び付けて自らの出自を貴種とする物語である。この仙道田村兵軍記では、田村麻呂は奥州の生まれで、胆沢の高丸、悪路王阿弖流為、母礼らを追いつめたが、紀古佐美を敗北させた高丸は山城国の神楽岡に討ち取ったものの阿弖流為と母礼は深山に逃走したとある。阿弖流為と母礼を殺さなかったこの話は、江戸期、一ノ関に再興された田村氏が三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものであるとも言われている。一ノ関は、胆沢城の南、阿弖流為と母礼の勇敢な戦闘の歴史が残る場所である。 ところで田村麻呂が祀られ、または勧請したとされる寺社は、東北地方だけでも七〇例以上を数え、それは全国に及んでいる。特に観音堂や毘沙門堂が多い。田村麻呂が征夷のため都から東山道を経て奥大道、つまり現在の国道四号線に沿って陸奥へ下っているので、その途中などで戦勝を祈願し、また平定後に寺社を建立したという地域と重なってくる。これらの寺社を東北のみ抽出しても次のような数がある。 (資料七 参照) 三春町 九 田村市 七 小野町 四 郡山市 十一 その他の福島県 十五 宮城県 十二 岩手県 十一 青森県 六 秋田県 三 山形県 二 田村麻呂が観音信仰に厚く、京都の清水寺を建立したことは有名であり、『毘沙門の化身にして来たりて我が国を護る』と伝えられたので、この種の寺社が多いと言われる。また吾妻鏡にある達谷窟伝説には、京都の鞍馬寺を模して達谷西光寺(岩手県平泉町)を建立したとある。田村麻呂が鞍馬寺に征夷戦勝を祈願し、帰還して大刀を献じた関係から模したと言われている。鞍馬寺は天台宗の寺で毘沙門天を本尊としているので、毘沙門の化身と目される田村麻呂とは結び付きやすく、天台宗系、あるいは清水寺系の僧によって寺院建立が東北に広まり、信仰と伝説とが結び付いたのであろう。 そしてこのような形で、田村麻呂は長く記憶されることになったものと思われる。 これらの田村麻呂が祀られた、または勧請したとされる神社仏閣に、なぜか延暦十七(七九八)年、もしくは大同二(八〇七)年とされるものが多い。それも多いと言うよりは、むしろそのどちらかであると断言しても間違いないくらいなのである。建立された年がこれほどまでに統一されているということは、どういうことなのであろうか。しかも田村麻呂の死は弘仁二(八一一)年のことであるから、これらの神社仏閣が造営されたのはまだ存命中のことになる。つまり延暦十七年は田村麻呂の死の十三年、大同二年に至っては四年前に過ぎない。大同という年号は延暦に続く年号で、第五十一代平城天皇の時代の八〇六年から八〇九年の間の四年間しかない短いものである。それなのにこれらの年に、このように多くの神社・仏閣が建立されたということは、どういうことなのであろうか。 大同年間は天変地異の多い年であった。 大同元年に会津磐梯山が大噴火している。会津旧事雑考によるとこの噴火で猪苗代湖が出現したとあるという。しかし湖畔の縄文時代の遺跡から漁網の錘石が発見されていることから、これが伝説であることが分かる。ともかくこの大噴火で耕地は跡形もなくなり、会津地域では住む家や食物を失った人々が道端に屍をさらしたと言われている。またこの年は、那須連峰の茶臼岳の旧火山、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王刈田岳の噴火と噴火が続いていた。仙台地域にも「秋風や大同二年の跡を見ん」という俳句まで残されているが、意味は不明である。たしかにいくつかの火山の噴火があった。これによって東北地方には大きな被害をもたらしたということは想像できるが、関西など全国的にその被害を及ぼしたとは考えられない。田村麻呂勧請の寺社は東北に限らず、全国的に分布しているのである。 大和国に遠くない浜名湖から天竜川(静岡県)沿いにも、田村麻呂を祭神とした田村神社がいくつもあるという。もちろん田村麻呂は北のエミシとは戦っているが、この地方で戦ったという記録はない。しかも田村麻呂が勧請したと言われる寺社以外にも大同二年建立ということに限定すれば、寺社の数はさらに増える。湯の嶽観音(いわき市)、茨城県の雨引千勝神社、早池峰神社、赤城神社、そして各地にある清水寺、長谷寺などの寺院は、ほとんどがこの年の創建となっている。また香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の一割以上が大同二年であり、各地の小さな神社仏閣にいたるまで数えると実に枚挙に暇がないほどである。富士宮市の富士浅間大社も、大鳥居の前に大同元年縁起が記載されている。 私が調べた範囲において、田村麻呂が勧請したとされる寺社の数の多さには驚かされる。東北以外、次の各県にもあるのである。 (資料八参照) 茨城県 二 栃木県 二 群馬県 二 千葉県 一 山梨県 二 新潟県 二 長野県 五 福井県 一 静岡県 二 三重県 一 滋賀県 二 京都府 一 兵庫県 二 香川県 一 この他に各地の神楽の起源も大同二年の作と伝えられているものが多いが、そればかりではない。『秋田風土記』にある阿仁銀山(北秋田市)の他にも、半田銀山(福島県国見町)、高根金山(新潟県旭村)をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同二年に語り継がれるものが少なくない。兵庫県朝来市の生野銀山の正式記録は『天文十一(一五四二)年』となっているが、伝承では大同二年である。おまけに八溝山(棚倉町)や森吉山(秋田県森吉町)などの鬼退治までが大同二年であり、加えて、湯本温泉(いわき市)や肘折温泉(山形県)、花巻の志戸平温泉、秋田県男鹿温泉なども大同二年あるいは大同年間に温泉が開かれたという記述があるように、温泉にまつわる大同二年もまた多い。こうなると磐梯山の噴火だけに理由を帰するという訳にもいかなくなる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.02.11
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延暦十四年、大伴弟麻呂は凱旋して戦勝を報告、節刀を返還した。田村麻呂はエミシ討伐の功績で従四位下に特進。木工頭(こだくみのかみ)に任じられた。 延暦十五年一月、田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任じられ、鎮守将軍も兼務した。 延暦十六年、田村麻呂は征夷大将軍に任命され,胆沢から斯波(岩手県紫波郡)の間を平定、以後,胆沢城がエミシ地経営の根拠地となった。この年、安積郡の人で外少初位上の丸子部古佐見、大田部山前が、大伴安積臣という姓を賜った。 延暦十七年、田村麻呂は従四位上に進む。 延暦十八年五月、田村麻呂は近衛権中将になった。 延暦十九年、エミシが常陸や駿河の清見関(静岡県静岡市清水区)に侵入と伝えられるが、多賀城や勿来、白河関が破られたという記録はない。このことから、エミシの舟軍による小規模な侵攻でもあったかと言われている。 延暦二十年、これに対して、田村麻呂は軍勢四万を率いて第三回エミシ征伐軍を指揮し、エミシ軍に壊滅的打撃を与えた。九月二十七日、帰京した田村麻呂はエミシの討伏を報告し、節刀を返還した。従三位に進み、近衛中将になった。 延暦二十一(八〇二)年一月、田村麻呂は陸奥國胆沢城使に任じられ、方八町といわれる胆沢城の造営を開始、多賀城にあったエミシ経営の鎮守府をここに移した。 四月、エミシの首領大墓公阿弖利為(たものきみあてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)は、五〇〇余人を引き連れて降伏してきた。 七月十日、二人は田村麻呂に従って京に入った。田村麻呂の命乞いにもかかわらず公卿たちは二人のエミシの捕虜を「野性獣心、反覆定まりなし」といって反対。八月十三日、阿弖流為らは河内国杜山において斬首の刑に処せられた。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の三通りの記述があるが、どの地名も河内国内には存在しない。ただし、「植山」については、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであることから、有力な比定地とされている。 阿弖流為は、斬首、さらし首にされたが、奥州に残ってい た妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏み つけさせた。つまり根(死)の国へ追いやる為の土をかぶせ、 「ラッセラー、ラッセラー」という掛け声とともに踏んづけ る恰好をする踊りで、これが今の東北三大奇祭の倭武多(ね ぶた)になったという。田村麻呂の山車が賑々しく彩りを添 える。 (青森県史) 延暦二十二年、田村麻呂は造斯波城使に任じられた。しかし斯波城はたびたび水害にあったため、後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。 七月十五日、田村麻呂は刑部卿になった。 延暦二十三年、第四次の征夷作戦が計画され田村麻呂は再び征夷大将軍に任命された。このとき田村麻呂は、征夷大将軍・従三位行近衛中将兼造西寺長官・陸奥出羽按察使陸奥守勲二等となり、造西寺長官を兼ねた。 八月七日、和泉国と摂津国に行宮地を定めるため、三島名継とともに遣わされた。 延暦二十四年、田村麻呂は参議に任じられた。 十月十九日、清水寺の地を賜った。 十一月二十三日、田村麻呂は坂本親王の加冠に列席し衣を賜った。 十二月、『天下の徳政』論議がおこなわれ、藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担になっていると論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため第四次の征夷作戦が中止された。 延暦二十五・大同元(八〇六)年田村麻呂は中納言・中衛大将に任じられた。 十月十二日、田村麻呂は陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、これが認められた。 大同二年、田村麻呂は中衛府改め右近衛府となり、さらにその上級職である右近衛大将になり、侍従を兼ねた。 十一月、兵部郷に任じられた。 大同四年、田村麻呂は正三位に叙せられた。 この年、平城上皇と嵯峨天皇が対立したが、田村麻呂は平城上皇の側につき、遷都のための造宮使に任じられた。しかしその後に起こった薬子の変では、田村麻呂は嵯峨天皇の側についた。 大同五・弘仁元(八一〇)年九月、田村麻呂は大納言に任じられた。田村麻呂の子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は平城上皇を邀撃(ようげき)する任を与えられた。上皇は東国に出て兵を募る予定だったが大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。 当時の奥羽は大和朝廷の支配地域とは異なる文化と制度を持つ独立国でエミシ征伐も奥羽から見れば祖国防衛戦争に他ならなかった。戦争で捕虜となった日高見国住民は俘虜、俘囚と呼ばれて売買されたり、村単位で国々に労働力として送られたり、柵と呼ばれる前線基地周辺で開墾や労働を強制されるシステムになっていた。ともかくこの大軍を相手に一歩も引かず、二十年という長期間を戦う力を有していたことは、北の王朝と言ってよかろう。 弘仁二(八一一)年、宝亀五年から三十八年続いたエミシ征服戦争が終わった。 五月二十三日、田村麻呂は五十四歳で死去した。 田村麻呂の妻は三善清継の娘高子。子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は坂上氏系図にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっているが、後世になって付け加えられた可能性がある。 (資料六) 田村麻呂の人物像であるが、伝記には、『大将軍は身長一・八メートル、胸の厚さ、三十六センチ。前から見るとのけぞっているかのように見え、後ろから見るとうつむいているかのように見える。目は澄んで鋭く、黄金色の顎髭が豊かであった』と具体的に、また薨伝には『赤面、黄髭』と簡単に記されている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.01.21
