三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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我が家の記憶 あのことがあったのは、大分昔のことになる。 我が家には、三つの土蔵があった。それらは母屋から近い順に、『前の蔵』、『中の蔵』、『裏の蔵』と呼ばれていた。ある夜、その『前の蔵』の扉を開けると、すぐ左に、地下室へ行く階段があったという夢を見た。気になった私は、翌朝起床するとすぐ、『前の蔵』へ行ってみた。扉を開けた左には、いつも見慣れていた半間四方ほどの押入れが鎮座していた。夢で見たのはここかと思って押入れの戸びらを開いてみたが、何の変哲もない様子である。周辺をよく観察してみたが、押入れの背後の板は土蔵の壁にピッタリ付いており、人が入り込めるような隙間は見当たらなかった。押入れの床も叩いてみたが、それも開くような様子はなかった。 「やっぱり夢だったな」 そう思いながら蔵の中を見渡した。すると今まで気にも留めなかったが、床の中央部に、空気穴として使われている半間四方ほどの平らな格子状の床が目に入った。そこを上から眺めてみると、格子を透かして下の土が見えていた。「ん…?」 私はそこに、何やら妙なものがあるのに気がついたのである。 格子を外してみると、籾殻が富士山の形に整えられていた。再び、「ん…?」、である。これはどう考えてみても、これを作った本人以外の人が手をつければ、すぐに分かるようにしていた方法としか思えない。すでに祖父・父ともに亡くなっていた私は、今やこの家の当主である。調べたとしても、誰に文句を言われることもない。そこで私は、その富士山の真ん中を、傍にあった木の棒で刺してみた。富士山が大きく崩れ、刺した棒が下の木の板に当たる音がした。そこで今度は思い切って、富士山を掻き払ってみると、何かの蓋になっているような木の板があった。またしても「ん…?」、である。私は恐る恐る、その蓋を除けてみた。するとそこには陶器の壺というよりは土器のような壺の首が見え、壺の中には、何やら油紙で包まれたようなものが見えていた。壺は、半分以上が土に埋まっていたので、中身だけを取り出してみた。それは体積の割には、重いように思われた。薄暗い土蔵の中で開いたその包みの中からは、細い縄が通された結構な量の古銭が出てきたのである。しかし残念ながら、大判小判の類は入っていなかった。「うーん…」。 私は思わず唸った。これは曽祖父か先祖の誰かが、埋めたものに違いなかった。 あれから幾星霜。 平成十年、私は先祖伝来続けてきた営業の全てを整理した。長年の取引先により受けた取り込み詐欺、そして2004年におきた大水害の被害から立ち上がることは出来ないであろうという危機意識が、その根底にあった。しかし営業を止めるということには、大変な労力を要するものであった。全社員への退職金と銀行借り入れの返済。それだけでも大変なのに、約束手形を受取っていた取引先の一部は不渡りとされるのではないかと恐れ、暴力団に安く売った会社も現れた。これら暴力団からは、支払期日を守ることへの脅迫も受けていたのである。 これら一斉に襲ってきた多くの支払いに対して、当然ながら資金不足となった。実家の売却のことを聞きつけた当時の三春町長から、「三春の町屋資料館にしたいので、是非譲り受けたい」との打診を受けた。当時、三春歴史民俗資料館や三春人形館などを作って町興しに力を入れていた町長は、我が家が明治期の建築物ではあったものの、江戸期の様式で間口が狭く、京都の町屋のように奥行きが長かったのである。町長の提案に応じることは、建物が自分の手から離れても、建物自体は長く残るかも知れないという安堵感もあった。三春に住む親戚などの、賛意も得られた。私は、実家の売却の申し入れを受け入れた。私の実家は町の所有となったが、それもあって借財のすべてにピリオドを打つことが出来たのである。 建物の明け渡しに際し、家財ともう使われなくなった諸道具などを運び出し、空になった建物を確認していて、『中の蔵』の梁の上に、何か黒いものを見つけたのです。ハシゴを使って登り、降ろしてみると、それは意外に軽い箱状の物であった。それは埃にまみれてはいたが、丁度モーターなどのコイルのように、麻紐でグルグル巻きになっていた。ともかく、丁寧に解(ほど)いてみた。その麻紐のコイルの下は、油紙で包まれていた。この油紙を取り除いてみると、また麻紐のコイルが表れたのである。それでこのコイルを、丁寧に解いてみると、また油紙に包まれていました。この油紙を取り除いてみると、黒い和紙が貼られた30センチ平方の平面に1メーター20センチほどの長さの箱が出てきたのです。