『福島の歴史物語」

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2008.01.15
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 その翌日、三春の町中に噂が駆け抜けた。
「白河城は陥落し、三春兵は大負けに負け、鉄砲や武器を捨てて逃げたそうだ」
「いや、三春兵ばかりじゃない。出兵していた各藩とも逃げたというぞ」
「三春藩からも多くの戦死者が出たそうだ。敗れた兵たちは、赤沼に向かって逃げて来たというわ」
「なんでもそのとき、敵前逃亡をした斉藤与市郎という者が捕らえられたが、大小を取り上げられただけで命だけは助けられてどこかに逃げ延びたそうだ」という噂が広がった。
 それでもやがて実状が分かって落ち着いてきたが、今度は「会津の回し者が、引き揚げ兵に紛れ込んで三春の町に入ったそうだ」とか「白河に応援に来ていたすべての兵が、国元へ帰ってしまった」という噂が流れ、「いったい会津は、敵か味方か?」と町内は騒然となっていった。
 領民たちの情報は、噂しかなかった。
 この噂から出た騒ぎを収めるため、藩の全役人が徹夜で警戒し、その後も治安維持のために夜回りや番所改めが厳しく行われた『端午の御祝儀、登城中止』の命令も出された。
 ここにきて会津藩は、ようやく『恭順謹慎、降伏謝罪之義、只管嘆願申出』た。この申し出に仙台藩は喜んだ。仙台藩より早速、『会津藩が降伏嘆願をしてきたので衆評したい。貴藩重役を白石に派遣ありたい』という廻状が、奥羽諸藩に送付された。
 この廻状により、奥羽諸藩の重臣たちが続々と白石城に集まってきた。
 三春藩も喜んだ。平和的解決の燭光が見えてきたのである。さっそく藩の代表として、大浦帯刀と小堤広人を出席させた。会合には呼びかけ人である仙台・米沢をはじめ、盛岡・二本松・中村・三春・棚倉・福島・守山・上ノ山・亀田・一関・矢島・黒羽、それに会津が参加した。
 そしてこの会合で、次の三点が決定された。
  1 会津藩の嘆願書提出
  2 仙台藩、米沢藩による会津藩救解書提出
  3 列藩家臣による、嘆願書提出
 さすがに、「首謀者の首級提出」のことは外されていた。この決定は、奥羽諸藩全員によるものである。実に平和的提案であった。それにこれだけ多くの藩がまとまれば、いかな新政府といえどもこれを認め、平和裡に事が進むと思われた。会津藩としても「嘆願書提出」で事が済むのであれば何も問題がないと思われた。その後さらに、この会合に欠席した次の各藩が、署名人として参加した。すなわち、秋田・新庄・平・本庄・泉・湯長谷・下手渡・米沢新田・八戸、そして弘前の各藩である。
 代表となった仙台、米沢の両藩主は、新政府の奥羽鎮撫総督の九条道孝にこの連署の嘆願書を提出し、口頭で、「奥羽人民、塗炭の苦しみに陥る」と付け加えて、平和的解決を強く求めた。九条総督は、「嘆願書の主旨はもっともなれど、下参謀と相談の必要あるため、預かりおく」と答えた。
 ──新政府としても、この全奥羽の意志としての嘆願書は無視出来まい。これでようやく平和になるかも知れぬ。
 そう思う嘉膳の胸は、安堵感で溢れていた。
  ところがこの奥羽諸藩の嘆願書に対する奥羽鎮撫使下参謀・世良修蔵の返書は、厳しいものであった。それには、『会津は朝敵、天地に入るべからざるの罪人だ。何を今更言っているか。早く会津攻略成功の報告を持ってこい』という意味のことが書かれていた。
 ──いったい新政府は、話し合いということは考えぬのか? 戦うこと自体が目的のように見える。内戦という負担が、庶民に重くのしかかってくることを考えぬのか?
 嘉膳は愕然としていた。
 全奥羽は、世良修蔵の向こう気の強さに、鼻白んでいた。
 世良修蔵がこの返書を出したとき、まだ白河城にいた。そして新政府軍としての白河防衛軍増強依頼のため、奥羽総督府のある仙台へ行く途中の福島に向かっていたのである。そのときの白河を守っていた防衛軍は、仙台(三小隊)、米沢、秋田、二本松(人数不詳)、棚倉、三春(二小隊)、湯長谷、泉、平の諸隊であった。
 世良が福島の旅館・金沢屋に着いたとき、福島藩の鈴木六太郎を呼び、「仙台藩に漏らすな」と命じて密書を託した。世良を付けねらっていた仙台藩士が、これを入手した。密書には、世良が、奥羽諸藩嘆願書を却下した理由と、『奥羽皆敵と見て進撃の大策に致候に付、乍不及小子急に江戸へ罷越、大総督につき西郷様へも御示談致候上、登京仕、尚大阪までも罷越、大挙奥羽へ皇威赫然致様仕度奉存候』と記されており、なおかつ、このために明日には仙台の奥羽鎮撫総督府に到着する、と書かれていた。この世良こそが平和にとっての癌であるという認識が、福島の旅館・金沢屋での仙台藩士と福島藩士による世良修蔵暗殺となって表れた。
 白石城では、奥羽諸藩代表の協議中にこの暗殺の報らせが届いた。満座の人みな万歳を唱え、「悪逆は天誅逃れることができないものだ。愉快、愉快」の声が、止まなかった。このため会議は、集団的興奮状態に入ってしまった。しかし、「天朝様の参謀を殺したままでは、賊名をまぬがれず、総督府との交渉も不可能となる。ここは気を新たにして、平和的解決の道を探るべきだ」との意見もあったが、すでにその発言は、はばかられる状態であった。会議に参加していた黒羽藩の代表の三田弥平は、同盟への加入を強く求められたが、これを拒否して帰って行った。黒羽藩は、その主張をなし得る、関東の地にあったのである。
 閏四月二十三日、会津藩も加わって、奥羽列藩同盟が成立した。この同盟は、新政府軍と戦うことが決定された。
 三春藩の代表の大浦帯刀もこれに調印した。奥州の全藩が参加の調印をする中で、表面切ってこれに参加しないことは、三春藩の存立を自らが否定することにつながったのである。勤王の主旨を新政府に明らかにした後でのこの調印は、苦汁の決断であった。
 この調印の報告を受けた嘉膳は、
 ──これでは朝廷を裏切ることになる。
と考えた。ところが一方で同盟に加入しないことは、三春藩の存在を否定することにもなりかねなかったのである。大浦帯刀の決断を、認めない訳にもいかなかった。
「うーん」
 嘉膳も考えていた。
 ──この奥羽列藩攻守同盟が、新政府軍と戦うということは分かった。しかしその戦いは何のための戦いなのか? そこがはっきりせぬ。すでに幕府が瓦解し、会津も謹慎しているにも拘わらずその会津と共に同盟として戦うということは、会津救解のための同盟という主旨はすでに失なわれた、ということか? さすれば奥羽は、奥羽のためのみに戦うということになるのか? もしそうだとすれば、その奥羽とはいったい何なのか? それにこのような重大な問題を、こんな決め方でいいのか?
 嘉膳は頭の中で反芻していた。 