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田 村 麻 呂 ~ そ の 実 像 では田村麻呂とはどのような人物であったのであろうか。年表などからその実像を探ってみる。 天平宝字二(七五八)年 田村麻呂は、苅田麻呂の次男(坂上氏系図)または三男(田邑麻呂伝記)として生まれた。万葉集巻四に、田村大嬢が異母妹の坂上大嬢に贈った和歌の左注に、田村大嬢の名は父・大伴宿奈麻呂の居住地『田村の里(奈良市法華寺町)』、坂上大嬢は母の居所『坂上里』からそれぞれ付けられたとある。続日本後記によると田村里と坂上里は近くであるということなどから、田村麻呂は田村里で生まれたと考えられている。 天平宝字四(七六〇)年、エミシ制圧の最前線の雄勝城(秋田県横手市か?)と桃生城(宮城県石巻市)が完成した。いずれも、多賀城より北に位置する。多賀城は神亀元(七二四年)に創建されているが。陸奥国府が 郡山遺跡(現在の仙台市太白区)より北進移転したもので、文献上の出現は『 日本後紀 』の 承和六(八三九年)の記事である。 天平宝字六(七六二)年、多賀城が修造され、神護景雲元(七六七)年には伊治(これはり)城(宮城県栗原郡築館町)が完成した。伊治城は、桃生城より、さらに北になる。 神護景雲三年、安積郡の人で、外従七位下の丈部直継足(はせつかべのあたいつぐたり)が阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)の姓を賜った、この安積臣というのは官名であろう。これはすでに二年前、前進基地としての伊治城があることから、この安積の地からも戦士もしくは人夫、兵糧や経済的支援をさせられたことに対しての恩賞であったのではあるまいか。 宝亀元(七七〇)年、道鏡追放にも功があった苅田麻呂は正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍となって多賀城に赴任した。このときに十二歳と推定される田村麻呂も同道したかどうかは不明である。 宝亀三年、陸奥国安積郡の人、丈部継守(はせつかべのつぐもり)ら十三人が「阿倍安積臣」の氏姓を賜った。 宝亀五年、エミシの反乱が相次ぎ、大伴駿河麻呂が陸奥鎮守将軍兼陸奥按察使・陸奥守に任じられて派遣されている。苅田麻呂は都に戻されたのであろうか。 宝亀六年、白河、安積、行方に軍団が置かれた。おそらくこれは、対エミシ戦に備えたものであろう。 宝亀十一(七八〇)年、陸奥国上治郡(伊治郡=これはるぐん・宮城県栗原郡)の大領でエミシの指導者・外従五位下の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が反乱を起こし、多賀城を焼き払った。以後、大和とエミシとの間に全面戦争の様相を呈することになる。この年、二十三歳となった田村麻呂は、近衛府の将監に任官した。 延暦三(七八四)年、万葉歌人大伴家持が持節征東将軍に任じられたがなすすべもなく撤退した。 延暦四年、田村麻呂は正六位上から従五位下に進んだ。 延暦六年、田村麻呂は内匠助を兼ね、近衛少将となった。 延暦七年、陸奥按察使兼鎮守将軍陸奥守・多治比宇美、副将軍・阿倍猿嶋臣墨縄により東海・東山・坂東諸国の兵士五万二千八百余人を徴発して第一回エミシ征伐がはじまった。諸国からの派遣軍が本格的な征討軍を進めたが胆沢での戦いは大敗に終わった。 同年六月二十六日、田村麻呂は越後介を兼ねた。七月六日、征東大使となった紀古佐美が十二月七日には征東大将軍となった。 延暦八年、征東大将軍・紀古佐美の軍が阿弖流為の率いるエミシ軍と巣伏村(場所不詳)で戦ったが大敗した。戦死者二十五人、溺死者千余人。またこの戦いで紀古佐美の配下として戦死した者の中に進士・安宿(安積)戸吉足(あすかべのよしたり)がいた。『別将丈部善理、進士高田道成、会津壮麻呂、 安宿戸吉足 、大伴五百継ら並びに戦死す』とあることから、安宿戸吉足、阿倍安積臣は大和朝廷軍の兵士として戦ったのであろう。彼らが兵士として参加した、または参加させられたということは、安積や会津が完全に大和朝廷の傘下に入っていたと考えられる。この阿弖流為が悪路王・大武丸と同一人であるという説もある。 延暦九年、田村麻呂は越後守を兼ねた。 延暦十年、約十万人の第二回エミシ征伐軍が派遣された。征夷大使に大伴弟麻呂、副使が百済俊哲、多治比浜成、従五位下坂上田村麻呂、巨勢野足の四人であった。田村麻呂三十三歳のときである。 この年、安積の大領で外少八位上・阿倍安積臣継守が軍粮米を提供したことで、外従五位下の位を与えられた。虎丸長者や花輪長者の話は、その要請に応えようとしなかった人物の末路が、伝説となったものとも考えられる。郡山に伝わる虎丸長者伝説によると『長者は大きな屋敷と米蔵があったが、八幡太郎に火の矢で攻められて亡びてしまった』とある。これなどは、このことを示唆しているように思われる。 延暦十二(七九三)年、征東使が征夷使に改められた。田村麻呂は征夷副使近衛少将に任じられ、再び四人の副使の一人となった。二月十七日、田村麻呂は近衛少将となった。 延暦十三年、征夷使が征夷大将軍に改められ、初代征夷大将軍の大伴弟麻呂が節刀を賜った。しかし戦いの場において、副将軍である田村麻呂が事実上の指揮をとり、エミシを制した。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.01.11
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(下の巻 三段目) 将軍は鈴鹿山に帰還した。三年後、帝から高丸より強い奥 州達谷が岩屋の大嶽丸退治の宣旨を賜った。 ここで言われる『田村将軍の軍も全滅』という表現は、延暦八(七八九)年、紀古佐美の軍が阿弖流為の率いるエミシ軍と巣伏村(不詳)で戦ったが大敗したことの脚色かも知れない。 (下の巻 四段目) 将軍と立烏帽子に攻められた大嶽丸は、遠田郡篦嶽の麒麟 が岩屋に逃れた。そこで大激戦となったが、これを滅ぼした。 大嶽丸の首は鬼首(宮城県)にまで飛んでいった。 (下の巻 五段目) 帝は都に帰った利仁に、「大義であった。しかし重ねて災い をなくすため鬼神の骸を封じ込めよ」と命じられ、再び奥州 に下った。 利仁は霧山禅定に入り白山大権現を建立、達谷窟には百八 体の毘沙門天を納めて鈴鹿山西光寺と額を打った。遠田郡篦 嶽麒麟の岩屋(山ノ寺・宮城県)には大嶽丸の首を塚に突き 籠めて千手観音を祀り、無夷山篦峰寺(むいさんこんぽうじ) とした。さらに宮城郡松島町手樽の富山にある大仰寺には大 嶽の胴を、石巻の東にある巨嶺牧山には大嶽の四本の足を、 大嶽山興福寺には大嶽の四本の手足を土で突き籠め、その上 に観音堂を建立した。その後小松の前が田村と結ばれ立烏帽 子が死亡、正林姫は九十三歳で大往生したが稗貫(岩手県岩 手郡)の小林寺(松林寺)の地蔵菩薩となって世の人を助け た。 その後も田村の御家は益々繁盛、千秋万歳めでたしめでた し。 弘仁二(八一一)年、田村麻呂は五十四歳で死去し、五月二十七日、山城国宇治郡栗栖村に陸田・山林三町を賜わり、葬儀が行われた。田村麻呂は怪力の持主、眞の勇者として後世の武士からも尊崇された。嵯峨天皇の勅によって彼の甲冑・兵杖・剣・鉾・弓箭、それに糒(ほしいい)・塩を中に入れ、平安京にむかって立ったまま葬られた。その後、国家に非常事が起こると、田村麻呂の墳墓は鼓を打つごとく、或いは、雷電が鳴るごとく響いた。これを「將軍塚鳴動」という。それ以来、将軍に任命され兇徒に向かう者は、先ずこの墓を詣で誓願することが習いになった。これが世にいう『将軍塚』である。京都市東山区の泉湧寺(せんにゅうじ)本坊の東北にある山中の岩が、それであると長い間伝えられて来た。 二〇〇七年六月五日の読売新聞に、『坂上田村麻呂の墓は京都・西野山古墓か、文献と位置が一致』の記事が掲載された。 平安時代初期に奥州のエミシを平定した征夷大将軍坂上田 村麻呂(七五八~八一一)の墓が、被葬者不明だった西野山 古墓(京都市山科区)である可能性の高いことが、京都大大 学院文学研究科の吉川真司准教授の研究でわかった。 西野山古墓からは金の装飾が施された大刀など豪華な副葬 品が出土しており、これらは六日から京大総合博物館(同市 左京区)で開かれる「京大の至宝」展で初公開される。 吉川准教授は田村麻呂が創建したとされる清水寺(同市東 山区)に残る文献「清水寺縁起」を調査。田村麻呂の墓地と して記述されている地点を「条里図」(当時の地図)と照合し たところ、八世紀後半から九世紀前半の築造とみられる西野 山古墓の場所と一致することが確認されたという。 吉川准教授は「副葬品からも当時の一級の武人にふさわし い墓。墓の近くに、平安京から奥州に向かうルートがあり、 都を守る願いが込められていたのだろう」としている。 上田正昭・京都大名誉教授(日本古代史)は「副葬品から 可能性は高く、注目すべき説」としている。 遺物は一九五三年に「山科西野山古墳出土品」として国宝 に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)が所 蔵している。 田村麻呂について奥浄瑠璃の『田村三代記』を軸にして見えてくることは、奥浄瑠璃にはストーリーがあり、実在の田村麻呂には歴史があるということである。しかし伝説には、とりとめのなさのみが目につくのであるが、このとりとめのない伝説が、何故田村地域に色濃く残されたのであろうか? 『田村三代記』に出てくる地名など以外にも、それを想像させるいくつかのものが、この地域に残されている。 田村麻呂は、エミシにとって征服者であったはずである。すると被征服者たるエミシの人たちは田村麻呂をどう思ってきたのであろうか。このエミシの地域で田村麻呂を偉人とする伝説が広がっているということは、田村麻呂を憎しみ怨みもせず、むしろ称え思慕していたと言わざるを得ないのではあるまいか。 その理由を田村麻呂の人柄に求め、武力一辺倒ではなく、エミシに産業・宗教などの面で教化し、恩恵を与えたからであるとする考えもある。当時の大和朝廷は、この島国での相克を乗り越える力を仏教に求めていた。田村麻呂は仏典を左手にし、右手に剣を持った最初の征夷大将軍であったのである。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.12.21