しかも開けてみると、その箱は長〜い引き出しだったのです。引き出しの引き手を引いてみました。すると中には、やはり油紙に包まれた長い物が二つ入っていました。「一体、何が?」その思いで二つの包みを開いてみると、なんと、刀が二振り出てきたのです。引き抜いてみました。薄暗い土蔵の光の中で、それは鈍く光っていました。このように厳重に保管されていたせいか、錆一つなく輝いていたのです。 「この刀は、何時の時代に、誰が保管したものであろうか?」 そしてこの保管されていた状況から考えて、後の世代の誰かが開けることを予想したものに違いないと思われた。それがなんと、私だったのです。 ところでこの話を私から聞いた叔母が、次のような話をしてくれたのです。 「(太平洋)戦争中に、おじいさん(8代目・私は10代目)が、『裏の蔵』の『上がりがまち』に、何か一人で埋めていたのを見た覚えがある。何を埋めたかは知らないが、もし何かあったら忘れずに掘ってみるといい」と言われたのです。そうは言われても既に三春町の物になってしまった今、勝手に掘り返す訳にもいかなかったし、本当かと思ってその気にもなりませんでした。忘れた訳ではなかったが、そのまま時間が経っていった。そしてある日、三春へ行った時、愕然としました。あの実家の全てが取り壊され、ポツン、ポツン、ポツンと三つの土蔵だけが取り残されていたからです。しかもすでに土蔵の改造はほとんど済み、床も綺麗に貼られ、土蔵を利用した新しいカフェの開店準備が進んでいたのです。もう、どうすることも出来ません。私は黙って帰ってきました。 私は今でも、「本当におじいさんは『裏の蔵』の床下に、何かを埋めて隠したのであろうか」と疑問に思っています。そしてあの夢は、本当は『前の蔵』ではなく『裏の蔵』の夢であって、おじいさんが夢で、孫の私に何かを伝えようとしたのではないだろうか」とも思っています。叔母も亡くなってしまった今、それを確認する方法はなくなってしまいましたが、自分が所有しているうちに掘り返してみなかったことに、今でも若干の悔いが残っています。
2023.01.20
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大日本帝国の埋蔵金 日本は戦争継続のための資金不足に対処するため国債を発行し、国民から貴金属などの提供を求めました。そして戦後、終戦処理に必要な国庫収入を確保するため、昭和二十一年三月三日時点の財産の総額から負債の総額を控除した金額が十万円を越える者に、25%から90%という超累進税率による富裕税を課したのです。富裕税が課税されたのは約四万八千人で、国内総世帯の0・2%弱でした。富裕税における財産評価額の70%から80%は土地・家屋という不動産と株式等の経済資本でした。納税にあたって、彼らは自己の邸宅や不動産、さらには貴金属などで対処したのです。そのような中で、M資金というものがありました。 M資金とは、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが、占領下の日本で接収した財産などを基に、現在も極秘に運用されていると噂される秘密の資金です。Mは、GHQ経済科学局の第二代局長であったウィリアム・マーカット少将の頭文字とするのが定説となっています。しかしM資金の存在が、公的に確認されたことは一度もありません。そのためもあって、M資金に関係して、様々な秘密資金詐欺が発生しました。著名な企業や実業家がこの詐欺に遭って自殺者まで出したこともあり、一般人の間でも有名になりました。終戦時の混乱期に、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む軍需物資や、一般から強制的に提出させた刀剣類、また90パーセントもかけられた富裕税が払えず、物納された貴金属類などが保管されていた日銀地下金庫から秘密裏に流用されていたということ、そしてこの日銀地下金庫にマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れた際に、彼らによる隠匿があったのではないかということなどがあったのです。 GHQの管理下に置かれたこれらの押収資産は、戦後復興・賠償にほぼ費やされたとされるのですが、その資金の流れには不透明な部分があり、これがM資金に関する詐欺の噂の根拠となったようです。M資金の詐欺師は、虚実織り交ぜた話で、被害者の欲求につけ入り、そしてからめ取って行ったのです。話を信じ、M資金の恩恵に与ろうとした被害者が金を用意して仲介者である詐欺師に渡した後、その人物はそのまま行方不明になる、というケースが典型的でした。