三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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10:新たな資料 2015年1月25日、私は三春町歴史民俗資料館学芸員の藤井典子さんから、次の資料を入手しました。その文面をそのまま転載します。『平成13年に斎行された北野天満宮萬燈祭の際、約260燈の吊燈籠の修理を仰せつかり、整理の為個々の燈籠を調査いたしました。その際見つかった燈籠の一つです。奥州三春藩(勤王派 現 福島県田村郡三春町)の秋田廣記藤原實昆が奉納した燈籠です。大政奉還後、全国の藩主に上京招集の令が下されました。しかし、当時の三春藩藩主秋田映季は、幼年・病弱の為名代として上京したのが重臣秋田廣記です。様々な活動の中で慶応4年正月2日に勃発した鳥羽・伏見の戦い(後に戊辰戦争に発展)の報告等を行っています。「三春町歴史民俗資料館」によると、彼の日記には同年9月に北野天満宮にて二両のお守りを購入とあります。『武運長久諸願成就 明治紀元戊辰年九月吉日』と書かれたこれが、そのお守りかも知れません。幕末の混乱期に遠く離れた京都で藩の重責を負い不安であろう日々を過ごした一藩士が居たことを一燈の燈籠がありのままに物語っています。本物が残っている素晴らしさです。 大津市田辺町 株式会社 社寺錺漆 代表取締役 米田滋』 ここから、いくつかの事実が読み取れると思われます。次のことは、藤井さんとの話し合いです。 1:北野天満宮=いま北町にある北野神社は、正式には北野天満宮です。 もともとこの神社は城内にあったことから、(京都市上京区の)北野 天満宮にお参りをしたのではないでしょうか。 2:藤原実昆(読み不祥)=これは平泉の藤原を示唆する姓と思われます が、願掛けであったため、本姓を明確にするためこの名を付け加えた のではないでしょうか。 3:全国の藩主に上京招集の令が下されました。=私はこのように三春町史 の文意から想像していましたが、これにより、傍証が得られたと思って います。 4:社寺錺漆の米田滋氏の推測によりますと、会津降伏以前の参拝と考えて いるということなので、廣記の禁足が解かれた後から会津降伏以前の間 と考えられます。 5:この願文は燈籠の底に書いてあったので、今まで気付かれることがなかった とのこ とでした。 参 考 文 献 一八八一 謹上諫死奉呈文 永沼運暁 松本登氏所蔵 一八八五 熊田嘉膳履歴書 松本登氏所蔵 不 詳 飛田昭規履歴 飛田昭蔭氏所蔵 一九〇九 三春小学校同窓会報告書 第七号 一九一一 仙台戊辰史 藤原相之助 荒井活版製造所 一九二七 二本松藩史 戸城伝七郎 二本松藩史刊行会 一九三四 二本松藩士人名事典(全) 古今堂書店古典部 〃 水戸烈公の国防と反射炉 松本登氏所蔵 一九三八 大島高任行実 松本登氏所蔵 一九四一 戊辰白河口戦争記 佐久間律堂 堀川古楓堂 一九五八 田村の小史 影山常次 石橋印刷所 一九六六 会津若松史 会津若松市 凸版印刷 〃 磐城百年史 荒川禎三 〃 幕末の思想家 中沢護人 筑摩書房 一九六八 戊辰役戦史 大山柏 時事通信社 一九六九 郡山市史 郡山市 大日本印刷 一九七〇 福島県史 福島県 小浜印刷 一九七二 維新変革における在村的諸潮流 三一書房 一九七三 郡山戦災史 郡山戦災を記録する会 不二印刷 〃 二本松藩史 二本松藩史刊行会 歴史図書社 一九七五 いわき市史 いわき市 平活版所 一九七七 郷土史事典 佐藤次男 昌平社 一九七八 城下町に生きた人々 二本松市商店街連合会 松屋印刷所 〃 三春の歴史と文化財 三春町教育委員会 〃 鳥羽伏見の戦いとその史跡 小林専一 一九七九 茨城県幕末史年表 茨城県史編纂幕末維新史部会 理想社印刷所 一九八〇 会津戦争のすべて 会津史談会 一九八二 二本松市史 二本松市 明和印刷 〃 棚倉町史 棚倉町 歴史春秋出版 一九八三 歴史(みちのく二本松落城) 榊山潤 叢文社 〃 鏡石町史 鏡石町 第一法規出版 一九八四 三春町史 三春町 凸版印刷 一九八五 理由なき奥羽越戦争 渡辺春也 シナノ印刷 〃 都路村史 都路村 ぎょうせい 一九八六 秋田県の歴史 今村義孝 山川出版社 〃 宮城県の歴史 高橋富雄 山川出版社 〃 船引町史 船引町 山川印刷所 〃 三百藩主人名事典(一) 藩主人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰落日 綱淵謙錠 文芸春秋社 一九八七 植田町史 雫石太郎 第二巧版印刷 一九八八 三百藩家臣人名事典(二) 家臣人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰東北戦争 坂本守正 大日本印刷 〃 小野町史 小野町 大盛堂印刷所 〃 藩史大事典 雄山閣 一九八九 江戸城総攻め 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史と旅(徳川三百藩大崩壊) 秋田書店 一九九〇 幕末維新人名事典 奈良本辰也 新人物往来社 〃 滝根町史 滝根町 歴史春秋出版 〃 白虎隊と榎本艦隊 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命) 新人物往来社 一九九一 三春城 総合調査報告書 三春町教育委員会 一九九二 天狗党が往く 光武敏郎 秋田書店 〃 霊山町史 霊山町 大盛堂印刷所 一九九五 反射炉 金子功 法政大学出版局 一九九六 明治維新の再発見 毛利敏彦 吉川弘文館 一九九七・十一月 天皇の伝説 メデイアワークス 一九九八 二本松少年隊 星亮一 〃 三春滝桜 長尾まり子 集賛社 〃 戊辰戦争全史 菊池明 新人物往来社 伊東武郎 〃 ・十二月 歴史読本(戊辰大戦争) 新人物往来社 一九九九 浅川町史 浅川町 日進堂印刷所 〃 近代三春の夜明け 三春歴史民族資料館 平電子印刷所 二〇〇一 大越町史 大越町 平電子印刷所 〃 歴史春秋 五四号 会津史談会 編歴史春秋社 〃 日本の戦争 田原総一朗 小学館 〃 明治天皇 ドナルド・キーン 新潮社ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.26
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三春戊辰戦争 9:戊辰戦争に於いての三春は、裏切り者(狐)ではない−2 さらに私はこれを書いているうちに、奇妙な事実に遭遇しました。 慶長7(1602)年、関ヶ原の戦いで徳川方に味方をしなかったとして、温暖の常陸から寒冷の秋田の地に追われた領主に佐竹氏があります。そのため、先祖伝来の秋田の地から押し出される形で国替えとなった領主に三春・秋田氏、新庄・戸沢氏、本庄・六郷氏、矢島・内越氏、それと由利五人衆の仁賀保氏など奥羽の五藩があったのです。この戊辰戦争の際にそれら五藩と秋田藩を含む六藩が、まるで話し合いでもしたかのように新政府の側についているのです。もちろん時期は一致しませんが新政府側に付いたのは、これらの藩ばかりではなく都合十六藩にも及んでいるのです(1990年 歴史読本 勤王・佐幕、幕末諸藩の運命 160ページより)。これら六藩の統一したような行動は、単なる偶然であったのでしょうか? もっとも私としては、それ以外に考えようもないのですが、徳川に対する積年の恨みからこうなったと考えることもできるのかも知れません。 それにしても、慶応から明治、大正、昭和、平成と戊辰戦争後一三〇年も経った今の世に、なぜ三春はこんな風に責められ、苦しめられなければなければならないのでしょうか? 私は歴史の専門家ではありません。しかしこのエッセイが、三春を「狐よ裏切り者よ」と責める側にもそして責められた三春の側にも、なんらかの再考の材料になることがあるとすれば、望外の幸せです。しかし今後、この仮説を覆す資料が出た場合、修正するにやぶさかではないことを付け加えさせて頂きます。つまり歴史とは、そんなものかも知れないのですから・・。 過日、私は、茨城県古河市に住む友人と裏磐梯に遊びました。戊辰戦争の戦場の跡である会津と二本松の中間の母成峠に至ったとき、碑文を読んでいた彼が尋ねました。「ここでは、西軍、東軍と言うのかね?」 奥羽越の人たちが、「賊軍」と言われることを嫌った記念碑の表記でしたが、彼には違和感があったらしいのです。なお古河藩は、新政府軍としてこの戦争に参加しています。「やはり、『官軍』『賊軍』の感覚かね?」 この私の逆襲に、彼は戸惑ったような表情を浮かべながらこう言いました。「そうはっきりではないが、それに近いものを感じていた。なぜなら東軍・西軍では関ヶ原の戦いと勘違いされそうだし、その上に東西ではどこからが西でどこからが東なのか、抽象的で分かり難い。歴史を真綿でくるんでしまうような甘さを感じさせられる」 なるほどそう言われてみると、私にも東軍・西軍という名称が全国的に認知された名称、とも思えなくなったのです。 これらのこともあって、私はこのエッセイの中で『官軍と賊軍』、さらに『東軍と西軍』に変えて、あえて『新政府軍と奥羽越列藩同盟軍』の文字を使用したのです。あの戦争で賊軍とされた地に住む者の一人として、やはり「賊軍」という文字は使いたくなかったのです。 戊辰戦争における最大の悲劇は、平和を希求したはずの奥羽越列藩同盟が攻守同盟に変質し、明治天皇に抵抗する賊軍・朝敵と目されたことにあります。しかもこの戦いは、歴史としてきちんと総括されていないのです。 三春藩は大政奉還後間もなく朝廷に奉った主旨を守り、新政府軍に対して、また同盟軍に対しても一発の銃弾を撃つことをしませんでした。三春藩は周辺の藩からどう蔑まれようと、朝廷を裏切らなかったことをもって了とすべきなのかも知れません。そして戊辰戦争の終った翌明治2年、三春藩は町人67人に、『右之者共 去秋官軍諸藩町家江宿陳炊出し宿割夫夫ニ骨折相働候ニ付御酒被下候』と表彰しています。この中に私の家の本家・橋本孫十郎と私の曾祖父・橋本捨五郎(孫三郎)の二人も含まれていました。 最後に、『宮城県史 202ページ』からの一文を転載したいと思います。『“二面両舌”まことによく仙台藩の立場を浮き彫りにしている。幕末維新にあたり、公武のあいだに立って去就を決しかね、ついにもっとも恐れた朝敵として崩壊していった仙台藩の中間外交は、こうしてもう矛盾をあらわしはじめていた。”あれかこれか”の選択がせまられた最後の段階でも、この藩は”あれでもない、これでもない”といった。それを”あれもこれも”という形式に表現したのが奥羽越列藩同盟であった。それが、本来幕府党ではないはずのこの組織を、幕府党として機能させ崩壊させていく理由にもなる。そして仙台藩のこの道がそのまま北日本一円の諸藩の進路ともなった。