『福島の歴史物語」

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2007.09.01
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 ・・・・・頃は鎌倉時代。
 ここ、奥州田村庄守山の守山城に差し込む日の光りは、すでに弱くなり始めていた。今日の午刻以降の長い間、二人は話し合っていたのである。坂上田村麻呂の末裔と言われる従五位・田村刑部大輔入道仲能は、下座にかしこまって座っている田村庄司に困ったような顔をしながら言った。
「くどいようだが庄司。わしが正五位・刑部大輔に、倅の重教は中務少甫として鎌倉の幕府に出仕することはすでに幕府により決められたことじゃ。そのために城を留守にすることになる訳じゃが、分家たるその方によきように計らっておる。案ずることなくこの城と領地を受けて貰いたい」
「しかしそう言われても殿。幕府は今までに当家に何をやってくれたでございましょう。我が田村家の先祖伝来の所領を口では認めながら、周囲の石川、二階堂、伊東、小野田の輩にかすめ取られても見て見ぬ振りをしてきたではございませぬか。殿が居られるからこそ領地の維持が出来ましたが、居られぬとなるとこれはまた難かしい話でございまする」
 庄司は首を小さく横に振りながら言った。
 仲能は、庄司を見ながら続けた。
「確かに今、幕府は大変な時じゃ。二度にわたった蒙古襲来、その余波として起こった霜月騒動、さらにまた再びあるやも知れぬ蒙古の襲来。今までの戦いに対するおびただしい出費、この世上不安に対するこれからの出費と幕府の基盤も大きく揺らいできておる。我が家の周辺にも悪党共が跋扈して気の抜けぬ状態じゃ。だからこそわしが幕府に出仕し、幕府を補強することこそが肝要なのじゃ。それが今後の田村一族の繁栄にもつながる」
 庄司はこの長い話し合いにいささか疲れを覚えていた。それでも彼は仲能に対する抵抗を止めなかった。
「しかし殿。幕府はあの蒙古襲来の恩賞さえ未だではございませぬか。我々とても恩賞がなければ御奉公をする意味もございませぬ。我が田村一族にも、あの魔蒙と命をかけて戦った者共もおりまする。それなのに未だ彼らに、何の報償すら与えることも出来ませぬ。また諸国にも、そのための不満が鬱積しているとも聞き及んでおりまする」
「だから先ほどから何度も申しておろう。なんと言っても幕府は幕府じゃ。いずれ報償の下がる時も来よう。だからこそわしが政権の中に入っておれば、その方もやりやすくなるということじゃ」
 ここまで話し合ってみれば、いくら反対をしても、仲能の鎌倉幕府への出仕という命令を庄司の力で撤回させられる筈もなかった。
 これは受けざるを得まい、彼はそう覚悟した。その彼の腹の内を見透かしたかのように、
「では頼んだぞ」
そう言うと仲能はゆっくり立ち上がった。
 庄司は仲能の目を見上げたが、すぐそのまま平伏した。責任の重さが、彼の頭を押さえつけていた。

 それから一世代、約三十年後のある日、今は亡き田村庄司の息子の田村庄司輝定の前に、一人の男が座っていた。その男は熊野神社の修験者であった。幕府により、京都に派遣されていた仲能の息子の田村中務権太夫重教が、父の仲能の遺言に従って毎年必ず一度は中央の情勢を守山城の輝定に連絡してきていた。その使者が、熊野神社の修験者であったのである。では何故その使者が熊野神社の修験者なのか?
 田村庄は坂上田村麻呂の四男・浄野の所領であったが、その一方で熊野速玉神社に寄進されていた。熊野神社は熊野速玉神社、熊野座神社、熊野那智神社の三社からなっており、本来は別個の自治体であったがやがて宗教的連合体となった。この熊野三社は歴代の天皇をはじめ京都の上層階級の強い信仰を集めていた。坂上浄野も、信仰と管理上の理由からこの田村の地を荘園として寄進していた。いわゆる寄進型荘園である。つまり坂上氏も幕府からの収奪に対し、熊野速玉神社への寄進という合法的手段によってより強力な権威の後ろ盾を獲得し、その所領の存続と負担の軽減を計っていたのである。その関係もあって、田村庄には蒲倉大聖院熊野神社(現在の郡山市蒲倉町)が建立され、修験者の派遣される道場となって多くの人たちの信仰を集めていた。
 その修験者は最近の京都の状況を話した。
 それは次のようなものであった。

 文保二(一三一八)年、後醍醐天皇が即位した。天皇はここ七十年位の間に、後嵯峨、後深草、亀山、後宇多、伏見、後伏見、後二条、花園、後醍醐と九人の天皇が目まぐるしく変わっていた。在位期間は、平均して八年に満たないのである。何故こんなことになってしまったのか? というのは、後嵯峨天皇は亀山天皇をいたく寵愛していたため、その死去に際して遺詔(遺言)を遺し、すでに即位していた後深草天皇にれっきとした皇子がいたにもかかわらず、
  1:後深草天皇を亀山天皇に変えること。
  2:亀山天皇のあとは、彼の第二皇子の世人親王に継承させるべきこと。
  3:それ以降の皇位は、亀山天皇の系統で継承させるべきこと。
と指図したのである。そのために長男だけでなく、次男にも皇位継承の権利があることの前例を作ってしまったことになったのである。
 それに不満を感じた後深草天皇は、弟の亀山天皇の後を自分の子に継がせようと画策した。
そのために、後深草天皇と亀山天皇との間で争いになった。すったもんだのあげく幕府が調停者となり、後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)の両方が交代で皇位に就くことになった。その結果、後嵯峨天皇の遺詔に従う形で亀山天皇は世人親王、つまり後宇多天皇に譲位し、後嵯峨院亡き後の院政を引き継いだ。
 ところがそれでも騒ぎは収まらなかった。その交代で皇位を継いだ天皇に、それぞれ二人の男子が生まれたのである。つまり両家の皇統に、兄弟が一組ずつ出来た訳である。その弟たちまでが「皇位に就きたい」と言い出したからである。
 天皇家の仲違いを重く見た鎌倉幕府は、皇位の継承問題に積極的に介入して後深草天皇の皇子を伏見天皇にするよう取り計らった。伏見天皇の後はその第一皇子の胤仁親王、つまり後伏見天皇が継承したが、このあとは両統交互に、すなわち後二条天皇から花園天皇へ、そしてさらに後醍醐天皇へと受け継ぐようにしたのである。後醍醐天皇三十一才の時であった。これは要するに、本来は一人の天皇で占められる治世を四人で治める訳だから、任期は当然短くなった。そして後醍醐天皇自身、次がいるので早く辞めるようにと周囲からせっつかれていた。そのため後醍醐天皇は院政の廃止と幕府による皇位継承問題介入の排除を考慮し、天皇による親政と独裁を目標とするようになったのである。



 2011/10/28、読者の田村さんより「田村太平記」についてBBSにご投稿をいただきました。お陰さまで「天皇の叛乱 1」の冒頭にミスを発見、修正をしましたが文字数が多くなってハネられました。
 やむを得ず半分に割って「天皇の叛乱 1−2」を新たに作り、2011/11/2にアップしました。「天皇の叛乱 1」には修正した部分を含む前半が載せてあります。
 読みにくいことになり申し訳ありません。田村さん、ありがとうございました。


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最終更新日  2011.11.02 10:33:16
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