ともあれ戦後の混乱期でしたから、アメリカの息がかかった資金があっても、不思議ではなかったのかも知れません。このM資金詐欺は、昭和三十年代から平成を超え令和の今に至るまでの60年以上、ほぼ同じ手口・内容の詐欺が繰り返されていると言われます。どうぞ皆さん、引っかからないようにしてください。 ところで昭和二十一年四月十九日の新聞に、『旧日本軍の金塊発見』の活字が躍っていました。そこに載せられていたのは、103本の金塊、当時の金額で92万7000円、2021年の価格で280億円というものでした。本土決戦のために軍が国民から徴用した貴金属や軍需物資が国民には返還されず、さらには食料品の入った缶詰などが高級軍人や官僚などの特権階級に横領され、それが戦後のヤミ市に横流しされていました。その一部である金塊が、GHQにより引き揚げられたというのです。これは終戦直前に、旧日本軍が陸軍省用地に隣接した東京湾の越中島海底に隠匿していたものでした。戦後まだゼロ年、飢餓やインフレは戦争中より深刻でした。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたか分かりません。それらを憂えた関係者によって、GHQへの『たれ込み』により見つけられたものと推測されています。 そしてもう一か所、場所は福井県敦賀市。終戦までここには陸軍の敦賀連隊が置かれていたのですが、日中戦争下の昭和十五年に大陸から持ち込まれた相当な数の貴金属や美術工芸品を、昭和十九年に山中に隠したというのです。その価値は約3億円(当時)。この話は、旧陸軍の将校の一人が下宿先の旧家の主人に伝えたことから、戦後しばらくしてから捜索が始まったというのです。それから苦難の調査が続き、あともう少しだというのですが、実はそこで作業が中断しているというのです。理由は、落盤と酸欠の危険に加えて、付近にクマが出没するようになったからだそうです。 げに『キン』とは、人の心を惑わすものですね。
2023.01.10
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徳川の埋蔵金 ところで規模の大きな埋蔵金伝説に、徳川の埋蔵金があります。大政奉還で徳川幕府が政権を朝庭に返上した翌・慶応四年(1868年)三月、新政府軍は東海道を下り、まさに江戸を総攻撃しようとしていました。その緊迫した情勢の中で、新政府軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟との交渉によって『江戸城明け渡し』が決定されて江戸の町は戦火を免れ、徳川慶喜の江戸退去をもって城は新政府軍に接収されました。江戸城に入った新政府軍は、蔵の扉を次々と開けて鉄砲など武器弾薬を押収したのですが、肝心の幕府の御用金の入っているはずの蔵はもぬけの殻、どこを探しても御用金は見つかりませんでした。財政難に喘いでいた新政府は、その資金源として、幕府の御用金を当てにしていたのです。御用金は金360万両、今の金額で約200兆円と見積もられていました。幕府が隠したと判断した新政府軍は、蔵番の役人25人を厳しく尋問したものの誰も白状しなかったため、彼らは全員処罰され、御用金探しが始められました。その探索の手は、大政奉還当時、勘定奉行であったが、今の群馬県高崎市にあった権田村に隠棲していた小栗忠順に及んだのです。 安政五年(1858年)、幕府が開国したのち小栗はフランスと手を結び、横須賀製鉄所、のちの横須賀造船所、そして現在はアメリカ軍横須賀基地になっていますが、これを建設した人物です。勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介らと並ぶ開明的な幕臣で、新政府側が最も警戒した人物と言われています。小栗が捕らえられて斬首される直前、小栗は母と身重の妻と養女を、以前から面識のあった旧会津藩家老の横山主税を頼って会津に脱出させました。一行は身をやつし、新潟を経て会津に着いたとされています。彼女らは、松平容保の計らいで旧会津藩野戦病院に収容され、無事に赤ん坊を出産しました。そして、翌・明治二年の春まで、彼女らは会津に留まり、東京へ出たのですが住む家がなく、三井財閥中興の祖である三野村利左衛門に庇護されたと言われます。三野村は、小栗家の奉公人だったのです。 