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(下の巻 初段目) 仁明天皇の御代の大同二年八月下旬、都に不思議なことが 起こった。玉のような光り物が昼夜となく飛び渡り、人が死 んだり、馬に積んだ荷物や腰につけた金銀など雪が消えるよ うに失せてしまった。帝は、陰陽師で名高い阿部安方に占い を申し付けた。 陰陽師の阿部安方は「天竺の第六天魔王の娘・立烏帽子が 伊勢の国鈴鹿山へ天下っての災い」と占った。驚いた帝は、 田村将軍に立烏帽子討伐を命じた。鈴鹿に入った田村将軍は、 立烏帽子と互角の戦いをしたが、立烏帽子は後に田村将軍に 従った。 (渡辺本 三段目には) 山寺号は清水山清水寺、大同二年の建立。 ここに出てくる第六天魔王とは、古代インドのヒンズー教の神で、仏教の中に組み込まれて変身したもので、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)以前に日本を領していた神とする伝承も残されている。 延暦七年六月二十六日、田村麻呂は越後介を兼ねた。七月六日、征東大使となった紀古佐美が十二月七日には征東大将軍となった。 延暦八(七八九)年、征東将軍・紀古佐美の率いる二万五千余が衣川から巣伏村(場所不詳)でエミシ軍に挟まれて大敗を喫した。そのときのエミシ軍の長が、阿弖流為(あてるい)であったという。この阿弖流為が悪路王・大武丸と同一人であるという説もある。この悪路王とか大武丸の名は田村地域ばかりではなく、各地に残っていることも、注意したい点である。これは大和側から見た戦いの歴史の中で敵の名を悪路王と一元化し、エミシの側から見るときにはその頭目の名を大武丸と一元化したのかもしれない。なお現在の奥州市水沢区姉体から北数キロメートルの所の佐倉河に跡呂井と言う行政区がある。以前は安土呂井と書かれていた、阿弖流為の名残である事は間違いないと言われる。 延暦十一(七九二)年、田村麻呂は大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、三月十四日、従五位上に進んだ。 阿弖流為は征東大使 大伴弟麻呂、副使 坂上田村麻呂に率いられた十万余と戦ってこれを撃破した。 延暦十三年、征夷使が征夷大将軍に改められ、初代征夷大将軍の大伴弟麻呂が節刀を賜った。しかし戦いの場において、副将軍である田村麻呂が事実上の指揮をとり、エミシを制した。 延暦十四年、大伴弟麻呂は凱旋して戦勝を報告、節刀を返還した。田村麻呂はエミシ討伐の功績で従四位下に特進。木工頭(こだくのかみ)に任じられた。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂がエミシとの戦いで名を馳せるのは、延暦十六(七九七)年、胆沢エミシ(岩手県奥州市)の首長の大墓公「たものきみ」(大萬公「おおまのきみ」)阿弖流為征討からである。史書はエミシの動向をごく簡略にしか記していないので、阿弖流為がいかなる人物か詳らかではない。田村麻呂は胆沢から斯波(同県紫波町)間を平定、以後,胆沢城がエミシ地経営の根拠地となる。この年以降、田村麻呂は征夷大将軍として数々の武勲を立てた。 延暦十七(七九八)年、田村麻呂は従四位上に進んだ。七月二日、京都の清水寺の伽藍を造り替えた。 延暦二十(八〇一)年に田村麻呂の採った『懐柔工作』によって阿弖流為の組織自体が脆弱化し、対抗する力を失った。翌年、五〇〇余人と共に征東軍に降服する。田村麻呂が生命の保証をしたため、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上った。 征夷の本来の意味は夷(未開の民)を征するということである。この征夷大将軍という名称が確定する以前、次のように変化していた。 和銅二(七〇九)年 征蝦夷将軍 養老四(七二〇)年 持節征夷将軍 養老五(七二一)年 征夷将軍 神亀元(七二四)年 征夷持節大使 陸奥鎮東将軍 宝亀十一(七八〇)年 征東大使 持節征夷大使 延暦三(七八四)年 持節征東将軍 延暦七(七八八)年 征東大将軍 延暦十(七九一)年 征夷大使・大伴弟麻呂。 征夷副使・田村麻呂、 百済王俊哲、多治比浜成、 巨勢野足。 延暦十一(七九二)年 征東大使・大伴弟麻呂。 征東副使・田村麻呂。 延暦十二(七九三)年 「征東使を征夷使となす」 征夷大使・大伴弟麻呂。 征夷副使・田村麻呂。 延暦十三(七九四)年 征夷大将軍・大伴弟麻呂。 征夷副将軍・田村麻呂、事実上の 征夷大将軍として胆沢に赴任。 延暦十六(七九七)年 征夷大将軍・田村麻呂。 (下の巻 二段目) それから六年六ヶ月後、その間に生まれた正林姫も、三歳 になった。田村将軍と立烏帽子が帝に会った。立烏帽子は帝 に「来月のはじめに近江国の鬼神・明石の高丸が万民を苦し めます。そのときは、田村将軍一人では叶わないので、私が お供して討ちましょう」と予言してかき消えた。その後予言 通りに高丸追討の命令がでた。 田村将軍は高丸を主従八騎にまで追い詰められたが、田村 将軍の軍も全滅した。そこへ現れた立烏帽子と田村将軍は高 丸を常陸の鹿島にまで追った。逃げ場を失った高丸は唐と日 本の汐境の築羅ヶ沖へ逃げ出した。これを追った二人はつい に高丸を討ち滅ぼした。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.12.11
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(上の巻 五段目) 将軍が都に帰ったと聞いた悪玉は嘆き悲しんだがすでに妊 娠していた。驚いた九文屋は産屋を萱野に建て、「生まれたら 子は萱野に捨て、すぐに奉公せよ」と言い付けた。一人で子 を産んだ悪玉が赤子を抱いて産屋を出たとき、雲の中から「悪 玉、養育せよ。必ず目出度きことがあるぞ」との神の声があ った。そのことを聞いた九文屋は驚き、今までの怒りはどこ へやら千熊丸と名付け、養子とした。千熊丸が七歳になった の弟子となった千熊丸は一字を聞いて十字を悟る聡明さ、兵 法・諸道に勝れ、仏道にも明るく山一番の学者になった。 弘仁二(八一一)年八月十五日、やはた八幡宮の御祭礼で 流鏑馬が行われた。射手の頭の弓太郎となった千熊丸が白い 弓に白い矢を添え的に向かったとき、播磨の阿闇利に「千熊 は悪玉の子。弓太郎を勤めさせる訳にはまいらぬ」と言われ、 拒否された。 千熊丸は九文屋の母の元へ走った。その話を聞いた悪玉が、 「先祖は畏れ多くも、熊野大権現が天竺マカダ国から我朝に 渡らせ給うたときに御供を仕った小組中将重家の後胤です。 父・判官重孝が丹後国相野観音に詣でた折に盗賊どもに一族 皆殺しにされ、父もお腹を召される憂き目、私も人買い商人 の手にかかり、ここかしこと売られ、容姿の能いままに遊女 にせん妻にせんと言い寄られ、肌に守りの観世音にお祈り申 しあげると醜い女となり、九文屋に買い取られて奉公。十八 歳の春、若菜引きに出ましたところ、御狩をなされた将軍様 の目にとまり、云々」とくどいた。 (渡辺本 三段目には) 近き山の鶴ケ岡。佐川の寺。父は利満将軍この母は万寿御 前(源氏中納言と二条殿の姫)、七歳のとき魔えんに誘われ、 北国に捨てられ、人商人に奥州に売り渡され九文屋の水仕と なり‥‥。 天平宝字二(七五八)年、田村麻呂誕生。田村麻呂は苅田麻呂が京都嵯峨野の松尾大社の大神に祈願し授かった次男(坂上氏系図)、または三男(田村麻呂伝記)であるとされる。誕生の地は明確ではないが、次の文書(岩手県の歴史)から推測はできる。 『万葉集』巻四にある田村大嬢(たむらのおおいらつめ)が妹の坂上大嬢に贈った四首の和歌の左注に、田村大嬢の名は父の居地「田村里」、坂上大嬢は母の住む「坂上里」から、それぞれつけられたとある。 山ノ寺は、仙台市泉区山の寺二丁目にある龍門山洞雲寺(通称山の寺)とされ、ここに伝わる伝説によると、千熊丸は大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)で学問をしたとされる。 (宮城県の歴史) (上の巻 六段目) 悪玉のくどきを物陰で聞いた千熊丸は悪玉から父の形見の 鏑矢を貰い、塩竃大明神に参拝して京に出発する。その旅程 は立石、伏石、汐干、野田の玉川、つつじが岡、笠嶋、三河 の八ツ橋、尾張国熱田明神を参拝、美濃、近江の八景を見て 京に入った。 (上の巻 七段目) 都に着いた千熊丸は、二条屋形に出向いた。屋形では蹴鞠 の最中であった。将軍の蹴った鞠が掘りを越え、千熊丸の前 に落ちた。千熊丸が蹴り返すと、鞠は見事、将軍の前に落ち た。不思議に思った将軍は、「表を見て参れ」と盛住に命じた。 感心した将軍に早速召し抱えられるが、親子の名乗りをする 機会がなかなかなかった。 (上の巻 八段目) 「父は悪星より出生された二条中納言利春、母は越前繁井 が池に住居をなす龍佐王、その胎内に三年三月宿り出生した 我は二代目」と話しはじめた将軍に、千熊丸も初名乗りをあ げた。その後千熊丸は、母を迎えに陸奥に下向した。喜ばれ た帝は、田村将軍利仁の名を与えられた。将軍は九文屋と山 ノ寺に、お礼として土地を与えた。 (渡辺本 三段目には) 三春九文屋夫婦に田村六十六ヶ村を被下さる。 (遠藤本 七段目には) 塩竈邊田村の里を被下さる。 なお藤原利仁 (ふじわらのとしひと・生没年不詳)は、 平安時代中期の武将。藤原北家 藤原魚名の子孫、祖父 藤原高房は美濃介、備後守、肥後守、越前守などを歴任しているが、盗賊取締りで名を上げている。田村将軍利仁は藤原利仁をモデルとした架空の人である。 また三春九文屋夫婦に田村六十六ヶ村を被下さるとあるが、戦国時代の田村氏は、田村領を六十六ヶ村と号していた。 ここから『下の巻』に入るのであるが、各地に伝わる伝説は共に、『下の巻』が主であるように感じられる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.11.21
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(田村三代記 上の巻 初段目、以後田村三代記を略) 星砕(ほしくだき) 嵯峨天皇の御代であった。都に大異変がおこった。王城の 北西の空に三尺(一メートル)もあろうという巨星が突如 出現し、昼夜ともなく煌々と輝き、それが砕け散った。そ のうちの一つが丹波と播磨の国境に落ち、そこに剣と鏑矢 を持った童子が座っていた。それを抱き上げた丹波の管領 は都に行き、帝に奏上した。やがて星丸と名付けられた童 子は立派に成長し、帝に田村利春の名を頂いた。 この書き出しは、昔話に言う「むかしむかしあるところに」という常套手段と同様に考えてもよいのではあるまいか。しかしこのような書き出しにしたことは、田村麻呂の出自が関係すると思われる、 田村麻呂の先祖は、後漢の最後の皇帝・献帝の子といわれる石秋王の子の阿知使主(あちおみ)で、応神天皇の時代に中国大陸から日本に帰化したと伝えられるがこれも伝説の域を出ない。その後坂上氏は大和高市(奈良県高取町)を本拠とし、いくつかの系統に分かれたが、後、大陸からの文化、新知識をもって渡来する人々の監督的な立場となりこれらをまとめることによりある程度の勢力に発展していったといわれている。ここに出てきた星丸、つまり田村利春は、田村麻呂の祖父の坂上犬養をモデルにしたものと思われる。犬養は聖武天皇にその武才を認められたことから、武人としての坂上氏が台頭してくる。天平宝字三(七五九)年、犬養は東大寺領政策を主導した造東大寺司の長官に任じられた。 田村麻呂が献帝の後裔とされることについては、倭が百済の要請により派兵しながら敗れ、百済から多くの難民が渡って来たことと関係があるのかも知れない。しかも田村麻呂の娘の春子は桓武天皇の妃となり、葛井親王を産んでいることなどを考えれば、このような立派な家系からの出自をこのように星が砕けるという形にしたことが、なんとなく理解できるような気がする。つまり『やんごとなきお方』の誕生であったのである。もっともこの田村地域には、これに該当するような伝説は、残されていない。しかし奈良市東南の虚空蔵寺にある大和志料の延喜十九(九一九)年の文書には、『大同二年頃に明星が零落した地に弘法大師が伽藍を建立し』とあるという。また神亀五(728)年十月、流星が断散して一部が宮中にも落ちた事件があったから、それに関連してこのような書き出しになったのかも知れない。 (上の巻 二段目) ところがあるとき、帝の逆鱗に触れた利春は、越前国の三国が 浦に流された。配流先で枕を交わした美しい下女が懐妊、見て はいけないと言われた繁井が池の産屋を覗いたところ女性は大 蛇であった。大蛇は子供を残して消えたが、その子は大蛇丸と 名付けられた。 (遠藤本 二段目には) 越前国の三国が浦、しけいが池、大蛇丸 (鈴木本 甲初段目には) 越前国の三国が浦、繁井が池の産屋に近づくと振動雷電、池の 逆巻く中、産屋を覗く。 天平勝宝九(七五七)年に反藤原仲麻呂のクーデター計画(橘奈良麻呂の変)が実行されようとした時に、クーデター派は、仲麻呂派の数名の要人・武人を飲酒に誘い、決起に邪魔が入らないようにしたが、それに誘われたなかに苅田麻呂が含まれていた。このときの苅田麻呂の行動が帝の逆鱗、という表現になったとも考えられる。また、ここに出てくる越前国の三国が浦と推定できる場所に、福井県坂井市三国町がある。 (上の巻 三段目) しばらく後、都に毒蛇が出て人々を取って食うので帝は大蛇丸 に退治するよう命じ、名を利光とされた。毒蛇を退治した後奥 羽が乱れたので、帝は十八歳の利光に鎮守府将軍を与えた。出 立した利光が白河の関に着いたとき、多くの大名たちが迎えに 来て鷹巣城に入りこれを鎮圧した。 (渡辺本 初段目には) 駿河国乱の淵、十三頭の大蛇、三頭の大蛇・翁となり降参。 (渡辺本 二段目には) 三千余騎、三春田村城に入る、鬼神の住家なし。 宝亀元(七七〇)年、道鏡追放にも功があった苅田麻呂は正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍に任じられて多賀城に赴任した。そして宮中武官としてエミシ征伐に二回参加し、功により正二位中納言没後正一位大納言を贈られた。 この苅田麻呂については、大熊に乗って阿武隈川を渡り、屯田(みやけだ・郡山市田村町御代田)に行ったという伝承がある。この御代田には舘、外城、雀宮(鎮の宮)など、城館に関連する地名が残されている。なお田村町御代田の阿武隈川畔に、字御熊野という地名がある。 また国見山という山は郡山市中田町上石にあるが、ここでは田村麻呂の父の苅田麻呂が征伐に来た話になっているので、宮城県刈田郡に近い伊達郡国見町の阿津賀志山(国見山)を指しているのかも知れない なお文政五(一八二二)年、新井白石の『五十四郡考』の補遺を記した白川(ママ)藩の広瀬曲の現地調査によれば、『田村郡中 三代田村(御代田)数畝之地 土俗伝称 田村麻呂降誕之所 於 今除 租税若干』(田村郡のうち三代田村の数畝の土地を、田村麻呂の誕生の地のゆえに税が免除されている)と伝えている。 (上の巻 四段目) 奥羽を鎮めた利光は七ッ森で御狩の触れを回すと、宮城、国府、 名取、柴田、刈田、伊達、信夫、白河の諸大名が集まり、その 後大酒宴が開かれた。そのとき九文屋長官の下女の悪玉を見そ めた利光は、酒宴が終わると、この度の礼として錦巻物を取り 揃え、美濃上品五十疋と黄金百両を悪玉に下された。すると悪 玉は感謝しつつも 「綾錦はいりません。貴方様の形見を下さいませ」 と願った。 将軍は二本の鏑矢のうち乙矢(矢に取り付けた羽根の向きによ り分けられる矢の種類の一つ。筈から見て羽軸の部分が羽の右 側にある矢。通常甲矢・ 乙矢 を一組(一手)として用い、甲 矢を先に射る)を分けて下さると、嬉しげに頂戴して名残惜し そうに御前を立って九文屋さして帰っていった。二十一歳になったとき、利光は上洛した。そして上洛すると、 日の本将軍に任ぜられた。 なお応永元(一三九四)年、十三湊の三春秋田氏の祖と言われる安東氏は、『日之本将軍』に任ぜられている。 (遠藤本 四段目には) 七ッ森、三千五百余騎。勢子四万八千。九文屋水仕の悪玉、若 菜引。 (鈴木本 甲三段目には) 七ッ森、諸大名武士・勢子五千余騎。 (鈴木本 甲四段目には) 九門屋水仕の悪玉、水菜引。 (渡辺本 二段目には) 三春九門屋水仕握玉、美目能きが・・・。 ここにでてきた七ッ森という地名であるが、宮城県黒川郡大和町に、笹倉山、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山と標高二〇〇~五〇〇メートル級の小さな山が七つ並んで美しい景観を見せている所がある。また大滝根山の麓に広がるなだらかな一帯で、滝根、大越を中心に小野、船引、三春にまで広がっていた所を七里ヶ沢と称していた。この七里ヶ沢と推定される地域の中の田村市船引町屋形、朴沢、堀越集落(旧・七郷村・七ッ森と関連する地名か?)に、お人形様という風習が残されている。身長約四メートル、刀を差し、なぎなたを持って両手を広げ、悪者の侵入を防ぐ魔除けの神である。現在はこの三ヶ所にしか見られないが、昔はもっと広い範囲で行われていたという。その身体の大きさなどから推定して、ちゃちなコソ泥に対応したものとも思えない。大悪党の大武丸に対抗した風習であったのかも知れない。 田村麻呂の母の出身地と伝えられる所として郡山市田村町田母神がある。また田を守護する神から来た地名であるということから、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するとも説明されている。ここを七ッ森のモデルとしたものであろうか。 ところで後に続く話から類推するに、阿口陀媛とは一夜だけの契りであったことを表しているように思える。なおここに出てくる悪玉(田村三代記)、阿口陀媛(田村地域)、飽玉(岩手県紫波町)、阿久多摩(秋田県仙北郡荒川村面日)阿久玉姫などの名は、苅田麻呂の妃・阿久和姫の名をもじった名とも推測できる。これは田村三代記において、『田村麻呂』が『田村丸』とされたのと、同義であろう。また九文屋の所在地であるが、渡辺本の二段目には、『三春九文屋の水仕(下女)・悪玉、根芹、美目能き女』とある。しかしこれに関する伝承は田村地域にはない。ただし『三春・州伝寺の本尊は丈六の阿弥陀如来座像で、阿口陀媛による信仰が篤かった』という伝承があり、これを示唆するものなのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.11.11
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「東北の田村語り」考 『田村三代記』というお伽話がある。 田村三代記は、約四〇〇にも及ぶ数多くの『お伽草子』の一つで、『お伽草子』とは、いわゆるお伽話の総称である。有名なものに『竹取物語』『一寸法師』『酒呑童子』などがある。この中に、田村麻呂をモデルとした『鈴鹿の草子』や『田村の草子』という作品があった。『田村の草子』の生成には東北地方の歴史や伝承が色濃く反映しているが、この『田村の草子』や『鈴鹿の草子』を下敷きにして作られたのが『田村三代記』である。 『田村三代記』は田村麻呂没後約三六〇年後の平安時代末期(一一七〇年頃)に発生し、鎌倉時代(一一八五~一三三三年)になって壮大な語り物に成長し、南北朝時代(一三九二~一三三六年)になって結実したものであるが、これは『鈴鹿の草子』から『田村の草子』に発展し、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』となり、やがて世阿弥により京都の清水寺の縁起として作能されたものである。しかし田村三代記は田村麻呂個人ではなく祖父からの三代にわたる話である。しかもその主人公たる人物たちは、田村麻呂を含めて実在架空の人物が入り乱れ、その上妖怪が出てくるなど『お伽話』の名に恥じない筋立てになっている。 これら田村麻呂に関係したとされる作品の最初は、まず胆沢地域で戦われた田村麻呂の史実が語り継がれ、それが江戸時代から昭和の初めにかけて盲法師(ぼさま)とかジョウルリさんと呼ばれた盲目の琵琶法師たちの門付けなどによって東北地方一帯で語られ、広げられてきたものと考えられている。いつしかそれが道の奥・奥州で語られはじめたからか奥浄瑠璃と言われるようになり、仙台を中心とした浄瑠璃、仙台浄瑠璃に発展していった。彼らは『芸を売る者』の常として、聴衆の興味に訴えるためにそれぞれの土地の訛りをもった言葉で、そしてその土地土地の地名を使って弾き語った。仙台浄瑠璃はアドリブを含めた『生きた語り』であったため、正本というものは存在しなかった。だから結果として『あがり』を高めるためにもそうしたのであろうと考えられる。それを聞いた人々はその話がその場所場所での実話と思いこみ、周囲の人に話すことによりさらに普及して行ったのであろう。田村地域もまたそういう状況にあったと思われる。 このように田村麻呂伝説の流布には、仙台浄瑠璃の力が大きく寄与していたと思われ、それが田村三代記にまで成長していったと考えられている。仙台藩や津軽藩は、これら盲目の奥浄瑠璃語りたちを庇護したという。この伝統が、仙台浄瑠璃とも言われる奥浄瑠璃を残し、津軽三味線につながる芸能を残したとされている。そのためもあって、今残されている田村三代記の中に宮城県や岩手県、そして福島県の多くの地名などが語られていることは当然のことであったのかも知れない。これらの関係もあってか、「田村の草子」などの物語、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』などの他に、田村市の大滝根山、静岡県興津市の清見関、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、宮城県涌谷町の箟峰寺、岩手県奥州市や平泉町の達谷窟など、田村麻呂の伝説と関係する神社などの分布範囲は広い。 『鈴鹿の草子』や「田村の草子」そして田村三代記は、田村麻呂没後に作られたものである。それであるから、これらのお伽草子が先に作られて普及した後に各地に伝わる田村麻呂の伝説が作られたということは十分に考えられる。むしろ逆に田村三代記の方が、各地の田村麻呂伝説の原型になったのではないかということである。郡山市田村町徳定にある谷地神社由緒に、その例を見ることが出来る。 いずれにせよ田村三代記は、英雄譚の一つであったことは間違いない。しかもそれが鎌倉時代に発展完成したものであったとすれば、元寇を無視するわけにはいくまいと思われる。当時広大なユーラシア大陸にまたがる大帝国を作り上げた蒙古は元とその年号を改め、文久十一(一二七四)年と弘安四(一二八一)年の二度、九州の北部を襲った。神風という名の台風に助けられたとは言え、民衆とすれば、せめて話の上だけでも強い力を持つ英雄の出現を望んだのも当然であったと思われる。 さて田村麻呂伝説の原型が田村三代記にあると考えられることから、田村三代記に出てくる地名など福島県のそれとを比較して次に載せてみる。ただしそれらは、『東北の田村語り』や『悪路王伝説』から抽出したものである。 田村三代記など 地元の関連名称 所 在 地 白河関・白河 白河市 信夫 福島市 伊達 伊達市 虎丸長者 郡山市虎丸町 三代田村 御代田 郡山市田村町 守山庄太平寺 神護山泰平寺 郡山市田村町 奥州宮田村 郡山市西田町太田字宮田 奥州高野村 郡山市西田町 染殿大明神 赤沼村 郡山市中田町赤沼。田村郡小野町赤沼 田村郷 田村郡 鷹巣城 三春町鷹巣 三春九門長者 該当なし 白山大権現 白山神社 三春町貝山 三春駒 三春駒 三春町 大元明王 田村大元神社 三春町および郡山市田村町守山 太平寺 神護山泰平寺 郡山市田村町御代田 化粧坂 化粧坂 三春町 牛山城 臥牛城 三春町 三春・田村城 塩竃大明神 塩竃神社 小野町 七ッ森 七里ヶ沢 田村市船引町七郷 牧山 牧野 田村市船引町 達谷窟 達谷窟 田村市滝根町 奥州胆沢郡大滝根山 大滝根山 田村市滝根町 悪路王大嶽丸 悪路王大武丸 田村市滝根町 日高見(北上) 日高見山 須賀川市長沼町 安達郡二本松 二本松市 岩城 磐城 いわき市 山ノ寺・八幡山 (一般名詞) いずれこれだけ多くの地名などが『田村三代記』に出てくるということが、田村麻呂伝説がこの地に深く根を下ろす理由となったのであろう。次にそれらを、『東北の田村語り(阿部幹男著)』に見ることにする。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.10.21