その点で、幕末維新の政治史においてこれ以上に罪の深い両面外交はなかった。』 私は三春町史とは異なってここまで書ける宮城県史は凄いと思いますし、立派なことだとも思っています。なお仙台藩は、62万石から28万石に減封されて仙台県となりましたが、明治5年、宮城郡の名をとって宮城県になりました。この名称の変更は、朝敵藩の名称を抹殺するためであったという説がありますが、これはジャーナリストの宮武外骨が唱えた説で、実際は該当しない都道府県がかなり多いので、俗説であるとされています。 ありがとうございました。 資 料 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命一六〇ページより) (同盟側) (新政府側) 仙台藩 六二・五万石 秋田藩 二〇・五八万石 会津藩 二八 高田藩 十五 南部藩 二十 新発田藩 十 米沢藩 十八 弘前藩 九・四 庄内藩 十六・七 新庄藩 六・八二 二本松藩 十 三春藩 五 棚倉藩 十 松前藩 二 長岡藩 七・四 守山藩 二 中村藩 六 本庄藩 二 山形藩 五 秋田新田藩 二 村上藩 五 与板藩 二 一関藩 三 黒石藩 一 平 藩 三 下手渡藩 一 福島藩 三 椎谷藩 一 上山藩 三 糸魚川藩 一 村松藩 三 矢島藩 〇・八 松山藩 二・五 八戸藩 二 泉 藩 二 亀田藩 二 天童藩 二 湯長谷藩 一・五 七戸藩 一・一 三根山藩 一・一 米沢新田藩 一 長瀞藩 一 黒川藩 一 三日市藩 一ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.16
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三春戊辰戦争 8:戊辰戦争に於いての三春は、裏切り者(狐)ではない−1 世上言われる三春狐という謗りは、会津や二本松藩が自己の敗戦の理由を他に転嫁しようとしたことなどにあるのではないかと思っています。例えば二本松藩は、無主となっていた白河領を預かっていたことに一つの理由があったと思われます。そのため奥羽列藩同盟が平和同盟であったときから、そして攻守同盟に変質してからも、白河城の攻防戦において多くの奥羽諸藩の援軍を二本松藩は受けていたのです。そのために、援軍を出した藩でも、多くの死傷者出していたのです。これらの命に対しての二本松藩の義理は、大きかったと思われます。それが、二本松藩を戦いに駆り立て,遂には白虎隊に先立って少年たちを戦場に送り込む結果になったのではないでしょうか。 戊辰戦争において、三春藩が戦ってくれれば、という話を聞くことがあります。しかし五万石の三春藩は、そんなに強力な戦力を持っていませんでした。全兵力はわずかに250余名とされていたのです。それにも拘らず、三春に至るまでの戦いに於いて、一般の領民も含めて、死傷者は0であったいう事実は、むしろ褒むべきであったとさえ思えるのです。 なお、この戦争の結果である会津藩と庄内藩の処分については、対照的なものがありました。会津藩に対する処分は、『斗南3万石に転封』というものでした。斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められていた土地柄で、実際に年貢として納められた米は7310石だったそうです。この収容能力を遥かに超える所に移住した旧会津藩士と家族は、飢えと寒さで病死者が続出し、そのため斗南を離れ、日本全国や海外に去る者もいたのです。一方の庄内藩に対する処分(17万石から12万石に減封)は、西郷隆盛らによって寛大に行われているのです。 奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2(1869)年には一応の賞典禄が与えられました。しかしそのいずれも、新政府側からは同格とは見なされることはなく、思うほどの恩恵を得られなかったとも言われています。この戦後の仕置きを不満とした藩や藩士の数は多く、後に旧秋田藩領では反政府運動が、また旧三春藩領では自由民権運動が活発化しているのです。 この戊辰戦争は、福島県内に深い傷を残しました。その深い傷を次の言葉が表していると思っています。 曰く 仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松 会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒 (違い棒は二本松・丹羽氏の家紋) 会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ね 三春狐 に騙された。 馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された。 会津猪 米沢狸 仙台兎で踊り出す。 会津猪 仙台むじな 安部(棚倉藩主)の兎は よく逃げた。 会津猪 米沢猿で 新発田(新潟県)狐に 騙された。 これらのはやし言葉の中で動物になぞらえられて出てくる県内の藩は、会津猪、三春狐、二本松兎、棚倉兎ですが、このはやしと類似したものに『会津猪 米沢猿で 新発田狐に騙された』というものがあります。狐とされた藩は、三春の他に新発田もあったのです。ここで問題にしているのは、三春狐です。それは今でも、奥羽列藩同盟の側であった人たちから三春の人はずる賢いと言われ、排斥される場面があるからです。たしかに三春狐の出てくる句を見てみると三春は騙した側となっていかにも悪者となっています。しかしそれは、どんなことだったのでしょうか? まずその前に、これら動物の意味するところを見てみたいと思い、三省堂の大辞林で調べてみました。 猪:思慮を欠き向こう見ずにがむしゃらに突進する。 (会津) 狢:アナグマの異名。狸のこと。 (仙台) 兎:実際の役には立たない策略。(兵法) (仙台・二本松・棚倉) 狸:表面はとぼけているが、裏では策略をめぐらす悪賢い人 のこと。 (米沢) 猿:小利口な者をののしっていう語「︰︰真似」「︰︰知恵」(米沢) 狐:狐は人をだましたりたぶらかしたりすると俗にいうことから、 悪賢い人、他人をだます人。 (三春・新発田) 動物になぞらえられたこれら意地悪な歌は、内容から言っても同盟側が自嘲的に歌ったものとは考え憎く、新政府側が敗れた側の奥羽越列藩同盟諸藩を揶揄して歌ったものと思われます。それにもかかわらず「三春狐」のみが悪くそして長く伝えられたのは、敗れた奥羽越列藩同盟側が敗戦の憂さをこの戯れ歌に託したからではないでしょうか。しかしより小さな守山藩には、揶揄される言葉はありません。それは後ろ盾としての、大・水戸藩がバックあったので遠慮をしたのではないでしょうか。それらを考え合わせれば、同盟側諸藩が敗北の痛みを癒すのに、三春藩は丁度よい地域的位置(会津藩の隣の二本松藩の隣)と五万石という規模にあったことからかも知れません。 ものを書くことで歴史を辿ってみると、今までに理解していたこととは逆のことに突き当たることや、新しいことに遭遇することは決して珍しいことではありません。例えば私は、こんなことを経験しています。 私の会社は家庭用品の卸売業を営んでいました。それもあって、二本松市のお得意先の小売店の結婚式に招かれたことがあったのです。そこでたまたま隣に座った二本松商工会議所の方と雑談をしていたのですが、私が三春出身であることを知ると、「二本松藩は馬鹿だった。もし三春藩と一緒に恭順していたら、あんなひどいことにならなかったろうに・・」と言われたのです。 ——二本松なのにそう考える人もいるんだ。 そう思うと私は返事に詰まり、黙ってしまいました。 またこれに関連することで、神山潤氏著『歴史〜みちのく二本松落城〜』の『田舎武士の目』に、次のような記述がありました。『いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った』 次にもう一つ、中島欣也氏著『裏切り〜戊辰、新潟港陥落す〜』の『あとがき』から引用させて頂きます。『しかし裏切りとは何なのか。戊辰戦争の新発田藩は、それに該当するものだったのか。それは、「けしからぬこと」で一刀両断できるものなのか。またそれが、けしからぬ裏切りだったとしても、それを責めることのできる人がいるのか。 非難というものは、その相手の立場に自分の身を置いてみる、とまではいかなくても、最小限相手の物差しを知り、その行動を検証したうえで、行なわれるべきものであろう。それを避けて通っていながら先入観や固定観念だけで非難が定着するのはおかしい。そう私は思うのである』 戊辰戦争の時期に歌われたこの戯れ歌に、どれだけ多くの歳月、そして多くの三春の人々の心が痛めつけられたか? それが今に至るまで続き、何の検証もされず、さらに今後も歴史的事実として継承されて行くとすれば、これほど悲しいことはありません。そんなことを考えているうちに、この戦いの本質と思えることが、『2001年 ドナルド・キーン著 明治天皇・上巻 249ページ』に記載されているのを見つけたのです。次に転載してみます。『北(奥羽)における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に天皇の心に響く出来事が控えていた。しかし、明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されなければならなかった』 この記述から考えられることは、戊辰戦争の現場で起こった三春狐や新発田狐という中傷が新政府本来の意図を隠蔽する材料に利用され、その上悪いことは、戦いの総括をしなかった結果として『官軍・賊軍』という未了の課題を今に引きずらされた、ということなのかも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.05
