『福島の歴史物語」

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2007.09.25
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 そこへ朝比房盛と橋本正典を呼ぶと、
「のう房盛。この祠に宇津峰宮様より賜っていた遺髪を祀った。わしはこの神社に、戦乱を鎮める意味で、雀之宮神社と名付けようと思う。それとは別に、宇津峰山の山頂に南朝方の後村上、後亀山の両帝と宇津峰宮を祀る。本来は後醍醐天皇を祀りたいのじゃがそれは難しかろう。そこで北朝方の目を避けるための便法として、宇津峰山頂には南北朝分立以前の村上、亀山の両帝とをお祀りしたこととし、宇津峰宮は単に名を冠せず皇子とだけ称することと致そう。さすれば誰に見られても文句はつけられまい。そうしておいてここの隠れた所にある雀之宮神社を本宮とすることになる。北朝方としても規模の大きい宇津峰山に目を奪われ、まさかここ雀宮に宇津峰宮様が祀ってあるとは、思いもすまい。ましてや山頂にお祀りしたのは村上、亀山の両帝ともなれば、いかな北朝、いかな足利と言えども、攻める訳には参るまい。それに後村上天皇は宇津峰宮の叔父、後亀山天皇は従兄弟にあたられる。房盛、それらのことを知った上で頼みがある。今後は宇津峰山頂とこの雀之宮神社の双方を、その方の一族の手で守ってはくれまいか」
 すでに則義の声はくぐもっていた。その依願を聞きながら浅比房盛には則義の真意を押し測れ、目を伏せたまま返事の声が出なかった。
「このような結果で南朝方諸天皇と坂上田村麻呂公以来の御先祖の御霊に対し、申し訳なく・・・」
 則義はそこまで言うと、感情の高ぶりからかしばらく言葉が出て来なかった。彼は敗戦という打撃に苦しい日々をおくっていた。常に敵と目していた白河の結城氏は、すでに北朝方に下りその庇護の下に力をつけていた。
 ——二度も戦いながら京都へ上り、北奥に出兵して戦い、霊山に戦い、宇津峰に敗れたあの戦いとは、一体なんであったのか?
 ——父やその兄弟と多くの部下を失い、叔父の一人に北朝方に転じられ、領地を失った今、如何にすべきか?
 今や少なくなったとは言え、彼に忠節を誓う部下たちのことを考えていた。足利幕府は成立したが、まだ盤石ではなかった。北朝の天子はまるで奴隷のように武家に従属し、その保護の下に幼子が親に扶養されるようにしてその地位を辛うじて守っているという状態であった。後亀山天皇を擁して、それらを不満とする南朝方の軍がうごめいてはいた。とは言え則義は、周囲を圧倒的な足利方に囲まれていたから弱気にならざるを得なかった。しかしその反面、この体勢の中で自分が勝てば多賀国府奪還による奥州での覇権も夢ではないが、南朝方にそれほどの力は残ってはいまいという自問自答を繰り返していた。
 そしてそれらを踏まえて則義は、房盛と正典に自分の考えを話した。
「もはや南朝の復興は困難じゃろう。我が家もその方らも、頼るべきものを失ってしもうた。わしもその方らを抱えるには力量不足。二人はわしの親戚筋にあたる三春の田村氏に仕官してはどうか」
「それは・・・。『この守山の田村家を離れよ』との仰せでございまするか?」
 それを聞く二人の目は寂しく光っていた。
「・・・。誠に心苦しいが、その方たちも生きる道を探らねばなるまい」
「されど我らには守山の田村家しかございませぬ。田村家あっての我らでござる」
「じゃが、我が家を取り巻く情勢を、その方らとて知らぬ訳でもあるまい」
「・・・」
 二人は顔を見合わせると、退出した。これらの長い戦いの過去が、二人を則義から離れ難くしていた。そして長い長い話が二人の間で交された。三春田村氏は宇津峰城陥落後、大きくその勢力を伸ばしつつあったのである。
 正典は妻に事情を話した。話がここまでくれば家族を承知させる必要があった。
「のう、トク。さような訳でわしとしては不本意じゃが、三春に行くようになるやも知れぬ」
 トクは目を大きく見開いていた。それは暗黙の内に、反対の意志を表示していた。
「とは申せ、それが何故我が家のみなのでございますか? 何故浅比様ではないのでございますか?」
「のう、トク。良く考えてもみよ。浅比殿はもともと土着の士ぞ。それに引き替え我が家は父の橋本正茂の代に田村家を頼り、河内国より来たもの・・・」
 トクが言葉を遮った。
「されど考えてみて下さいませ。湊川で楠木正成様と運命を共になされた曾祖父の橋本正員様の代まで、わが家は河内国の橋本城の領主でございました。家柄格式とも劣るどころかこちらが上、祖父の橋本正家様、さらに父の橋本正茂様とて命を捨ててまで南朝と田村家に忠誠を尽くしたものではございませぬか?」
「それを申さば浅比殿とて同じこと。浅比房盛殿とて祖父の朝比久盛殿、父の朝比重盛殿を戦場で失うておる。それは互いに言わぬものよ」
「されど、されど何故三春に落ちるのが我が家でなければならぬのでございましょうか?」
 トクには、自分の知らないところで下だされたこの決定が不満であった。正典は雀之宮神社を守るようにと房盛が則義に頼まれたことを、トクに話すことが出来ないでいた。






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最終更新日  2007.11.15 17:05:26
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