三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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おわりに この話に出てくるJR会津若松駅長であった渡辺光浩氏は、県立田村高校の同窓生である。しかし彼は職業柄転勤が多かったため、私が彼を知ったのは、彼がJR郡山駅長の時代であり、田村高校の郡山支部同窓会に出席された時にあった。そのとき私は、『ああ、偉い人が同窓生にいるんだなぁ。』という感覚でしかなかった。しかしその後、それも何年も過ぎてから、ネットサーフィンしていた私は、その中に彼の名があるのを見つけ、しかもあの東日本大震災のとき、会津若松駅長として、磐越西線での緊急石油輸送列車の運行に関係していたことを知った。そこでこのことについて彼に取材を試みようとしたが、彼が郡山駅長であるということに畏れをなし、また長い日にちを無為に過ごしていた。 私はある日、思い切って行動を起こした。郡山駅に電話をしてみたのである。ところがそこで知ったのは、渡辺氏がすでに郡山駅を離れていたことであった。彼はそれまでに手掛けていた新駅、『郡山富田駅』の完成に取り付け、その開業日である2017年4月1日に、仙台へ転勤したとのことであった。その後連絡を取り合い、彼の協力を得ながらこの『石油輸送救援列車・東へ』を書き上げたのは、今年(2020)に入ってからである。すでにあの大災害から、9年を過ぎた。なにか自分自身の中でも、あの大災害が風化を始めているようで愕然とする。そして原発で使用して不要となった放射性物質の後の処理に、あと何十年掛かるというのであろうか? これらの重大な事故の後始末をするのは、誰なのであろうか? そしてこれを書いたことについて思うことは、政府や東京電力という為政者や関係者だけで、解決が可能なのであろうか。このような大事件で、いろんな人が、そしてボランテアなどが裏で働いて世の中を支えている、ということではないだろうか。そしてこのような人たちこそが、ヒーローと呼ばれるべきではないかと思う。 最後に渡辺光浩氏は元より、福島ペンクラブ五月会会長の菅野輝栄氏、福島民報文化部の皆さん、それに民報印刷の武田優美さんに、多くのご協力を頂いた。そして、次のブログも参考にさせて頂きました。私はこれらのブログなどを通じて、JR貨物の皆さんのご協力を頂いたと同じと思っています。なお文中、煩雑さを免れるため、敬称を省かせて頂きました。 ご教示を頂いた皆様に、心からお礼申し上げます。 https://train-fan.com/banetsu-west-2011/ 東日本大震災・緊急燃料輸送列車https://www.sankeibiz.jp/business/news/170710/bsd1707100500003-n1.htm Sakeibiz 論座https://webronza.asahi.com/science/articles/2011050700001.html 朝日デジタル 論座 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バ
2021.09.10
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役目を終えて そして数ヶ月後、国土交通省内で大災害が起こった際の在り方を検討する会議が開かれた。JR貨物からは異常時対応を指揮した安田晴彦が出席し、ディーゼル機関車の有用性を示しつつ、『非常時用の機材を民間企業が保管し、保守し続けるのは限界がある。』と訴えた。この大震災の翌年の2012年には、震度4以上の余震が52回も起きていたのである。この石油の列車での輸送業務には、減少傾向が続いている。ハイブリッド自動車の普及もあって、ガソリンの需要が減ったためもあるとみられる。今回の石油輸送で活躍したディーゼル機関車や古いタンク貨車のほとんどが、その役目を終え解体された。ディーゼル機関車の運転士たちにも定年が近づいている。南海トラフ地震や首都直下型地震も懸念されるなか、非常時の物流を誰が支えるのか、議論はまだ、始まったばかりである。 東日本大震災二年後の2013年から、中京大学現代社会学部で、『福島子ども健康プロジェクト』を実施している。このプロジェクトは、福島県中通りの福島市、伊達市、郡山市、二本松市、本宮市、国見町、三春町、大玉村に2012年10月より12月の間を住み、2008年度に生まれた4歳児とその母親(保護者)を対象にしたアンケート調査である。この調査は、今年(2019年)で6年となるので、その量は膨大である。その膨大な資料の中から、私の独断?により一通を選び、被災者の気持ちを紹介させていただく。 今回、アンケート実施することの説明書が同封されていましたが、率直な意見として、「なぜ福岡大学から、うちの子供に書類がきたのだろう?」と疑問を持ちました。文部科学省科学研究費の助成あり…とのことですが、私個人としては、こういったことをやるために居住区(二本松市)からの文章がまず欲しいです。正直原発事故があってから「福島県民が研究材料。今後のモルモット」であると感じています。実際に私達がアンケートに答えたり、その他のことに協力することが今後に生かされると思うので協力は惜しみません。しかし、上記した気持ちがある中で突然福岡県から資料が送られてくることは正直うれしいものではありません。自分でもこう感じることが事故後の気持ちの変化だと思っています。しかし、現在福島に住むしかない状況の人の気持ちをもっとくみ取って欲しいです。(中京大学現代社会学部紀要 第13巻 第2号 抜刷 2019年12月 136頁 2013・199より転載) 東日本大震災の約3年後の時点で、この大災害による死者と行方不明者は、18、506人、そして建物の全半壊は合わせて400,401戸と、公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においての避難者は40万人以上とされた。福島県からの避難者数は、263,958人となっており、福島県の人口の約14%になっていた。 あの時、会津若松駅長であった渡辺光浩は、郡山駅長に転出していた。駅に甲乙をつけるわけではないが、東北新幹線を擁する郡山駅での勤務は、やはり重責であった。そのような折々に、彼はあの頃について考えていた。 ーーあの石油輸送列車の運行は、人が一人でやれる仕事ではなかった。人知れぬ多くの関係者がたずさわり、協力したからこそ出来た事。人や物を運ぶというこの仕事が、いかに重要な仕事であったことかを思い知らされた。あの時に自分は、自分自身の生き方について、問われていたのかも知れない。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.08.10
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限界、一抹の不安 一方でJR貨物の渡辺勝義運転士は好天に恵まれ、今日も安心して走行していた。ところがそのとき、事件は起こった。磐梯町駅手前の急坂で、運転席の下から「バシッ」という大きな破裂音がし、出力が急速に落ちていったのである。後ろを振り向くと、車体下から白煙がなびいていた。「うわっ! エンジンがぶっ壊れたぞ!」 エンジンからの煙が白いうちは水蒸気が主だ。黒煙になると発火の恐れが強まり緊急停車するしかない。「まだ行ける。こんなところで止まれるか!」 渡辺勝義は出力をできるだけ保ち、急坂を登った。時速が速度10キロ台に落ち停車寸前、辛くも磐梯町駅の待避線に滑り込み、本線を空けることができた。三分後、旅客列車が石油輸送列車を追い越していった。 ーー石油の到着は遅れるが、他の列車のダイヤを乱さないでよかった。 彼は、ほっと胸をなでおろした。 この連絡を受けた会津若松駅から、職員たちが車で駆け付けた。点検するとDD51の2基あるエンジンのシリンダーが吹き飛び、大きな穴が開いていた。廃車寸前のDD51であったから、それもやむを得ないことであったのかもしれなかった。JR貨物本社で機材調達を指示していた松田佳久は、『解体待ちで長く稼働していない機関車を、緊急整備して走らせていた。予想以上に負荷がかかったのかもしれない。』と分析した。幸いこの日から石油輸送列車は2便体制となり、先に郡山に石油を運んだDD51が、会津若松に戻る予定となっていた。磐梯町で機関車を交換することで、無事石油を郡山へ届けることができた。 その後も起きていた一連の余震は、岩手県沖から茨城県沖までの幅約200キロメートル 、長さ約500キロメートルの範囲を震源としていた。そして三月中に起きたM5以上の余震は479回、震度1以上の余震は3017回も発生していた。M5以上の余震の回数は、日本観測史上最大であった。勝俣恒久東京電力会長が、第一原発の原子炉安定まで、6〜9ケ月かかるとの工程表を発表した。 四月十七日、寸断されていた首都圏と郡山までの東北本線が再開された。この日までに、機関車の故障や小さな余震による緊急停車などに見舞われながらも、石油輸送列車は運行を続けていた。JR貨物は磐越西線ルートで2万キロリットル、日本海ルートで3万7千キロリットルの石油を被災地に送り込んだ。タンクローリー2850台分に相当するという。