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三春戊辰戦争 7:恭順の代償 慶応4年7月26日の新政府軍の三春到着に際し、藩主は菩提寺に入って謹慎をし、嘆願書を提出しました。三春町史には読み下し文で、次のように記載されています。『今般奥羽御征討のため、官軍御指向、既に当藩にも御参着に相成候処、当家に於いては素より朝命遵奉の儀聊か動き御座なく候処、兼て小邑微力にて大国の間罷り在り、其指揮行き届かず止むを得ざる次第、私はじめ家中一統幾重にも恐れ入り存じ奉り候。依て居城並に領地人民共に指上げ、菩提所へ相退き家来一同謹慎罷り在り申し候。右等の事情御憐察なし下され、何れにも寛大の御沙汰を蒙り奉り度く此段宜く御取成下され候様仕り度く、嘆願奉り候。以上。慶応四辰年七月 秋田万之助』同 日、町家に止宿していた同盟兵の詮索がはじめられ、中町井筒屋前で仙 台兵が一人斬られた他に、7〜8人が捕らえられました。一方、薩 摩と土佐藩兵は、三春領に接している二本松諸番所を、百姓の案内 で急襲しています。 翌27日、参謀局より秋田主税と重臣荒木国之助・小野寺舎人らが呼び出され、 嘆願が認められた上、「追って御沙汰まで城地・兵器・人民を預り 置く。また出兵を申しつけるので功を立てよ」との口達がありまし た。(三春町史766ページ)またこの日、錦旗印章を授けられた 三春藩兵一小隊は、新政府軍の案内役として二本松領の糠沢村や高 木村に進出しています。 28日、総督府参謀より、次の達しを受けました。 『諸藩進撃ニ付教導之者指出候様 参謀方より御達ニ付相勤候事』。 これは三春藩が、新政府軍に完全に組み込まれたことを意味しているのではないでしょうか。 29日、新政府軍は大壇口の二本松少年隊を含む防御線を破り、二本松城を落 としました。この日の戦いでも三春兵に死傷者はなかったのですが、 これは最前線に立たなかったということなのかも知れません。 8月4日:相馬藩、新政府軍に内通.相馬藩もまた仙台藩に、『裏切り』と責め られることになります。 8月6日:相馬藩、新政府軍に降伏。 三春が戦渦から逃れ得た8月16日、白河口総督より城地はこれまで通りとされ、藩主の謹慎が解かれ、本領も安堵されました。沙汰は次のようなものであり、同時に京都の秋田廣記も禁足が解かれたのです。『右不得止情実より而、一旦賊徒一味の形跡を成し候得共、賊を掃攘し、官軍を迎、降伏候段、被聞食届、格別の思食、謹慎被免、城地是迄通、被下置候條、爾後闔の方向確定し、王事勤労可相励旨 御沙汰候事 八月 秋田万之助』 二本松市史741Pに『此後二本松領取締りの義ハ当分三春藩へ仰付られ翌年二月迄三春より諸役人参り支配仕居候事八月中旬先殿様十万石召し上げられ大隣寺へ御入寺御謹慎仰蒙られ候ニ付急ニ米沢より若殿様頼丸御養子御縁組ニ相成更ニ下しをかれ候事ニ仰付られ候へ共当時三春の御取あつかいニ而半年貢御取立ニ御座候御前様御奥様共米沢より龍泉寺へ御引取仮ニ御住居御座候 諸士の家内四千人程米沢より引取在々へ割付ニ相成乳のみ子迄ニ七合扶持被下三春より日々御渡しニ御座候』とあり、三春藩は、二本松藩領安達郡内阿武隈川右岸一帯(旧二本松領東安達)の地の支配を命じられています。またこの頃、守山藩が郡山の支配を命じられていますから、二本松領は2つに分断されることになりました、そして二本松藩取締を命ぜられた三春藩は、三春藩使者の斬殺に関して、直ちに使者殺害の町人を探ねた」そうです(二本松市史936P・続ふるさとの伝え語り93P)が、その詳細は分かっていません。 8月20日、新政府総督府が、前線の北進に伴って白河より三春に移って来まし た。総督代行の鷲尾隆聚と阿波の徳島藩兵の行列は、赤沼まで迎え に出た三春藩重臣らに案内をさせ、白地に『奥羽追討師』という旗 を掲げて藩主の御殿(いまの三春小学校)に入りました。鷲尾隆聚 はさっそく郡山・本宮・二本松・福島に兵を展開し、会津攻撃の準 備をはじめました。三春の龍穏院には野戦病院が開設され、医者は 佐倉藩より二名、薩摩藩より一名で、荒町の大阪屋に宿泊しました。 ここには手負や怪我人が収容され、看護には若い女性二十人ほどであ たりました。 8月24日、三春藩は旧二本松領の本宮警備を命じられ、赤松則雅の小隊を派遣 しました。 8月25日、白河より正親町(おおぎまち)総督が三春に入り、御殿の門前には、 『正親町殿本陣』の看板が掲げられました。 8月26日、大山巌は鶴ケ城の戦いで右股に貫通銃創を受け、三春の龍穏院の野 戦病院に入院、のち白河に移されています。大山巌は後に陸軍元帥 となり、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族 院議員を歴任していますが、西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたり ます。なお巌の次男の大山柏は公爵、貴族院議員、考古学者、文学 博士、戊辰戦争研究家の顔を持ちながら、陸軍少佐となっています。 『戊辰役戦史』の著者でもありました。 間もなく三春藩は、磐城平民政局より、次のように命じられています。 『達 三春藩陸奥国安達郡本宮組、玉井組、杉田組、渋川組、信夫郡八丁目組、当今之内民政筋取締被仰付候事 磐城平民政局 御判』(二本松市史749P) これにより三春藩は、旧二本松領の半分をその支配下に置くことになったのです。 9月 3日:米沢藩、新政府軍に降伏。 9月12日:仙台藩降伏。 9月15日:福島藩降伏。 9月16日、会津進撃のため、中山口へ一小隊50名と三挺の大砲隊が派遣され た。 9月17日:山形、および上山藩降伏。 9月22日:会津藩降伏。三春兵は若松に着陣したが、すでに会津藩は降伏して おり、戦うことはなかった。 9月24日:盛岡藩降伏。 9月27日:庄内藩降伏。 この戦争の目標とされた会津藩の降伏が9月21日でしたが、奥羽越列藩同盟のリーダーの一つの米沢藩が18日前、仙台藩が9日前に降伏しています。この両藩が会津藩より先に降伏したということは、会庄同盟と奥羽越列藩同盟とが一体ではなかったということになるのではないでしょうか。そして会津藩降伏3日後に盛岡藩が降伏しています。そのような中で、会津藩降伏の6日後になって庄内藩が降伏していますが、これは庄内藩が会庄同盟に殉じたということになるのでしょうか。庄内藩は結果的には恭順したものの、最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。なお戊辰戦争直前には、会津藩とともに、当時のプロイセンとの提携を模索していことが分かっています。(ウィキペディア・庄内藩より) 二本松市史742ページには、『一巳(明治2)二月九日、殿様御謹慎御免 三春より御引渡ニ相成』とありますが、これは二本松藩主の身柄が三春藩の監視下にあったということを示唆しているのでしょうか。 また明治二年、二本松丹羽氏は、半知五万石で家名存続が許されました。(二本松市史912ページ) 二本松藩は10万石でした。しかも二本松藩は、白河10万石も預かっていましたから、実質20万石であったということになります。幕政時代の命令系統は、10万石以上は幕府から直接、それ以下は10万石大名を通じてなされていました。ですから三春藩は、二本松藩を通じて連絡を受け取っていたと思われます。しかしこのことから、二本松(十万石)→三春(五万石)への命令もしくは連絡網について一つの疑問が発生します。それは『2:徳川慶喜追討援護令』で述べた列藩主招集の命令のことですが、これを三春藩が知って使者を上洛させているということは、二本松藩も知っていたはずです。しかし二本松市史にそのことの記載がないようなのです。二本松藩がなぜ列藩主招集の命令に応じなかったのか、その理由は不明です。 三春藩や守山藩より上の立場にあったと自負していた二本松藩。その二本松藩が藩主の身柄監視はもとより藩内の警備まで三春藩と守山藩に分割統治されるという、ある意味占領されたという恨みが、水戸藩と関係の深い守山藩を避け、『三春狐』に凝縮したのではないでしょうか。新政府軍が歌っていた歌は、次のようなものでした。 会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ね 三春狐に騙された。 馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された。 三春は長年にわたってこのように謗られ、高価な代償を払わされる結果となったのです。ブログランキングです。←ここにクリックを
2015.01.26
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三春戊辰戦争 6:和平の使者、二本松で斬殺さる 日にちが明確ではないのですが、三春より二本松へ帰順勧告の使者を派遣している事実があります。二本松では7月27日に三春から来た使者を翌28日の朝に斬殺したとされているのですが、三春側の記録では27日(時間不祥)に殺されているとされています。どちらが正しいのかは不明ですが、これに関して二本松市史 第六巻 739ページに、次のような記述があります。『三春は奥州一致の体ニ見せ候て官軍へ内通致しおり候や三春城下へ官軍入候と直ニこふさんと見へ御城共ニ無難ニ而是より官軍と成二本松領へ越候節先案内者ニ相成り候事と御座候右之次第候処三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげゆきニ御座候』(傍点筆者)とあり、また同誌936Pには『町兵は自警団的な役割を果たし、三春藩使者の警護に当たったのは、若宮・松岡の町兵で一ヶ月も前から訓練を受けていたと語っている。』ともあります。 この『参りおり候処』という記述は、殺される何日か前から二本松に着いていたと考えてもいいのではないでしょうか。この殺すという判断は、二本松に新政府軍が近づいている恐怖の中で、たった半日や一日の短い時間の間での結論とは考え難いからです。 また同じ二本松市史935Pに、『三春藩の使者が「町兵三人斗にて一人の御士を槍にてつき留、其後首討取候様子に御座候」とある。この使者は、三春藩の使者の中の大関兵庫のことと思われるが、明らかではない。』とあります。 さらにもう一つ、『城下町に生きた人々 七六ページ』から転載してみます。『二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。 別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。 二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。 藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。』 田村小史には、 「七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる」と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」と語り、家中の人(士族)は、「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。」』 これは二本松で出版されている本ですから、信用してもよいと思われます。このように二本松市史からは殺害日の確認はできませんが、『城下町に生きた人々』には27日に来た三春藩士を28日に殺害とあります。そして7月29日、二本松は落城したのです。 三春・佐久間真氏所蔵の『明治維新三春藩殉難諸士事跡概況調書』には、次のような記述がある。 ● 大山巳三郎 奥羽列藩同盟の関係上藩命により二本松藩に使したるものなら ん。