小栗が幕府勘定奉行であったことから、「小栗が幕府の軍資金360万両を持って逃げた」という噂が噂を呼び、更には「利根川をさかのぼって来た舟から何かを降ろし、赤城山中に運び込むのを見た」と言う者まであらわれ、加えて小栗が、江戸開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一斬首とされていたことも重なり、「幕府の御用金が赤城山に隠されていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みたのですが、その中でも発掘に情熱を傾けた家に、赤城山の水野家がありました。親子3代に渡って私財を投げ打って徳川埋蔵金発掘作業にあたってきたのです。この水野家の初代・智義が埋蔵金発掘に目覚めたのは、明治十六年、今から120年前。一世紀以上も前の話です。それはかつて、幕府の武士だった男から、一通の手紙を受け取ったことから始まったそうです。そこに記されていた内容こそ、幕府再興のために隠された軍資金・金360万両の手がかりだったのです。元々、武家の生まれで、幕末は薩長と死闘を繰り広げた智義。その命を賭して奉公した幕府が、最後まで守り抜きたかった宝のありかを記した情報が、図らずとも、彼のもとに舞い込んできたのです。そして明治二十三年には、黄金の徳川家康像を発見し、その後も、近所にある寺の縁の下で、埋蔵金の在りかを記したとされる銅板を入手するなど、手がかりになりそうな遺物はいくつか発見されたのですが、肝心の金貨は一枚も見つかっていません。 時はさらに流れて、1990年代の初頭。徳川埋蔵金発掘は、テレビ番組のプロジェクトによって、再び脚光を浴びることとなりました。企画が組まれたのは、大橋巨泉がMCを務めたTBSのエンターテイメント番組『ギミア・ぶれいく』。火曜・ゴールデンタイムの2時間番組でした。コピーライターの糸井重里を中心に発掘チームが結成され、バブル期のテレビ局ならではの莫大な資金をもって実施されたのです。作業開始にあたって番組は「水野家」という祖父・父・子の三代に渡って埋蔵金の発掘に挑戦する一族と手を組みました。 この番組での発掘調査は7度にも及び、視聴率20%を超える人気番組となりました。ご覧になった方も、多いのではないでしょうか。それには自称超能力者の助けを借りるなどし、すでに赤城山で。3代100年以上に渡って埋蔵金を探し続けていた水野家の敷地内にある『源次郎の井戸』を埋蔵場所と推定し、作業に取り掛かったスタッフは最大90名。7台もの重機を駆使し、総額3億5000万円の費用が投じられたと言われます。番組では「正体不明の空洞が!」とか、「幕末のものと思われる重要な証拠が次々と!」など、ちょっとした発見でも過度に煽り、その動向に視聴者は興奮。終わりには発掘のために、最大60メートルの深さまで穴を掘ったり、水野家の一部を取り壊したりもしました。しかし、どんなに手を尽くしても埋蔵金は出てきません。結局、人気を博した徳川埋蔵金プロジェクトでしたが、大きな成果を挙げられないまま終了してしまいました。一説に、徳川御用金の隠されていると言われる赤城山はダミーであって、実際に埋められたのは別の場所ではないか、と囁かれています。番組は手を引きましたが、今でも水野家は発掘作業を続けているそうです。果たして、夢の200兆円は本当にあるのでしょうか。
2023.01.01
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黄金の島 ジパング ところで、近年の都市開発などの工事現場などから偶然に見つかる甕(かめ)の中に、『大量の金銀貨幣』が見つかってニュースになるなど、実際の発見例はいくつもあります。それらの埋蔵金のほとんどが、言い伝えにも古文書にもなかったものです。考えてみれば、今のような銀行や頑丈な金庫などがなかった時代には、お金や貴重品などを盗難や火災から守り、子孫に伝えるのには、地中に埋めておくのが最も手っ取り早く安全な方法だったのでしょう。しかし金庫がわりの甕に保管して地中に埋めておいたお金などが、何らかの事情で子孫に伝わらなかったものもあるのでしょう。いずれそれらは、明らかに意図的に隠されたものです。ですから、まだまだ日本の地下には、人知れず眠ったままの大判・小判があるとみてもいいかも知れません。 さてここで、皆さんに問題を出しましょう。もし皆さんが埋蔵金を掘り当てたら、それは誰のものになるのでしょうか? まず、埋蔵金がそもそも誰のものであったかを明らかにし、そしてその子孫が名乗りを上げて相続権が証明されればその子孫のものになります。しかし相続権を持つ人物が半年以内に名乗り出た場合は、『報労金』として埋蔵金の価値の5パーセントから20パーセントを受け取る権利が、発見者に与えられます。もし相続人がいない場合、埋蔵金のあった土地が発見者の所有物であれば、そこから発掘された埋蔵金はすべて発見者のものになります。しかし他人の所有する土地からであれば、発見者はその半分を得ることになります。