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平蔵は、一緒に歩いていた後輩の関場友吉春温に声をかけた。
「友吉、お前のところの生まれたばかりの春武は元気か? つかまり立ちでもはじめたか?」
「うん、まあお陰様でどうにか。ところで先輩のところはどうですか?」
「ああ、家のはようやく一番下が一歳になったばかりなのだが、これの夜泣きがひどくて少しも寝せてくれぬ。かえって家を出ることで泣き声を聞かないで済むと思うと、せいせいするな」
「アハハ、そんなものですか?」
「そんなものさ」
二人は別れてきた子供に話が及ぶと、急に黙り込んでしまった。多くの人数が旅に出るという華やいだ気分は、一切なかった。出征する誰もが、北蝦夷地とは遠い所という想像はついてはいたが、実際にどれほどの距離なのかの感覚は、まったく掴(つか)めていなかった。
平蔵は、昨夜のことを考えていた。平蔵夫婦に気を遣ってくれた父母が子どもたちを自分の部屋に引き取り、寝かしつけてくれていた。
「明日は出発であるから」
そう言って早めに床について待っていたにもかかわらず、妻はその夜に限って厨に長くいた。待ちくたびれて、うとうととしたころ、枕元の行灯の薄明かりの中に、長襦袢姿の妻が指をついた。
「旦那様、どうぞ何があってもお帰り下さいませ。ここには新しいあなたの『やや』も宿っております」
平蔵は急に妻に手を引かれて現実に戻され、戸惑ったままその腹に手を導かれた。そして導かれるままに、妻の腹に耳を乗せた。その平蔵の顔に、妻の涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫。安心して待っていてくれ。お前を置いたままにして帰らぬなどいうことは絶対にせぬ。約束する」
それを聞いた妻は、淑やかに平蔵に抱きついてきた。平蔵にしてみれば、「これが今生(こんじょう)の別れになるかも知れぬ」という思いもあった。妻への言葉とは裏腹に、生への危険を感じていたのである。平蔵は火照った身体の妻を、強く抱きしめた。彼女は、されるがままになっていた。
猪苗代は会津鶴ヶ城の支城の亀ヶ城のある町である。そしてここは、雪国である会津でも特に雪の深い町であった。一階部分に降った雪と、屋根から落とされた雪ですっぽり覆われた町屋では、二階から人が出入りをしていた。雪のない軽装の日なら半日で着く所ではあったが、この行軍には、さすがに丸一日を費やした。それでも猪苗代は『わが領内』という感覚があって気の休まる宿営ではあったが、誰かが言う「明日は二本松領だ」、という言葉が平蔵の心を締め付けていた。
──そうか、これでいよいよ故郷ともお別れだな。
平蔵の頭の中で、妻や子どもたちの顔が次々とよぎり、ガンジキを着けた足が妙に重くなるのを感じた。
その晩、陣将の北原光裕采女が出陣の安寧を祈願するため、猪苗代城下にある徳川秀忠の四男・藩祖保科正之公の廟で鏑矢(かぶらや)二本を放って鳴らした。藩公の命で別れの挨拶に来た参政・井深重隆は全隊員に、「幼い藩公は埋門(うずみもん)から出陣していくお前らを、鼓門(つづみもん)内で見送って下さった」と知らせてくれた。それを聞かされて、涙ぐむ隊員もいた。
翌正月十二日、会津隊は猪苗代の町を出発した。雪の中の川桁、関戸を過ぎ壺下(つぼーろし)へ近づいていた。やがて隊列の前方が猪苗代の湖畔に着いたのであろう、前の方から歓声が上がった。背後を振り返って見ると、雪晴れの中に磐梯山が真っ白に輝いていた。隊員たちの中には、海とは猪苗代湖より少し大きい位のもの、との認識しかない者が少なくなかった。それであるから、北蝦夷地までは大した距離ではない、と思う者がいたとしても、決して不思議なことではなかった。平蔵らもその湖畔の道に入った。道はせいぜい半里(二キロメートル)を切っていたが、一望千里の湖の右手には、鶴ヶ城があるはずであった。
「対岸の雪山が、まるで巨大な氷の塊のように見えるな。北蝦夷地もこうなのかな」
「いやあ北蝦夷地もさることながら、この湖(うみ)の向こうにある会津に何時帰ることができるのでしょうかね?」
「何を言っている友吉。まだ旅は、はじまったばかりだぞ」
平蔵は強く言った。それはまた自分に喝を入れようとする焦りにも似た気持ちからでもあった。
志田浜で湖から離れると壺下の集落に入った。ここは会津領最後の集落である。ここから平坦な道をしばらく行くと楊枝峠(ようじとうげ)となる。この峠は、二本松藩との境界となっており、曲折を重ねた長い坂道であった。峠に差しかかると、第一隊、第二隊が踏み固めて行ったせいもあって、滑って行軍が出来ぬので道の端の雪上に筵を敷き、道の中央は橇を通すため雪のままにして登った。峠道の安全を祈ったのであろう、林の中には雪をかぶり優しい顔をした地蔵が一つ立っていた。その他にも道の傍らには湯殿山碑や一里塚などがあった。
荷物を牽いての登り道も大変であったが、下り道もまた容易ではなかった。大筒など重い荷物を積んだ橇が自らの重みで滑り出すのを、後から引き戻しながら前進するのである。それでも余りにも滑り過ぎるので、雪上に藁を敷いては進んだ。その行動での合図は、すべて、法螺貝を鳴らすことで徹底された。
──
しかしよく見てみると、峠の登り下りはさほどでもなかったが、とにかく遠かった。それにあの下りの坂の長さを考えれば、猪苗代湖とは高いところにあるのだな。
平蔵は一人で納得していた。
その晩は二本松領最初の集落、中山宿の宿場に一泊した。ここでの米は、一升につき四十七文であった。
注*楊枝峠=明治十八(一八八五)年の中山峠開削以前。いま
の猪苗代町壺下から郡山市中山宿の間の二本松街道にあっ
た峠。現在の中山峠の北に位置する。
正月十三日の早朝、中山宿を出発した。峠を下ったせいか、道の雪が少なくなっていた。
「驚いたな友吉、こうして見ると猪苗代湖というのは、随分高い所にあったのだな」
「そうですね、普通水は低い所にあるとばかり思っていたから、何か不思議なような気がします」
「それに、いつの間にか川は東に流れている。峠までは西に向かっていたのであるから、楊枝峠は分水嶺でもあったのだな」
やがて熱海に着いた。ここは温泉場でもある。何も知らぬ農閑期を利用した自炊の湯治客たちは、何日にもわたって陸続と連なる会津藩兵の大行軍を物珍しげに見ていた。
「会津藩がまた行った」
「いくつも大筒を引いて、戦争でもあんのかね」
「戦争? どこで」
「えっ? そんなの知るか! 何も聞いてないぞ」
熱海を過ぎると平坦地が続いていた。横川、苗代田、岩根本郷と進むにつれ、山にも道にも雪がますます少なくなっていった。さらには雪が溶けて土が見える所さえ出てきたのである。
「会津の雪が、まるで嘘のようだな。これでは橇の運転にも十分に注意せねばならぬ」
そう言って平蔵は笑った。
「まったくですね。しかし大筒を運ぶのに雪がない、というのも困ります。その上会津と違って、空の色まで明るい」
そう言うと、今度は友吉が笑った。ここでは白米が六十文、酒一盃三十文、草鞋一足十二文であった。
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