『福島の歴史物語」

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2016.09.21
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     『帰 布 二 世』 の 証 言 (1)

キヌスス?キ.jpg

 『帰米二世』とは、『二世』の名の通り日本人移民一世の子どもたちである。彼らは親の意向で日本に一度は戻っていながら、戦争の影に怯えながら再びアメリカに帰って行った(帰米)子どもたちのことである。その帰米二世たちの年齢がすでに八十歳代に入っている現在、『帰米二世』という言葉そのものが死語になりつつある。その帰米二世の各家庭とも、曾孫(五世)がいる時代となった。三世、四世にもなるとほとんど日本語を話せない。もっとも戦中は敵性人として見られ、戦後も小さく生きてきたこともあって、堂々と日本語を学べる事情にはなかったこともあったと思われる。それでも何とか日本語学校に通った者が、どうやら祖父母とコミュニケーションができる位である。要するに彼らにとって、日本語は外国語なのである。ロイさんが『帰米二世』のことを私に書くよう依頼したのは、このような心配とハワイでの記録を残したいと思ったためからかも知れない。私が取材のためハワイを訪れたいとの申し入れをした時、ロイさんとジェームスさん(現ホノルル福島県人会長)は残り少ない帰米二世の幾人かを探し出し、待ってくれていた。しかし取材を重ねるうち、『帰米二世』と言うより、『帰布二世』呼んだ方が妥当なのではないか、と思えるようになって来たのである.

 2012年、3月の初めとは言えハワイは日本でいう初夏の気候であった。郡山を出るとき雪が積もっていたのが、不思議なようであった。取材に応じてくれたキヌ スズキさんは、暖かな日差しを浴びながら、アベロン ケア センターの玄関前のポーチで、車椅子に乗って娘のジェーン アキタさんと一緒に待っていてくれた。彼女は心なしか、明るく見える顔で取材に応じてくれた。

「キヌさんは何年のお生まれですか?」
「1937年です」
「ああ、私は1936年ですから、私より一つ若いことになりますね」
「そうですか。あなたは元気でいい」
「いやいや、それほどでもありません。結構あっちが痛い、こっちが痛いってね。困っています。ところでキヌさんは、いくつの時、日本に行かれましたか?」
「1937年です」
「えーっ?」
「私はまだ一歳にならないうち両親に連れられて日本へ帰りました」
「そうですか。そんなに幼いときに・・・、驚きました。するとまだ乳飲み子だったのですよね?」
「そうです。両親は一ヶ月ほど福島にいてハワイに帰ったそうです」
「そうですか。それでは連れられてきたときの記憶も、ご両親とのことについてもご記憶はありませんね?」
「はい。そこで私は、従兄弟たちと一緒に祖母に育てられました」
「それじゃぁ勿論、英語などは知らなかったわけですよね?」
「そう、私は完全に日本語で育ちましたし、ハワイで生まれたということも、子どもの時は知らされなかったから、小さいときはまったく意識していませんでした」
「それでは戦争中など、特に『ハワイ帰り』と言って差別されたことはなかったのでしょうね?」
「それはありませんでした。近所にもそういう子がいたらしく、祖父母同士が暗黙のうちに内緒にしていたようです。それから当時珍しかった洋裁を学びました。あるとき私は、出征兵士の母に頼まれて真綿の綿入れチョッキを縫ったところ、敵の銃弾に当たっても助かったとの手紙が実家に届いて評判になり、注文が殺到しました。随分縫いました」
「へ〜え。そんな小さいときにね」
「私は佐倉国民学校(現・福島市)を卒業したらハワイの親元に帰れるはずでしたが、十七歳まで祖母の元にいました」
「それはまたどうして?」
「老衰した曾祖母の看病のためでした。国民学校を卒業してから、曾祖母を何年か看病をしました」
「十七歳というと1954年のことですよね。戦後になってからハワイに帰ったことになりますか?」
「そうです。その後曾祖母が亡くなり、ハワイへの家族の元に帰りました。戦争が終わってから大体五年後ですから、ハワイの日本人も大分落ち着いてきていたと聞いています」
「ハワイでの生活はどうでした?」
「そういう訳で、英語がまったく駄目でしたから、しばらくヌアヌの英語学校で習いました。戦争は国民学校二年生のころ終りました。その頃日本の国民学校も小学校に戻り、その教育もアメリカ化されていました。ですから学校の教育については、あまりハワイと違いはなかったように思います」
 キヌさんは、私が取材を終えて立ちかけたとき、車椅子の上から私の目を見詰めながらポツリと言った。
「今までこのことは、子どもたちにも言わず黙っていました。言うことではないし言うべきではないと思っていました。しかし今日はあなたに話して、ホッとした気がします」
「・・・」
「ただあれね。今の日本には昔がなくなって、寂しい思いがします」
 それを聞いて、私は今の日本の社会状況などを思い、言葉が詰まった。彼女の、『日本は良い国であって欲しい』という気持ちが、よく理解できたからである。私を見送ってくれた娘のジェーンは、「母は英語学校に通ったのに、日本語しか話しませんでした。だから今日は、あなたと日本語で昔の話ができて嬉しかったようです」と話してくれた。
 私は、戦後五年も経てからハワイに帰った彼女のケースは、『戦後帰米二世』にあたるのであろうと思っていた。



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最終更新日  2016.09.21 16:44:19
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