PR
カテゴリ
コメント新着
カレンダー
キーワードサーチ
即 位 年 生年 没年 年齢
↑ 前六六〇 初代 神武天皇 前七一一~前五八五 一二七歳
縄 前五八一 二代 綏靖天皇 前六三二~前五四九 八四歳 文 前五四九 三代 安寧天皇 前五七七~前五一一 六七歳
時 前五一〇 四代 懿徳天皇 前五五三~前四七七 七七歳
代 前四七五 五代 孝昭天皇 前五〇六~前三九三 一一四歳
┬ 前三九二 六代 孝安天皇 前四二七~前二九一 一三七歳
│ 前二九〇 七代 孝霊天皇 前三四二~前二一五 一二八歳
│ 前二一四 八代 孝元天皇 前二七三~前一五八 一一六歳
弥 前一五八 九代 開化天皇 前二〇八~前九八 一一一歳
生 前 九七 十代 崇神天皇 前一四八~前三〇 一一九歳
前 二九 十一代 垂仁天皇 前六九 ~ 七〇 一三九歳
時 七一 十二代 景行天皇 前一三 ~一三〇 一四三歳
代 一三一 十三代 成務天皇 八四 ~一九〇 一〇七歳
│ 一九二 十四代 仲哀天皇 ~二〇〇 不 明
│ 神功皇后 ~ 不 明
┬ 二七〇 十五代 応神天皇 二〇〇 ~三一〇 一一一歳
│ ○ 三一三 十六代 仁徳天皇 二五七 ~三九九 一四三歳
古 四〇〇 十七代 履中天皇 ~四〇五 不 明
墳 ○ 四〇六 十八代 反正天皇 ~四一〇 不 明
時 ○ 四一二 十九代 允恭天皇 ~四五三 不 明
代 ○ 四五三 二十代 安康天皇 四〇一 ~四五六 五六歳
↓ ○ 四五六 二一代 雄略天皇 四一八 ~四七九 六二歳
注1 卑弥呼は一八〇年頃から二四八年頃まで生存したとされる。
注2 日本書紀などの天皇系譜から、讃=履中天皇 、珍=反正天皇 、
済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇等の説がある。このうち済
興武については研究者間でほぼ一致を見ているが、讃と珍については宋
書と記紀の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説とし
て、讃が仁徳天皇で珍を反正天皇とする説や、讃は 応神天皇で珍を仁徳
天皇とする説などがある。倭の五王の正体については今のところ不確定
である。
この表にもあるように、神武天皇の即位は紀元前六六〇年であるとされている。六〇年は干支で言う一回りである。それがきれいに十一回ということから感じられることは、余りにも人為的な数字であるということである。しかもそう考えてくると、西暦の存在を知ってから即位年を決めたことになるから、その決定した年代は大分後のことになる。
それにしても、異常に長いと思える天皇の寿命が出てくるが、魏志倭人伝にも『そこの人たちは皆長生きで百年、若しくは八、九十年生きたりする』と記述されている。ここでは天皇の寿命ばかりではなく、一般人たちの寿命にも言及しているが、これは古代の人間が、今の一年を二年として数えていたという説によるものとされている。
これら歴代天皇のうち、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの八代については、『欠史八代』と呼ばれ、実在の天皇は第十代崇神天皇以降であるとされている。そうすると初代の天皇は崇神天皇ということになる。この欠史八代のことを考えると、『天孫降臨』以降の神話は弥生時代から古墳時代、つまり邪馬台国の時代のことを組み込んだものと考えられる。ところで『記紀』が作られたときに、神武天皇に続く天皇による国土支配の正当性を主張するため、神武東征などの偉大な武勇伝を格調高く語る必要があったとされているが、仮に神武天皇が生誕した紀元前七一一年から九代開化天皇が崩御した紀元前九八年を単純に計算すると、神武天皇の年齢は実に六百十三歳ということになり、前述した一年を二年とする数える方をすると千二百歳を超えることになる。これでは、神武天皇の寿命がつくりごととしか考えられない。その後も高齢の天皇が続出するが、現在、九代までの天皇は、この空白を埋めるために創造された架空の天皇であると説明されている。それを証明するかのように、この欠史八代の天皇は諡(おくりな)のみが並べられ、しかも本来書かれるべきである事績については全く書き残されていない。唯一、七代孝霊天皇のみに播磨国を通過して吉備を攻め平定した記述が出てくるが、この話は桃太郎伝説のモデルになったといわれている。
「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」の資料 2010.12.11