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正月十四日、本宮を出発した。本宮から先は、一路北へ続く奥州街道であった。南杉田宿(二本松市)、北杉田宿(二本松市)を過ぎた。雪はさらに浅くなって橇を使えなくなり、大筒を運ぶのに甚だ(はなはだ)苦労をした。そのため二本松藩は、応援の人足の助力を出してくれた。これ以後多くの藩がこれを知り、各藩とも同様に助力をしてくれるようなった。
「苦労をかける。済まぬ」
気さくに声を掛ける平蔵に、こちらの様子を窺っていたらしい人足の一人が言った。
「お侍様方もご苦労様です」
「うむ、ところで話に聞いてはいたが、有名な安達ヶ原はここからは遠いのか?」
そう問いかけられた人足は、嬉しそうな顔をして言った。
「あれ、安達ヶ原の鬼婆の話を、知っておられやしたか? ここからはさほどではございやせんが、お侍様。あそこの岩屋には今でも人を切った包丁とか、人を煮た釜などが残っておりやす」
「ふーむ、するとあれは作り話と思っていたが、実際の話だったのか?」
呆れた顔をして聞き返す平蔵に、人足は「ほんとの話です」と言うとふくれっ面をして黙り込んでしまった。それを見た平蔵は、笑いを噛み殺すのに苦労していた。しかし飢饉のときなど死人を食った百姓の話などを考えると、鬼婆が妊娠していた実の娘を食ったとの話はともかく、実際に人肉を食うということもあったかも知れぬとも思われ、「笑い飛ばして済まぬことをしたな」などと考えていた。
やがて二本柳宿(二本松市)、八丁目宿(福島市)を過ぎて清水町宿(福島市)に入った。ここは福島城下への峠の下り坂になる石那坂である。ここで福島藩差し回しの人足と交代した。
二本松城下を通るときにも感じたが、やはり他藩の城を見ながら行軍するということはある種の緊張を伴った。福島城が、奇異の目で群がって見ている町人たちの後の町並みの間に見え隠れしていた。福島城は阿武隈川の傍らにある平屋の城で、天守閣はなかった。その晩は、福島に泊まった。ここでは白米が六十六文、酒が一合十二文であった。この福島の西近くに、これから行く蝦夷松前から移封された梁川藩がある。
││この度の出兵について、当藩より梁川藩へ、ご挨拶にまかり越したであろうな?
平蔵はちょっと心配になった。そして城中での派兵に関しての具体的な検討内容について、若干漏れ聞いていたことを思い出していた。
それは前年、文化四年のことであった。
城中では、派兵に関しての具体的な検討が続けられていた。一六〇〇名という大部隊の北蝦夷地までの旅費と軍資金の捻出、携行武器の準備、近くの宿場を組み合わせることによる分宿施設の確保、そして最大の問題のロシア軍との戦闘体制やへいたん兵站についてであった。そのほかにも、少数兵力となる藩の体制維持や残される家族についてなど、問題は山積していた。
その会議の席で、ある重役が提言した。
「彼の国とて山はあるであろうから、きっと藤つるもあるべし。その藤つるを編んで海に敷き詰めれば、ロシアの船とて通ることは出来ますまい」
居並ぶ重役たちもこれにはハタと膝を打って、
「これは名案!」と感心した。
しかしまた別の問題もあった。連絡係に任命された馬術に長じた三人の藩士たちが、田中玄宰に異議を申し立てたのである。
「仲間が戦っている最中に戦場を離脱して連絡する役などとんでもない、誰か他の者と代えて頂きたい」
それに対して、玄宰が厳命した。
「敵と戦うのはたやすいことである。しかし緊急連絡のため早馬で国元に知らせに走ることも、重要なことである。先頃もロシア兵上陸の緊急事態を蝦夷の松前から江戸への連絡業務に三人の使者が出発したが、二人は途中で亡くなり一人だけがようやくたどり着いたという例もある。早馬での連絡は命がけの仕事、戦うのと同じことなのだ。心して当たれ」
藩内では、「誰が行くのか、どの隊が行くのか、わが子はどうなるのか」。家族も不安に巻き込まれていた。やがて派兵の名簿が発表されると、本格的な軍事訓練がはじめられた。それは四ヶ月にわたっての厳しい訓練となった。
会津を出発してからほぼ一ヶ月後の二月十日、野辺地宿(青森県)を出発した会津隊の前に、津軽藩と南部藩の境界に作られた塚が見えてきた。高さが十二尺(三・六メートル)ほどの、こんもりと盛り上げられた土が、二股川を挟んだ両側に二個ずつ計四個が築かれていた。通称、四ツ森という。ここから西北の、津軽への道をとった。左が山、右が海であった。しかしここに来るまで一ヶ月以上かかったということは、この旅が必ずしも円滑に進んだものではなかったことになる。ここでは人夫が不足したため、全員で大筒を車で運んだ。
二月十一日、海岸に続く険しい野内路に入った。この日は風が強く横なぐりの雪になり、寄せ来る波は大きく轟き、その上に雷鳴が鳴り響いて恐ろしい様相ではあったが、奇巌が多く、その絶景には素晴らしいものがあった。それはまた、冬だからこそ見られる景色であったのかも知れなかった。
野内宿より西路に入るあたりから道は平坦になった。夕方青森に着いた。今日の行程は大雪の上特に寒く、今日ほど恐ろしいと思ったことはなかった。昨日の人夫不足を聞きつけた津軽藩から多くの応援人夫が出てくれたが、それでも荷物の半分が届かなかった。
のである。
青森の地は雪が最も多い土地柄で人家も埋没し、わずかにその屋根を雪の上に露出しており、人は雪に穴を掘って出入りしている。飼われている犬は、屋根の上で遊んでいた。船が出られないため、われわれは雪の収まるのを待った。津軽藩は酒を届けてねぎらってくれた。これより西の浜は外海に接しているため外浜と言うが、合浜とも言うそうである。美しい石を数多く産出しているので、好事家は記念としてこれを拾った。
青森に泊まった。しかし雪で海路が不通のため、青森に留まって状況の変化を待つことになった。この地では米が一升三十八文であった。
││会津よりはるかに安い。これは江戸や大阪から青森港への廻米のためであろうか? それにしても遠くに運んで尚かつ安いとは、どのようなからくりなのであろうか。
平蔵は疑問を感じていた。
三月十六日、青森を出発して蟹田に泊まった。
注 終北録での記述が、二月十一日から三月十六日に一ヶ
月以上一挙に飛んでいる。帆待ちの日にちとも考えら
れるが、まったく記述が欠けているのが不思議である。
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