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田村麻呂の物語り 田村麻呂伝説は濃淡の差があっても全国的に広がっている。 ここにまとめた伝説は田村麻呂が関係したと思われる地域のものに限定したが、田村麻呂が足を踏み入れていない多くの地域にも残されている。例えば青森県、秋田県、山形県などである。それと同様に広がっているのが、日本武尊と八幡太郎の伝説である。日本武尊については神話を、八幡太郎については各地の八幡神社の縁起を中心に、伝説が残されている。そこで福島県岩瀬郡の伝説を付け加えてみる。 蓬田岳に住んでいた水鬼と風鬼は、多くの手を諸方に回して庶民を悩ませていました。征伐に来た日本武尊の軍勢を見た水鬼と風鬼は大いに怒り、大雨を降らせ大風を起こして山の麓まで覆う洪水を起こさせたのです。そこへ大柄な老人に身を変えた猿田彦命が表れ、日本武尊に山の攻撃の方法を教えました。日本武尊は檜を切り出して筏を作り、蓬や菅で姿を隠して攻めたので。ついに水鬼と風鬼は逃げ出しました。ところがその後またも蓬田岳の賊が民を悩ませたので、田村麻呂が、その昔日本武尊が進まれた道を辿って、賊を討ち滅ぼしました。 (福島県岩瀬郡) このように田村麻呂、日本武尊、そして八幡太郎の伝説は、どこかで妙に混じり合っているのであるが、それにしても田村麻呂の伝説が突出している。この突出している理由は、次に述べる『田村三代記』に負うところが大きいと思われる。 ところで史実から遊離した伝説は、現地にばかり残るものではなく、中央にもある。 保元物語 「古(いにしえ)その名聞し田村・利仁が鬼神を攻め、頼光・保昌の魔軍をやぶりしも、或いは勅命えおかたどり、或いは神力をさきとして、武威の誉れを残せり」(原文) これは本来のエミシ征討から離れて、鬼神退治の英雄とされたものである。 平家物語 平家物語では「ありがたきつよ弓、勢兵(せいびょう)、馬の上、かちだち(徒立)、すべて上古の田村・利仁・余五将軍、致頼・保昌・先祖頼光、義家朝臣というとも、争(いかで)か是にまさるべき、とぞ人申ける」(原文)と木曾義仲が彼らと遜色ないとしているが、歴代武将のはじめに田村麻呂を置いたことについて注目したい。 元亨釈書(げんこうしゃくしょ) 元亨二(一三二二)年、虎関師練(こかんしれん)がまとめた元亨釈書の「清水寺延鎮伝」によると一段と脚色が加わり、もはや史実からまったく遊離してしまう。 奥州の逆賊の名は「高丸」となり、高丸は駿河の国まで攻め上り「清見関」を目指した(日本武尊の伝説も混入させたか)。ここで田村麻呂が出陣したと聞いて高丸は奥州に退いた。田村麻呂の軍は賊とはげしく戦い、官軍の矢が尽きた。その時小比丘(僧)と小男子があらわれ矢を拾い田村麻呂に渡した。田村麻呂はあやしみながらもその矢で高丸を射て、「神楽岡」でついに高丸を撃ちとり、その首級を都へもち帰った。田村麻呂が延鎮に事の子細を語ると、延鎮は勝軍地蔵と勝敵毘沙門の二像を造り祈ったというので、その二仏像を見ると、矢の瘢(きずあと)、刀の痕(きずあと)があり、脚は泥土にまみれていた、というような話になっている。 義経記 義経記によると、「本朝の昔をたづぬれば、田村・利仁・将門・純友・保昌・頼光、漢の樊噌(はんかい)、張良は武勇といへども名のみ聞きて目には見ず」、「本朝の武士には、坂上田村丸、これを読み伝へて、あくじ(悪事)の高丸を取り、藤原利仁これを読みて、赤頭の四郎将軍を取る」とある。 なお赤頭四郎は、逢瀬町や湖南町に伝わる赤津四郎の伝説と名が近い。 謡曲「田村」 世阿弥の作といわれる謡曲「田村」では、「そもそも当寺清水寺(せいすいじ)と申す事は、大同二年の御草創、坂上の田村麿の御願なり」「これは人皇五十一代、平城天皇の御宇にありし、坂の上の田村麿、東夷を平らげ悪魔を鎮め、天下泰平の忠勤たりしも、すなはち当寺の仏力なり」「然れば君の宣旨には、勢州鈴鹿の悪魔を鎮め、都鄙(とひ)安全になすべしとの、仰せによって軍兵を調へ、既に赴く時節に至りて、この観音の仏前に参り祈願を致し立願せしに」(岩波文庫本)等と清水寺信仰と結びつけ、征討の主題は伊勢の国鈴鹿山の悪魔退治に移ってくる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.10.11
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四、そ の 他 の 県 真昼岳という変わった名は、田村麻呂が山頂で戦勝を祈願したのが真昼だったからと伝えられます。 (秋田県千畑町真昼岳) 高尾山=田村麻呂が村人を苦しめる夜叉鬼を退治し、その怨霊を鎮めるため蔵王大権現を勧請し祀りました。 (秋田県雄和町) 延暦十四(七九五)年、都から那須野原に進軍してきた田村麻呂は、ここで賊の大軍に囲まれました。戦いの準備に入った田村麻呂は、馬を馬立(地名)につなぎ、矢櫃(地名)で弓矢の準備をし、烹飯(にまま・地名)で兵士のための炊さんをしました。しかし田村麻呂は、鬼怒一族に暗殺されました。田村麻呂の暗殺に驚愕した朝廷は、田村麻呂の死を隠蔽し、彼の弟を田村麻呂将軍として祭り上げました。このような朝廷の自作自演が必要だったのは、東北エミシ征服の最後の切り札が田村麻呂将軍であったからです。木幡神社には朱色の業火に焼かれ、逃げ惑う鬼たちの地獄絵が本殿の内壁に描かれています。その鬼こそ縄文人である鬼怒一族とされています。太田原市佐久山字豊田には田村麻呂の墓といわれる将軍塚があります。 (栃木県矢板市・木幡神社) 鴫内山(しぎうちやま)の奥に黒瀧山という山がある。この山は、もとは黒獄山といい、弘法大師によって開かれたと伝わる山岳仏教の霊場であった。その「一の木戸」の黒瀧山大日尊の案内板に、次の記載がある。 『黒瀧山大日尊は寛政四(一七九二)年十二月に鴫内・湯宮(ゆ ぐう)・木綿畑(本田・新田)・百村の四か村の願主として建 立された石仏であり、鴫内の成沢から大蛇尾(さび)川を上り、 黒瀧山(一七二七メートル)頂上までの24札所を参詣する山 岳信仰の「一の木戸」である。山岳信仰とは深山の巨岩や滝 などの自然物を神仏に見立て五穀豊穣や家内安全などを祈願 するもので、黒瀧山信仰は往古の昔は黒瀧権現といい、女人 禁制の山である』 黒滝山には二十四の拝所があり、その全山が馬頭観音信仰の下にあったということと、この馬頭観音信仰にかかわり、地元では田村麻呂伝説があったと伝えられている。ただしその詳細な話は残されていない。しかし案内人に頼らなければ入れない黒瀧山の厳しい岩場などの環境と、矢板市の伝説とを合わせてみると。恐らくこの山に籠もっていた賊と田村麻呂が戦ったという伝説であろうと想像できる。ただし、勝負のほどは不明である。 (栃木県那須塩原市) 田村麻呂が荒れ狂う海に光る玉を投げ入れて波を鎮めました。 (静岡県浜松市有玉南町) 田村麻呂は身の丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸の堂々とした姿でした。目は鷹の蒼い眸に似て、鬚は黄金の糸を紡いだように光っていました。身体は重い時には二百一斤、軽い時には六十四斤、その軽重は意のままであり、行動は機に応じて機敏でした。怒って目をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどでしたが、笑って眉を緩めれば、稚児もすぐ懐に入るようでした。 (京都市東山区清水) 駿河の清見関を落とした賊の高丸は、田村麻呂の出陣を聞いて奥州に逃げました。田村麻呂が、その高丸を討ち取り首級を持って京に帰りました。清水寺に僧・延鎮を訪ねると清水寺に祀っていた将軍地蔵と勝敵毘沙門の二つの像には、矢と刀の傷跡があり、足は泥にまみれていました。 (京都市東山区清水) 田村麻呂が桓武天皇の前でいろいろ話をしているとき、「たとえ今その勇名が轟いているとは言っても、このまま一生を終わってしまうのは悔しい。せめて大唐征伐にでも私をお遣わし下されば、きっと成功を収めて天皇も和漢両方の皇帝になられるのではないか」と放言した。 天皇は笑って本気にしなかったら、「ご不審ごもっとも。それなら試しに武術の一端をお目にかけよう」と言って五〇〇人もの人を集め、太刀の刃に墨を付けて一振りしたところ、その五〇〇人の首筋にみな墨の跡がついたといいます。 (新潮社・人物日本史 七二頁) 大和国子島寺の僧・延鎮が。淀川付近で一筋の金色の流れを見つけ、さかのぼると山城国東山付近に至りました。そこで行叡という修行僧に会いましたが、行叡は、「ここに伽藍を建て、前にあ木で観音を造ることを願っている」と言って東国へ去りました。 一方、田村麻呂は、狩猟の途中で奇異な水に流れを見て、その源を訪ねると修行する延鎮に会い、二人は力を合わせて伽藍を草創し、八尺の十一面観音を造立しました。 (京都市東山区 清水寺) 延暦の頃、この山中に一大ゆずり木がありました。その下に、普通の人とは異なる不思議な老居士が住んでいました。たまたまある夜、田村麻呂は霊夢を感じてこの地に来て、老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため大同一(八〇六)年この所に堂塔を創建しました。老居士はこのゆずり木を切って、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置しました。 国 宝: 建造物 本三重塔 重要文化財: 本尊薬師如来像 降三世明王立像 深沙大将立像 不動明王立像 (福井県小浜市門前 明通寺) 諏訪大社の御射山祭(みさやまさい)とは、上社の狩猟神事で、青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから『穂屋祭り』の名称もある。この祭の起こりとして南北朝時代の神道集『諏訪大明神・秋山祭のこと』では坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。 (長野県諏訪市)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。大型台風15号襲来! 21日午前8時現在、郡山は小康状態です。しかし北海道まで進路になっていますので、心配です。皆さんの安全を祈ります。
2011.09.21
