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H 小野新町の戦い
*笠間藩領・小野新町において、味方である二本松藩兵を三春藩兵が背攻したとされる口伝。
七月二十六日、払暁西軍四方より来り、三春藩(実際は笠間藩)領内、小野新町を攻撃す。時に我が藩兵、三春藩応援として銃士隊長大竹與兵衛等卒える所の約二個小隊同地に在り。衆寡敵し難く、苦戦して三春の応援を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を教導して我が隊を包囲す。我が兵驚愕、軍遂に潰ゆ。
二本松市史 1 八〇八ページ
(西軍の)作戦に惑わされた東軍は、三春を引き払い須賀川に向かったため、三春はがら空きとなり、板垣軍は労せずして七月二十六日、三春に達した。三春藩は恭順に議論を決していたので、直ちに城を明け渡した。
同日平から進み上三坂まで来ていた海軍は、谷津作・田原井を経て払暁小野新町明神山陣地の二本松勢攻撃を行った。二本松大谷隊は衆寡敵せず苦戦となり、三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての計画通り西軍に降り、西軍を教導して大谷隊を包囲した。これにより二本松勢は潰走し、海軍は同日大越に宿陣、翌二十七日板垣軍の後から三春へ入城した。
三春町史 第二巻
(二十六日の)昼ごろ、柴原道より政府軍先発隊がはいってきたが、御殿庭前・大門に家中の姿はなく会所に二~三人の番人がいるのみであった。
一方、平城を攻略した西軍の平潟口隊は、二十三日三春攻撃の命令を受け、翌日平を出発して二十六日午前中に仁井町まで進み、ここから二手に分かれた。一手は岡山・薩摩・佐土原藩兵で三春領広瀬村通りに向かい、一手は岡山・大村・柳川藩兵で、浮金村から柳橋村に入った。いずれも途中で三春藩降伏を知り、二十七日三春に繰り込んだ。
七月二十六日三春に繰り込んだ西軍の一部、薩摩・土佐藩兵は、その日のうちに二本松領に向かった。二本松領では西軍の三春入城を知って大騒ぎとなり、三春領に接している諸番所に猟師・農兵が集まっていたが、これを探知した西軍は、平沢・御祭・七草木の百姓の案内で、これらの番所を急襲した。二十七日明け八ツ半(午前三時頃)時に松沢番所が破られ、間もなく糠沢上ノ内番も破られ、続いて塩崎役所も急襲され五ツ時(午前八時頃)ころ堺番所が打ち破られて農兵たちは逃げ去った。
翌二十七日、参謀局より後見秋田主税と重臣荒木国之助・小野寺舎人らが呼び出され、嘆願を認められ、「追って御沙汰まで城地・兵器・人民を預り置く。また出兵を申しつけるので功を立てよ」との口達があった。(七六六ページ)
解説・なお三春町史には、小野新町の戦いについての記載がない。
小野町史 五九七ページ
二本松藩隊長大谷與兵衛、平嶋孫左衛門物頭役ニて上下弐百人余宿陣三春藩隊長渡会助右衛門物頭赤松兵太夫二小隊宿陣仙台角田藩八十人程三春藩加勢トシテ同より宿陣之処官軍・・・谷津作田原井口より進撃シテ発砲二本松藩明神山(塩釜神社)ノ内新社地江仮台場ヲ造リ・・・双方打合候・・・奥州勢五~六人即死三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸神辺ニて敗北帰城ニ相成候由仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃去候由直様廿六日四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北ニ相成
大越町史 六五七ページ
七月二六日朝、小野仁井町ニテ官軍方、二本松・会津・仙台戦有、奥州勢敗ス。三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦・・・・・薩摩藩届(太政官日誌九〇)によると山道軍渡邊清左衛門隊は、渡戸・上三坂に宿営し二六日暁二時出発、仁井町手前の賊徒台場を砲撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬関門まで追撃する。最早夕六時頃になり、大越村に宿陣する。
各市町史などを参考に、時系列的に整理すれば次のようになる。
七月二十六日
1 早 朝、笠間藩領・小野新町で、戦闘開始。
(二本松藩史、二本松市史・大越町史)
2 「仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃
去」(小野町史・時間は特定されていない)
3 (三春兵が)「西軍を教導して我が隊を包囲
す。我が兵驚愕、軍に潰ゆ」
(二本松藩史・時間は特定されていない)
「三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての
計画通り西軍に降り西軍を教導して大谷隊を
包囲した」
(二本松市史・時間は特定されていない)
4 「三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸
神辺ニて敗北帰城ニ相成候」
(小野町史・時間は特定されていない)
5 「三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦」
(大越町史・時間は特定されていない)
6 七時~八時 (新政府軍が)「仁井町手前の賊徒台場を砲
撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬
関門まで追撃する」
(大越町史)
7 午前十一時 「四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北」
(小野町史)
8 午 前 中 仁井町まで進み、ここから二手に分かれた。
一手は岡山・薩摩・佐土原藩兵で三春領広瀬
村通りに向かい、一手は岡山・大村・柳川藩
兵で、浮金村から柳橋村に入った。いずれも
途中で三春藩帰順を知り、二十七日三春に繰
り込んだ。 (三春町史)
9 昼 頃、 柴原道より政府軍先発隊が(三春に)入って
きた」(三春町史)「板垣軍は労せずして七
月二十六日、三春に達した」(二本松市史・
時間は特定されていない)この二つの記述
は、同一の部隊を指している。
午 後、 「三春に繰り込んだ西軍の一部、薩摩・土
佐藩兵は、その日のうちに二本松領に向かっ
た」 (三春町史)
解説・ここで問題になるのは、矛盾する(3)と(4・5)であ
ろう。まず、戦いがはじまって間もなく、三春兵の加勢に
来ていた仙台・角田兵が戦線を離脱(2)した。仲間の逃
亡に浮足だった三春兵は、小野赤沼や小戸神での戦いに敗
れて、もしくは戦わずして(4・5)
三春へ敗走した。しかしその三春には、敗走した彼らが着
くか着かぬかの頃、新政府軍が入城してきたのである。こ
のような状況にあった三春兵が、新政府軍を教導して
(3)再び小野新町に戻るなどということが出来たであろ
うか?
またもし戻ったとしても、それは明神山の台場が占領さ
れる七~八時(6)以前でなければ時間が合わない。何故
なら、明神山台場陥落後は二本松兵による組織的な抵抗が
終わり、十一時頃(7)までの戦闘は散発的であったと考
えられるからである。
ところで三春での状況を見ると、昼頃(9)に三春に進
駐してきた新政府軍はさらに主目的である北の二本松領に
進撃をはじめている。そのような時に、つまり新政府軍三
春入城後の午後、三春兵が新政府軍を教導して、しかもす
でに平から攻めてきている西の小野新町に逆進することが
あるだろうか? それでも小野新町へ行ったと考えても、
そこでの戦いは終わっている時刻(7・8)となっている
のである。
するとここのところは、小戸神で三春兵を破った新政府
軍が、引き返す形で明神山へ向かった。結果として挟み討
ちになったが、小戸神から来た兵を見た二本松兵は、三春
兵と新政府軍との共同作戦と勘違いをしたと考えてはどう
であろうか。なおこれと関連する地区の滝根町史には、三
春兵の動きについての記述がなく、また二本松市史6近世
3資料編4にもその資料がない。これらのことからの結論
として、三春藩が敗れ(4・5)仙台藩が戦線離脱をした
(2・6)ため二本松藩が孤立した、というのが真相では
あるまいか。
つまり、二本松藩史が伝えているように、三春兵が明神
山の二本松兵を背攻したとは考え難い。