七月二十七日三春藩帰順するを知るや、その故をもって二本松藩のため に虐殺せらる。行年 二十四歳 墓地 州伝寺。 ● 不破関蔵 奥羽列藩同盟の関係上藩命により数士と共に仙台藩に使したるも のならん。時局逼迫するや数士を残置し渡辺喜左衛門と共に帰藩の途につき 偶々二本松城下において大山巳三郎と会す 七月二十七日三春藩官軍に帰順 するを知るや、その故をもって大山・渡辺両氏と共に遭難 戦死す。 行年 五十九歳 墓地 福聚寺。 ● 渡辺喜右衛門 不破関蔵に同じ。墓地 光岩寺。 ● 高野村 農民 橋本周次 三春藩官軍に帰順した旨を、二本松城下に使者と して派遣せられたる藩士に通達すべく任せられたる、叡感勅書せられたる使 者なり 大山・不破・渡辺と共にして遂に戦死したるものの如し。墓地 二 本松城下。 ● 大関兵吾 奥羽列藩同盟の関係上により福島藩に使したるものならん。三春 藩官軍に帰順するを知るや、その故をもって仙台藩兵の為に惨殺せられ、首 を梟れ体は阿武隈川に投せらると云う。行年 四十六歳 墓地 龍穏院。 ここにある三春藩士三名の行動は、『奥羽列藩同盟の関係上藩命により』とあるだけで内容の記述はありません。しかしこの時期、三春藩が二本松藩に伝えることは、『恭順』以外は考えられません。そしてそれは恐らく、単に三春藩恭順の結果報告だけではなく、二本松へ恭順勧告をしたものと考えられます。『城下町に生きた人々』にある四名は、三春藩帰順の何日か前から二本松に恭順勧告のために滞在していた大山と、仙台から帰る途中の不破、渡辺、それと三春藩恭順を知らせに来た高野村の農民、橋本周次と思われます。 また『二本松市史 第六巻 七三九ページ』によると、殺害されたのは一名であとは逃亡したとあり、『城下町に生きた人々』とこの死者数の点では一致していません。ただし、これを書いた人から見えない場所に逃亡後、そこで殺害されたとも考えられます。なお同ページに、「たんさくの御方・・・弐三人参りおり候処」(傍点筆者)と記述されていることは、二本松藩は三春藩による恭順勧告を、三春藩帰順の何日か前から受けていたことを示唆しているとも思えます。 なお『城下町に生きた人々』にある7月27日は、三春舞鶴城無血開城の日です。この書と二本松市史との間には、二本松藩を訪れた日に若干の齟齬があるように思われます。いずれ調査の必要もあるでしょうが、三春藩恭順以前に勧告に来たとも考えられます。いずれにしても、二本松での戦争以前であることでは一致します。 実はこの時期、三春に派遣されて龍穏院に宿泊していた二本松兵が、隣接していた荒町の馬頭観音の丘に兵を集め、舞鶴城攻めの気勢を上げていました。小野新町に兵を出して手薄となっていた三春藩は、三春領駐留の諸藩兵が呼応すれば三春城の落城は確実と思われました。何故なら、三春城は天明5(1785)年の大火で本丸・御殿までが焼け落ち、その後城郭としての再建には至らず、戊辰戦争の際には御三階のみが修復されていただけでした。つまり御三階は、籠城戦に耐え得る施設ではなかったのですから、重臣の細川可柳をこれの交渉に派遣したのでしょう。どうやら説得したとされますが、切り札として、二本松藩に恭順説得の使者を出したことを説得材料としたのではないかと思われます。 二本松落城後の8月21日、二本松と会津の間の母成峠で、7時間に及ぶ激戦がありました。それに関連して、加藤貞仁氏のHP『幕末とうほく余話』に、次の文が載せられています。『この戦いで勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。彼らは道なき深山を迂回し、会津守備隊の側面を奇襲したのだ。この奇襲部隊の道案内をしたのは、峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所をなくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすために、道案内を買って出たのである。』 ここでも新政府軍は、挟み撃ち作戦を使っています。これは正面作戦を常とする同盟軍に対して、挟み撃ちを可能とする新政府軍の最新式? 戦術であったとも想像できることから、常套的に多用していたと考えられます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願い
2015.01.16
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三春戊辰戦争 5:小野新町の疑惑 三春から笠間藩領飛地の小野新町までの距離は約32キロあります。ですから戦いの装備を持った兵が移動する場合には、約9時間かそれ以上の時間を要したと思われます。 磐城平藩を落とした新政府軍は、浜海道軍と山道軍の二手に分かれ、進撃を始めました。山道軍が進む三春街道の要衝が、小野新町だったのです。この小野新町防衛のため派遣された二本松兵が明神山(塩釜神社)に大砲を備え付けて防衛に当たり、仙台藩角田兵と三春兵が明神山から約1、5キロ西の小野赤沼地区に展開していました。ところが三春藩は、この小野新町でも、古館山と同じように挟み撃ちをしたとの汚名を着せられてしまうのです。では、実際はどうであったのか? 各地の資料や町史などから、おおよその事情を探ってみました。 先ず『復古外記72頁』によりますと、佐土原藩・島津忠寛家記の7月26日の項に、『平を夜明け前に進発。上三坂にて薩摩、備、大村の兵と合流、直ちに仁井町に向かった。仁井町に入る前から、待ち受けていた同盟兵の砲撃を受けた。砲隊は各藩と本道を進撃、銃隊は本道の左にあたる𡸴山を越え、背後から突いた。同盟軍は敗退したので、直ちに笠間藩飛地と三春藩の境にある広瀬に進撃、同夜は三春藩領の大越に宿営した。翌27日、棚倉から進撃して来た薩摩兵と、三春で合流した。』とあります。その他の各藩の記録にも、三春が同盟軍を挟み撃ちにしたという記録はまったくないのです。 地元、二本松藩史の170ページには、こうあります。『七月二十六日、払暁西軍四方より来り、三春藩(実際は笠間藩・著者注)領内、小野新町を攻撃す。時に我が藩兵、三春藩応援として銃士隊長大竹與兵衛等卒える所の約二個小隊同地に在り。衆寡敵し難く、苦戦して三春の応援を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を教導して我が隊を包囲す。我が兵驚愕、軍遂に潰ゆ。』 それからもう一誌、二本松市史巻1の808ページにはこうです。『同日(七月二十六日)平から進み上三坂(いわき市)まで来ていた海軍は、谷津作・田原井(小野新町)を経て払暁小野新町明神山陣地の二本松勢攻撃を行った。二本松大谷隊は衆寡敵せず苦戦となり、三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての計画通り西軍に降り、西軍を教導して大谷隊を包囲した。これにより二本松勢は潰走し、海軍は同日大越に宿陣、翌二十七日板垣軍の後から三春へ入城した。』 この二本松の二誌共に、三春兵が二本松兵の守る明神山の援軍とならず、逆に新政府軍を教導して包囲したと記しています。それではここから、別の資料で見てみます。 小野町史の597ページには、『二本松藩隊長大谷與兵衛、平嶋孫左衛門物頭役ニて上下弐百人余宿陣三春藩隊長渡会助右衛門物頭赤松兵太夫二小隊宿陣仙台角田藩八十人程三春藩加勢トシテ同より宿陣之処官軍・・・谷津作田原井口より進撃シテ発砲二本松藩明神山(塩釜神社)ノ内新社地江仮台場ヲ造リ・・・双方打合候・・・奥州勢五〜六人即死三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸神辺ニて敗北帰城ニ相成候由仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃去候由直様廿六日四ッ半頃二本松敗北ニ相成』とあります。 ここでは、三春兵の加勢として仙台藩の角田兵が来ていたが、戦いが始まると直ぐに広瀬村(三春領)に逃げ去ったとあります。この仲間の逃走に浮き足立った三春兵は小戸神に撤退、戦わずして三春に向かったと思われます。ただし角田兵の動向について、二本松の藩史・市史ともに記述がありません。 そして大越町史657ページには、次のように書かれています。『七月二六日朝、小野仁井町ニテ官軍方、二本松・会津・仙台戦有、奥州勢敗ス。三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦・・・・・薩摩藩届(太政官日誌九〇)によると山道軍渡邊清左衛門隊は、渡戸・上三坂に宿営し二六日暁二時出発、仁井町手前の賊徒台場を砲撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬関門まで追撃する。最早夕六時頃になり、大越村に宿陣する。』とあります。ここでは、小野新町での戦闘が、午前8時頃終ったとしています。また前述の小野町史には、『四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北ニ相成』とありますが、これは8時頃終った組織的戦闘の後の、散発戦を意味しているのかも知れません。しかもこの大越町史に記載されている薩摩藩届も、角田兵の動向についての記事がないのです。 ところで、小野新町での戦いが始まったのは仏堯とありますから、朝の4時頃と想定してみました。しかしその後に起こった角田兵の逃亡や三春兵の小戸神への撤退の時間は明確ではありません。例えば仮に、三春兵が4時30分頃小戸神を出発して三春に向かったとしても約9時間が必要ですから、三春到着は午後1時30分頃になったと思われます。しかもその背後からは、小野新町を破った新政府軍が進軍して来るのかも知れないのです。三春町史によると、浅川からの新政府軍先発隊が、この日の昼頃三春に入っています。その直後の1時30分頃、小野新町からの三春兵が三春に戻って来たことになります。それなのに三春兵が、また9時間を掛けて、しかも新政府軍と衝突するかも知れない小野新町に戻り、明神山の二本松兵の背後を襲うなどということができるものでしょうか。もし仮にそれができたとしても、午前8時頃に明神山は落ちているのです。それでは、時間が合いません。なお三春町史には、小野新町の戦いについての記載がありません。 ここで各市町史などを参考に、時系列的に整理すれば次のようになると思われます。 笠間藩領・小野新町。明神山に二本松兵が、赤沼に仙台藩角田兵と三春兵が布陣。 七月二十六日 1 払 暁 戦闘開始。 (二本松藩史、二本松市史・大越町史) 2 間もなく 角田兵が明神山の裏手を通り、広瀬村 (三春領)に逃げ去る。 (小野町史) 3 4時半頃? 