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2017.03.01
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カテゴリ: 街 こおりやま
    橘為仲と郡山の小学校

 1984年、郡山の歴史(郡山市 不二印刷)が出版されていますが、その30頁に次の記述があります。

『かって、郡山の地名は、橘為仲のよんだという『陸奥の芳賀の芝原春くれば吹く風いとどかほる山里』の歌の『かおる山』から出たと言われ、芳山の字を当てていた。しかし現存する『橘為仲朝臣集』の歌のなかには、この歌はない。かりに為仲にその歌があったにしても、『かおる山』が訛ってから郡山になったというのは当たらない。郡山の名は郡衙の所在地というところから出たと考えるべきであろう』

 しかし2004年にル・フロジュから刊行されている『郡山の歴史』からは、この部分が除かれています。その理由の記載はありませんが、恐らくこの歌が『橘為仲朝臣集』にないことによるものと思われます。私も『橘為仲朝臣集』をはじめ関連する文献に当たってみましたが、見つけることができませんでした。

  そこで郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみましたが、やはりそこにその歌はありませんでした。ところが郡山歴史資料館に保存されていた『郡山市誌 一編・第十六章 口碑伝説』に、この歌があるのを見つけたのですが、これは明治44年以降に書かれたものだそうですが、何か実在するから写したものとしか考えられません。そこには、次のように記されていました。

『又昔橘為仲陸奥ニ下リタル時此地ニ至リタルニ山桜盛リニシテ花ノ香旅ノ衣ヲ打ツ其時ニ為仲歌ヘツラク
   陸奥の芳賀のしの原春くればふく風いと丶かほる山里
コノ歌ノかほる山ノヲ転ジテ里トナシかほり山ト号シ後ニ郡山ノ文字ヲ用ヘシゾ』

 これで明治44年頃まではさかのぼれたのですが、1000年も前の歌ですから、原本がある筈です。そこで郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみましたが、やはりそこにその歌はありませんでした。

 為仲の父の義通は後一条天皇の「乳母子」であるという間柄から、天皇の近臣として仕え、天皇の崩御の際には素服を賜ったほどでした。為仲の生涯は華麗で、20歳ころの長元8(1035)年に『賀陽院水閣歌合』で方人を勤めたのをはじめとして高陽院で開催された歌合に参加し、『和歌六人党』と称された歌人の一人ではあったのですが、いわゆる追加メンバー的な存在であったようです。政治的にも六位蔵人・式部少丞、駿河権守、皇后宮少進、淡路守、皇后宮大進、五位蔵人・左衛門権佐、叙従四位下・蔵人。越後守を歴任し、承保2(1075)年の秋、「陸奥守」に就任しています。

 1211年頃に成立したとされる鴨長明の無名抄に、

『ある人いはく、「橘為仲、陸奥守にて下りける時、五月五日、家ごとに菰(こも)を葺きければ、怪しみてこれを問ふ。その所の庄官、『この国には、昔より今日、菖蒲(あやめ)葺くといふことを知らず。しかるを、故中納言御館(たち)の御時、「今日は菖蒲葺くものを。尋ねて葺け」と侍りければ、この国には菖蒲なきよしを申しけり。その時、「さらば安積の沼の花かつみといふものあらん。それを葺け」と侍りしより、かく葺きはじめける』とぞいひける。中将御館とは、実方朝臣なり』

 とあるといいますから、為仲が郡山を通ったということの傍証となるのではないでしょうか。

 為仲は陸奥守在任中いくつかの歌を残していますが、『橘為仲朝臣集』に安積山や山ノ井を使った歌が3首残されていますから、この歌の存在を想像させるものがあります。調べてみると、西行の筆で佚名(いつめい)家集切と言う行方不明になっている部分があるそうですが、実はそれは為仲集切であって、この他にも落丁の部分があるそうです。すると『陸奥の芳賀の・・』という歌が、この行方不明の部分から発見される可能性があると思われます。

 私がこの歌にこだわったのは、ここに市内の小学校の名が隠されていると思うからです。それは芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校です。しかしこの名を見て考えさせられました。昔の人はこれらの小学校に、なんと典雅な名を付けたのか! と。

 小学校の名称の変遷は、次の通りです。

  芳山小学校=M33・郡山第二尋常小学校。
        S16・芳山小学校に。
  橘 小学校=T3・郡山第3尋常小学校。
        T15・橘小学校への改称が却下される。 
        S16・橘国民学校。
  芳賀小学校=S3・1928・設立。
  薫 小学校=S30・橘小学校分室。
        S31・薫小学校として独立

 そして、驚くべきことを知りました。橘為仲が、あの采女伝説の主人公・橘諸兄(葛城王)の11代目にあたるというのです。

1984 郡山の歴史
2004 郡山の歴史 ル・フロジュ
小学館古典文学全集
会津・仙道・海道地方諸城の研究
私の郡山歴史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1 
HP・やまとうたより
kamoltd.co.jp/kakegawa/syoubu.html  伝統園芸植物花菖蒲




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最終更新日  2017.03.01 09:43:13
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