『福島の歴史物語」

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2019.12.01
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     アメリカ陸軍・第100歩兵大隊

1941年12月7日、真珠湾の方角で腹の底に響く爆発音が立て続けに起こり、 黒煙 が上がった。日本軍による真珠湾攻撃である。この時オアフ島の ヒッカム飛行場 に駐留していたのは、オアフ島出身の日系二世によるハワイ準州国土防衛軍の第298部隊と、その他の島々の出身者による第299部隊であった。日本軍の爆撃後、ハワイ大学の三年生で編成されていた ROTC( 予備役将校訓練部隊) 学生たちは、武器庫の前に集められてガスマスクとライフル銃が支給され、実弾を手渡された。学生たちは、 ハワイ大学近くの高台にあるセントルイスハイツに降下した日本軍落下傘部隊と応戦せよ!」との命令で現地へ急いだ。ただしこれは誤報によるものであったが、戻って来るとすぐに、 「日本軍一個大隊がワイキキの浜に上陸した。海岸にて阻止せよ!」という命令が下された。 息つぐ暇もなくワイキキに走ったが、日本軍の上陸した様子はなかった。これも誤報であった。 この時の兵士や学生たちは、 日系二世のアメリカ人とは言っても両親が日本人であったから、日本人同士が戦っていたことになる。

 第298部隊は、オアフ島の北部海岸のカフク防衛のため、トラックを連ねて出発した。カフクの南部にあるベローズ陸軍飛行場近くのワクナマロ海岸では、日本軍の特殊潜航艇が一隻、擱座しているのが見えた。もう一つの第299部隊は、ポートアレン桟橋、それに放送局の守備のために出動した。 そして残り のグループは、ワイキキの海岸防衛に回されたが、そこで命令されたのは、この海岸に鉄条網を張って塹壕を掘り、土嚢を積むことであった。アメリカ軍は、日本軍によるホノルル上陸作戦を極度に警戒していた。その日の午後、 ハワイに戒厳令が敷かれた。ROTCは解散させられ、すぐに ハワイ準州守備隊に改変された。真珠湾では戦艦アリゾナが黒く濃い煙に包まれ、いくつかの艦船が船底を曝していた。この日の夕方からは、ハワイ全島が灯火管制で真っ暗となった。周辺海域にいるかもしれない日本空母の艦載機が、再び襲撃してくるのではないか、と警戒したからである。

 一夜明けた8日の早朝、 ハワイ準州守備隊 は、ダイアモンド ヘッドの先のハナウマ湾に向かった。そこで彼らは日本軍の上陸作戦に備えて鉄条網を張り巡らし、機関銃座を作り、塹壕を掘り上げた。ここでは 日本軍の特殊潜航艇の侵入を警戒して、海中にまで鉄条網を敷設した。 ルーズベルト大統領が議会で七日を『汚辱の日』と呼び、正式に日本、ドイツ、イタリアに対して宣戦布告を発した。

 9日、ハワイ準州守備隊はオアフ島の北端、モカプポイントとクウアロアの間に散開し、防御陣地を構築した。この日、 オーストラリアが対日宣戦を布告したことがラジオで放送された。 そして空母を含む日本海軍の大艦隊が、ハワイの海域から撤退していたが、ハワイ準州守備隊は各地の海岸線で防衛陣地のさらなる強化を命じられていた。オアフ島以外の各島でも、同じ作業が続けられていた。一方、真珠湾を襲撃されたその日に出された大統領令により、危険な敵性外国人とされたドイツ、イタリア、日本人が強制収容の対象となり、FBIが逮捕して回っていた。逮捕された彼らは、ホノルル港の入口にあるサンドアイランドに集められ、その後アメリカ本土に護送されて強制収容された。

 このとき逮捕された一人は、 「自分は日本人であるから天皇には忠誠を尽くす義務がある。そしてお前もまた両親とも日本人であるから 紛れもなく日本人 である。しかしその反面、お前はアメリカ国籍を持つアメリカ人である。日本で育った日本人である自分たちとは異なって、お前はお前を育ててくれたアメリカに尽くすべき 義理がある。お前はその義理のあるアメリカに恩を返さなければならない。戦争となった以上これから何が起こるか分からない。しかし何が起きても決して家名を汚してはならぬ。例え他の人種からであっても、人様から後ろ指を指されることがあってはならぬ。 もしもその時が来たら、お前はアメリカ人として対処しろ、そしてアメリカの旗を守れ。」と言ったという。