三春兵は赤沼の西の小戸神に退去、その後 三春を目指す。 (小野町史・大越町史) 4 七時〜八時 二本松兵が、広瀬村方面に敗退。 (大越町史) 5 十一時頃 散発戦で二本松兵が敗北。 (小野町史) 6 午 前 中 小野新町を占領した新政府軍の一手は広瀬 村、他の一手は柳橋村(郡山市)から三春 に進撃。 (三春町史) (小戸神から三春を目指した三春兵はこの 道を通っているので、小野新町に戻ること は不可能) 7 昼 頃 浅川から進出して来た新政府軍先発隊が、 三春に入った。 (三春町史) 午後1時半頃、小野新町から三春兵が戻ったか?(筆者推測) これらのことは推測であったにしても、仮に小野新町に出ていた三春兵に新政府軍と共同作戦の命令があったとすれば、三春藩と新政府軍の間で話合いがあったはずです。しかし進撃中の新政府軍とそのようなことがあったという記録はありません。と言って、現地の司令官に、挟撃命令を出す権限はないと考えるべきでしょう。 話が変わりますが、2014年6月11日の『福島民報サロン』に、次のような記事がありました。『小野町は幕末まで一部を除き、茨城県の笠間藩の飛び地領』でした。いわき市の合戸、三和、三坂から夏井、小野新町までは平の神谷にあった陣屋の支配下にありました。慶応元(一八六五)年、小野町では国内の混乱を鑑みた笠間藩の指示で、農民兵が結成されていました。農民兵は藩兵の常駐しない地域で不測の事態に対応するための「予備軍」との位置付けです。予備軍は薩長土肥を主とした西軍と戦うのではなく、早くに西軍に恭順した笠間藩の奥羽列藩からの自衛が目的でした。』 この記事から考えられることは、新政府軍が攻め込む以前に、小野新町には新政府側である農民兵がいたということです。ですから新政府軍が小戸神に退いた三春兵を攻撃した際、農民兵と共同作戦をとったとも考えられ、三春兵が逃走した後、共同で明神山の背後に回ったとも考えられます。つまり挟み撃ちの形になった折に聞こえた農民兵の会話が田村地方の言葉であったことから、三春兵が挟み撃ちをしたという誤解になったのではないでしょうか。二本松市史巻1の808ページにある、『西軍を教導して大谷隊を包囲した』という記述は、このことを示唆しているのかも知れません。 ところで仙台藩角田兵は戦争がはじまると直ぐ広瀬村へ逃げ去ったとされています。広瀬村は三春領であり、笠間藩領小野新町との境であったのです。それでも三春兵は赤沼村を守っていたようですが新政府軍の攻撃を受けると小戸神の辺りに撤退、三春に戻っています。これに関して大越町史には、『三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦』とあるのですが、角田兵に関しての記述はありません。ただし戊辰戦争中、仙台藩兵は俗に『ドン五里兵』と揶揄されているのですが、これは大砲が『ドン』と鳴ると戦わずして五里も逃げたとされた意味です。これについて余計なことかも知れませんが、『上田秀人著 竜は動かず』より少々転載させて頂きたいと思います。『戦国時代の末期、林立する国人領主や小名を吸収することで勢力を伸ばした伊達藩の構造は歪んでいた。かっての国人領主たちを重臣として遇しただけでなく、要害と名を変えた支城を与えている。これは藩内に藩を設けるに等しいことであった。おかげで伊達家が担うべき軍備費を押し付けることができたが、同時にそれは、重臣たちが持つ兵力を、伊達家が自由に使えないということを意味した。つまり各要害主が、例えば角田要害の主が、伊具郡という自領を守るため兵力を温存する必要があったということである。』 想像するに、このことは単に仙台藩兵が弱かったというのではなく、各要害の兵が自領要害防衛という意識から兵力温存の姿勢につながり、戦いに対して消極的になったのがその理由であったのではないかと思っています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.06
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三春戊辰戦争 4:浅川の戦い 慶応4年5月1日、三春藩は、同盟側により棚倉出兵を命じられました。白河の攻防戦に備えての出兵であったのでしょうが、すでにこの日、白河は新政府軍により奪回されていました。しかしこのような事情の中で三春藩が出兵すれば朝廷に刃を向けることになり、出兵しなければ同盟の各藩に押しつぶされることになります。ある程度の時間を費やしたのち、三春藩は出兵の決断をしたと思われます。この三春藩の白河への出兵遅延と、引き続いた須賀川結集への遅滞は、朝廷への消極的忠義の姿勢であったのではないでしょうか。 5月3日、秋田、秋田新田、弘前、黒石、本庄、矢島、亀田、新庄、天童などの各藩が奥羽列藩同盟を離脱しました。これらの藩は、仙台や盛岡藩の攻撃を受けることになる一方で、新たに越後の6藩が奥羽列藩同盟に加盟、ここに奥羽越列藩同盟が成立するのですが、すでにこの段階で、奥羽越は一枚岩ではなくなっていたことになります。つまり同盟とは言いながら、その加盟藩のすべてが同じ考えであったとは限らなかったということでしょう。この奥羽越列藩同盟結成後こそが、三春藩にとって最も困難な時期となったのです。 5月30日、秋田広記は湊宗左衞門を帯同して、新政府の参議・穴戸五位や副総裁の岩倉具視と会見して歓待を受け、その上で弁事役所に、御進軍御救助嘆願書を提出したのです。『(前略)譬城下焦土にニ相成候共 勤王之赤心不仕官軍御到着待尽力仕候外他念無御座 万之助始家来共迄決心罷在申候 奉仰望候者 右之赤心御憐被成下早々御進軍御救助奉歎願候 以上五月晦日 弁事御役所 秋田万之助家来 秋田広記』 さてここの部分で、ある歴史家に「三春は何故岩倉具視に接触できたのか?」という疑問を投げ掛けられました。私は、「三春が数少ない朝廷側の藩であっため、味方として固める必要があったからではないでしょうか」と答えましたが、それ以上の話にはなりませんでした。しかし少なくともここで、三春藩は朝廷に尽くすことを明言しています。それでも秋田広記らは心配であったのか、翌6月1日、前日の嘆願書につき、『右書面を万一御日記などへ書き残されれば、敵の耳目にも触れることもあるかと深く憂慮しているので、事が成るまでは公表なされないよう』にと嘆願しています。そして6月3日、朝廷より三春藩へ、新政府軍進撃救援の勅書が下されたのです。 『秋田万之助 奥羽諸藩順逆を不弁、賊徒へ相通じ、官軍に抗衡候者も不少趣に候処、其方小藩を以て敵中に孤立、大義を重じ、方向を定、従来勤王之志、君臣一意徹底致し居候段、神妙の至に候、百折不撓大節を全可致候。不日官軍諸道より進撃救援可有之に付、此旨相心得可申候條、御沙汰候事。 六月』 しかし6月12日、5月1日に行われた同盟軍による白河奪還作戦に於いての三春兵の棚倉出兵について新政府軍の嫌疑を受け、在京の秋田広記らが御所の非蔵人口へ呼び出され、禁足の沙汰が出されたのです。 『秋田万之助其藩事、賊中に孤立し、大義を重し候段、本月三日御復褒詞被賜候処、豈図らんや棚倉に於て賊軍を助け候哉に相聞え、不届の至に候、依之御処置可被仰出候得共、追々事実御検査被為在候迄。先京詰の家来、屋敷に於て禁足、他審へ出入被差止候旨、被仰付候事。 六月』 三春藩としては、一番恐れていたことが発生したことになります。 一方6月16日、平潟(北茨城市)に上陸した新政府軍に対し、棚倉藩が救援に向かいました。そして6月19日には、平藩が今のいわき市内にあった笠間藩の飛地である神谷陣屋を攻め取ってしまったのです。大政奉還後、共に朝廷へ恭順の使者を出した平兵による笠間藩飛地への攻撃を、三春藩はどう見ていたであろうか? それは、会津藩による長沼藩の陥落に引き続いての事件だったのです。これらの事件は、三春藩首脳の心胆を寒からしめたには違いないと思われます。白河城を確保し、数度の奥羽列藩同盟軍の反撃に耐えていた新政府軍は、北部に進出する手順として、平藩近くにあった自領飛地防衛のため手薄となっていた棚倉、及び浅川の攻撃をはじめたのです。 棚倉は白河から西へほぼ18キロ、浅川はそれより北に約9キロの位置にあり、白河から郡山・二本松への奥州街道の裏道にあたっていました。もし新政府軍がここをそのままにして北部を攻撃すれば、背後から突かれる恐れがあったのです。 7月16日、棚倉を陥とし、さらにその北の浅川の町を占領した新政府軍と、町の北郊の古舘山に拠った仙台藩の伊達筑前の手勢である登米の一大隊と砲隊、二本松四小隊、会津三小隊とが戦闘状態に入りました。その時、同盟軍軍務局は三春藩に対し、古舘山への応援を命じたのです。初期の白河での戦いのときは、奥羽列藩同盟がまだ平和同盟の時であったから問題はありませんでした。しかしこの命令は、勤王の意志を朝廷に表示し、しかも秋田広記らが新政府軍の疑惑を受けて禁足の沙汰を出されていた三春藩としては、判断に悩まされる命令でした。それでも三春藩は、兵を浅川に送ったのです。ところが三春兵が母畑(古舘山の北ほぼ12キロ)に到達した頃、そこへ古舘山から敗走してきた会津・二本松・仙台兵と合流し、そのまま全員が三春へ退却して行ったのです。このような事実が、次のように歪曲されて伝えられるようになってしまったのです。『古舘山応援令に従って古館山の北辺に到着した三春兵は、南から攻める新政府軍に呼応して会津・二本松・仙台兵を挟み撃ちにし、これを破った』と・・・。 大同小異とは言え、このように多くの文献で語られてきたことが、やがて歴史そのものと曲解され流布されていき、『三春狐に騙された』と誹られることになるのです。そこでこのことを知り得る文書から関連する記述を抽出し、その実情を探ってみました。 先ずここでの情況を新政府軍側の記録から見ると、黒羽藩記は、『薩摩藩ならびに弊藩、人数をそれぞれ分配、賊の横合い並びに裏手の方より打掛け』とあり、その他にも山内豊範家記(土佐藩)、井伊直憲家記(彦根藩)、土持左平太手記(薩摩藩士)、東山新聞などに異口同音の記述があります。つまり新政府軍は、三春兵との共同作戦をとっていないということです。 そして仙台藩記です。 仙台藩記は、『7月26日、塩森主税棚倉屯集ノ官軍ヲ進撃、三春、二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ合併、奥州石川郡浅川古館山ヨリ進テ浅川ノ渡ヲ隔テ砲戦ス、釜之子ト申所ヨリ官軍会津ノ兵ヲ破リ,浅川ノ後ニ出ルト、三春藩中途ニシテ反復ス、頗ル苦戦ニ及ヒ、各藩共支ル能ハス』と記しています。しかしこの記述をよく読んでみると、三春兵は、二本松、会津、棚倉の兵と共に古舘山にいたことになります。その三春兵は、『三春藩中途ニシテ反復ス』とされています。