ただし、発見されたものが歴史的に価値のある場合は文化財保護法』が適用されることもあり、こうなると自由に売買はできません。 ところで第二次大戦後、M資金というものがありました。M資金とは、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが、占領下の日本で接収した財産などを基にして、現在も極秘に運用されていると噂される秘密の財宝です。Mは、GHQ経済科学局の第二代局長であった少将ウィリアム・マーカットの頭文字としたというのが定説となっています。しかしM資金の存在が、公的に確認されたことは一度もありません。そのためもあって、M資金に関係して、様々な秘密資金詐欺が発生しました。著名な企業や実業家がこの詐欺に遭って自殺者まで出したこともあり、一般人の間でも有名になりました。第二次世界大戦中に、戦費不足で悩まされた日本政府は、国民より、鍋釜の民需品をはじめ、貴金属や寺の梵鐘まで献納させていました。更に戦後には、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む日本政府が集めていた献納品や、一般から強制的に提出させた刀剣類が、GHQの管轄に移されました。刀剣の中には、国宝級のものも含まれていたと言われます。その他にも、90パーセントもかけられた富裕税が払えずに物納された貴金属類なども、日銀地下金庫保管されていたと言われます。それらが秘密裏に流用されていたと言う事件もあったため、日銀地下金庫にマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れているのです。しかしその時、部隊員による隠匿があったとされる事件なども発生しています。 GHQの管理下に置かれた押収資産は、戦後復興・賠償にほぼ費やされたとされるのですが、その資金の流れには不透明な部分が多く、これがM資金に関する噂の根拠となったようです。この他にも終戦直前に、旧日本軍が東京湾の越中島海底に隠していた大量の貴金属や金の地金が、昭和二十一年四月六日にアメリカ軍によって発見された事件などが、M資金の噂の真実味を醸し出していたようです。戦後の混乱期でしたから、アメリカの息がかかったそういう資金があっても、不思議ではなかったのかも知れません。げに金(キン)の魔力とは、人の心を惑わすものですね。 人の心を惑わすと言えば、マルコポーロの東方見聞録があります。『黄金の島ジパングは東方、大陸から1500マイルの海にある島である。住民は色白で慇懃、優雅である。独立国で君主をいただき、どの国からも干渉を受けていない。莫大な黄金がある。君主はすべて純金でおおわれた非常に大きな宮殿を持っている。われわれが家や教会の屋根を鉛板でふくように、この国では宮殿の屋根を全部純金でふいている。その価値はとても計り切れないものである。さらに、たくさんある部屋は、これまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。広間や窓もことごとく金で飾り立てられている。実際、この宮殿の豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱することはないものである。真珠も美しいバラ色の、しかも円くて大きな真珠がたくさんとれる。この島では人が死んで土葬にするときには、死んだ人の口の中に真珠をひとつ入れる。真珠のほかにもいろいろな宝石を豊富に産出する。まことに豊かな島である。この莫大な財宝について耳にした大汗すなわち蒙古の皇帝フビライは、この島を征服しよう思いたった。』 それはともかく、『黄金の島・ジパング』という表現は、奈良や鎌倉の大仏、中尊寺の金色堂についての話を伝え聞いたからではないだろうか。それらは金箔を貼ったものに過ぎなかったのであったが、話が伝わる内に純金で作られているという風に誇張され、変わっていったものと思われる。事実、当時の日本は世界有数の金産出国であった。中尊寺を建立した奥州藤原氏もまた、青森県の十三湊を介した対中国交易を行っていた。このため、このような情報が中国でも一般に流布されていたのかも知れない。 東方見聞録を通じたこの日本の情報は、1400年代末に行われたコロンブスの四回の航海にも決定的な影響を与えています。コロンブス最初の航海の記録によると、1492年8月3日、三隻の船を導いてスペイン南部のパロス港を出航、陸地の見えない長い船旅で船員の恐怖心で爆発しそうになるのを抑えながら、日本を目指したとあります。そして10月12日に現在のバハマ諸島のグアナニー島に到着したときのことを、コロンブスは航海誌にこう記録しています。『この島では、彼らが鼻にぶらさげる程度の黄金を産出しますが、私はここに暇取っていないで、ともかく早くジパングの島に到着したい』コロンブスは、なぜ急いで日本に行きたかったのでしょうか。もちろん金を獲得するためでした。ことほど左様に、日本は黄金の島であると思われていたのです。