この輸送の最終日、郡山から4つ目の磐梯熱海駅には地元住民や鉄道ファンが集まり、感謝の横断幕も掲げられた。なかには、『DD51ありがとう』と書かれたものもあった。「なんだ。俺たちにじゃないのか。」 渡辺勝義運転士は一瞬苦笑いを浮かべたが、熱いものが胸にこみ上げてきた。「お前も本当によく頑張ったよな。」 彼はそう独り言を言いながら、廃車寸前であったDD51の運転台を撫でていた。この石油輸送列車運行と前後して、宮城県の塩釜港や福島県の小名浜港にも大型石油タンカーが入港できるようになった。石油の輸送も通常に戻り。現地のガソリンスタンドに並ぶ給油待ちの車列も、スーパーなどの店頭に並んだ行列は、徐々に消えていった。 翌々日の福島民報には、次のような記事が載っていた。 東京電力は、第一原発2号機のタービン建屋と立て坑にたまった高濃度汚染水を、集中廃棄物処理施設に移送する作業を始めた。2号機周辺には約2万5000トンがあり、うち約1万トンを四週間ほどかけて移す。第一原発の汚染水総量は推定7万トン。溶融した燃料で汚染された可能性がある2号機の水は特に放射性物質の濃度が高く、原発の冷却機能回復を妨げている。建屋とつながった立て坑から海に流れ出すのを防ぐのも狙い。収束に向けた一歩だが緊急避難的な措置で。水の処理法など多くの課題が残る。東京電力は、フランスの核燃料会社アレパの技術による汚染水処理施設を設置して六月をめどに処理を始め、処理後の水をためるタンクを増設し、これを炉心に注入して水を巡回させるシステムを計画。 文部科学省は、第一原発から二十キロ圏内と計画的避難区域、緊急時避難準備区域を除く地域の学校の屋外活動を制限する基準として、一時間当たりの空気中の放射線量が3・8μSV以上と示した。その基準を超えた学校は、屋外活動を一時間程度にするなど校庭での活動を制限するよう県教委に通知した。十四日に同省が行った放射線量調査に基づき福島、郡山、伊達市の小学校六校、中学校四校、幼稚園・保育所三園の計十三校が制限の対象となった。対象校の児童生徒らの数は、計3560人にもおよぶ。 東日本大震災で発生した倒壊家屋など大量のがれきについて、三十都道府県にある二百七十二の市町村や一部事務組合が処理を受け入れる意向であることが、環境省の中間集計で分かった。受け入れによる年間処理量は、中間集計段階で最大281万トン、JR各社の努力により、被災地向けの石油や物資の補給はようやく緒に就いたが、被災者たちの生活を元に戻すには、まだまだ長い年月を要することになる。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.07.10
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いよいよ若松から郡山へ(3) 間もなく郡山に到着するという地点で、運転していた遠藤文重は、線路脇に数人の人影を見た。そのうちの一人の女性は列車に向けて、『ありがとう』と大きく書いたダンボールを掲げていた。手を振ったり、手を合わせている人もいた。恐らく前の日の福島民報で、石油輸送列車の運行を知っていたのであろう。生活物資の不足を身に染みていた人たちの、思いもかけぬ歓迎の印であった。 ーーあの人たちは、この小雪の散らつく寒い中で、2時間以上も遅れたこの列車を、、、、待っていてくれたのであろうか。 鉄道貨物一筋約三十五年の遠藤文重にとって、今までの勤務中に、こんなに感激したことはなかった。 ーー定年まであと何年もないが、この鉄道輸送の重要さを後輩たちに伝えなければ。 彼はそう思った。そして郡山駅に着くまでの間、 ーー貨物を待っている人の所へ届けることは当たり前。オレたちは、縁の下の力持ちに徹することだ。 そう考えていた。 午前10時前、石油輸送列車が郡山駅に到着した。遠藤文重は時計に目をやった。約3時間の遅れだった。やり遂げたという思いとともに、雪に阻まれたとは言え、途中で停車した悔しさも込み上げてきた。この第1便が郡山駅に到着したとき、駅ではバンザイの声が上がっていた。郡山駅にはテレビや新聞など報道陣が集まっていた。カメラのレンズが運転席の彼を狙い、盛んにシャッターを切っていた。 JR貨物郡山総合鉄道部の幹部が、運転席の遠藤文重に声をかけた。「いやぁ雪の中、ご苦労さんだったね。無事に運べて良かった良かった。ところで新聞やテレビが、運転士の君にインタビューしたいって言うんだけど、どうする?」「ごめん。なんか遅れちゃったし、そんな気分じゃないんだよね。すんません。」 彼はそう言うと、張り詰めた気持ちが解けたのか、運転台に突っ伏した。 ーーそれにしても、今日は走行中に大きな地震がなくてよかった。 彼は目を閉じたまま思い返していた。郡山駅に停車するまでの手順に誤りはなかったか、ノッチやブレーキの操作、それに速度などはどうだったのか。彼は石油輸送列車を、郡山駅から郡山オイルターミナルへと回送した。 ーーこの石油輸送は明日以降も続く。次こそは時間通りに運ぼう。 彼は、そう心に誓っていた。 翌日の早朝、渡辺駅長は、磐越西線の翁島駅付近を歩いていた。昨日の朝、石油列車の初便が走行不能となった場所は、すぐに分かった。その苦闘を物語るかのように、レールには車輪の空転による幾筋もの傷がついていた。彼は氷のように冷えたレールを指でなぞりながら、郡山方面に視線を向けた。「地震だって頻発している。そして被災地の復旧は、まだ始まったばかりだ。早く通常ダイヤに戻さないとな。」 彼は一緒に来た助役の同意を求めるかのように、独り言を言った。福島民報は、『磐越西線・新潟〜郡山間の再開』を報じ、町でのローリーも稼働を始めた。 ーーとりあえず、これで灯油やガソリンの心配は少なくなったようだ。 彼は福島民報の記事を見ながら、そう思っていた。 この日、特に医療機関から不評を買っていた輪番停電は、東京電力が定期検査で停止中であった火力発電所の稼動で電気の供給力が増したこと、また気温の上昇による暖房への需要が減ったことなどの理由から供給に対する不安が減ったとして、中止となった。 ーーああそういうことか。もう4月か、春になるんだなぁ。だがこの原発事故は、いつになったら終わるのか。 渡辺駅長はそう思っていた。翌日の福島民報には、『放射線量高く、原発より10キロメートル圏内の遺体収容断念』とあったのである。 第一原発1〜4号機の冷却放水口付近の海水から、基準の3365倍のヨウ素131を検出した。避難所では、長引く生活のため疲れが蓄積している人たちの上にも、余震が続いていた。県内でも郡山市や田村市などで、震度4の地震を観測した。これら大きな余震は、石油輸送列車の運行にも、支障を与える危険がある。さらにその支障は、原発30キロメートル圏内にある県立9高校が、中通りや会津で授業も止むなしとされた。そしてこの日より、JR貨物郡山総合鉄道部所属の渡辺勝義が、石油輸送列車に乗務することになった。3月11日の本震から今日の3月31日までの間に、震度4以上の余震が113回も起きていた。 三十一日、第一原発付近のヨウ素は基準値の3355倍もあり、原発解体には20年以上かかると見積もられた。さいたま市のさいたまスーパーアリーナに避難していた双葉町民480人が、双葉町の役場機能とともに、次の避難先の埼玉県加須市の旧高校校舎に大型バスで着いた。 「お体大事に。」 両陛下は東京武道館に避難中の県民を前に、ねぎらいの言葉をかけられた。 放射能の被害は、先が見えなかった。天栄村で牛肉から基準値を上回るセシウムが検出され、出荷が停止させられていた。県内からの農作物の供給が、さらに細っていった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.06.10
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いよいよ若松から郡山へ(2) 遠藤文重は運転席の窓を開け、耳を澄ました。空転ランプだけでは分からない車輪とレールの摩擦、砂のかみ具合を耳で判断するためだ。いつの間にか外は吹雪となった。吹きすさぶ風の音、ディーゼルエンジンの排気音に交じって甲高い金属音が聞こえる。 ーーもっと速度を落とせ。砂を撒け。間もなく翁島の駅だ。 急カーブが眼前に迫っていた。速度は既に10キロ程度まで落ちた。それでも空転ランプは消えない。パワーを微調整しなんとか切り抜けようとしたとき、ひときわ甲高い音を立てて車輪は空転し、石油輸送列車は前進をやめた。傾斜が緩くなるカーブの出口まであとわずかだった。遠藤文重は坂道をずり落ちないよう、ブレーキをかけた。 ーーまだ終わりじゃない。 列車が完全に停止したのを確認してから、再度ノッチ(アクセル)を入れ、機関車、貨車のブレーキを少しずつ解除しながら脱出を試みた。自動車の坂道発進の要領だ。車輪はレールと激しくこすれあい、甲高い金属音がこだました。動かない。後退しないように再びブレーキをかけた。「これ以上は車体が傷む。」 冗談を言いながらも心配して同乗していた運輸区長が、首を横に振った。ノッチを戻した遠藤文重は、顔を上げた。辺りを見回すと谷のような地形に雪が積もり、急カーブが迫る景色が見えていた。昔、積雪で、動けなくなったことのあるあの場所だった。悪夢が再来した格好だった。 同乗していた運輸区長が線路に降りて、現場を確認した。車輪周辺の雪がさびを含み茶色い。「レールの上に5センチも雪が積もってるわ。