反復という意味が明確ではありませんが、これはどう読んでも、一緒に守っていた『二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ』攻めたということになるのではないでしょうか? しかしこれは、現実的な行為とは思えません。なぜなら、こんなことをしたら三春兵は、たちまち仲間に滅ぼされてしまうのではないでしょうか。 これについて決定的な記述が、二本松藩史、戊辰戦役史(上)、そして仙台藩記に掲載されていました。『二本松藩史 一六九ページ』に、『この戦闘で彦根兵は戦死が二、傷四、薩兵は傷二を出したに過ぎず、仙兵は死十六、傷八、二本松兵は傷七、会兵は未詳であり、長時間戦闘した割には両軍ともに死傷者は少なかった。』との記述があります。このように二本松藩史では、死傷者数を具体的に示しているにもかかわらず、三春藩の死傷者数の記載はないのです。これは三春兵による戦闘の事実がなかったことの傍証となるのではないでしょうか。 次いで戊辰戦役史(上)四七〇ページには、次の記述があります。『会津戊辰戦史には三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いてあるが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽藩の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記されているから間違いはない。三春離反についての記録はなく、仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。』 小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危機に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずと雖も、初は深く秘して其の進退を明らかにせず両軍に均しく狐媚を呈し、一朝決意するや、忽ち反噬の毒を逞しうせる者、東に三春あり、西に新発田あり。と筆誅を加えたのは、会津戊辰戦史である。山川健次郎を監修者とし、旧会津藩士を編纂委員とした同書の立場からは、この発言も無理からぬところであったろう。』 なおここで筆誅を加えたとされる山川健次郎は白虎隊員でしたが、訓練の段階で15歳の少年に鉄砲はあまりにも重過ぎたためとして訓練から外されています。ですから彼は、浅川の戦いには当然参加していません。恐らく浅川で戦った会津藩士の話を聞いてこのようなものを書いたと思われます。のちに山川は、東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長などを歴任しています。このような彼の重い立場からの発言が会津戊辰戦史に載ることで、信憑性のあるものとして巷間に流布したのではないでしょうか。もうこうなると、『何をか言わんや』という思いです。これも三春藩が、挟み撃ちをしなかったことの証明になるのではないでしょうか。ではこれに関して三春町史は、どう見ているでしょうか。 三春町史2巻762ページには、『(7月)17日の風聞では、棚倉、石川、浅川にて。前日暁天に大合戦あり、いずれも奥羽方が敗れたが、当家人数に死者、手負いはないとのことである。』とあります。 戦いの最前線の陣地内で反復(叛乱を意味するのか?)したとされる三春兵に、一人の怪我人もないということは、やはり戦闘そのものがなかったことの傍証となるのではないでしょうか。また三春町史3巻5ページには、『浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事掛不破幾馬らが弁明して事なきを得た。』と記述されていますが、浅川で叛乱などしていないのですから、事なきを得たのは当然のことと思われます。 そこで、これら三春町史と同じころ編纂された各地の資料を確認してみました。 先ずおかしいことは、会津若松市史に浅川の戦いそのものの記述がまったくないのです。ということは、少なくとも会津若松市史の編集者は、この戦いに重要な意味を感じなかったということではないでしょうか。そして浅川町史には、『三春兵は同盟軍への出兵を拒否したと思われる。』とありました。三春兵は、浅川に到達していなかったとしているのです。ともかく戦いのあった地元では、こう見ていたのです。 この浅川での戦いの後、三春と守山両藩の反盟の形跡があるとされ、同盟軍は、三春および守山藩の討伐を決定したようです。『そのとき、「反盟の形跡明らかならざるに、徒に私闘をすべきではない」と言って慎重論をとなえたのは、仙台藩の将・氏家兵庫でした。彼は腹心の部下、塩森主税を三春に派遣したのです。しかし塩森は三春藩と話合いをしたものの、不問に付している。』とされているのです。 これら多くの記述は、三春藩が挟み撃ちどころか、戦わなかったことの傍証となるものがすべてなのです。これらについては、今後もよく検証される必要があると思われます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.12.26
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三春戊辰戦争 3:会庄同盟と奥羽越列藩同盟の変質 慶応4(1868)年2月26日、奥羽鎮撫総督に左大臣九条道孝、副総督に正三位沢為量、参謀に醍醐忠敬、下参謀に大山格之助、および世良修蔵が任命され、3月2日、新政府軍836人が京都を進発しました。そして3月5日、三春藩は新政府軍軍務掛の松室豊前に対して、藩の窮状を訴える次のような嘆願書を提出しました。『当家は、兼て磐城海防にあたり、注進次第人数を出してきた。会津表異変には、隣藩であるので、人数を繰り出す手配は出来るが、薄力微勢につき、他邦までの出勢は出来かねる。しかし、今度の出勢は格別のことであるので、相配り江戸表へ人数を差し出すようにする』という内容で、江戸への出兵可能人数と三春城下の守衛人数および他境へ出兵できる人数を太政官に届け出たのです。 3月19日、総督の九条道孝は副総督の沢為量以下の部下を伴い、仙台藩領の松島湾に上陸しました。これは、朝命によって会津追討を行うべき仙台藩を、直接指揮するために赴任してきたものです。3月22日、仙台藩は会津藩の謝免嘆願書を九條総督に提出したのですが、それは容れられませんでした。 3月28日、会津藩は白河藩との間にあった長沼藩(常陸府中藩ともいう。2万石)に攻め込んでこれを落としてしまいました。その上で会津藩は長沼藩との境の勢至堂峠に土塁を築き、大砲を備えたのです。長沼藩は、三春藩に隣接する守山藩と同じく水戸の支藩でしたから、藩主たちは江戸常住でした。そのために両藩とも代官を置いて領地を管理していましたので、大きな兵力は持っていなかったのです。長沼の代官は、同じ係累にあたる守山藩に逃がれてきました。水戸藩としても、また守山の隣の三春藩としても、心穏やかならぬ状況となったのです。長沼藩の悲劇は、会津藩の隣で白河に近い小藩であったために起きたものだと思われます。 4月5日、このように不穏となる状況下に、三春藩は以前より江戸藩邸に出していた人数をいったん三春へ戻すための伺い書を、弁事役所と江戸の東征大総督に提出し、それが認められたのです。 その一方で4月10日、新政府から強い圧力を感じていた会津藩と庄内藩は、互いに協力し合うことを庄内藩重役・松平権十郎と会津藩士・南摩綱紀らが会合を持って決めたのです。ところが翌11日、江戸城は無血開城をしたのです。しかもその日、秋田右近は大総督有栖川宮を芝山内真乗院に伺候し、池田参謀に面接をして勤王の意志を通じているのです。この訪問で三春藩は、戦前からの勤王の意志を再確認したことになります。 この日、仙台藩主は、自らが白石に出陣、新政府側としての本営をここに置きました。そうしながらも、仙台藩は若生文十郎を会津に派遣し、降伏を説得しています。4月12日、福島城下に仙台兵が入り、その翌々日には、醍醐忠敬、世良修蔵も福島に入りました。そして4月20日、奥羽鎮撫総督の督戦により、土湯峠において福島からの仙台兵と会津兵が戦闘状態になるのですが、和睦を模索していた両軍ともに戦意がなく、総督の手前、形式的な戦闘で終わったのです。しかし4月21日になると会津兵が二本松領の岳に侵入し、翌々日には二本松領の中山村(中山宿)が焼き打ちに会っています。4月25日、三春藩は鬼生田村に防備の軍勢を出したところへ中山村から逃げて来た難民の内、気の狂った者が脇差で自分の腹を切ったため、応急処置をして三春に送る事件が発生しています。 閏4月2日、江戸では三春への引き上げ実行のため、抱屋敷(東京渋谷区文化学園大学)に兵を集合させ、人馬継ぎ立てと宿泊の目処がつき次第引き払う旨の届を弁事役所に提出しました。また同日、京都では、『会津討手応援令』の受諾届を京都弁事役所に提出しています。また同じ日、三春藩は醍醐参謀の滞在していた本宮陣営において、『庄内追討応援』の達書を受けていたのですが、その翌3日、庄内追討応援は中止とされ、改めて6日までに白河に出兵・着陣の命令に変わったのです。(三春町史2〜755ページ参照) 閏4月4日、米沢藩と仙台藩4家老の名義で、奥羽27藩家老に対して、『会津藩救解嘆願』評議のため、諸藩会議召集の回状が回されました。しかしその一方で、閏4月6日、三春藩は総督の命令によって一隊を白河に出し、仙台藩と共に会津口の関門取立番と、市中巡邏にあたったのです。そのような状況の中の閏4月9日、白石城で開かれた諸藩会議に三春藩も大浦帯刀を派遣したのです。 閏4月10日、会津藩と庄内藩はともに朝敵とされたことから、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、単なる協力を超えた会庄同盟を結成したのです。この同盟は、『会津と庄内藩が、仙台、米沢藩を説得して四藩で同盟を作り、この四藩が核となって奥羽諸藩同盟を成立させ、江戸城を奪回して、君(天皇)側の奸を祓い清める』ということを目的としていたのです。 その一方で、閏4月11日、仙台と米沢藩の呼びかけに応じた奥羽14藩により、白石城において諸藩会議が開かれました。このときに結成された奥羽列藩同盟は、会津藩、および庄内藩の『朝敵赦免嘆願』を目的として結ばれたものでしたから、この2藩は盟約書に署名していません。つまりこの時点以降、会庄同盟と奥羽列藩同盟は、別建てとして並立していくことになるのです。 奥羽列藩同盟は、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書をとりまとめ、『会津藩家老西郷頼母名義の嘆願書』、『奥羽諸藩の重臣連名による副嘆願書』、『仙台・米沢両藩連名の会津藩寛典処分嘆願書』の三通を、遅れて参加した秋田・新庄・平・本庄・泉・湯長谷・下手渡・米沢新田・八戸、それに弘前藩などの各藩も加わった上で、総督の九条道孝に提出しました。