 18日、デロス エモンズ中将がハワイ防衛総司令官に着任した。兵員増強のため、 日系人以外の青年に対しての徴兵が進められていた。 訓練も装備も不十分のまま、ヒッカム飛行場で日本軍と戦っていた 日系 二世たち には、その要請がなかったのである。それでも 12月の末、二世たちに、 ハワイ準州守備隊への集合が命じられた。 ホノルル高校 やカメハメハ高校など四つの高校からも、 ハワイ準州守備隊 への志願が相次いだ。最終的に志願者の数は、1400名にものぼった。しかしこれらの高校生たちの志願は、年齢を理由に拒否された。

 翌年の1月30日、シゲオ ヨシダは日系二世を代表し、エモンズ司令官に兵役に就きたいという請願書を提出した。この請願を受けたエモンズ司令官は、請願書をホノルルの新聞各紙に渡して記事にして世論の確認をしながら、日系二世大学生からなるVVV(トリプルV・ Varsity Victory Volunteers ・大学必勝義勇隊)の編成を決定した。しかしこれは、義勇隊という勇ましい名称にもかかわらず、実質、武器を持たされない労働奉仕部隊であった。それでもVVVはあらゆる銃後の仕事をやりとげ、献血に応じ、多額の戦時債券を購入した。それにもかかわらずアメリカ軍は、敵性外国人であるとする日系人に、午後9時から午前6時まで立ち入りの禁止地区を設定し、移動は仕事場への往復と住居から五マイル以内のみとした。VVVは学業を捨て武器もなく、ただ黙々と種々の労働に従事していた。

アメリカの本土でも FBIによって2192人の日系人を逮捕されるなど 、日系人に対する締め付けが着実に進んでいた。 そして2月 19日、 ルーズベルト大統領は大統領令九〇六六号に署名し、『必要、または望ましくない場合には、誰であれ退去させられる軍用地区の決定ができる権限』が発効した。この法律によって、アメリカ本土西海岸の約12万もの日系人が、10箇所の 『戦時転住所』と呼ばれた 強制収容所に移住させられた。日系人は住んでいる場所を約一週間の間に出なければならなくなり、しかも彼らの許された荷物はトランク一つと制限されたため、今まで蓄えてきた財産をすべて二束三文で手放さざるを得なくなったのである。しかも彼らが送られた先のほとんどは砂漠地帯で、朝夕の気温差の激しい環境であった。ここには、ハワイからの逮捕者も分散収容されていた。

 1942年3月11日、ミッドウェイ島に日本軍の大型飛行艇が来襲したが、これを撃墜した。ミッドウェイ島は、ハワイ列島の最西端にあたる。もしここが陥落すれば、日本軍は島伝いにホノルルに攻めてくると考えられた。ここは、アメリカ本土防衛の最先端とされた。 5月26日、自宅待機とされていた二世兵士たちに、秘密のうちにスコーフィールド基地へ出頭するようにとの命令が出 された

 出征兵士を乗せた列車がスコーフィールド基地を出たとき、日系人たちは、鉄道の沿線で声もなく見送った。 互いに手も挙げることさえ、許されなかったのである。 アロハタワーに近いホノルル港の軍用桟橋から、1400名の日系兵を乗せたマウイ号は、ファンファーレなしで出航した。別れを惜しむ匂やかな花々のレイもなければ、哀愁に満ちたアロハオエの調べもない淋しい船出であった。兵士たちはそれぞれに、レイが欲しいと思っていた。港を出るとき海に流したレイが渚に打ち揚げられると、旅人は必ず還ってくるというハワイの言い伝えがあったからである。

1942年 6月12日 、ホノルルからの輸送船は、サンフランシスコのオークランドに入港した。ここで日系二世の 部隊 は、 第100歩兵 大隊と命名された。これは、 どの師団や連隊にも属さない独立大隊であった。独立大隊とは、規模は大隊でも組織は連隊と同じ構成という意味である。 通常アメリカ陸軍は、師団の下に連隊、そしてその連隊は第1、第2、第3の三つの歩兵 大隊を含む 構成になるのであるが、敵性人とされた日系二世によるこの 大隊を引き受ける 連隊はなかった。このため 本来ならあり得ない番号の、 100というナンバーが付けられたのである。

 第100 歩兵 大隊は、 ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイで訓練を受けた。ここでのエピソードがある。 100大隊 がはじめてキャンプを出て行軍訓練をしていた時、 この 行軍 を見たある農夫が、電話では到底信じてもらえないと思い、「日本軍がパラシュートで降りた。」と野良仕事用のトラックをめちゃくちゃに飛ばして警察に駆けつけたことがあった。そして何ヶ月か後に、 街で戦争 勝利総決起大会が開かれた時のパレードで、先導した警察車両のスピーカーが大きな声で、「皆さん、今日の分列行進は、真珠湾で勇敢に戦った勇士たちによるものです。マジソン郡在郷軍人会のゲストとして参加しました!」