ほかの列車が走っていないから、錆びまで浮いて・・・。こりゃ石油積んで走れる状況じゃないよ。しようがないって。」 雪まみれで運転席に戻ってきた運輸区長の明るい口調に、遠藤文重は少しだけ救われた気がした。冬季の列車の運行に備えてレールは磨き上げられていたが、震災以降、他の列車が走っていなかっただけに、予想以上に錆びが発生していた。これがただでさえ乏しい摩擦係数を引き下げたのかもしれなかった。遠藤文重は無線を取り、会津若松駅指令室を呼び出した。「空転しつつ運転を継続するも、ついに停止。救援を要請します。」 できるだけ冷静に告げたが、悔しさが込み上げてきた。 会津若松駅の指令室には、渡辺駅長やJR東日本の職員数人が集まり、運行情報表示装置で石油列車の運行を見守っていた。この装置は、列車が信号機などを通過するたびに画面に表示されるもので、なにごともなければ一定のテンポで画面が動いていくものである。磐梯町駅付近で画面の動きが遅くなると、職員たちから声が上がった。「頑張れ! 登れ! 止まるな!」 しかし、翁島駅より磐梯町駅方向、約4・5キロメートルにある更科信号所を、石油輸送列車が通過したデータは受信されず、そしてついに、画面は動かなくなってしまった。「止まったか? 雪だな、たぶん。」 渡辺駅長の眉が歪んだ。 間もなく無線で救援要請が寄せられてきた。「了解しました。救援車両を派遣しますので、待っていてください。」 それを聞いて、渡辺駅長は指示を出した。「DE10。準備は出来てるな。」「いつでも行けますよ。」 部下の声が、心なしか明るく響いた。 会津若松駅で暖機運転をして待機していたディーゼル機関車DE10が、排気音を響かせながら力強く動き始めた。狭い車内に運転士2人のほか、線路整備、機関車接続技師などの5人が搭乗した。「頼んだぞ!」 渡辺駅長は、DE10の乗員に手を合わせたい心境だった。DE10は、郡山方面に走って行った。 ーー2時間もあれば停止場所に到着するはずだ。 彼はそう思っていた。 猪苗代湖畔で列車到着を待っていたJOTの渡辺圭介も、異常を察知していた。過去に何度も冬場の停止事案が発生している地点は、調査済みである。同行の友人とともに、翁島駅手前のポイントに車を走らせた。現場には、激しく吹雪が舞っていた。驚いたことに、既にどう聞きつけたか、5・6人の住民が集まっていた。その彼らの視線の先には、DD51を先頭にした石油輸送列車が立ち往生していた。「脱出をトライしたけど、無理っぽい。」 遠藤文重は渡辺圭介に、心配そうに話しかけた。「雪の磐越西線、やはり甘くないな。」 渡辺圭介は、止まってしまった石油輸送列車を、呆然と見つめるしかなかった。 石油輸送列車が停車した場所近くの跨線橋の上から、渡辺圭介は、会津若松方面の線路を見ていた。 ーー応援が来るとしたら会津側からだろう。 そう思ったからである。「あっ! なんか来たぞ!」 現場にいた誰かが叫んだ。「え〜、こんなに早く、嘘だろ?」 渡辺圭介は、眼鏡についた雪を払いながら、遠くを見た。停車してからまだ2時間ほどしかたっていない。こんなに早く着ける筈はなかった。それなのに、こんなに早く着けたのは、渡辺駅長の決断によるものであった。救援に来たDE10は、石油列車の最後尾に近付き停車した。警笛を2回鳴らした。乗車していた職員らが線路に降りて状況を確認、再び警笛が2回鳴らしてDE10がさらに接近し、石油輸送列車の後尾に連結された。DD51の運転席と交信しながら、DE10が動き出しのタイミングを合わせていった。立ち往生していたDD51運転士の遠藤文重が無線で叫んだ。「お願いします!」 DE10の押す力が、タンク貨車の列からDD51側へ伝わっていく。それに合わせて、遠藤文重は再びノッチを入れ、ゆっくりとブレーキを解除した。一瞬甲高い金属音が響いたあと静かに、しかし力強く石油輸送列車が動き始めた。「よし、動いたぞ!」 遠藤文重が声を上げた。「おォッ! 動いたッ! やったァ・・・」 現場で見ていた渡辺圭介らも、思わず叫んだ。予想より早く到着したDE10の救援機関車。駅長の渡辺が準備させ、待機させていたのだと思うと、胸が熱くなった。再始動した石油輸送列車は何ごともなかったようにカーブの向こうへ消えていった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.05.10
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いよいよ若松から郡山へ(1) 「おい、整備しておいたDE10の準備をしておけ。」 駅長の渡辺は部下に指示を出した。もしも山道で石油輸送列車が動けなくなったら、後ろからこのDE10で押して脱出するほかはないと考えていた。そのために、新潟からの石油輸送列車の運行に合わせて早朝から運転士を待機させ、暖機運転をしておけという内容であった。午前1時、すでに石油輸送列車が、会津若松駅に向けて新潟貨物ターミナル駅を出発している。そしてここからの初便の運転士に指名されていたJR貨物郡山総合鉄道部所属の遠藤文重は、一足早く会津若松に戻っていた。すでに磐越西線郡山までの線路の補修は完了しており、タンク貨車タキ1000の入線可能の確認も、JR東日本仙台保線技術センターの尽力もあって、わずか3日で完了していた。前の日には、実際に短い旅客車輌を引いた機関車で、磐越西線の確認走行が行われている。午前3時、会津若松駅近くに宿泊していた遠藤文重運転士が起床、食事を摂って会津若松駅に徒歩で向かった。気が張っていたせいか、寒さは感じなかった。 会津若松駅には、すでに線路を管理するJR東日本の関係者が20人ぐらい集まり、郡山への出発の準備が進められていた。午前四時近くなって、暗闇の中からDD51の重連に引かれた石油輸送列車が、発着場に入って来た。先頭の機関車の前には『たちあがろう東北』のヘッドマークが飾られていた。運転席から、新潟から運行してきた斉藤勉が降りてきた。腹に響くようなDD51のエンジン音が2人の会話の邪魔をしていた。「この先は気をつけて。天候悪そうだから。」 新潟から運行してきた斉藤勉のその言葉だけが、これから交代して運行する遠藤文重の耳に残った。見上げた空の雲が、雪を含んでいるように見えた。運転席に乗り込んだ遠藤文重は、いつものように指さし確認をしながら、運転手順をこなしていた。ふと時計を見ると、発車時間を十五分ほど過ぎていた。会津若松駅は、スイッチバック構造をしたターミナル駅である。そのため新潟から着いた石油輸送列車の機関車を、操車場で方向転換をして付け直すという作業があり、それが遅れの原因となったのかもしれなかった。「くそ! 遅れてるじゃないかよ。」 いやな予感がした。 実は石油輸送列車の初便には、多くの関係者が乗務希望を出していた。運転席には遠藤文重運転士のほか、JR東日本の運転士が指導員として同乗、万一のトラブルに備えた。そしてもう一人、会津若松の列車運転の責任者である運輸区長も乗り込んできたのである。あっけにとられた遠藤文重をよそに、運輸区長は、「マニアだからさ、俺は。まあ、役得というやつ?」 とおどけた。当然彼は、緊急時のミッションを担っているのだが、彼の言う冗談で、遠藤文重の緊張は少しほぐれた。 「出発進行!」 午前4時過ぎ、遠藤文重の指差し号令とともに、DD51にタンク貨車の重みが伝わってきた。10両のタンク貨車は全部で600トン。重連のDD51の定量は700トンで、100トンの余裕があるはずだが、遠藤文重は『さすがに重い・・・。』と感じた。通常の荷物に比べ、石油のような液体は密度が高いせいか、手応えが重い。しかしそれだけなのだろうか。整備してあるとは言え、これらのDD51は廃車寸前であったのである。馬力が落ちているのではないか、という懸念がぬぐえない。窓をたたく雨粒は、徐々に大きさを増している。郡山まで60数キロもあるのに、この雨である。雪に変わらないという保証はなかった。その雨の中をゆっくり動き始めた石油輸送列車を、関係者たちが祈るような気持ちで見送った。日本石油輸送株式会社(JOT)の渡辺圭介が、この運行に携わっていた。 目の前で発車した石油列車初便を見送った駅長の渡辺は、安堵のため息をついた。(JOT)の渡辺圭介は、携帯電話のメールで、仙台にいる上司で石油部長の原昌一郎に、『今、列車が出発しました。』と伝えた。メールで起こされた原は、『了解』とだけ返信してきた。 JOTの渡辺圭介は、猪苗代湖畔の危険と思われるポイントに先回りしようとしていた。彼は待っていた友人の四駆車に乗り込み、曲がりくねった山道を進んでいた。山間部に入ると雨はみぞれに、そして雪に変わった。「タイヤはスタッドレスだよな。」 JOTの渡辺圭介の問いに、友人は、「そうだけど、あんまり積もると走れないからね。」 と顔を曇らせた。 会津若松駅を出発した石油輸送列車は広田駅、東長原駅を通過した。ようやく白み始めた空の下で目を凝らすと、線路脇にはかなりの積雪が見て取れた。深い霧で視界が悪い。大粒の雪が舞い始めた。出発してまだ30分もたっていない。これから本格的な山道となる磐梯町駅付近に差し掛かったとき、運転席の空転ランプが点灯した。機関車の馬力が車輪とレールの摩擦を超えて空転し始めたのだ。遠藤文重はすかさずスピードを落とし、レールに車重をかけていった。戦いが始まった。 一方猪苗代湖畔の翁島駅の近くに先回りしたJOTの渡辺圭介の前には、待てど暮らせど石油輸送列車がやってこなかった。「途中で止まったのかもしれない。」 その不安は的中した。 磐越西線は、磐梯町駅を通過すると上り坂の傾斜が増し、カーブもきつくなる。レール上で車輪が空回りしていることを知らせる空転ランプが、何度も点灯した。速度を上げれば一気に登り切れると考えるのは素人の発想。正解は逆だ。遠藤文重運転士は列車の速度を時速40キロから30キロ、25キロと落とし、車重を使って車輪とレールの摩擦を稼ぎ、レールに砂まきも開始した。車輪の横に装着された小箱には10キログラム程度の砂が詰められている。ホースから車輪に向けて少しずつ砂をまき、レールとのかみ合わせをよくしようとするものである。今回のDD51型は九州など雪のない地域から集められていたので、砂まき装置は急ごしらえで、凍結防止のヒーターが装着されていた。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.04.10