2022.12.20
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猪苗代湖の伝説 福島県で知られる一番古い話が、貞元年間(976年〜978年)の銭森長者の埋蔵金伝説と思われます。平泉の藤原一族で銭森長者と言われた藤原保祐が、会津三島町の西の方に黄金を埋めたという伝説です。会津正統記にも『西方邑藤原保祐は大福にして、俗に銭森長者と云』とあるそうです。銭森長者は、寺沢という地に松竹という庵を作り、その後は寺に改められましたが、その財産は森を埋めるほどであったと言われます。話だけですから、場所は分かりませんが、ここに金銀の類を隠した、と伝えられているのです。 ところで猪苗代湖にも、埋蔵金伝説が残されています。磐梯山麓の『摺上原』で、会津の蘆名義広が伊達政宗に敗れました。常陸の佐竹氏からの養子となっていた義広は、若松城を脱出して常陸へ帰ろうとしたのです。その一行は、20人とも120人とも言われます。このとき義広は、金の延べ棒を18頭の馬に積んで持ち出したというのですから、その多さが想像できます。脱出行は、夜陰に乗じて決行されました。その逃亡の経路は、会津若松から東山温泉、飯盛山を通って猪苗代湖西岸をそのまま湖に沿って今の湖南町赤津を経由し、須賀川から常陸の国を目指したといわれます。しかし一行は、途中で何者かがつけて来ているのに気が付きました。『落ち武者狩りか、それとも伊達の刺客か?』 窮した義広は、猪苗代湖の中田浜、いまの会津若松市湊町大字静潟字浜にさしかかった時に、持ち出した金の延べ棒を、猪苗代湖に沈めたというのです。猪苗代湖は最大水深90メートルで平均水深50メートルです。しかし岸辺に沈めたのでは、浅瀬ですぐに見つかってしまいます。沈める以上、ある程度沖に出て沈めたのではないかと思われます。事実、葦名氏筆頭家老の手記などの文献にそのことが記されており、その隠したという信憑性は、高いとされているのです。 そして昭和の初期。郡山の古物商が、この財宝を沈めたという古文書を手に入れました。自分で引き上げる気はなかったので、市内の有力者にその由来を説明して売ったというのです。買った有力者は早速、中田浜に行き、二艘の船で潜水夫を雇って湖底を探させたのです。ところがこのことを知った郡山と仙台に住んでいた蘆名氏の子孫という二つの家族が、この財宝の引き上げ権を巡って裁判を起こしたのです。裁判所の判決は、「引き揚げた場合、延べ棒は引き上げた人、地元湖畔の民、そして蘆名氏の子孫であるという二家族と、四等分に配分せよ」というものだったそうです。ところが引き上げを始めたところが資金に欠乏した有力者は、引き上げの債券を募集したり、二艘の遊覧船で引き揚げ作業を見物する野次馬遊覧客から、一人5銭ずつの見物料を徴収して探索資金にしたといわれます。しかしこの騒動が新聞で報道されて、警察が出動するほどの騒ぎとなってしまったのです。そのため警察当局から引き揚げ中止が勧告されたそうです。ところがその後、湖底から金銀などの財宝が引き揚げられた、という話は聞かれません。今も沈んでいるのでしょうか。 また湖南町小倉沢に伝わる埋蔵金伝説は、江戸時代の初期、赤津に埋めたとされる伝説です。湖南町赤津字小倉沢一帯には、会津蒲生氏の時代に盛んに掘られた金鉱があったそうです。これらの金鉱や金山で掘られた金の少しずつを鉱夫たちが密かに持ち出し、湖南町小倉神社の境内に埋めたという言い伝えが残っているのです。これも一時騒ぎになりましたが、それ以上のことには、ならなかったようです。 戊辰戦争において、長岡藩の軍資金を長岡藩士が会津に回送中、新政府軍の急追を察知して南会津郡只見町の浅草岳山麓に軍資金を埋めたと伝えられる伝説です。ただし急を受けて途中の池に投じた、という説もありますので、埋蔵金として残るのなら、こちらの説の方ではないかと考えられています。 四本松にも埋蔵金伝説があります。四本松は、現在の二本松市岩代町長折字四本松です。かってここには四本松城があり、この四本松に住む名家の系図の裏に、『朝日さす、夕日輝くたんぽぽの、北の稲荷に、金を埋める』との書き付けがあったと言われています。しかしここでも具体的な場所が示されていないので、発見されるには至っていません。 この他にも、南会津町舘岩には、なぜか徳川埋蔵金伝説が多いのだそうです。ここは、『南山お蔵入り』と言われた幕府の直轄地であり、桧枝岐村より日光、江戸への道筋でもありました。日光の北には、今の南会津町と栃木県日光市にまたがる田代山がありました。この田代山に、徳川幕府が金を隠したというのです。長岡藩のことが関係した伝説なのかも知れません。