奥羽列藩同盟のはじめは、平和同盟であったのです。それですから三春藩としては、まったく齟齬を感じなかったのです。 閏4月14日、本宮に着いていた世良修蔵は、『会津容保儀、不可容天地罪人ニ付、速ニ討入可奏功候事』と付札をして戻したため、総督は奥羽列藩同盟からの嘆願を拒否し、即刻会津征討を命じたのです。世良がこの返書を出したとき、彼はまだ白河城にいました。そして新政府軍の白河防衛軍増強依頼のため、奥羽総督府のある仙台へ行く途中の福島に向かっていた時だったのです。そのとき白河を守っていた防衛軍は、仙台(三小隊)、米沢、秋田、二本松(人数不詳)、棚倉、三春(二小隊)、湯長谷、泉、平の諸隊でした。まだこの段階での奥羽列藩同盟は、平和を希求する同盟であったのです。 閏4月20日、世良修蔵が福島の旅館・金沢屋に着いたとき福島藩の鈴木六太郎を呼び、「仙台藩に漏らすな」と命じて密書を託したのですが、世良を付けねらっていた仙台藩士がこれを入手してしまったのです。密書には、世良が奥羽諸藩嘆願書を却下した理由と、『奥羽皆敵と見て進撃の大策に致候に付、乍不及小子急に江戸へ罷越、大総督につき西郷様へも御示談致候上、登京仕、尚大阪までも罷越、大挙奥羽へ皇威赫然致様仕度奉存候』と記されており、なおかつ、そのために明日には仙台の奥羽鎮撫総督府に到着し、兵の増強を要請する、と書かれていたのです。この世良こそが平和にとっての癌であるという認識が、福島の旅館・金沢屋での仙台藩士と福島藩士による世良修蔵暗殺となって表れました。 白石城では、奥羽諸藩代表の協議中にこの暗殺の報せが届いたので満座の人みな万歳を唱え、「悪逆は天誅逃れることができないものだ。愉快、愉快」などの声が止まらず、会議は集団的興奮状態に入ってしまったといわれます。ここから奥羽列藩同盟は、攻守同盟に変質していったのです。このような雰囲気の中で、しかも石高の多い諸公を前に、三春藩が新政府支持の意志を話すことはできない立場でもあったと思われます。 三春藩の代表の大浦帯刀も、目の前で攻守同盟と変わった奥羽列藩同盟に参加の調印したのです。例えいかなる事情があろうとも、奥州の全藩が参加の調印をする中でこれに調印しないということは、三春藩の存立を自らが否定することにつながると考えたのではないでしょうか。すでに勤王の主旨を朝廷に明らかにした後でのこの調印は、苦汁の決断であったと思われます。もしこの同盟に参加する調印をしなければ周囲の藩を敵に回すことになり、同盟に加入すれば朝廷を裏切ることになるからです。この会議に参加していた黒羽藩の代表の三田弥平は、同盟への加入を強く求められたのですがこれを拒否して帰って行きました。この奥羽列藩同盟が調印された翌々日、奥羽各藩は、奥羽鎮撫総督指導による会津征討軍を解散しました。会津と戦う理由がなくなってしまったからです。それもあってか、仙台と米沢兵が、白河駐留の各藩に無断で引き揚げてしまったのです。 閏4月20日、白河を占領した会津藩は、22日には宿場役人を『境の明神』まで連行、そこにあった「従是(これより)北白川領」(白河という表記ではない)という藩境の標柱を倒して、『従是北会津領』という新しい標柱を立てさせたのです。 閏4月22日頃、三春藩は、この同盟への調印は三春藩の本意ではないという主旨を京師に報告するため、山地純之祐およぴ熊田嘉膳の二人の密使を派遺したのです。そして閏4月26日、新政府より徴兵の要請があり、三春藩は5月1日、出兵可能の人数を守護屋敷に報告したところ、7月中にその人数を差し出すようにとの指示が出されたのです。三春藩首脳はこの指示に、薄氷を踏むような心境であったと思われます。しかし後述しますが、三春藩は7月26日に恭順しています。つまり指示の日程以前に恭順していますから、これの実行がなかったのは当然かと思われます。 その後仙台藩は、仙台に駐留していた新政府軍兵の身柄を確保し、総督九条道隆や参謀醍醐忠敬らを仙台城下に移したのですが、これと呼応するかのように、会津藩が白河城を占拠したのです。仙台と米沢兵が撤退した後、白河城を守備していた二本松・棚倉・三春・平・泉・湯長谷の各藩兵は、会津兵に対して抵抗の姿勢を見せませんでした。今度は会津藩が味方となってしまったからです。この時白河城は空城となっていて二本松藩が預かっており、磐城平兵は市中回り、三春兵は木戸見張りの役を負っていたのです。仙台や米沢藩とは違い、中小の各藩はどうしたらよいか分からない状態であったと思われます。 ここでの大きなポイントは、白石で開かれた諸藩会議の目的が、『会津救解』にあったということです。目的がこのように平和にある以上、反対する藩はどこもありませんでした。三春藩としても同じであったと思われ、これに加盟することに躊躇することはなかったと思われます。そしてもう一つのポイントは、平和目的であったはずの奥羽列藩同盟が、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変質したということです。つまり、当初新政府に従っていたはずなのが、いずれの加盟各藩にとっても大きく流れが変わってしまったということなのです。このような逆流の中で、三春藩は自らの行動を秘匿しなければならなくなりました。何故なら、すぐ近くにあった長沼藩が会津藩に攻め取られており、二本松領もまた会津兵に侵されているのを見ているのです。このようなとき、もし三春藩が調印をしなかったら、長沼藩と同じ運命を辿ることになったのかも知れないのです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.12.16
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三春の戊辰戦争 2:徳川慶喜追討援護令 慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜から大政奉還の上表を受け取った朝廷は、10月24日、列藩主招集の命令を下しました。これに対しての三春藩の動きは、素早かったのです。わずかその3日後の27日には、江戸藩邸に滞在していた御近習目付・湊宗左衞門を先発として京都へ向かわせたのです。(三春町史2/753) この素早い行動についての文献上の証拠はありませんが、各藩主に宛てた列藩主招集の命令が出されたとき、多分三春藩主は江戸藩邸におり、そこへ命令が届けられたということで早かったのかも知れません。そして江戸詰め家老の小野寺市太夫と相談の上、湊宗左衞門を上京させたと考えられます。その上20日後の11月18日には、小野寺市太夫を茅根・中井以下10人を供に京都へ出発させたのです。(三春町史2/753) 一方の国元では、9歳であった藩主・秋田映季(万之助)の後見役であった秋田主税が直ちに列藩主招集の命令を藩士に伝え、藩内の重臣と会って勤皇の藩議を決したのです(明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際しての報告書より)。恐らく藩主不在の中でこのような重大な結論を出せたのには、江戸との連絡があったのではないかと想像できます。そして12月3日、御年寄役の秋田広記が、三春から江戸藩邸に到着したのです。 12月8日、三春藩よりの最初の使者、湊宗左衞門が京都に到着しました。その後の12月12日、秋田広記が江戸を出発しているのですが、その4日後の12月16日に京都に着いていた湊宗左衞門は参与屋敷に、『藩主万之助病気につき、名代重臣の者が近々上京するが、先行として上京した』という旨の届けを提出したのです(三春町史2/753)。そして12月29日、秋田広記が京都に到着したことにより、三春藩の関係者全員が京都に集まったことになります。 実はこのとき江戸にいた平藩主の安藤信勇も朝廷からの召集に応じ、新政府軍側に参加しています。京にいた三春と平、何らかの連絡があったと思われます。ところが後に、平にいた父の安藤信正は奥羽越列藩同盟に参加、磐城の笠間藩飛地を攻撃しています。 今回の列藩主招集は、大政奉還を受けたものの行政経験のない朝廷が全国の藩主による会議を開き、その方途を得ようとしたものでした。しかし各大名への連絡の手段を持っていなかった朝廷は、この招集令の送達を幕府に依頼せざるを得なかったのです。この列藩主招集は幕府を通じて発せられていたので、秋田広記は挨拶のため大阪に赴きました。すでに徳川慶喜は大阪城に退いており、その上、慶応4(1868)年1月1日には、幕府軍が京都に向かっていたのです。そして秋田広記が大阪城登城予定の日の1月3日、ついに鳥羽・伏見街道で戦端が開かれたのです。 1月4日、戦況が一進一退する中で、新政府軍の最前線に菊の御紋の入った錦旗が立てられました。これを見た幕府軍は困惑し、劣勢に転じたのです。この戦いで騒然としていた大阪城を後に、秋田広記らは戦争のために閉塞された本街道を避け、住民の逃散などで誰も居なくなった異常事態の中を奈良経由で京都に戻ったのは、徳川慶喜追討令が公布された2日後の1月11日でした。 翌1月12日、湊宗左衞門は『今般万之助儀上京被仰付候処 幼年 殊ニ病気ニ付 為名代重臣之者昨日京着仕候 此段御届申上候』と届け出ました(三春町史2/753)。この列藩主招集に対し各藩主は、徳川よりの恩顧を考慮したものか2割程度の藩主しか集まらず、この会議は不調に終ったのです。当時、全国の藩の数は約300藩でしたから、60藩ほどしか集まらなかったことになります。ちなみに福島県は15藩ほどでしたから、2割とすると計算上3藩になります。私に見落しがあったのかも知れませんが、どうも上京したのは、福島県からは三春藩のみであったように思われます。 1月15日、先に出されていた徳川慶喜追討令の公布に伴い、奥羽諸藩に対して徳川慶喜追討援護令が発せられました。『就徳川慶喜叛逆為追討 近鵄日官軍自東海 東山 北陸可令進発之旨被仰出候 附○者奥羽之諸藩宜和 尊王之大義 相共謀六師征討之勢旨 御沙汰候事』 秋田広記は、湊宗左衛門とともに参与役所に出頭し、この御沙汰書を受け取りました。(三春町史2/753)この時点での御沙汰書受領が、のちのち三春藩に大きな負担を強いることになるのです。 1月17日、仙台藩に会津藩征討の命令が下され、さらに1月25日、秋田・盛岡・米沢藩にも、会津藩征討の命令が下されました。そして2月3日、新政府は東征大総督として有栖川宮熾仁親王を任命したのです。 2月4日、二条城において『五箇条の御誓文』が提示され、参列した公家諸侯等は、『天子の志を謹んで仰ぎ、死を賭して全力で勉め励み、願わくば天子の心を安んじ奉る所存である』という誓約書に署名したのです。その上で全ての藩に対して、『各軍旅用意可有之候』、『御沙汰次第奉命駆集ルヘク候』の達書が出され、また『江戸表御征伐ニ付人数書』の提出が命じられました。