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不足する生活物資と新輸送ルートの開拓(3) 今回の郡山への石油輸送は、背景に政府の意向があるとは言うものの、基本的にはJR貨物の仕事となる。JR東日本は磐越西線のインフラを管理、提供しているにすぎない。1987年の国鉄民営化前は一つの会社であったが、今は違う。このような非常事態であるからこそ、それぞれの枠の中で分業すべきであることは当然だ。しかしJR貨物から、後押し用の機関車の要請が来ていない今の状況で、JR東日本が機関車を待機させる必要はなかった。しかしJR貨物より要請が来てから、また、もし、石油輸送列車が会津若松駅に着いてから必要とされては、対応が遅れることになる。しかも後押し用のディーゼル機関車DE10を用意しようとすれば、運転士や整備士の確保など準備に丸一日はかかる。その準備をしておくべきかどうか、会津若松駅長の渡辺は迷っていた。 ーーともあれDE10は、DD51型と同系のエンジンを搭載した中型のディーゼル機関車なので、相性は良い。 そう考えていた。 二十三日16時20分、第一原発3号機で黒煙が上がり、1〜4号機の作業員が全員退避した。それでも17時過ぎには、それは収まりつつあると報道された。枝野官房長官はシミュレーションの結果を明らかにし、『直ちに避難や屋内退去をしなければならない状況とは分析していない。』とした上で、『念のため、所在場所が原発の風下に当たる場合には、できるだけ窓を閉め、密閉した屋内に止どまることを薦めたい。』との注意を喚起した。この日は震度5強の地震が、4度も起きていた。そのような中、郡山市の豊田浄水場から150ベクレルの放射性ヨウ素が検出された。また、いわき市の水道水からも乳児の摂取制限値を上回る103ベクレルを放射性ヨウ素が検出され、東京都水道局の葛飾区金町浄水場でも、水道水一キログラム当たり210ベクレルの放射性ヨウ素が検出された。東北や関東各地で農産物や水から放射性物質の検出が相次ぎ、首相は福島、宮城、山形、埼玉、千葉、新潟、長野の六県産の幅広い農作物などを食べないように求める『摂取制限』の発動を指示した。このため生産農家は出荷ができず大打撃を、そして主婦たちは農作物などの新鮮なものがまったくない店頭で、考えあぐねていた。県外の主婦たちは、「ここで売られているものを食べてもいいのだろうか。」という恐れの目で見ていたという。 第一原発3号機タービン建屋地下で、作業員3人が汚染水で高線量に被曝した。放射性を含む水が、降雨と放水が原因で増加したとされた。政府は避難者の困難な生活に対し、仮設住宅が出来るまで、県内のホテルや旅館を県の負担で借り上げて提供することになった。この日の福島民報は、福島県産の葉物など11種は、基準値が超えているとして、摂取制限がかけられたと報じた。スーパーなどでも、県内産農作物の取り扱いを、少なくして対応していた。県内のガソリンスタンドは、700ヶ所で営業ができないでいた。またそのような時、福島民報は『今日から石油列車運行。毎日約600キロリットル(20キロリットルローリー約30台分)輸送可能』と報じていた。これは早すぎた報道ではあった。しかしこの記事は、JR貨物職員の気持ちを奮い立たせた。「いよいよだな。」 この報道は、住民にも明るい期待を抱かせた。 ーーせめてストーブに灯油を入れて、少しは暖かく過ごせるかもしれない。 JR東日本では、機関車にも受け持ち区間があるため、区間ごとに運転士が交替する。そのため機関車と貨車を繋ぐ係員、信号の管理担当、保線、電力、通過時の安全を確認する駅員も必要となる。会津若松駅長の渡辺は、会議の終了後、部下に声をかけた。「JR貨物から何か言ってきたか?」「いや、何も。駅長、何か気がかりでも?」「うん。DD51の牽引定数は、平地で800トンだろ? 今回の600トンの石油タンク貨車、この雪の時期、重すぎないかな。」 渡辺駅長が国鉄に入社しての最初の職場は、貨物の連結などをする部署であった。直接運転の業務に関わることはなかったが、ディーゼル機関車の特徴や石油を積んだタンク貨車の特殊な揺れ方については知っていた。会津若松駅長に就任してからも、磐越西線の難所を体感してきた。春遅くまで雪が舞う会津の気候のため、これから運行する石油輸送列車の車輪は、かなりの確率で空転を起こし、最悪、停止すると想定していた。「そんなときには、後ろから別の機関車で押して脱出するしか手がないな」。 彼は、そう言った。「しかし駅長。JR貨物側は大丈夫だと踏んだのではないでしょうか。要請もなくサポートの機関車を用意するのはちょっと・・・。」 部下の意見はもっともだった。しかし彼は、DE10の整備を命じた。この決断が、のちに大きな成果を伴うことになる。 この日の夕方、DD51の講習を終えた遠藤文重らの運転士は、新幹線と在来線を乗り継いで那須塩原に到着、その先の鉄道が不通のためタクシーで郡山に向かった。栃木、福島の県境を越えたところで、タクシーのフロントガラスに白いものが当たりはじめた。「おい、雪だ!」 付近を見ると、道路は湿っているだけであったが、周辺は雪で薄っすら白くなっていた。「まずいな〜。1番列車は磐梯町駅の雪の坂を登れるだろうか。」 不安が皆を黙らせていた。 一方、横浜市のJX日鉱日石エネルギー根岸製油所を出発して新潟に向かった石油輸送列車は、20両のタンク貨車タキ1000を牽引して北へ進んでいた。20両の内訳は、レギュラーガソリン8両、灯油2両、軽油6両、A重油4両であった。同日の深夜、この列車は新潟貨物ターミナル駅に到着した。新潟貨物ターミナル駅は、新潟操車場跡地に作られた日本海側最大の鉄道貨物輸送の拠点である。ここでJR貨物は、いち早く被災地に石油を届けるために、編成分割という手間をかけた。つまりここでタンク貨車10両が切り離されて、ディーゼル機関車DD51ー852と759の重連に連結された。DD51には、2台を連結して1つの運転台から操縦できる重連機能があり、その分、計器類や操作部が多い。一つ間違えれば発進しなかったり、ブレーキがうまく作動せず事故の恐れもある。しかしここからの運転士は、JR貨物の東新潟機関区所属の斉藤勉である。キャリア30年のベテランが慎重にブレーキを解除し、ノッチ(アクセル)を上げた。26日午前1時。予定通り、新潟貨物ターミナル駅からの出発だった。 官房長官は、原発から20〜30キロメートル圏の住民に、自主避難の指示を検討していた。相次ぐトラブルに、出口が全く見えなかった。長期戦の様相となっていた。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.03.10
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不足する生活物資と新輸送ルート(2) 原子炉冷却の放水は、東京消防庁の連続放水などにより、ようやく軌道に乗ってきた。しかし県外への避難者は1万6286人にもおよび、避難所では、おむつの代用にレジ袋を、ミルクにはコメで作った重湯で代用し、しかも互いの体温で暖め合うという状況が続いていた。しかも報道によると、福島からの避難民が、各県に暖かく迎えられているようではあったが、それでも一部心無い人に、『福島県からの避難民のそばに行くと放射能がうつる。』などと言われ、傍に行くのも嫌がられたという。また郡山の橋梁・水管橋・鉄塔などの大手製造会社の矢田工業株式会社が、受注していた鉄製の橋梁が完成したので納入しようとしたところ、納入先から、放射能に汚染された橋はいらないと受け入れを拒否された。県内には、どうしようもないという悲観的雰囲気が万延していった。その後も大きな余震も多く、物が落ちることもあった。夜中に余震の揺れで、起こされることも再三で、『もう、なんとかしてくれ!』という感じであった。しかし見知らぬ町の体育館などに収容されている避難者たちの苦痛を思えば、贅沢は言えなかった。 この大地震を含めて、余震の震源地の範囲が、岩手県、宮城県、福島県、茨城県沖とその範囲が広く、その上心配なことに、震源が日本海側の秋田県沖、東北や長野県内陸部、それに静岡県沖にまで及んでいた。静岡県ともなれば、何年も前から発生するのではないかと注意を喚起されている『東南海大地震』につながるのではと、多くの人が気にしていた。