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三、 宮 城 県 宮城県も伝説が少なくない。戦場となった胆沢が仙台領であり、政宗の孫が立藩した一関にほど近いこととを考え合わせれば、当然のことと思われる。その伝説の最初は、田村麻呂の父、苅田麻呂からはじまる。この言い伝えは宮城県に苅田郡という郡があることによるものであろうが、丁度、福島県の田村地域に多くの田村麻呂生誕伝説が伝えられていると、まったく軌を一にするものと思われる。「田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は、苅田郡の生まれです」 (宮城県苅田郡) 昔、この辺りは七里ヶ沢(宮城県)と称し、大多鬼丸が支配していました。そして田村麻呂の父の刈田麻呂がエミシ征伐の折り、宮城郡利府郷に宿陣した時、九門長者の娘阿久玉姫を愛しました。 阿久玉姫は元々京の人で,父親の知り合いで多賀城の近くの九門長者を頼ってきていました。彼女は観音様に,悪い人に逢ったら醜い女,良い人に逢ったら美人に見えるように祈願し旅立ちました。朴沢(仙台市泉区山の寺二丁目)の亀の子石に近い水田に湧く鏡ヶ池(現在はない)で旅の汚れを落として化粧をしたので阿久玉姫の化粧水と呼ばれ、その坂を化粧坂(坂としてではなく地名として残っている)というようになりました。 (仙台市泉区) 山ノ寺=千熊丸(田村麻呂の幼名)は大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)で学問をしました。 (仙台市泉区山の寺二丁目にある龍門山洞雲寺) 田村麻呂が参籠から戻ったところに、童子が一匹の葦毛の馬をひいてきました。長谷寺の清浄上人のもとからで戦いの時は必ずこの馬に乗るようにとのことでした。田村麻呂はこの馬に乗って征夷を成し遂げました。ところが陸奥国三迫というところで、この馬が死んでしまいました。仕方なく石の唐櫃に納めて葬りました。するとこの墓が七日にわたって光り輝き、異香が薫じたので不思議に思って墓を掘ったところ、金色の馬頭明王が顕れました。 (気仙沼市) 桓武天皇の延暦二十年(八〇一)、大伴駿河麻呂将軍によって一度平定された東北のエミシ、悪路王高丸・俗称箟岳丸(ののだけまる)は、当時の国府多賀城を攻略しました。箟岳丸はその勢いをかって京都までのぼろうして駿河の清見ヶ関(静岡県)付近まで攻め進んだところ、朝廷もこれに驚き、武勇無双の坂上田村麻呂を征夷将軍に任命、エミシをこの山で攻め滅ぼしたのです。 (宮城県) 今の北上川筋には、昔は二股川と大関川の合流した川が流れていました。田村将軍がこの地へ来たとき、先に服従した者たちが人柱を作り、橋となって田村麻呂の渡河を助けたと言われます。それでこの地を鬼橋というようになりました。 (登米市東和町鬼橋) 一の矢当り、二の矢当り、三の矢当り=三ヶ所とも登米市東和町という所にあります。田村将軍に追われた賊どもが順に将軍の矢に射すくめられた所といわれています。 (登米市東和町鬼伏) 鬼伏=相川の奥で将軍に追い詰められた賊どもが降伏したところと伝えられます。付近には水喰(みずはみ)という所もあり、賊が逃げる途中に水を呑んだ所といわれています。 (登米市東和町鬼伏) 悪徒(党)原=田村将軍に反抗した賊どもが住んでいた所といわれ、現在は悪戸と言われています。 (登米市東和町) 耳取=悪徒原から追い出された賊が耳を切り取られた所だと言われています。 (登米市東和町耳取) 鱒淵馬頭観音=さらに追われた賊は鱒淵の山に登りましたが、ついにここで退治されました。田村麻呂はこの地の他にも石巻の牧山、嶽山、栗原の小迫、八戸の蝦夷を平らげたので奥羽は平和になりましたが、鬼神と言われたエミシでも人なのだからと言われて、これらの七ヶ所に寺を建立してその霊を弔いました。奥州七観音といわれるのがこれです。葦毛の名馬の働きがあったので馬頭観音を祀りました。それが鱒淵の馬頭観音です。 (登米市東和町鱒淵) エミシの首領・大武丸と征夷大将軍坂上田村麻呂が戦い、鬼と呼ばれていた大武丸が首をはねられました。その場所を鬼切辺と呼び、鬼首の地名が生まれたとされています。 (大崎市鳴子町) 桓武天皇の御世、奥州の大嶽丸という鬼神が伊勢の国まで攻め上ったとき、田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、鈴鹿御前の力を借り大嶽山にて大嶽丸の首を切り落としました。その首が飛んでいったところが鬼首(おにこうべ)です。また、この物音に目をさました仲間の鬼神たちがあわてて逃げ出しましたが、田村麻呂はその後を追って行き、鬼神の一人を切って埋めた所が浅水の長谷観音です。鬼神たちはさらに東へ逃げました。 (大崎市鳴子町) 長谷寺(ちょうこくじ)=赤頭(あかがしら)と呼ばれたエミシの首領が、気仙郡佐狩郷赤崎小田の地にいて、鎮守府将軍の田村麻呂と一戦を交えました。成敗された赤頭の首を埋めた墓の上に田村麻呂はお堂を建て、十一面観世音菩薩を安置したのが、現在の猪川町にある竜福山・長谷寺(創建八〇七年)と伝えられます。それから九〇〇年が経った宝永元(一七〇四)年に、寛応法印が寺内から発掘したという赤頭の歯、三三枚が寺宝として現存しています。それは鬼の牙といわれています。 田村麻呂は駿河麻呂将軍の祀られた白山権現の宝前で、勝ちどきをあげ背中より一本の矢をとりだして、これを東辺・箟宮の塚に立て刺し、『東夷ふたたび蜂起せずんば枝葉を生ぜよ』と、七日七夜の祈念をしました。ところが不思議にもその鏑矢に枝葉が生じましたので、これを箟岳(ののだけ)と称しました。 (桶谷町)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.09.11
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二、 岩 手 県 田村麻呂の伝説は、現実に田村麻呂が戦った場所がここであるにもかかわらず、私の調査不足からか、岩手県に残されている伝説は以外に少ないようである。 産屋原=悪玉が出産にあたり、産屋を建てた所です。 (岩手県) 達谷窟=悪路王と赤頭四郎がここに巣窟を構えました。(赤頭四郎は、郡山市湖南町の伝説に出てくる赤津三郎のモデルか?) (岩手県) 北上川東岸の平地はそれほど広くはなく、すぐ山になります。長く伸びた征夷の二軍四千の兵列は雪解け水を満々とたたえた北上川との間に挟まれて逃げ場を失ってしまいました。逃げ場として開かれていたのは、北上川を越した西の平野部でした。そこには二千の兵を持つ味方の軍がいました。乱れた征夷軍の兵はわれ先にと北上川に飛び込みました。紀古佐美を征東大将軍とする征夷軍は、ここで大敗を喫しました。 (岩手県) 延暦年中、田村麻呂が、エミシ征伐の時、この地で紀伊の熊野三神に戦勝祈願をしたところ、難なく平定することができました。 (岩手県) 延暦二十三(八〇四)年、田村麻呂が志和城に宿営したとき、夢に衣冠正しい白髪の翁が現れ、「兜に祀る守護尊をこの近隣の地に祀るべし」と告げられ、堂宇建立を発案、家臣二名に場所を選定させました。同年八月、田村麻呂自らが臨んで仏体を安置し達谷毘沙門堂を開創されたとされています。 (岩手県)「胆沢の賊、すべて河東に集まる。」という情報を得た田村麻呂は、各二千の兵で三軍に分かれた合計六千の兵を、北上川に沿って北進させました。軍は賊の集落を焼きながら「巣伏村」にまで進みました。且つ戦い、且つ焼く戦法でした。ただしこの巣伏村がどこなのか幾つかの説がありますが、それは現在の奥州市江刺区の四丑橋近辺ともいわれています。 (岩手県) 麒麟窟=龍副という悪者を、田村麻呂が龍馬に乗って退治しました。 (岩手県) 大武山=田村麻呂の御台所の鈴鹿御前が城門を開いて大武丸を引き入れ、毒酒を盛って眠らせました。そこで田村麻呂は、大武丸の首を取りました。 (岩手県) 奥州市江刺区米里人首町はかつて人首村と呼ばれていました。横を流れる川は人首川と呼ばれ人首という名が残っています。 田村麻呂に、現在平泉町にある達谷窟に立てこもる「悪路王(大武丸)」が滅ぼされたとき、その子(甥という説もある)人首丸は難を逃れ、現在の米里にある大森山付近まで落ち延び再び抵抗を始め、四年間に渡って抗争します。その後、田村麻呂の一族である田原阿波守兼光によって捉えられ斬首され、遺体は大森山山中に埋められたそうです。現在でも「人首丸」の墓と称される墳墓があり、集落名も改名する前は人首村と称されていました。口伝では切られた首が空を飛び、近くの川に落ちて水を真っ赤に染めたと言われ、それ以来その川は人首川、町は人首町と呼ばれるようになりました。ただし、人首と書いて「ひとかべ」と読みます。 (岩手県奥州市)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.08.21
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白鳥の案内で、田村麻呂は難なく賊の住処を探し当て、駒ヶ鼻(田村市大越町上大越)に最後の陣を張り、ここで突撃の命令を発しました。いよいよ決戦のときが近づき、大越(田村市大越町)で兵に大声を出させ、大滝根山の鬼穴に立てこもる賊の大多鬼根丸(一説には大武丸)を攻めました。このときの大声から、大越の地名になりました。 なおここに白鳥の話が二度ほど出てくるが、これらの白鳥伝説は、日本武尊と重なる話である。 (田村市) 田村麻呂は鞍掛山(田村市船引町芦沢字鞍掛)に登り周囲を眺めましたが、形勢を知ることができませんでした。そこで、鏑矢を一本とって東へ放ち、落ちたところに本陣を置くことにしました。そのとき放った大鏑矢がこの地に落ちたので、ここに本陣を進めました。そして、そのときの鏑矢を祀ったのが大鏑矢神社(田村市船引町)です。 (田村市) 鞍掛山は、田村麻呂が馬に鞍を掛けた山で、濡れた旗を乾かしたとされています。そこには旗を立てたという旗石があります。 (田村市) 田村麻呂が、岩に鐙を摺りながら通り抜けた眼前に、桜が見事な花を咲かせ迎えたという。(お伊勢様の鐙摺石桜・市指定天然記念物・田村市 常葉町早稲川字一本松) 田村麻呂が鞍掛山から探矢を射て戦いはじめたとき、ここの大松に矢が立ったので、人々は矢立の松と呼ぶようになりました。この松は栗出にあったのですが、明治の大暴風で倒れて今は無くなりました。 (田村市大越町栗出) 黒石山(田村市船引町七郷、小野町飯豊,郡山市中田町御館の境・鬼穴の西)=暮色が迫ったころ田村麻呂が陣をここへ移したので、暮色(くれいろ)山が訛ったものです。山頂に田村中央台・物見石、山腹に上台・中台・弓張石などがあります。 (田村市) 太平山(おおひらやま)=田村麻呂が、山頂に陣を張った山と言われています。 (田村市都路町) 馬洗戸=この大字は、九郎鹿、大平、休場の三字からなっていましたが、現在、馬洗戸としての地名は残っていません。大滝根山攻撃の前に馬を洗った所と伝えられます。 (田村市都路町岩井沢の俗言) 休場=馬洗戸で馬を洗った後、馬を一休みさせた所と伝えられています。なおここには、田村麻呂の乗馬の蹄跡といわれる窪みが、石の上に残っています。 (田村市都路町岩井沢字休場) 延暦十三年、田村麻呂は大武丸との戦いで、苦戦を強いられました。そこでやむを得ず山口に退き、正一位馬頭観音に念じて再攻撃をしました。 (田村市都路町岩井沢) 高柴で作られている三春駒は、この戦いのとき何処からか現われ、武士を乗せて大活躍をしたものと伝えられ、この木馬を持っていると子供が元気に育つと信じられ、子育て木馬とも言われる。また三春駒は賊やわざわいを『見張る』ものとして、里人のお守りとなりました。 (郡山市西田町高柴) 達谷窟(たつやのくつ)=世の人はこれを鬼穴と言います。大滝根山の中腹にあり、入口は四尺ばかりの横穴で中には二間ばかりの広場があります。これを八畳敷といいます。さらに進むとひとつの階段があり、狭い口を過ぎればまた広くなり、なお奥深くにはつるべ落としあるいは千畳敷と言われるところもあります。伝えられるところによりますと、夷酋大竹丸悪路王らがこの山を拠点として衆賊を集め暴悪を働いていたのです。大武丸の子分の鬼五郎、幡五郎兄弟が「達谷の窟」で果敢に抵抗しましたが。田村将軍に討滅されることになりました。 (田村地域) 大滝根山の早稲川(田村市)にある、達谷窟または鬼穴という洞窟にはエミシの首魁・悪路王大武丸(大多鬼丸とも)がいて、田村麻呂と死闘をおこなったという伝承があります。史実としては田村麻呂その人ではなく大和の東征軍との戦いだったのかも知れませんが、大滝根山のすぐ南東の山は鬼ヶ城山(八八七、三メートル)といい、また大滝根山周辺には鬼五郎など鬼の地名が多いことから、その戦いは死闘・激闘であったことが想像できます。