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翌朝、今までの楠木正成の戦法に懲りていた幕府軍は、慎重に物見を送ると両赤阪城の状況を確認した。
「上赤阪城は一兵も無く、全員逃亡の模様」
「下赤阪城内には戦死者のみにて、生存者なし」
それら物見の報告を得ると、田村軍は先遣隊の命令を受けて城に登った。しかし彼らがそこで目にしたものは、灰塵に帰した城内と、おびただしい数の焼死体が転がっている凄惨な光景であった。
「敵将らしき遺体発見!」
との声に、輝定が駆けつけると、それらの遺体の真ん中あたりに、楠木正成と思われる立派な鎧兜をつけた遺体が発見された。
「結城様に、報告せい」
そう言って後方に伝達しさらに検分していると、正成の遺品と思われる高価な品々が発見された。やがて幕府軍の陣中において、「楠木正成は自ら城に火を放ち、焚死したもの」との結論が下された。戦いは、ようやく終わった。
輝定の軍は、戦場から離れた。
ところが赤阪城で幕府軍の戦死者を多数運び上げ、味方の兵を脱出させて火をかけて焚死したとみせかけていた楠木正成は、今度は幕府軍の手に落ちていたこの赤阪城を五百騎からなる一隊に襲わせた。
この時も正成は奇計を用いた。まず赤坂城の幕府側の守將・湯浅宗藤が城内に食料を運ぶため雇った人夫を襲って、楠木方の橋本正員勢の半数が米俵の中に武器を忍ばせて偽の人夫になりすまし、武装した残りの半数の橋本勢に追われる形で赤坂城内に逃げ込ませたのである。それを知らぬ湯浅宗藤が敵の人数が少なく好機到来とばかりに主力を率いて城外に出撃したところを、城内の橋本勢が城を乗っ取ってしまったのである。城外に出ていた湯浅勢は周囲に隠れていた楠木軍に囲まれ、城という逃げ場を失って驚き慌てている内に討ち果たされてしまったのである。
「またか! こんな戦い方が許されるのか!」
後方で戦況を聞いた輝定は、そう言って驚いた。
「正成という奴、武士の風上にも置けぬ。悪党の最たるものぞ!」
——これは、余程しっかり自分の位置を見極めておかぬと、大軍勢の動きに飲み込まれてしまって訳が分からなくなってしまう。宗季や浅比によく教えねばならぬな。
輝定は、そう思った。
先に内山永久寺で捕えられていた後醍醐天皇は、隠岐島へ流された。彼に従う者は一条行房と六条忠顕、世話する女房として阿野廉子らの三人だけであった。都の人々はこれを見て、「正当の天子を臣下が流し奉るとは、飛んでもないことだ。こんなことをしていると、幕府も今に駄目になるぞ」と噂しあった。
輝定は他の幕府軍の将兵と共に、楠木正成の戦い方に憤慨していた。大体当時の合戦には手法と手順があったにも拘らず、正成は、全くそれを無視したからである。
例えば衣川関の合戦で源義家が安倍貞任に勝利を収めた時、逃げる貞任を追って馬を走らせていた義家は貞任の背に和歌の下の句を詠じかけた。
「衣のたてはほころびにけり」
これに対し貞任も、馬の上から振り返りつつ咄嗟に上の句を詠じ返した。
「年を経し糸のみだれのくるしさに」
その反歌の見事さに感心した義家はその場で追撃を止めると貞任を逃した、というのが当時の戦い方であったからである。だからこの他にも、
[互いに名乗りをあげて一騎打ちする]
[敵將の乗馬は射てはならない]
[一本一本の矢に自分の名を刻む]という戦い方であり、お互いの顔が見える戦いであった。
[名を惜しみ、命を惜しまぬ]という気風が、まだ色濃く残されていたのである。
それから間もなく、京畿での勝ち戦を土産に田村軍が意気揚々と守山に凱旋してきた。これを一目見ようと、領内から多くの人が集まって来た。
「うぉーっ」という海鳴りのような歓声とどよめきの中で、凱旋軍の行進は思うにまかせぬような有様であった。夕暮れ時になってようやく城内に入った凱旋軍は、全軍が揃うと田村庄総鎮守・大元帥明王に戦勝の報告をした。軍勢の持つきらきらと輝く槍の穂先が、この遠い遠征戦の終わりを告げていた。
輝定は守山城に戻ると我が子・宗季と久盛を呼び出し、留守中の報告を受けた。
「大儀であった」
礼を言うと京都での戦いや様子を知らせた。
「幕府についた方が良いようじゃのう」
それが輝定による今回の戦いの結論であった。それを聞く宗季の目が輝いていた。
この時の輝定は宗家の意志や周辺の各庄郡の動きと同様、立場は幕府側であった。あの京畿の戦いでの結論「幕府強し」の思いは、痛烈に脳裏に叩き込まれていた。
ところがその思いにも拘わらず、幕府は急速に力を失い始めていた。その結果幕府の家来たちが勝手なことをするようになり、奥州の武士に対しての締め付けが厳しくなってきた。多くの武将たちが幕府に不信感を持ちはじめた。
——考えてみれば今回幕府側について戦ったのは、重教様とのつながりというだけであったし、それ以上に深い理由は特にない。それはともかく今回の戦勝での恩賞が全くない。これでは元寇の時と同じではないか!
輝定もまた、不満に思っていた。このような不信感の増幅が、輝定を反幕府へと押しやりはじめていた。
ところで戦国時代以前の武士団とは、単なる利益獲得のための集団であった。それであるから武士団は、自分の利益に資するとなれば敵にでも味方にでも、はたまた何度でも勝手に転んでもおかしくない時代であった。それは別に不思議なことでも、また悪いことでもなんでもなかったのである。
ところが『朱子学』を学んでいた後醍醐天皇は、別だった。朱子学では、
「天はいつまでも天で絶対に落ちてこない。地面は地面で絶対上に上がらない。現在も将来も主人はあくまでも主人で家来はあくまでも家来である」と教えていた。であるから後醍醐天皇は、
「今のように天皇の即位について幕府に口出しをさせることは、『一天万乗の君』たる自分がまるで鎌倉幕府に従う家来と同じようではないか? これはおかしい」と考えた。そこから出た結論は、
「鎌倉幕府は単に武士の集団である。武士は天皇の家来である。家来は本来の家来の立場に戻って貰おう」ということであった。
つまり天皇と武士たちは全く別の基準でものを考え、行動をしていたのである。話の合う筈がなかった。