このような時、JR東北本線の北上〜一ノ関間が再開通した。これは良いニュースではあったが、これだけでは、大地震と放射能問題にさらされている福島県には届かないのである。 二十日、国際原子力機関(IAEA)の天野事務局長が原発の事故について、『状況が好転するかどうか、まだ話す時ではない。』と述べ、慎重な姿勢を示した。枝野官房長官は記者会見で、『改善するプロセスには紆余曲折がある。』とこれまた慎重な姿勢を示した。民間のシンクタンクや証券5社が20日までに試算した東日本大震災による日本経済への影響は、被害額としての最大は66兆円と、阪神大震災の約9・9兆円をはるかに上まわる試算を発表した。新聞やテレビの報道によると、米紙ウォールストリートジャーナルは、東京電力が廃炉とされるのを懸念したため、原子炉への海水注入が遅れたと報道していた。政府側の躊躇した姿勢も、事故対応の遅れにつながったと指摘している。このような報道が海外では報道されているのに、何故国内での報道が遅れたのか。この遅れは、『政府や東京電力が、国民の目から隠そうとしていたのではないか?』という猜疑心を生んでいた。 いわき、国見、新地、飯舘の四市町村から、食品衛生法の暫定基準を超える放射性物質が検出された。県は関係団体を通じて、県内の全酪農家に原乳の出荷と自家消費の自粛を要請した。また路地野菜についても早めの対応が必要であるとして、JA福島五連を通じて全農家に出荷自粛の要請をした。さらに残っていた双葉町の住民2000人が、『さいたまスーパー アリーナ』へ避難した。このようななか、国と県との協議がまとまり、ガソリン、灯油、医薬品、食料などの支援物資の供給に全力をあげることとなった。 下田海上保安部の巡視船『あまぎ』が、灯油40キロリットルを積載、小名浜に入港した。このうち県は、灯油6500リットルを確保した。ところが被災地のガソリンスタンドには、それら灯油の配達のローリーが来なかった。大体、原発事故を想定した避難訓練のときには参加していたバスが実際に事故が発生したときは来なかったし、今回も放射能の被曝を恐れた会社や運転手が、運行を拒んだのである。それであるから避難するには、自家用車に頼らざるを得なかった。止むを得ずガソリンスタンドの店主らは、空ドラムを10本ほど自家用トラックに積んで、郡山のオイルターミナルへ何度も何度も運びに行っていた。しかしそのオイルターミナルも在庫が薄くなっていたから、せっかく行っても、ガソリンや灯油を満載して帰ることは、おぼつかなかった。事態は急を告げていた。政府の要請もあって、ローリーが10台、宇都宮の油槽所からガソリンの荷積みをしたが、運転手が被災地に運ぶことを拒否し、郡山のオイルターミナルに下ろしてしまった。 15時55分、第一原発3号機の原子炉建屋屋上から黒っぽい煙が上がり、作業員が避難したが間もなく収まった。17時40分現在、第一原発正門付近の放射能測定値は494・3μSVという非常に高いものであった。それでも枝野官房長官は記者会見で、『原子炉、放射能で問題のある状況は認められない。』と述べていた。厚生労働省には、岩手県の旅館から、『福島県からの避難者を泊めても大丈夫か。』と問い合わせがあったほか県民からは、『福島県から来たと言うだけで宿泊を断られた。』『宿泊の予約さえ受けてもらえなかった。』という苦情が寄せられていた。『風評被害』という言葉があるが、それは食料品にばかりにではなく、こんなところにも及んでいた。 翌日の未明、原発冷却水の排水口付近で採取した海水を調べた結果、法令が定める濃度限度の126・7倍に当たる放射性ヨウ素を検出した。被害が海にまで広がっていた。厚生労働省は、伊達市、郡山市、田村市、南相馬市、川俣町の水道水で、1キログラム当たり100ベクレルを超える放射性ヨウ素が検出されたとして、粉ミルクを溶かすなどして乳児に飲ませないよう要請した。スーパーではポリ瓶入りの天然水が売れ切れてしまった。県災害対策本部は、7月末までに約2万戸の仮設の避難用住宅の供給を進める方針を示した。国見町など5市町では、23日から順次、応急仮設住宅を着工すると報道された。このような対応は、政府が、事故の長期化を想定していたことになる。県民の怒りや不安は局限に達していたし、知事は東京電力の謝罪を『口だけ』として、その受け入れを拒否した。 JR貨物は、ガソリン、灯油、医薬品、食料などの支援物資の供給に全力をあげていた。ところが線路や車輌の手配はどうやらメドがついたが、最も困難であったのは機関士の確保であった。会津若松以西を担当する東新潟機関区では、四年前までDD51が配置されて磐越西線を運行していたこともあって、機関士を確保できる見通しが出来た。しかし会津若松から郡山を担当する郡山総合鉄道部では、一名しかDD51を運行できる機関士がおらず、これの解決が最も難しいこととなった。そこで急遽、東新潟機関区と郡山総合鉄道部の2ヶ所で乗務員の養成をはじめた。磐越西線は貨物列車が走行していないこともあって、郡山総合鉄道部はディーゼルの免許を持ち、かつ磐越西線を運転した経験がある運転士が1名しかいない状況であった。 郡山総合鉄道部は、DD51型ディーゼル機関車の運転教習が出来る愛知県の稲沢機関区に、遠藤文重、渡辺勝義、青木実、中村圭志の4人を、DD51の運転技術講習のため送り出した。同機関区は日本で唯一、DD51型の運転講習が可能な施設であった。「運転の難しさはディーゼル機関車が格段に上だ。電気機関車は自動車で言うとオートマチック車みたいなもの。」 そう話す運転士は多い。しかしここで、この再講習を受けたとき渡辺勝義は、「10分で思い出したよ。」 そう言って笑った。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.02.10
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不足する生活物資と新輸送ルートの開拓(1) このような中、JR貨物の非常時対策室では、新潟と郡山をつなぐ磐越西線を使って、石油輸送列車の運行についての議論が続いていた。しかし磐越西線は、新潟と郡山とが直接つながっていない。中間にある会津若松駅をターミナル駅として、それぞれが折り返し運転をしているのである。「やはり東北本線の復旧を待ったほうがいいんじゃないか。」 ダイヤ編成などを担う運用チームからはそんな意見も出た。磐越西線をセメント輸送の貨物列車が走っていたのは、今から10年も前のことであった。それであるから、石油輸送列車を走らせるのには運転士の再教育が必要であるし、運行機材の確保も難しかった。磐越西線は風光明媚な観光路線として人気があり、SLが走ることでも知られるが、それも新潟駅と会津若松駅の間だけであり、その先の東長原駅、磐梯町駅、翁島駅の間は、急勾配と急カーブが連続する国内屈指の難ルートでもあった。しかも非電化区間があるため、ディーゼル機関車を投入する必要があった。それもあって、急浮上した磐越西線ルートを巡っては難題が多く、部署間での議論が紛糾した。しかしJR貨物の松田佳久は、こう考えていた。 ーーできるだけ早く被災地に石油を届けるには、磐越西線を使うしかない。 JR貨物の機関車グループのリーダーだった松田佳久は「DD51をできるだけ集めてくれ。」 との指示を出した。DD51とは、国鉄時代から使われてきた古いタイプのディーゼル機関車であるが、これなら非電化間でも走行できる。また、国鉄時代に導入された機関車や貨車は、基本的に全国どこの路線も走れる仕様であり、入線確認などの手間を減らすことができる。彼のグループは、DD51の所在確認から検査場の選定、保守技術者の確保などを進めていった。ただし、DD51は現存車両が少なく、ほとんどが退役し解体を待つ身とされていた。「本当に走れる機関車が、あるのだろうか。」 不安は消えなかった。 JR貨物は、DD51型ディーゼル機関車の調達に動き出した。以前に、東新潟機関区に配置されていたDD51は、既に転属して新潟にはなかった。ところが廃車を予定されていたため、DD51形には余剰車輌が出ていた。このことが幸いして、全国各地から余剰車輌をかき集めることができた。九州の門司機関区からは835号機と852号機が、関西の吹田機関区からは757号機・759号機・833号機・1027号機・1188号機の5機が、愛知機関区からは832号機が、しかも吹田機関区では、路線電化の影響により、震災前日のダイヤ改正で運用数を減少させていたこともまた、調達に幸いすることとなった。廃車となる予定であった車輌を8機も用意出来たことは、本当に偶然のことであった。それらは各機関区で入念な整備が行われたのちに、全国各地から集められたDD51形ディーゼル機関車たちは、2機×4ペアを組んで運用にあたることとなった。遠距離からのDD51の輸送には、JR各社の大きな協力があった。 そしてもう一つ、タンク貨車の調達が問題となった。タンク貨車を所有するのは、日本石油輸送株式会社(JOT)や日本オイルターミナル株式会社(OT)といった石油輸送・保管の専門会社である。JR貨物の要請を受け、JOTが調査に入った。必要とした36トン、ローリー約40台分の灯油を積めるタキ38000は、宇都宮に7両、千葉に15両、その他に、他のオイルターミナルに貸し出しているものが十数両あった。しかしこれだけでは少なかった。通常、石油輸送列車は、約20輌のタンク貨車を牽引する。