また大和は、手強いエミシの抵抗があった地に鬼の地名をつける傾向が顕著です。 (郡山市史より) 田村麻呂に追い詰められた鬼が田の中に鬼の子を捨てて逃げました。かわいそうに思った村人が育ててやると毎日庭先の大石と遊んでいました。そのためこの石は鬼石と呼ばれ、鬼生田の地名となりました。 (郡山市西田町鬼生田) 五十人山=田村麻呂が大滝根山の賊を平らげた後この山にさしかかり、この山の頂上の大岩に田村麻呂の部下五十人が乗ったのでこの名がついたと言われます。なおここで喉を乾かせた部下のために田村麻呂が金剛杖で谷間に近い所を突くと、清水がコンコンと湧き出たと言います。頂上南より真下の湿地が、その泉の跡と伝えられています。 (田村市都路町岩井沢) 田村麻呂は帰り道で、船引まで負傷兵(一説には戦死者)を舟(棺)で引いて運びました。船引の地名の起こりです。 (田村市船引町) 延暦二十年、東夷ことごとく平らげた田村麻呂は、帰路、田村庄に着きました。田村麻呂はそこで不屑女を見染め、女は田村麻呂の子を宿しましたが村の人は賤しい女のためこれを認めず、生まれた男の子は山野に捨てられました。すると不思議なことに二羽の鶴が飛んできてこの赤子を養育しました。これを見た村人は驚き、疑いを晴らして赤子を女に返しました。その家系は代々続き、田村清顕公に至ります。ところが跡継ぎがなかったため、天正十六年に断絶しました。延暦二十年より天正十六年までは、ほぼ八〇〇年にわたった年月です。 (郡山市熱海町) 胆沢経営に成功した田村麻呂は、都へ凱旋するため帰途につきましたが、途中、愛馬が長い転戦の疲れで死んでしまいました。ある夜、田村麻呂は愛馬が霧の立つ美しい景色の中で遊んでいる夢を見ました。三春に着いた田村麻呂は、先夜見た夢と全く同じ景色があるのに驚き、愛馬のためにその地に馬頭観世音を勧請しました。今の荒町の馬頭観世音がそれである。 (田村郡三春町) この他にも田村地域では、大武丸を滅ぼしたのは坂上苅田麻呂で、田村麻呂ではないとする伝承もある。しかしこれは長い言い伝えの間に親子が錯綜してしまったものとも考えられる。またこの話に出てくる悪の巨魁・大武丸の名は、大滝根山と非常に語呂の似た名となっている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011年8月6日、お陰さまで110,000を突破しました。ブログ開設から1458日でした。
2011.08.11
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延暦の年、田村麿利仁は大滝根山の鬼人を征伐するためこの地に来たが、阿武隈川が大雨のため増水した。支流の手洗川に浮洲が出来たが、その浮洲の丘にあった市杵島(日出山)神社に祈願したところ水が引いたので、阿武隈川を渡ることができた。 (郡山市日出山) 田村麻呂が成長し蝦夷討伐に訪れた時に母・阿口陀媛と逢った所が行合橋です。二人が待ち合わせをして合った所から行き合い橋という名前が付けられました。 (郡山市) 田村麻呂は生れた家からほど遠くない、騎陣取(郡山市田村町徳定) で騎兵を訓練して陣取らせていました。また、そこからすこし離れた田村森(郡山市田村町手代木)で兵士を駐留させていました。近くには田村麻呂が休息した腰掛石(郡山市荒井町)や矢を掛けた矢掛松(田村郡三春町沼沢)があります。 (田村地域) 田村麻呂は、赤木の阿尺国造古墳で、戦勝の祈願をしました。 (郡山市赤木町) 藤原阿黒丸は、陸奥小野郷須萱村大嶽に籠もって天下の貢ぎ物を掠め取り、民家に入って財宝を奪ったりしていました。そのため田村麻呂は小倉字一斗内(須賀川市)に下向し、千余騎の軍勢でこれを攻め滅ぼしました。 (須賀川市) 大滝根川の東岸の山林付近一帯は巨岩怪石が露出していて岩の下に二つの洞窟があり、大きさは大人が入れるくらいです。昔この赤沼不動尊に大蛇が棲んでいました。大蛇は年が老いるに従い化身して里に出て婦女子を暴行したり悪行を重ねるようになったので、土地の人々は山に火を放って焼き殺すことにしました。大蛇はいたたまれず火傷を負って対岸に渡り、田の中で息絶えました。大きさは二升樽くらいで長さは五、六間もあったといいます。 (郡山市中田町赤沼) 桓武天皇延暦年中坂上田村麻呂将軍当地賊徒討伐の際、深霧にて遮られ容易に誅伐出来ず高野ヶ丘に陣を取り天神地祇に祈誓したところ白羽神鳥空中を照らし飛来して鶏鳴しその方向を示し、是を合図に進行しその神通力によって雲霧たちまち晴れエミシ巣窟を破り平定した。 (田村郡三春町実沢・高木神社社伝) 大滝根山に住んでいた大鬼丸の子分・悪路丸に拉致されてきた京都の公家の娘、薬師瑠璃姫のために食糧を作った藤平五郎の名をとって地名としました。 (郡山市中田町高倉字藤平五郎内)「賊はどこにいるか」と田村麻呂が聞きますと、里人は「あの山」(郡山市中田町高倉字阿ノ山・国見山に近い)と答えました。「阿の山」を越えて過足(よぎあし)で里人の家に泊まったところ田村麻呂の背が大き過ぎ、寝具から足がはみ出でてしまいました。さらに進んで一夜を明石神社(田村郡船引町堀越)で明かしました。そして門沢(田村市船引町)で朝手水、鎧ヶ作にて鎧を召し、清川内にて勢ぞろいしました。しかし当時、七里ヶ沢(田村市大越町牧野の一帯)と呼ばれていたこの地は木々がうっそうとして昼なお暗く、とうとう進路を見失ってしまいました。しかし万事休すのその時、一羽の白鳥が飛んできて軍を導きました。この白鳥が飛び立ったところを鳥生平、軍が駆け入った場所を欠入というようになりました。 (田村郡三春町過足) 田村麻呂が、門沢山のお堂に泊まり、六観音を安置し戦勝祈願をしたところ、大勝を得たという。 (明石神社の夜明石・国指定重要文化財。 田村市船引町門沢字堂山) 田村麻呂が、当地の堂山王子神社に戦勝祈願をし、祠前の石で夜を明かされたところ夢にご神託があり、戦いに勝利したという。 (田村市船引町堀越字明神) 田村麻呂は戦勝を祈願して、大きな楠を三分割して三体の観音像を作り、三ヶ所にお堂を造って祀りました。その中でも特に大きな部分で作った観音像を三姉妹の中でも大姉の観音像ということで姉屋観音と呼び、その観音が当地に祀られたことから姉屋の地名となりました。なお他の一つ観音毘沙門不動勝軍地蔵は東堂山に、もう一つは入水に祀られています。 (郡山市田村町田母神字姉屋) 田村麻呂が守山(郡山市田村町守山字山中)の山中(さんちゅう)から三春の山中(さんちゅう・地名)に行く途中、家来の一人が逃亡して上石に隠れました。彼は見つかるのを恐れて、この地を山中(やまなか)と言ったことから、この地名になりました。 (郡山市中田町上石字山中) 田村麻呂が木の枝を切り逆さに植えたことから逆木(ざざらぎ)という地名となりました。 (郡山市中田町上石字逆木) 田村麻呂が通ったとき他の地の樹木は枯れていたのに、この地の木の芽が青々と吹き出ていたので木目沢の地名になりました。 。 (郡山市中田町木目沢) 田村麻呂は筏の橋を渡って当地を通りました。この橋は完全なものではなく、大きな柳の古木が横たえて橋の代わりとしたもので、その上を人馬が通行していました。田村麻呂が通ったときその橋から青々と柳の芽が出ていたので珍しく思い、その名を聞いたところ「橋に名がない」と言うので、田村麻呂は柳橋(郡山市中田町)と命名しました。 田村麻呂がここに陣小屋を建て、吉相の字、万才光内に置き換えました。 (郡山市西田町丹井田字万才光内) 田村麻呂がこの地に館を築いたことから小屋舘と言われるようになりました。 (郡山市西田町板橋字小屋舘) 田村麻呂は敵の様子が分からず、高柴山(田村市船引町)に登り東を眺めました。すると大多鬼丸がいる大滝根山が見えたので愛馬が勇み立って、この大石に蹄の跡を残しました。またこの石の上から田村麻呂が強弓で矢を射ると猫内の松に突き刺さりました。これを矢立松といいます。 (郡山の伝説・郡山市教育委員会 昭和六一年) 東堂山(旧・宿借山)は田村麻呂が宿陣した所と言われている寺です。 (田村郡小野町飯豊)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.07.20
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田 村 麻 呂 伝 説 一、 福 島 県 この項では、各地に残る田村麻呂の伝説を集めてみた。 坂上田村麻呂の父・苅田麻呂が大熊に乗ってこの川を渡り熊渡に着きました。その地は最初屯田(みやけだ)と言われましたが、いつのころからか御代田と呼ばれるようになりました。屯田は苅田麻呂の直轄地の意味で、川には大熊川(阿武隈川)の名が付きました。 (郡山市田村町御代田) 国見山に大武丸という東夷の酋長が反乱を起こしたので、坂上苅田麻呂が直宣を受けて征伐に来ました。 (郡山市中田町上石) ある晩、たまたま陣中に怪しい光が差し込むのに気がついた苅田麻呂がその光を頼って行きますと、木賊田(とくさた)村の清水で根芹を摘んでいる女がいるのを見つけました。その女は郡山の虎丸長者に仕えていた下女で、阿口陀媛という三国一の醜い女で悪侠と言われていました。しかし苅田麻呂には、比類なき天女のような美女に見えました。そこで陣中にその女を伴いました。 (郡山市田村町徳定) 間もなく苅田麻呂は大武丸を征伐し、「子供が成長したら都に尋ねてくるようにと」言い残し、都に帰って行きました。 (田村地域) 苅田麻呂公が京の都に帰られて間もなく、徳定熊渡の室家山童生寺で、阿口陀媛が玉のような男の子を生みました。阿口陀媛は木賊田の産清水で産湯を使わせ、徳定の抱上坂で赤子を抱き上げました。しかし子供が産まれて困ってしまった阿口陀媛は、赤子を田の畦に捨ててしまったのです。 (郡山市田村町徳定) するとそこへ鶴が飛んで来て赤子を拾い、山の頂上の自分の巣に連れて帰って育てたのです。ところが赤子を拾った鶴は、石になってしまったのです。それを知った村の人々は驚き、阿口陀媛に赤子を戻して育てさせました。その子は鶴に拾われたことから、鶴子丸と名付けられました。それもあって、その山には鶴石山という名が付き、頂上には鶴石という名の石も残されています。また、この鶴石山の麓には、鶴石神社が祀られています。 (郡山市中田町下枝字平松) このため三春に住んでいる人は、誰も鶴を料理して食べることが出来ず、もし恐れずこれを食べれば、必ず崇りがあると言われています。 (田村郡三春町) 桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男の子が生まれました。その子は七歳のころになると、五尺もある立派な身体の持ち主となり墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになったので、親も恐れてその子を殺そうと考えるようになったのです。子どもはそれを察知すると家出をしました。何年か後、その子は大滝根に住んで滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていました。村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しまた滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになりました。このように鬼が生まれたということから鬼生田という地名になったのです。 (郡山市西田町鬼生田) 鶴子丸は母に父のことを尋ね、印の品を携えて京都に上る決心をしました。やがて阿口陀媛が亡くなって谷地観音に祀られましたが、田村麻呂が手玉にして遊んだという手玉石がここにあります。 (郡山市田村町徳定) やがて成人した鶴子丸が都に上り苅田麻呂公の邸前に着いた時、外れ矢が飛んできました。