これに伴い、三春藩は江戸への出兵人数と三春城下守衛人数および他境に出し得る戦隊人数を太政官に届け出ました(三春町史2/753)。しかし戦争情況の早い変化に、三春藩は江戸への出兵予定の人数をいったん白紙に戻し、今後は新政府の沙汰に応じて兵を進めたい旨の伺書を弁事御役所に提出して認められ,江戸表の東征大総督へも届け出たのです(三春町史2/754)。これは三春領の防御を第一にしようとする姿勢であったと思われます。 2月12日、徳川慶喜は上野寛永寺大慈院に謹慎し、2月16日には、会津藩主・松平容保が江戸を去りました。会津藩も藩を挙げて謹慎したかに見えました。 2月17日、兵を率いて上洛していた仙台藩若年寄の三好監物に対し、太政官は『仙台藩単独でも会津藩を討伐せよ』との命令とともに、二旒の『錦の御旗』を下賜されました。そしてこれを追うようにして、新政府は、東海道・東山道・北陸道の他、海路でも東征軍を進発させたのです。これを知って、山形、盛岡、米沢など多くの藩が仙台を訪れました。幕府の様子が分からないから、仙台藩を頼らざるを得なかったのではないでしょうか。三春藩もまた、仙台を訪れています。しかし仙台藩の動きは、判然としなかったのです。仙台藩の本意を知らぬこの時点で、三春藩が新政府支持を明確に宣言するのには、微妙な状況になっていたのです。 2月22日、三春藩は、さらに御用人・秋田右近を出府させました。「遂に征東の師を起こさるるに当たりて、各藩其向背に関し、大いに物議を生じたりしも、我藩は専心飽くまで初志を貫徹せんと欲し、殊に江戸における相応の労役に当たらん為、秋田右近をして、急遽出府せしめぬ」と『戊辰の役三春藩去就の真相』にあります。このことで三春藩は、徳川慶喜追討援護令の受領と併せて、新政府支持の意志を再認識することになったのです。このように三春藩は、朝廷に対して二心のないことを何度か表明したことになりますから、戊辰戦争の初期の段階から朝廷寄りに組み込まれていたと考えられます。これは仙台藩に錦の御旗が下賜されたこととも無関係ではなかったと思われます。これら京都に於ける三春藩の一連の行動は、朝廷つまりは新政府に忠誠を誓ったことになりました。いずれにしても、この朝廷との関係が、その後の三春藩の、戊辰戦争での行動規範になっていったものと考えられます。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.12.06
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三春の戊辰戦争 1:三春藩への論難と反論 皆さん。『三春狐に騙された』という戯れ歌をご存知でしょうか。そしてこれを、どういう風にご記憶でしょうか。 これは戊辰戦争の際、三春藩が奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを揶揄して言われてきた言葉です。この言葉に三春の人たちは、どれだけ長い間傷つけられてきたことか。私も、その中の一人でした。そんなこともあってネットを検索していましたら、次のような部分がある長文の論文を見付けたのです。『征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。 三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。』 くどいようですが、この主張は昔の話ではありません。今からつい3年ほど前の話なのです。 ところで三春町史第3巻近代1の5ページに、次の記述があります。『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒』この歌にある三春狐をどうみるか。歴史の大河に竿をさし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であればそれでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 この三春町史については、今になれば誰が書いたかは分かりませんが、私はとんでもない無責任な文章だと思っています。こんなことを三春町史に堂々と載せているから、冒頭のような誤解をされるのではないでしょうか。三春町史の奥付を見ますと、昭和50年11月とあります。その年は戊辰戦争後107年後の年であり、将に100年後の町民我々に、「お前ら勝手に判断せい!」とでも言っているようなものです。なぜ107年後の歴史家が三春町史を編纂する時点で三春の『裏切り説』の検証をしなかったのか。なぜ町民に、三春狐とはなんであったかを総括して見せなかったのか。大いに疑問を感じています。 そしてそれに上乗せするような出来事が、2014年の11月にありました。それは、『三春猫騒動(お家騒動)』の展示が行われていた三春歴史民俗資料館でのことでした。名は伏せますが、いずれ私がライスレークの家で、「三春が裏切り者ではなかったという話をする積もりです」と言った時、「それを話すと、かえって(当時の他の藩の人に)冷や水を浴びせられることになるから・・・」と言って言葉を濁したのです。私は町を背負って立つような文化人の反応に、「これでは駄目だ」という思いに愕然としたのです。この三春町史が出版されてから、すでに40年経っています。「これでは、あと60年経って200年になってもこの汚名を払い除けられないな」と思ったのです。私が現代の歴史家に望みたいことは、三春が裏切り者であったらあったと明確にすべきであると思うのです。そうすれば町民の側にも覚悟ができるでしょう。そして違うなら違うと説明すべきです。そうすれば町民も、前向きに考えられるでしょう。いいかげんにして置くことが、一番悪いと思っています。ともかく知り得た間違いを訂正せず、噂を否定しないことは、認めたということになるのではないでしょうか。 例えば、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏(大山巌の次男)の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられているのです。私には不満が残りますが、むしろこのようなことの方が、正当に検証しようとする姿勢が見える気がします。 三春裏切り説に関して、反論めいたものがいくつかweb上にアップされています。そのうちの2点を、書き出しておきたいと思います。ところが何とその一つは、私の書いた『三春戊辰戦争始末記』が紹介されており、しかもそれは、つい最近ミクシィ上で見つけたものだったのです。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1304319&id=10307505 ただしこのURLをクリックすると、なぜかこのURLの最後の5の次に2006が表示されて開くことができないのですが、2006を消してクリックすると大丈夫です。日付は2006年10月21日とあり、『読んでおきたい基礎文献』の中にあったのです。これは私が書いたものに対する、しかも名指しでの肯定文でしたので、それがどなたのものであったのか是非知りたいと思ったのですが、生憎アップされた方がミクシィを退会なされている現在、残念ながら知る術がありません。やむを得ずご本人の許可を得ず、以下に引用させて頂きました。 『三春戊辰戦争始末記 橋本捨五郎 裏切りと今でも罵倒されている三春藩。だが、史実はどうであったのか? 地元の郷土史家が小説形式を取りながら、地方史や口伝などを丹念にリサーチし、その実体に迫る本。 驚いた事に新政府軍公式記録である「復古記」と、薩摩藩の軍事史料である「薩藩出軍戦状」そして二本松藩の基礎文献である「二本松藩史」の裏づけが取れてしまっており、逆に「仙台戊辰史」の捏造・改竄を証明してしまった形となってしまった。 「無いものは無い」のであり、それを「有った」とするのは問題ではないか? 著者の意図は、130年以上も経ちながら、未だに感情論で左右される事への連鎖を経ちたいという、ヘーゲル哲学に於ける「ジン・テーゼ」を見出そうとする姿勢は、イデオローグ汚染されている中央学“怪”や、利権塗れの“痴呆”史会に、爪の垢を煎じたい気分である(毒) 歴史の女神 クリオが誰に微笑むかは言うまでも無い! 自費出版という事で残念ながら絶版! 但し、ウエイブ上では公開されています。感情論ではない、知識共有を望む方は御覧あれ。』 それからもう一つ。『二本松狐と三春狐〜狐の蔑称は誰が為?』という論文が、2005年のHPにアップされていました。長文ですので、『1 はじめに』だけを著者の了解を頂いた上で、そのまま転載いたします。『二本松と三春、共に戊辰戦役で明暗を分けた藩である。 片や、新政府軍の猛攻撃を受けて崩壊に及び、片や降伏後に新政府軍の先鋒として藩の存続が保たれた。共に『明治維新』に巻き込まれ、二本松藩は奥羽越列藩同盟の犠牲となり「武士道の誉」と称えられたが、三春藩は生き残ったものの「裏切り者」として現代でも罵倒、侮蔑の対象として蔑まされる対象とされてしまう。三春の行為を揶揄する言葉として「会津猪に仙台むじな三春狐にだまされた二本松丸で了簡違い棒(丹羽氏の家門[×]を表す)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽・二本松藩の意味)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」「馬鹿だ馬鹿だ二本松は馬鹿だ、三春狐に騙された」という唄を与えられてしまった形となる。 しかし、「狐」の蔑称は三春だけのものであるのか?それならば幕末維新期に掛けてのバトル・ロワイヤルで「狐」にならずしてどのように生き残れればよかったのか?三春が二股膏薬の汚名を被り、二本松が武士道を通したと言う評価は正当だと言えるのか?二股膏薬は他にもいなかったのか? 歴史小説家や研究家が語る「三春は卑怯な裏切り者だ」という法官贔屓な文言をここでは頭の中から一切排除し、自国領土を戦火から救うにはどのような行動を取れば最善であったか。この二つの藩から眺めて考えてみたい。そして、周辺大国(新政府、会津、仙台)のエゴイスティックな動きも含めて、「狐」の称号は誰が持つべきなのか、考えていこうと思う。』 三春に対して、このようなエールが送られて来ているのです。誠にありがたく思っています。三春の、特に文化人たちが理論武装をし、このような自虐史観から町の人を救ってくださることを願って、このレポートを何度かに分けて載せたいと思います。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.26
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