緊急輸送とはいえ、この数では効率が悪すぎる。「ぎりぎり2編成か。」 JR貨物で機材調達を担う松田佳久がつぶやいた。 JR貨物でも、全国に散らばっているタキ38000を千葉と川崎の拠点に集める作業を進めていた。しかし、被災地の石油需要に見合う輸送量を実現するには、45トン積みのタキ1000の投入が不可欠となった。しかしこれらのタンク車を会津若松駅に入れるのには、新たに入線確認が必要となった。この入線確認をとるのに通常三ヶ月はかかるところを、短期間で取得することができた。 自衛隊は福島第一原発3号機に、空と陸から再び放水した。東京電力の常務は、『廃炉検討』を明言し、県民に謝罪した。枝野官房長官は、『第一原発3号機は注水により、一定の安定した状態にあるのではないか。』と述べていた。一方、仙台港に入港した海上自衛隊の輸送艦『おおすみ』が、灯油入りのドラム缶70本(14キロリットル)を陸揚げした。しかしその反面、南相馬市からは3400人が県外へ避難し、双葉町からは町役場機能を含め、1100人が40台のバスに分乗し、さいたまスーパー アリーナに避難して行った。一方で小名浜港の一部が復旧、海上自衛隊のホーバークラフト輸送艦が、毛布、飲料水、おむつ、などの物資を運び込んだ。首都圏でも避難者を受け入れる体制が整い、全国的に支援の輪が広がっていった。 自衛隊は、第一原発の使用済み核燃料の冷却のため、空と海から放水をした。一方、アメリカ国防総省のラバン副報道官は、アメリカ軍が原発対策に向けた特殊なポンプ車やホースを提供したと公表した。その際、『アメリカ軍はあらゆる事態に対応できる能力を持っている。そのため活動を拡大する余地がある。』と力説した。在日アメリカ軍約2万人に対して、日本救援の『トモダチ作戦』を発令したのである。クリントン アメリカ国務長官は、在日アメリカ空軍が非常に重要な冷却剤を原発に運んだと発言したが、ロイター通信は、アメリカの当局者が、『日本は最終的にアメリカからの支援を必要としなかったので輸送をしていない。』と言って長官の発言を修正した。自衛隊と在日アメリカ軍は、『できることは何でも協力する。』と官邸に申し出たが、官邸側は、『まずは警察と消防で対応する。』と回答して要請をしなかった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.01.10
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JR貨物の懊悩(2) 翌十六日の5時45分、第一原発4号機の原子炉建屋で火災が発生した。6時20分には3号機付近で危険性の極めて高い一時間当たり400ミリシーベルトの放射線量が、4号機付近では100ミリシーベルト,2号機と3号機の中間地点では55ミリシーベルトが検出された。双葉地方広域市町村圏組合消防本部の消防隊17人が4号機の消火のためいったん構内に入ったが、現場付近の放射線量が高く危険なため引き返した。正午、3号機が白煙を上げ、4号機もまた火災を起こすなど原発の危機が依然として続いていた。天皇がビデオを通じ、大震災に関連して、『いたわり合い、乗り越えて』と国民に語りかけた。しかし住民の間には、再度の爆発、それも原爆のような爆発があるのではないかと恐れ、自分の住む所の安全性を心配していた。 アメリカ国防総省は、福島第一原子力発電所からの放射能被ばくを避けるため、少なくとも五十マイル、つまり約八十キロメートル圏から避難するよう在日アメリカ人に勧告した。原発から見て八十キロメートルは、北は宮城県名取市、西は猪苗代町、南は栃木県那須町・黒磯町。大田原市、茨城県大子町・日立市辺りになる、国防総省が設定した範囲は、日本政府が先に設定していたものより、ずっと広かった。福島市に住む、渡辺駅長の友人のアメリカ人も、東京へ避難して行った。これらを報道などで知った福島県の中通りからも、県外に自主避難する人や家族が増えていった。この程度の放射能は自然界の中にもあるから心配ないという政府や東京電力の説明も、信頼されなくなっていた。このようなとき、三春町福聚寺の玄侑宗久和尚は、全国各地の同じ宗派の寺院に自費でガイガーカウンターを贈り、この話が本当にそうなのか、本当に安全なのかと長期の観測協力を依頼し、その結果の報告を求めていた。それには、将来、自分の子供たちが福島県に生まれたという理由だけで、県外の人との結婚を断られるのではないか、という不安の声があったからである。 被災者たちは安全を求め、大移動をしていた。県内の避難所は満杯となり、各地を転々としたのち、さらに県外に再脱出する人も多かった。生活物資も不足がちとなり、特に移動用のガソリンと暖房用の灯油の不足は、どうしようもない状態であった。そのため福島県は、避難用のガソリンや灯油を、避難所のある、いわき、相馬、田村、南相馬に向けて、宇都宮の油槽所から、ローリーで被災地に向けて運搬を始めたが、放射能の被曝を恐れた運輸会社やドライバーの要望もあり、運搬先は郡山オイルターミナルまでで止どまった。県は自衛隊や県石油商業組合に要請するなどして、これらの地域に入れるドライバーの確保に追われた。このような時、三春町が放射能の健康被害を防ぐ内服薬、『安定ヨウ素剤』を町民に配布し、服用させたことが問題化した。これは備蓄用に配ったものだとする県に対して町側は、『県が放射能の測定調査の数値を公表していない段階だった。放射能の状況が分からないなか、町民の命を守るために決断した。』と反論した。ところがのちに、服用させたのが良かったとされ、服用させたのは全国でただ一ヶ所と賞賛された。いい加減な話である。この日の福島民報の片隅に、ハワイの福島県人会が大震災への義援金を募っているという、小さなニュースが載っていた。 十七日の未明より、自衛隊のヘリコプターと高圧消防車、および警視庁の高圧放水車と東京消防庁のハイパーレスキュー隊により、第一原発3号機への放水を開始した。県は1時現在の放射線量の数値を発表した。それによると福島市2・80、郡山市で2・86,白河市で3・80(μSV/H)であった。しかし国は、『健康に影響を与える数値ではない。』としていた。9時48分、第一原発事故現場上空の放射線量が作業に問題ないことを確認した後、第一原発3号機に使用済み燃料冷却のため7500リットルの容器に海水を入れた自衛隊大型ヘリ2機で、計4回にわたって放水が実施された。アメリカ軍はこの日から施設の温度や放射線量を測定できる無人偵察機グローバルホークを投入した 福島民報はその論説で、『物流業者が放射性物質による運転手への健康被害を恐れ、福島県への輸送が不能となった』と報じていた。 海江田万里経済産業大臣は、『タンクローリーを西日本から300台移す。』と発表し、同時に石油精製業界に対して石油供給増量を要請した。当初政府は、石油の生産量の方に気を取られていた。そのため石油の物流の問題への対応が遅れていた。それであるから、ローリーを被災地に移しても、灯油を積んだローリーが現地に入りたがらないことを、知らなかった。そしてこの日、震災後初めての救援物資が小名浜港に到着した。しかし港に直接接岸できないため、海上自衛隊の最新鋭輸送艦「おおすみ」の大型ホーバークラフトで物資が陸揚げされた。一方でアメリカ国防総省当局者は、沖縄のキャンプハンセンを拠点とするアメリカ海兵隊第31海兵遠征部隊の約2200人が、秋田沖の揚陸艦3隻で『命令待ち』の状態が続いていた。アメリカ軍の支援は、日本側の要請に基づくのが原則のためであったからである。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.12.10
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JR貨物の懊悩(1) JR貨物では、日本海側から郡山への迂回ルートの検討を始めた。南東北で内陸型油槽所があるのは、郡山オイルターミナル駅だけである。 ーー郡山にさえ運べれば、福島県はもとより、南東北への緊急物資輸送にも使える。これはJR貨物の総意でもあった。しかし東北本線は、栃木県の宇都宮から宮城県の仙台駅間が不通の状態にあった。しかしそのために横浜の根岸油槽所から石油を運ぶとなると、新潟貨物ターミナル駅を経由し、磐越西線で東進するしか手がなかった。会津若松駅にも、各地の鉄道の被害状況が知らされていた。常磐線の新地では列車が転覆大破し、郡山オイルターミナル駅も震動による地盤沈下により線路や道路が沈下、建物などにもその被害がおよんでいた。そして管轄下のレールなどにも、震災の揺れで線路がゆがんだり、盛り土が崩れるなど、相当な補修が必要だった。 JR貨物本社4階の会議室に、各部署の主要メンバー30人ほどが集まった。狭い室内では、どう対応すべきかの議論が続いていた。東北本線の復旧を待つのが一番確実な選択肢ではあるものの現地の状況は切迫しており、それを待っている余裕はなかった。考えられるのは、新潟市新津から郡山までの磐越西線の利用である。すでに会津若松駅には、指示を出していた。しかしながら東北地方では、日本海側と太平洋側でそれぞれ縦の動脈が走っているものの、それらを繋ぐ横の貨物の需要がなかったことから、磐越西線には、営業免許も、走れる機関車も、そして運転できる機関士も、何もかもがない状態であった。