2022.12.10
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あぶないあぶない これは郡山の黄金伝説の一種になるかも知れませんが、郡山には次のような話もありました。TVの番組、『まんが日本昔ばなし』で、2019年に亡くなった市原悦子さんが『語り』をしていたものです。 『その昔、郡山は、水が乏しい荒れた土地だった。そんな村で、変な噂が広がった。夜中になると、鬼ババが「あぶない、あぶない」と叫びながら、街道を疾走するというのだ。そこで村の太助と和助という若い兄弟が、鬼ババを捕まえようと、夜中の街道で待ち伏せをしていた。夜も更けたころ、兄弟の目の前をものすごい速さで駆け抜けていく鬼ババを見つけた。足に自信がある兄の太助は、鬼ババを追いかけて山の頂上の崖まで追いかけて行った。ところが崖の上には鬼ババの姿は無く、崖の下を覗きこんで見ると、今にも落ちそうな壺を発見した。兄はその壺の中から小判を見つけたので、弟には内緒で一人占めにしようと、こっそりと崖を下りて帰って行った。その頃、やっと弟の和助も崖の上に到着した。弟も崖の下を覗きこんだ際に、何か光るものを発見した。さっそく崖を下りて調べてみると、崖のくぼみから勢いよく水が噴き出した。この噴き出した水のおかげで、この村でも田んぼが作れるようになった。弟は一生懸命働いて田んぼを作り、結婚もして子宝にも恵まれて、幸せに暮らした。兄はと言うと、壺の小判で贅沢三昧の暮らしをして、すっかり財産を使い切り、体まで壊してしまった。ちなみに、あの消えた鬼ババについては、今でもわからない』。 この『あぶない あぶない』の話については、後日談がありました。1959年に出版された『郡山地方史研究会50巻発刊記念・懐古の郡山』より、そのまま転載します。 (息子の)私は、父の田中正能に尋ねた。以下の通りの問答になったと記憶している。父「『あぶねい あぶねい』の話は知ってるな」私『知ってる。赤木様の話だない。』父「んだ。増子さんのお墓に、『あぶねいあぶねい』の金を見つけた人が祀られている。この人は増子三左衛門と言った。この家は郡山の名主から三穂田の名主に代わったが、墓地を守るために増子さんの家族が郡山に戻った。この三左衛門のお墓は赤木の墓地にある。」 父から聞いた話では、増子三左衛門は上町(現在の元町)の名主だった。当時、毎日夕方になると上町から下町を「あぶねいあぶねい」と呟きながら往来する怪しげな人物が現れた。町の人がこの怪しい人を恐れ、人通りがなくなった。三左衛門は、こんなことでは郡山の評判に関わると考え、『場合によっては切り殺そう』と考えた。ある日の夕方、脇差を腰にこの人物の跡を付けた。暗くなって赤木様まで尾行してくると、前を行くこの人物の姿が突然消えた。「不思議なこともあるものだ」とそこに脇差を立てて帰宅した。翌朝、脇差を探しに赤木様に行くと脇差の傍に逢瀬川に転がり落ちそうになった壺があり、中に金が入っていた。 私が聞いた話はここまでだが、実家近くに住み父から弟同様に交際していた藤沼嘉典さんから、さらに話の続きを聞いていた。彼の話では壺は二個あり、中には砂金が詰まっていた。あんちゃん(藤沼氏は父をこう呼んでいた)は、増子三左衛門は二個とも二本松の代官所に届けた。一個は代官所が取り、一個は褒美にあたえられた。あんちゃん(田中正能)は、三穂田の増子家に古文書調べに行った時に壺の実物を見せられたそうだ。「高さがこんなもの(二十センチ見当に)だった」と両手で示した。想像するに砂金は、一個に二キロ近く入っていたのではないかと言う。この『あぶねい あぶねい』の話は、郡山市教育委員会が昭和六十一年に出版した『郡山の伝説』に、『逢瀬川の埋蔵金』の表題で収録されています。 なおここに出てくる田中正能さんは、郡山在住された歴史家で、県内各地の町村史の編纂に関わった有名な人物でした。
2022.12.01