 これに関して、 ウィスコンシン州ライスレーク出身で、三春小学校の英語教師として赴任していた ジーナ シーファーに次のような話を聞いた。「ウィスコンシン州に住んでいるインディアンは数が少なかったが、それでも人種差別が大きかった。地元の人たちはあまり東洋人の顔を見ていないので、日本人をインディアンと思ったのかも知れません。それにウィスコンシン州には、ドイツ人が多かったのです。多分戦争で捕虜となったドイツ人であったと思います。イタリア人がいたという話は、聞いていません。顔が全然違うから、日本人は大変だったと思います。」

 1943年 2月1日、 ルーズベルト大統領は、日系人の志願による第442歩兵連隊の創設を発表した。 アメリカ政府は日系人を敵性人とみなして強制収容所に隔離しておきながら、その中からアメリカのために戦う兵士を募ろうという、矛盾した政策を強行した。それに基づき、新設される 第442歩兵連隊戦闘団の募集要項が発表された。ハワイでの募集予定人員は1500人、アメリカ本土からは3000人とされた。

第100 歩兵 大隊に、出動命令が下った。 しかし肝心の所属すべき連隊は、まだなかった。 8月20日の夕方、第100 歩兵 大隊を乗せたジェームズ・パーカー号は、ニューヨーク港の岸壁を、『自由の女神』に見送られて静かに離れた。第100 歩兵 大隊が 重装備で臨んだ地中海の波は、静かであった。船の中で、 イギリスのBBC放送の臨時ニュースが、イギリス軍のシチリア島占領を流していた。

 1943年9月2日、船は 連合軍の地中海方面司令部が置かれていた フランス領チェニジアのオランに入港した。オランの連合軍の基地で、 第100 歩兵 大隊 はイギリス軍とフランス軍と一緒の基地に入った。しかし所属する師団も連隊も決まらないまま派遣されたアフリカで、第100歩兵大隊 は補給品輸送列車の警護にあてられた。 ここで第100歩兵大隊は、連合軍のアイゼンハワー大将司令部の警護部隊である第34師団第133連隊第2大隊と交代した。 そしてこの 第34師団が、第100歩兵大隊を受け入れたのである。 第100 歩兵 大隊は、 この 第34師団の 第133連隊に配属された。ようやく第100 歩兵 大隊に、親連隊ができたのである。

 第133連隊はイタリア戦線のモンテカービノ近辺まで進出するよう命じられた。 第100 歩兵 大隊は、 丘陵と森林や峡谷で起伏に富んだこの地域で、秋の雨ために泥沼のようにぬかるんだ街道を、北に向けて進軍を開始した。 これから先に続く多くの戦いについては、私の取材に応じてくれた ロバート サトウの短歌で感じて頂きたい。彼がこのような短歌が作れたのは、帰米二世であったからである。

   おふくろの 味噌汁恋しと 友は云う オリーブ畑に 風寒き夜

   砲音を はるかに聞きつ 秋深き 異国の空に 流星を見る

   さっと過ぐ 流星もあり 午前二時 なほも続くる 歩哨の任務

   きず重き 友励ましつ ふと見れば 月おぼろなり 六百高地に

   陰膳の 思い届ける 戦場(いくさば)に 武運長久 祈る母親

水哀し  運河のほとり 一人立ち ムッソリーニの偉業を 
       遠く偲べり

   刀もて 切り込んで見たき 心地もすれ 望み絶えにし
       我なりし

   凱旋の 夢を抱きつ 昨日迄 頑張りしおり 友等帰らず

   折からの 夕焼け雲を 突き抜けて 友軍機三つ 北伊の空ゆく

   黒山の ハエに気付けば 案の定 片腕のあり 草むらの中

   硝煙の ゆるくさまよう いくさ場に 我に向かいて 
       啼く蟲のあり

   疲れはてし 友のいびきを 気にしつつ 最前線の
       歩哨に立つ我

   幾百の 塹壕掘りしか 名も知れぬ イタリーの山に 
       雪かき分けて

   ふと見れば 翼濡れいる 雀の子 恋い来たりしか 一人居の窓

   傷跡に 手をやる毎に 思いけり イタリーの山に 栗拾いし頃

 この最後の二つの歌は、ロバート サトウが負傷し、本国の病院に収容されていたときの歌です。

 ちなみに、在独日本領事館の駐在武官が、ドイツ軍のため第100大隊の無線を傍受したが、日本語とそのスラング、それにハワイ語の入り混じった会話に翻弄され、ドイツ語に訳せなかったというエピソードが残されている。

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最終更新日  2019.12.01 08:12:18
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