それに加え、磐越西線では2007年以来貨物列車が走行していなかったため、線路が耐えられる保線レベルを維持しているかについては、JR東日本の回答次第であった。JR東日本側もこれに応えるべく、大動脈である東北本線の復旧を優先していたところを、はじめは優先順位が高くなかった磐越西線の復旧を最優先として、新潟から郡山までのレールの整備を急いだ。もちろん、保線にあたったJR東日本郡山保線技術センターや関連会社の職員たちも被災者であるが、それでもなお、使命に燃えた保線屋魂で、余震が続くなかでの作業が続けられた。しかし渡辺駅長は、翁島駅の西にある急坂と急カーブが、重い長い石油輸送列車の運行の支障となるのではないか、という危惧を抱えていた。 この日に東京電力は、想定される電力不足に対応するため、東京をはじめ、茨城県、静岡県、山梨県、千葉県の各一部地域で、輪番停電を始めた。輪番に当たった地域の病院や診療所、老人ホームなどからは勿論、一般家庭からも不満の声が起こった。当初JRグループは、自社で保有する水力発電などで運行に必要な電力を確保できるとみていたが、実は踏切や信号などの保安機器は東京電力からの電力に依存していた。このため、輪番停電の実施エリアで列車を走らせることは、実質的に困難となってしまった。被災地に物資を届けるための障害が、後から後から襲ってきた。 十五日の6時10分、第一原発2号機の原子炉格納容器の圧力抑制プール付近で爆発音が上がり、使用済み燃料プールが損傷した。そしてその5分後には、4号機も爆発した。しかもその後には火災が発生し、原発の外部の広範囲に高濃度の放射性物質が漏れた。このとき、2号機の原子炉格納容器の圧力が上昇した際には、内部の蒸気を外部へ放出して圧力を下げる『ベント』という作業を13日と15日に試みたが、2回とも圧力が下がらず失敗していた。 ところでこの日に、東京電力が作業員を現場から引き上げたことを知ったアメリカ政府は、日本に対する不信感を強めた。ウェラード在日アメリカ軍司令官は、官民の力を結集すべきであると提言した。首相は記者会見を開き、半径20キロメートル以内の住民の避難に加え、新たに20〜30キロメートルの住民の屋内退避を指示した。日にちを追うごとに、避難の範囲が拡大していった。そのため、対象者は13万6000人となった。被災住民には恐れと焦りが広がり、直接の被害地である浜通りからは、会津地方などに多くの被災者が移動していた。世界91の国と地域からは救助隊が派遣され、支援が表明された。三春町では、『安定ヨウ素剤』を39歳以下の町民全員に配布し、専門家の助言のもとに服用することを勧めた。 一方で、JR貨物本社も、対応に動いていた。東北本線と常磐線の系統は、地震・津波・原発事故が重なったため多くの破断箇所があり、とても再開を待てる状況ではなかった。そこで、大宮から日本海側に入り、青森から盛岡まで南下するルートが選出され、北東北に向けて石油輸送列車が発車した。この長い線には、石油輸送・タンク貨車の走行実績こそなかったものの、貨物列車の大動脈となった。政府からの要請から3日、震災からわずか一週間という異例のスピードでこのルートでの運行を開始した。1030キロメートルもの長距離石油輸送列車は、丸一日以上かけて盛岡まで運行された。 JR貨物では、このルートの途中にあたる新潟から、磐越西線で郡山までの運行経路を確保しようとしたが、問題があった。磐越西線は、新津から会津若松駅より6駅手前の喜多方駅まで電化がされていないのである。となれば、強力なディーゼル機関車を用意する必要があった。その機関車として選出されたのはDD51形ディーゼル機関車であった。DD51型は、過去に磐越西線での走行歴があったことから、採用することになった。この機関車は、1100馬力のエンジンを運転室の前後に2基搭載した凸型の機関車で、昭和三十七年(1962)から昭和五十三年(1978)にかけて製造され、30年以上も走っていた古い機関車である。しかも石油輸送列車を運行するには、乗務員、機関車、タンク貨車の手配をきっちりと合わせる必要があった。それにも関わらず、以前、東新潟機関区に配置されていた機関車たちは既に他に転属して、すでにここにはなかった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.11.10
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続く危機 昨夜は朝まで余震が多かった。それも半端な大きさではなかった。朝の5時44分、政府は原発からの非難指示区域を、半径2キロメートルから10キロメートルに拡大し、圏外への避難を呼びかけた。テレビや新聞は、『震度6強、大津波全国死者千人超』『巨大地震県内45人死亡370人不明』『県が災害対策本部を設置』『南相馬で1800所帯壊滅状態』『県内のJR各線の運転見合わせ』などと一斉に報じていた。ところが原発事故に関して読むアナウンサーのコメントは、『東京電力福島第一原発・原子炉水位低下・国10キロメートル以内の避難指示』というような素っ気ないものであった。そのために一般の人は、「放射能は大した問題ではない。」などと受け止めはじめ、むしろ一日に何度もテレビから流されるピンポーンと鳴る音緊急地震警報と、続いて起こる強い余震に神経を尖らせていた。 ところが15時36分、第一原発1号機で建屋が爆発した。東京電力職員ら四人が負傷して病院に運ばれ、この爆発で放射性物質が拡散したが、東京電力は『厚さ一〜二メートルのコンクリート製で、放射性物質の封じ込めに万全を期している。』と楽観的なコメントを出していた。17時45分、第一原発周辺から放射性セシウムが検出され、東京電力第二原発の半径10キロメートル圏内の大熊、双葉、富岡、浪江、楢葉の5町の住民6万1000人に対し、避難が指示された。この爆発を知って、広島や長崎に落とされた原子爆弾のような大爆発がある、と想像した人も少なからずいた。その恐怖から脱出しようとする住民たちの、避難がはじまった。 鉄道、バスをはじめとした公共交通網は完全にマヒし、テレビに映し出される避難民のノロノロと動く車の列は、あたかも戦乱などを逃れる難民の様相を呈していた。スタンドの前には逃げるためのガソリンを求めて、長い車の列ができていた。公共交通機関が止まってしまった今、ガソリンがないと、避難先も定かではない何キロもの遠い距離を、動けないのである。しかもそれらの避難民を受け入れる側も、無傷ではなかった。大津波で壊滅的被害を受けた県内の死者・行方不明者は530人を超え、中・浜通りの12万2216戸が停電、断水のため各地に給水所が設けられた。むずかる赤児を背にした母親たちも、空の容器を下げて長時間並んで立っていた。学者や専門家たちは、放射線の危険性を一斉に公にしていた。 第一原発3号機も『炉芯溶融』状態にあり、被爆者が111人になったとのニュースが流れた。そして 十三日の9時25分、地元の消防車により、第一原発3号機へ水の注入が始められた。県内では半径20キロメートルからの避難者が8万人、周辺地域で自主的に避難した人を含めると12万人以上に膨れ上がった。避難指示区域が、また広げられた。首相は自衛隊派遣体制を10万人規模に拡大するよう指示した。この日のニューヨークタイムスは、福島原発のメルトダウンを警戒し、アメリカのスリーマイル島並みに格上げをすべきとの記事を掲載していたという。その夜、東京電力社長がテレビの記者会見の席上で謝罪、その一方で、「福島第一原発から放出された放射性物質は、敷地境界で現在毎時80マイクロシーベルトである。ただちに人体に影響が出るレベルではない。」とコメントしていた。しかし誰もが、そのような安易なコメントを信用しなかった。現地には、異体の知れぬ恐怖が差し迫っているのである。 NHKをはじめ全民放の報道が大震災関連の番組一色となり、コマーシャル番組の一切が消えた。そのコマーシャルの時間帯を、『ACジャパン』、『今日ワン』や『日本は強い国』という番組が補っていた。報道によると、ハワイも日本で起きた大津波の余波に襲われていた。ハワイ島では住宅1棟が流失、住宅18戸全半壊。キング カメハメハ ホテルのロビーは1フィートも冠水、海水は100フィート、約30メートルの地点にまで達していた。オアフ島では約200隻のボートが漂流したり衝突して損傷した。マウイ島でも2隻が沈没し、1隻が転覆していた。日本で起きた大津波が、遥かに遠いハワイも襲っていた。 福島県などの被災地では、予定されていたイベントなどが中止や延期に追い込まれた。中通りや浜通りでは、12万2216戸が停電していた。ガソリンや灯油の不足が深刻化し、スーパーや小売店には、食料品や生活必需品を求めて住民の長い列が出来ていた。そしてJR東日本本社から会津若松駅には、新潟から郡山までの線路の復旧が要請されていた。 ストーブの灯油もない避難所には雪が積もり、避難民たちは寒さに震えていた。ガソリン不足のため、警察や消防までが、その活動を制限されるという非常事態であった。このような事態に、国土交通省や経済産業省からJR貨物に対して、東北への石油輸送を早く始めるようにとの強い要請があった。しかし、事はそう簡単ではない。鉄道のレールの規格は、実はどれも同じではないのである。長大な列車、重量級の列車が走る区間は最高ランクの堅牢性で作られているが、短い旅客列車が走る路線ではコスト面に配慮して、細いレールを使ったり、路盤や基礎を簡素にしている。