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虎丸長者 私たちの住んでいる郡山に、隠された埋蔵金があるというのですが、次のような話、皆さんもお聞きになったことがあると思います。そうです。虎丸長者の埋蔵金伝説です。いま郡山に虎丸町や長者がありますが、実際に、ここに虎丸長者が住んでいたかどうかは分かりません。しかし虎丸長者は、郡山に住んでいたと伝えられています。では虎丸長者とは、どのような人であったのでしょうか。その言い伝えから、探ってみました。 如宝寺の寺伝によりますと、郡山の有力者であった虎丸長者が都に上り、第51代・平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷した。大同二年(807年)、虎丸長者は、いまの郡山市中町に庵を結び、徳望が高かった笹久根上人を招いた。笹久根上人は馬頭観音像を守り本尊として観音堂を建立して壮大な伽藍を建て、楼閣には金銀を散りばめて壮観を極め、荘厳な開眼供養を行ったのが如宝寺のはじまり、と伝えられています。虎丸長者はこの如宝寺に、大きな金蔵や米蔵を置き、さらに郡山のあちこちに屋敷を構え、力持という所には米蔵を造り、現在の郡山商工会館周辺にあった皿沼では、下女が皿を洗っていたと伝えられています。ちなみに大同年間は天変地異の多い、不思議な年であったようです。仙台地方にも、『秋風や大同二年の跡を見ん』という句が残されているそうですが、何かこれと関係があるのでしょうか。意味は分かりません。 永保三年(1083年)、後三年の役の際、源義家、つまり八幡太郎義家が兵を率いて長者宮というところにさしかかりました。ところが夕方、ものすごい大雨になったので、八幡太郎は虎丸長者の大きな屋敷に一晩の宿を頼んだのですが、長者はこの申し出を断わってしまったのです。八幡太郎は、虎丸長者が何故断ったのかを密偵を入れて調べさせました。そして分かったことは、虎丸長者は、八幡太郎の敵である奥州の安倍氏に加担していたということでした。怒った八幡太郎は、虎丸長者の屋敷に火のついた矢を放ったのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。ところが八幡太郎に攻められると予測していた虎丸長者は、如宝寺の蔵から金などを運び出し、ある場所に埋めて隠して逃げてしまったのですが、後で隠し場所が分かるようにと書付を残しました。それが『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にあり』というものでした。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、この言葉が書かれた木の板が掲げられたと伝えられています。ところがこの虎丸長者伝説の噂を聞いた、二本松藩主の丹羽長国によって、如宝寺の敷地内で、埋蔵金の発掘調査が行われたのです。しかし、出てきたのは埋蔵金ではなく、大量の焼米だけだったそうです。このような言い伝えは、日本における他の埋蔵金伝説の類型と、まったく同じ内容となっています。なお郡山市内には、虎丸、長者などの町の名が残っていますが、市役所のある朝日は、市役所がここに移転した頃に付けられたものですから、虎丸長者の伝説とは関係がないことになります。 この虎丸長者の伝説と同じような話が、今の二本松市に残されています。二本松市字長者宮に居を構えていた米長者は、八幡太郎への供応を拒んだために滅ぼされたというものです。このあたりは、郡山の虎丸長者伝説とまったく同じです。なお、福島民報・昭和五十二年一月二十六日の地名の由来によりますと、『郡山を追われた虎丸長者は、二本松市杉田に移ったのではないか、とも言われている』とあります。財宝は、いまの二本松市字郡山台に埋めたとされており、こちらも実際に、二本松藩主丹羽長国が、幕末に探索したとの記録が残されているそうです。丹羽長国は『黄金千杯 漆千杯 朝日さし 夕日輝く木の下にあり』という話を信じ、杉田村の農民多数を使って長者宮の土地を掘ったのですが、厚さ十センチ程の焼き米が多量に出土しただけで、何もなかったとのことです。それにしても焼き米が出土したということは、実際に火事があったという証拠になります。それにしても、郡山の虎丸長者も二本松の米長者も、大規模な火災に遭っているようなのです。この共通した事実から、似たような伝説になったと思われます。 日本における長者伝説は、別名『朝日夕日伝説』とも言われます。長者、豪族の屋敷跡に黄金を埋めたという伝説で、多くはその財宝のありかを『朝日さし 夕日輝くそのもとに 黄金千杯朱瓦万杯』などの口伝えの歌をもって示唆する類型のものがほとんどです。また長者が田植の際に時間が足りずに扇で日を招き返したために、罰があたって没落した、または死んだというような話を伴っているのも特徴的です。これは稲作における太陽信仰の存在を考えさせられます
2022.11.20
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