 その後宇都宮を再び陥していた新政府軍は、二十四日、出来たばかりの奥羽列藩同盟の会津兵の守る白河城奪還のため、大田原(栃木県)を進発し、塩崎・油井・関谷で会津兵を破った。 翌二十五日、白河の南に二里ほどの白坂で、新政府軍と会津兵の戦闘がはじまった。この戦いは、会津側の勝利に終わった。このとき、新政府軍の死者十三人の首が四寸割りの板に五寸釘で打ち付けられ、白河城の大手門にさらされた。町方では、「ソレッ、新政府軍の首を取った」と見に行く者が多く、黒山のような人だかりであった。首には、藩名が付けられていた。
 秋田季春は、何とか戦いを避けようとしていた。
「これはまずい。どうしたらよいかの?」
「はい。奥羽列藩同盟が成立したとはいえ、反対論もくすぶっておりまする。まとまりは表面的なものと思いまするが?」
「うむ、そうは思うが、当藩内での強硬論者の台頭も心配なこと。同盟内の反対論者に、不戦を働きかけることは出来ぬか?」
 彼は嘉膳に言った。
「私もそうは思いまするが、同盟内での反対論は、水面下に沈んで見えなくなってきておりまする。見えてくるのは威勢のいい強硬論ばかり。反対論者は本心を隠し黙してしまったのでございましょう」
「そうか・・・。ではせめて、わが藩と会津藩の間にある二本松藩を誘って、一緒に帰順するというのはどうか? 二本松藩とて、白河の戦いで困惑しておろう」
 季春は、そう嘉膳に提案した。
 いま二本松藩は、白河藩をも預かっている大藩である。その白河で二本松兵は会津兵と対峙し、今度はその会津兵と共に新政府軍と戦っているのである。この奇妙な立場から二本松藩は白河での攻防戦の主役となってしまい、苦慮していることが間違いなく想像された。
「二本松藩がわが藩の意向に沿うかどうか、それは分かりませぬ。ただ季春様が言われるように、わが藩の態度を伝えてもし恭順させることが出来ますれば、戦いを完全に避けられないまでにも被害は少なくできると思いまする」
 そう答えながらも、嘉膳は一つの問題に突き当たっていた。
 それは三春藩が五万石である、ということであった。十万石、いや二十万石にもなる二本松藩にこういう申し入れをすることは、不遜と非難されても仕方がないと思えたからである。
「より被害を軽くするという意味で、それもよかろう。ただ恐らく、二本松も藩論が割れていよう。そこで、穏健派の上層部を見つけねばなるまい、と思う。なにか良い手だてはあるまいか?」
 そう言われても、嘉膳はどう返事をしたものか考えていた。そして「まだ具体化しておりませぬので、申し上げなかったのでございますが」と、前置きをした上で言った。嘉膳は二本松藩の下層の者から動かすことで、その隘路を打開しようと考えていたのである。
「実はわが藩の郷士の河野広中と申す者が、二本松の商家へ丁稚見習いに行っていたとき二本松藩士の秋山次郎左衛門と昵懇にしておりましたそうです。その次郎左衛門が、現在二本松藩の穏健派となっておるそうでございまする。次郎左衛門は、『薩摩・長州の尻馬に乗って、何の恨みもない会津と戦って、たった一つしかない命を無くするのは愚の骨頂。戦争だけは、まっぴら御免』などと申していた男でございますれば、この者を通せば、何らかの手だてがあるかも知れませぬ。」
 それを聞いた季春の顔が明るくなるのが、嘉膳にも分かった。
「そうか。それはありがたい。なんとか二本松藩の上層部に取り次がせてくれ。もしうまくいったら、わが藩からそれなりの者を使者としよう。そのときは嘉膳。その方にも頼むぞ」








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最終更新日  2008.01.15 10:52:45
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