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返すと、矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂公の前に突き刺さったのです。怪しんで表を尋ねさせ、そこにいた小童を見て訳を聞き、はじめて自分のお子であることを知りました。それからは、生地の田村郡にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育ちました。 (田村地域) 蝦夷窟と呼ばれる十三の岩窟が南向きにあり、そのそれぞれに七~八人収容できる大きさのものであった。ここに蝦夷人が住んでいたと伝えられる。 (郡山市田村町小川字下田) 朝廷はこの地のエミシを退治するため、藤原小黒丸を征夷大将軍として派遣しました。小黒丸はエミシと戦いましたが利あらず、一旦退却して高幡山の宇奈己呂和気神社に戦勝を祈願しました。宝亀十一(七八〇)年九月十一日、小黒丸は下山してエミシと戦いましたが、今度は苦もなく打ち勝つことができました。 (郡山市三穂田町下守屋) 桓武天皇の延暦二十年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねていたので、田村麻呂将軍が征討にやってきました。 (田村地域) 田村麻呂は、白河付近の国見山で賊を滅ぼしました。 (白河市) 坂上苅田麻呂の子が、奥州宮田村(郡山市西田町宮田)に産まれました。母は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部を合わせた所らしい)に住んでいた橋本光忠の娘・阿口陀姫で、これがのちの、田村麻呂になりました。田村麻呂は赤津四郎という賊将を打ち破りますが、赤津四郎は多田野村(郡山市逢瀬町多田野)の「鬼ヶ城(地名)」の鬼穴で、または赤津村(郡山市湖南町赤津)布引山の鬼穴で、あるいは丸守村(郡山市熱海町)大峯の蝦夷穴(不動尊の地)で、またその他にも喜久田村(郡山市喜久田町)小室山で、さらには鬼生田村(郡山市西田町鬼生田)で産まれたと伝えられています。 鬼ヶ城には鬼穴という大きな岩窟があり、麓の谷の両側には数個の蝦夷穴が並んで街路のようでした、 田村麻呂は「鬼ヶ平」で対戦し、赤津四郎を射殺しました。血引き金山、矢もぎ山、鬼ヶ平、十牧おって山、真弓山、萩袋、大峯不動尊は、赤津四郎に関係する旧跡です。 (郡山市熱海町) 縁起その他判然としないが、古老の言い伝え等によると「桓武天皇の御宇、田村将軍奥州達ヶ窟に籠りたる、酋長悪路王を伐って平定御凱旋。当時矢田野辺、広原茫々、此処の彼処に人家あるのみ、将軍広原に出給う時、天に祈り、国土守護のため大矢を放つ、此の大矢をもって磐女の神を祭り、磐女大明神として敬う」とあり、矢田野の地名もここから生まれたものと思考され、坂上田村麻呂の勧請と言い伝えられている。 (須賀川市大字矢田野字岩ノ上六一 磐女神社)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.07.14
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この文治五年は、田村麻呂没後三七八年後のことになるから、その長い間に田村麻呂の事績が『すでに伝説化』していたことが見てとれる。 岩手県は、田村麻呂が実際に戦った土地であるから、田村麻呂の話が伝説化する絶対的かつ十分な条件を備えていたと言ってもいい。そしてこの胆沢は仙台領内であったから、宮城県もまたそれなりの条件を備えていたと考えられる。 そこで福島県である。 1 福島県には古くから田村郡という地名があった。 2 前述したように、田村麻呂の子の浄野が田村郡を相続 した。 3 田村郡守山(郡山市田村町守山)の領主の田村氏は、 田村麻呂の末裔を称していた。 4 田村郡三春の領主の田村氏は、田村麻呂の末裔を称し ていた。 5 その後の戦国時代に、三春領主・田村清顕の一人娘・ 愛姫が仙台藩主の伊達政宗の正室として嫁ぎ、二人の 間の孫が胆沢の所在地である一ノ関に立藩している。 これらのことを見てくると、田村地域は田村麻呂伝説を受け入れるだけの下地と条件が揃っていたと思われる。 田村麻呂伝説のメーンストーリーは、大滝根山の戦いと三春駒である。彼はここで悪路王・大武丸と戦ったとされている。しかしこれまでに見てきたようにここでの戦いが事実ではないとすると、まったくの作り話であったのであろうか。いや、そうは思えない。それは田村麻呂より遙かな昔、何らかの戦いがあったのであるが、その後に現れた英雄・田村麻呂と混同、変化したものと考えたい。とすると、それは誰であったのか? という問題に遭遇する。それを知るためには、もっと時代をさかのぼる必要がある。 そこで日本神話やこの周辺での伝説をよく観察してみると、それは日本武尊であったのではなかったかと推測できる。(第一章阿武隈川 日本神話 日本武尊参照)神話によると、日本武尊は東国平定の際、今の棚倉町八槻郷で八人の土蜘蛛に八本の槻弓・槻矢を放ってこれを討ち、蓬田岳(石川郡平田村と旧・田村郡になる郡山市中田町との接点)に棲む吸鬼(水鬼)と吹鬼(風鬼)を討伐し、陸奥国竹水門(たかみなと 南相馬市高字城内・多珂神社)において賊を討ち滅ぼしたとされる。ここで言う土蜘蛛とは、大和に服従しない者という意味である。ということは、土蜘蛛も大武丸も、共にまつろわぬ民(大和に服従しない者)という一点で合致するのではあるまいか。 ここに出てきた蓬田岳と、田村麻呂が戦ったという大滝根山と鬼ヶ城山(いわき市川前町)の三山は意外に近く、十五キロメートル程度の正三角形に近い。このことから、大滝根山と鬼ヶ城山での戦いは日本武尊によるものであったにもかかわらず、『田村麻呂に辺境鎮撫の後方基地として白河、岩瀬、安積、安達、信夫を掌握する位置としての賜田として田村庄が与えられたと推定されている(三春町史 二六五頁)』ということから、田村麻呂の戦いとされたのではないかと想像している。 ところで福島県三春町にある県立田村高等学校の前身である旧制田村中学校の校歌は、次のようなものであった。 1 ああわが中学田村の健児 田村の名に負う大将軍の 子孫に恥じぬ祖先なり 祖先に我らも恥ずべきや 2 学芸の山はよし高くとも 知恵の海はよし深くとも 窮むるになど難からん 祖先の意気を伝えなば この校歌は、田村麻呂を顕彰したものに間違いなく、この地に、田村麻呂の伝説が深く根を下ろしていた状況が理解できよう。古くからの多くの真に迫った伝説と、このような校歌などの例もあって。今も田村麻呂の伝説を実際の話、と考える田村地域の人は少なくない。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.06.21
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田 村 麻 呂 ~ そ の 伝 説 と 実 像 田 村 麻 呂 伝 説 の 伏 線 田村麻呂の祖とされる阿智王は、中国・後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子であるとされる。その後『高尊王—都賀直—阿多倍王』と続き、阿多倍王の孫が坂上氏初代の坂上志努であるという。この坂上志努の子孫が田村麻呂である。坂上氏は大和高市(奈良県高取町)を本拠としていたと伝えられ、その後いくつかの系統に分かれるが、その後も大陸から文化、新知識をもって渡来する人々の監督的な立場となり、これらをまとめることによりある程度の勢力に発展していったものと言われている。田村麻呂の祖父とされる坂上犬養は聖武天皇に武才を認められて重用された。続日本紀には、次のように記載されている。 天平八(七三六)年、陸奥・出羽の二国で功労のあった 郡司と、帰順しているエミシ二十七人にそれぞれの功績に 応じて爵位を授けた。 (続日本紀) 天平八年は石城国や岩背国が置かれて十八年後になる。順調にエミシの慰撫が進んでいる様子が窺えるが、爵位を受けた陸奥・出羽の人たちが、具体的にはどの辺りに住んでいた人たちであったかは不明である。 田村麻呂は天平宝字二(七五八)年に生まれた。 延暦十(七九一)年、第二回エミシ征伐軍が派遣されたが、そのとき三十三歳の田村麻呂は征夷大使・大伴弟麻呂の副使四名のうちの一人として約十万人の大軍を率いて胆沢(岩手県奥州市水沢区)に遠征した。このとき海路ではなく陸路を通ったと思われるから、恐らく東山道から白河関を越え、奥大道を通って行ったものと考えられる。ともかく田村麻呂の実質的戦いの場は胆沢である。後年この胆沢は仙台藩伊達領となるのであるから、伊達領から田村麻呂の事績が伝説化して広まっていったことは、十分に納得できることである。 この胆沢地域は、田村地域からほぼ三三〇キロメートルも北に離れている。すでに大和化されていたと思われる田村地域の大滝根山で、田村麻呂がエミシを討たなければならない理由はまったく考えられない。とすれば、田村地域に残されている田村麻呂伝説のほとんどが、架空のものと言っても過言ではあるまい では何故このようなことが起こったのであろうか。 考えられる理由に、田村麻呂がエミシ征伐の勲功により田村の地を拝領し、三男もしくは四男の浄野が相続したとされることがあげられよう。そしてこの田村麻呂の系統を称した者に、旧・田村郡守山(郡山市田村町)の藤原姓田村氏と戦国時代に覇を唱えた田村郡三春の平姓田村氏がある。田村麻呂とこれら田村二氏の系譜的関係が正しいとにわかには信じがたいが、この地に残る田村麻呂の伝説が生まれたことに大きな影響を与えたことは否めまい。 建長六(一二五四)年に編纂された古今著文集の『赤沼物語』に『田村の郷』という地名が出てくるが、田村麻呂の末裔を称する田村一族の動きが歴史に登場するのは南北朝時代前後からである。しかし南北朝時代そのものが田村麻呂の時代から五〇〇年以上も後になるにもかかわらず、この田村二氏が田村麻呂の系統であるという主張をするには、それに関しての何らかの伝統、といったものがあったのかも知れない。ただ不思議なことは、なぜこれらの田村氏は坂上田村麻呂の名の田村を姓とし坂上を姓としなかったのか不思議であるが、田村という郷名が強く影響したものと思われる。また田村麻呂はフルネームで呼ばれることは少なく、姓の坂上を省略されることが多いのはなぜなのであろうか? 現在、東北各地に流布している田村麻呂に関する最も古いとされる記録が、『吾妻鏡』の文治五(一一八九)年九月二十一日条と同二十八日条にある。 平泉藤原氏を滅ぼした後のこの日、源頼朝は陸奥国胆 沢郡の鎮守府(岩手県奥州市)にある八幡宮に参詣した。 その折、同宮は田村麻呂がかつて征夷のため陸奥に下向 したとき勧請し崇敬した神社で、田村麻呂が奉納した弓 箭(きゅうせん)・鞭などが今も宝蔵に存していると言う ことを耳にした。同二十八日、鎌倉への帰途に就いた頼 朝は、その道すがら一青山に目を留めて、連行していた 平泉方の捕虜にその山の名を尋ねたところ、それは田谷 窟(たっこくのいわや・達谷窟・岩手県平泉町)という こと、そこは田村麻呂・利仁将軍の征夷の際、賊主悪路 王(あくろおう)、赤頭(あかがしら)らが砦を築いた 岩屋であったこと、また田村麻呂はこの窟の前に京都鞍 馬寺を模して九間四面の精舎を建立、多聞天像(北方鎮 護の仏、毘沙門天)を安置して西光寺と命名し水田を寄 付したことなど、既に伝説化している故事が語られた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.06.11
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