しかも各地からの状況報告により、大宮から高崎線を経て上越線に入り、日本海側に沿って新潟へ、そこから羽越本線、奥羽本線を通って青森を経由し、盛岡まで南下するルートの安全が確認された。そこで早速、このルートを使って、石油輸送列車を運行したのであるが、貨物列車の通常の運行距離は、20~200キロメートル程度の間である。しかしこのルートで、1030キロメートルもの距離を、しかも大量の石油製品を毎日運び続けなければならないことになった。そのような経験は、鉄道130年の歴史にはなかったことである。初めての経験であった。 大津波から四日後の十四日の11時1分、第一原発3号機も水素爆発を起こし、自衛隊員を含む11人が負傷した。3号機では新たに7人が被曝し、復旧は極めて困難とされた。メルトダウンの恐れがあるという。東京電力福島原子力発電所は、楢葉町にある第一発電所の1〜3号機と、大熊町にある第二発電所1〜4号機で構成されていた。原発事故の地元となる福島県を襲ったこの放射能被害は、程度に差こそあれ、青森 岩手 宮城 山形 茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 山梨 長野 静岡 三重 兵庫、そしてさらに海を越えた香川の各都県にまで及んでいた。それでも東京電力は、『原子炉圧力容器や原子炉格納容器は健全だ。』と説明していた。枝野官房長官もまた記者会見で、第一原発周辺の放射線量に関して、『しっかりモニタリングを続けており、人体に影響を及ぼす可能性はない。』として、現状では危険なレベルには達してはいないとの認識を示した。しかし原発による難民も一般の県民もこの声明を信じていなかった。むしろお互いに、放射能の危うさを話し合っていた。見えない恐怖との戦いである。新聞には被ばくを避ける注意点として、帽子をかぶり、濡れたタオルでマスクをし、肌を曝さないためにカッパの着用を勧めていた。このような記事をみて、誰が安心できるというのだろうか。住民の間でも、不安がさらに高まっていた。史上最悪と言われた1986年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故のように、放射能が住民の健康に長く深刻な影響を及ぼすのではないかと、誰もが恐れていた。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.10.10
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石油輸送救援列車、東へ 東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)会津若松駅長の渡辺光浩は、朝食時、いつものように福島民報を手にとった。一面から見ていたが、地方版の小さな記事が目に止まった。そこには、『高校入試、頑張れ。西会津中生、受験生の乗った列車にエール』という記事であった。彼は思わず、ニヤッとした。なんとなく、誇らしげな気分になったのである。 ーー嬉しい記事だった。今朝は気分がいいな。 いつものように出社した彼は、いつものように仕事に入った。そしてその日も午後は、駅長室でのデスクワークを始めていた。 2011年3月11日 突然! ど〜んという音とともに、建物がグラグラと大きく揺れた。揺れは長く続き、棚の物が落ちて割れ、書棚の書類が落ちて舞った。それがまるで、映画のスローモーションの場面を見ているような感じであった。 ーーうわっ! 地震だ! そう思って立ち上がろうとしたが、揺れがひどくて、立てたものではなかった。 ーーこれは只事ではない! 彼は、ようやく机の下に身を入れた。大きな揺れが二度あった。彼は鉄道員の習性で、腕の時計を確認した。時計の針は、14時46分を指していた。それは2011年3月11日に発生した、東日本大震災であった。 それは今までに経験したことのない大きな地震であり、しかもそれが長く感じられた。ちょっと揺れが落ち着いてきたので駅長室のドアーを開け、事務室を見た。その事務室もまた惨憺たる有様で、職員の何人かが呆然と立っていた。揺れはすぐには治まらなかったが、彼は事務室にいた副駅長と何名かの助役に、駅構内にいる乗客たちの安全の確認と誘導を指示した。そして各線を走行中の列車に停車命令を出し、乗客救援のためのバスの手配を命じた。このようなとき、列車は指示がなくても停止することになってはいたが、念には念を入れたのである。震源は宮城県沖であったが、津波警報が全国に発令されたため、すべての鉄道の停止が余儀なくされていた。 この時の会津若松駅の職員の多くは、宮城県の出身であった。JR東日本は、若い職員に経験を積ませるため、それぞれの出身地での勤務をさせていなかったからである。それもあって、テレビに映し出される地震の被害を見た職員たちは、動揺していた。しかし地震による被害は、それ以外の出身の職員たちにとっても、同じであった。渡辺駅長は駅構内や運行中の列車への対応をとらせたのち、職員らに家族の安全を電話などで確認するよう伝えた。仙台に妻を残し、単身で赴任をしていた彼もまた、家のことが心配であった。しかし妻と連絡を取ろうとしたが、その安否の確認には電話などがつながらず、時間がかかった。その間にも連絡の取れた職員から、仙台での被害の大きさのおおよそが、知らされていた。 15時30分頃、この大地震を原因とした大津波が、関東・東北地方を襲った。テレビは、各地の被害の状況を、ライブで放映していた。津波は仙台空港になだれ込み、東京電力福島原子力発電所を飲み込んでいた。それら各地の被害を報じるテレビの画面には、将にあり得べからざる光景が映し出されていた。この大津波は、場所によっては波高10メートルにものぼる巨大なもので、東北と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的被害をもたらした。そのときに起きたJXエネルギー仙台製油所の炎上が、東北全般に対する石油供給に、致命的な打撃を与えることになった。目前の鉄路の作業に当たっていた宮城県出身の職員たちも、今後仙台などで起こり得る放射能被害についての心配で、気の休まることはなかった。 海岸近くの住民たちは、このような大津波に襲われるとは予想していなかった。津波の高さが3メートルを上回るまでの時間は相馬で59分であったが、それが10メートル前後の巨大津波になるまでには、たった2分程度しか余裕がなかった。津波警報が出た時から避難を始めれば命は助かったのであろうが、津波を見て危険を感じてから逃げた人は、間に合わなかったと言われる。地震発生後、会津若松駅の管轄である喜多方駅から中山宿駅と上戸駅の間の沼上信号場までの間の磐越西線も、何ヶ所かで被害を受け、寸断された状況にあった。(地図を挿入) 一方で東京の新宿駅近くにある日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)本社ビルでは、運行状況などについて断続的に会議が開かれていた。前日に千葉県成田市で貨物列車の脱線事故があったため、乱れた運行ダイヤの回復策なども議題となっていた。JR貨物の安田晴彦は、人員の安全と線路の被害状況を確認していた。電話は不通になっていたが、JRグループ内でのみ使われる鉄道電話だけが通じていた。全国で運行中の貨物列車の所在確認が行われたが、津波被害を受けたエリアからは、当初、情報がほとんど入って来なかった。JR貨物の主力は本州と北海道便である。通常、関東〜北海道を結ぶのは東北本線で、西日本や北海道へは、主に新潟を経由した日本海縦貫線が用いられる。東日本大震災では東北本線の被害が大きかったのであるが、新潟と青森間の日本海縦貫線は、比較的被害が小さかった。 大津波の約4時間後になって、菅直人首相は、原子力緊急事態宣言を出し、20時50分には、福島県が第一原発の半径2キロメートル以内の住民に域外への避難呼びかけた。そして21時23分、原発災害本部が第一原発から半径3キロメートル以内の住民に避難を、また10キロメートル以内の住民に屋内退避を指示した。しかし避難を呼びかけられた住民たちには、どこへどう避難したら良いかの指導はなかった。しかもこの放射能という魔の手は目に見えず、匂いもなく襲ってくるのである。この容易ならざる事態の発生に、県内は騒然としていた。この大津波で東北太平洋岸の主要港は壊滅し、仙台空港なども被害を受けて海路・空路ともに遮断され、東北自動車道も損傷が伝えられていた。しかし首都圏でもこれに似た動きがあった。テレビは大地震の夕方に、会社から歩いて帰る人たちの姿を映し出していた。東京ではJR・私鉄とも全線がストップし、バスも動かなくなっていた。そのため、300万人ともいわれる人々が、自宅にさえ戻れれば安心と思って歩き出したのである、街は歩く人の波で、満員電車並みの混雑と、なっていた。遠くて、その晩のうちに家にたどりつけない人のために、途中にある区民会館や集会所などに急遽開設された避難所で夜を明かした人も多かった。これらの人たちは、帰宅難民と言われた。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.09.10
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